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 赤褐色の瞳。一瞬、すれ違った少女に確かにその色彩を認めて、ソキは思わず声をあげた。呼び止める間もなく、その姿は人込みに流されていく。ソキのことを振り返ってくれたように見えたのに。抱き上げられているから立ち止まることもできず、ソキは大慌てでロゼアの背をぺちぺちと叩いた。
「ろ、ろぜあちゃ、ロゼアちゃん……! 待って、待って、あの、いま……!」
 ロゼアと、その少女がいた場所をきょときょとと見比べている間に、もうその姿は見えなくなってしまった。ロゼアは人込みを避けて道の端に移動してから立ち止まり、目を潤ませてぶんむくれるソキに、訝しげな顔になる。
「ソキ? どうしたんだ? 気になる店があったなら、戻ろうか。どこ? どのあたり? どういうお店?」
「違うです! いま、いまね。いまね……!」
 呼び止める声はなかった。お互いに。名前を知らないひとだった。お互いに。でも、知っている。だから、視線が重なって、立ち止まってくれたのだ。呼び止める声も持たずに。人込みに押し流され、伸ばされた指先は届かなかったけれど。確かに、それはソキへ向けられていた。そういう確信を持たせる相手だった。
「だれかが、いたの……」
 くちびるを尖らせ、視線を向ける先に、その姿はもういない。言葉にならない気持ちが、胸いっぱいに満ちていた。それは目覚めた時には覚えていた、しあわせな夢に似ている。諦めきれずに、ロゼアと、その少女がいた場所をきょときょと見比べ、ソキはぷぷりと頬を膨らませた。
「……知ってる人?」
 膨らんだ頬を指でくすぐるように撫でながら、ロゼアが考えた末に言葉を落とす。知らない、とは、言いたくなかった。知っている、とは、言えなかった。ソキはこたえる代わりにおおきく息を吸い込み、きっとまた会えるです、と呟く。うん、とソキの意思をやんわりと肯定し、ロゼアはゆったりとした足取りで歩みを再開する。夜降ろしの終わった星降の城下は、どこもかしこも人でいっぱいで、立ち止まっているのも苦労する程だ。街を明るく照らし出す灯篭は、全て飾り細工が施されたものに入れ替えられ、それだけでも十分に華やかだった。
 国内の都市のみならず、五国の裕福なものが観光に訪れたりもしているので、一年で最も人の多い夜である。王宮警備の騎士たちだけでは手が足りず、星降所属の魔術師や、時には他国の王宮魔術師まで呼び集め、見回りにあたらなければいけない、とのことだった。だから遊びに行くなら気をつけて行っておいでな、と送り出してくれた星降の王の言葉を思い出しながら、ロゼアはなるほど、と頷いていた。今年は祝祭の夜へ繰り出すと踏んで、王たちはソキに、ロゼア同行許可証の発行を急いでくれたに違いなかった。ロゼアとて、歩くのに苦労する人込みである。ソキなどひとたまりもない。
 ぎゅぅ、と力を込めて抱かれる。ソキはきゃぁんとはしゃいだ声で、ロゼアにしっかりと腕を回しなおし、体をぺとりとくっつけた。
「すごぉーい人ですねぇ……!」
「うん。ソキ、大丈夫か?」
「ソキ、こんなに人がたくさんいるの、はじめてです! すごーいです……! ロゼアちゃん、ロゼアちゃんっ。すごーいですー!」
 目当てとしていた限定の金平糖は、城を出てすぐの道に連なる屋台でも売られていた為、すでにひとつぶ味見されている。残りは大事に食べるです、としまいこんだしろうさぎちゃんリュックをぎゅむっと抱え込み、はしゃぎきったきらきらの瞳であたりを見回すソキに、ロゼアもやわらかく口元を緩めた。祝祭の高揚が、人々の多さやざわめきを苦手とするソキから、気分の悪さを拭い去ってくれていた。二人はそのまま大通りを端から端まで辿り、珍しい食べ物を口にしたり、飲み物で喉をうるおしながら、披露される見世物を眺めて、名も知らぬ人々と共に笑いあった。
