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 消されている。言葉は消されている。塗り潰されている。真っ黒にされて、そこにあったものがどうしても読み取れなくされている。それを伝える言葉を隠されている。残ったのは。奪われないよう抱きしめて残すことができたのは、ソキの感情ひとつきりだった。怖い、という気持ちだけだった。記憶には目隠しをされている。そこへ辿り着く道は隠されている。だからソキには伝えることができない。考えても求められても、なにを、なにが、どうして、その全てを伝えることができない。
 呪いのように。感情をこころに焼き付けて残した。それは怖いものだ。それは怖かったことだ。それに怖いことをされた。それは、それは。それは怖いもののままだ。それは砂漠にずっといて、でてこられなくて、だから大丈夫だと思っていたのに。そう言われていたのに。消されて塗り潰されて真っ黒にされてしまった日から。目隠しをされて、忘れさせられて、奪われてしまったその日から。ソキにはそれが分かるようになった。
 いないはずなのに。たくさんの場所に、それがいた。それは、いつも誰かにくっついている。こっそり端に書き込まれた落書きのように。誰かの端に、こっそり、こわいものがくっついている。『学園』にも、何人もいた。何人かは遠くからソキを見ている。何人かは、ロゼアの近くにもいた。それはくっついているだけで近くには来なかったけれど、こわくて仕方がなかった。
 だってそれは、いまはなにもしないだけで。いつか、なにかをしようとしている。だからロゼアを見ているのだ。それが分かったのに、ソキはロゼアにそれを上手く伝えられなかった。誰にも、ちゃんと説明できなかった。言葉が消されていたからだ。伝えるに至る道筋を。ソキは考えた。考えて、考えて、そうだ、と思った。そうだ、きっと、ソキががんばらなくちゃいけないんだ。
 誰にも分からないなら、誰かが分かってくれるまで。誰にも伝えられないなら、誰かが訝しんで考えてくれるまで。誰にも助けてもらえないなら、誰かが守ってくれるまで。ソキが守らなければいけない。ソキのことを。ロゼアのことを。こわいものは、ロゼアをずっと見ているように感じた。ロゼアを狙っているのかも知れない。フィオーレも、エノーラも、ルルクも。こわいものがくっついているだけで、こわい、にはなっていなかったけれど。
 でも、誰も気がついていないのだ。そこにあるのに。くっついているのに。今にだってきっと、牙を向こうとしているのに。怖い、以外が分からないソキには、それをちゃんと伝えられない。だからせめて、ソキは、それに名前をつけて呼ぶことにした。こわいもの。こわくてこわくて仕方がないもの。こわいこわい。ずっと訴えて、それで頑張っていれば、きっと誰か、気がついて、助けてくれる筈だから。
 祝詞を信じて、呪詛を囁く。予知魔術師の本能が、ソキを突き動かし、そうさせたのだと。



 それなのに。ソキがけんめいに頑張っているのに。ロゼアはそれをだめ、だと怒るし。お叱りだって受けなければいけなくなって、ウィッシュも呼び出されて面談なんてされるのである。これはひどいことである。でも、好機にも思われた。ソキがけんめいにこわいこわいを訴えれば、ウィッシュならなにか分かってくれるかも知れないからだ。思ったとおり、ウィッシュはソキの話を全部聞いてくれた。途中で遮らず。最後まで。
 ウィッシュは真剣な顔でうんうん、と頷き、ソキに向かって微笑みかけた。
「ちょっとよく分かんない」
「がっかりですうううう!」
 聞いてくれただけである。なんの役にも立たない。不満でいっぱいの叫び声をあげ、宥めようとするロゼアの膝上に抱えられたまま、ソキはもうぜんと説明を繰り返した。だから、こわいこわいがいっぱいで、それはすごくたいへんなことで、なにがたいへんってそれはこわいこわいで、つまりとんでもないことで、ソキにしか分からないので、ソキはけんめいに頑張っているのである。
