夜明けを見る。地平線に光が走っていく。一瞬の黄金。暗闇を切り裂いていく暁。黒、紺、紫。紅、赤、黄。青、白。色彩は光に目覚めて零れだす。砂漠の夜明け。光に満ちていく。ひかりに。
「……あ、シア……? もう……」
笑い声。穏やかな、ぬくもり。声、響き。振動。意識がゆっくりとまどろんでいる。夢を見る。覚める寸前の、夢を見ている。心地よく。うつくしい夢。夜明けの夢。腕の中から体温が逃げていく。とん、と軽い音。窓辺の布がひといきに取り払われる。
「シア、シア! ほら、朝……朝よ、朝! お仕事でしょう? 起きて、シア。もう……!」
困って、笑って。戻ってきた女の、光を遮るあまやかな影が瞼に落ちる。唇が眉間に触れる。目尻に、頬に触れて、穏やかに笑う。穏やかに。幸福に触れているように。
「起きてったら、シア。……もう、陛下!」
「……あ?」
「あ、じゃないの。もう。こどもみたい」
くすくすと笑われて、ようやく砂漠の王は瞼を持ち上げた。日差しを遮る布が取り払われている為に、眩い光が目にすぐ飛び込んでくる。眩しい、と転がって枕を顔に抱き寄せれば、こら、と困りきった声がゆるゆると振ってくる。
「体調でも悪い? お医者さまを呼びましょうか」
「ねむい」
「もう……! ……そんなに忙しくされてるの?」
枕を奪おうとする力の代わり、本当に心配そうな声で問いかけられて。仕方なく、砂漠の王は枕から顔をあげた。ゆっくりと一度、深呼吸をする。女は寝台に座り込み、じっと王の言葉を待っていた。菫色の瞳は真剣で、それでいてなにかを恐れるように、そろそろと王の顔色を伺っていた。機嫌ではなく。これは本当に体調を伺っているのだ。はぁ、と息を吐き、王は女の名を呼んだ。
「アイシェ」
「はい」
「別にそういうんじゃない。心配するな。……ねむ……」
眠気を感じる、という経験があまりに乏しかったせいで、急にやってくるようになったそれに対応しきれていないだけである。いっぱい寝てすくすく成長するってことだから心配しないでいいよ眠ろうね、と微笑ましく告げた白魔法使いのお墨付きだ。ねむい、としきりに繰り返して目を擦る砂漠の王を、アイシェはしばらく無言で見つめて。目を擦り不機嫌そうにする王の腕に、そっと指先を添えて引いた。
「そんなに目を擦ったらいけないわ。……シア? 痛くするわ。痒いの?」
「ねむい」
やっぱり病気なんじゃないかしらと疑いの目で見つめられて、王はむっとしながらアイシェの頬に手を伸ばした。滑々の頬を指先で摘み、額をごつ、とくっつけて顔を覗きこむ。
「お前の傍だと眠くなるんだよ」
「そうなの? え……どうしてなのかしら……」
恥らうことも喜ぶこともせず、真剣に、それはそれは真剣に悩まれてしまったので、男は心から息を吐き出した。アイシェは、王のハレムの女である。集められた者の事情は様々あれど、前時代的な風習はすでに潰えている。望まず苦痛のままに王に抱かれる者はなく、そうであるから、アイシェもある程度は望んでこの場所にいる筈なのだが。なびかないのである。ちっともさっぱり、これっぽっちも、アイシェは王になびかないのである。
甘い言葉を囁けば、眉を寄せて睨みつけてくるのが、アイシェの対応の常だった。言葉を送られるのが好まないのかと品々を送れば、こんなにたくさん貰っても使わないと困ったように溜息をつかれる。王が訪れても昼間はハレムの中庭で草木の手入れをしていることが多く、そんな作業は庭師に頼めと怒れば数日間口をきかれなかったこともあった。どうも庭仕事はアイシェの趣味であるらしいと気がついたのは、ハレムの女たちからの猛烈な抗議と口添えの末のことである。
