もう分かったから言わないでごめんなさい、とリトリアが許容量を超えて泣き出した所で、ストルとツフィアは切々と積み上げる愛の告白を一旦は中断した。中断である。慰めて落ち着つかせてから内容を復唱させ、まだいまひとつ伝わっていないな、という結論が下されると、あっけなく再開した。うううぅっ、と涙目でしゃくりあげながら、顔を真っ赤にして震えるリトリアの手は、両方ともしっかりと握られている。
ごめんね助けてあげられなくて本当にごめんね、と全力で耳を塞いで意識を明後日へ流していたレディは、なんとなく会話が途切れた気配に、胃痛の底からえずくような息を吸い込み、吐き出した。そーっと耳から手を外して、そーっと視線と意識をリトリアへ戻す。レディは干物にされた魚のような目で、力なく首を左右に振った。
「事後かな……?」
「レディ? あなたなにを言ってるの」
「……泣かせ……うん……。泣かせるのは、どうかと……ほんとどうかと……思うわよ私はね……」
リトリアはようやく離された手を胸元まで引き寄せ、幼い仕草でしゃくりあげながら忙しなく瞬きをしている。熱に溶けた瞳はぼんやりと定まらず、薄く開かれたくちびるでようやっと息を繰り返していた。訝しく眉を寄せて立ち上がるツフィアとは対照的に、跪いたままでいるストルは、やわらかく微笑して少女のことを見つめていた。伸ばされた指先が、頬を伝い、今も零れ落ちようとする涙を丁寧に拭っていく。
微かに震えて、リトリアはきゅぅと目を閉じた。ん、んっ、と整わない息にあまく声を零しながら、離れていかない指の熱に、恐々まぶたが持ち上げられていく。視線がすぐに重なって、リトリア、と笑いながら問う声に言葉を促された。息を、吸い込んで。こくりと喉を鳴らして唾液を飲み込み、リトリアは触れる指に懐くよう、ことりと首を傾げながら囁いた。
「ストルさん……」
「うん?」
「……ストルさん。私、が……好き……」
あどけない確認に、そうだ、と言葉が重ねられる。息が詰まるほど嬉しくて、リトリアはストルに腕を伸ばした。跪く男を抱き寄せて、体をくっつけて首筋に顔を埋める。
「うれしい……。好き。ストルさん。ストルさん……大好き……」
言葉もなく。強く、腕の中に抱きしめられる。うっとり身を任せてくっついていると、振り返ったツフィアが思い切り眉を寄せた。
「リトリア。こっちへいらっしゃい」
「……もうちょっとだけ。もうちょっとだけ、くっつきたいの。……だめ?」
「……分かったわ。もうちょっとね。聞いてるわねストル」
聞こえているさ、とやや機嫌を損ねた呟きが、リトリアの耳に触れて響いていく。くすぐったくて。肩を揺らしてくすくす笑えば、ストルの手がゆっくりと髪を撫でていく。気持ちよさに吐息と共に力を抜けば、いいこだな、と耳元でストルが笑った。
「リトリアの希望は最大限叶えられるべきだと思わないか、ツフィア」
「思うわよその通りよでも今は離しなさい、ストル。リトリア? もうすこし経ったでしょう。こっちへいらっしゃい」
「はぁい。……あの、ストルさん。また今度、あの、ぎゅぅっとしてください……」
恥ずかしさを堪えて囁けば、ストルはなにかを堪えるような間を置いて、分かった、と言って腕を離してくれた。ととと、と離れて、リトリアは次にツフィアにぎゅぅっと抱きついた。なに、と笑う声に胸元に顔を埋めてくっつきながら、リトリアはとろける瞳であのね、と言った。
「ツフィア、ツフィア。大好きよ。あの、あのね……もう一回だけ、好きって言って?」
「好きよ、リトリア」
「きゃぁ……! つふぃあ……! 好き。ツフィア大好き……!」
