朝からロゼアとソキの姿が見えないので、ナリアンとメーシャは顔を見るついでに、その居場所を探すことにした。いつもなら朝食は一緒に取るのだが、今日に限ってふたりとも軽く寝坊してしまった為に、食堂でも姿を見ることが叶わなかったのだ。談話室にも姿はなかった。ソキが授業に出るようになってからというものの、そこへいる頻度は下がっているのだが、話を聞けば立ち寄りもしていないらしい。そのまま足を運んだロゼアの部屋は無人で、扉を開けてすぐの床に、重石が乗った置手紙があった。四階のソキの部屋にいるらしい。
ソキの部屋が使われるのは、そこに用事がある時だけである。一月に一度の荷物はもう先日届いていたから、なんだろうね、と首を傾げあい、階段をのぼったあたりの廊下からなぜか部屋を遠巻きに見守っている先輩たちの間をすり抜け、ナリアンとメーシャはひょいと中を覗き込もうとした。未遂に終わったのは、戸口が下げられた布で完全に隠されているからで、一枚を手で払っても、幾重にも重ねられて視界をつぶしているからだった。歩いてきた廊下へ、時々、ソキのほわふわしたはしゃぎ声が聞こえてきていたから、片付けをしていないのは確かだった。
「ロゼア? 入っていい?」
「いいよ。ちょっと待って……ソキ、ソキ。ほら、ナリアンとメーシャが来たから、じっとして」
「やあぁああとちょとだったにちぁいないですううう!」
ひどいですあんまりですこんなのってないですう、と悲嘆に暮れた声が響いてくるのを聞く分に、今日もソキはロゼアを誘惑して、しようとして、失敗したらしい。メーシャは穏やかな微笑みで諦めないのがソキの偉い所だよねと頷き、ナリアンは俺のかわいい妹にそんなことを教育したのは誰なのころそうよと涙ぐんで頭を抱えてしゃがみこんでいた。いやぁんいやぁ、と室内からはしばらく、ぐずって抵抗するソキの声が響いたのち、ふっと音が途絶えて静かになる。衣擦れの音はやんわり、ふたりの耳に触れた。すっ、と布の間に差し入れられたロゼアの指先が、空間を切り裂くようにして友人を招く空間をつくる。
「お待たせ、ふたりとも。……ナリアン、座り込んでどうしたんだ?」
「……一応聞くけど、ソキちゃんはなにしてたの?」
「明日、着ていく服を選んでたんだよ。気に入るのが見つからないみたいで、脱がせてっていうばっかりだから、まだ終わってないけど」
それ絶対そういう意味じゃないよね、とナリアンは呻きながら立ち上がる。視線で意見を求めてくるのに、メーシャは微笑を深めてゆっくりと一度、頷いた。
「この間、寮長が、風紀が乱れるからお前そんなことばっかりしてるんだったらロゼアとの同室許可を取り消すぞって言いたい所なんだが、ちっとも乱せてないからお前じつは魅力ないんじゃねぇのってソキに言ってもっ……のすごい怒らせてたけど、ロゼアそれについてはどう思う?」
「そもそも寮長はなんでソキをお前とか、そうじゃなくても呼び捨てにしてるんだよ」
「それについては今度寮長と話し合いなね、ロゼア」
そうする、と珍しく不機嫌をあらわにした顔で頷き、ロゼアは室内を振り返った。垂れ下がる布で幾重にも覆い隠された先へ、あまやかな視線を投げかけて囁く。
「うん。すぐ戻るよ。……メーシャ、ナリアン。見ていく?」
その、見ていく、が。わくわくした、ちょっと自慢したい気持ちを隠しきれていなかったので、ふたりは視線を交わして頷いた。ん、と短い言葉で頷いて、ロゼアは身を翻して室内へ戻っていく。半透明の布の海。朝焼けに目覚める白、風に磨かれた淡い砂、水に沈んだ翡翠のいろ。三色の柔らかな布の海。布をかきわけると、鉱石のこすれる淡い音がした。砂が風に擦れて奏でる、硬質で涼しげな石の囁き。視線を落とすと、吊り下げられた布の端には花の形に切り出された鉱石が揺れている。数歩で開けた場所に出ると、メーシャは感嘆の息を吐き出した。蜂蜜めいた光が、空間を甘く暖めている。世界から隠されて。その場所に大事に守られていたのは、『花嫁』だった。
