暗闇に光が滲んでいた。どうやら朝焼けのようだ、と気が付いたのは、ぼんやりそれを眺めた数秒後のこと。王の執務室へ続く渡り廊下の一つ。砂漠の端と街並みが見える窓の前で立ち止まりながら、フィオーレはあくびをかみ殺した。ここの所は砂漠に詰めてばかりで、その上に多忙が重なり、少々気が滅入っている。久しぶりに徹夜なんてものをしてしまったので、体温はやや低く、頭の動きも鈍いままだった。一度寝て早起きすればいいと分かっていても、読み始めた文献を辿るのに気が急いてしまって、眠りを遠ざけたのは己自身の判断だった。誰を怨む訳にもいかないことなので、怒りに似た感情は胸の中でぐるりと渦を巻くばかりだ。ため息を、ひとつ落とす。
今日の予定を思い起こしながら歩を進めると、視界を硝子の欠片に似たきらめきがよぎっていく。魔力だ。眉を寄せて立ち止り、フィオーレはまだほのあかりを抱くばかりの、静まり返った廊下を見回した。早朝というにも早い時間のことであるが、王城では動き回る者がある。けれどもそれらの気配は遥か遠く、見える範囲には人影もない。魔術師の姿も、ない。それなのに魔力の欠片は、昇り始めた朝日を乱反射するように空を漂っていた。すこし前からのことだった。いつからか、正確な期日を誰も覚えていない、ある日から。砂漠には魔力が零れるようになった。それは通常、魔術師の目にも見える形で、世界にあることはない。魔術を行使した名残で、香るようにくゆることはあれど、なにもない場所に埃のように現れるものではないのだ。それなのに、そこに魔力の欠片はきらめいていた。多くはない。けれども、無い筈のものが、あった。
おかげでフィオーレはその現象が落ち着くまで、砂漠から他国へ渡ることを禁じられている。上に、珍しくも城に戻ってきていた魔術師筆頭、ジェイドが原因究明の為に国の端々へ飛び歩く生活を再開させた為に、王の機嫌が底抜けに悪いのだった。通常状態としてさほど王の傍にいないのが常の筆頭であるので、城にある魔術師たちとしては、さして問題とも思わないのだが。王としては大問題であったらしい。フィオーレと目が合うと舌打ちしてくるのが最近の常である。八つ当たり対象として完璧に定められている、ともいう。ちょっと誰か変わってよ、とも思うのだが、同僚たちはお前魔法使いだろやれよ、と意味の分からない理由でもってフィオーレにそれを押しつけてくるので、逃げ場がないのだった。他国へ行くことは五王の意思のもと、禁じられているのだし。
底抜けに深い息を吐いて、フィオーレは魔力の欠片から視線を外し、廊下をまっすぐに歩きだした。まぶたの裏にこびりつくきらめき。零れ落ちる魔力は、砂漠の色。『花嫁』の髪に宿るもっともうつくしい、透明できよらかな、砂の色をしていた。
朝からロゼアの手によって丹念に揉み洗いされたアスルからは、柑橘系の石鹸の匂いがした。洗濯場から部屋へ戻ってくる間に、乾かしてくれたのだろう。ロゼアの魔力をほわりと帯びたアスルのタオル地は、ほわんほわんのふわふわで、柔らかくて、昨晩までのごわついた感じはちっともしなくなっていた。くちびるを尖らせて両手でアスルを受け取り、ソキはもふもふくしくし、頬をすりつけてしょんぼりとする。
「あするが、ぽわぽわで気持ちよくなったぁ、です……。よかったねぇ、あする……」
しかし、起きたらソキはまだいっぱい、アスルにちゅうするつもりだったのである。ぽわぽわでぷわぷわの、抱き心地もっちりの気持ちいいアスルでは、もうロゼアのちゅうも洗い流されてしまっているに違いない。心の底からちからいっぱいがっかりしながら、ソキはぷー、と頬をふくらませて、くちびるを尖らせて、不満げな目をしながらも、ロゼアをちらりと見上げてお礼を言った。
「ありがとーございますです……ロゼアちゃん、なんでソキがおやすみの間に洗っちゃったですか……」
「ん? 洗ってくるよって言ったろ?」
「……言ったぁ? です?」
眉を寄せてむくれるソキの前に膝をつき、ロゼアは微笑みながら言っただろ、と囁く。ううん、と考えて思い出そうとするソキの頬を、ロゼアの指先がするりと撫でた。僅かに汗ばむ首筋を撫でて、耳をくすぐり、額にてのひらが押しあてられる。はう、と息を吐いて思わず目を閉じたソキの頬を、ロゼアの指先が悪戯に、ふにふにと突っついて笑った。
