レディは、とある報告を終えてリトリアをストルとツフィアの元まで送り届けてすぐ、倒れるように眠り込んだのだという。二ヶ月起きて二ヶ月眠るのが、火の魔法使いたるレディの周期だ。リトリアの家出騒動の前後や、戻ってきてから落ち着くまでの心労もあり、周期が乱れて急激な眠りに襲われたのだろう、というのが、呼び出された白魔法使いの見解である。星降の白魔術師たちの意見も一致した。緊張が解けて眠りに抗えなかったのだろう、と。
昨夜おやすみなさいを言っておけばよかったです、と残念がって、ソキはちょこちょこと星降の城を歩き回った。『扉』をくぐってロゼアの腕から滑り降りたソキの歩みが、あんまりつたなく、妖精が城下へ行くのをしぶった為である。夜会の疲れが脚に出たのか、一晩寝て歩き方を忘れたのか、どっちなのと息を吐かれて、ソキはぷぷりと頬を膨らませて主張した。なでなでがあんまり気持ちよくてくんにゃりしちゃっただけである、と。
妖精は微笑んで、ロゼアの脛を蹴飛ばした。避けられる。舌打ちをして、妖精は目つき悪くロゼアを睨みつけた。
「アンタいい加減になさいよアタシのソキに悪戯ばっかりしやがってこのヤロウ……!」
「根拠のないそしりは辞めて頂けませんか」
んしょ、んしょ、とけんめいによちよち前を行くソキは、あんまり集中しているせいで、隣と背をついて歩きながら交わされる会話も耳に入らない様子だ。
「悪戯なんてしていませんよ」
「じゃあソキのどこをなんで撫でたのよ言ってみろこのむっつり」
さすがに、ややむっとした様子でロゼアは目を細め、ゆっくり息を吐き出しながら静かな声で言う。
「……必要があったので」
もぅー、今日はでいと、でいとなんですうぅ、とソキがむくれた呟きでよちよち歩くのを眺める目は、穏やかで優しい守りに満ちている。ように見える。妖精はロゼアの不機嫌そのものを嗤い、そんな目をしておいてよく言うわ、と吐き捨てた。ほんの僅か。息を止めるような間があって。ロゼアは、ふ、と微笑した。
「どんなでしょうか」
「ぜっ……たい言ってやらないわよ腹立つ!」
「きゃぁんっ」
目を向けると、ソキが尻もちをついて座り込んでいた。目をぱちくりさせながら、不安げな顔をして振り返っている。語気の強さに驚いて、脚を滑らせたのだろう。ソキはきょときょと、妖精とロゼアのことを見比べ、あぅ、と不安におぼれそうな声で震えた。荒れる感情。強い感覚に、相変わらずソキは慣れないでいる。日々は、穏やかで柔らかいものだけで包まれている。
妖精は溜息をつきながら、なんでもないわ、と言ってやった。
「アタシがロゼアに怒るのなんていつものことでしょ?」
「ん、んん……ふにゅ。そうでした」
素直に頷かれてほっとされると、それはそれで気にいらない。抱き上げようとするロゼアを妖精が妨害している間に、ソキはひとりもちゃもちゃと立ち上がり、やはりすこし不安そうに、険悪な雰囲気のふたりを見比べた。
「……喧嘩です? ……け、けんか、けんかです……!」
「ソキ、ソキ。違うよ。喧嘩なんてしてないよ」
「……そうよ別に喧嘩じゃないわよ」
隙をついて全力で呪うぞこの男、という決意を新たにしているだけである。苛立ちの息と共に告げた妖精に、疑り深い眼差しを投げてよこして。ソキは、あぅ、あぅ、と泣きそうな声でとてちてロゼアの元へ向かい、腹に顔をうずめてぎゅぅっと抱きついた。
「ロゼアちゃん。リボンちゃんをいじめたです……?」
「いじめてないよ」
「リボンちゃん。ロゼアちゃんをいじめちゃだめだめぇ……!」