ぎゅうぅ、と抱きついてうりうり顔を擦り付けてくるのに笑って、ツフィアはリトリアの体に腕を回した。ぎゅ、と抱き返すと腕の中でリトリアがしゃくりあげ、好き、と零す。
「ずっと傍にいて欲しかったの……本当よ。だからね、ずっと会いたくて、寂しくて」
「私もよ、リトリア。あなたの傍にいたかった」
「頑張るから。私、ツフィアが戻ってきて、それで、傍にいてもらえるように頑張るから……!」
レディは両手を組み合わせ、別室で気を揉みながら結果を待っているであろう王たちの、魂の安息と平穏を祈った。リトリアは恐らく、ストルとツフィアの自由と安寧を勝ち取る為ならば、今後手段を選ばない。保護中にも良好な仲であったと聞くから、白雪の女王は被害を免れていくだろうが、他の王たちの心はさぞ折られるだろう。楽音の王は朝からリトリアと口をきいても貰えず、どうしてもという時だけ満面の笑みでもって畏まりました陛下と返されるので、見たこともないくらい落ち込んでいるらしい。
これで、帰ってきたリトリアが上機嫌に甘えながら二人の解放と身柄の引渡しを要求したとすれば、すばらしく飴と鞭である。元よりリトリアに甘い、と言われているのが楽音の王であるから、要求が受け入れられるのは想像に容易かった。ああ、でもこれで私の胃が痛くなったり頭が締め付けられたりすることはもうないのかな、と。安堵と残念さが等分の気持ちで息を吐くレディの服が指先で摘まれ、やんわりと引かれる。
「レディさん。あの、ありがとうございました……」
「うん……。どういたしまして、リトリアちゃん。勘違いなくなって、よかったわね。……なくなったのよね?」
ツフィアの腕にくるんと絡み付き、ぴったりくっついて甘えながら。再度の確認に、リトリアはあどけなく頷いた。
「魅了して、いなかったの……。や、やだもう、やだもう……! ねえ、これってあの、私、自意識過剰だったっていう……う、うぅ……」
「……すぐに泣くのは直らないのだから」
ぐずりだすリトリアに息を吐き、ツフィアは丁寧な仕草で零れる涙を拭っていく。違うの、いまだけなの、泣かないの、自立したの、とリトリアが訴えると、ツフィアはあらそうなの、と首を傾げて絡みつかれている腕を外そうとした。慌ててぎゅぅっと抱きつきなおし、くちびるを尖らせていじわる、だめ、と拗ねるリトリアに、ツフィアが向ける目は悪戯っぽく、穏やかだった。
私はもうツフィアとストルが魅了されてなかったという事実の方が嫌だし怖い訳なんだけど、と呻き、レディは胃のあたりを手でさすりながら問いかけた。
「ツフィアもストルも、早急に報告書にまとめて陛下に提出してよね。リトリアちゃんがなんかされてたんだったら、それに対する処罰も下さないといけない訳だし……リトリアちゃんは、陛下に報告に行こうね……?」
「……もうちょっとだけ」
くちびるを尖らせて主張して、リトリアはツフィアの名をとろけるしあわせの声で呼び、背に腕を回してぎゅむりと抱きつきなおした。
「ツフィア、もう帰る? もうすこし、パーティーにいてくれたら、私すぐ戻ってくるから……」
「分かったわ。行ってらっしゃい。……でも、陛下にお会いするなら、顔を洗ってからにしましょうね」
「うん。分かりました。ストルさんも……待ってて、くれる?」
こてん、と首を傾げて、行かないで欲しいと目で求められて。用事があるだとか、もう帰るだとか言える相手がいたらつれてきて欲しい、という顔でストルは息を吐き、頷いた。お前には人の心がないと断じる為である。男の内心が手に取るように分かってしまったので、レディはしぶい果物を口いっぱいに詰め込まれた気分でよろよろと立ちなおした。砂漠系男子と思考回路が、一部であっても同じなんて御免こうむる。
