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 ソキの機嫌があまりにも悪いので、妖精はロゼアの膝から降ろすことを諦めたようだった。なんだってほんの数分傍から離れただけでこんなにも機嫌を損ねられるのかと呆れられて、ソキはソファに座ったロゼアの膝上でもぞもぞしながら、ほんのり暖かい香草茶を、こくりとひとくち喉に通した。
「だってぇ、ソキ、お父様にいじわるわるわるわーるわる! いっぱいされたです!」
「はぁ? アンタ、リトリアと話してたんじゃなかった訳?」
「リトリアちゃんがぁ、お父様にもっちりうさぎちゃんを買ってもらった……ですぅ……?」
 自分で言っておいて、いかにもおかしい話だ、と思ったのだろう。むむっと眉を寄せて首を傾げるソキに、ロゼアは微笑むだけで言葉を告げなかった。コイツなんか分かってて言ってないことがあるな、と直感して妖精はロゼアを睨むが、説明や補足が与えられることはなかった。ソキには言わない方がいい、と判断したということなのだろう。呆れながらソファに座り、妖精はふくふくとしたソキの頬を、指先で遠慮なく押しつぶした。
 ふぎゃあぁあんっ、と尾を踏まれた猫そっくりの声で不機嫌極まりない声をあげるソキに、うりうりと指先を押し付けながら妖精は問う。
「いじわるって、例えばなにされたのよ」
「やぅー! うー、ううぅっ……! ソキが寝てる間に『旅行』の馬車に乗せたりですとか! 普通は一年に二回くらい『旅行』に行けば十分なくらいなのに、ソキは一ヶ月とか二ヶ月に一回くらい行かされたりですとか! お金にとおぉってもがめつかったんですううぅ! それに、それに、ソキはそーっと教えてもらったことがあるですけど、お金を持ってれば嫁ぎ先の候補にどんどん追加して、ちゃんとした調査をしないで『旅行』に行かせたりとか嫁がせたりしたですよ。だからお兄ちゃんみたいに監禁されたり、事故が起こったり、したですよ。ソキちゃんと知ってるもん!」
 なんてひどいことですっ、と珍しいくらいに怒りながら訴えるソキの言葉を、ロゼアは訂正しなかったし遮りもしなかった。言葉が途切れるとお茶を飲ませたり、用意していた飴を食ませる程度である。ふぅん、と面白くない気持ちで頷いて、妖精は記憶を巡らせる。ソキを迎えに行った白雪の国のとある領主は、若君とその側近はともかく、確かに『砂漠の花嫁』が嫁ぐのに選定を重ねられた結果、とは言い難いように思えた。
 ウィッシュの事故も、案内妖精の中では有名な話である。案内妖精が下した呪いと虐殺許可の判断は、魔術師とひとには許されず。それでいて、妖精たちには強い支持を得た一件だったからだ。あの判断は正しい、と妖精は今でも思っている。例え、未だ消えぬ呪いが彼の地に染みこんでいようとも。
「アンタ、その旅行? に行くたび、あんな相手ばっかりだったの? 部屋に監禁されたりやらしいことされたり」
 妖精も、ソキの口から直に聞いた訳ではないのだが。昨年、白雪の女王がソキに事情を聞く前に、案内妖精へ情報は渡されていたのだった。ロゼアの笑みがやんわり深くなったことに気がつきもせず、ソキは膝上でじたばた暴れ、そうなんですうううっ、と妖精の懸念を全力で肯定した。
「ソキはたぁあいへんだったですぅ! でも、でも、御当主さまったらちっとも話を聞いてくれなかったんですよ!」
「……へー」
 ところでアンタそれはロゼアに言ってたことなの、と尋ねかけ、妖精は視線を反らして息を吐く。ソキが言うとは思えなかったし、ロゼアが知らないとも思えなかった。
「もうやんやんってソキは言ったです。けんめいに訴えたです。それなのに、それなのに御当主さまったら、弱ったくらいで戻って来られたのだからまだ耐えられるだろうって言って! ソキがお熱を出すまで『旅行』禁止にはしなかったです! ソキの、ソキのお姉さまは、あんまり『旅行』が多くて、それで、それで枯れてしまったです……」