なんで妖精に対しては疑問形にならないのか。ほぅ、と低くうねる呟きを零すと、びくぅっ、と体を震わせたソキが、うりうりとロゼアの腹に顔をすりつける。ロゼアちゃ、ろぜあちゃっ、と頬をくしくしすりつけて不安な気持ちを落ち着かせながら、ソキは唐突に、あ、と声をあげた。嫌な予感しかしなかったので、アンタ思いついたことは発言しなくてもいいのよ、と妖精は言ってやったのだが。
当然のように話を聞かず、ソキはちょっと照れくさそうに頬を染め、もじもじしながら呟いた。
「これがぁ、もしかしてぇ……! ソキの為に争わないでください、ですぅ……!」
おなかくすぐったいからだっこしような、とひょいと抱き上げられて、ソキはきゃぁんやぁんとはしゃいだ声をあげて照れている。間違ってはいないのだが。あっているからこそ妙に腹立たしい。まんまとソキを抱き上げ、ほっと落ち付いたそぶりを見せるロゼアに、額に手を押し当てて。妖精は、心の底から息を吐き出した。リボンちゃんの幸せが今日はたくさん逃げてるです、とほけほけしたソキの声が響く。
妖精は柔らかく笑み、ロゼアの足を全力で踏みにじってやった。
お汗をかいちゃったのでお風呂に行ってお着替えしてからじゃないとリボンちゃんとのでいとに行ってあげないですうぅ、と機嫌を損ねたソキの為、いったん『学園』に戻ることになってから、妖精は城下へ行くことを半ば諦めていた。ソキの体力がもつ気がしなかったからである。風呂に入り髪を乾かした所で、ソキはふあふあとあくびをし。早めの昼食の最中には、まぶたをくしくし手で擦った。
ねむたくなちゃたですぅ、と頬をぷーっと膨らませたソキは、お出かけできなくなっちゃうですとぐずっていたが、妖精はぬるい微笑みでそうねぇ、と頷いた。風呂上りの着替えとしてロゼアが用意していた服が、そもそも、もこもこのタオル地のゆったりとしたワンピースだ。ご飯を食べたらおでかけできる、と思っていたのはソキだけである。ロゼアは最初から寝かせるつもりだった。間違いない。
ぐずるソキを、必ず三時前に起しておやつは城下へ食べに行くという約束で宥め、妖精は一緒に昼寝をしてやることにした。とたんに機嫌よくきゃんきゃんはしゃいで、ソキは妖精と共に四階の部屋へ移動し、もこもこの絨毯の上に寝転んでしまう。リボンちゃん、ふにゃうにゃ、うにゅにゃ、といまひとつ聞き取れない声でなにかを話しかけた後、ソキはくてんと眠りに落っこちてしまった。
当然のように、妖精の膝を枕にしている。甘えた態度で腰に腕を回し、ぺとんとくっつかれているので、場を離れることもできない。くぴ、くぴ、ぴすぅー、と安心しきった寝息が響くのには思わず笑みを深め、妖精は眠るソキの全身を眺め、ゆっくりと息を吐き出した。体は無防備に横たわっていて、どこにも力が入っていない。どこにも。
緊張しきって、警戒しきって、ぎゅうぎゅうに体を丸くした眠りを覚えている。それから一年半も経過していない。無言で頬を指先でつつけば、くすぐったそうに笑うだけで、ソキは目を覚まさなかった。
「……あまえんぼ」
眠っている間に脚の手入れをするので道具を取ってきます、と言ってロゼアは場を離れている。なんでも脚の筋を痛めていないかの確認をして、それから足の爪を切ったり磨いたりするそうだ。起きている時だと、ソキは嫌がって脚に触らせてくれないのだという。ロゼアに対して嫌がるということもできたのか、と妖精は驚いたが、それについてソキに問うことはしなかった。ろくでもない理由であるような気がしたからである。