ふかふかの布絨毯の上にぺたりと座り込む、ソキが着ていたのは見慣れたワンピースだ。袖口と襟元に繊細な、豪奢なレースが飾られたその服に、蜜色の光が触れれば真珠の光沢が現れる。普段着ている藍色の、魔術師のローブは脱がれ、折りたたんだ足元にくしゃりと置かれていた。むくれて尖ったくちびるは、苺の赤。甘そうな飴のいろ。背を流れ落ちる金糸の髪に、涙を滲ませた長いまつげの奥、ロゼアを一心に見つめる瞳は春の新緑、水の中で息づき目覚めた玉石の翠。蜜陽がやんわり触れる肌はまろやかな白。膝の上から伸ばされた手はちいさく、指の先まで整って、爪は螺鈿細工のきらめきを溶かし込む。見る者に、その姿だけで理解させる。
そこにあったのは『砂漠の花嫁』。世代の最高傑作、最優と囁かれた少女。
「ロゼアちゃん……。ロゼアちゃん、もう、どこ行ってたですか」
泣き濡れたあまい声がやわりと響き、耳から意識を撫でていく。薄闇の中でなく、ひかりに照らし出されて、なお。本能を刺激してならない声。所有、支配。欲望をかきたてる声。思わず息をつめて、視線を反らして、近づけなくなってしまったナリアンとメーシャの視線の先で、ロゼアはゆるく息を吐いただけだった。ロゼアちゃん、ロゼアちゃん。ねえ、ねえ、とその声で呼ばれ求められながらも、ロゼアはただ、その腕の中にソキを取り戻し、抱き上げて。ぽん、と背を撫でて。擦り寄るソキに頬をくっつけ、僅かばかり目を閉じて、満たされた風に笑って。
「メーシャ、ナリアン」
目を開いた時には、やや自慢げに。むくれて、ぷーっとするソキを、ふたりに見せびらかした。
「かわいいだろ?」
数多の言葉が脳内を駆け巡り、ひとつも口に出せないまま、ふたりは心底理解した。これは外界を遮断しておく必要があるし、気心を知れた者になら自慢したくもなる。わかる。胸に手をあてて深呼吸し、可愛い女の子にどきどきする己を殴り倒し胸倉を掴み、俺の、妹が、可愛い、と言い聞かせて勝利をもぎ取ったナリアンは、ややうつろな目でロゼアを見た。
「ロゼアのそんなドヤ顔はじめてみた……どうしたの……?」
「……ソキ、ぷーってしてるけど。いいの? ロゼア」
「ぷーってしてるソキかわいい」
照れくさそうな顔で自慢されて、ナリアンは理解した。あっロゼア、ちょっと頭がぱぁんしてる。きっとなにか嬉しいことあったんだね。よかったね、と頷き、ナリアンはその場に座り込んだ。うんうん、分かるよ、とばかりナリアンの肩に手をおいて一緒に座り込み、メーシャは笑いを堪える目でロゼアを見上げた。
「ロゼア。明日出かけるって言ってなかった?」
「でかけるよ。そーき、どの服ならいいの?」
「んもおおお! ロゼアちゃんはおとめごころー、がぜんぜんわかていないですううぅ!」
もっともっとロゼアちゃんがソキにめろめろのめろめろできゅんきゅんになってときめくお服にしてくれなくっちゃいやいやんっ、と半泣きで体をくっつけてすり寄って訴えてくるソキに、ロゼアはふわふわした笑みで、うんそうだな、と頷いた。
「じゃあ、とっておきのにしようか。やっぱり。メーシャ、ナリアン。悪いけど」
その箱取ってくれるかな、とロゼアが示したのは、秋冬用の絨毯が壁に立てかけられている一角だった。そこに、ぽつん、と白い箱が置かれている。なんの飾り気もない紙箱に見えた。首を傾げながら持ってきてくれたふたりに、ありがとう、と微笑んで。ロゼアは、ほら、とソキに囁きかけ、蓋をあけて中をあらわにする。ひょい、と横から覗き込むナリアンとメーシャの動きが凍りついた。ロゼアの腕の中でもちゃもちゃ反転し、ソキは目をぱちくり瞬かせる。
