フィオーレの顔面にもふっと当たったアスルが、ぽてりと床に落ちて転がる。顔を両手で押さえてしゃがみこんでしまうフィオーレと、無言でアスルを見つめてしまうリトリアに、いにゃいにゃああぁっ、となにを言いたいのか判別できない、ソキの泣き声が訴えた。
「あすううう! うにゃぁああめええだめえええ! いにゃあああっ!」
「ソキ、ソキ。アスル投げちゃいけないだろ。……すみません、フィオーレさん。リトリアさんも」
「やぁああああすうあするうぅうう! あするかえしてかえしてくださいですうううあするううう!」
どうもソキは、自分でアスルをぶん投げておいて、返して欲しくて暴れているらしい。談話室の注目をめいっぱい浴びながら、リトリアはアスルをひょいと持ち上げ、心底申し訳なさそうな顔をするロゼアへ差し出した。ソキはロゼアの膝上で顔を真っ赤にして興奮し、けふけふ、何度か咳き込んでから、ロゼアに向かって両手を差し出した。
「ロゼアちゃ、ロゼアちゃっ、あすぅ返してくださいですううかわいそかわいそするですううう」
「ソキ。アスル投げたのはソキだろ。ひとに向かって投げちゃいけないって、俺は言ったよ」
「ソキわるくないですううぅう! こわいこわいだもん! ソキいけないことないもんいやぁいやいやにゃああぁっ! あする、あするあするううっ!」
ソキに奪われないように、片手でアスルを持って頭の上へ高くあげたロゼアが、深々と息を吐き出した。興奮しきった様子でソキはロゼアの肩をぺしぺしと手で叩き、訴え、いよいよアスルを返してもらえないと分かると、目をうるませていやいや、と身をよじった。
「ちがうんですぅ……。ソキとアスルはぁ、けんめいにロゼアちゃんを守ってるです……。こわいこわいが近くに来ないようにしてるです……。ロゼアちゃんは、どうしてソキにいじわるをするです……?」
「ソキ。いじわるじゃないだろ。……ソキ、ソキ。なにが怖いの? フィオーレさんが怖い? だから砂漠行くの嫌だったのか?」
「心当たりがないから……俺は無実ですって言っとくね……」
まだ顔を手で押さえながら、フィオーレが涙声で頷く。訝しく振り返って、リトリアは首をかしげて問いかけた。
「フィオーレ、どうしたの? 首でもひねった?」
「……その、もふもふの……アスル? だっけ。それに、呪いかかってて……ほんと、ほんっと、ちょう痛かった……! かったっていうか、まだ痛い……むり……ほんとむり……」
足の小指を全力で踏みにじられてそのまま骨を折られた時と、同じくらいの痛さであるという。説明を聞いて、フィオーレはなにをして足の小指をいったい誰に踏まれたのかしら、と思いながら、リトリアはロゼアの手にあるアスルを見つめた。つぶらな黒い目の、ふわふわ黄色いまるっこいぬいぐるみである。よくよく見れば、そのふわふわの周囲に、ソキの魔力がきらめいている。
投げれば必ずあたるように。そして、声が出ないほどの痛みを与え、動けなくなるように。
「……え? え、すごい、ソキちゃんすごい! ほんとに呪ってある!」
「でっしょおおおおっ? ソキはけんめー! にがんばたですうううなのにロゼアちゃんたらロゼアちゃんったらソキをめってしたですうううひどいことですううう! やぁあんロゼアちゃんアスルかえしてあするあするうう!」
怒っているので褒めないでください、と言わんばかりのロゼアからの視線に、リトリアはぴしっと背を正してごめんね、と言った。姿勢を正さざるを得ない視線だった。やや怯えるリトリアに苦笑して、ロゼアは溜息をつく。興奮状態から脱しないソキを抱き寄せ、背をそっと撫でるように幾度も叩いて、目を覗き込んで。ソキ、ソキ、と落ち着いた、柔らかな声で名を囁く。
「そんなに大きな声出したらだめだろ。……ソキ、ソキ、いいこだな。いいこだから、俺の聞いてることにお返事しような。ソキ? フィオーレさんが怖くて、だから砂漠に行くのも嫌だったの?」
「ちがうもん! こわいこわいだもん!」
「うん、うん。ソキ、なにが怖いの? 教えて、ソキ。なにが嫌? なにが怖いの? ソキ。……ソキ」
こわいこわいはこわいこわいだもん、とソキは引きつり裏返った声で訴えて、口に両手をあてるとけふこふと咳をした。う、ううぅ、と泣きぐずるような声を出して、握った拳で目をごしごしと擦る。ろぜあちゃんがわかってくれないです、と落ちこみ切った声でソキは呟く。