 呪いはソキの頑張りである。褒めがもらえる所である。お叱りじゃないのである。褒めである。褒めをようきゅうするのである。はふ、はふ、と息を切らしけふっと咳をしてしまうソキに、ウィッシュは眉を寄せて首を傾げた。そして、困りきった顔で室内を見回した。生徒指導室に集められた数は、四人。机があって椅子があるだけでいっぱいのちいさな部屋であるから、一人は壁際に腕を組んで立っている。
 その一人。黙り込んでいる男の名を、ウィッシュは困った表情のまま呼んだ。
「シル、寮長……寮長はどう思う?」
「どう、というのは?」
「えっとね。ソキがなにを言いたいのかとか、こわいこわい? のこと、とか」
 そんなもんロゼアに分からないんだから俺に分かる訳ないだろう、と真顔で呟き、寮長はアスルをぎゅうぎゅうに抱きしめ、決して離そうとしていないソキを見た。ロゼアは見ているこちらが切なくなってくるような悄然とした顔で、ソキの興奮を落ちつかせようとしている。それが、分からない筈もあるまいに。ソキは頬を赤く染めて、ちからいっぱい言い放った。
「もぅー! ソキはあれですぅー! ふんまんにゃるかたない、というやつですううう!」
「憤懣遣る方無い、だろ。ソキ、ロゼア困ってるよ。どうしたんだよー」
「こわいこわいだもん!」
 だからそれなに、と聞いても、こわいこわいだもん、と泣きぐずる声で答えられるばかりである。ロゼアが根気よく訪ねても、あらゆる方向から聞きなおしても、ソキはそれしか言わないのだという。ともあれ、ロゼアを困らせたい訳ではないらしい。ソキはうなだれるロゼアをうるんだ目で見つめ、膝の上にぽんとアスルを置いた。くるんと首筋に腕を回し、体をくっつけ擦りつける。
「ロゼアちゃぁん……。違うですよ、ソキ、ロゼアちゃんを困らせたいじゃないです」
「うん。分かってるよ、ソキ。分かってる……」
 一応、ソキは被害を被った三人に、ちゃんと謝ったのである。ウィッシュとエノーラには手紙で。ルルクには、びくびくしながらも、顔を見て。ルルクが嫌いなのではなく。こわいこわいだからアスルをえいってしたです。まだこわいこわいです。いけないです。こわいこわいが治らないです、たいへんなことです、という主張を、やはり誰も理解することはできなかったのだが。
「ウィッシュ。担当教員として。ソキがなにかを誤認している可能性と、ソキ以外がなにかを感じ取れていない可能性だと、どっちが高いんだ?」
「うーん……。俺の考えを言う前に、ロゼアに同じことを聞くね。ロゼアは、どっちだと思う?」
 ウィッシュは己の答えに辿り着いた表情をしながら、ロゼアの意見を伺った。『学園』に在籍する生徒である以上、判断は原則として担当教員に委ねられる。その者の持つ魔力に関して、最も親しく、近しく見つめて判断ができる相手だからだ。通常は担当教員しか、それができない。未熟な魔術師は、己以外の魔力にそこまで集中することができないからだ。けれど、ロゼアなら。相手が、ソキであるなら。それが不可能だとは、ウィッシュには思えない。
 異変に対しての判断を委ねることを。
「……俺は」
 むっすううう、と不機嫌で拗ねた顔で黙り込むソキに睨まれながら、言葉を選んで考えて。ロゼアはゆっくり、かみ締めるように言った。
「ソキは……ソキは、俺たちが分かってくれない、と言っています」
「うん。そうだね。それがソキの意見だよね。俺が聞いてるのロゼアの意見ね」
 ぷっぷくうう、とさらにソキの頬がふくらまされる。そんなに膨らんだらほっぺ伸びちゃうよ、とウィッシュが言えば、慌ててふしゅりと空気が抜けた。う、うぅ、ぐずっ、としょげて元気のない様子で、ソキが鼻をすする。
「こわいこわいだもん……」
「うん、うん。そうだな……。ウィッシュさま、俺は……ソキが違うとは、思えません」
 うん、と呟いて。ウィッシュはロゼアの言葉の続きを待った。それはロゼアの感情で、ウィッシュが聞きたかった判断ではない。しかし待てど暮らせど、ロゼアがもう口を開く気配はなく。諦めて、ウィッシュは俺はね、と眉を寄せた。
