ロゼアはディタと話があるらしい。香草茶を給仕してすぐ離れて行ってしまったので、ソキはスピカと一緒にソファにさかさまに座って、話しているのを眺めることにした。ソファの背から、ぴょこ、ぴょこ、と『花嫁』たちが顔を出すのに時折笑みを向けながら、二人は酒瓶の並ぶカウンターに背を預け、立ったままで会話を続けている。言葉はひとつも聞こえない。じーっと見つめて、意識を集中させても、ちっとも分からない。ぷぅ、と頬を膨らませ、ソキは不満げに呟いた。
「なんにも分からないです……」
「聞こえないねえ……。旦那さま、ロゼアくんをいじめていないといいんだけど……」
「ロゼアちゃん、いじめられるですっ? やんやん、だめぇ! ロゼアちゃんをいじめちゃだめぇっ!」
甲高いソキの声に、ディタとロゼアはそっくりな仕草でぱっと顔を向けた。ディタは申し訳なさそうなスピカを見てから、ロゼアは安心させるような眼差しで、それぞれ微笑みを浮かべて語りかけてくる。
「大丈夫。いじめたりは致しませんよ。スピカ? しない、と言ったろう?」
「旦那さまいじめっこなんだもの……。気に入ったひとはすぐにいじめる。スピカ知ってる」
「ソキ。大丈夫だよ。ありがとうな。……お茶は飲まないの?」
疑わしげな眼差しをじいいっと向けるスピカの隣で、ソキは真面目な顔をしてこくん、と頷いた。
「ソキ、お茶、さっき飲んだです。今はお話をぬすみぎ……んっとぉ。ロゼアちゃん? なんのおはなし、してるです? ソキにはちーっとも聞こえないですうぅ」
「相談と、連絡と、報告だよ。ソキ。ソキはスピカさんとおはなしするんだろ? 俺のおはなしを聞くんじゃないだろ」
「私のことは気にしなくていいのよ」
ぴょこっと顔を覗かせたまま、きりりとした決意すら感じる声でそう言われてロゼアは苦笑した。そうですそうです、と甘えた声で同意して、ソキはじーっとロゼアを見つめた。
「もしかしたら、お兄さまがぁ、ロゼアちゃん経由でディタさんをいじめるかもしれないですしぃ……!」
「おにいさま? いらっしゃるの?」
「そうなんです。ソキのね、お兄さまは、レロクっていうんですけどね。いまは『お屋敷』の、ごとうしゅさま、をしているんですよ? えへへん、すごーいでしょう」
そうだったの、と目を輝かせたスピカがもそもそ座りなおして香草茶へ手を伸ばしたので、ソキも同じようにすることにした。ディタが淹れてくれた香草茶は、先日飲んだものとはまた違う味わいで、すっきりした花の香りが溶け込んでいる。おいしいですねぇ、とほわっと息を吐き、ソキはもじもじとスピカと向き合った。なあに、と微笑みかけてくれる姿はたおやかで、うつくしい。ソキとは異なる印象を持った『花嫁』だった。あまやかな花の印象は共通しているが、ソキから受けるそれが草花だとするならば、スピカのそれは樹木の花だ。どこか、しっかりとした芯がある。それは『花嫁』としての質の違いであり、傾向の差だった。
ソキはロゼアが整えた『花嫁』だ。ロゼアの好みでつくられている。だから、その違いを羨んだりはしないのだが。きれいなお姉さんなので、ちょっぴり緊張してしまうのである。もじもじ手をいじって、頬を染めて、ソキはあのね、とぽしょぽしょと響かない声で問いかけた。
「あの、あの、ソキね、スピカさんにお会いしたら、聞きたいことがあったです……お尋ねしてもいいです?」
「なあに? どんなこと?」
「あの、ママのお話も聞きたいんですけどね。あの、あの……んと。んん……ん、んと、あのね、ディタさんはスピカさんの旦那さま、なんです……? それで、それで、スピカさんは『花嫁』で、ディタさんが『傍付き』で、だから、あの、ええと……」
