薫風がさかまいた。あまりに突然のことで、ソキにはそのように感じられた。戸鈴の可愛らしい残響が、消えてしまうよりも前のこと。入店してきたソキたちを振り返った給仕の男が、いらっしゃいませ、と振り返り告げかけて。音もなくソキに駆け寄り、両膝を折った為だった。訓練されきった者の身のこなし。体温をぬるく宿した風が、ふわりとソキに触れて過ぎていく。乾いた熱の気配。砂の気配。砂漠の。『お屋敷』の。
「……ミードさま」
呼びかけて。声にしてしまいながらも、違うと思っている響きだった。男の藍の両目は驚きに見開かれ、一心にソキの姿形を見つめている。訝しんだルルクが、ソキと男の間に体をねじ込み、なにごとかを問おうとした。それよりはやく。ソキは震える両手を持ち上げて、男の服の裾を、ほんのすこしだけ摘んで引っ張った。男に見覚えはない。声も記憶をかすめない。でもソキを見て、その名を呼ぶならば。
「ママ……ママのことを、知ってるの? みっ、ミードっていうのは、ソキの……ソキの、まま。ソキの、ママのことです……!」
舌がもつれて、涙が胸にひっかかって、言葉が上手く紡げない。ぎょっとして視線を向けてくるルルクに応えることもできないまま、ソキは男の服をまた引っ張った。
「ねえ。ねえ、ママを知ってるの? 知ってるですっ? ママはね、『花嫁』でね、あっソキも、ソキも『花嫁』で。あ、あっ、違うの、ソキは『花嫁』だったです。ソキね、あのね、『魔術師』のたまごでね。ロゼアちゃんと一緒にいるです。ロゼアちゃんていうのがソキの『傍付き』で、とってもかっこよくてすてきでやさしくって、きゃぁんやぁんで、んとんと、一緒にね、『魔術師』になったですからね、一緒なんですけどね。えっと、えっと……え、えっと……」
なにを話したらいいのか、分からなくなってしまった。言葉になりたがっている気持ちは、喉にたくさん引っかかっているのに。ぐずっと鼻をすすりあげて、ソキは微笑して見つめてくる男に、そろそろと問いかけた。
「ママを知ってるの……?」
普段は置き去りにしている恋しさが、どうしようもなく蘇る。ずっとちいさな頃にいなくなってしまった。その喪失のつめたさだけを、今もずっと覚えている。もっと暖かくて、優しい、大事な思い出だった筈なのに。失いたくなくて話をせびっても、『お屋敷』の者が多くを話してくれることは、なかった。まま、まま、と半泣きの声でぐずるソキに、男の手が伸ばされる。
「私が知るミードさまは、あなたさまよりも幼かった。……御話できることは多くありません。それでもよろしいでしょうか」
「うん……!」
「お席でお待ちください。時間を作って参ります……ああ」
立ち上がり。吐息と共に、どこか誇らしげに。男はルルクに手を引かれながらも、己の足でやってきたソキのことを、眩しげに目を細めて見つめた。
「あなたさまは、歩けるのですね」
「でぇえっ、しょおおおおお! すごーいーでしょーっ?」
いつもより念入りにふんぞりかえって自慢するソキが、反り返りすぎてころんと転がってしまわないように、ルルクがさっと背に手をそえる。こころゆくまでふんぞったのち、ソキはルルクの指をきゅむっと握り、てちてちと男について歩き出した。ふたりを、ゆったりとしたソファの席に案内した男は、戸惑うルルクに向かってご注文は如何なさいますか、と問いかけた。
あれってもしかしてロゼアくんと一緒なの、と問いかけられて、ソキは香草茶をひとくち飲みこんだ。熱すぎることも冷たいこともなく、喉にひっかからず、するりと落ちていくお茶からは、甘い花の香りがした。一緒に運ばれた茶葉の調合表をごそごそとしまいこみ、ソキはほわりと息を吐く。おいしい。思わず足をちたちた動かして喜んだのち、ソキは机に置かれた蜂蜜の小瓶に目を向けた。花梨の香りがしていた。小瓶にそえられた木の匙で蜂蜜をすくいあげ、香草茶の中へ溶かし込む。くるくるかき混ぜたのち、ソキは右を見て、左を見て。木の匙をもう一度小瓶にいれて、それをそのまま、ぱくんっ、と口にした。