 そんな風に祭りを楽しむのははじめてのことで、ソキは何度もロゼアに抱きつきなおしては、楽しいです、と繰り返し囁いた。『花嫁』であった頃、祝祭は『お屋敷』の物見台から遠く眺めるものだった。輿持ちたちと街へ出ることもあったが、熱気渦巻く只中に向かえることは決してなく、あくまで祝いは、祭りは、眺めるものであったのだ。今はその中にいる。ソキは魔術師になったからだ。妖精が、ソキを迎えに来てくれたから。祝いの中にいても、もう、怖くはない。素敵ですね、みんな、こういう風にお祝いをするんですね。楽しいです、楽しい、と繰り返して。
 ソキはいつの間にか、ロゼアの腕の中でうとうととしていたらしい。ぽん、ぽん、と背を撫でる手にうっとりと意識をまどろませていたソキは、ふっ、と祭りの喧騒が遠ざかったのに気がつき、あくびをしながら顔をあげた。すぐそこに大通りの喧騒があるのに、角を曲がって差し掛かった路地には、不思議なくらい誰もいなかった。淡い藍色の影で空間が染め抜かれている。高い位置に飾られた灯篭は、ゆらゆらと光瞬かせる星のようだった。そこには店もなく、ただ、居住の為の四角く閉ざされた窓と、ちいさな花の咲く鉢植えが飾られている。
 近道かと思ったけど、と訝しむ呟きで立ち止まるロゼアは、幾度か背後の喧騒と、体を向ける先の静寂ばかりが広がる夜の空間を見比べている。抱き上げられた腕の中、ふあふあと心地よくあくびをして、ソキはロゼアの肩にぺとっと頬をくっつけた。くす、と親しい笑い声が響く。
「お姫ちゃんは、もうおねむかな? ……こんばんは、ロゼア」
 入り口に立ってどうしたの、危ないよ、と。ソキを驚かせない風にやんわりと潜められた声が、ロゼアの背からかけられる。立っていたのはユーニャだった。手には火の揺らめく、祝祭の灯篭を持っていた。『学園』の飾りつけにも使われる、祝い用の吊り灯篭である。爽やかな、胸がすっとする良いにおいがしたので、ソキはぱちぱちと目を瞬かせてユーニャを見た。起こしちゃったかな、とはにかむように笑い、歩み寄ってきたユーニャは、ぽんとロゼアの肩を叩く。
「偶然辿り着いた? 誰かに教えてもらった訳じゃないよね?」
「この場所へ、ですか……? はい、近道をしようと思ったものですから。先輩。ここは……?」
「説明するより入った方が分かるよ。ほら、歩く」
 狭くて追い越すのも大変だからね、と笑むユーニャの言うほど、道幅は迫っていないのだが。片腕にソキを抱き上げているロゼアと、灯篭を持っているユーニャでは、場所を入れ替えるのに苦心するのは確かなことだった。戸惑いながらも奥へと足を進めるロゼアにぎゅむっと抱きつきなおし、ソキは悪戯っぽく笑うユーニャの、さらに背後に視線をやった。夜の祭りを行き交う人々の、きらびやかな光に彩られた風景。それが、上からするする降りてきた、うつくしい藍色に閉じられていく。あたかも、戸の上に用意していた布を下ろしてしまうように。
 目をぱちぱち瞬かせてロゼアに教えようとするソキに、ユーニャは視線を重ね合わせ、口唇に指を押し当ててやんわりと笑う。しー、だよ、お姫ちゃん。しー。くすくす陽気に肩を震わせて求められ、ソキはぱっと口に両手を押し当てると、けんめいに頷いた。ソキ、ロゼアちゃんに内緒だってできるです。ふふん、と自慢げなくちびるに、ユーニャはごほうびだよ、と囁いて金平糖を食ませてくれた。
「今夜だけの限定品。星降る夜の瞬き、だよ。あとでロゼアにもあげるね」
「……もしかして、色々あるんですか? 限定の金平糖」
 ソキが大事にしまいこんだものは『きらきらの夜空』という名前がついていた筈である。顔だけわずかに振り返りながら問うロゼアに、ユーニャは穏やかな笑みを崩さぬまま頷いた。
