その腕を、ぬくもりを、抱きとめてくれる暖かさを。確かに得ていたことがあった。母のようだ、と感じたことをまだ覚えている。リトリアに父母の記憶はない。それは消されてしまったものだからだ。入学の際、魔術師として目覚めると共に暴走した魔力が、リトリアの思い出を白く塗りつぶした。ごめんね、とそれを成した白魔法使いは、ふわりと穏やかに笑って囁きかけた。ごめんね、そうするしかなかったんだ。魔力を暴走させない為には、これから、魔術師として生きていく為には。白く塗りつぶして消してしまう他、なかったんだよ。失われた訳ではないのだという。ただ、上書きをされたのだという。リトリアはそれを、説明を、あるがままに受け入れた。押し付けられた空白はリトリアの内で咲き誇る花のようにうつくしく、不思議とさびしいとも、苦しいとも、感じることはなかったからだ。
さびしいのはひとりで置いて行かれることだった。苦しいのは、愛してと差し出した手を払われることだった。一緒にいてと抱きしめて懇願しても、離れていかれてしまうことだった。
「ツフィア……!」
そうされてしまった、と一度は思った。ストルにも、ツフィアにも。だから逃げ続けた。だから会えなかった。呼べないままだった。ずっとそれが苦しくて、さびしいことだった。けれどもストルはリトリアのことを、嫌いではないと、そう言ったので。ツフィアもきっと、リトリアがなにか思い違いをしてしまって、だから会えないままでいただけなのだと思って。
「ツフィアだ……!」
抱きついた。胸に顔をうずめて体をくっつける。背に腕をまわして、ぎゅっと抱きつく。
「り、リトリア……?」
いかないで、と思う。もうどこにもいかないで。傍にいて。大事にするから、いいこでいるから、いうことを聞くから。嫌いじゃないよって、いって。そうしたら今度こそ、いまこそ、私はその言葉を信じるから。記憶は塗りつぶして書き換えられる。そのことを、私は、そう、誰より本当は知っていたから、だから。否定して否定して、今もなにかの警鐘のようにぶり返し痛みを訴える己の記憶を、意識こそを否定して。リトリアはツフィアにくっついた。涙が浮かぶ。鼻をすん、と鳴らして、リトリアはツフィアの名を呼んだ。目を閉じて。その手が背を抱き返してくれることを。その声が暖かく、リトリアの名を呼んでくれることを。願って、祈って。
「リトリア」
信じた。
「離して」
拒絶的な声だった。急いで紡がれた、慌てたような声だった。リトリアの腕から力が抜けおちる。え、と言葉を探して震えたくちびるが、意味のない言葉を発した。と、と足がよろけて、ツフィアから体を離す。そうしなければいけないと思考が紡ぐより早く。体中を巡る血とおなじもの、意思よりもなお強く響くもの。予知魔術師としてのリトリアの魔力が、言葉魔術師たるツフィアの意思に従って、反応した。
「え……え、え。あ……あ……れ? ご……ごめん、なさい……」
と、とと、と足がよろける。とん、と扉のすぐ隣の壁に背を預けて、リトリアは立った。目の前がちかちか点滅している。白と黒の明滅。
「ごめんなさい……」
ごめんなさい。それしか言えなかった。ツフィア、と名を呼ぶことすらできなかった。震える手をどうにかしたくて、手を握ったり、指先をこすったり、組み替えたりしてみる。指がつめたかった。体温をきっと、ツフィアの背に、置いて来てしまった。視線を合わせることができなかった。リトリアの前にしゃがみこんだツフィアから、それを促すような気配を感じたけれど、怖くてどうしてもできなかった。わん、と耳鳴りのように声がする。記憶が押しつぶすように再生と乱反射を繰り返す。きらい。うんざりする。きらい。きらい。
「……リトリア。ストルを借りるわよ」
ストル、と呼ぶ硬質な声に、男は溜息で答えたようだった。ゆっくりした足音。とん、と指先で肩が叩かれる。
「リトリア。部屋で、暖かくしていなさい」
「……あなたどうして頑なに部屋に連れ込んでおこうとするのかしら」
おいていかないで、と告げようとした時には、二人の背は遠くにあった。慣れた風に歩調を合わせ、リトリアから遠ざかっていく姿に、手を伸ばしかける。そこで、腰が抜けた。立っていられなくて座り込む。心臓が痛いくらいはねていた。なにが起きたのか、分かりたくはなかった。