「こわいこわいだもん……ソキはちゃんと言ってるです……」
「……こわいこわいなの? こわいこわいって、なに? ソキ」
「こわいこわいだもん」
堂々巡りである。聞けば、昨夜からずっとこうなのだという。怖い、としきりにソキは訴えて、ロゼアにも必死に説明をしてくれるのだが。その説明こそが『こわいこわい』で。怖い、ということで。それが、なにか、を言うことはないのだった。リトリアはうぅん、と眉を寄せてソファの前にしゃがみこみ、しゃくりあげてこわいこわいだもん、と告げるばかりのソキに、飴を差し出し問いかけた。
「ソキちゃん。飴食べる? フィオーレが怖いの? こわいこわい、なの?」
「あめ……。あーん」
慌てて飴の包みを取り、リトリアはソキの口に食ませてやった。ふすん、と拗ねた風に鼻を鳴らしながら、飴をからころ口の中で転がして。ほんのすこしだけ、気持ちを持ち上げた声で、フィオーレさんじゃないもん、とソキは言った。
「フィオーレさんのこわいこわいだもん。フィオーレさんは怖くないですよ。でもね、こわいこわいだからね、フィオーレさんはダメです。こわいこわいです。わかったぁ?」
分からない。う、うん、そっか、と笑みを浮かべて頷き、リトリアはロゼアへ助けを求める目を向けた。ロゼアは考え込みながら、ソキの頬に手をあてたり、首筋や額に触れたりしている。投げちゃだめだぞ、とアスルを渡して抱かせながら、ロゼアはやや困った顔でソキを見た。
「フィオーレさん、が……怖いの? 怖くないの? どっち?」
「こわいこわいです。砂漠のお城はね、こわいこわいでいっぱいです。ソキには分かるです。やんやんです!」
言って、ソキはまた、こふん、と咳をした。ロゼアはソキを抱き、さっと立ち上がる。ナリアンとメーシャの授業が終わるまでは、と思ったけどとひとりごち、ロゼアは申し訳なさそうにリトリアに微笑む。
「リトリアさん。午後までに、もしチェチェリア先生にお会いすることがあれば……今日の授業の欠席をお願いしたいと、ロゼアが言っていた、とそう伝えてくださいませんか。お昼までに、時間を見つけて欠席届は書くつもりですが、間に合わなければ待たせてしまいますから」
「う、うん。もちろん。必ず会う、とは、約束できないから……もし会ったら、になるけど」
このあと、リトリアがまっすぐ楽音に帰れるかも定かではないのだ。一応、希望としては星降でレディの様子を確認したり、ストルとツフィアにも挨拶をしていくつもりであるのだし。すれ違っちゃうかも知れないから、私も先に手紙を出して届くようにしておくね、と告げれば、ロゼアはほっとした様子で笑い、お願いしますとリトリアに目礼した。まだ立ち上がれないフィオーレには、心から申し訳なさそうにすみませんと謝罪し、ロゼアは足早に談話室を去っていく。
その背からぴょこりと顔を出して。ソキはちっとも反省していない様子で、フィオーレをきゅっと睨みつけた。
「きしゃああああですううう!」
「あ、こら、ソキ。威嚇したらいけないだろ」
「こわいこわいが追いかけてくるかも知れないです……! アスル、アスル? ソキといっしょに、けんめいにロゼアちゃんを守るですよ……! んっ……ん、んん……? けふっ。けふ、けふっ、こふっ」
アスルも投げたらいけないだろ、と言い聞かせながら、ロゼアが音のない足運びで、瞬く間に部屋を横断し、階段をのぼっていく。ソキの体調が思わしくないのだろう。フィオーレの元にロゼアからの手紙が届いたのは昨夜であると聞く。昨夜から興奮して、ずっと叫んで騒いでいたのであれば、眠ったにせよ、ソキの体がもつ筈もない。ううん、と悩みながら、リトリアは真剣に心配になってきた顔で、まだ微妙に震えているフィオーレを見下ろした。
「あの……ねえ、大丈夫……? レグルスさんを呼んでこようか……?」
学園の保険医は、特別な理由がないかぎり、今日も定められた部屋にいる筈である。白魔法使いは深呼吸をして顔をあげ、よろよろと立ちあがって溜息をついた。
「いいよ……。それより、リトリア……聞いていい……?」
「なに?」
「俺……俺、ソキに、嫌われたのかな……」