良い機会とばかり、アイシェを蹴落とし王の寵愛を得ようとする女はひとりもいなかった。あるいは、ひとりふたりは居たのかも知れないが、それは王の元に辿り着く前に丁寧に隠蔽されたのか、その気配を感じることはなかった。あったのは女たちの抗議の睨みと、ハレムの総括をさせているハーディラからの呼び出し状である。ハーディラは先王の寵妃が、男の為に教育し残した、ハレムの支柱だ。
砂漠史上、その支柱を後に寵妃としたり、正式な王妃とした者もあったらしいが、男は一度としてそれを考えたことはなかった。ハーディラは王の、女に対しての教育係だった。同時に、姉のようなものである。いつまでも頭があがらない存在、というか、正直にいうと怖い。なるべく刺激しないでそっとしておきたいのだが、アイシェを泣かせて口をきいてもらえなくなったある日、総括たるそのハーディラから、王の下へ手紙が届いた。
陛下いますぐお会いしたくて胸が張り裂けそうですのわたくしに会いにいらして、と甘い誘いを装った呼び出しは、果たし状である。お説教のお知らせである。折檻の宣言、ともいう。それ以外の意味があったことは一度としてない。記憶をいくら探っても、本当に一度もないのである。だから本当は無視してしまいたかったのだが、白魔法使い他魔術師たちは、神に供物を捧げるがごとき厳かな微笑みで、王をハレムへ蹴りだした。
喧嘩してからうちの陛下ったら夜眠れなくなっちゃったのでなんとか取り成してあげてください陛下ちゃんと謝ってくるんだよごめんなさいができたら戻ってきていいからね、という言葉はお前ら主君をなんだと思ってるんだと王を怒らせるに十分だったのだが。魔術師からの嘆願書を手にしたハーディラが、小言を長々続けるのではなく、珍しくも呆れて息を吐いて額に手を押し当てたので、怒りが持続することはなかった。
分かりましたわたくしがこの一度だけとりなしますので陛下は素直に怒らずなぜ庭師に任せよと仰ったのかお話なさい会いたかったのに顔が見られなくて面白くなかったとかそういうことをです、と告げられて、王は若干引きながらその言葉に頷いた。ハーディラがそんなに積極的に動いてくれるのも、珍しいことだったからである。なにかあったのかと問えば、ハーディラは目を怒らせて王に手を伸ばした。冷え切った手に、ぬくもりを忘れた頬に。目の隈に。
あの子にわたくしも賭けたのです。まったく、と息を吐いて笑って、ハーディラは宣言通りにアイシェとの間を取り成し、王に話をさせた。アイシェが屈託のない笑顔を王に向けたのは、その時がはじめてで、そして今の所、最後である。庭仕事は好きにすればいい、と言った時のことだった。ただ、会いに来たら顔を見たいし、草花ばかりに構っているのも面白くないし、と続けた言葉を、果たしてアイシェが本当に聞いていたのかは定かではない。
それくらいに、女は喜んだ。たったそれだけのことで。宝飾品より、豪勢な甘味や珍しい品々より。悪かった、という言葉と。植物の手入れの許可に。それから王が女に送るものと言えば、季節の花の種や苗木や、園芸に必要なものばかりである。珍しくねだられて、肥料を運ばせたこともある。王の訪れより肥料の搬入に喜ばれたのは、かつてない出来事だった。
アイシェは実に精力的にハレムの庭を整えた。おかげでここ数ヶ月、ハレムに訪れるたび、男は季節の巡りと植物の瑞々しい空気に触れる。懐かしい、と思うことをアイシェに伝えたことはない。それは失われたハレムの空気だった。先王が失われる数年前まで、ハレムはまるで楽園のよう、植物と花に満ちていた。気が触れ、我が子に手をかけてまで妃の情を得ようとするその時まで。瓦解してしまう時まで。
首を締め上げた父の、指の感触を今も覚えている。その頃にはもう庭は枯れていた。アイシェが手をかけ蘇らせたのはその場所だった。朽ち果て、枯れるばかりのその庭を、そのままにしておけと命じたことはなかったのだが。知る者たちは手を出せず、放置してしまった一角だった。荒れ果てた場所の、隅々にまで手が行き届く。夜の暗闇を見つめながら朝を待つ気持ちは、陽だまりの中で眠りにつく。