「言ったよ。ソキ。うん、って言ったろ?」
「ふゃん、やん、やん。やん。ロゼアちゃんがソキのほっぺをつっついてくるぅー……!」
「今日は起きられる? 起きているなら、お着替えしような、ソキ」
むにーっとソキの頬を、撫でると潰すの中間くらいにもてあそぶロゼアの腕に、ソキははっしと指先をひっかけて。ぐいーっと引っ張り、ソキはふすんふすんと鼻を鳴らしながら、あーんっ、と口を大きく開けた。
かじったのだと言う。おしおきー、というやつですっ、とやたら自慢げに椅子の上でふんぞりかえるソキに、メーシャは口元を手で押さえ、呼吸困難気味に肩を震わせ続けていた。なにせ自慢してくる間もソキはロゼアの膝上にちょこっと座っているのだし、どうにも気が治まっていないらしく、んもぉんもぉ、とむくれては引き寄せたままの指先をはむはむかみっ、としているからだ。ロゼアは平常通り、よりは緩んだ笑みで、代わりに朝食持ってくるよなにがいい、と問うナリアンと会話していた。もう片方の手でゆっくりと、そっとソキの髪を撫で続けているので、慰め宥める気がない訳ではなさそうだが、積極的に落ち着かせたり、咎める素振りもないようだった。
かぷかぷかぷかぷぷっ、んぺっ、と指を舌先で押し出して、ソキはふふふんっ、と胸を張る。
「ろぜあちゃん? 痛いです? はんせーしたぁ?」
「んー……? ソキ、おなかすいたろ? 朝ごはん食べような。いま、ナリアンが持ってきてくれるから」
「痛く、な、いんだ……? ロゼア」
あれ、あれ、といまひとつ納得しきれない表情でソキがくちびるを尖らせている。そんなにしたらいけないだろ、とソキの口元を手で押さえて撫でながら、ロゼアは呼吸困難から回復しきらず、肩を大きく上下させているメーシャに、こくりとばかり頷いた。
「くすぐったい。ソキかわいい」
「ふと思ったんだけど、かわいくないと思うソキっていうのは、ロゼアにあるの?」
「ソキはいつもかわいいよ」
きっぱりとした声で言い切って、ロゼアはぱぁっと頬を朱に染め、膝上でしきりにもじもじするソキを抱き直した。手を濡れた布で拭って清めた後、ぎゅぅ、と強めに抱きしめて体を密着させる。しばらくくっつかせていると、はふー、と満足げな息がソキから零れて、ロゼアにすりすりと体が擦りつけられた。機嫌が良くなったらしい。朝から起きているソキを腕いっぱいに堪能しつつ、ロゼアはいたって不思議そうな目でメーシャをみた。
「どうしたんだよ、メーシャ」
「おなかいっぱいってこういうことを言うのかなぁって。ソキが起きられるようになってよかったね、ロゼア。なんだかずっと眠ってたもんね。ソキ、もう大丈夫なの? 今日は眠くない?」
ロゼアは。言葉になにか引っかかりを感じたような顔をしたが、ソキが自慢げに今日からは起きていられる気がするですよ、と言うので、メーシャになにか問いが向けられることはなかった。思案しながら、ちいさく、そんなに眠ってたかな、と零された呟きを、ソキだけが聞きとめる。日付を見ると、ソキはかれこれ一週間以上、十日近く冬眠もどきをしていた計算になるのだが。ロゼアにしてみれば、ささいな日数であったのかも知れない。胸をざわつかせる嫌な予感を、聞き出して正すことなく。ソキはそうひとりで思い込んで、納得してしまうことにした。
駆け寄ってくる足音と共に、せんせい、と花露のようにあまい声が星降筆頭たる男を呼んだ。おや、と目元を和ませながら振り返り、男はすぐさま両腕をひろげてしゃがみ込む。ぽすん、と音がたつように、腕の中に飛び込んできたのはリトリアだった。せんせい、せんせい、とはしゃいで抱きついてくるリトリアに、男は目を和ませて抱擁する。
「ひさしぶりですね、リトリア。元気そうでなにより。……レディのお迎えかな?」
「はい。せんせい、お元気そうで、嬉しいです……!」
「『学園』に向かう途中で、自国をわざわざ通過させてあげているのに。この言われよう……!」