かわいそうなくらいに声が震えている。リトリアは慌ててフィオーレに駆け寄り、ソキちゃんがなにを言っているのかよく分からなかったけど、と前置きをして、手を握った。
「フィオーレが、嫌いっていう、そういう訳ではなかったと思うの。落ち着いたら、ロゼアくんが解読……。解読……? え、えっと、えっと……ん……あ、翻訳? そ、そう、翻訳! ソキちゃんの言いたいことを、きっと、ロゼアくんが翻訳して教えてくれる筈だから。それまで待ちましょう? ね? 泣いちゃだめよ」
「うん……わかった……。あー……陛下になんて言おう……」
ソキの説明をそのまま告げたとて、なに言ってんだお前、の一言で一蹴されるのが目に見えている。他にどう説明することもできないのだが。改めて頭を抱えるフィオーレに、僅かばかり眉を寄せて考えて。リトリアは、とりあえずチェチェにお手紙を書くから、終わったら一緒に星降へ行ってくれる、と白魔法使いに問いかけた。力なく、頷かれる。よし、と頷いて、リトリアは考えを巡らせた。
レディが眠りについてから、一ヶ月。二ヶ月の眠りが通常であるから、当然、起きる気配は感じられなかった。無理を重ねて心痛もたっぷりで起きていたので、予想だと普段より眠りは長くなるらしい。三ヶ月か、それ以上か。半年もすれば起きて来るといいのが大多数の考えで、リトリアは思わず溜息をついた。そんなに大変な状態で頑張らせてしまっていたのかと申し訳ない気持ち半分、落ち込みがもう半分である。
リトリアの守護役と殺害役の交代には、五王全員の承認と、なにより現職二人の同意が必要不可欠だ。
「だからね、あの……ツフィア。もうすこしだけ待っていてくれる?」
「もちろん。焦って強引なことをしてはいけないわよ、リトリア」
昼前の、どこか間延びした空気が室内には漂っている。ツフィアの部屋には変わらず魔術的な仕掛けが施されているし、出入り口には見張りが立っていたが、ツフィアが過度にそれを気にするそぶりは見られなかった。机を挟んで座り、甘いミルクティーで喉をうるおしながら、リトリアはそろっと視線をさ迷わせる。
「……ストルさん、今日は授業に行かれたの? すれ違っちゃった」
「リトリア? 焦って、強引なことをしないのよ」
「んっと、えと、あの……。はぁい……」
結局誤魔化しきれなかったので、リトリアは唇を尖らせながらも頷いた。王たちの署名を必要とする申請書類をつくりあげるのも、ここ一月、ほぼ毎日早くして早くしてと急かし続けていたのだが。それは強引な手に含まれるのだろうか。心当たりはとてもある。だって、と指先を突き合わせて拗ねるリトリアに、ツフィアは思い切り苦笑した。
「あなたの立場を悪くすることはないわ。それに……砂漠の陛下から承認を得るのは、難しいでしょうし」
「でも……はやくしないと、ツフィアはいつまでもお家に帰れないし……難しいのは、私も分かってるけど。でも、やると決めたの。ツフィアがいい。ツフィアと、ストルさんがいいの」
もちろん、魔法使いたちが嫌いなわけではないのだが。予知魔術師として、傍にいて欲しいと思ったのは。運命だと思ったのは、ストルとツフィアだけだった。そして、もうそれを諦めないと決めたのだ。時間はかかると思うけど、でも絶対だから、頑張るからね、待っててね、と告げて。リトリアは、そうだ、と手を打ち合わせて笑った。
「砂漠の陛下はね、ツフィアが、言葉魔術師についての説明をすれば考えてくださるって仰ったの」
「……そう」
ためらうような間があった。ツフィアの視線はリトリアへ向けられ、さ迷い、伏せられて動かなくなる。リトリアはそれを、難しいことだとは思わなかったのだが。ツフィアが言葉を重ねることもせず考え込んでいるので、そぅっと眉を寄せ首を傾げてしまう。
「……あの、なにか大変なことなの? 気乗りしない……? あ、あの、緊張しちゃうんだったら、お話の時、私も傍にいて応援していられるように、お話しておくね。大丈夫よ。シアちゃ、う、あの、砂漠の陛下もね、本当はね、優しいこともあるのよ。ただちょっと、言葉魔術師っていう適性が、どうしてもその……好きじゃないだけで……。あの……ツフィアが、いじめられないように、私が守ってあげるから!」
手を伸ばして。きゅっと両手を包むようにして握って。リトリアは目を見開くツフィアに、大丈夫よ、と言った。