なにを着せようかな、と考えながら部屋を出て行ったロゼアは、まだ戻らない。溜息をついて、妖精はソキの髪を撫でてやった。ぞっとする程にさわり心地のいい、絹の質感。花の香りがやんわりとたちのぼる。無警戒に触ったことを後悔しながら、妖精は眠るソキを注視した。そういえばひとと同じ大きさになったら、一緒に寝てやっても良いと告げていたことを思い出す。旅の間のささいな口約束。思い出し、叶えられたことにほっとした。
髪の毛をふたつに分けて三つ編みにし、鈴のついたリボンで結んでもらって、ソキは上機嫌に星降城下へ歩き出した。よちよち、てしてし歩くたびにふたつ三つ編みが右に左にゆれ、鈴が涼しげな音を立てて揺れ動く。妖精はソキの手をぐっと繋いで隣を歩きながら、ついてくるロゼアを呆れ顔で振り返った。
「猫に鈴つけるんじゃないんだから……」
「鈴にする? お花にする? とは聞きましたよ」
ただし、鈴がちりちりするの可愛いな、ソキにきっと似合うよ、との言葉つきである。花に対しての言葉は特になかった。ソキはどちらを選ぶのかは、誰でもすぐに分かるだろう。ちり、り、り、と鈴を鳴らしながらにこにこ歩くソキは、さして大きな音でもないので気にならないのだろう。久しぶりの、歩きでの外出に目をきらめかせ、しきりにあたりを見回していた。
「ねえ、ねえ、リボンちゃん? この間のね、天体観測のね、お祭りは、すごーいひとだったんですよ! 知ってる?」
「アンタ……あの人込みの中を歩いたの……?」
「ロゼアちゃんのだっこです」
ふふん、とふんぞり返って自慢するソキに、妖精は真顔で安心したと呟き、頷いた。迷子になるか、誘拐されて売り飛ばされかねなかったからである。なにせ流星の夜は、一年で最も首都の人数が多くなる日。観光目的の者が大多数ではあるものの、不埒な輩が入り込むことを、妖精だって知っている。近年、各都市を静かに渡り歩いているとされる人売りの一団も、未だ捕まっていないと聞いていた。
時折、その聞き取り調査でシディが各都市へ呼ばれている。旅途中、ロゼアがその一団に遭遇、売られかけたからである。案内妖精の報告会で、首謀者はロゼアの手により、焼死したとは聞いているが。残党は未だ、世界のどこかで逃げ延びている。
「ソキ。いい? ひとりでどこかにちょこちょこ行こうとするんじゃないのよ。分かった?」
「は・ぁ・いー!」
今日はねぇソキねぇリボンちゃんと一緒に行きたいお店がいっぱいあってですね、と興奮した口調で次々並べていくソキは、眠っていたせいなのか、朝よりも元気に見えた。日が傾いてしまうまでは、時間にも余裕がある。疲れてきたら抱き上げさせればいいかと思い、妖精はロゼアの同行を受け入れてやった。
ソキをひとりで歩かせるのは危ない、という気持ちは分からんでもないのだが。妖精が一緒なのである。対人でためらう可能性があるロゼアより、妖精の呪いの方が早くて的確で容赦ない以上、ソキは安全な筈だった。んしょ、んしょ、とちりちり音をさせながら商店の並ぶ一角へ辿り着き、ソキは興味深そうに忙しなく、目をぱちくりさせてあたりを見回した。
「あっ、リボンちゃんリボンちゃん! はちみつやさんがあるですうぅ!」
「アタシが今度採ってきてやるから買わないでもいいわよお前は! なにも言わず! 財布を出すな!」
すぐさま買い与えようとするロゼアの足を踏み、妖精はまたいじわるしてるうううっ、とぴいぴい騒ぐソキに向き直った。
「ソキ。ロゼアに無駄遣いするなって言いなさい」
「んん? ロゼアちゃん? いーい? むだづかい、したらだめ。だめですよ?」