緊張して。言葉に迷って。ソキはぎゅっと目を閉じて、それをひといきに言い放った。
「誘惑の仕方を教えてくださいです……!」
「ごめんね分からないの……!」
「え、ええぇえっ……!」
ごふ、とロゼアかディタがむせた咳をしたが、ソキはそちらを振り向かなかった。それどころではないのである。ええ、えええ、とそんなぁ、という衝撃を受けたしょんぼり顔をするソキに、スピカは申し訳なさそうに囁いた。
「誘惑は……しているんだけど、どれもいつも上手く行かなくて……どうしてなのかしら……」
「ソキもですううううソキもいつもけんめいに誘惑してるんですけど、ロゼアちゃんはちーっともなびいてくれないんですううう」
「そうなのね……。私だけではなかったのね……」
気持ちはとてもよく分かるわ、と手をとられ、ソキは無言で何度も頷いた。すん、と落ち込みきって鼻をすすり、ソキはくちびるを尖らせて首を傾げる。
「でも、でも、じゃあ……きもちいのはしていないです……?」
「してるの。してるけど……いつも私がお願いして触ってもらうの……。我慢ができなくなってしまうの……」
「お願い。お願いをするです……ソキはいいことを聞いたです……!」
目をうるませながら気を取り直し、かけ、すぐにソキはぺしょりとソファに突っ伏した。
「……お願い……してたでした……。触って? ねえねえ? ってお願いしてるですのに、ロゼアちゃんたらちっともソキにきもちいいのをしてくれないです……! スピカさんはどうやってお願いしているの……? ソキにぜひとも教えてくれなくっちゃいけないです……」
「たくさん触って、きもちいいのして? って」
「ソキも言ってるんですううううソキだってソキだって毎日けんめいにゆーわくしてお願いしてゆーわくしておねがいしてるですうううう……ううぅ……ソキはもうげんきがなくなっちゃったです。もうだめです……」
落ち込んでまるくなるソキを、戻ってきたロゼアがひょいと抱き上げる。ソキ、そき、と柔らかな声で囁かれ背を撫でられて、ソキはしょんぼりしながら身を寄せた。ロゼアの首筋にくるんと腕を巻きつけ、拗ねきった声でしゃくりあげる。
「ロゼアちゃん……。ソキはたくさん触って欲しいです」
「んー……。触ってるだろ?」
ぎゅう、と強めに抱き寄せられる。触ってるよ、ソキ。触ってるだろ、と耳に声を吹き込むように囁かれ、ソキはこそばゆいような気持ちで、ロゼアに体をくっつける。ぷ、と頬を膨らませて、ソキはロゼアの肩越しに、苦笑いしきっているディタに言いつけた。
「いーっつもこうなんです……。ディタさんはいつスピカさんにきもちいのをしたです……!」
「はじめてでしたら、脱走したその日に」
「……あら? その時は、私は誘惑をしなかったような……?」
あらあら、と首を傾げるスピカに屈みこみ、ディタが苦笑いをしながら、しー、と囁きかけている。このひとたちもしかして余計なことしか言わないのではないのだろうか、という疑惑でロゼアが一瞬遠い目になる。やあぁああどういうことなんですううううぅっ、と半泣きで怒るソキが腕の中でばったばた暴れるのに、ロゼアはゆるく息を吐いて。ソキ、と名を呼び、その背を撫でた。
ロゼアは、ソキにはどうしても聞かせたくない話があるらしい。ないしょということである。秘密ということである。これはもしかして、とんでもないことなのではないだろうか、とせっかく回復した機嫌をまた傾けながら、ソキはソファからぴょこんと顔を出し、再び離れて行ったロゼアとディタを注視した。ロゼアちゃぁん、と機嫌の悪い声で呼ぶとすぐに視線が向けられ、ソキ、と微笑と声が返って来るものの、帰って来る気配はないままである。ぷ、ぷ、ぷ、と頬を膨らませ、ソキはぺたりとソファの背もたれにくっついた。