「いなく、なっちゃ……った……」
こころがいたい。いたくて、いたくて、おかしくなりそうだった。息がくるしい。涙が滲む。
「あー!」
駆け寄ってくる足音と声。顔をあげれば、火の熱がリトリアの頬に触れて温めた。
「い、いた! リトリアちゃん、いた……!」
慌ただしく廊下の端からかけてきたのは、火の魔法使いレディだった。レディは慌てふためきながらリトリアの前に片膝をつき、両手でなんのためらいもなく少女の体に触れた。
「ストルになにされたのっ?」
「さ……されてないです……」
思わず、気が抜けて。リトリアはほんの僅か、笑った。つい先程、似たようなことを聞かれたのを思い出したせいだった。うん、と全く信頼していない表情で頷きながら、伸ばされたレディの手がリトリアの頬を擦る。袖口で涙を拭いながら、魔法使いは開かれたままの講師室の扉を睨み、思い切り品のない舌打ちを響かせる。
「よし分かった。大丈夫よリトリアちゃん。私は決して得意じゃないけど、砂漠系男子のやりくちとかそういうのとか、思考回路とかなら、詳しくはないけど知ってるから……! だからとりあえず、なにされたのか聞く前に、その魔力収めよう? ちょっと一回、ね。深呼吸。落ち着いて」
「……魔力?」
「零れてるから、発動を停止させよう? ね?」
暖かな手が肩に乗せられる。瞬きをして、リトリアは大きく息を吸い込んだ。視線を床に落とす。硝子質の花が咲いていた。水面に浮かぶ水蓮。いくつも、いくつも、零れ落ちたリトリアの魔力の欠片を水面にして、芽吹き成長する幻の花が、廊下一面に広がっている。ぎょっとして己の身をかき抱き、リトリアはとっさに違う、と言った。
「私、いつから、こんな……レディさん、ちがうの! 私、こんな、予知魔術使おうなんて、全然思ってなんてっ」
「大丈夫たぶん全部ストルのせいだから」
「ストルさんのせいでも……ないの……」
返事にちょっとばかり自信がないのは、気持ちが大きく揺れ動いた時に、リトリアがよく魔力を零してしまうからだ。それを、自分でも分かっているからだった。それでもこんなに大規模にばら撒いてしまうなんてこと、近年は一度もなかった筈なのだが。落ち着かなくちゃ、と弾む胸に両手をあてて息を吸う。指先は冷えたままだった。
「リトリアちゃん」
予知魔術師の魔力が暴走してしまわないよう、広がる水面に火の魔力を重ねて押さえつけながら。冷静な眼差しで、レディは少女の前に跪いていた。
「どこが痛いの?」
花が咲く。魔力によって産まれた硝子質の水蓮が。それは只中にある、レディの耳で揺れる飾りと同じものだった。やさしいリトリアの殺し手。王たちがリトリアの為に用意した魔法使いは、穏やかな微笑みでリトリアに手を差し伸べた。ころころと涙を流す頬に、目元に。熱を失ったつめたさを暖める、火のぬくもりが触れる。
「大丈夫。大丈夫よ、リトリアちゃん。ちょっとびっくりしちゃっただけだよね? 多少なにかアレしたとしても、ストルなら別に怒らないっていうか。あの男ならなんていうか、その、リトリアちゃんに多少アレされるくらいなら本望というか可愛いとか言い出しかねない感じだし……」
「でも、じゃあ、つふぃあは……?」
「ツフィア? ……え、ツフィアに会ったの? 焦がす? 燃やす?」
今どこ、と次々問いかけてくるレディにふるふると首を横に振りながら、リトリアは目をぎゅぅと閉じてしゃくりあげた。ツフィアは、じゃあやっぱりうんざりしてしまったのだ、とリトリアは思う。いつまで経っても魔力の制御ひとつ、自覚的にできないリトリアのことに。魔力が零れていることに気がついて、だから離れて行ってしまったのだ、と。そう思って。血の気が引いた。
「……あ、れ」
カシャン。キシキシ。パキン。繊細な、耳障りな、硬質な、透明な音を立てて、咲いた花が壊れていく。崩れて失われていく様をいちべつもせずに、リトリアはようやく息を整え、熱を宿さなくなった指先を見つめた。魔力が零れていたのは、いつからだろう。予知魔術が発動してしまっていたのは。思い出す。ストルが鍵を閉めた筈の扉。リトリアはそこに触れた。触れただけで開いた。零れた魔力はリトリアの望みを正確に叶え、鍵がかかっていたのを、なかったこと、にしたからだ。耳障りな音がする。零れた魔力の消えていく音。花が。壊れていく音。