 戻ってきて、熱を出して伏せって。『傍付き』の腕の中で、もうどこにも行きたくない、と泣いて。そのまま、眠るように絶えてしまったのだという。その話を聞いた前当主は、笑ったのだとソキは聞いた。美しく、満ち足りた微笑で。それはよかった、と言ったのだと。それが『お屋敷』の前当主に盲従する『運営』と、『傍付き』他世話役たちとの間の、決定的な溝となった。妖精は無言で額に手を当て、深く息を吐き出した。
 ソキが生き延びたのは、予知魔術師として無自覚に巡らせていた、恒常魔術があったからだ。また、太陽の黒魔術師であるロゼアが傍にいたことも、大きな助けになっていたに違いない。太陽属性の性質のひとつに、育成を助ける、というものがある。通常は植物などに対しての育成速度、開花の調整などに利用されるものだが、意図して使えば白魔術のように回復の支えや、強化にも転用できるだろう。
 アンタほんとに魔術師になれてよかったわね、と呻いた妖精に、ソキはでしょおおお、と腰に手をあてて自慢した。機嫌は直ってきたらしい。ついでにおなかも空いたらしく、ソキはちらちらと飲食区画に目をやった。調理部の力作ぞろいである。おいしそうな匂いもする。ふんふん鼻歌を歌いつつ膝から滑り降りようとして、できなかったので、ソキはロゼアの腕を不思議そうにつっついた。
「ロゼアちゃん? ソキはご飯を食べに行きたいです」
「うん。……うん、そうだな。行こうか」
 なにがいいの、と問いながら立ち上がられて、ソキはロゼアの首にくるんと腕を回してくっついた。目をぱちくりさせていると、うんざりした顔で立ち上がった妖精が、なんとも言えない顔で首を振ってくる。
「いいからちょっと抱かせといてやりなさい……。コイツ、機嫌が悪いのよ……」
「ロゼアちゃん? 不機嫌さんなの? どうしたの? なでなでする?」
 ふきげんふきげんろぜあちゃーん、どうしたのー、どうしたんですぅー、とほわほわ歌いながらもにっとさらにくっつかれて、ロゼアはゆるく息を吐き出した。腕の中の重みに改めて安堵しながら、なんでもないよ、とソキの耳元で囁く。
「だから、ソキ。今度『旅行』の話、教えてくれるな? ……もう『お屋敷』の『運営』にだめって言われないから、俺に教えてくれてもいいだろ」
「ん? んー……んー……。んんー……?」
「いいの? みたいな目をアタシに向けるな!」
 正直な話として、ロゼアの不機嫌なんぞに巻き込まれたくはないのである。別にいいんじゃないの聞かれたことくらい教えてやれば、と告げてやると、ソキはなにが不満なのだかくちびるを尖らせつつ、納得していない様子で頷いた。とりあえず頷くのはソキの悪い癖である。分かっていて利用しつつ放置している張本人がロゼアなので、いまさら妖精がなにを言っても改善は期待できないだろう。
 言質を取って機嫌が上向いたことに気がつかず、ソキはロゼアをいっしょうけんめいなでなでした。なでなでして、ぎゅっとして、なでなでして、ぎゅっとしている途中でロゼアの不機嫌を慰める目的を見失って、頬をくっつけてもにもにして、しあわせになったソキは、流れてくる音楽を聴きとめ、踊る者たちに目を向けた。
「あ! リトリアちゃんとストル先生が踊ってるです……!」
「うん。……リトリアさん、上手だな」
「綺麗です……! あ……あの、あのね、ロゼアちゃん。ロゼアちゃんは、今年は踊らないの?」
 一曲の披露は新入生だけの義務であるから、ロゼアもソキも、今年は練習もしていない。純粋に時間がなかったこともあるし、そもそも踊る気がなかった為だ。それでも、目にしてしまえば、ソキはそわそわと落ち着かない気持ちになる。もしかして、ソキを踊りに誘ったりする気持ちになってくれたり、しないんだろうか。期待をこめてじーっとロゼアを見つめれば、穏やかな笑みが返される。