「あ、ソキちゃん! こら!」
「きゃぁあん! おいしー! ですうぅっ……! このはちみつは、ソキが食べてあげます!」
ふんすふんすと鼻息荒く小瓶を引き寄せて、ソキはルルクに向かってつん、とくちびるを尖らせて見せた。
「ルルク先輩? はちみつは、じよーがあるです。たくさん食べるのえらいです。ロゼアちゃんも、きっとそういうに違いないです。ソキにはちゃぁんと分かるです。お見通し、というやつです」
「……帰ったらロゼアくんに聞くよ?」
「それとこれとはぁ、別問題、なんですよ? 言っちゃダメです。ないしょです。わかったぁ?」
首を傾げて問いかけてくるソキに、ルルクは微笑みながら言わないでおくね、と頷いてやった。他の者なら、ソキのおねだりに負けて言いくるめられてしまっただろうが。ルルクは『お屋敷』の世話役外部講習を、受講終了したばかりなのである。言わないでおくね、というのは、ただ言葉にしない、というだけである。文書にしたためて通知しない、という意味ではない。ソキはほっとしたように胸を撫で下ろし、混み合う店内を見回した。
数えると十二の机が置かれている。机を囲むのは椅子であったり、ソファであったりとまちまちだが、どれもとても座り心地がよさそうだ。空席はちいさな机がひとつ、残るばかり。訪れているのは、そろいもそろって魔術師ばかりである。『学園』で見覚えのある顔や、王宮魔術師で言葉を交わしたことがある者。知らない顔もいくつかあったが、ソキとルルクを見つけて親しげに微笑んでくる姿から、同胞であることを感じ取れた。その身に魔力を宿しているのが分かる。只人は、この店へ向かう道で迷ってしまうのだという。ルルクの説明を思い返しながらも、ソキは関心しきった様子で頷いた。
「ほんとに魔術師さんしかいないです……。あれ? でも、お店のひとはちがうです」
先程、ソキの対応をしてくれた男がひとりと、少女がふたり。給仕の制服を身にまとい、机の間をくるくると踊るよう、動き回っているのが見えた。店の奥にはカウンターが置かれ、背後の棚には酒瓶が揃えられている。カウンターの中には給仕服の男がひとりいて、注文された香草茶を淹れたり、酒のグラスを磨いているのが見えた。ルルクもなんとはなしにソキの視線を追いながら、恐る恐る、もう一度問いを囁く。
「ここのひとたち……皆、ロゼアくんみたいな感じなの? もしかして、『お屋敷』のなんかアレだったりする……?」
「なんかアレ? です?」
なんかアレってなんだろう、と思いながらも、尋ねられたことをなんとなく察して、ソキは天井を仰ぎ見た。一点を凝視したのち、店の壁、窓の枠、と次々視線を移していく。うん、と不思議そうに声を漏らすルルクにちょっと待ってくださいですよ、と告げながら、ソキは机に備え置かれた砂糖瓶を両手で持ち上げた。陶器の底を覗き込み、さらに、瓶が置かれていた場所にも目を向ける。ことん、と瓶を置きなおして。ソキはふるふる、と首を横に振った。
「違うですよ。『お屋敷』のひとは、あのひとだけです。でも、あのひとも、魔力を持ってないです……どうやってお店に出勤をしてるんでしょうねぇ……?」
「なんかで、この区画の中に住んでるって聞いたことはあるけど……。いまなに探してたの?」
「あのね。もし嫁いだ先で、あんまりなこととか、やんやんやんなことがあった時には、お外に出た時に目印を見つけて、訴えていいことになってるです。そうするとね、調査のひとが来て、助けてくれるんですよ。どんなのかは『花嫁』のひみつー、というやつです。秘密の暗号、なんですよ」