「……リトリアちゃん?」
答えず、リトリアは泣き笑いで口元に手を押し当てた。ストルが『学園』を卒業して、会えなくなって、会えるようになって、くちびるに触れられたことを思い出す。指先で、口唇で、何度も、何度も。そのたび、リトリアは。何度好きだと告げただろう。魔力が零れ落ちることすら自覚せず。予知魔術師が魔力を行使してそう告げれば、それは魅了として、相手を縛る術となる。好き、と告げるたび。痛いくらい。好きになってほしい、と思っていた。魔力はその願いを叶えただろう。リトリアの知らぬ間に。
そうして与えられる好意に本人の意思はない。
「そっか」
だからツフィアは離して、と言ったのだ。それに気がついて、うんざりして、いやになって、離れて行ってしまった。ストルもそうだったに違いないのに。にせものの好意がどうしても欲しくて。歪めたそれを、リトリアは信じた。
「そうだったんだ……」
目元を濡らす涙を指でこすって、リトリアはふらつきながらも立ち上がった。心配そうに見てくるレディに、笑いかける。笑うことはできた。どんな時でも。
「レディさん。私の魔力、もう零れてない?」
「え、ええ。もう大丈夫だけど……」
「ストルさんと、ツフィアに、謝らなきゃ……一緒について来てくれる?」
魔法使いの耳で揺れる花飾りが、予知魔術師のあらゆる災厄から殺し手を守る術となる。フィオーレが指に通した飾り細工も同様に。だからもしも、万一があったとしても、レディは正気を保ち。正確にその役目を果たしてくれることだろう。レディは眉を寄せてリトリアを見つめながらも、差し出された手を取って立ち上がった。
「暖かいものでも飲みに行こうか」
先に、とも。終わったら、とも。告げず、その選択を委ねてくれたレディを、リトリアは見つめ返した。このひとを好きになれればよかったな、と思う。このひとなら、好きになっても惑わされないでいてくれる、とも、思う。間違えたら、まっすぐに殺してくれるひとだと、思う。
「レディさん」
「うん?」
「ありがとう……」
ストルさんと、ツフィアに。好きになって欲しかったな、と思って。それでもまたふたりを大切に思うこころを、諦めきれない欲望を。こんなだからうんざりされちゃうのかな、と。目を伏せて、リトリアは笑った。
ひぐ、と言葉にならない悲鳴を噛み殺したレディが、リトリアを己の背に引っ込めてしまうまでに数秒間の間があった。たった数秒。それで十分だった。呆然としながら、リトリアは瞼の裏に焼きついた光景を思い起こす。探していたふたりがいたのは、人気のない建物の裏手のことだった。ツフィアは泣いていた。うずくまって、ストルにすがり付いて泣いていた。ストルはそんなツフィアの前に跪き、胸に抱き寄せて慰めていた。リトリアは、寒さに震えることりが仲間に身を寄せるようにレディにぴとりとくっつき、やや脱力しながら瞬きを繰り返す。泣いているのをはじめてみた。慰めているのも。
もしかしてずっとそうだったのかな、とリトリアは思う。こころがすこし、遠くにあった。感情が、てのひらの触れられない場所に置かれている。自分のものなのに、どこか文章めいた、他人事のような気持ちを見つめている。
「ねえ、レディさん」
「えっなにごめんねちょっと待ってなるべく声を出さないで動かないでお願い気がつかれる気がつかれるからまだ気がつかれていないから……!」
「ツフィアは、もしかして、ずっとストルさんが好きだったのかな……」
口に出すとそれがほんとうのことのように思えてきて、じわ、と涙が滲んだ。てのひらでごしごし涙を擦りながら、うつむいて、リトリアはそれで、としゃくりあげた。
「ストルさんは、ほんとうはツフィアが好きだったの……?」
「り、りとりあちゃんが発している言語の意味が? 私には分からない次元に? いつの間にか進化してる? 好きってなんだっけ? えっあれっちょっと待ってどういうこぎゃあああ気がつかれた! ちょっとアンタたちいい加減になさいよそうやってすぐリトリアちゃんのことになると見境なく無差別にキレるってどういうことなのよ怖いって言ってんのよこわいこわいもうやだあぁああああ魔力に上限がある魔術師が魔法使いに叶うと思わないでよそこ諦めるトコでしょ普通! ばか! ばかばか! ばーかばーかっ!」