「踊らないよ。シディも忙しそうだし」
「僕のことは気にしないでいいんですよ、ロゼア……」
 あと忙しいというよりは胃痛で体調が思わしくないだけです、とやや青褪めた顔でふらりと近寄ってくるシディに、妖精は無慈悲な眼差しで言い放つ。
「座って休んでなさいよ。アタシがなにするって言うの?」
 だいたい、不本意ながらロゼアの件について、妖精はソキに協力してやると決めたのである。隙をついて呪うような真似は、気が変わらない限り、たぶん、しない。シディは胃の痛みを堪える深呼吸を繰り返し、先日、となんとか言葉を紡ぎ上げていく。
「場合によっては砂漠の陛下を呪う花占い、とか、していたでしょう……!」
「安心なさい。やるとしても今日じゃないから」
 ああ、それでなんか警戒してたの、と妖精が視線を流した先には、楽音の王の姿があった。事前の予定によると順番にひとりづつ訪れるということだったので、気が気ではなかったのだろう。今日じゃなくても明日以降でも思い留まってくださいというか妖精に王を呪うとかできると思っているんですか無理ですよ、と小言を言ってくるシディに、やってみないとわからないでしょう、と告げて。妖精はしょんぼりするソキを慰めるため、ロゼアに向かって足を踏み出した。



 一曲が終わる。自然に起こった拍手に背を押されて、リトリアはストルと手を繋いだまま、ツフィアたちの下へ歩み寄った。手を離すのが嫌だった。どうしても繋いで、触れていたかった。満ち足りた幸福が、胸の中で落ち着いていくのを感じる。泣きそうなのは、これからのことを覚悟しているからだ、とリトリアは思った。踊りの輪と光、熱とざわめきの中から抜け出して、リトリアは微笑むツフィアと、レディの前で足を止める。
「ツフィア。……はなしが、あるの」
 おかえり、という言葉を受け止められる気がしなくて、遮るようにリトリアは言った。繋いだ手をようやく離して、ストルを振り返る。
「ストルさんも。話したいことが、あるの。……時間をください」
「今、これからか?」
「そう、これから。……大丈夫です。陛下に許可は頂いてあるの。だから、もし……もし、嫌でなければ」
 あらかじめ伝える勇気も、リトリアにはなかった。不意打ちで願うことしか、できなかった。ストルは苦笑して、嫌だと思うことはなにもない、と囁き、離れたリトリアの手を指先で絡めとる。
「聞くよ。だから……離れないでいてくれないか。レディ、近くに座って話を聞いていいんだろう?」
「細かい言質取ろうとするのやめてくれない? その、近くの範囲に膝の上は含まれませんってわざわざ言われないと分からない? そして残念ながら、会話する条件として一定距離を! 一定距離を保つように! 言われてるのよね!」
 一定距離を明確に示しておくと三メートル以上ですっ、と告げられて、ストルは目を細め息を吐き出した。誰だそこまで決めたのはと不機嫌に問いかけられ、レディはソファから立ち上がり、堂々とした仕草で胸に手を押し当てる。
「は? 私に決まってるでしょう? なにか文句でも?」
「あなたたちはどうして一々喧嘩腰になるのかしら……。リトリア、こちらへいらっしゃい。どこで話をするかは決めてあるのね?」
 うん、と頷いて、リトリアはツフィアの手招きに歩み寄ろうとしたのだが。くい、と繋がれたままの手が引かれて、場に留められる。ストルを見上げても、微笑まれるばかりで離されるそぶりがない。ストル、と咎める声をツフィアがあげるのと、リトリアの動きは同時だった。
「もう、ストルさん」
 繋いだ手を包み込んで、口元まで引き寄せて。頬を擦り付けるように触れさせて。まっすぐに目を見て、リトリアはあまく、それをねだった。
「レディさんの言うことを聞いて? 喧嘩しちゃだめよ。……手を繋ぐのは、また後でね」
「……ああ」
 深い、溜息のような声で答えて。手を開放したストルに、リトリアはありがとう、と照れくさそうにはにかんだ。とことことツフィアの元へ行くのを見送り、ストルは額に指先をあてて呻く。