「うん。今年は十五種類出てる。金平糖の売店地図、もらわなかった? ロゼアたちは今年も夜降ろしだったから、その間に配布が終わっちゃったかな……?」
「ソキのこんぺいと……! そんなにたくさんあったです……!」
「朝から計画的に買いに行かないと、売り切れまでに間に合わないんだよね」
 つまり、夜降ろしの役に選ばれている以上、準備があるので集めるのは不可能、とのことである。天体観測の課題が終わってから出てきたのなら、ひとつでも手に入ったのは運がいいよ、と笑うユーニャに、ソキはかたく決意した。来年は先にこんぺいとうを買いに来なければならないぜったいにだ。ふんすっ、と気合の入った息をするソキが、なにを考えているかすぐに分かったのだろう。だーめ、とロゼアに頬をつついて窘められたので、ソキは不満げにちたちたした。
「ソキはこんぺいとーを買ったらぁ、すぐに戻ってきて課題をするですうぅ」
「だめ。疲れて寝ちゃうだろ」
「ロゼアちゃん? ソキをちゃんと起こしてくれなくっちゃ、だめですよ?」
 職務怠慢を叱りつける、おしゃまな口調で言い聞かせるソキに、ロゼアはだーめ、と繰り返し言い聞かせる。くすくす笑って後をついて歩きながらも、ユーニャは分かれ道に差し掛かるたび、そこを右、その階段を下りて、ここはまっすぐ、と囁き誘導して行った。入り口から、五分も歩いた頃だろうか。ロゼアがそれに気がついたのと同時、ソキはぱっと顔を上げ、身をよじって進む先を見た。細い、迷路のような道を抜けた先、ぱっと開けた場所に辿り着く。家々が背を向けた、五角形の広間。なにもなければがらんとするばかりの空間であろうそこは、祝祭の飾りで満ちていた。
 張り巡らされた鋼の紐に、星の灯篭飾りが吊り下げられて灯りを宿し、一面を照らし出している。光で夜を押しのけたが故の藍色の空には、鳥や蝶を模した祝い飾りが、飛び交うように括り付けられていた。金細工と銀細工の洪水。螺鈿のきらめきすら、天幕めいた飾りの中に紛れ込んでいる。その飾りの真下。めいめい、てんで好き勝手に運んできたであろう、机と椅子と絨毯とクッションが円を成す空間から、あっ、と先程も耳へ届いた聞きなれた声が、現れた三人へ向けられる。
「ユーニャー! おつかれ! ソキちゃんとロゼアくんまで、どーうしーたのーっ?」
「入り口で会ったから連れてきちゃった。ルルク? 隠蔽、雑に組んだでしょう。ロゼアが迷い込んでたよ」
「ごめん……。でもこれはもしかして運命の導きというものではないの……」
 握りこぶしで力説され、ソキはちょっぴり帰りたい気持ちでもぞもぞした。集まっていたのは十人。ユーニャを入れると十一人になる。全員が『学園』の先輩だが、そのうちルルクを含む七人が、夢と浪漫部だった。というよりも、夢と浪漫部に四人足した形である。あっ、これはろくなことにならない、という微笑みで踵をかえそうとしたロゼアの肩に、穏やかに穏やかに、ユーニャがぽんと手を乗せる。ここ一番の笑顔だった。
「ようこそ、ロゼア。お姫ちゃん。流星の夜限定部活動、金平糖収集部の会合へ!」
「こんぺと!」
 数秒前の警戒心を全力で明後日へ投げ捨てたソキのきらんきらんの声に、ロゼアが深々と息を吐く。まあまあ、と笑いながら、ユーニャはロゼアの背を部員のほうへ押しやった。
「限定サイダーもあるよ、ロゼア。好きなだけ飲んでいいよ」
「先輩たちはなにをしてらっしゃるんですか……」
「限定って聞くと集めたくなるよね」
 こんぺと、こんぺいとっ、と今にも腕から滑り降りて行きそうなソキを抱きなおし、ロゼアは諦めた顔つきで歩き出した。絨毯の上にあぐらを組んで座り、その上にソキを座らせる。そわそわ、きゃぁきゃぁ落ち着きのないソキに、少女たちが駆け寄ってくる。