涙目でばかばか言いながら、リトリアの手を引いてレディが身を翻し、走り去ろうとした瞬間のことだった。がっみしっ、とおおよそ手が肩に触れたことで立ててはいけないような音をさせ、ストルがレディの肩を掴む。息切れしてなお、笑顔だった。
「動くなレディ。話がある」
「無罪の主張しかしないわよ私は!」
「うぅ……ん、んっ。泣いてない、です。泣いてない……」
大慌てで目をこしこし擦ったリトリアが、しゃくりあげながらツフィアに主張している。片手は不安げにレディの手をきゅぅと握ったままで、離れず、ストルにもツフィアにも伸ばされることはなかった。ぎゅっと目を閉じて涙をどうにか引っ込め、ぐずっ、と鼻をすすって、リトリアはようやっと、己の前にしゃがみこむツフィアを見た。すすすす、とレディに寄せられたリトリアの体が、ぴとりとばかりくっついてくる。みし、と肩から嫌な音が鳴った。
「リトリア」
ぞわっとするくらい甘い声だった。
「おいで」
「……ストルさん」
ひとの肩の骨を砕こうとしながらよくもそんな声出せるわねでろでろに甘くて怖い気持ち悪い怖いこわいこわい、と明後日の方向へ意識を逃しながら思うレディの視界の片隅で、目元を赤くしたツフィアが物静かに微笑した。
「だ、だいじょうぶ、です」
ツフィアが口を開くよりもはやく。決意を宿した声で、リトリアはしゃくりあげながら言った。
「もう甘えたりしません……」
「……リトリア?」
現在進行形でリトリアはレディにくっついているので、なにを言っているのか、という訝しげな声だった。リトリアはびくりと体を震わせた後、ようやくそれに気がついたようにそろそろとレディから体を離し、ツフィアの前で何度も、何度も手を組み替え、指先をきゅぅと握り締めて震わせた。あのね、とようやく紡がれた声はかすれて震えていた。とうめいな雫のようだった。花弁の先から滴り落ちる、花の涙のようだった。
「ずっと、好きに……なって、欲しくて、ごめんなさい」
「リトリア、あなた」
なにを、と問う言葉を聞きたがらずに。リトリアは淡く笑って、ツフィアの手をきゅっと握りしめた。両手で、祈るように。
「ツフィアが好き」
涙滲む微笑で告げた。
「好き。ずっと大好き。だいすき……。初めて会った時ね、時からね、運命だって思ったの。守ってくれるひとだって、思ったの。このひとが、私の……わたしの、うつくしい歌。歌の形で愛成す私の祝福。それを、ぜんぶぜんぶ、あげたいひとだって……おもったの」
瞬きで、涙が頬を伝い落ちる。だから、とリトリアは歌うように言った。
「ずっと一方的でごめんなさい……分かったから。もう、分かったから。ストルさんも」
あなたが運命だと思っていた。ずっとそうなんだと。そう思っていてくれている筈だと、ずっと、思って。戸惑うストルに言葉を重ねることなく、リトリアはツフィアの手を離し、しにそうな顔で沈黙するレディの腕をゆるゆると引いた。
「もう、私のことで……悩ませることは、ないから。約束します」
いままで、どうもありがとう。そして、ずっと長い間ごめんなさい。今すぐには難しいかも知れないけど、近いうちに必ず。ちゃんと元に戻してみせるから、と決意を秘めた顔で告げ、リトリアはレディをひっぱり、小走りにその場を立ち去った。あなたたちちょっと首を洗っておきなさいよあとで説明しに行ってあげるからただしわたしを殺さないと制約しリトリアちゃんちょっと待って転ぶ転ぶっ、と断末魔めいた残響を残し、レディの声がばらばらと散っていく。ストルとツフィアが、その後を追うことはなかった。地に落ちる影ごと縫いとめるような魔力が、二人の存在をそこへ留めていたからだ。意思を伝わせて発動した予知魔術。それは不意に零れたものではなく。
目が合って微笑みかけられた瞬間、はきとした意思と共に発動した。リトリアの意思によるものに他ならなかった。
仰向けになって教本を読むロゼアの胸に、よじよじよじ、と乗っかって、ソキはねえねえ、と不満げに頬をくっつけすりよせた。
「ろぜあちゃん? なにしてるの?」
「ん? 明日の予習だよ」