ウィッシュのように、完全に監禁されてしまっている場合には、使えない手であるのだが。『花嫁』が受け入れられないような扱いをする者は、かなりの高確率で、迎えた宝石を見せびらかしに外出をするものなのである。ソキはそう教わっていた。だから、その時に。普通には知られないように、隠された印を見つけ出して訴えるのだ。言葉は必ず聞き届けられる。『傍付き』が恋しい、帰りたい、ということ以外なら。連れ戻して欲しい、迎えに来て欲しい。あのひとに。そう告げたとしても、届くことはないのだからと。繰り返し、『花嫁』は教わって知る。
それなのに、ラーヴェは。ミードの『傍付き』であった男は、ソキの手を握って告げたのだ。どうしても辛ければロゼアを呼びなさい。約束をして。あなたのロゼアを、呼びなさい。その言葉は確かに、『お屋敷』の教育に対する反逆だった。息を吸い込んで、すこし目を伏せて。ソキは足をふら付かせながら、落ち込み気味の声で呟いた。
「パパがいまどうしてるかは、知らないかなぁ……。聞いたら分かったりしないです……?」
「前御当主さまは、すこし前に御枯れになられたと聞いております。……お待たせしました」
「あ! ちがうです! ソキ、いま、ラーヴェって言ったです。ぱぱじゃないです。ラーヴェ、ですよ? わかったぁ?」
給仕服の上に、淡く金の光沢がある薄布を一枚はおって現れた男は、丁寧な仕草で椅子に腰掛けた。端整な顔のつくりをした男だった。日に焼けた肌に、短めの黒い髪。藍色の瞳。ロゼアだけを知る者なら、印象がかぶることもあるだろう。ソキの目からすると、男の印象は、ロゼアよりもその父親の世代。ハドゥルや、ラーヴェ。もうひとつ、ふたつ、上の世代の者たちから受ける印象に近かった。年齢も、それくらいだろう。四十か、もうすこし上に見えた。
男はやわらかな眼差しでソキを見つめ、面白そうに問いかけてくる。
「ラーヴェが、ミードさまの『傍付き』を?」
「そうですよ? パパがぁ、ママのぉ、『傍付き』だったです。……あっ、ちがうです! パパって呼んじゃダメだから、ソキのパパはラーヴェで……あれ? 間違えちゃったです。ラーヴェです。ソキのおとーさまは、ごとーしゅさまです。だから、ラーヴェはラーヴェなの。分かったぁ?」
おすまししながら言い聞かせてくるソキの瞳を覗き込み、男は分かりましたよ、と囁いた。ルルクはなんともいえない顔つきで頭を抱え、よく分からなくなってきた、と呻くが、助けの手はどちらからも伸ばされない。分かってくれたです、よかったです、とソキは喜びに輝く瞳で男を見つめ返した。碧の瞳。その色彩に。男は、そうですか、と微笑んだ。
「ラーヴェが……」
「うん。でもね、ラーヴェは『お屋敷』を辞めてしまたです……。ねえ、ねえ。どうしているか、ご存知ではないです? ソキに、そっと教えてください」
「申し訳ありません、ロゼアの『花嫁』……私はミードさまがラーヴェを選ばれるより前に、とある混乱に乗じて『お屋敷』を抜けた身。ですから以後のことについては詳しくないのです」
前当主が枯れ、若き『花婿』がその跡を継いだことは、友人から聞いて知っていただけなのだという。そうなんですか、とガッカリしたのち、ソキはぱちくり目を瞬かせた。混乱に乗じて。
「……抜けた、です? 辞めた、じゃないの?」
「ええ」
「んん? なにが違うです……?」
嫌な予感しかしないから私もうこの席を離れたい、という顔で遠くを眺めるルルクに、聞こえなかったことにすればいいのではないでしょうかとあっさり言い放ち、男はさらりと言ってのけた。
「脱走するか、辞表を出すか、ですね」