「ソキちゃん、ありがとうねー! ソキちゃんたちが夜降ろししてくれたおかげで、金平糖買えたよ! 全種類! みんなでちょっとずつ分けてたんだけど、ソキちゃんのもお礼にあげるからね」
「ルルクたちが抜けたから、今年は無理かと思ったもんね……。ほんとよかった……あ、限定のお酒も手に入れたけど、ロゼアくん、飲む? お酒じゃなくても、色々あるよ。ご飯は食べた? 色々買ってきたから好きなもの食べてね」
「はじめてのお祭り、どうだった? 人がすごくてびっくりしたでしょ。ソキちゃん、よく潰れなかったね……? あ、そっかそっか。抱っこ許可証か。これ間に合ってよかったね」
 いいですかぁ、許可がなくてもロゼアちゃんはソキをだっこしていいんです、でもでも危ないから積極的にだっこをしないといけないんですいけないんですよっ、分かったですかぁ、と言い聞かせるソキに、うん、うん、と少女たちが微笑みながら頷いてくれる。その間にちいさな机が運ばれ、飲み物と食べ物がさっと給仕され整えられ、小皿にころころと金平糖を転がされ、ロゼアは息を吐きながら天を仰いだ。どう考えても宴会に巻き込まれている。
「はい、じゃあ飲み物も行き渡ったことだし。これより収集部の部活動をはじめまーす!」
 活動内容。流星の夜の限定品を心行くまで集めて飲んだり食べたり歌ったり。そう書かれた横断幕が、いつの間にか星飾りの間に取り付けられている。
「かんぱーい!」
 歓声が上がる。周囲に習って、ソキは渡された陶杯を両手で持ちあげた。ふんすふんすと匂いをかいだのち、ぺっかぺかの笑顔でロゼアに受け渡す。
「おさけがはいっているです。これはロゼアちゃんにあげます!」
「うん。ソキは偉いな。……ルルク先輩、話があります。ここへ」
「えっ嘘あれちょっとまっ……あああほんとだお酒って書いてあるー! ごめんごめんー! ちょっ、これだめだ! お酒だ! ごめん! 飲めない人のんじゃだめー! これお酒だー!」
 お詫びに私が全部おいしく飲みますっ、回収ーっ、と騒ぐルルクは、純粋に普段から注意力が足りない。ロゼアは確認を徹底することを約束させ、えらいでしょおおお、とふんぞるソキを抱き寄せた。



 お詫びという名目で回収した以上のお酒を、おいしく楽しく飲み干した後。ルルクはご機嫌な足取りで、ソキの隣に座り込んだ。
「はーい、そこのかわいこちゃん。私と一緒にお茶しない? 大丈夫! 私まだ、べろんべろんの『べ』くらいだから! 余裕あるから!」
「酔っ払いについていくのいけないです」
「えええぇええソキちゃんお姉さんとお茶しようよぉー。お詫びさせてよー、ね、ねっ? ソキちゃん茶会部だよね? オススメしようと思ってたお店が、このすぐ近くなの! 喫茶店なんだけどね、茶葉も売ってて好みで調合もしてくれて、試飲もさせてくれて、お店の雰囲気もすっごくよくって! たまにはお姉さんともきゃっきゃしてよぉー。いっつもロゼアくんばっかりぃー」
 それに、ソキちゃんがよく食べてる砂漠の珍しいお菓子もお店で見たことあるよ、売ってるよ、と続けられて、ソキは途端に落ち着きがなくなった。ソキがよく食べている砂漠のお菓子、というのは、星降では手に入らない、『お屋敷』から送られてくるものに他ならない。砂漠の国内にも、そう多く流通しているものではないのだ。よく似てる違うやつじゃないんですか、とそわそわするソキに、ルルクはまがおで首を横に振った。一緒だと思う、だってちょう高いし。ほんと三度見してしばらく考えたくらいの値段書いてあったから、と続けられて、ソキはすっくと立ち上がろうとして、ロゼアの膝上に転がった。きゃぁん、と声をあげてちたちたするソキを、ひょいと座り直させて、ロゼアは微笑む。
「ソキ。勝手にどこか行こうとしたらだめだろ?」
「ふふふロゼアくんの妨害など予想済みよ……! これを見よー! ばばーん!」