「見たことのないお服です……! ロゼアちゃん、なぁに? これなあに?」
「新しいワンピースだよ。気にいるといいけど」
一見それは、ソキが普段着ているワンピースと、そう違うようには見えなかった。乳白色の淡い淡いくれないは、砂漠に昇る朝日が一瞬だけ地平線に投げかける、優しくもしなやかな色彩の印象をそのままに宿している。ぞっとするほど柔らかく、心地よく整えられた生地は、一枚だけでは透けてしまう。幾重にも、密な花弁のように重ねられて、スカートはふわふわと広がっている。袖口と襟のレースは繊細そのもの。唯一明確に違うのは、腰から首の後ろまでを編み上げて綴じる作りになっていることだろうか。深緋に染められた絹のリボンは、ソキが毎日身につけているそれと、よく似ていた。同じ生地で作られた、揃いの靴もある。目を輝かせ、頬を赤らめて、ソキは服に手を伸ばした。
「すてきです……! ロゼアちゃん、これ、どうしたの? ソキに着せてくれるですっ?」
「気に入った?」
「うん。きゃぁあん、とってもとっても素敵ですうぅ……! ロゼアちゃんの、いっとうすきすきなお服にちょっぴり似てる気がするですけど、あれはお払い箱さんになってしまったです……悲しいことだったです……。でも、でも、でもぉ! このお服がその代わりに違いないです? ロゼアちゃん、着せて、着せてくださいっ。あっ、間違えちゃった。ロゼアちゃん? お服脱がせて? ねえねえ?」
それであわよくば触ってもらうですっ、という意思が分かりやす過ぎる、きらきらした瞳でふんふん鼻を鳴らすソキに、ロゼアはじゃあ着替えような、と笑みを深めて頷いた。俺たちは外に出てるからね、と囁くメーシャと、よろりと立ち上がるナリアンに、ソキはふんすと気合の入った顔つきで頷いてみせた。
「ナリアンくん? メーシャくん? しばらくぅ、お会いできないかもー、しれないです!」
「そんなにかからないよ。五分くらい。終わったら声かけるな」
「ロゼアちゃん、いいですか? お服を脱がすです。ソキのお服を脱がすですよ。分かってるですか?」
もちろん、とロゼアは微笑みながら囁いた。分かってるよ、ソキ。座り込んだ膝の上、柔らかな『花嫁』を抱き寄せながら囁く声が、部屋を出るふたりの耳にも届いた。
「体が冷えるといけないから、はやく脱いではやく着ような。さっきも寒いって言ってたろ」
「ロゼアちゃんたらお優しいですううううでもそゆんじゃないですうう」
「そーき。こら、なんでぱたぱたしてるの? 脱がせられないだろ。新しい服着たくない?」
いやあぁあ着せて着せて脱がせてええっ、と半泣きの、欲望の在り処を直に撫であげるような響き。あまい、蜜のような、とろけた声で求められても、ロゼアからは笑みが零れるだけだった。再び、薄布の海を越えて。廊下に出てきたふたりに、遠巻きに見ていた先輩たちの視線が向けられる。無言で説明を求められて、ふたりは揃ってふるふると、首を左右に振って否定した。
「健全とは言い難いんですけど、基本的にはロゼアがうきうき着せ替えしてるだけです」
「あとロゼアが全力でソキちゃんを愛でるとこうなるんだなっていうだけです。健全ですとは言い切れないものがありますけど、健全にしかならないと思います先輩方ご安心ください」
よし解散、と野次馬を散らす寮長の声が響く。授業のない土日。基本的に寮生は暇を持て余している。それぞれ談話室へ、図書館へ、城下へ、なないろ小道へ、部活動へと散っていく者たちの中で、ルルクが両手を打ち合わせて声をあげた。
「よーし賭けしよう、賭け! 今日こそソキちゃんが不健全に持ち込む、今日もソキちゃんが不健全に持ち込めない、ロゼアくんには性欲がない、の三択で!」