わかったぁ、と問うソキに甘い笑みを浮かべ、ロゼアは分かったよ、と囁き返す。ちゃぁんと言ったですほめてほめて、とばかりふんぞり返るソキを適当な仕草で撫でてやりながら、妖精は胸を撫で下ろした。店先でソキがきゃっきゃはしゃぐたびに、ロゼアを蹴らなければいけないというのはとても面倒くさいからである。財布を奪えばよかったのだ、ということに妖精が気がつくのはすぐのことだった。
ロゼアの中に、ソキに関して支払われる費用に対しての、無駄という概念は存在しない。そして恐らくソキの中にも、ロゼアが自分の為に使ってくれるお金が無駄に該当する、という意識がない。一緒に行きたいです、とねだられて訪れた手芸店。いいなぁこれいいなぁ、と棚の前でもじもじするだけで躊躇なく刺繍糸やら布地やら枠やらをロゼアが好きに買い込んでいくさまを見て、妖精は色々なものを諦めてやった。
ソキに必要なものだから無駄とは違うです、ときょとんとした目で首を傾げられて、妖精はうんそうねはいはいそうねと頷いてやった。これで使った分の補充と新作も手に入ったです、と満足げにこくりと頷き、ソキは妖精がちょっと目を離した隙に、ロゼアの腕にじゃれついて引っ張った。
「ねえねえ、ロゼアちゃん? およふく! ソキねえ、リボンちゃんとおそろいのが欲しいです」
「うん、いいよ。どの店にしようか」
「よくないわよアタシの意見も聞きなさいよ……!」
妖精がソキと同じ大きさになれるのは、年に一度。数日限りのことである。今年のそれも、今日と、明日くらいが限度だろう。必要な服は用意しているし、十分だからいらないの、と告げる妖精に、ソキはぷーっと頬を膨らませた。
「リボンちゃん? ソキ、おそろいを楽しみにしていたです」
「そうなの残念ね? でもね、ソキ。アンタが着るようなひらんひらんふんわふんわした服は、好きじゃないから着たくないの。諦めなさい」
ええぇえっ、と衝撃的な声をあげるソキは、今日もレースがふんだんに使われたワンピースを身につけている。胸元や腰あたりはリボンできゅぅと絞られ、足元までを隠すスカートは品よく清楚で愛らしい。ソキにとても似合うと思うし、可愛いとも思うが、自分で着たいかと言われると首を横に振ることしかしたくない服だった。嫌いではないが、ここまでではなくていい。
「じゃあ、リボンちゃんがお好きなせくしぃなのにするぅ……!」
「やめなさいアンタが着ても似合わないというか大事故だから。ああ、もう……じゃあ、リボンにしましょう。それなら、アタシが元のおおきさに戻っても使えるでしょう?」
そもそも、妖精が今の呼び名で定着したのは、迎えに行った時に腰周りに巻いていたリボンを、ソキが目に留めて気に入ったからだった。あの時は赤を使っていた筈だ。その時々の気分によって入れ替えているので、妖精の眠る場所には、結構な数のリボンがうずたかく積まれている。名案に目をきらめかせてそうするですと頷き、ソキはちょこりと首を傾げてみせた。
「リボンちゃんは、どうやってお金を稼いでいるです?」
「新入生を案内すると報奨金がでるの。星降の城の中に、妖精銀行あるのよ。知らない?」
妖精が住まう国である性質上、星降の城は他国にない仕様で満ちている。
「案内役じゃない妖精は、手紙届けたり荷物届けたりして働いてるわよ。アンタだって郵便妖精から手紙受け取ったことあるでしょ? あれ」
「あるです! わぁ、妖精さんの、お仕事だったんですねぇ……!」
「妖精が働くなんて世も末よね……」