「守るからね、ツフィア。大丈夫!」
「……そう?」
くすぐったそうに。肩を震わせて、ツフィアは笑った。ようやく、なにかに安心したような表情だった。そんなに陛下たちにいじめられたのかしら、とリトリアは眉を寄せる。わりと私情でひとさまをいじめる王に心当たりはある。楽音の王だとか。砂漠の王だとか。こどもっぽくていじめっこみたいなのが、いる。
帰ったらツフィアになにをしたのか聞きださなくっちゃと意気込むリトリアに、ツフィアはでも、と囁いた。
「もうすこしだけ、時間をくれる? もうすこしだけ……考えたいの」
「うん、もちろん! レディさんが起きるまでは、進めるのも難しいから……話すこと、ゆっくり考えてね」
「ありがとう。……ところで、今日はフィオーレと一緒なの?」
あの男と付き合うのはやめなさいと言っているでしょう、と息を吐くツフィアに、だって外出するのに一緒じゃないといけないんだものと告げ。来る時に傍にいなかったでしょうと訝しむツフィアに、リトリアはううん、と苦笑した。
「やっぱり、どうしても顔が痛いから、呪い解くの得意なひとに頼みに行くのですって。迎えに行くまでツフィアのトコでじっとしていてねって」
「……呪い?」
「うん。ソキちゃんがね」
よく分からないんだけど、アスルちゃんに呪いをかけてなんでか攻撃してくるの、と言ったリトリアに、ツフィアは数秒沈黙して。よく分からない、という風に額に指を押し当て、深く息を吐き出した。言っておいてリトリアにも分からないので、それ以上説明のしようがなく。妙な沈黙を漂わせ、やがて顔をあげたツフィアは、真剣な目をして言った。
「リトリア」
「はい。なあに?」
「あの男とつきあうのはやめなさい」
どうも、ツフィアの中で、フィオーレがソキになにかをしただとか、そういうことで結論が下されたらしい。在学時代に色々あったせいで、基本的に、ツフィアが下す白魔法使いの、こと人格的な評価は最低のひとことである。男女関係なく節操なく手出しした結果の修羅場に、ツフィアは純粋な事故として巻き込まれた経緯がある。庇いようがなかった。
それでは十一月の筆頭会議をはじめます、と告げたフィオーレの目がしんでいる。月の初日に、中々見たいと思う表情ではない。なにがあったんだと息を吐く星降筆頭に、それぞれ代理の腕章をつけた者のうち、ウィッシュがはいはいと手をあげて発言した。
「ソキがなんか無差別? ではないみたいなんだけど、呪いで攻撃騒ぎ起してて、フィオーレがその被害者のひとりなんだよね。俺、この会議が終わったら、学園で面談なんだ」
ついに寮生にも被害が及び始めたので、対策を講じることになったのだという。フィオーレの被害から数日が経過している。すぐに対応がなされなかったのは、なにかの理由でソキが癇癪を起こしているだけで、すぐに落ち着くと思われていたからであり。攻撃されたのはフィオーレであるから、またなにかしたに違いない、と大体の魔術師が、積極的に問題視していなかった為だった。
第一の被害者がフィオーレ、第二がエノーラであったのも、楽観に拍車をかけた。フィオーレから話を聞いた砂漠の魔術師たちは、よく分からないけど刺激するのはやめておこう、として自主的にソキとの面会や、学園に行くことを控えていたので被害者の数が続々と増えるようなことはなく。第三の被害者が発生した。寮長、かと思いきや、ルルクである。
おはよう、と挨拶をしに言ったらぴゃああああああと悲鳴をあげられアスルが投げられた。半日身動きが取れなかったのだという。寮長はソキに凝視されたのち、心底残念がる顔でこわいこわいじゃなかたです、と告げられたとのことだ。ロゼアがいくら窘めても、ソキはアスルを手放さず。呪いを解くこともなく。がんとして言うことを聞かず、担当教員の呼び出しと相成った。
「フィオーレに、エノーラまでなら理解できるものがあるが……ルルクまで?」
ちょっと落ち着きがないが素行は良い筈だろう、と眉を寄せたのはロリエスだった。花舞の筆頭でありながらナリアンの担当教員である女は、当然その騒ぎを知っていた。知っていたが、ソキと顔を合わせてもなにも言われなかったし、されなかったし、被害者が被害者であったので。静観していたひとりでもあった。