「……レディ。どういうことだ」
「事案の後遺症というか進化系ですけどなにかっ! 終わったら詳しく聞けばいいじゃないっ? 話す気力が残っていればのことだけどね! 今日という今日こそべこべこにへこんで声もなく泣けばいい」
 完全に本気の呪詛じみた声で言い放たれ、ストルは不愉快に眉を寄せ、本当にお前は俺が嫌いだな、と言った。レディはそもそも、入学した時からストルに対してはこんな態度である。隠すことなくまっすぐな意思で頷き、最近ますます嫌いになってるもの、と息を吐く。物の考え方も、立ち居振る舞いも、告げる言葉のひとつひとつも。ストルは似すぎている。レディがその炎の中に失わせてしまった、得られた筈の幸福に。
 八つ当たりだ、とレディは分かっている。ストルも、十分にそれを理解している。だからこそ甘んじて、半ば八つ当たりを受け入れる態度も、気に入らない。だったらなんで、とどうしようもない言葉が口をついて出かけるのを、何度も何度も堪えている。なんであの時、わたしを、あのひとを。助けに来てくれなかったの。親友だと言っていたから、レディはストルの名を知っていたし、休暇中に遊びに来たから顔を見たこともある。言葉を交わしたことも。
 叶わないもしもの可能性は、今もレディの胸をかきむしる。
「……それでその後、幸せにでもなんでもなりなさいよ」
「レディ、お前は」
 続く言葉を聞く気はない。レディはストルから離れて、リトリアたちの後を追った。



 寮の二階の一室。長く使われていない部屋は、魔術的に閉鎖されていた。白雪の錬金術師が、朝からせっせと準備をした成果である。扉を閉じた瞬間に発動した術式に、ツフィアはすぐ気がついたのだろう。渋いものを口に含んでしまった顔つきで、エノーラ、と呟き、溜息がつかれる。ふたりは同年入学なのだという。なんとなくもやもやしたものを感じながら、リトリアは用意されていた椅子に腰かけた。
 その背後にレディが立ち、すこしばかり距離を置いて並べられた椅子に、ツフィアとストルが腰を下ろす。
「……一定距離で三メートルじゃなかったのか」
「ああ言えばこういう男は嫌われると思うからリトリアちゃんには再考を熱く強く激しく求めて行きたいんだけど、敗因はそんなに広い部屋がうまいこと開いてなかったってことよね……。心配しないでも、エノーラがみっ……ちり! 対策してくれたから、魔術的な距離感はそれくらい開いているものと思ってくれていいわよ」
 寮の廊下は静まり返っていて、部屋の中の会話はやけに響いてリトリアの耳に届く。言葉がきんきんと跳ね返って、どこか痛いようで、落ち付かない気持ちになる。聞こえているのに、分かっているのに、意味が意識を上滑りしていく。緊張で俯いてしまったリトリアに、ストルとレディが互いに責任を投げつけあう言葉が響き、ツフィアの息が吐き出されるのを聞いても、うまく反応できないままだった。視線は床に向いている。そこへ漂う膨大な魔力を見つめている。
 エノーラが一室に施した術式は多岐に及ぶ。魔術的な閉鎖は、万一のリトリアの魔力暴走を危惧するもの。ふたりとの距離を定められたのは、同じく、万一の時にリトリアが傷つけてしまわない為だった。制御を失った魔力は、魔術師に対する純粋な暴力に変貌する。ソキの、帰りたいという意思ひとつが世界に風穴をあけたように。同じだけの力が、魔力を持つ者に向けられる。レディが傍らに控えるのは、リトリアのそれが荒れた時の制御であり、予兆を見出す監視であり、そして執行の為だった。火に触れた花のように、一瞬で。終わらせる為だった。