布を寄せた時に、窓もすこし開けたのだろう。入り込んでくる朝の空気からは、どこか瑞々しい香りがした。新しい花が咲いたのよ、とアイシェは笑う。そうか、と頷いて王は立ち上がった。
「摘めるのか、その花」
「え? ええ」
「分かった。飾っとけ。今日の昼は予定があるから……夜に見に来る」
だから夜には部屋で待っていろよ、ということなのだが。言われたアイシェは、妙な顔をした。緊張しているような。眉にも唇にも力が入っていて、無言で見つめられると、睨まれている気持ちになる。アイシェは王がなにか言うたび、よくこういう顔をする。だいたいは無言である。なにが気に入らないのか、告げられたことはない。
慣れた仕草でひとりばさばさと着替えながら、王はなんだよ、と寵愛を一身に受けていると誰にも囁かれる女を、ややうんざりした気持ちで見返す。
「なにか予定でもあったのか、今日の夜」
「ないわよ。ない……ないけど……」
どうしてそんなに毎日来るのかしら、という顔をしている。なにかしたかしら、と言わんばかりである。歯切れの悪い言葉の続きを遮らず、待ってやると、アイシェは得心が行った、という顔をして頷いた。
「昨日はしないで寝ちゃったものね。でもね、シア? 疲れてるなら、私はいいから眠らないと」
気にしないでいいのよ、と微笑まれる。心底苛立ちながら、王はアイシェを手招いた。なに、と傍まで寄られるのを、抱きしめて溜息をつく。
「お前いい加減にしろよ……」
「……そんなにしたかったの?」
「いいかアイシェ。よく聞け。いいから聞けよ?」
頬を両手で包んで、顔をあげさせる。訝しげに眉を寄せられているのでくじけかけるが、指先でやわやわと撫でていると、くすぐったげに微笑まれたので気を取り直す。菫色の目を、まっすぐに見て。告げた。
「好きだ」
「……光栄ですわ、陛下」
とても嬉しい、とはにかまれる。照れくさそうにされるのも本当なのだが。中庭の手入れ許可の、屈託のない、本心からの笑みとは全く別のものだった。好かれていない、訳ではないのだが。絶対に通じていない。王がハレムの女に義務的に囁く、挨拶のひとつかなにかだと思っている。むっとして、王はアイシェの頬をむにむにと摘んだ。
「好きだって言ってんだろもっと喜べよ」
「ちょっとシア、シア! もう、こどもみたいなことしないの……!」
「お前俺より花の方が好きなんじゃないんだろうな……」
可能性はわりとある。好き勝手頬をもてあそんだのち、男は深く溜息をついてアイシェを解放した。アイシェは赤くなった頬を、眉を寄せてさすっている。そんなに力は入れていない筈なのだが。女は手加減が難しいと息を吐き、男はまったく、とアイシェの腕を引っ張った。
「帰る」
「はい。またのお越しをお待ちしております、陛下」
ところでこれはなにかしら、と腕を引く手が見つめられている。しばらく待っていると、えっ、と戸惑いきった目で見られたので、王は心から息を吐きながら、いや見送れよ、と言った。女たちは許可なく、ハレムから出ることはできない。だが、出入り口まで歩いていくことを制限したことはない。えっ、と戸惑って目を見開かれるのに、王は心底苛立ちながら言い放った。
「離れ難いから、ついて来て見送れって言ってんだよ!」
「い……いいの?」
きゅ、とまた眉が寄る。睨むように力がこもった目が、なぜかやや潤んでいた。なにかを、我慢しているように、感じる。訝しく思いながら親指の腹で瞼を撫でて、男は、アイシェ、と寵妃の名を呼んだ。
「いいから。来い」
「……うん。……え、えっ。あ! はい!」