魔術師相手にしか運べないし、そう毎日発生することでもないので、そこそこの稼ぎにしかないらしい。ひとの世のものに興味がない妖精もいるので、誰もが働いて金銭を稼いでいる訳でもなく。また、友好的であるとも限らない。アンタも、花園に来て睨まれたりするのがいたらすぐアタシを呼ぶのよ、と言われて、ソキはにこにこと頷いた。
「リボンちゃん、この間もソキを助けてくれたです。格好良かったですぅ……!」
ソキは、いつもふわふわした甘い、花や蜂蜜めいた匂いがする。妖精の花園へ行く途中、蜂にぶんぶんたかられていたのを、急行した妖精が追い払ってやったのだった。以来、ソキが花園へ来る道は指定されている。地図を描いても読めないので、あらかじめ、道に落とされた小石をてちてち追いかけていく方式だ。小石には妖精の魔力が封じ込められていて、雨風で飛ばされることはなく、暗がりでは月明かりを零すように発光する。
学園周辺の蜂の巣を駆除すべきかな、と零すロゼアに、アンタそんなことしたら承知しないわよ、と妖精は半眼で息を吐き出した。ソキがのこのこ、蝶を追いかけて茂みに入ったりしたからいけないのである。どうせ迷子になるし遭難するんだから、森に入ったりしないの、と改めて言い聞かされて、ソキは素直に頷いた。
「でもね、あの時はね。ソキは間違えちゃったです。リボンちゃんのお羽根みたいに、きれーなちょーちょちゃんだったです……。ソキはリボンちゃんと間違えちゃったです。だからぁ、いけないトコに行こうと思ってしちゃったんじゃないもん。リボンちゃん? ねえねえ、って言っても、ちょーちょちゃんがお返事なかったのがいけないです」
「自然界に生息してる蝶は、魔術師とおしゃべりできたりしないの」
「ソキの赤ちょーちょちゃんも、黒ちょーちょちゃんも、ソキとはおはなし? してくれるですのにぃ……」
もちろん、交わされる言葉があっての意思疎通ではないのだが。なんとなく伝わるものはあるのである。それはアンタの魔力なんだから分かるでしょう、普通の蝶にもそれを求めるのはやめてあげなさい、と妖精は苦笑した。
「はぁい……。あ、あ! ソキ、いいことを思いついたんですけどぉ、おそろいリボンはソキが編むことにするです」
「……リボンって編めるの?」
「ほそーいレースのお糸で、けんめいにがんばるです」
そうと決まったらお糸を選ぶですうう、と店内の一角に逆戻りするソキについていきながら、妖精はうんざりした顔つきで、ついてくるロゼアのことを見上げた。
「腕を痛くする前に、ちゃんと止めなさいよ?」
「はい、もちろん」
ねえねえリボンちゃん、はやくぅはやくぅと呼び寄せられて、妖精は笑いながら、早足にソキの元へ向かってやった。妖精の目からすると、並ぶ糸は多少の違いはあれど、どれも似たり寄ったりに見える。これがね、こういうのでね、こっちはね、と楽しそうに説明するのを聞きながら、妖精はアンタの好きなのにしなさいな、と言った。分からないので、こだわりようがないのである。好きに作ってくれたら嬉しいから、と告げると、ソキは明るい笑みを浮かべて。
ふにゃふにゃ、しあわせいっぱいにとろけながら、リボンちゃんだぁいすき、と言った。
休憩に選んだ喫茶店は、もう夕陽の紅にやわやわと染め上げられていた。本当はディタとスピカの店へ行きたかったのだが、買い物をしていた場所から移動するとなると、ソキの足ではあまりに遠く、ロゼアを使っても『学園』に帰るのが遅くなってしまう、と妖精が渋った為だった。学園に在籍する魔術師のたまごたちには、須らく時間制限がある。門限である。星降ろしの日の夜間外出は、あくまで特例なのだった。