胃のあたりを手で押さえ、ゆっくりとした足取りで近づいてきた火の魔法使い。王宮魔術師としては部下にあたるレディに、筆頭たる男はやんわりと笑みを深めてみせた。名残惜しそうなリトリアを離し、肩に手を置いて語りかける。
「まったく、あなたときたら。王の言いつけを素直に守って、顔のひとつも見せに来ない」
「ご……めん、なさい? せんせい」
「昔から。してはいけない、と言われたことをするのが、苦手でしたものね……。ストル出張させよう」
息を吸うのと同じ感覚でリトリアの想い人をいびろうとする星降筆頭には、大人げというものが圧倒的に足りない。ストルはいま、担当教員として『学園』に出向いておりますので、そんな私情まみれの正式な理由ない出張は王が許可されないんじゃないかしらと呻くレディを、筆頭たる男は息を吸うように無視した。えっ、あっ、とレディと己の師を見比べるリトリアに、火の魔法使いは力ない微笑みを浮かべて、気にしなくていいから、と囁いた。リトリアの殺し手に選ばれてからというものの、筆頭とストルの態度がひどいのはいつものことである。彼らも身近に八つ当たりの対象がいなければ、もうすこし大人であると信じたいが、あいにくとレディは彼らの同僚で、毎日顔を合わせねばならず。
そして、積極的な接触を遠回しに禁じられている二人と違い、レディは呼ばれればいそいそと楽音に出かけてリトリアと会い、『学園』への送り迎えをする役回りなのだ。フィオーレが動けぬ現在、その役目はほぼ確実にレディのもとへ回される。ちなみに、ストルと筆頭の仲は険悪のひとことである。どちらも基本的には、基本的には穏やかな気性であるので表だって対立していないだけで、あの二人が微笑み合って会話している場にはレディしか突っ込みたくない、というのが星降の王宮魔術師、共通認識だ。私だって突っ込まれたくない、という魔法使いの死んだ目の主張は、今のところ誰にも採用されていない。大丈夫お前魔法使いだろ死なないって、というのが、きらめく笑顔の却下理由である。
魔法使いなんて、ほんと、いいことがない。深すぎる息を吐き出し、レディは目元に指を押し当てた。
「私が守ってあげなきゃ……」
「人並みに、ひとりで出歩けるようになってから寝言は仰い。レディ」
「リトリアちゃんよくこんなのに育てられて性格歪まなかったねっ? 奇跡だとしか思えない……!」
光のような速さで後頭部をひっぱたきに来た筆頭のてのひらを意地だけで避け、レディはおろおろと二人を見比べる少女へ言い放った。
「この歪み捻じ曲がった筆頭を教員にしておいて! ほんとよく! 実力行使系魔術師に育たなかったねちょう偉い……!」
「リトリアはちょっと似かけた時に、運動神経がついていかなかったから潔く諦めたんですよ」
「いっ、いわないで! せんせい、いっちゃだめぇっ……!」
反射的に叩く、とか。蹴る、とか。そういった動作をするには、リトリアの育ちのよさが無意識にためらわせた故、なのだが。こと、反射的な攻撃、あるいは防衛反応と言うものがいまひとつ不得意であることも確かなことなのだった。でもそうしよう、と決めていたら予知魔術に補助させる形で一撃を叩き込むくらいのことはできるし。目立たないだけで物理解決で済ませることも多いのである。せんせいひどい、ばらした、ひどい、と顔を真っ赤にして恥ずかしがるリトリアを、レディはさっと己の背に押し込めた。筆頭が、うちのこほんとかわいい、という柔らかな目で少女を見つめていたからである。リトリアの周囲の男どもは、なんだってこんなのしかいないのか。リトリアがそういう性格の者を惹きつけやすい、という可能性を明後日に投げ捨てて、レディは決意を新たに宣言した。
「私が守ってあげるからね……!」
レディの耳で花飾りが揺れる。王と世界への誓約となり、予知魔術師の殺し手の証でもあるそれを、複雑そうに見つめて。リトリアはそれでもはにかむように笑い、ありがとうございます、と頷いた。