「ソキはいつでもロゼアちゃんにくっついてたいですのにぃ……。ねえ、ねえ、スピカさん?」
ずりずり滑るように座面に戻り、ソキはなぁに、と穏やかに微笑む『花嫁』に、拗ねきった声で問いかけた。
「スピカさん、ディタさんがお仕事の時には寂しくないです……? ソキね、ロゼアちゃんがいまお話してるのも寂しいですし、授業の時だってつまらなーいですしぃ、すぐにしょんぼりしちゃうです……。しょんぼりしちゃうのを我慢しようと思っても、ソキには上手くできないでした……」
「寂しくない、ことは、ありませんけれど……」
がまん、と。その言葉の意味をてのひらに乗せて見つめるような声で呟き、スピカはちいさく首を傾げてみせた。
「ディタは私の旦那さまだから、ちょっとならお外に貸し出してあげてもいいかな、って」
その、ちょっと、がソキには受け入れ難いのである。ソキも授業を再開した身であるから、集中している最中にはもちろん、寂しさを置き忘れていられるのだけれど。休憩時間の気が緩む時に。ソキ、と名を呼ばれないことが。抱き上げてくれるぬくもりが。視線で捜し求めても、呼んでも、傍らにないことが寂しい。ロゼアはもうとうに受け入れているその日常に、ソキはいつまでも慣れないままでいる。どうしたらできるようになるですか、と気落ちするソキに、スピカは柔らかな声で囁いた。ひだまりで息をする、木々のざわめきのような声。
「信じるといいの」
「……しんじる?」
「そう。絶対に、帰ってきてくれるって。もう離れることはないんだって。いなくなるのは、出かけるだけで、別れるんじゃないんだって……信じられたら、それを、心が理解できたら。寂しくないわ。全然じゃないけど。ただ、すこし……ううん、傍にいたかったのに、っていう気持ちは残るけど」
ソキは胸に手を押し当てて、ゆっくり、一度、深呼吸をした。信じるって、どういうことだろう。信じる。疑っていることは、ない、と思う。ただ、不安があって。その不安が、いつまでもいつまでもソキを苛んでいる。だってロゼアはソキを大事で、好きで、かわいい、と言ってくれるけれど。恋人みたいに。嫁ぐと、そうされる、と教わったようには。ソキには触ってくれないのだ。ソキがけんめいにそれを望んでも。誘惑してさえ、なお。
「……ソキの好きと。ロゼアちゃんの好きは、ちがうのかなぁ……。ソキが……ソキばっかりが、いっぱい好きで、ロゼアちゃんが、そうしたい、って思うのには、まだ好きが足りていないです……?」
「そう思う?」
「うん。……スピカさん、いいなぁ。ディタさんはきっと、スピカさんとおんなじに、いっぱい好きだったに違いないです……。ねえ、ねえ、さしつかえなければね、『お屋敷』でどんな風だったかお聞きしたいです……あ、あ! ママのおはなしも聞かせて? ママはどんな風な『花嫁』だったです?」
そうだったです、ママです。ママのことを聞かねばですっ、とふんすと鼻を鳴らして気合を入れなおすソキに、スピカは肩を震わせて笑った。
「ちいさいミードは、あなたにとてもよく似ていたわ。一途で、まっすぐで、一生懸命。とっても可愛かった」
「それで、それで?」
「それでね。絶対にらヴぇはみぃの! みぃのなんだから! が口癖だったの」