ぶっちぎりの得票数を得ているのがロゼアには性欲がない、その次が不健全に持ち込めない、である。今日こそソキが不健全に持ち込むには、大穴狙いの数票が入るばかりだ。結果発表は夕食の後ねー、と楽しそうなルルクには、己の命に対する危機管理能力が大幅に欠けている。ロゼアにバレて怒られないといいね無理だろうけど、と見送るふたりに、入っていいよ、と声がかかる。ソキが着替え始めてから、きっかり五分が経過していた。今行く、と返事をし、ナリアンはメーシャの目をまっすぐに見た。メーシャくん、と呼ぶ。うん、とすぐ微笑みと共に声が返ってきた。
意思は通じ合っていた。それでも、あえてナリアンは声に出して頼み込む。
「俺がもし血迷ったら殴って止めてねメーシャくん。浮気ダメ絶対。ニーアを泣かせるようなことはしない。そしてソキちゃんは俺のかわいい妹」
「分かってるよ、ナリアン。まかせて。……万一のことがあったら、俺を止めてね、ナリアン。俺はハリアスの恋人だから、彼女を泣かせるようなことはしたくないんだ」
ふたりは真剣な顔つきで頷きあった。それでも、ソキの姿を見ないでいる、という選択肢はない。『花嫁』のあまい魅力に絡め取られているから、ではなく。ふたりはどちらかといえば、磨き上げられた『花嫁』たるソキと、少女を心行くまで自慢げにみせびらかすロゼアの姿が見たいのである。親友がめいっぱい幸せそうに披露してくるのを、ちゃんと受け止めてあげたい、という友情だった。そうであるからこそロゼアは入室を許可して、ふたりを呼び込んだのである。花の誘惑に惹かれるのは、当たり前のことだとロゼアは知っている。だからこそ。
その誘惑に抗い、退けられる者の選別を『傍付き』は行うのだった。あれ、ナリアンくんとメーシャくんは、と蜂蜜めいた声で不思議がるソキの囁きに、今行くよ、と呼びかけて。ふたりは、柔らかな紗幕へ手を伸ばした。
頭のてっぺんから足の爪先まで。一日かけてロゼアに愛でられ、丁寧に丹念に手入れされたのには理由がある。ソキがスピカに会いに行くからである。『お屋敷』において、『花嫁』たちが顔を合わせる機会というのは極端にすくない。同じ場所で寝起きしているといっても、『お屋敷』の建物は広大の一言であり、複雑に入り組んだ作りをしていて、なにより『花嫁』は己の区画から外出しないものだからである。区画の中の数部屋を、掃除や気分転換で使い分けることはあるが、その外へ行くとなると数日に一度、あるかないかのことだった。
移動となると、もっと回数と頻度が限られる。それはせいぜい、特別室でなければいけない勉強や、『旅行』の為の準備や、訪れる商人の品を見に行く為であり、それだって己の足で動いている訳ではないのである。『花嫁』が使う通路は、『お屋敷』のごく一部に限られていて、移動の前にはそこへ先触れが成される。事故めいた通達の誤りがない限り、不意に誰かと顔を合わせる、ということそのものが発生しない。つまり他の『花嫁』『花婿』とは、週に一度、決められた場所で決められた時間だけ顔を合わせるくらいでしか会わないものだった。
例外が、花たちの口にするわがままだ。たとえば、美味しいお菓子をたくさんもらった時。たとえば、素敵な本をたくさんもらった時。それらはだいたい、己の『傍付き』と『世話役』と共有されるものだが、気まぐれに他の『花嫁』に、あげたい、と求められることがある。渡しに行きたい、なのか。呼んできて、なのかは、その時々によった。年に一度、あるかないか。そうして呼ばれた時、あるいは呼ぶ時に、『傍付き』はある程度時間をもらい、己の花を全力で磨き上げるものなのである。規約がある訳ではない。失礼という訳でもない。しいて言えば趣味である。