「ソキがなに言ってるのかは分からない。なんか思い込んじゃってるにしても、なにをっていうのが説明できてないっていうか……説明はしてくれてるんだけど、ロゼアも分からないんじゃなぁ……。ロゼア、ソキがなにを言いたいのか、うっすらでも翻訳できない?」
「……怖い、ことが、あるのは」
「それなんだよなぁ……? ソキがなにか怖いのは確かなんだよ。うん。寮長、あのね、だからね、ソキがなにか怖がってるのは本当。これは分かってね。で、それをソキはちゃんと訴えてるんだけど……訴えてるんだけど……うん?」
 ちょっと待ってね、とウィッシュは目を伏せた。ロゼアはソキの『傍付き』であるが、ウィッシュは『花婿』だ。全く同じ立場として育てられたから、こそ。ようやく引っかかって残った違和感に、柘榴の瞳が静かに揺らめく。
「……ソキ。あのね、間違ってたら言ってね」
 アスルを抱きしめて、体を丸めて頬をくっつけて。いいもん、がんばるもん、と拗ねきった声で鼻をすするソキに、ウィッシュは穏やかな声で問いかけた。
「ソキが『怖い』のと、『こわいこわい』って、もしかして別? 別のこと言ってる? 『こわいこわい』は、『怖い』けど、『こわいこわい』っていうのは、『怖い』ってたくさん訴えたいんじゃなくて、なんか別のこう……なんか?」
「ソキはちゃんと言ったです」
「うん。あのね、もっかい教えて。ソキは『こわいこわい』が、『怖い』から、なんかこう呪ったりアレしたりあれこれしてんの? 俺のいうのであってる?」
 こくん、とソキは頷いた。違うか、あってるか、ちゃんと言わないとだめだよ、とウィッシュは促す。だめっていったぁ、と打ちひしがれた声で、ソキはもう一度こくん、と頷いて。ようやく、そろそろと息を吸い込んだ。
「お兄ちゃんのいうので、あってるです。こわいこわいです」
「……その、こわいこわいの、説明はできる? それ、なに?」
「こわいこわいです」
 ふふん、といっそ自慢げな顔でソキが頷いた。元に戻っちゃったねー、と面白がる声でウィッシュは笑った。でもさすがにそっからは分からないなー、と言って、ウィッシュはロゼアに目を移す。ロゼアが、罪悪感でしにそうな顔をしていた。心から慰める気持ちで、いや頑張っても分からないよこれ、と言う。
「俺があれって思えたの、リトリアがうさぎのぬいぐるみに『うさぎちゃん』って名前付けてるの知ってたからだもん。だから、ソキのも、もしかしてアレかなって。ちゃんと名前つけないの珍しいね。そんなに怖くてヤなものなの?」
「こわいこわいだもん」
「そっかそっか。……うん、あの、ロゼア? ロゼア、元気出して……?」
 出します、とすぐ素直な言葉が返ってくる。しかし落ち込みきっている。ロゼアを慰めるのはソキに任せて、ウィッシュは呆れと関心の入り混じった顔をする寮長を見た。
「もうちょっと詳しく聞いてみるけど、ここからはたぶん俺よりロゼアのが聞きだせると思うよ。ロゼアが元気でたら、だけど。……んー、とすると、ソキが特定の相手にアスルぺいぺいしてたのもそういう理由じゃないかな。最初から無差別ではなかったみたいだし、選別してたなら、その、こわいこわいが理由だと思う。あ、ソキー、アスルみせてー。あとどんな呪いにしたのかお兄ちゃんにこそっと教えてよー」
「おにいちゃ? ソキはぁ、いま、ロゼアちゃんで忙しいです」
 ふんすっ、と気合の入った声で返事をされる。気になって見ると、目がきらんきらんに輝いていた。元気のないしょんぼりロゼアちゃんですううう貴重なことですうううかわいいかわいいですううううっ、という意思がだだもれになっている。頬を染めてもじもじし、じぃーっと見つめてきゃぁんやぁんと照れて、もう一度もじもじしてから、ソキはふんふん鼻を鳴らして頷いた。
「ロゼアちゃん? ソキがなでなでしてあげるぅ……!」
「ソキ……。ソキ、ごめんな……」