幼い『花嫁』候補たちに世話役や、『傍付き』の候補生たちを引き合わせるのは『お屋敷』上層部の仕事である。各個人の適性や相性を考慮して、ある日から『御付』に命ぜられるのだ。それでも、それは本人の預かり知らぬ所で成されることであり。ある程度育った『花嫁』が、あのひとにもうすこし傍にいて欲しいの、と口に出すのは、決して珍しいことではないのだった。ただし、それは世話役に限ったことであり。『傍付き候補』として他の『花嫁』の傍にある者を、指名して告げられることは、異常である。彼らを目にする機会がある、ということは、己の傍にも同じ『候補』がすでについている、ということだからだ。
ソキは目をぱちくり瞬かせ、その状況について考えてみた。つまりロゼアとメグミカがいるのに、もうひとりロゼアがいて、他の『花嫁』の『候補』としてお世話をしていて、つまり将来的にソキのにはならないのである。ぴっ、と声を上げ、ソキは思わずぷるぷるした。
「と、とんでもないことです……! とりかえさなくっちゃいけないです……!」
「わぁ、ミードとおなじこと言ってる……!」
「きっと『運営』が間違いをしたか、ママにいじわるをして、いじめー! をしたに違いないです……! なんてひどいことだったです……」
しょんぼりしたソキをしみじみと眺め、スピカは関心しきった声で、わぁミードとおなじこと言ってる、と頷いた。ソキはおおまじめにぷっくりと頬を膨らませ、いいですかぁ、と言い聞かせ口調で主張した。
「ロゼアちゃんは、ソキの。ロゼアちゃんはぁ、ソキのなんです。ディタさんは、スピカさんのだったです。だから、ママも、おんなじだったにちがいないです。ママのラーヴェだったですのに、『運営』がとびきりいじわるわるわるのいじめー! をしたです。だから、正当な権利、というやつです!」
「わぁ……すごい……ミードとおんなじことしか言ってない……!」
「ふふふん。ソキねぇ、ママそっくりってよく言われたんですよぉ?」
腰に手をあて、じまんげにふんぞり返って、ソキはふんすと鼻を鳴らした。
「外見もぉ、性格もぉ、『最優』のママそっくりでぇ、ソキもちゃぁんと『最優』って呼ばれたです。すごーいでしょー? さすがはロゼアちゃんです!」
ありとあらゆる機会を決して逃さず、『傍付き』の自慢をするのが砂漠の輝石の一般的な反応だが、ソキのそれは群を抜いている。スピカはほのぼのとした笑みで頷き、不意に、やんわりと目を和ませて問いかけた。
「ふたりは……ふたりとも、魔術師なの?」
「そうです。卒業していないですからね、たまごなんですけどね、魔術師です」
いつもはだから、星降から繋がる『向こう側の世界』で学んでいるのだと説明するソキに、スピカはゆっくり頷き、囁いた。それなら、早めに言ってあげられるといいね。風で擦れる梢のように。耳に触れて心地よく消えて行く声に、言葉に、ソキは心当たりがなくて目を瞬かせる。なにか、あっただろうか。『花嫁』が、そうしなければいけない言葉が。記憶を辿って口を閉ざし、考え込むソキに、スピカはうつくしく微笑した。
「私は『花嫁』じゃなくなる為に、ディタにそれを言ったのだけど。ふたりとも魔術師で、でも『花嫁』と『傍付き』だから……。あんまり苦しくなってしまう前に。言ってあげてね。私が……私たちが確かに、『候補』から選んで、『傍付き』にしたみたいに……。『傍付き』じゃなくて、おとこのひと、になってもらうには、もうひとつ、それをしないと……言わないといけないことがあるの。きっと」
ちゃんとディタにも聞いたことがなくて。たぶん、だけど。でもそれを求めて受け入れてくれたからこそ、連れて逃げてひとつになって。あのひとのものになれた、のだと思う。囁く。幸福に満ちた声で囁くスピカに、ソキは怖々息を吸い込んだ。
「なにを、言ったです……? 連れて、逃げて、って。言った、です?」
「ううん。……うん、それも、なんだけど……近くに来て。耳を貸して」