緩んだ声で声を零したのち、驚いて背を正して言いなおすアイシェに、どっちでも好きに返事しろよただし無視はするなよいいかもう無視だけはするなよ分かったな、と言い聞かせて。王はアイシェを連れて、一晩を過ごした部屋から足を踏み出す。ハレムの朝は早く、目覚めた女たちの声がかましく、そこかしこから響いている。おはようございます、と囁かれるのに、頷いて歩く。
あくびをしながら歩く王は、アイシェが一瞬立ち止まり、とある場所へ視線を向けたことに気がつかなかった。一瞬の泣きそうな顔を、すぐ消して微笑んだことにも。寵妃が見た先には、未だ主を迎えぬ部屋がある。王がアイシェに案内させた部屋。迎える予定の、主の名を。ソキ、という。部屋は案内されたきり、そのままで、いつ来るとも迎えるとも聞いてはいないのだが。閉鎖されず、置かれている。
可能性は消えずに。予定がある、ということだった。
堅牢な門が、ハレムの入り口を閉ざしている。見張りの兵に命じて開けさせ、ついてきたアイシェにまた夜に、と言って立ち去りかけて、王は出迎えの異変に気がついた。王宮と地続き、とするより、天井を高くした一室を門によって区切っている場所である。一歩を踏み出せば王宮であるから、そこからの同行に、魔術師が控えていることは多くあるのだが。王は額に手を押し当てて息を吐いたのち、瞼を持ち上げてもう一度、出迎えの魔術師を確認した。
陛下おはよー、アイシェさまもおはよー、とのんびり笑って手を振ってくる白魔法使いはいい。朝が不機嫌なことが多い、王の送迎に割り当てられるのは八割九割がフィオーレである。なにをしても大丈夫な人身御供としてみなされている白魔法使いは、王の幼馴染でもあるので、気心が知れている分やりやすい。だからいい。フィオーレはいてもいいのだが。あっ、と声をあげ、控えの長椅子から立ち上がる少女が、ここにいる理由が分からなかった。
開門したものの、一歩も動かないでいる王に、兵士たちからどうしたものかという視線が向けられる。古くはハレムの女たちの脱走防止用として、今は主に不届きな輩の進入防止用の門として機能している所である。開けっ放しにしておくのは、なにかと落ち着かないのだろう。王も、それは分かっているのだが。シア、と訝しく、背からアイシェに声をかけられて、ようやく。王は絞り出すような声を出した。
「リトリアお前なにしてんだ……」
「え? え、あ! 砂漠の陛下におかれましては、ご機嫌うるわしく。おはようございます。早朝からお目にかかれて光栄です」
ぱぱっ、と手早く着衣の乱れをなおし、慣れきった、うつくしい仕草でリトリアは一礼する。ああうんえらいえらい、と雑かつ適当に頷いて、王はどんよりとした目でリトリアを見た。
「俺がなにしてんだって言ったのは、挨拶しろよっていう意味じゃねぇよ……。なんでここにいるんだっていう意味だよ。今度家出する時は、砂漠以外にしますってこないだ俺と約束したろ?」
「もう、シアちゃんたら! そんなじゃないったら! 違うの。あのね、お願いがあって参りました」
「いやな予感しかしないから聞かない」
しっし、と羽虫をのける表情で手をひらつかせれば、もう、とリトリアが腰に手をあてて身を乗り出してくる。聞かないからな、と砂漠の王は息を吐き出した。だいたい、呼び方が陛下ではない所からすでに怪しい。数秒考えて、王は頬を染めてとことこ近くまで寄って来たリトリアに手を伸ばし、遠慮なく頬を押しつぶし、言い聞かせた。
「リ・ト・リ・ア。呼び方に気をつけろよって俺はこないだも言ったな……?」
「砂漠の陛下おはようございますって私はちゃんと言ったもの……! や、や、いじわる!」
「いじわるじゃねぇよ折檻だよ俺が言ってんのはその後だ、後! だいたい、お前ちゃんとスティに許可取って外出してきたんだろうなぁ許可証見せろ許可証! この悪戯おてんば娘っ!」