「ろぜあちゃ? 大丈夫ですよぉ。こわいこわいから、ソキがちゃぁんと守ってあげるです」
 アスルとけんめいに頑張るです、と気合を入れなおすソキに、ウィッシュはしみじみと頷いた。
「頑張ってたんだな、ソキ。あとは、なんでフィオーレさんとエノーラとルルクなのかが分かればいいんだけど……。ソキ? なんでその三人呪ったの? その三人がこわいこわいだったの?」
「ちぃーがぁーうーでぇーすぅー……! 皆がこわいこわいなんじゃないの。でもね、こわいこわいなんですよ? それでね、いっぱいいるの」
 これでもう分かったでしょぉ、と自慢いっぱいの顔でふんぞりかえるソキに、ウィッシュは微笑んで頷いた。
「ちょっとよく分かんない」
「がっかりですうううう!」
 癇癪を起したソキの手から、アスルが飛んでくる。のす、と両手に乗せるように受け止めて、ウィッシュはすぐにそれをあするあするとじたばたするソキに返してやった。呪いが発動することはなく。それでいて、途切れることはなく。ソキの魔力は散らばり、きらめいて、アスルのふんわりとした毛並みを覆っていた。



 突発的な事故を防ぐために全員と顔合わせてソキのこわいこわいを割り出していけばいいんじゃないかなぁ、というウィッシュの提案により、にわかに『学園』は騒がしくなった。世に魔術師の数は限られているとはいえ、『学園』の生徒だけでも結構な数である。専属講師や調理人、細かな世話役も魔術師だ。主に宮仕えが向かない性格をしていたり、体力その他様々な事情を抱えて『学園』に残り続ける者は多い。それらを合わせると膨大な人数になる。
 そこに王宮魔術師も加わるとなると、会うだけでもソキの体力が難しい。難色を示したのはロゼアだったが、提案を実現するには難しいと告げたのはチェチェリアだった。ウィッシュの面談に引っ張り込まれたロゼアを、授業はどうする宿題にするか、と尋ねてきた場でのことである。そもそも、王宮魔術師は自由な外出を許されていない者が大半だ。
 彼らは王の持ち物である。そうであるから、通常は城にいなければならない。任務で城を離れている者も数多く、連絡を行き届かせるには時間がかかる。生徒の担当教員として命を受けている者は城と『学園』を行き来するし、必要とあらば『扉』で各国を行き来することも許されているが、事後でも申請が必要なことだ。ソキの騒ぎようが相当なもので、筆頭会議の議題に取り上げられようと、各々の予定を組み直して顔を出させることは難しい。殆ど不可能だ。
「じゃあ逆に、ソキが行くのは? こう、皆を一室に集めてもらって」
「ソキはぜえぇええったいに! やんやんです!」
 ロゼアにびとっとくっつきなおして主張するソキに、ウィッシュは肩を落として息を吐く。砂漠に行きたがらなかった一件が発端であるから、喜んで頷くとも思っていなかったのだが。
「そんなこと言ったってさぁ……。ソキ? その、こわいこわいが分からないと、俺たちもどうしようもないんだよ。分かる?」
「わかるです。こわいこわいです」
 真面目な顔をしてこっくりと頷くソキに、チェチェリアから和んだ視線が向けられた。ソキがアスルに込めたえげつない程の呪いと、すでに三例出ている被害はともかくとして、甘くふんわり響く声と単語のせいで、まったくもって緊張感が出ない。課題を出して頂けますか、とロゼアが申し訳なさそうに教員へ告げるのを横目に、ウィッシュはそうだよ、こわいこわいだよ、とソキに言い聞かせた。
「いっぱいいるんだろ? 学園にもいるんだろ?」
「そうなんですううロゼアちゃんが狙われてるです! ソキはけんめいに頑張っているです」
「うん、うん。だからね、こうね、被害が拡大する前にね。ソキにあんまり近寄らせないように俺たちの方でも気をつけてあげるから、誰がそのこわいこわいなのかを教えてくれないと困るんだよね。俺の言ってること、分かる? あんまり痛いのは可哀想だろ。世の中エノーラみたいのばっかりだったら、まあいいかなって思うけど」