いつ訪れても『学園』は、穏やかであるとするには騒がしい。落ち着いた空気が漂っていても、活気ある気配がそこかしこに満ちていて、肌を撫でては過ぎ去っていく。リトリアはゆっくり瞬きをして、どこか戸惑いがちに息を吐き出した。いつも通りの『学園』である筈なのだが。なんとなく、なにかが隠されているような、秘密を薄布の裏に隠してあるような、奇妙な違和がつきまとう。談話室にぐるりと視線を巡らせてみるも、特別おかしいと思うものを見つけることはできなかった。
先日と違うことがあるとすれば、ロゼアちゃーんたらー、ソキをおいていったぁー、ですー、じゅぎょうはいっつもー、ロゼアちゃんをソキからー、とっちゃうー、ですぅー、と『ロゼアちゃんがソキのおそばにいないうた』を不満げにふわほわふわほわ歌っているソキが、目を覚ましていることくらいだろうか。隣に座って五分が経過してもまだ歌っているので、リトリアはそっと息を吐き、ソキの目の前にひとさしゆびを差し出した。そのまま、蜻蛉の目を回させるのと同じ要領でソキの前で指をくるくると動かし、注意を引きつける。
「ソキちゃん? そんなに歌ったらだめよ」
「んん? ソキ、今日はお喉の調子がいいですからぁ、大丈夫です!」
じまんげにふんぞりかえるソキは、たっぷり寝た後だけあって機嫌も体調も良いらしかった。うん、うん、と微笑んで頷きながらほだされ、かけ、リトリアは気を取り直してソキの肩にぽんと手を置く。ふくふくほっぺを突きたがる指先に力を込めて律しながら、リトリアはなぁに、と見つめてくるソキに、くちびるを寄せて囁いた。
「予知魔術師は、あんまりたくさん歌ったらいけないの」
「なんでぇ……?」
「なんで、って」
ぷくぷく頬を膨らませて首を傾げてくるソキに、告げようとしてリトリアは意識の明滅を感じた。これを、彼女に告げたのはいつだっけ、と、記憶の片隅で誰かの声がする。泣いているような、笑っているような、ゆるりと響く誰かの声。リトリアの声。
「……なんでって」
そこから、うまく言葉が続いては行かなかった。理由は思考として形に表すことが出来るのに、舌がどうしてもそれを紡いではいかないでいる。強張ったリトリアを不思議そうに見つめて、ソキはぱちぱち、瞬きをした。
「たくさん歌うと、ロゼアちゃんが喜ぶって言ったです」
だからね、ソキはたくさんね、おうた、うたうです。いつになくあどけなく。ふわふわした声で告げるソキに、リトリアは頭の痛みを感じ、額に指先を押し当てながら問いかけた。ささめくように。
「誰が?」
「だれが?」
「誰が、ソキちゃんに、そんなこと……」
知っている筈だ。それが引き金のひとつになることを。リトリアも、かつてはソキも、それを知っていた筈なのに。繰り返した時間の果て、失われ続け摩耗していく記憶の果て、何度も何度も予知魔術師はそれのせいで、泣き叫んだ筈なのに。忘れてしまう。白紙と空白の本が荒野で歌っている。だれって、とソキはたどたどしく告げる。幼子のように。リトリアはその恐ろしさを知っている。調整された予知魔術師、武器として整えられ終わりかけた、その危うさを知っている。
「ロゼアちゃんに決まってるです。ロゼアちゃん、ソキのお歌がすきすきなんです」
「……それ、ロゼアくんに確かめても、いい?」
「んん? いいですけどぉ」
胸騒ぎのまま立ち上がるリトリアに、ソキは不満げにくちびるをとがらせ、足をふらふら動かした。
「ロゼアちゃんたらぁ、今日は夕ご飯の前までずぅっと授業です……。だから、まだまだお帰りにならないです。こんなに長くソキをほうちするだなんて、いけないことです。ロゼアちゃんたら、ろぜあちゃんたらぁ……!」
「え、ええと……ソキちゃんは、授業は?」
授業が詰まっているなら、その間の移動時間、ちょっとした休憩時間で捕まえられはしないだろうか。なぜか全生徒の予定を完璧に把握している、というまことしやかな噂がある寮長を捕まえて訪ねようと思いつつ、リトリアは横に置いておいたアスルを膝の上に乗せ、もにもにと弄んでいるソキに問いかけた。学園に入学して、一年とすこし。成長の、せ、の文字がうっすらともしかして見えている、かもしれない、くらいの前進しかしていない魔術師のたまごは、ぷっくぷぷぅーっと思い切り頬を膨らませ、とがった声で抗議した。
「じゅぎょー、きんしれい、というのがだされたです……。ゆゆしきことです……」