「……い」
はくはく、口を動かして。微笑ましく眺めてくる男をぴしりと指差し、ソキは思わず絶叫した。
「いけないひとですうううう! そんなこと、し、しちゃ、いけな……い、いけないひとですううう!」
「ええ。ですのでこうして、友人のもとに身を寄せ、妻と共に隠れております。……あなたの『傍付き』には、内緒にしておいてくださいね」
そちらのあなたも。言ったり書いたり、伝えたりほのめかしたり、なさいませんように、と。やり方を熟知している者の囁きに、ルルクは頭を抱えて机に突っ伏した。聞こえなかった、私なにも聞かなかった、なんかちょうまきこまれた、と呻くルルクを尻目に、ソキはしょんぼりと肩を落として落ち込んだ。
「ご結婚……しているです……」
もしかして、ご結婚がしたくていけないことをしたです、と落ち込むソキに、微笑して。男は椅子から立ち上がり、丁寧な仕草で、ソキの足元に両膝を折って屈みこむ。それは確かに、『傍付き』の仕草だった。
「『傍付き』ロゼアの『花嫁』たる方。私は『花嫁』スピカの『傍付き』で、ディタと申します。あなたさまの名前をお聞かせ願えますか」
「……ソキ、です。ディタさんの『花嫁』さんは、スピカさん、て言ったです……? ソキの守護星と、おんなじ名前です……」
スピカ。その名を、ソキは『お屋敷』で聞いた覚えがなかった。『花嫁』はもとより、一定の年齢を過ぎれば嫁いで行くものだから、同年代でない限りは交流もない。『運営』たちが口にする、前代の方はもっとこうでしたよ、という小言の中にも、その名は現れなかった気がする。ソキは、やっと帰り着いた『お屋敷』で、ロゼアがいなかった事を思い出す。信じられなかった。胸が潰れてしまうかと思った。ソキは、妖精が導いてくれたから、その足で後を追うことができたけれども。『花嫁』は、歩けるようには、作られないのだ。どこかへ逃れてしまわぬように。
目を潤ませてくちびるを噛むソキに、男は静かに囁きかけた。
「ソキさま。私の『花嫁』は……私の妻は、あなたのようには歩けない」
「……え?」
なにか、聞き間違えたような。信じ難い言葉に触れた気がして、ソキは潤んだ目で男のことを見つめなおした。心が音をたてて震える。え、えっ、と指を震えさせながら惑うソキに、男はやんわり微笑んだ。
「ですので。あなたのロゼアには、どうぞ内密に。どこからか『お屋敷』に伝わってしまうと、とても困りますから」
「えええぇえねえなんで私ここにいるの……。もう記憶を失うしかないんじゃないの……」
「え、えっ。あ、あの、あの、ディタさんの奥さまは、あの、あのっ、も、もしかしてなんですけどっ、もしかしてなんですけどっ!」
あああーっ、聞かないっ。私は聞かないーっ、と両手で耳を塞ぐルルクを、静かにしないといけないんですよぉっ、と興奮した声で叱り付けて。ソキは、あの、あのっ、と手をもじもじさせながら、目を潤ませて問いかけた。
「ソキの……守護星と、おんなじなまえ、なの……?」
「はい」
「つ、つれ、て」
にげてくれたの。囁き。涙に掠れて震える声に、ディタは微笑み、はい、と頷いた。
「そうして欲しいと。求めて頂けましたから」
それは、叶えてはいけない夢だ。『花嫁』なら誰もが一度は望みを抱き、それでいて、罪悪の前に自ら磨り潰し、口にすることのない希望だ。ソキは胸に両手を押し当てて、おぼつかない息をした。嫌ではなかったの、とか。裏切りではないの、とか。どうしてそんなに幸せそうにしてくれているの、とか。聞きたいことは、たくさんあるのに。言葉は胸に溢れるばかりで、ひとつもソキから零れていかない。はく、はく、と口を動かすソキに、ディタはもの言いたげな苦笑いをして立ち上がった。