こと『花嫁』において、あるのは競争意識や勝ち負けではない。そういうことではない。そもそも『花嫁』のつくりは、今代の砂漠の王が『お屋敷』に出してくる注文が適当かつ端的すぎるせいで、九割五部『傍付き』の趣味で構成されている。つまり性格と作りがそもそも異なるので、比べようとしてもできるものではない。一点物の技術の結晶に対し、優劣というのは存在していない。ではなぜ磨くのかといわれれば、ただ単にそういう趣味である。顔合わせにかこつけて趣味を追求しているだけ、ともいう。
さすがに一日相手を待たせる訳にはいかないので、『お屋敷』で成されるそれは長くて二時間、最大でも半日で整えていざ外出、となっていたのだが。あれこれ監視して注文をつけてくる『運営』はおらず、すきあらば自分の趣味をねじ込んでくるメグミカ他『世話役』もおらず、止める者もいなかったせいで、ロゼアはそれはもう心行くまで好き勝手に存分にソキを愛でて整えてぴかぴかにした。そのせいで、ソキが外出してくると聞いて顔を見に来たレディが、幸福そのものの微笑みでロゼアの足元に跪き、数分間動かなくなるという事故が発生した。
ぴかぴかにされた時の、『お屋敷』で働く者の反応がそうであるので、ソキは特別気にすることなく。これからねえ、お出かけなんですよ、とレディに自慢げに話し、ソキはロゼアに連れられて星降の『夜の一角』へと足を踏み入れた。ユーニャたちが部活動の野外宴会をしていた、入り組んだ路地によって構成されるその場所を、魔術師は『夜の一角』と呼んでいるのだという。その場所には、砕け散った魔力が沈みこんでいる。星の住処、と呼ぶ者もある。その無数のきらめきが、知覚できずとも、人々の感覚を惑わしてしまうものなのだと。
手紙の返事と共にディタから届いた地図を片手に、ロゼアはゆっくりと、複雑な作りの道筋を辿った。ルルクに手を引かれて歩いたのとはまた違う道だが、景観がやはりとてもよく似ていて、行っても行っても、同じ場所のような、辿り着けない心地になる。ロゼアも幾度か地図を見直し、けれども迷ったり戻ったりすることはなく、やがて一軒の店先へ歩み寄った。店先に、ひとりの男が立っていた。あ、とロゼアの腕の中で、ソキが頬を赤らめて男を呼ぶ。
「ディタさん!」
「はい。こんにちは」
「こんにちはです。あの、あの、ソキはディタさんにごめんなさいをしなければいけないです……あの、おててを貸してくださいです」
身を乗り出すようにして求められ、ディタはなにをされるか分かっている微笑みで、『花嫁』に片手を握らせてやった。しょんぼりしながらディタの手を握り、ソキはぽそぽそと響かない声で謝罪をする。
「ごめんなさいをするです。ソキね、ないしょ、ちゃんとできなかったです……。ごめんなさいです、許してね?」
「いいのですよ、お気になさらず。内緒は程ほどに、とも言ったでしょう?」
「……いったぁ? です?」
ふふ、と微笑ましく肩を震わせたディタに、指先でこしょりと頬をくすぐられる。きゃぁんやっ、と甘くとろけきった声でくすぐったがって、ソキはロゼアにぺたんっとくっつきなおした。ロゼアはなにを言うでもなく、ただ、ディタのことを見つめていた。言葉を。どう告げるかに迷い、また、探しているようだった。やがてロゼアがなにかを拾い、言葉にする為の息を吸う。それが、音を成すのを拒否するように。ディタは店の扉に手をかけた。
「どうぞ、中へ」
コロン、と戸鈴が鳴る。
「今日は休みにして頂きました。ですので、気兼ねなく」
「あの、あの。スピカさんは……?」
「おりますよ。あなた方が来られるのを、楽しみにしておりました」
音もなく、ロゼアが足を踏み出す。失礼します、と告げるのは、区画に踏み込む前の断りそのものだった。ディタは苦笑していらっしゃいと囁き、本日臨時休業の札を確かめてから扉を閉める。店内は音もなく静まり返っていた。無為に踏み込まず、背を正して待つロゼアの隣にディタは立つ。てのひらが、窓辺に置かれたソファのひとつを指し示した。