 声もなく倒れて動かなくなり、数分後にやや復活した第一声がとりあえずありがとうございますと言えばいいの、だったのは、今の所エノーラだけである。フィオーレとルルクのように落ちこんだり、悲しんだり、驚いたりする気配は微塵もなかった。確かに痛そうな声はしていたけれど、それ以上に高揚の気配を感じて怖かったのが本当である。ソキはぎゅむりとアスルを抱きなおし、すん、と鼻をすすって訴えた。
「でも、でも。いつも、ずっと、こわいこわいなじゃないもん……。こわいこわいがくっついてても、こわいこわいじゃなくて分からない時と、こわいこわいです! って分かる時があるです。ルルク先輩は、一回はこわいこわいで、えい! ってしたですけど、そうしてからちょっとの間はこわいこわいも大丈夫になってて、ソキはほっとしたですけど、でも今日はまたこわいこわいがいっぱいだったです……」
「……状態変化がある、ということか?」
「あのね、あのね、チェチェせんせい? ソキは、朝にロゼアちゃんに香水を選んでもらうんですけどね」
 突然はじまったおしゃべりに、チェチェリアはやや首を傾げた。しゃがみ込む。そのまま続けさせたのは、ソキの目があまりに真剣で、必死だったせいだ。伝えようとしているのだ。ソキの持つ言葉を、どこからでもかき集めて。それをちゃんと、ソキは伝えて、分かってもらおうとしている。うん、と微笑んで待ってやると、ソキはぱちぱち、泣くのをこらえて瞬きをして。
 興奮した息を何度も吸い込み、舌をもつれさせながら、あのね、あのね、と囁いて行く。
「その日のね、お洋服とかね、気持ちとかね。授業とか、お天気とか、色々考えて、一番にロゼアちゃんの好き好きになるように選ぶんですけどね。そうじゃなくってね、ロゼアちゃんが一番好き好きなのを選んでくださいってお願いすることも、いっぱいなんですけどね」
「ああ。ソキはいつも良い香りがして可愛いな」
「えへ? でしょう? ふふん。……あ、あ! それでね? あの、香水のいいにおいはね、つけた時にもふわふわきゃぁんていいにおい! なんですけどね、お昼とか、夕方になると、匂いが変わるです。でもね、匂いはしているです。つけるのがちょっとだとね、すぐに消えちゃうこともあるです。でもね、でもね、そういう日でも、ソキはちゃぁんと朝から香水をつけててね。つけた、っていうのを、ソキは分かってるです。でも周りの人は分からないかもです」
 言葉に。なにか引っかかっている顔をして、寮長が眉を寄せた。どんな様子だ、と顔を覗かせたロリエスに声をかけ、シルはウィッシュに目で許可を得てから、足早に部屋を離れて行く。図書館へ向かったのだろう。世にある魔術師に関する、ありとあらゆる本が収められているという場所。知識が紐とかれ白日へ晒されて行く場所へ。向かう者を見送って、ウィッシュは妹に意識を戻した。
 ソキは一心に。助けの手を伸ばすように、すがるように。チェチェリアを見つめている。
「こわいこわいはね、それと一緒なの。ソキが、ルルク先輩にえいってした時は、くっついたばっかりだったです。いっぱいだったの。フィオーレさんも、エノーラさんもです。それでね、砂漠はね、いっつも皆こわいこわいがいっぱいで、だからソキは行きたくないの。きっと、フィオーレさんはまた、こわいこわいがいっぱいに戻っちゃってるです。ソキには分かるです。ソキはね、一度にね、一回、えいってするのが精一杯なんですけどね、こわいこわいは、たくさんできるの」
「……くっついている、というのは?」
「あのね、すぐだったら、ソキにはえいってできるです。でもね、時間がたつとね、混ざっちゃうの。混ざっちゃうとね、ソキにはね、あれ? ってなるです。こわいこわいだった気もするですけど、でも混ざっちゃって一緒になっちゃうと、よく分からないですし、えいってしても、戻らないんですよ。大変なことです」