 対策はしてあげる。私のできること、全部。なにもかも全部使って、してあげる。だから安心して行っておいで。大丈夫、と笑って。白雪から楽音へ戻る日に、エノーラはリトリアに笑ってくれた。なにがあっても、あなたが誰も傷つけないように。守るだけの手段と力を、ちゃんと用意しておいてあげるからね。囁きの優しさを、まだ覚えている。リトリアは緊張で強張る手を握って、息を吸い込みながら顔をあげた。
 大事にしてもらった記憶を、大切だと言葉にされた意思を、想いを。気がつかないふりをしないで、目を逸らさないで、ちゃんと受け止める。
「レディさん。……ストルさん、ツフィア」
 うん、とレディは頷いて囁く。大丈夫、ここにいるからね。ツフィアは目を合わせて微笑んだ。あなたの話を聞かせて、と眼差しが語りかけてくる。ああ、と言ってストルはリトリアの名を紡いだ。どんな言葉でも、想いでも。聞かせて欲しい、と求められる。一瞬、心に忍び込む寒々しく否定的な気持ちを、記憶の中のあまやかな声が払って行く。
 勘違いですよ、大丈夫。愛されていると分かったでしょう。はい、と頷いて。リトリアは息を吸い込んだ。
「お時間を頂いたのは、他でもありません。ふたりに、確かめたいことがあったからです……」
 ねえ、だって嫌いだと言ったでしょう。そのことを思い返し口に出そうとした瞬間、眩暈を感じてリトリアは唇に力をこめた。耳元で鈴が揺らされたかのように。頭の奥まで響く、音なき旋律が意識そのものを、魔力を揺らす。目を開けていられずに瞼に力をこめて呻けば、ストルとツフィアの視線と、レディが慌てて屈みこんでくれたのが分かった。
「リトリアちゃん?」
 なにを、どう問えばいいのか分からず。ただ名前を呼んだ。そういう響きで言葉を求められて、リトリアは意識が明滅するのを感じながら、やや強引に瞼を持ち上げた。聞いたらいけないよ、確かめたらいけないよ、と誰かの声が囁いている。記憶の中、耳元で。目を隠し耳を塞いで、己の意思だけを染み込ませようとしている。
「……嫌い、って。言ったの。ストルさんと、ツフィアが、私にそう言ったの」
「リトリア、それは」
「ストル黙って。聞きましょう。……リトリア、話せる? ゆっくりでいいわ」
 落ち着いて、大丈夫よ、とツフィアは穏やかな声で囁いた。反射的に否定しかけたストルは、ツフィアとリトリアを訝しく見比べながらも、頷いて椅子に座りなおす。レディは無言でリトリアの前に移動し、しゃがみこんで両手を握ってくれた。とん、とん、と指先で手の甲を叩かれる。そこから流し込まれる火の魔法使いの魔力が、リトリアのそれを強制的に押しつぶし、無理にひととき、落ち着かせた。水面から顔を出すように。すこしだけ楽に、息を吸い込む。
「わたしにはその記憶があるのに……絶対、なのに。ストルさんは言ってないって、いうの」
「……俺が、君に。そんな言葉をかけたことはないよ」
「ツフィアは? ……ツフィア、言ったでしょう? わたしに、うんざりする、って! 顔も見たくないって!」
 会いたくないって。世話をするのにうんざりしたって。指名するなって。ふたりが。ふたりとも。殺し手にも、守り手にも。選ぶなって。黙っていろって。嫌いだって。私のこと。私がもう嫌だって。会いたくないって。いい子にしていて、言うことをきけって。だから、だから私はその通りにしたのに。ずっとずっとその通りにしてたのに。気持ちを言葉の欠片にして。押し出して告げて話していく。息継ぎもおぼつかないくらいに。
 震える指先の爪が食い込んでも、レディはなにも言わず、強く手を握っていてくれた。
「大人になった、から、いけなかったんでしょう……? こどものままで、いれば、いい子でいれば……前みたいにふたりは。だから」
「……リトリアちゃん。成長を……身長と体重、自分で止めてたの、それで? バレないように認識阻害かけてたのも?」
 白雪に預かられる前に、白魔法使いにしこたま怒られた一件である。予知魔術師の殺し手として、レディにも情報が渡されていたのだろう。ただ頷けば、ストルからは呻くような、ツフィアからは半ば納得したような吐息が零れていく。レディは微笑して、でももう止めにしたんだよね、と言った。リトリアは、それにもまた、頷く。