話が終わったのだろう。ディタたちが歩み寄ってくるのに目を向け、スピカは慌てた様子もなく、ソキをやんわり手招いた。求められるままに身を寄せたソキの耳元に、淡く口付けるようにしてスピカは囁く。口元に手を添えて。『傍付き』たちに言葉を、読みとらせないようにして。
「ディタのにしてね、って」
「……ディタさんの?」
「そう。だから、連れて逃げてって」
誰かの花嫁として嫁ぐのではなく。砂漠の富と引き換えになるのではなく。そうする為に育ててくれた、あなたの。たったひとりになりたい。裏切りではないですか、と即座にソキは口にした。震える声で。染み込んだ教育が反射的に告げさせた言葉だった。スピカは困ったように目を伏せて、頷いた。ソキの問いを肯定した。
「裏切りだと思うわ。でも……でも、ディタは」
私がなにもかもを裏切ったことを。幸福だ、と言って笑ってくれた。許してくれた。喜んでくれた。だから、今私はここにいるの。あなたと会うことができているの。私を見て、とスピカは、ソキの手を強く握って言い聞かせた。
「あなたは幸せになれる。私とおなじように。……間違えちゃだめよ。嫌われるかも知れないって、考えるのは怖い。でも」
嫌われたくないから離れて行くことは、一番の幸せを自分で諦めてしまうこと。ディタとずっと一緒にいたかった。それだけが私の望みだった。消えてしまうような声で囁いて、スピカは狼狽するソキに、間違えないで、と繰り返し囁いた。
「『花嫁』は『傍付き』に幸せになって欲しい。でも、私は……私が」
相手の幸福を願うのではなくて。
「幸せになりたかった。幸せに、して欲しかったの。……間違えちゃだめよ。これだけは、間違えちゃだめ」
あなたがどうしたいのか。もう一回、ちゃんと考えて。心にある望みが、真実なにを示しているのか。ソキが。ようやく息をすることを思い出した時には、もうロゼアがすぐ傍にいて。ソキ、と呼んで抱き上げてくれたので、それに対する答えを、スピカに告げられることはなかった。なぜかロゼアに聞かせてはいけない気がしたし、戻って来たディタとひとこと、ふたこと、話をしたスピカが眠ってしまった為だった。最近は数時間起きているのが精一杯で、あとはずっと眠っているのだという。また近いうちに、と約束と交わして店を出て、ソキはロゼアにぺたりと体をくっつけた。ロゼアは、なにを話していたの、とは尋ねず。ソキもまた、それをロゼアに聞くことはなかった。
たとえば、ロゼアに幸せになって欲しい、という気持ちと、ソキが幸せになりたい、という気持ちがのどちらかしか選べないのだとして。ソキが選ぶのは、ロゼアに幸せになって欲しい、という想いだった。幸せになりたくない訳ではないのだけれど。ロゼアが幸せでいてくれるなら、ソキはそれで十分嬉しいのだし。なにより、ロゼアを幸せにできる女の子、というのは、つまりそういうことだと思うのだが。でもなんだか、違う、と言われてしまった気がして。考えてもよく分からなかったので。夕食を終え、眠る前の時間。ソキは女子湯冷め室でロゼアの迎えを待ちながら、それを先輩に聞いてみることにした。
問われた少女たちは難しそうな顔をして、今日出かけてなにしてきたの、と好奇心と困惑いっぱいに呟いた。
「喧嘩でもした……? 違うよね? というかロゼアくんと喧嘩とかするの?」
「ソキの方がロゼアちゃん好き、俺の方がソキのこと好き、とかいう喧嘩でもしたの……? いやでもロゼアくんその辺は譲ってくれ……る……? くれない……? え? なんの喧嘩したの?」
「けんかじゃないー! ですー! もぉー、先輩はソキのお話をちっともちゃんと聞いてくれないですううう!」