「え?」
「ソキね、なんだかね、なんだか……」
続く言葉を聞いて、リトリアは即座に身を翻して走り出した。本当は保健室から戻ってくるレディを待たなければ、規約上移動してはいけないのだが、立ち寄る時間すら惜しく気がはやる。あわい声で、ソキは確かにこう言った。魔術を使うと『本』になにか書かれている気がするです。『本』とは予知魔術師の武器であり、もうひとつの己でもある。調べてみてもなにがある訳ではなく、原因は究明中、とのことなのだが。リトリアはその意味を知っていた。この世でリトリアだけが、その意味を知り。口に出せない制約を負っている。
走っている。何度も辿った、見覚えのある道筋を、廊下を辿っている。覚えがあり過ぎて目眩がした。記憶に刻み込まれすぎていて、本当にそれが見知った場所なのかを失いかける。どうして、どうして、と心が叫んでいる。息が切れた。どうして、なんで、早くしなきゃ、はやく、どこで見落として、まだ間に合う、でもまた、どうして、どうして。どうして。どうして、いつも祈りは手をすり抜けて消えてしまうんだろう。
「……リ……ア!」
強く。手首を掴んで引きずられる。
「リトリア!」
「あ……あ、え……? ストル、さ……」
「リトリア。どうした」
指で目元を拭われて、頬が濡れていることを自覚した。リトリアが息を切らしていたように、ストルもまた肩を揺らし、浅く早く息を繰り返している。焦燥にまみれた瞳で見つめられて、リトリアはようやく、己の体の内側に、自己という意識を取り戻す。息を、ようやく、意識的に吸い込んだ。
「ストルさん……」
「リトリア。誰になにを?」
ごく自然に腕の中に抱き寄せられながら問われて、リトリアは瞬きをしながら、首を横に振った。なんでもないの、と呟くくちびるを親指でなぞられ、おとがいを上向かされ視線を奪われる。
「そんな顔で走っておいて。いいから、教えなさい。誰が、君に、なにをしたのか」
「……されてないの」
「リトリア」
微笑んで咎めるストルの呼び声の裏に、笑っているうちに教えなさい、という意思が見え隠れするのを感じても、リトリアはふるふると首を横に振ることしかできなかった。誰かに、なにか、されたのはリトリアではない。涙を擦るように手で拭って、弾む息を整えながら、リトリアは不意に不安に思い、しんと静まるあたりを見回した。
「……ここ、どこ?」
「教員棟だ。……分かって来たんじゃなかったのか?」
「ううん……。あ、でも、チェチェに……チェチェと、ロゼアくんに、用事があって」
ロゼアの魔力を覚えてはいなかったから、同僚であるチェチェリアのそれを辿って走った記憶が、うっすらと残る。チェチェリアは担当教員らしく、一角に部屋を持っているから、そこに引き寄せられたのかも知れなかった。ストルはリトリアのぽつぽつ零される言葉にいまひとつ納得していないそぶりで息を吐き出し、授業中の筈だが、と教えてくれた。
「どんな用事が?」
「え……えっと、ロゼアくんに、聞きたいことが、あって」
「ロゼアに?」
可笑しげに甘く深まったストルの微笑に、リトリアはこくりと頷いた。ふぅん、とリトリアの手首を掴んだままの指先が、少女の肌をつと撫でる。
「ロゼアに、なにを?」
「し……質問?」
「俺に聞けばいいだろう? 俺からは逃げるのに、ロゼアには聞きにいくの?」
ん、と穏やかな声の響きで答えを促してくるストルに、リトリアはあれ、と視線を彷徨わせた。過去に何回かしか遭遇したことがないので、確信は持てないのだが。これはもしや。
「ストルさん……」
「ん?」
「なん、だか……不機嫌……? どうしたの……?」
深く息が吐き出される。君以外に理由があると思うのかと呻かれて、リトリアは今ひとつふに落ちない気持ちで、ストルの腕の中で身じろぎをした。分からないが、なにかまたいけないことをしてしまったのかも知れない。
「……ごめんなさい」
「謝らないでいい。……君が……謝ることでも、ない」
ああ、でも、と。吐息に乗せながら嬉しげに笑い、ストルはリトリアの背を深く抱き寄せた。
「逃げなくなったな。いいこだ」