 効果音を口に出して言うヤツ初めて見たと言いたい所なんだけどルルクでもう何回も見てる、という視線が向けられる中、取り出され掲げられたのはソキの持つ同行許可証に似た、紙の証明書だった。表には純銀の箔が押され、それはうつくしく綻ぶ花の形をしている。ロゼアの顔が引きつった。
「そ……れは、まさか……まさか、そんな……」
「ソキちゃんの世話役、外部講習合格証明証ー! あーっはっはっは! これでしょっ? これがあればいいんでしょっ? 試験を受けて合格したら合法的にソキちゃんとあれこれいちゃいちゃっきゃっきゃうふふ出来ると風のうわさに聞いて! ロゼアくんたちが謹慎で鬱々……とはしてなかったけど! 意識というか注意がそれているその隙に! とある方に頼み込んで『お屋敷』に繋いでもらって、筆記試験と実技試験に無事合格してきました! 初級編だけどね!」
「っく……メグ、なにしてるんだよ……!」
 よく分からない盛り上がりを見せるロゼアとルルクを交互に見比べて、ソキはちょこりと首を傾げた。
「つまりぃ、もしかして……ルルク先輩は、世話役さん見習いなんです……?」
「あっ、ソキちゃんたら。眉間にしわ寄せたなー。つっついちゃうぞ、えいえい。そうなんだよー。先輩は、ソキちゃんとデートとか色々したいから、努力にものを言わせて結果を勝ち取ってきました……! 結構楽しかったよ。中級とか上級とか上にまだ色々あるから、ほんと見習いだけど。安心してね、ロゼアくん! 私、上を目指して頑張るから!」
 やめていただけませんでしょうか、と言いたげな顔つきでロゼアが沈黙する。眉間を突かれたソキはいやんいやん、と甘えた声で身をよじり、でもでもぉ、そういうことなんでしたらぁ、とロゼアを上目遣いに見上げた。
「ロゼアちゃん? ソキねぇ、ルルク先輩とお茶をしに行ってあげることにしたです」
 努力は褒められるものである。『花嫁』の為にそうしたのであれば、望みはかなえられてしかるべきことなのだ。ソキはもう『花嫁』ではないけれど。ルルクが、ソキの為にそうしてくれた、ということが嬉しかった。溜息をついたロゼアが、じゃあ、とソキを抱き上げて立ち上がろうとする。その肩に、ぽん、とユーニャが手をおいた。
「ロゼアも、たまには先輩たちとお話しようね。大丈夫。他ならぬこの流星の夜、ルルクが一緒にいるなら、お姫ちゃんに悪いことは起きないよ。なんにも」
「魔術師の守護星がきらめき歌う夜! 私ちょっと! 最強だからー!」
「ルルク先輩はぁ、そこでなんで、あらぶる鷹のぽぉずになっちゃうんです? なんで?」
 私の魂がなんかそうせよと告げているからもうしょうがないのよねと真顔で言い切り、ルルクは比較的早く、普通の体勢に戻り、笑いながらソキに手を差し出した。
「ソキちゃんの守護星ってなに?」
「ソキの? 真珠星です。スピカ、っていうですよ。……ルルク先輩は?」
「私? 今年はなんだったかな……私の守護星、ちょっと落ち着きなくてね。毎年なんでか入れ替わるんだけど、平均して四つくらいになるから、今年もたぶんそんな感じだと思う」
 みんなーっ、ありがとーっ、と唐突に夜空に向かって叫んで手を振るルルクの挙動は、全く持って酔っ払いのそれである。魔術師の守護星というのは、ひとりに、ひとつ。それは一生涯変わらぬものである、というのが、ソキの教わった知識であるのだが。ルルクはなぜか異なっていて、数が多い上に入れ替わる。流星の夜が終わって数日すると、今年はこれ、という通知が観測所から届くようになっているのだという。ルルクの手をきゅっと握って立ち上がりながら、ソキは不思議な気持ちで問いかけた。
「ねえ、ねえ。ルルク先輩。お星さまは、ソキたちになにをしてくれるの?」