いけないんですよぉ、と叱りつけるソキに、わーい怒られちゃった、と喜ぶ女子が大多数である。そもそも人の話をちゃんと聞かない、という点において、ソキは誰かを怒れる立場ではない。もぉーっ、とソキも本気で怒っている訳ではない声をあげ、湯冷め室のソファにもそもそと座り直す。女子浴場と更衣室の近くに最近新設された、この湯冷め室は、いわば小規模な女子専用談話室である。体を休める椅子やソファがいくつか、机や本棚、ちょっとした筆記用具が置かれており、風呂上がりの火照った体を落ち付かせる目的で作られた。そういう名目でごりおして、ロゼアが女子を巻き込んで設置許可をもぎ取って来たものだ。体調不良が極まっていた時期のソキが、風呂上がりにちょこちょこ談話室まで戻ろうとして行き倒れるのを防止する為の一室である。
ほぼソキの為に作られた部屋であるので、椅子やソファ、絨毯などは『お屋敷』から送られてきたものを流用している。つまり最高級品であるから、最近の少女たちは湯上りに談話室に直行するのではなく、こちらへ立ち寄っていくのが流行になっていた。その為に、普段は交流の乏しい年上の少女、女性たちもいる中で。ソキはちょっぴりひとみしりしている気持ちで、んー、とぐずるように唇を尖らせた。
「あのね。ロゼアちゃんを幸せにするのと、ソキが幸せになるのはね、別だと思うです」
「うん。そうだね……?」
「でしょう? それでね、ソキはね、ロゼアちゃんが幸せになるのがいっとう大事なことだと思うです。ロゼアちゃんが幸せになるのが、ソキはいいんですよ。でもね、なんだかね、怒られた……ような……ちがうって言われたような、気が……気がするです……」
ロゼアちゃんにそう言われたんじゃないですよ。別のひとです。それで、そういう風に言われた訳じゃなくって、ソキが勝手にそう思ってしまってるだけなのかもなんですけど、でもでもソキはそう思ったです。なんだかなっとくができないです、と。むくれるソキに、少女たちの一部がそっと頭を抱えた。気持ちは分からなくもないし、頼ってくれて嬉しいが、この相談は手に余る。一部からちらちらと視線を向けられて苦笑したのは、学園の在学生の中でも年上の者、あるいは結婚している者たちだった。助けて助けてこれどうしよう、と求められて、そうねぇ、と一人が吐息を零す。
「ロゼアくんと話し合うのが一番。というより、話し合う他ないわ。ひとそれぞれだもの」
「どちらが悪い、どちらが良い、という問題でもないから……。あえて決めなくてもいいと思うけど。どうしてそんなこと?」
「今日会ったひとにね、間違えたらだめよ、って言われたです」
ソキの返事としては、まだ分かりやすい方である。入学から一年以上経過しているが故に、少女たちはソキの言葉足らずから読みとる、という能力を鍛えられている。誰がそんなことをソキに言ったのかと首を傾げながらも、少女たちはああでもない、こうでもない、と眉を寄せて言葉を交わし合った。ざわめきは一向に纏まりを得ず、ソキはだんだんしょんぼりした気持ちになってくる。そんなに難しいことだったのだろうか。そんなに難しくて、複雑なことなんだろうか。気落ちするソキに、つまり、と総括したのは、腰に手をあてて牛乳を飲みほしていたルルクだった。
「ロゼアくんが幸せになる、と。ソキちゃんが幸せになる、が。実はホントはいまひとつ同じじゃないってトコが問題なんじゃないの?」
とん、と空き瓶を机に置いて。ルルクは集中する視線に、得意げな表情でそれじゃあっ、と一気にテンションが上がった声で言い放つ。
「説明するねっ!」
「手短にー、お願いするですー」