はい楽音からの許可証、とばたばた暴れるリトリアの代わりにそれを差し出してきた白魔法使いを、王は迷いなくひっぱたいた。陛下ちょーふきげんくないなんでー、としょぼくれる白魔法使いを冷たい目で見下ろし、王はリトリアからも手を離してやる。だいたいなんでここまでつれてきたんだ、と問うより早く。もじもじ、もじもじしたリトリアが、あの、と王の背後へ声をかけた。
「も、もしかして……アイシェさまですか……? わぁ、美人さん……! 陛下ったら全然会わせてくださらないんだもの……。ええと、お初にお目にかかります。楽音の王宮魔術師、リトリアと申します。朝早くからごめんなさい」
「……リトリアさま? わたくしは、アイシェと申します」
微笑みかけられたリトリアは、嬉しそうに目を輝かせて一礼した。意気込んでなにか話しかけようとするその首根っこをひっつかみ、王はだめだ、と言い放った。
「さ、行くぞリトリア。みっちり説教からはじめて、終わったら用件を聞いてやらんでもない。……悪かったな、閉門していいぞ」
「え、え! せっかくだからアイシェさまとお話したい……!」
「アイシェ」
お願い、ねえお願い、とリトリアが頼み込んでくるのを完璧に無視して、砂漠の王は数歩門から離れ、振り返ってアイシェを呼んだ。一礼して見送っていた女が、顔をあげる。視線が重なったのを確認して、王はふ、と思わず笑った。
「また夜に」
返事を聞かないで歩き出す。笑いながら、白魔法使いは王の後を追った。リトリアはぐいぐい服を引っ張られて歩きながらも、頬を赤らめて王と、女を見比べて。とびきりの幸福に触れたように、ふふ、と笑みを零した。
リトリアが砂漠にいた理由は、少女の希望と白魔法使いの都合が一致した結果である。殺し手であるレディが半分昏睡して眠っている今、リトリアの外出に付き添わねばならないのは白魔法使いだ。しかしここ半年ほど、フィオーレは砂漠国外に出ていない。所用で『扉』を渡って他国に行くことがあっても、一時間もしないですぐに戻ってくる。砂漠国内の魔力が、どうにも安定していない為だった。
癒しの使い手とはいえ、魔法使いは最高位。王の守りを厚くする為にも、長く傍を離れるのは好ましいことではなかった。リトリアは、砂漠の王に火急の用があったのだという。だったら『扉』まで迎えに行くからこっちおいでよ、ついでに噂のアイシェちゃんが見られるかも知れないからお迎えにいこ、とフィオーレが招き入れたのだという。ことの顛末を聞いて、砂漠の王は頷いた。
足払いをかけて床に倒して的確に背骨を選んで体重をかけ踏みにじりながら、不機嫌な顔でリトリアに尋ねる。
「で? 火急の用ってなんだ? あとアイシェとなんの話をしたかったんだ?」
「ちょ……と待って陛下! 普通に会話続けようとしないでみしみししてる! 俺の背骨から今まさにしちゃいけない音がしててなんていうか痛いし怖いし苦しいし怖いしごめ、ごめんなさいごめんなさい陛下!」
「え、えっと、えっと……」
リトリアはフィオーレと砂漠の王を何度も何度も見比べ、執務室にいる兵士たちや魔術師たちに助けを求め視線を反らされあるいは頷いて達観した笑みを浮かべられ、じわじわと涙ぐんだ。うう、と鼻をすすり、もう一度フィオーレと王を見比べて。こく、と頷き、リトリアは息を吸い込んだ。
「署名していただく書類ができたものだから……」
「えっ待ってリトリア俺のことを諦めて陛下と話ししようとしないでっ?」
「見てやる。出せ。フィオーレうるさい」