ツフィアから離れとことこやってきたリトリアに、レディは慎重な気持ちで手を差し出して。行こうか、と手を繋いだ。
銀の星たちが暗く沈んだ天に瞬いている。冷えた夜風で赤らんだ頬を冷ましながら、ラティはひとり、砂漠の廊下へ戻ってきた。王宮は寝静まっている。もう数時間もすれば朝が巡る、豊かな夜の時間があたりには満ちている。夜の警備の者たちは街の明かりを見つめていて、ラティには注意を払わない。あくびをしながらゆっくり歩き、今しがた出てきた『扉』を振り返った。魔力の残響が、火の粉のように漂い、消えていく所だった。
火の熱のようなざわめきを思い出す。今宵の学園、夜会は、ひときわ盛況だった。リトリアが戻り、ツフィアとストルと共にあったからだ。詳しい説明はまた後日されるだろうが、いつからか姿を消してしまっていたツフィアは、何処かの王宮魔術師として迎えられる可能性があるという。その対応や諸々の協議のために、結局五王は星降の一室に集まり、忙しく会議の最中だった。
新入生への対応がないから時間をずらして訪問する気遣いが、会議開始時間を後ろに倒してしまうという結果になった為、終わるのは朝日が顔を覗かせた頃だろう。ラティの王は夜眠るのを未だ好まないのでそれでもいいだろうが、他の王たちには大変な徹夜であろうに。また日を改めて考えるには早急さを求められる案件がいくつかある為に、護衛を入れ替えて王は徹夜、という珍事態と相成った。
今頃は、星降の廊下に白魔法使いの笑い声が響いている筈である。彼の国の魔術師たちに安眠妨害で殴られなければいいけど、と思い、ラティは静まり返った廊下を、あくびをしながら歩いていく。なんだか、やたらと眠かった。靴音が響いている。瞬きと共に、意識が明滅する。ゆっくり歩く。あくびをする。瞬き。目を閉じる。
「……あ、れ?」
立ち止まって。ラティはあたりを見回した。いつの間にか、ハレムに繋がる廊下の曲がり角まで来ていた。出入り口を守る兵士たちが、不思議そうにラティの姿を見て、その背に王の姿を確認しようとしている。ひいいい道間違えましたっ、と叫び、ラティは身を翻して走って戻る。『扉』から途中までは同じ場所を辿るが、魔術師の眠る区画とハレムは逆方向である。うぅ、寝ぼけてた、絶対寝ぼけてた、と目を擦り、ラティは幾度もあくびをする。
意識が明滅する。ゆっくり靴音が響く。夜の静寂。暗闇が首元まで降りてきている。夜の。息苦しさで目隠しをされる。
『……仕上がりを確かめないとネ』
靴音。瞬きで意識が切り替わる。その日、ラティはもう二度道に迷い、眠る部屋まで辿り着いた。
ふにゃふにゃ寝ぼけながら、ソキはアスルとロゼアのローブを一緒くたに抱き寄せて鼻先を埋めた。ロゼアは朝の運動にソキを連れて行かずに置いて行ってしまったので、これはしかたのないことなのである。ふんすふんす匂いをかぎ、ソキは寝台の上でちたぱたもぞもぞやぁんやぁん、とした。
「ろぜあちゃんのいい匂いが、するぅー……!」
ローブに頬をこすりつけて甘え、好き勝手にローブをアスルに着せてみたり、自分で着てだぼだぼなのをひとしきり楽しんだり、またふんすふんすいいにおいを堪能しながら、ソキはまたうとうとと、眠りへ戻ろうとした。ぴすぅー、と眠りかけた所で、はっと気がついて顔をあげる。ローブを畳んで元の通りに戻しておかないと、もちゃもちゃしていたのがロゼアにバレてしまうのではないだろうか。
「たたむです。たたむ、たたむ……んしょ、んしょ。んしょ……んん? これでいい……?」