「き……らいじゃ、ないの。本当?」
「嫌いになったことなんて一度もないよ。リトリア」
かわいい、かわいい。俺のリトリア。囁きは耳に口付けられながら繰り返される。恥ずかしいからもういいです、もうだめ、いいです、と抵抗しかけるリトリアに笑い、ストルはひょい、と小柄な少女の体を抱き上げた。
「よくない。さ、ちょっとおいで」
「……え。えっ?」
「ちょうど、メーシャの授業が終わった所だ。ロゼアに聞ける質問があるなら、俺が答えても構わないだろう。……泣いていた理由についての話もあるし、ふたりきりの方が話しやすいな?」
はい、とも。いいえ、とも答える隙を与えず、ストルはリトリアを抱き上げたまま歩きだした。リトリアが気が付かなかっただけで、数歩先がストルの教員室だった。混乱しているうちに室内に連れ込まれ、ソファにそっと体を下ろされる。起き上がろうとする動きは、微笑みひとつで阻まれる。
「鍵をかけてくるから」
くちびるを、熱が掠めて。
「いいこで待っていて」
離されて。リトリアは扉に向かう背を、真っ赤な顔で見送った。
角砂糖がふたつ溶け込んだミルクティーをこくりと飲み込んで、リトリアは赤らんだ顔を隠したくて、もじもじしながら俯いた。対面のソファに座るストルの笑みが向けられているから、なおのこといたたまれない。鍵をかけて戻ってきたストルはリトリアに、話をするのだからお茶でも飲もうか、と囁きかけてきた。お茶である。話である。そういえばそう言われて連れてこられたのだから、他になにか別のことがあろう筈もなく。リトリアは指先をぷるぷる震わせながら茶器を置き、すこしだけ触れられたくちびるに指先を押し当てると、落胆の入り混じった息を吐き出した。
「……期待して、ないもん」
「リトリア?」
「ストルさんは、ストルさんは……あんまりちゅって、しちゃ、だめです」
恨めしげにリトリアから見つめられても、ストルはゆったりとソファに腰かけたままで笑顔を崩さなかった。
「どうして? 理由を教えて?」
「ど、どきどきしちゃうし……」
「俺もしてるよ」
絶対に嘘だ、とリトリアは思った。そんな笑顔で首を傾げながらさらっと言われては、なにがなんでも信じられない。あとは、と穏やかな、教師めいた声で促されて、リトリアは目を潤ませて男を睨みつけた。ふ、と笑ってストルはソファから立ち上がった。
「泣いていたから。話をするにしてもなにか飲まないと、頭を痛くするだろう」
「……なんで立つの」
「近くに行かないとできないだろ?」
もう飲み終わったようだし、とストルはリトリアの置いた茶器を確認して、机を回りこんだ。えっと、と立ち上がろうとするリトリアの顔の横に、手がつかれる。覆いかぶさるように屈まれて、リトリアは思わず扉に目をやった。ストルさん、と呼ぶと、鍵は閉めたよと告げられる。聞きたかったのはそれじゃない。そうじゃなくて、とストルの腕に手を添えて、リトリアはそっと問いかけた。
「話を……するのよね?」
「うん。そうだな。話もしようか」
「……なにするの?」
リトリア、と屈みこんだストルが耳元で笑う。
「分かってるだろう? 言ってごらん。……分からないなら、教えるだけだが」
「え、えっと、えっと、あの、その……怖い?」
「……俺だけ見て、俺のことだけ考えていればいいよ」
輪郭を確かめるように。そこにいることを確かめるように、ストルのてのひらが、服の上からリトリアに触れる。とくとくと拍を刻む心臓の上に。てのひらが押し当てられて、熱を宿す。かたく目を閉じてしまったリトリアに、ストルは低く、喉の奥で笑った。
『リトリア』
呼びやう声が、目の前の男からではなく。己の内側。心臓に一番近い位置に眠る心。滾々と湧き出でる魔力を震わせるように、リトリアの奥で響いた。思考が形をつくるより早く、リトリアの手がストルの胸を押す。戸惑うストルの腕の中からすり抜けて、リトリアは鍵のかかった扉へかけよった。魔力を帯びた指先を触れさせるだけで、あっけなく、閉ざされていた扉が開く。息を吸い込んで、満面の笑みで。
「ツフィア!」
そこへ立っていた女性に、リトリアは抱きついた。己のもうひとりの運命に。