「スピカ」
いとしさを。
「お客様だよ。起きよう」
呼び声ひとつで理解させる。音もなく歩み寄りながら囁くディタのまなざしの先。長椅子に伏せて眠っていた『花嫁』が、体を起こすのが見えた。ナリアンとメーシャが、昨日、ソキを見てそう思ったように。ソキはその存在をひとめ見て、『花嫁』だ、と思った。少女めいた雰囲気の、年若く見える女性だった。ゆるく波打ちながら腰まで流れる金糸の髪。瞳は光の加減で、黒檀から樹の蜜の色へ印象を変える。滑らかに整えられる透き通る白い肌。爪のひとつひとつまで磨かれた手。一心に、ディタを見つめて。綻ぶように笑う表情。
「ディタ……」
「気分は? 熱は下がったかな」
「もう。熱があったのは、一昨日まででしょう? ……あ」
跪き。頬、額、耳、首筋、とてのひらを押し当てて体調を探るディタに、くすくす、と笑いながら。視線を動かした『花嫁』が、ソキたちの姿を見つけて幸福を深めるように笑う。
「ほんとう、ミードによく似てる……! ねえ、こちらにいらして? お話しましょう?」
両手をぱっと広げて、満面の笑みで囁く声は淡く空気を揺らして染め変えて行く。蒼い露草のような声だった。夜会で旋律を紡げば、高価な楽器にも勝るであろうと思わせる響き。淡くも、どこか凛とした、聞く者の印象に残る声。ソキのものとはまるで違う風に整えられ、完成しきった『花嫁』だった。
最近、スピカは眠ることが多いのだという。だからお話している最中に、眠ってしまっても許して下さいね、と。微笑んで告げたディタのことを握りこぶしでぽかぽかと叩き、スピカは大丈夫ですったら、と言い張った。
「たくさん眠りました。今日は調子がいいの。だから、旦那さまも……あなたたちも、どうぞ、心配なさらないで」
はじめまして、とはにかみながら、スピカはソキの目をまっすぐに見て告げた。
「お会いできて嬉しい。スピカです。あなたが、ソキ。あなたが……ロゼア?」
はい、とロゼアは微笑しながら目礼する。頭を下げなかったのは、その腕にソキを抱き上げているからだろう。あ、あっ、と慌てた仕草でロゼアの腕に手をそえ、降ろして欲しいと求めながら、ソキは年上の女性に対し、もじもじしながらこくんっ、と頷いた。ぱあぁっ、とスピカの顔が輝いて、笑う。そうすると、どこか、ソキにも似た印象の面差しだった。眠っていた、寝台代わりにもなるソファにゆったりと身を起して腰かけながら、スピカのてのひらがぽんぽん、と座面に触れる。
「ソキ。どうぞ、こちらにいらして? 旦那さま、ねえ。おはなしをしてもいいのでしょう?」
「もちろん。ああ、でも……なにか飲みながらにしようか。お茶を淹れるよ。ロゼア、信頼して、来てくれるとありがたいのだけれど」
「……あなたを、いえ……あなたがたを、疑うようなことは致しません。……ソキ」
一度、ぎゅぅ、と力を込めてソキを抱きなおして。ロゼアは、いいこにしてるんだぞ、と囁いて、ソキの体をスピカの隣に降ろしてくれた。はぁい、と返事をして、ソキはディタに連れられ、店の奥へ向かうロゼアの背を見つめる。
「この間、飲んだものとは違うと思うけれど……安心なさってね。旦那さまも、とてもお茶をいれるのが上手なの」
「あ、あぅ……う、うん。あ、あ、えっと、うん、ない、です……。はい……!」
緊張して。ぷるぷる震えながら、なんとか返事をするソキに、スピカはくすくすと口に手をあてて笑った。ごめんなさいね、大丈夫よ。ゆっくりお話しましょうね。そう、凛とした、芯のあるうつくしい響きの声で囁き。スピカはソキをじっと見て、ああ、と息を零して目をうるませた。