きちっ、としたロゼアの畳んでおいたのと比べて、多少へちょりとしている気が、なんだかとってもするのだが。とりあえずこれでいいことにしよう、と眠たく思って、ソキはこくりと頷いた。いつもと同じくらいの長さを寝た気がするのだが、昨日の夜会で踊ったりした為に、まだすこし眠り足りない。もしかしてロゼアちゃんが踊りに誘ったりしたくなっちゃうかも、と期待しながら、ソキは妖精と二曲ほど踊ったのだが。
ロゼアは優しい微笑みで、ソキの踊りの上達をしきりに褒めてくれただけで、誘ったり嫉妬でめらめらしてくれることはなかったのである。ロゼアちゃんがソキをうばって踊ってくれる筈だったんですううぅ、とむくれるソキに妖精は怒らず、呆れ返った目ではいはいそうね残念ね、と頷いてくれた。思い出して、ソキはしょんぼり息を吐き出した。ソキの計画は、最近上手く行かないばかりである。
ただ、ロゼアは誰とも踊らなかった。じつは去年、シディと踊っているのもちょっぴりもやもやしていたので、それを考えればよかったのかも知れない。アスルを抱きなおしてうとうとしていると、ふわ、と空気が肌を撫でていく。ちいさな笑い声。ひょい、と抱き上げられて、ソキは眠たい気持ちでロゼアにくっつきなおした。
「ロゼアちゃん。おかえりなさいです……朝の運動は、もう終わりです?」
「ただいま、ソキ。まだ眠いな」
そうなんですぅー、と頷いて、ソキはのたくた瞼を持ち上げた。いつもならここで、ぎゅうがあって、なでなでがあって、もうちょっと寝ような、があるのだが。待てど暮らせど、ぎゅうも、なでなでも、おやすみも来ないのである。むむ、とくちびるを尖らせるソキに、ロゼアは甘く、やんわりと微笑した。
「ソキ、ソキ。……ソーキ」
穏やかに。ソキを抱き寄せなおした腕が、体をくっつけなおしてくる。触れる体温の気持ちよさに目を閉じて、ソキは頬をロゼアの肩に擦り付けた。ソキ、と笑う声が、耳元で囁く。
「今日はリボンさんとお出かけするんだろ」
「……あ! あ、あぅ、そうでした……!」
「だから、行く前に『旅行』のことをおはなししような」
そうでした、とこくりと頷いた後に、ソキはぱっちり瞼を持ち上げた。ロゼアはソキの頬を指の背で撫で、穏やかに微笑している。きっと聞き間違いです、と頷いて、ソキはお着替えをしなくてはいけないです、と主張した。妖精とのお出かけである。とびきり可愛くしてもらう予定なのだった。うん、着替えしような、とロゼアは微笑む。
「『旅行』のおはなしが終わったら、着替えような。可愛いのにしような」
「……あれ?」
「ソキ。『旅行』ではどのあたりに行ったの? どういう人に会った? なにされたの?」
その情報は、なにがあっても。決して『お屋敷』の者に、『傍付き』に、話してはいけないことである。はじめての『旅行』の前に、『花嫁』はそれだけは許されないと言い含められる。きゅうっと眉を寄せて口を閉じたソキに、ロゼアは大丈夫だよ、と言い聞かせた。
「俺はもう『お屋敷』から怒られたりしないよ。ソキだってもう、どこにも行かないだろ」
うん、と返事してしまうより早く。なんだかどきっとして、ソキはロゼアのことを見つめてしまった。もちろん、ソキはもう『旅行』には行かないし、誰かの所に嫁いだりもしないのだけれど。あの約束がもし、果たされていたとしたら。どこかへ行く、ことに、なっていたのではないだろうか。ソキ、と訝しげに呼んでくるロゼアにぎゅっと抱きついて、ソキは行かないです、と言った。強く目を閉じて、描いた未来を押しつぶす。
ロゼアの手がソキではない誰かに伸ばされるかも知れなかった、やがて訪れるかも知れなかった、別れの日を今度こそ。ソキは己の意思で遠ざけて、ロゼアちゃんの傍にずっといるです、と言った。
「ソキね、ソキね……ロゼアちゃん、を、しあわせにするです。するですよ」
「うん? ……うん。ありがとうな、ソキ。嬉しいよ」