 迷うとき、戸惑うとき。行き先を指し示すひかりになる。それが魔術師の守護星だ。そう教わった。けれども普段過ごしていて、そのことを実感したことは、一年のうち一度もなかったのだ。ルルクは惣菜を包んでいた紙の裏にこれから向かう店までの簡単な地図を書き、それをロゼアに手渡した。一時間で戻ってこなければロゼアが迎えに来る、という約束を交わした後、ルルクは言葉を捜しながら、ソキを連れてゆっくりと歩き出す。
「守護星っていうのはね……。なにかをしてくれる、っていう程には、なにかしてくれる訳じゃないかな……。ただ、なんだろう……一年目だと、分からなかったと思う。でも、二年、三年、過ごしてるとね、なんかこう……選択しなければいけない時。それがどんなに些細な、たとえばこの服を着るか、こっちにするか、って迷うような時。ふっと目の前に、いくつかの中から選べる未来があると、そう感じる時。悪いものはこれだよ、って、教えてくれる気がする。いいものを引き寄せて、これはどう? って選ばせてくれる気がする。いいものにしてくれる、っていうんじゃないの。ただ、そこにあることを教えてくれる。選ぶのは私。そういう……気づきっていうのかな。きっかけ、かも知れない。意識させてくれる。守護星って、そういう感じだよ」
「ルルク先輩は、それがいっぱいあるです? ……あるのに、ちょっとおっちょこちょいなんです……。性格はいかんともしがたいに違いないです……」
「ソキちゃんて時々心を抉ってくるよね……つらい……」
 でもほら、お酒はソキちゃんにも注いだからこそ直前で気がつけたことだしっ、大事なのは結果なんじゃないかな、と気を取り直すルルクに、ソキはそれはそうなんですけどぉ、と頷いて、てちてちついて歩いていく。白い石畳の敷かれた、ひんやりとした印象の道に、蒼い影がふんわりと落ちている。夜が降りてきているのだ。足元まで。心細い気持ちになる。ソキは立ち止まり、振り返って騒がしい宴席を見た。先輩たちに絡まれながらも見送ってくれていたロゼアと視線が重なり、それだけで、ひかりを得るような気持ちになる。
 こころを塗りつぶす暗闇も、夜も。いつかは終わる。朝がくる。ソキの恐れる夜はいつだって、ロゼアがいることで鮮やかな朝を迎える。朝焼けのひと。恋焦がれる。息を吸う。
「ろ・ぜ・あ・ちゃーん!」
 ソキは満面の笑みで、ロゼアに向かって手を振った。
「いってきまーすですー!」
「行っておいで、ソキ。気をつけて。……先輩、よろしくお願いします」
「まっかせなさい!」
 ぎゅっと手を繋ぎなおしてくれるルルクに、明るい笑みで頷いて。ソキはてちてち、見知らぬ夜の街へ繰り出した。



 灯篭に封ぜられた炎は、朱金のきらめきを星のように降り落とす。純白の壁が迷路のように道を繋ぐ見慣れない路地を、ソキは興味深そうに見つめながら、ルルクに手を引かれてちてちと歩いて行った。さすが『お屋敷』で講習を受けただけあって、ルルクの歩みについていくのに、大変だと思うことは一度もない。ただ、知らない場所であるから、わくわく弾む胸の中にも、時折不安が忍び込む。週末になれば買い物へ行く城下の一角である筈なのに、まるで見覚えもなければ、印象も異なる場所だからだ。稀にぽつぽつと勝手口のような扉があるだけで、家々はみな、道に背を向けて建っている。誰ともすれ違うことはなく、人影のひとつも見当たらない。
 まっすぐ歩いて、右に曲がっていく道も。ちいさな階段をおりて、がらんとした空間をいく先の、細い通りも。どこもかしこも印象が似ていて、進んでいるのか、戻っているのかもわからなくなる。道のつくり、家のつくり、まっしろな壁、時々現れる簡素な扉、鉢植えに揺れる赤や黄の小さな花。ゆっくり、五分も歩けばソキはもうどれくらいロゼアから離れたのかも分からなくなって、くちびるを尖らせて立ち止まった。
「……まだぁ? まだ歩くです?」