「申し訳ありません。そろそろ戻らなければ」
「え、あっ、あ……あぅ……。そうなの……」
「……また、こちらへ来られる時はお知らせください。事前に手紙を頂ければ、あなたさまの星に、めぐり合うことも叶うでしょう」
ぱっ、と顔をあげて。口元を手で押さえ、こくこくと必死に頷くソキに、ディタはくれぐれも内緒にしてくださいね、と囁いた。男は机に備え置かれていた紙を引き寄せ、そこへ住所を書き入れた。差し出された紙を大事に受け取り、ソキはおてがみするです、と頷いた。
「ソキ、ソキ、ロゼアちゃんにこっそり、ないしょして、お手紙して、会いにくるです」
「……ええ。でも、問い詰められたら言うんですよ。内緒は程ほどに」
「ん、ん! ソキ、ちゃんと分かってるです。ないしょ、できるです!」
ぎゅっと手を握って意気込むソキに、くすくすと笑い。ディタはすい、と視線を動かし、なにごとかにぷるぷる震えているルルクにも、そっと囁いた。どうぞ、お聞きになったことは、内密に。音もなく立ち去っていく後ろ姿に、ソキは満面の笑みでちたちたと手を振った。
「……ソキちゃん。私、店に入ってから出るまでの間、記憶喪失になったっていう設定で行こうと思うんだけど、どうかな」
「ルルク先輩なら皆納得してくれると思うです」
恐らくは、またルルクの発作か、のような目で生暖かく仕方ながってくれる筈である。一年ちょっとしか付き合いのないソキでもそう思うのだから、ユーニャたちもそう感じるに違いない。ルルクはさすがに落ち込んだ様子で息を吐き、額に手をあてて呟いた。
「日ごろの自分の行いが、つらい……!」
「ルルク先輩。寮長に似てるって言われたことないですか?」
「なんでかよく分からないけど時々言われる」
なんでよく分からない上に時々しか言われないんだろう、と不思議がりながら、ソキはすっかり冷めてしまった香草茶を飲み、はふ、と幸せな息を吐き出した。
あっそうだ週末におでかけしてあわよくばスピカさんにお会いするですっ、とソキが思い至ったのは、流星の夜から半月以上が経過した、八月末の水曜日の夕方のことだった。それまで、ソキは大変に多忙だったのである。再開した座学と実技の授業にはついていくのが精一杯で、週末にはだいたい微熱を出して寝台の住人となっていた為だった。幸いなことに不調は長引くものではなく、また、寝込んで動けなくなるほど悪化するものではなかったので、月火と授業、水には部活動でひとやすみ、木金と授業で、土日をぐったり過ごす、という風に落ち着いていた。日曜日の昼過ぎにはだいたい回復していたので、えへん、ソキってば体がつよぉくなったでしょう、とふんぞっては、うんそうだな、とロゼアに微笑まれるのがここ最近の通例だった。
今週はなんだかとっても調子がいいソキは、気持ちよくお昼寝をして部活動もこなし、夕食までの時間をアスルと共に寝台の上で過ごしていた。ロゼアの部屋である。談話室でころころしていないのは、部活終わりのソキをロゼアがひょいと抱き上げて、まっすぐに帰ってきてしまったからだった。週末に微熱を出してしまうようになってからはずっとそうで、最近、ソキはあまり談話室には行かないのである。でも今週はなんだかとっても調子がいいので。きっと夕食を食べたら、ロゼアは談話室にソキを連れて行ってくれる筈だし、週末だって熱がでないからお出かけも許してくれる筈なのである。基本的に、ソキが思うロゼアがなにかをしてくれる筈、には、根拠という大事なものが欠如している。