「ううぅ……頑張るです。ソキはけんめいに頑張るです……! ロゼアちゃんの一番はソキ、ソキなんです! ソキはもう一番を誰にもあげたりしないです。ソキだもん。ロゼアちゃんの一番は、ソキなんだもん。ロゼアちゃんはソキのだもん……! ソキの。ソキの! ロゼアちゃん? わかったぁ? 他に、めうつりー、をしたら、いけないんですよ。分かったぁ?」
いいですかぁ、ソキの。ロゼアちゃんはソキの、ソキのですよぉ、とめいっぱい主張されて言い聞かされて、ロゼアはややふんわり緩んだ笑みで、うん、とだけ言った。いまひとつ通じていない気がするです、と頬を膨らませるソキに、どうしたんだよ、とロゼアが笑う。頬のまるみを指先で愛しげに撫でながら、俺はソキのだよ、とロゼアは言った。
「目移りなんてしないよ。ソキが一番だよ」
「でぇえっしょおお……?」
ぴったり体をくっつけて、抱き寄せられた膝の上。自慢げにふんぞり返りつつ、ソキはことり、と不思議さに首を傾げた。ぱちくり瞬きをする。
「……あれ? あれ、あれ……。ううん? もうちょっと……もうちょとこう……。御本だと、ここで気持ちいい感じになる筈です……。あれ? ロゼアちゃん? ねえねえ、しないの? しないです? なんで?」
「ソキ。最近なんの本読んでるんだ? 先輩たちに、だめって言われた本あるだろ?」
「違うんですよロゼアちゃん! あれはぁ、参考書、というやつです。誘惑してお願いしてめろめろりょくをあげるです!」
ロゼアは微笑を深めてソキを片腕で抱いたまま立ち上がり、一目散に部屋の本棚へ向かった。ああぁ、やーっ、だめだめぇっ、とソキがもちゃもちゃ暴れるのをなだめながら、ロゼアは慣れた仕草でしゃがみこみ、本棚の一番下、ソキが髪飾りと日記帳を置いている一角へ手を伸ばす。数冊の日記を退けると、隠して置いてあった本があらわになった。それをひょいひょいと回収し、ソキの手の届かない高さに積み上げて、ロゼアはしっかりと言い聞かせる。
「これは先輩に返しておくからな、ソキ」
「やあぁあ……! ないしょの取り引きだったです……! バレてしまたです……。ソキの秘密の隠し場所だったですのに……」
くにゃりと身を寄せてすんすん鼻を鳴らして拗ねるソキの背を、やんわりと撫でて。ロゼアはさて、と気を取り直し、寝台に戻って腰を下ろした。
「さ、ソキ。『旅行』のおはなし、しような。なんでリボンさんは知ってるのに、俺には話せないの?」
「リボンちゃんは、だってぇ……お迎えに来た時にも、ソキが『旅行』をしてたからです……」
ソキには妖精にだって、特別なにかを話した訳ではないのである。今までどこに行っただとか、なにをされただとか、そういう話を。したことがあるのは、唯一、白雪の女王陛下そのひとに。去年の夜会の前にどうしてもと求められ、なにをされたのか、を告げた時だけだった。その他には決して明かしなどしていないのである。ロゼアが怒られない、ということにはほっとしても、どうしても、口に出してしまうのは抵抗があった。それほど強く、なにをおいても、明かしてはならない機密として『花嫁』の心に刻まれていることだからだ。
ロゼアはソキの目を見つめながら、じゃあ、と静かな声で囁いた。
「リボンさんは、どこへソキを迎えに行ったの?」
それは。『旅行』のことでは、ない。ソキの中では、それに当てはまらないことだった。ロゼアちゃんはきっと諦めてくれたです、よかったです、と胸をなでおろしながら、ソキはにこにこ口を開いた。
「あのね。お部屋なんですよ。ソキはね、お部屋にいたです。鍵をかけられてたのをね、リボンちゃんが来て開けてくれたの」
「そっか、よかったな。……そのお部屋は、どういう所のお部屋だったの? 宿? 家? 街中? 郊外?」