 途中までは分かっていた気がするんだが、と呟きを落とし、チェチェリアは立ち上がった。ウィッシュ、と呼ぶ声の求めを理解している。すぐ俺も行くよ、と言って、ウィッシュは寮長たちの後を追うチェチェリアを見送った。ぞわぞわと、骨の近くを這いずって行く寒気のように。理解する。異変だ。これは、恐らく、とびきりの異変。ソキが鍵を握っている。そして必死に、伝えようとしてくれていた異変だった。
 チェチェリアに理解しきられなかったことに目を潤ませ、ソキはくちびるに力を込めて震えていた。鼻をすすって、何度も、何度も瞬きをしている。ロゼアが抱き寄せ、落ち着かせようとするのを見ながら、ウィッシュはソキ、と呼んだ。視線が向けられる。宝石色の瞳には光があった。まっすぐ、強く、輝いていた。息をしている。思わず、ウィッシュは華やかに笑った。諦めていない。
 悔しく思って、悲しさで胸をぐしゃぐしゃにして、言葉は届かず意思を分かち合えなくても。何度そうされても。何度でも。ソキは思い直して、まだ、諦めていない。祝福を信じている。助けが届くことを信じている。うん、と笑って、その意思の前にウィッシュは跪いた。
「ロゼア、ソキを頼んだよ。……面談はこれでおしまい」
「はい。ありがとうございました。……処分、は」
「ないとは言ってあげられないし、思えないけど、まあ反省札かな。ちょっとね……なにか起こってるのは確かだし、それに気がついたのがソキっていうことなのかも知れないけど。確定するまでは、ごめんなさいしていような。動けなくするのはいいけどさー、痛いのは駄目だろー?」
 両手を伸ばして、ソキの頬をうりうりと弄んで潰す。ソキはふぎゃあぁあいやあぁあっ、と本気で怒った声を出して、ロゼアの腕の中でばたばた抵抗した。ふふ、といじわるに笑って、ウィッシュは囁く。大丈夫だよ、ソキ。お兄ちゃんがちゃんと守ってあげる。ね、と笑ってから離れて行くウィッシュを、ソキはじーっと見つめて。不満そうにふんっ、と鼻を鳴らして呟いた。
「違うもん……。ソキじゃないんだもん……」
 ロゼアちゃんを守ってくれないといけないです、ねらわれているです、と。ソキはロゼアにもちゃんと訴えたのに。ロゼアは、そうだな、と笑ってソキを抱きしめて。俺は大丈夫だよ、と背を撫で、囁くばかりだった。



 けふけふこふん、と咳をする。口に両手をあててぎゅっと我慢をしても、またすぐ、こふふっ、とソキは咳をしてしまった。頬も耳も首も、ぽかぽかしていて、じんじんと痛む。熱が出てしまっている。ソキが分かっているくらいなのだから、ロゼアに隠しきれる筈もない。うん、と微笑んで、ロゼアは寝台を降りようとしていたソキの両足を抱え上げ、ぽすん、と柔らかな布の上へ逆戻りさせた。
「今日はお休みしていような、ソキ」
「うぅ、うー……!」
 ロゼアもソキも、今日の授業はお休みである。水曜日でも週末でもないが、昨夜の遅くにそれぞれ担当教員から、翌日の授業中止を知らせる手紙が届いた為だった。ストルは顔を出すらしいが、ロリエスも休みである。他にも教員の手があかない為に、臨時の休日となった者が何人もいた。ソキの騒動を受け、大規模な調査が組まれているらしい。
 ナリアンとメーシャは時期を見て、その調査に呼ばれる可能性がある、とのことだった。
「ずっと緊張していたから、疲れちゃったんだな……今日はお部屋から出るの、やめような」
「……ロゼアちゃんは?」
「俺も一緒。ずっと一緒にいるよ、ソキ」
 起きていられるなら久しぶりに本を読もうか、と提案されて、ソキはぱっと表情を明るくした。ロゼアに口を通して語られる物語は、琥珀色の不思議な奥行きを持って心の中に馴染んでいく。どんな言葉も、どきどきする。ロゼアの声でソキは何度も冒険に出たし、難しい事件を解決したり、星の描く伝説の一部にもなったのだった。そうするです、そうするっ、と早口に興奮しながら言って、ソキは口をぱっと手で押さえた。
 けれども、こらえきれず。ごほ、と咳をしてしまったソキを、ロゼアは手早く寝かしつけた。ぽん、ぽん、と肩を叩かれ、すこしねむろうな、と囁かれて、ソキはロゼアの手に触れた。指を絡めて、繋ぐ。きゅぅ、と握りしめて、ソキは切なく、心から言った。