ソキには確固たる理由があっての行いである。説明されたが分からなかったな、と告げるロリエスに、代理の腕章をつけたチェチェリアが息を吐く。
「ロゼアが、こちらが申し訳なくなるくらい反省していて……。ソキにも、本当に懇々と言い聞かせているし、怒ってもいるし、アスルを取り上げもしたそうなんだが……ロゼアがちょっと目を離した隙に、棚の上においたアスルを取ろうとして……どうも聞くところによると、棚をよじのぼろうしていたソキが滑って倒れて後頭部を打ってな……今はロゼアがソキをがっちり抱いて、ナリアンがアスルを持って傍にいることで折り合いがついているらしい。すまないな、ロリエス」
「気にしなくていいさ。ナリアンは楽しそうだった」
会議に出る前にロゼアの部屋まで行って中を覗きがてら、ナリアンに宿題を渡してきたのだという。ソキはロゼアの腕で身動きが取れない様子でふくれていたが、そう機嫌が悪そうにも見えなかった。ロリエスがざっと確認した所、アスルにかけられた呪いは、中々のものである。ソキがそうと決めて投げた相手にしか、呪いを発動させないのだ。ただ投げるだけなら、無害である。もちろん、普通に触れているだけでも痛みはない。
ナリアンは不思議そうにアスルをもふもふと弄りながら、ソキちゃんは頑張っちゃったんだね、と残念そうに息を吐いていた。しなくていい方向への努力だった。
「ていうかこの、五分の三が代理の筆頭会議なんの意味があんの……? 俺もう砂漠に帰りたい」
「情報共有が主な理由ですよ。そう言わない」
文句があるならあなたはまずジェイドを引っ張ってくる努力をなさいと星降筆頭の男に溜息をつかれて、フィオーレはそうなんだけど、と口ごもった。半年に一度、月の初日に開催されるこの会議は、各国王宮魔術師の情報共有を主目的として行われる。近年平和であるが故に、交わされるのは同僚たちの体調や私生活のあれこれ、各々の王の動向など。した方がいいが、しなくてもまあ、いい、と大体の者には思われている。
代理出席が多いのがその証拠だった。
「変わったことはありませんでしたか?」
それでも。欠席する国はなく。筆頭として選ばれた者の、意思がくじけることはない。微笑んで言葉を求めた男に、ぱらぱらと情報がもたらされていく。花舞からは女王陛下の最近の様子や、魔術師たちの状態について。楽音からはリトリアの騒動に対する改めての謝罪と、最近の少女の様子や魔力の安定の度合いについて。砂漠からは筆頭が城を離れている理由と、落ち着かない国内の魔力の状態について。白雪からは女王の、産まれた娘の愛らしさと、『扉』の状態安定について。
一通り口を挟まず聞き終えてから、星降筆頭たる男もまた口を開いた。最高戦力たるレディの眠りと、覚醒の見込みについて。ストルとツフィアの監視の報告、またその続行に対するいくつもの意見。先月のパーティー後に取り纏められたいくつかの報告書と、それに対する魔術師らの意見書。王に対する報告書と、その反応。言葉は誰の口からも声を荒げることなく、穏やかにさえ感じられる淡々とした響きで紡がれていく。
五人の前に置かれた机にはいくつもの紙が置かれ、魔力を帯びた筆記具が走り続けている。文字は発言者を選ばず、全てが書き連ねられている。言葉は全て記される。感情だけが排されたまま。
「その、一月前の妖精からの報告が気になるな……。城下にはなにもなかったんだろ?」
「調べましたが、特には。感受性の強い、繊細なこですから、なにかを感じ取ったのかも知れませんが……」
「ソキ、説明へたくそだもんね。でも、そっから授業で何回か会ってるけど、別に様子も普通だったし……そうすると、やっぱり砂漠? 砂漠なんかした? というか、砂漠はなにしてんの?」
なにしてるの、と言われなければいけないほど、画策をしている訳ではない。心当たりないよ、と前置きした上で、フィオーレは眉を寄せて首を傾げた。
「筆頭にはなにか心当たりがあるみたいで、陛下の守りを固めろって指示は受けてる。国内の魔力がさほど安定していないのは、リトリアのアレの影響かなって所。でもそれだって、もう消えかけてることは確かだし……分からない、としか伝えられないけど、悪巧みはしてないよ」
「砂漠の魔力残滓が安定を欠くのは常、とはいえ……長期に及びすぎている気もするな」