眉を寄せてよく考えて、ソキはちょっとだけ郊外です、と言った。街中というには、周囲には広大な土地が広がっていた。宿ではなく、家だった。大きいお家で、馬車があってね、お世話をするひとたちもたくさんいてね、とおはなしをするソキに、うん、と柔らかく頷きながら。ロゼアは言葉を重ねて行く。その家には何人くらいの人がいたのか、ソキはどれくらいの人と会ったのか、出されたものでなにがおいしかったのか。
ソキは思い出しながらひとつひとつ丁寧に応え、ソキはえらいな、よく覚えてるな、と褒めるロゼアに、照れくさそうにはにかんだ。
「リボンさんがお迎えに来るまで、ソキはなにをしていたの?」
「眠たかったからね、いっぱいおひるねをしてたです。いっぱい寝たから、お熱もちゃぁんと下がったですし、お咳もでなくなってたです」
「……えらいな、ソキ。熱があったの? お医者さまには診て頂いた?」
ぎゅ、とロゼアの腕がソキを抱き寄せ、その不安を目の当たりにしたように囁いてくる。大丈夫なんですよ、とソキは頷いた。妖精が訪れるまで、ソキは完全にその一室に閉じ込められていた訳ではなく。一定の期間、高名な医者の元へ預けられていたのである。入院なんですよ、ソキはちゃぁんと安静にしていたです、と自慢するソキに、いいこだな、と囁いて。ロゼアはその医者の名を問いかけた。
ちっとも興味がなかったが故に記憶の隅にも留めなかったソキは、素直に分からないです、と言ってロゼアの眉間のしわを撫でた。
「あのね、でもね、白雪の、第三都市で一番のお医者さまだって言ってたです。領主さまのご紹介だからって、ソキをとっても丁寧に見てくださったんですよ」
「そっか。……うん、そうか。分かった。いいこだな、ソキ。その方はよくしてくださった?」
「うん。お医者さまね、お優しかったです。領主さまは良い方だって、お話してくださったです。前の領主さまがね、また悪癖を発揮したらね、連絡しなさいって言ってくださったです。それでね、ソキのお熱が下がるまでは絶対にここへいて、休んでいていいって仰ってくださったです」
そうか、とロゼアは目を細めて微笑した。
「悪癖ってなに?」
「……ソキに触るです」
このおはなしはもうしないです、と言って、ソキはくちびるに力を込めた。閨教育はソキに、どこに、どういう風に触れられれば快楽になるかを教え込んだのだけれど。服の上からであっても触れられて、撫でられて、あんなに気持ち悪かったのは、はじめてのことだった。それまでも何度か、『旅行』先でそういう風に、ソキの意思を無視して触れてくる者はあったのだけれど。それまでは必ず、同行の者たちが助けに来てくれた。怒鳴りこんでくれた。すぐに。でも、その時にはもうすでに、彼らは『お屋敷』に帰されていて。
破談になれば砂漠との貿易を打ち切る、と脅されていたのだった。抵抗などできなかった。してはいけないことだ、と思った。『花嫁』は砂漠の国に幸福をもたらさなければいけない。多額の金銭と引き換えにされなければいけない。それでもって、ひとときの安寧をもたらす存在でなければ、ならないのだ。だから、そのことで。砂漠に不利益など、あってはならないことだったのだ。ソキ、とロゼアの声が、耳に触れた。
「大丈夫だよ、ソキ。今、ソキに触ってるのは俺だろ」
「……ロゼアちゃん?」
「うん。俺だよ、ソキ。ほら」
頬を両手で包んで。首筋を撫でたてのひらを、肩へおろして。じわじわ、体温を染み込ませるように、ゆっくりとロゼアは触れて行く。抱き寄せた背を撫でて。ぽんぽん、と服の上から胸や、腹にも触れて。ふとももも、脚も。つま先を手で包みこんで、温めるように擦って。くた、と力を抜いて持たれるソキの耳に、口付けるように近く。ロゼアはゆっくりと、言い聞かせるように、囁いた。