「あ、大丈夫大丈夫。迷ってないよ。ここね、知らないとちょっと分からない作りしてるから……うーん、ほら、あの星灯篭見える? あそこ。もうすぐそこ。ね? もうちょっと」
 指差す先に視線を向ければ、『学園』の飾りとして使われているものと、同じ吊り灯篭が、風もないのに右に左にゆらゆらと揺れている。てちてちソキが歩いても、もう三十歩くらいの距離だった。それなら、はやくもうちょっとなのをおしえてくれないといけないです、とむくれるソキにごめんごめんと苦笑して、ルルクはもうちょっとだよー、と言ってソキの手をひいた。
「あ。ここから先は隠蔽してない普通のトコに戻るから、ちょっと騒がしくなるから気をつけてね?」
 ルルクがそう言ったのは、灯篭の真下を通り過ぎてからのことで。だからそゆのをはやくちゃんを教えてくれないとだめなんですうううっ、とソキが怒るよりはやく、りん、と鈴の音がした。耳元で。一瞬の眩暈。息を吸い込むのと同時に、世界に気配と熱がよみがえる。くらやみから、ぱっと明るい場所に出たような感覚があった。ぱちぱち目を瞬かせて見ると、辿り着いた場所は、いままで通ってきた場所と、作りとしてはそう変わらないようにみえた。白亜の壁に、簡素な扉。鉢植えに揺れる花の色は赤と黄。ただ、そこには人がいた。行き会うひとと、熱気があった。
 あれ、あれ、とソキが振り返った先、そ知らぬそぶりで揺れている星飾りの吊り灯篭から、先程はなかった筈の、白い紙札が下がっている。それは、ほのかな魔力を帯びていた。魔力ある者、魔術師にしか見えない紙札だった。書かれている文字を、ソキはなんともいえない気持ちで読み上げる。
「この灯篭の先へ行くもの、夢と浪漫を追いかけることとする……ってなんですか……」
「こうしておくと部外者がこない。わざわざ入ってきたら同志だから入部届けを書いてもらおうかな! っていう遠まわしな勧誘です! 夢と浪漫部は常時部員募集中だからね……! ロゼアくんのトコは灯篭おくのめんどくさくて手を抜いておいたから、迷い込んじゃったみたいだけど。ごっめんごめん!」
 ソキの聞きたかったのはそういうことではない。決してそういうことではないのだが、もう重ねて問う気力がなかった。そーなんですかー、へー、と聞き流す声で返事をするソキに、ルルクは気をはらった様子なく、さて到着です、と一軒の店を指差した。灯篭の揺れるすぐ隣。軒先に吊られた看板は、火を吐くトカゲの形をしている。飾り文字で示される店名は『赤星』で、喫茶室、とも添えられていた。ソキはぱちくり瞬きして、あかほし、とそれを呼んだ。
「さそり座、です? ロゼアちゃんのお星さま? ロゼアちゃんのねー、お星さまもねー、赤いんですよー? ぴかぴかで綺麗なの!」
「へー……? わ、やっぱり今日も混んでる……!」
 今日はもうちょっと空いてると思ったのにな、と残念そうに窓から店内を覗き込むルルクの真似をして、ソキもぴょこりと背伸びをした。不規則に、余裕を持って並べられた席の、殆どが埋まっていた。見知った顔も多く、『学園』の生徒や、各国の王宮魔術師の姿も見える。魔術師さんがおおいです、と不思議がるソキに、ルルクはそうなの、と頷いた。
「このあたり、ちょっと入り組んだ作りしてるからね。魔力持ちじゃないと道に迷うらしくって。中々お店に辿りつけない、という一般人の中では謎に包まれている、魔術師御用達の名店だから……!」
「ふぅん?」
「あ、もう。興味ない声だして。一緒にお茶してくれるんでしょ? なにを飲もうねー」
 とりあえず、すぐ座れそうでよかった、と胸をなで下ろすルルクに手を引かれ、ソキは店の扉の前に立つ。コロン、と愛らしい音を奏で、戸鈴が揺れた。

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