「リトリア」
 ツフィアに名を呼ばれて。リトリアは怒られることを覚悟したこどもの表情で、顔をあげた。ごめんなさい、と言葉にされずとも物語る表情に、仕方がないのだから、とばかり苦笑される。
「私も、あなたにそんなことを言った覚えはないわ。言っていない。絶対に。……大好きよ、リトリア。馬鹿なことをして」
「でも、覚えがあるの。……ツフィアと、ストルさんが、嘘をついてるって思ってる訳じゃないの。覚えがあるの。覚えてるの。じゃあ……じゃあ、やっぱり」
 嘘をついているのは。
「私がおかしいの……?」
 泣きそうに魔力が揺れる。無尽に注がれ続けるレディの魔力を持ってしても、水面が揺れて零れ落ちかける。強く握った手を離すまいとするレディに、ツフィアの声が触れるように響く。
「リトリア。分かったらでいいわ。教えて頂戴」
 あなたに、わたしが。それを言った、というのはいつのことなのか。予知魔術師に対する、言葉魔術師からの。半ば抗えぬやさしい求めに、魔力が荒れるよりはやく本能が反応する。息を吸い込んで。リトリアはそれをようやく、告げた。
「二人が卒業する時……卒業する、前……? 私が十二の、三月の末の……」
「……リトリア」
 訝しく。言葉を差し入れたのはストルだった。ツフィアは吐き気を堪える顔つきで口に手を押し当て、沈黙している。視線だけは涙をこぼすリトリアから離さずに。ストルの言葉を遮ることもなく。静まり返った部屋に。ストルの、はきとした言葉が響いた。
「俺が卒業したのは、十二月の頭だ。三月には、もう『学園』にいなかったろう……?」
「私もよ。十二月の冬至の日から、あなたとも……ストルとも、会っていないわ」
 幼い頃から『学園』に迎えられていたリトリアは、卒業の為にあとは年齢を重ねればいいだけだった。どこへ迎えられるかは決まっておらず。殺し手と守り手をその年の夏至の前に聞いて、それぞれを確定し落ち着かせてから決めよう、というのが五王の意思だったからだ。うそ、と反射的にこぼしたリトリアに、ツフィアは炎のような目で。
「あなたにそれを言ったのは……そう思い込ませたのは」
 半ば、確信しながら。ツフィアはそれを問いただした。
「誰?」
「……手紙」
 ぽつ、とリトリアは言葉を零した。涙でてのひらが濡れる。椅子に座ったまま体を丸めて、リトリアはレディの魔力の助けを借りながら、取り戻したそれを告げていく。
「くれた、手紙……ストルさんと、ツフィアの。燃やされちゃった……」
「誰に?」
 ぽつ、と雨垂れのように告げられた男の名は、今は亡き黒魔術師の青年のものだった。在学中の事故で、命を落としたのだとされていた。ツフィアが何事かを告げるよりはやく、リトリアは、でも、と重ねて告げる。
「シークさんだったの……。手紙を燃やしたのも、二人が会いに来ているよって私に言って、それで……」
 幻術。精神操作。言葉による記憶、認識の上書きすら時として可能とする魔術。それを操る者こそ、言葉魔術師と呼ばれる適性の持ち主。
「シークさんが。ほら、あれが君のストルとツフィアだよ、って」
 指差され告げられた瞬間から、それはストルとツフィアになった。そうとしか見えず、その声はいとしく耳に届けられた。体をかたくして感情と魔力を堪えているリトリアを見つめ、低く、ストルが呟く。
「……分かるか、ツフィア。リトリアがなにをされたのか」
「幻覚の重ね掛け。精神に負荷をかけることによる暗示と、精神操作。認識の上書き。恐らく、綻びが出るたびに暗示かなにか繰り返されていた筈よ……。私が? リトリアに? なんですって?」
 とん、と靴が軽やかに床を踏む。椅子から立ち上がって、ツフィアは無造作に定められた距離を詰め寄った。後で罰なら存分に受けると言い放ち、ツフィアはレディの傍らに立ち、顔をあげたリトリアの頬を両手で包み込んだ。視線を重ねて、微笑む。