「ほら。全部、俺だろ? 分かった?」
「……うん」
「いいこだな、ソキ。いいこだから……それはもう、忘れような。俺のだけ覚えてような」
うん、とソキは頷いた。全身が暖かくて、心地よくて、体にうまく力が入らないでいる。いいこだな、と耳元でロゼアが笑った。ふるりと体を震わせて、ソキはロゼアの腕にじゃれつくように手を伸ばし、もっと、とねだる。
「ソキ、ロゼアちゃんの言うとおりできる……。だから、ね……? さわるの、もっと。もっとぉ……!」
「んー……? ……うん。いいよ。おいで、ソキ」
強く。『花嫁』では決してそうされなかったであろう強い力で、肩が抱き寄せられる。きゅぅ、とつぶれた声をあげたソキを宥めるように、ロゼアは首に顔をうずめて笑った。きゃぁ、とソキは身をよじる。
「くすぐったぁいー……!」
「ソキ。……ソキ、ソキ」
背中が。ゆっくり撫で下ろされる。何度も、何度も。その手の感触を、熱を。もう一度ソキに教えるように。は、と熱っぽい息を吐き出して、ソキはロゼアの肩に頬をくっつける。
「ロゼアちゃん……」
「ん?」
「すき」
首筋に腕をまわして、体をくっつける。すき、ともう一度告げれば、ロゼアはソキの頭を柔らかく抱いて笑った。
「俺もだよ、ソキ」
「はぅ……ろぜあちゃ……」
すき、すき、と感極まった声で囁くソキに、ロゼアはうっとりと目を細めて。俺もだよ、と言って、抱く腕に力を込めた。
朝の光が差し込む談話室の片隅。新入生の定位置たるソファの前で、妖精は深々と息を吐き出した。まあ、だいたい毎日の恒例行事だと聞いていたので、予想していたのだが。べっこべこのめこめこにヘコんでいる顔で、ソキにいらっしゃいませですぅー、と出迎えられて、妖精は額に手を押し当てる。言葉を探すが中々出て来ない。諦めて沈黙した。申し訳なさそうな顔で、ロゼアがソキを宥めているのが見えるが、いや原因全部お前に決まってんだろうが、と言いたくてならない。
「……まあ、一応聞いてやるわ。ソキ? 今日はどうしたの?」
「さわってもらたけどさわってもらうんじゃなかたです……」
うやぁあん、と悲しげな声でロゼアにぎゅっと抱きつき、体をすりつけるソキは、今日も愛らしい白のワンピースに身を包んでいる。髪もきちんと編み込まれ、赤いリボンが揺れていた。深く長く息を吐き出して、妖精はまあアタシも色々考えてあげるけど、と言って、ソキを膝の上に乗せたまま、下ろす気配もないロゼアを見た。おはようございます、と微笑まれる。腹立たしい。
「……で? アンタはなんでここにいるの? アタシはソキと出かけるんだけど?」
「はい。それじゃあ、行きましょうか」
ソキ、おでかけだよ。嬉しいな、とソキを宥めながら抱き上げ、立ち上がるロゼアに、妖精は言葉もなく。思い切り溜息をついて、ソキの頬を指先でつついた。デートなんじゃないのか、と言ってやりたい。妖精はこれでも、まあこうなるだろうな、と予想はしていたにしても、それなりには、ソキと二人きりで出かけることを楽しみにしていたのである。旅の最中は、ずっと、ソキと妖精は一緒だった。
頬をつつかれるのに、いやんや、と不機嫌な声でぐずるソキに、妖精は指を引っ込めて。まあ、また機会もあるか、と諦めてやることにした。妖精はソキの不機嫌を放置するか観察するくらいしかしないが、ロゼアにひっつかせておけば、ほどなく直ることはもう分かっている。で、アンタどこへ行きたいっていうの、と問いかける。『扉』に向かう道すがら、あのね、とほわほわ響く声は、もうすでに機嫌を上向かせかけていた。蜂蜜みたいな響きをしていた。