「でも、ソキが世界をばーん! ってして、ぴょいってしちゃったのがちゃんと凪ぐ前に、リトリアのやだやだー! だったでしょ? しょうがないと思う」
ソキも、ウィッシュに説明がへたくそとは言われたくないだろうに、と思っている微笑で、チェチェリアが頷いた。
「過度に不安がる理由としては、原因がある。が、調べなおしたほうがいい気がするな。他国に調査を依頼するのは?」
「分かった。陛下に話をしておくから、得意なのを何人か集めて申請して欲しい。……え、なに? ロリエス」
「ちょうどいい課外授業だと思ってな。ナリアンも入れよう」
調査人員に、である。いや『学園』の生徒を使うのはどうなのかという意見を、ロリエスは整然と説得していく。まず、ナリアンが魔法使いであること。ここ最近の安定と成長が目覚しく、経験を積ませたいと思っていること。浮遊する魔力を視認し、探り、触れることは、なにより魔術師の成長の助けとなること。なにより人員が必要な調査であり、根気はいるが手順としては簡単で難易度も低いこと。
それを得意とするロリエスが、もちろん、教員として同行すること。
「……聞いておくけど、ロリエスはナリアンをどうしたいの?」
「あれは私の後継だ」
すでに予定ですらない、断言で宣言である。チェチェリアは微笑んで、無慈悲に筆記されていく紙を見つめた。会議終了後、紙は魔術によって複製され、各国の王に提出される。王宮魔術師にも閲覧可能な資料として、保存もされる。外堀を埋めてるな、と関心するチェチェリアの隣で、ウィッシュが息を吐いた。
「まあ、いいんじゃないの。でも、ひとりだけだと不公平な感じするから、もうひとりくらい連れてきなよ」
「そうすると……ロゼアか、メーシャだな」
ロリエスの目がチェチェリアへ向けられる。チェチェリアは穏やかな笑みで、一度だけ頷いた。女たちの無言の会話。真顔で手を取り握手をしあって、ロリエスはきっぱりと言い放つ。
「メーシャだな」
「ああ、メーシャだ」
「分かりました。ストルには話をつけておきますね。早いほうがいいでしょうから、明日……遅くとも明後日の午前には調査の候補日をあげられるように、選抜も済ませておきます」
ロゼアをソキの傍から離すべからず。王宮魔術師にもじわりと浸透してきた事実である。星降筆頭も分かっているので、話は早かった。各国最低一人は出すように、との言葉に、各々頷いていく。
「今回はこんなかな? ソキの面談の結果も各国閲覧で回すから、皆確認しておいてね。なんかすごい呪いっていうから、俺ちょっと楽しみなんだー」
「ウィッシュ。構成の確認ができたらそれも一緒に記載しておいてくれ。興味がある。……精密だった」
ほう、とロリエスが息を吐く。そこには紛れもない賞賛があった。そんなに、と目を瞬かせるウィッシュに、ロリエスは真剣な顔をして頷く。
「祝福と呪い。それは効果を受け取る者の意思によって言葉を入れ替えているだけ、と言えど……苦痛を与えるあれは、紛れもなく呪いであるだろう。それでいて、あれはソキの意思によって選別がされて発動するものだ。無差別ではなく。発動の仕方は祝福の性質。そうでありながら、効果は絶対的に呪い。呪詛そのもの。類を見ないぞ」
「ソキ、手先が器用だもんね」
そういう問題でまとめた報告書にならないことを切に祈っている目でロリエスはウィッシュを眺め、力なく一度、頷いた。頑張るね、と言って荷物をまとめながら、でもさぁ、と『花婿』は首を傾げる。
「エノーラは、待って逆に考えればこれはご褒美なんじゃないのって言っ」
「ウィッシュ。話をややこしくするのはやめないか。あれは例外だ」
「はーい」
最後まで言わせず。叱りつける口調で、チェチェリアが遮った。ウィッシュはのんびりとした声で頷き、それでもう終わりにしていいの、と閉会を求める視線で場を見回した。星降の筆頭は苦笑しながら、ひとつひとつ確認していく。ざわめきに似た言葉がいくつか。筆記具が紙の上を走り、やがてぱたっ、と横に倒れる。ひとりが部屋を出て行き、ひとりが椅子に座ったまま伸びをする。ひとりがいくつかの言葉を独自に書きとめ、ひとりは目を閉じて深く息を吐き。
ひとりは、紙束を手にとって。とん、と打ってひとまとめにした。