「聞きなさい、リトリア」
「……うん。うん、なに?」
 喜びを歌う。祝福を歌う。触れられて嬉しい、近くにいてくれて、また言葉を交わすことができて。それだけで、ほんとうに嬉しい、と笑う藤色の花に。ツフィアはゆっくり、力強く言い放った。
「愛してるわ。ずっとよ。……あなたを、嫌になったことなんて、一度もない」
「う……え、えっ。えっ」
 ぶわっ、と涙を浮かべて真っ赤になり、狼狽するリトリアの手を取って、ツフィアは囁く。
「あなたの傍にいたかった」
「つ、つふぃあ、えっ、あの、あ」
「あなたを守りたい。ずっとそう思っていたわ」
 繋がれた手を、殆ど振り払うようにして解いて。リトリアは両手を、ツフィアの口元に押し当てた。涙目でぷるぷる震える、その顔は耳元まで赤い。不愉快げに眉を寄せ、未だ言い終わってなどいないと伝えてくるツフィアに、リトリアは反射的に頷いた。何度も。頷くしかなかった。
「わ、か……わかりました……!」
「そう。分かったの。……なにを?」
「な、に……え、え……え?」
 混乱しきった顔で首を傾げるリトリアに、ツフィアは仕方がない、とばかり息を吐き出した。
「なにが分かったのか言って御覧なさい」
「ねえツフィア。ここに私がいるって覚えてる? あとそろそろ許してあげないともう泣くと思うわ」
「レディ。リトリアは、分かっていなくても分かりました、を言う癖があるのよ。確認しないといけないでしょう」
 教師然としたツフィアの言葉は正しい。正しいのだが。レディは臓腑の底から息を吐き出し、よろけながら立ち上がった。魔力暴走の予兆はもうない。喜ばしいことなのだが。全く喜ぶ気持ちになれず、レディは可哀想なくらいぷるぷる震えるリトリアを、同情的な目で見つめた。
「リトリアちゃん。頑張って。頑張るのよ……?」
「う、うぅ、うううぅ……あの……あの、あの、あの……ツフィア……私のこと好き……?」
 もじもじもじもじ手を擦り合わせながら、そーっとそーっと問いかけたリトリアに、ツフィアは大輪の薔薇のように笑った。
「聞くということは、分かっていないのね?」
「えっ、あ! ち、ちがうの、そうじゃないの!」
「そうじゃないの?」
 穏やかに微笑みながら、ツフィアはリトリアの前に膝を折って座り込んだ。あれじゃ立ち上がれないねリトリアちゃん、逃がす気がないってことだよね私には分かる、と死んだ目をして、レディがそろそろと二人から距離を取る。なにせ室内にはストルもいるのだ。つまりまだストルの順番が残っているということである。それなのにレディはお目付けの役があるから室内からは逃亡できない。どれだけ距離を開けても、目の届く範囲にはいなければいけないのである。
 しにたい。せめて意識を失いたい。うん、そうなのね、と言葉を促すツフィアと、捕まったことに気がつかないでオロオロするリトリアを、完全に義務感のみで視界にいれる。リトリアは、きゅぅ、と目を閉じて、勢いをつけて口を開いた。
「そうじゃなくて、あの、あのねツフィア。あのっ、私もしかしてツフィアに、あ、あのっ、ストルさんにもなんだけど、魔術、予知魔術で魅了かけてしまってるのかなって思っててそれででも分からなくてあの確かめたくてあの」
「あぁー……今それ言っちゃうんだー……あぁー……」
 頭を抱えて座り込んだレディは、ふ、と微笑したストルが立ち上がったのも確認していた。あとで処罰は受けるさそれでいいんだろう、と言葉を向けられて、レディは力なく頷いた。もうそれでいいんじゃないの好きにしなさいよ、としか言いようがない。リトリア、と甘い声でストルが少女を呼んだ。深呼吸を、して。レディは満面の笑みで、全力で、己の耳を手で塞いだ。

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