明日の座学の教科書、とゆったりとした口調で囁きかけてくるロゼアに、ソキはぷっと頬を膨らませて頷いた。ロゼアの持っている教本には『黒魔術師基礎教本:参』と書かれている。寝台の枕元。置かれた灯篭の火に赤々と照らされる、眠る前の時間。談話室の喧騒は部屋までは届かないから、どこもかしこもしんとして、眠るのを待ちわびているようだった。ロゼアは教本にしおりを挟んで閉じ、ソキの言葉の続きを待っている。んもおおお、と若干機嫌を損ねた声で頬をくしくしすりつけて、ソキはロゼアの上でちたちたと手足を動かした。
「ロゼアちゃん! なにしてるのぉ……!」
「よーしゅーうー」
「いやぁあん! ソキはかまって欲しいですうう! 今日はロゼアちゃんに置いて行かれっぱなしでひどいことをされたです……! ロゼアちゃんは今日はもうソキの! ソキのぉ……! ソキのなんです、授業の予習のロゼアちゃんじゃなくて、ソキのロゼアちゃんです……!」
その後、三回は繰り返された『ロゼアちゃんはソキの!』と『ロゼアちゃんは今日はもうソキの!』を酔いしれるように聞き、ロゼアはうっとりとした笑みで、閉じた教本を灯篭から離れた場所に置いた。すっかり機嫌を悪くしたソキを抱き寄せ、髪に指を差し入れてゆっくりと空いて行く。ソキ、ソキ。耳元に唇を寄せ、幸福に笑うよう囁けば、すぐにふしゅりと膨れた怒りが抜けていく。指先に頭をぐりぐり擦りつけながら、ソキはろぜあちゃーん、とふにゃふにゃした声で囁いた。
「そういえばね、今日ね、リトリアちゃんが来たんですよ。知ってる? ……あ、あっ! ロゼアちゃんに会いに行くって言ってたですからぁ、会ったです?」
「リトリアさんが? 俺に? ……行き違いかな。何時くらい?」
「えっと、えっと……お昼の後で、おやつの前です」
指を折って首を傾げながら考えるソキは、あまり時計を見る習慣がないから正確には分からないのだろう。いくつか質問を重ねて時間を絞り込んだロゼアは、実技の連続授業の時かな、と呟き、申し訳なさそうに眉を寄せた。
「会わなかったな……。リトリアさん、なんて? 俺に用事?」
「んと。ロゼアちゃん、ソキのお歌すきすき? かわいい?」
「ソキはいつでもかわいいよ」
ぎゅむっとばかり抱きしめられて、ソキはきゃあぁあんっと蕩ける声でちたちたしながら喜んだ。ぽん、ぽん、とロゼアの手が背を撫でていく。すぐに眠たくなってしまって、ソキはロゼアの上に乗っかったまま、子猫のようなあくびをした。
「ねむたいです……ロゼアちゃんが重くてつぶれちゃうかもです……。ソキ、横にころってする」
「つぶれないよ。眠ろうな、ソキ。おやすみ」
良い夢を、と囁かれ、ソキはもう一度ふあふあとあくびをした。ロゼアの体温に体をくっつけ、目を閉じる。その熱に触れていれば、なんの不安もなく。守られているのだ、と信じられた。
無自覚、あるいは自覚的に施してしまった予知魔術。時に洗脳とすら呼ばれるそれを解くすべを探すため、リトリアは『学園』から戻ってこの方、ひたすら図書館にこもり続けていた。予知魔術に関しての文献は、数が限られている。リトリアが両腕いっぱいに本を抱えて、机まで三往復もすれば、それが楽音の国に現存する資料の全てだ。熟読する優先順位を、リトリアはためらわずに魔術でつけた。重要だと思われる資料があるものに赤、情報として繋がっていくものがあれば黄、今はとりあえず放っておいていいものは青。審議判定の炎を応用したそれは薄暗い図書館の片隅で燃え上がり、揺れ、誰の目に留まることなく消えていく。リトリアは通常、己の所属する国内で監視されている訳ではない。だから、ちょっと姿を隠そうとして行動する時に、それを難しいと思ったことは一度もなかった。
役目を与えられないでいる鳥籠の自由が、リトリアの助けになった。二日目、三日目になっても、図書館へ通って一日そこへいるリトリアのことを、不審だと思う者はなく。また、リトリアはそう思われないように、予知魔術で意図的に同僚たちや、城の者の意識を一定方向に操作していた。大規模魔術の長時間の発動は、なによりリトリアの魔力と精神を削ったが、いけないことをしていると理解していて、なお行使するだけの焦りが、予知魔術師の心身を蝕んでいた。人の心を魔術的に操作してしまえば、それが長期に渡れば渡るほど、解除が難しくなり、そして影響が残ってしまう。なんの影響も残さず、魔術でなんらかの操作を出来る限界時間は、百時間と言われている。魔術を持たぬ者にそれを行使すれば、百時間で精神が砕け、廃人と化す。相手が魔術師であれば、百時間を超えた所で精神が不安定になり、解除したとしても回復には時間がかかる。投薬は回復の助けにならず、時間の経過だけが魔術師の安定を助ける唯一のものとなるのだ。