「ロゼアくんが幸せになるとソキちゃんが幸せじゃない、ソキちゃんが幸せになるとよもやまさかロゼアくんが幸せじゃないなんてことはまあなんていうか絶対にないというかありえないと思うけど間男とかにソキちゃんがかっさらわれない限りというかその場合別にソキちゃん幸せじゃないと思うからこれはそもそも成立しないんだけど、まあそんな感じだと仮定したとしてどっちを優先するとかどっちがどうこうとかそうじゃなくて片方という概念を捨てて両立させてなんやかんやすればいいのではないのかと!」
内容をほぼ聞き流しながら、ソキは息継ぎが二回しかなかったことに、しみじみと感心した。手短にしてとお願いしたのに、短くなかったのがいけないのである。短い時間で一気に言えば手短枠に入れると思う方が間違っている。ふあふあ、とちょっと飽きたのと眠いのであくびをするソキに、ルルクは結論だけ持ってくるとっ、と言い放った。
「ロゼアくんを幸せにする作業・過程・結果で、ソキちゃんも幸せになろう! そういうことです!」
「……んん?」
「いやこれ別に難しいことじゃないからね……! よく分からないですっていう顔しないで欲しかったな……っ?」
あと牛乳飲む、と尋ねられて、ソキはふるふると首を横に振った。
「いらないです……。それは、だから、やっぱり、ソキがロゼアちゃんをしあわせにするおんなのこになれればいい、ってことなんです?」
「えっいまとなにが違うの」
「ソキの誘惑でロゼアちゃんがめろめろになって! ソキにきもちいいことをしてくれたら、きっとそういうことなんですううう!」
つまりつまり、ソキはもっと魅力的になって、ロゼアちゃんの好き好きでいっぱいになって、それでそれでねっ、と意気込んで説明するソキに、ルルクはふと真顔になって。
「いやでもロゼアくんこないだ性欲ないってことで決まったから難しいんじゃ……?」
「やあぁあああどういうことなんですうううっ……! あっロゼアちゃんろぜあちゃたいへんですたいへんたいへむぐっ」
「しー! ソキちゃん、しー!」
迎えに現れたロゼアに必死に訴えようとするソキの口を、近くにいた少女が数人がかりで塞ぎきった。ロゼアは基本的に誰にでも優しいし、少女たちにも穏やかに丁寧に接してくれる好青年であるのだが、しかし在学生はこの一年で誰もが痛感したのである。ただし、ソキが絡んだ時を除く、が絶対的に付与することを。いまも、部屋の出入り口で穏やかに微笑んでいるロゼアは、なにをしてらっしゃいますか、と口調だけは丁寧であるし、女子専用室であるから踏みこんでこようとはしていなかったが、目がやんわりと訴えかけてきている。いいからソキからその手を離せよ、と。無実ですっ、と全力主張するように両手を上にあげた少女たちの間をすりぬけ、ソキはええん、と半泣きの声をあげながら、とてちてロゼアに歩み寄った。
「ロゼアちゃぁん……! ソキはロゼアちゃんがだいすきなんですぅ……!」
「うん? うん。俺もだよ、ソキ」
足元まで来たソキをひょいっと抱き上げ、ぽん、ぽん、と背を撫でるロゼアの気配が柔らかく解ける。不機嫌なロゼアにはソキを与えて距離を取れ、というのも、ここ一年で生徒たちが学んだ鉄則だった。それじゃあおやすみなさい、と口々に言って湯冷め室から走り出て行く先輩たちに、おやすみなさいと礼儀正しく返して。ロゼアは肩にぺとんと頬をつけ、ねむたげにうとうとするソキに、ふ、と満たされた微笑を浮かべた。
「眠ろうか、ソキ」
「ろぜあちゃんきもちのないの……?」
「ん? ……え、なに? なんのこと、ソキ」
問い返したロゼアに、ソキは半分ねむりながら、ふにゃうにゃと言葉にならない声で訴える。ううぅ、とねむたげに頬がすりつけられるのに笑って、ロゼアはソキを腕に抱いたまま、ゆっくりと寝室へ歩き出した。