背骨が折れたら白魔法使いも即死するのかしら、と疑惑の顔でラティが座り込み、主君に忠実に口を手で塞いで黙らせる。どう頑張っても殺害実行現場に同席している気持ちになるのだが、リトリアが改めて助けを求めて周囲を見回しても、微笑んで頷かれるばかりである。あ、それ放置して大丈夫なので、と砂漠の王宮魔術師に告げられるに至って、リトリアはもう一度頷いた。
「却下」
はい、と書類がリトリアに返される。あまりに早く、あっさり戻されたので、リトリアは目を瞬かせて首を傾げた。言葉の意味が染みこんで来るまで、数秒。ええっ、と抗議の声をあげたリトリアに、砂漠の王は駄目に決まってんだろうが、と険しい目を向ける。
「ストルはともかく、ツフィアの就任は認められない。フィオーレとレディのどっちかと、ストルの交代なら許可してやらんでもない。以上終了。はい、帰れ」
「……理由は?」
「言葉魔術師を、予知魔術師の殺害役、あるいは守護役として認めるには不安が残る。魔術師としての能力が未知数で、また、詳細が語られないからだ。王の命令あってなお、ツフィアが口を閉ざし、シークが告げようとしないからだ。文献は不自然に焼失している。検証できる資料もない。よって、ツフィアを予知魔術師のどちらの役へも、認めることはできない」
震える声の疑惑をかき消す、整然としたつめたい声での説明だった。何度も繰り返し語られたことを伺わせる、作業的な言葉だった。唇を噛んで、リトリアはうつむく。できたばかりの書類は、王が告げた通り、ストルとツフィアをリトリアの守護と殺害の役へつける為のものだった。それを、大事に持ち直し。リトリアは泣かずに、強い意志をもつ瞳で顔をあげる。
「じゃあ……じゃあ、シークさんか……ツフィアが、言えば、考え直してくれますか。言葉魔術師についてを」
「お前にそれができるなら」
「……できるように、なります。そう待たせはしません。絶対に!」
一月前の、パーティーの夜でも。リトリアは同じ目をして王たちのことを見ていた。立ち向かおうとする目。諦めない意思。砂漠の王は気乗りしない様子で息を吐き、頷いてやった。別に苛めたい訳ではないのだ。譲りたくないだけで。まあ、いいからしばらく楽音で大人しくしておいてやれよと呟き、じゃあ帰ります、と唇を尖らせるリトリアを呼びとめる。
「帰る前に。アイシェになんの話があったんだ?」
「なんの、っていうか……初恋の君が気になって……。え? 両想いなの? いま、どんな風なの……?」
「知らねぇよ俺が聞きたい」
ハレムから出て行きたいという話は、聞いたことがないので。王に抱かれるのが苦痛であるとは思えず。また、ハーディラに確認も取ったので、居続けなければいけない理由もないことは分かっている。大なり小なり好意はあると思うのだが。それがどういうものかが、分からない。ふうん、と訳知り顔で頷いて、リトリアは口に両手をあてて肩を震わせた。
「大丈夫。そのうち、きっと、上手く行くわ」
「はいはい、そうだな。ありがとうな」
「もう! ……あ、もしかして! ソキちゃんにもそうやって雑に対応したんでしょう? だからよ……?」
傍にいるのがロゼアくんだから、そんな態度を取られたこともないでしょうし。怖かったんだと思うの、かわいそうに、と続けられて、砂漠の王は心当たりのなさに眉を寄せた。なんの話だと問えば、リトリアはきょとん、として。するすると視線を王の足元へ降ろした。王が脱力した隙を逃さず脱出した白魔法使いは、身をよじって背中の汚れを払い、待ってる間に話してたんだけど、と口を開く。
「陛下。今日の午後、ソキの定期面談の予定なんだけどね」
「……そうだな。それが?」
「昨日の夜、ロゼアからお断りの手紙が届きました。なんかね、ソキが手がつけられないくらい泣いて嫌がったので代理での出席も拒否します、っていう、要約するとそういう内容だったんだけど。陛下、先月のパーティの時とか、もしかしてなんかあった……?」