それを超える程には遅くなりはしないだろうが、万一の時に動かねばならないのは星降の王宮魔術師たちだ。最近、五国の中でも特に心痛が耐えないと聞く魔術師たちを、些細なことで苛めるのは忍びない。はぁい、とやや不満の残る返事で手近な喫茶店で了承したソキは、椅子に座って足をふらつかせ、妖精に向かってちょんと首を傾げて見せた。
「星降の魔術師さんたちはぁ、最近はなにが大変なんです? リトリアちゃんは帰ってきたです」
「レディの過労と、ツフィアの軟禁どうするかと、陛下の落ち着きのなさと威厳のなさをどうするかって話じゃないの? 興味ないから詳しくは知らないけど」
「陛下……。そういえばソキも、星降の陛下が落ち着いていて、威厳がとっても、なところを見たことがない気がするです……」
砂漠の陛下に面談で呼び出さることもあって、あれこれと他国を行き来する機会が、ソキには意外と多いのである。親しく話したことのない王は花舞の女王くらいであるが、去年の夜会で見た姿や、ロリエスが心酔していることを考えると、落ち着きがないとか威厳がないとか、そういうことは考えにくかった。
「まあ、もう半年もすれば落ち着くんじゃない? リトリアがあれこれしているようだし」
「リボンちゃんはものしりー、ですー」
学園で学ぶソキより、よほど魔術師の事情に精通している。リボンちゃんはいつもなにをしてるの、とわくわくそわそわ問いかけるソキに、妖精は半ば呆れた苦笑で告げた。
「アンタが思っているようなことはしてないわよ。ただ王宮魔術師がおしゃべりなの」
「おしゃべりなの?」
「妖精はどこの国にも所属してないから、愚痴だのなんだの零しやすいんじゃない?」
ソキの案内妖精に遣わされただけあり、妖精はひとに対しても、魔術師に対しても友好的だとみなされている。面倒見の良い性格が災いしてか、遠方まで荷物や手紙を運んで欲しいと頼まれることも多いらしかった。もっとも、妖精はだいたい断っているのだが。やぁよ重くてめんどくさくて長旅なんだもの、というのが妖精の言である。断る為に王宮まで出向く、その行きや帰りに声をかけられることが多い、とのことだった。
「アタシ、最近なんでか特に魔術師に絡まれるのよね……。絶対にソキのせいだわ……」
あれこれ世話を焼いているので、保護者役とみなされているらしい。声をかけられて、そのまま無視もせず。いいわよ話くらいなら聞いてやるわよ茶と菓子をよこせ、と付き合ってやるから、でもあるのだが。ソキはもじもじと指先を擦り合わせ、きゃぁん、と声をあげて頬を押さえた。
「えへへ? えへ。リボンちゃん。大人気ですぅ?」
「嬉しそうにしちゃって……」
「えへん。さすがはリボンちゃんです。えへへん」
アンタ、ロゼアみたいになにかにつけてアタシの自慢をするんじゃないのよ分かったわね聞いてるわね絶対にやめなさいよ、と言い聞かせられるソキに、微笑ましそうな目が向けられる。
「ソキ、ソキ。お茶と一緒のお菓子は選べるんだって。どれがいいんだ? リボンさんも」
くるみのケーキに、リンゴのパイ。かぼちゃプリン、ふわふわ卵のケーキ、なないろゼリー。ロゼアが説明してくれるのをふんふんと頷いて聞き、ソキは満面の笑みで頷いた。
「ソキ、ロゼアちゃんが好きなのにするぅー」
「ええ……。アタシはもうなにも言わないわよ……。好きになさい……。どれでもいいわ。今日のおすすめがあるなら、それで」