唯一の例外が、五国の王だ。この、砕けた欠片の世界に残された王族たちは、それぞれに世界からの絶対的な祝福を帯びている。生まれながらにして。それはいかなる場合であっても変質することはなく、己の意思で受け入れた、という一点を除き、この世のありとあらゆる呪い、魔力を帯びたそれすら跳ね返す異質の祝福である。だからこそ魔力を持たなくとも、それがなんらかの形で動いていることだけは、王は感知できるのであり。城の者たちの意識をする魔術発動から、九十二時間が経過して、リトリアは己の王に命令という形で呼び出された。発動してすぐ、王はリトリアの命令を無視した無断発動の気配を察知していた筈である。すぐに咎めて当たり前の行為を、限界近くまで待ってくれたことこそ、慈悲に他ならない。だからリトリアには、それを請うつもりはなかった。
呼び出された部屋には、王ひとりしか姿がなかった。隣室に魔術師や護衛の待機があるのかも知れないが、扉を隔てた廊下ですら、人払いがしてあるのか誰の姿を見つけることもできなかった。後ろ手に扉を閉めて背を正すリトリアのことを、王は普段通りの微笑で、それでいて困ったように見つめてから、その名を口に乗せて呼んだ。
「終わりにできますね?」
なぜ、と問うこともせず。行いを、咎めることもなく。ひとに影響が出ることが分かっているのだから、やめなさい、とだけ求めてくる王を、リトリアは静かなまなざしで見つめ返した。文献を読み返すうち、文章がすりきれるくらい頭の中へ叩き込み、情報を折り重ねていくうちに、分かったことがある。それはリトリアの、失われた筈の記憶だった。幻のようにふわりと現れ、胸の痛みと混乱と共にまた擦り切れ、消えていく。憧れに似た感情だけが、心の奥底に残っている。リトリアは息を吸い込んだ。予知魔術師として生きていく為に封じ込まれたそれを、リトリアが忘れているそれを、この目の前に立つ主君、王たるひとは覚えている筈だった。
「終わりにします。もう、だいたいの用は済んだから」
だからね、と甘えるまなざしで、リトリアは王へ言い放った。
「私、シークさんかフィオーレに会いに行かなくては」
「リトリア? なにを」
「駄目なんです、陛下。私だけでは、どうすることもできない。私ひとりの力では……」
とん、とリトリアはごく自然に、足先を動かして靴底で床を打ち鳴らした。その仕草ひとつで、城全体に広がっていた魔術が消え失せ。代わりに、リトリアの足元に、ふつふつと湧き出づるようにきらめきの水面が広がっていく。零れ落ちる魔力の水面。するすると咲き乱れていく硝子質の水連。予知魔術発動の証。
「でも、きっとみんな私の邪魔をするから」
『イイコだネ、リトリアちゃん』
くすくすくす、と笑い声。展開される魔力に混じって、異質な歪みが空間を支配した。王に向けられるリトリアのまなざしは、いつの間にか正気と、操られる者の境を行き来している。予知魔術に、言葉魔術師の魔力を上乗せして。リトリアは、世界に愛をぶちまけるように。
「私、ふたりに会いに行ってきますね」
予知魔術を解き放った。
砂漠への『扉』は、閉ざされている。楽音が魔術的な眠りから覚めた数時間後にそれは確認され、同時に、城から馬が一頭居なくなっているのも確認された。リトリアも、忽然と姿を消し、部屋からは旅に必要な道具がいくつも無くなっていたのだという。手配までの猶予は二十四時間。必死の探索にも関わらず、リトリアは魔術探査の目すらすり抜け。忽然と、世界から姿を消した。そして、数日の迷いの末、王から魔術師に、ひとつの命令が下される。
予知魔術師、リトリア。
五王に反逆の意思ありとして、発見次第捕縛せよ。
抵抗の際、その生死は問わず。
リトリアは。砂漠を目指して、旅をしている。
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