それでも、ソキはそう思ったので。いい考えですから、お夕食までにお手紙を書いてださないといけないです、ところころするのを辞め、寝台の上でもそもそと起き上がった。どこからか、良いにおいが漂ってきている。夕食準備の完了を知らせる鐘が鳴るまで、あと一時間もないだろう。書き物机に向かっていたロゼアが、気配を感じて振り返る。うん、と首を傾げられるのに、自信ありげな表情でこくりと頷き、ソキはもそもそ寝台を移動し、床にてちんっと足をつけた。声がかかる。
「ソキ? 今日はもう、寝台の上でゆっくりしてるって約束したろ。どこへ行くの?」
「ロゼアちゃん? ソキはぁ、ちょっと、そこの棚に用事があるです」
書き物机のすぐ隣。天井まで届く備え付けの棚には、ソキの髪飾りやお手入れ用品、小物、日用品などがきちんと整理されてしまいこまれている。その中のひとつに、手紙用品一式を納めた小箱があるのだった。微笑んで、ふぅん、と呟くロゼアの前をてちてちと横切り、ソキは棚の前に立った。小箱は、立ち上がったロゼアの頭より、ちょっと上に置かれている。むむむっ、とくちびるを尖らせ、ソキはこっくりと頷いた。
「やればいけるきがするです」
「……ソキ?」
「えい!」
棚の前で、ソキはけんめいに、のびいいいっ、としてみた。届かない。ちっとも届かない。手をちたちたっとしてみる。やっぱり届かない。ぴょんこっ、と飛んでみる。どうしてか届かない。ぷぷぷくっと頬を膨らませると、笑みを含んだ声が問う。
「そーき。なにしてるの?」
「ろぜあちゃん! この棚がソキのことをいじめるです!」
「うん。そうだな。ひどいな」
うっとりと微笑み、ロゼアはソキに頷いてくれた。でしょおおおひどいでしょおお、と憤慨したのち、ソキはしばらく、棚の前でちたちたした。ちたちた、ぴょんっ、ちたっ、ぴょ、ちたたたたっ、として、やっぱりどうしても届かなくて、ソキは頬をぷっぷく膨らませ、ロゼアに向かって両腕を持ち上げた。
「ロゼアちゃん! だっこぉだっこぉだっこぉだっこぉーっ!」
「だっこして欲しい?」
「だっこしてロゼアちゃん、だっこしてっ! だっこして欲しいですうぅ!」
うん、と満たされた微笑みで頷き、ロゼアはすぐにソキを抱き上げた。きゅむっと抱きついてロゼアを堪能して、ソキは気合を入れて棚に向き合いなおした。これでもう届くはずである。ソキの目の高さに小箱はあった。自信たっぷりに手を伸ばす。届かない。もうちょっと手が届かない。ロゼアが、ソキを抱き上げるのと同時、一歩棚から退いていたのを知るよしもなく。やあぁんっ、とソキは涙声で腕をのびいいっとさせた。届かない。
「ロゼアちゃぁん……ソキ、お手紙のお箱に手が届かないです……。とってほしです……」
「うん。いいよ。誰に手紙書くの? ウィッシュさま? メグミカ? リトリアさん?」
ソキが手紙を書こうとする相手は、基本的には限られている。手紙用品の箱を持って椅子に座りなおしたロゼアに、ソキはえへんと胸を張って告げた。
「ディタさんです!」
「……ソキ?」
ふふん、と自慢げにふくっとする頬を両手で包みこみ、視線をそっと重ねて。ロゼアはにっこりと笑みを浮かべた。
「誰だ、それ」
「ディタさん?」
「どこで会ったんだ? どんなひと? ……男? 女?」
えっとねえ、と説明しようとして、ソキはあっと声をあげてくちびるに両手を押し当てた。だってないしょだったのである。ないしょは言ったらいけないのだった。ん、ん、と困って視線をさ迷わせ、ソキは考えながら、微笑むロゼアにんっとぉ、と言った。
「この間、お茶屋さんであったです。流星の夜の……。また、お茶を飲みに行く時には、来る前にお手紙してね、ってお願いをされたです」
「うん、それで?」
「それでね、ソキは今週の日曜日に、お茶をしに行くことにしたですので、お手紙を書くです。でも、ロゼアちゃんには、ないしょにね? なんです」