「ほんとうに……ミードにそっくり……。瞳は、ラーヴェのいろだけれど……」
「あの、あの、ママを知ってるの? し、あっ、知ってるんですか?」
年上の『花嫁』に対する礼儀がなっていない、とソキはすぐ『運営』に怒られたので。けんめいに言い直して、ごめんなさい、としょんぼりするソキの手を、スピカはきゅっと握ってくれた。
「言い直さなくてもいいのよ。楽にお話しましょうね。大丈夫。誰もあなたを咎めないわ。だぁれも、あなたを怒ったりしないわ」
「は、い……」
「……ミードはね。私の妹よ。私と、ミードが、あの代の『内生まれ』だったの」
ぱっ、と勢いよく顔をあげて、ソキはまじまじとスピカの顔を見た。『内生まれ』とは当主の直系のことを示す。その数は『花嫁』『花婿』の総数と比べて、あまりに数がすくない。当主はみな、短命である。男であればある程度の数が次代としてうまれるが、それも確実なことではなく。女の当主であればその数はさらにすくなくなる。ひとりか、ふたりか。女の当主であった時代の『内生まれ』が、三を数えたことはかつてない。ソキの兄の、前の前の代。『お屋敷』の当主は女であったという。たったひとり、残された『内生まれ』であったからこそ、その血を失わせるのがあまりに惜しく。遠縁のものを連れてくるのではなく、その血こそを求めて、手折られた。そう言われていた。
「スピカさんは……じゃあ……ままの……ママの、お姉さんなの?」
「ええ、そうよ。そうよ、ソキ。……ちいさな、かわいい、わたしのいもうと」
ミード、とソキをまっすぐに見て、スピカは黒檀の瞳に涙を浮かべて囁いた。
「……ああ、あのこは幸せになったのね」
「うん……。うん、パパはね、ソキにママのお話をしてくれる時にね、いつも『ミードさまは世界で一番幸せな方でしたよ』って言ったの。いっつもね、ママがね、パパにね、あっ、ラーヴェにね。ラーヴェにね、そう言ってたって、聞いたです。世界で一番幸せな『花嫁』よって」
「……ラーヴェ。ほんとにミードのになったのね」
くすくすくす、控えめに笑うスピカに、ソキは目をきょとんとさせて首を傾げた。そういえば、ディタもラーヴェが、と言っていた気がする。なぁに、なんで、と尋ねると、スピカは身をかがめ、ソキの耳に口付けるようにして教えてくれた。ラーヴェは、ミードの『傍付き候補』ではなく、他の『花嫁』のそれであり。まだスピカが『お屋敷』にいたことから、よこれんぼの、りゃくだつあい、を企てていたのだという。ラーヴェはみぃのだもん、が口癖であったとのことだ。え、と呟いてソキは目をぱちくりさせた。それはつまり、ロゼアが他の『花嫁』の候補だったと聞くようなものである。想像して狼狽して、ソキは思わず悲鳴をあげた。
「ろろろろろぜあちゃんはソキのですそきのですううううっ!」
「うん。俺はソキのだよ」
どうしたの、おいで、と。やや慌てながら茶器を机に置き、戻って来たばかりのロゼアがソキをひょいと抱き上げる。ぽん、ぽん、と背を撫でて宥められながら、ソキはひしいいいぃっ、とロゼアにくっついて頬をうりうり擦り付けた。だって、だって、ロゼアちゃんがソキのじゃなかったかも知れなくて、だってパパがママの候補さんじゃなかったってままがぱぱが、ぱぱがりゃくだつあいでっ、と混乱しきった訴えであっても、ロゼアは内容を察したのだろう。ああ、と彼方を見つめるまなざしで呻き、ロゼアはうん、と頷いた。知っていたようだった。
「ラーヴェさんは、うん……。心配しないでいいよ、ソキ。俺はソキのだろ。ずっとソキのだろ」
「うううぅびっくりしたです、びっくりしたです……!」
「……おどろかせて、ごめんね?」
悪戯っぽく笑うスピカに、ロゼアは深く息を吐き。あまり遊ばれないでくださいね、と胃が痛そうな声で『花嫁』に求めた。