なんでも、泣いて泣いて嫌がって咳をして泣いて、熱を出して寝込んでいるのだという。砂漠に行くのを断固として拒否した、とのことだった。ロゼアの代理も拒否ということは、傍を離れるような状態ではないのだろう。は、と声を零した王に、フィオーレはだよねえ、と頷く。
「特になにもなかったよね。挨拶したくらい。でもそうすると……なんだろう?」
ソキはちゃんと義務だって分かってればやるこだもんねえ、としみじみとした白魔法使いの呟きに、王は胸中で深く同意した。義務であれば。役目であれば。ソキはそれを受け入れ粛々と実行するだけの度量の持ち主だ。肉体的にどれほど貧弱でも、意思は強い。定期面談も、王が予知魔術師としてのソキに課した義務である。単純な好き嫌いで拒否するものではないと、王も白魔法使いも分かっていた。
「……『扉』の状態は?」
「同じ適性のリトリアが通過しても安定してるし、乱れる兆候はない。前回も、前触れなくおかしくなったから……それを不安がってかな、と思えなくもないけど……。『扉』の確認がてら、様子見に行っていいなら、リトリアつれて行って来るけど」
「楽音で連れてく許可取ってからにしろよ」
リトリアの意思が関係ないのは、記憶が戻っても変わらないことだった。待遇が改善していないからである。まあいいか、と苦笑して、さっそく向かおうとするリトリアと白魔法使いの背に。ああ、そうだ、と砂漠の王は堂々と言った。
「あと、ロゼアが俺に対するなんかの疑惑持ってたら泣かせて来い」
「陛下……いじめよくないよ。それこそソキに嫌われるよ……?」
「あのね、陛下。疑ったのは私が悪かったのですから、私を怒ってください。ロゼアくんをいじめるのは感心致しません」
そして疑いましたこと申し訳ありませんでした、と完璧な笑顔で謝罪されて、砂漠の王はリトリアの成長を残念がる顔つきで頷いた。
「これか……スティが言ってたリトリアの心に来る対応……」
「うん。そうだね陛下。心に来るね。大人になられて辛いね。だからロゼアいじめるのやめようね」
大丈夫だよ陛下俺はいつでも陛下の味方だからねとぽむぽむ肩を叩かれて、砂漠の王はぐったりと、積み上げたクッションに体をうずめた。なんだってさっきまで踏んで反省を促していた者に慰められなければいけないのか。つらい。ソキから上手く聞き出せたら、リトリア送って早く帰ってこいよ、と告げると、フィオーレは心得た顔で頷いた。
「行ってきます、陛下。安全な場所にいてね」
「ああ。……反省したな? 踏んで悪かった」
いない間は任せて、と張り切るラティの手には、過失致死防止機能付きの長くてあたると痛そうな杖が、しっかりと握られている。俺、ラティのそういう気遣いのできる所素敵だと思うよ方向性がいつも俺の理解できる範囲をふりきってるけど、と苦笑して、フィオーレはラティと手を叩き合わせ、歩き出した。砂漠国内は、密やかな警戒状態が続いている。城から姿を消し、各都市を早急に確認して回っている筆頭が告げたからだ。なにか意図して力が動いている。我らの王を、砂漠の黄金の光を。二度と、決して、害させるな。
ようやっと、眠れる場所をみつけたあのひとの幸福を。
「……フィオーレ」
「うん?」
「あの……。なにかあったら助けるから。私のできる全部で、頑張るから。言ってね」
砂漠にはたくさんご迷惑をかけてしまったから、できることで少しずつお礼をして行きましょうねって陛下にも言われているし、と。出てきた執務室を振り返りながら言うリトリアは、なにか感じるものがあったのだろう。僅かばかり不安そうに告げられて、フィオーレはゆったりと笑って、うん、と頷いた。できるコトなラ、いくラでモあるよ。歪んで響いた、己の心に。言葉に。フィオーレは気がつかず、あリがとうな、と言った。