なにせ、ソキの考えが間違っていないとするならば、ディタは『花嫁』を連れてお屋敷から逃げおおせた『傍付き』なのである。それは『花嫁』の憧れで、希望で、夢だった。それでも、それを、ロゼアがどう受け止めるかは分からない。いけないことで、だめなことで、してはいけないことだから。『花嫁』と結ばれた『傍付き』を、もしもロゼアが拒否するのだとしたら。それは、ソキの恋が叶わないということだ。んん、と困って眉を寄せるソキに、ロゼアは静かな声で問いかけた。
「その人に会いたいの? 俺に内緒で?」
「ディタさんと……ディタさんの、奥さまに、ソキはお会いしたいです」
つん、つん、と人差し指を突き合わせながら、くちびるを尖らせて、ソキはロゼアを見た。奥様、と訝しげに呟いているロゼアに、ソキは腕を伸ばしてぎゅぅっと抱きつく。どうしたの、と柔らかな声が耳元で囁き、ぽん、と背が撫でられる。せつなくて、くるしくて。隠しておけなくて。ソキは胸の中でディタにごめんなさい、と告げると、あのね、あのね、と涙声で言った。
「ディタさんね、あのね、『傍付き』さんだったひとです。それでね、奥さまは『花嫁』さんで、スピカさん、って言うですよ。ソキはどうしてもお会いしたいです」
「……は」
ロゼアが。ソキの言葉に対して、返事以外の声を零すことは稀である。不思議に思って顔をあげると、ロゼアはなんだか、見たことのない顔をしていた。すこし前に新しい課題を出されたナリアンが、ああああああめんどくさいめんどくさいいいこの課題どうしてもやらなきゃいけないのを理解してしまった俺のことを殴りに行きたいでもこれをやらないといけない分かるやりたくないめんどくさいああああああ、と叫んで談話室の床を転がる奇行に出るほど追いつめられた事件があったのだが、その時と、なんだか似たような印象を受ける顔である。苦虫を顔面に叩きつけられるとこういう気分、と。救出されたナリアンは、しんだめで語っていた。ソキは不思議さに目をぱちくりさせ、ひきつったロゼアの頬をつむつむ突っついた。
「ロゼアちゃん? どうしたの? おなかがいたいの?」
「……痛くないよ……ソキ、ごめんな。あのな。もう一回教えてくれるか? 誰が、なにで……なに?」
「ディタさんとスピカさん?」
あのね、『傍付き』さんだったのと、『花嫁』さんだったんですよ。ソキはそう聞いて、そう思っているです。どうしたの、それじゃ頭がいたいの、ソキが撫でてあげるです、とけんめいになでこなでこしても、ロゼアはしばらく、うめき声ひとつ洩らさなかった。やがて。ああ、とかすれ切った、ひきつったうめき声が漏れ、ロゼアは深々と息を吐く。
「ソキ……。今週、俺も行く」
「えっ」
「俺も行くって手紙を……うん。俺が書くから。住所を教えて、ソキ」
え、ええぇ、と不満げに頬をぷっと膨らませるソキに、ロゼアは苦笑して。こつ、と額を重ねて、己の『花嫁』に囁きかけた。
「大丈夫。ソキが不安がることないよ。……内緒っていうのは誰が言ったの?」
「ディタさん。脱走したから、ないしょにしてね、って言ったです。ソキ、ないしょできなかったです……怒っちゃヤですよ、ロゼアちゃん。ねえ、ねえ。ロゼアちゃん。ディタさんも、スピカさんも、怒るのなら嫌ですよ……!」
だめなことです。してはいけなかたです。でも、でも、ソキにはお気持ちが分かるです。すごく分かるです。どうしてもです。だから、怒らないで。怒っちゃいや。いや、と。悲しげな声で訴えてくるソキに、ロゼアはふ、と笑みこぼして。その腕いっぱいにソキを抱き寄せ、怒らないよ、と言った。
「ソキ、俺も……いつか、約束したろ」
ソキが呼んだら迎えに行くって。だから怒らない。そんなことしないよ、と笑うロゼアに、ソキは言葉にならずに頷いて。ぎゅうっと抱きつき、その体をぴったりとくっつけた。