ロゼアが説明してくれるのが嬉しくて聞いていただけで、ソキは最初から決める気がなかった、ということが理解できる程度には、妖精も分かっている。ロゼアも分かりきっているだろうに説明したのは、ふんふん頷いて聞いているソキが見たかったからに違いない。コイツら無駄なやりとりに満ちてるな、と呆れる妖精は、注文の者と入れ替わりに歩み寄ってくる、給仕の女に目を留めた。
なにかが、意識に引っかかったのだが。それを妖精が掴むより早く、女はソキに、選んだ焼き菓子が欠品であることを告げた。代わりのものを選んで欲しいと促され、なにごとかを考えたのち、ソキはこくりと頷いた。よちよちした動作で椅子から滑り降りる。立ち上がろうとする妖精と、ロゼアを順番に見て。ソキはちりん、とふたつ三つ編みの鈴を揺らし、自信たっぷりにふんぞりかえった。
「ロゼアちゃん? リボンちゃん? ソキはちゃぁんとひとりで選べるです。だからその間、仲良しさんをしているです」
名案です、とばかり頷くソキに、妖精は額に手を押し当てた。喧嘩してないと言っているでしょう、と告げても、リボンちゃんは今日たくさんロゼアちゃんを蹴ったです、ソキはちゃぁんと見てたです、と頬を膨らまされる。
「いーい? 仲良しさんですよ? 分かったぁ……あ、あ、あ! でも、でもでも、あの、あんまり、いっぱい、すっごく、仲良くしたらいやんいやん!」
「しなくていい心配をするんじゃないっ……! ああ、もう、分かったわよ。はいはい蹴って悪かったわよ避けるんじゃないわよ」
「避けるのは反射ですから、そう言われても……。ん? うん、ソキ。心配しないでいいから。選んでおいで」
はーい、とソキが頷くと、また鈴がちりりと揺れて鳴る。それに穏やかに笑いかけたロゼアの足を、机の下で蹴る妖精にまでは気がつかず、ソキはよちてし店内を移動した。冷えた空気の満ちた硝子の中に、きらきら輝くお菓子が綺麗に並べられている。ええと、ええと、とどきどき覗き込み、ソキは不思議さに首をかしげた。いくつものお菓子が並べられている。
くるみのケーキに、リンゴのパイ。かぼちゃプリン、ふわふわ卵のケーキ、なないろゼリー。残りひとつ、ということもない。あれ、と目をぱちくりさせて、ソキは給仕の女を振り返ろうとした。一瞬早く。屈みこんだ女がそっと、ソキの耳元で囁く。
「かわいい、ボクのお人形さん」
凍りつくソキの目を、伸びてきた女の手が覆い隠す。くらやみ。くすくす、笑い声が響く。
「もうすぐ向かえニ行くかラ、準備をシテおくんダよ……」
波が引くように。手が離される。女性の手。響いたのも、女性の声。ソキは青褪め震えながら、振り返ることもできずその場に立ち尽くす。あら、と間の抜けた、訝しげな声が響く。なにをしていたのかしら。言葉はソキの頭の上を素通りしていく。怖い。いや、いや、とソキが衝動的に振り返り、ロゼアと妖精に助けを求めようとした瞬間だった。ゆらめく陽炎のように。くすくす、笑い声がソキに囁く。
「『瞬きひとつでキミは忘れる』」
ちりりんっ、と鈴の音に、ロゼアは勢いよく椅子から立ち上がり、妖精も不審げにソキを見た。慌てて一歩を踏み出したまま、ソキはぱちくり瞬きをして、半開きの口でロゼアを見上げる。血の気の失せた顔で。すぐに歩み寄り、どうしたの、と問うロゼアの腕の中で、ソキはぎこちなく首を振った。告げる言葉はない。なにも。思い出せず、分からなかった。
妖精は鋭く虚空を睨みつけ、帰るわよ、とロゼアに言った。覚えのない、思い出せない悪意が、妖精の記憶にも絡みついていた。
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