「ロゼアちゃん……。ソキ、元気になるです。すぐ、すぐですよ」
「うん。……うん、分かった。でも、魔力を使うのは駄目だからな。ゆっくり眠って、治そうな」
 ソキの回復を助ける恒常魔術の発動は、未だ禁止されているままである。それでも事あるごとに使いたがるソキに、つどロゼアは言い聞かせていた。ソキはぷっと頬を膨らませて不満を伝えるが、許してくれることはなく。眠ろうな、とうっとりするほど気持ちよく頭を撫でられて、ソキは息を吐き出した。守らなきゃ、と思う。今度こそ、今度こそ。決意は眠りの中に、ゆっくりと沈んだ。



 喉に口付け。笑い声。ひ、と悲鳴じみた息を吸い込み、ソキは瞼を持ち上げた。どくどく、心臓が嫌な音を立てて動いている。震える体が動かせない。視線だけであたりを伺えば、ロゼアが寝台の端に座る、その背が見えた。部屋にはロゼアがいるきりで、ナリアンも、メーシャも、訪れてはいないようだった。廊下は静まり返っている。皆、談話室にいるのだろう。どれくらい眠っていたのか分からなかった。
 ソキは震えながら、もう一度ロゼアを見た。ロゼアはまだ振り返らない。ソキに背を向けたまま、本を読んでいるのかも知れなかった。そうだと思いたかった。ソキは喉に、くちびるで触れられた気がする、その箇所に指先を押し当てて、嫌な記憶を振り払う。誘拐されたあの時に。鎖につながれ砕かれたあの悪夢の中で。あの男は幾度もソキにそうして触れた。性愛ではなく、情愛ではなく。
 所有物を大事に手入れする。そういう仕草として。
「あ……あする……!」
 泣くのをこらえて、ソキはアスルをあわあわと抱き寄せた。呪いがしっかりとかかっていることを確認して、ソキはぎゅぅっと目を閉じる。こわいこわいがくっついている風ではなかった。なにか違う気がした。でも、どうしても怖かった。怖いことが信じられなかった。確かめずにはいられなかった。破裂してしまいそうな心臓のまま、ソキは祈りを託すように、アスルをロゼアに向かって放り投げた。
 呪いはかかっている。のす、とロゼアの背にぶつかった。すぐにロゼアは振り返り、ソキを見る。
「ソキ? どうしたの? ……声がでない? 喉痛いか?」
「ろ……ロゼアちゃ……? ロゼアちゃん、ロゼアちゃんっ?」
「うん? うん、どうしたの。俺だよソキ。俺だよ。……ソキ、ソキ。どうしたの。怖い夢を見たの? おいで」
 ひょいっと抱き上げられて、膝の上におろされる。ぬくもりをひとつにするようにくっ付いて、ソキはふー、と息を吐き出した。ロゼアが言うなら、怖い夢だったに違いない。違いないのだけれど。喉に、肌に。熱が触れた記憶が、こびりついて離れない。眉を寄せてごしごし手で擦り、ソキはもうそれを気にしないことにした。はやーく元気になるです、と告げるソキに、ロゼアは目を和らげて微笑んだ。
 その笑みをぽやーっとしながら見つめて、ソキは唐突に気がついた。もしあれが夢じゃなくって悪夢でもなくってもしかして本当にあったことだとすれば、それはもしかしてもしかしなくてもロゼアがソキにちゅうをしてそれで恥ずかしくってごまかしたりしているだけなのではないだろうか。
「きゃ……きゃぁああんやんやんやにゃああきゃうううはううぅー!」
「そ、ソキ? ソキ?」
「やぁああんソキが起きてる時にしてくれなくっちゃだめですうううう!」
 そのせいで、とんでもない勘違いをしてしまう所だった。ロゼアが怖いだなんて、そんなこと、ある筈がないのに。こわいこわいだなんて。寝台に転がるアスルをぎゅむぎゅむ抱きしめて、ソキは赤らんだ頬でロゼアをちらっと見つめた。微笑み返される。きゃぁんやんやんロゼアちゃんだぁいすきーっ、とはしゃいで抱きついていると、扉の向こうからナリアンとメーシャの笑い声が聞こえた。お見舞いに来てくれたらしい。
 ほっとして、ソキはふたりの名を呼んだ。いつも通りの日だと、思った。

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