うらめしげに睨んで唸っても、出た結果が変わる訳ではない。放っておけば諦めると思いきや、かれこれ一時間はそうしている。ツフィアは息を吐いて戻ってきた書類と、リトリアの顔の間にてのひらを差し入れた。
「いい加減になさい。目を悪くするでしょう? くちびるも、そんなに尖らせるものではないわ」
「だって……ツフィアがお話してくれるっていうのに……。できるだけ、すぐ、急いで、お願いねって、言ったのに……!」
「駄目、と言われた訳ではないでしょう。今日、明日がどうしても難しいというだけよ」
そもそも、日夜側で働いている王宮魔術師や騎士たちが、一時内密にと王の耳へ囁くのとは訳が違う。時間の用意が必要な謁見であり、しかも一人ではなく、五人の予定を重ねる必要があることなのだ。即日は無理、とわざわざ書いて寄越されることが異常なのである。そしてそれは、即日の調整も試みた、ということに他ならない。
一月も二月も放置されて、ようやく善処する程度の通達が届くツフィアの常とは雲泥の差である。あからさまにリトリアへの贔屓だが、ここまで来ると微笑ましさすら感じさせた。
「調整と重なってしまって、護衛の確保も難しいから終わり次第すぐ、と仰って頂けたでしょう? 何日も待たせはしないし、準備をしておくように、と。聞き分けなさい、リトリア」
「ツフィアが私におはなしがあるっていうなら、私は絶対すぐなのに」
ようやく諦めたリトリアが、書類の端と端を重ね合わせ、折り畳んでいく。好きにさせて眺めていると、不恰好な鶴をひとつ完成させて、リトリアは納得しきれない表情で瞬きをする。
「なんでいっつも歪んじゃうのかしら……?」
へたくそで不器用だからである。純粋に不思議がっているリトリアに正解を教えてやることなく、ツフィアはひとの書類を折らないのよ、と注意するに留まった。
「星降にいて良いの? 会いに来てくれるのは嬉しいわ。でも、やらなければいけないことがあるのではない?」
「あのね、ツフィア。私じつは、楽音であまりやれることがないの」
チェチェリアとキムルの他にも、二名が砂漠各地の魔術調査に駆り出されている。そこから通常業務が消える訳ではないのに、同時平行でソキの騒ぎに関する調査や会議も続行されていた。つまり、リトリアにあてる人手がないのである。フィオーレも調査に走っている以上、砂漠にいても監視と護衛は満足に果たされない。
よって、エノーラの札を何枚もひらひらさせながら、リトリアは星降で暇を潰すこととなった。眠っているとはいえ、レディの近くに居させることで、とりあえずよしとされたのである。ツフィアの監視部屋と、レディの寝室はやや離れている。いいの、と問えば、リトリアはうんと頷いた。
「城から出なければいいし、ツフィアの所なら安心だからって」
「……誰が、そう?」
「陛下」
楽音の、である。それが監視と護衛がきっちり成された一室に留まるからなのか、純粋にツフィアに信頼を置いているのかは定かではないものの、処置として甘いことは確かだ。溜息をついて、あまりわがままを言わないのよと呟けば、リトリアはくすくったそうにはぁいと返事をして、作った鶴を指先で突っついた。
「あ、そうだ。それでね、朝はストルさんを送って行ったんだけど……あの、ストルさんは、誰かに狙われているの……?」
「……どういう意味で、かしら?」
見目麗しい男であるから、ストルは在学時代からそれなりに人気があった。リトリアを溺愛していることを、誰もが理解していて、なお。訝しさと頭痛の気配を感じながら問い返すツフィアに、リトリアはあのね、と心配そうに表情を曇らせる。
「夜にお部屋で待っていると、襲われるってロゼアくんが……」
「夜にどうしてストルの部屋に行こうと思ったのあなたは」
リトリアがひらひらさせている『全ての言動が保護者に通知されます』があってなお、ただの据え膳である。早口で一息にたしなめると、リトリアは不安にもじもじと指先を擦り合わせ、瞬きをした。
「え、え? あの、今日ね、ストルさんは調査でずっといなくて、でも、夜には戻ってくると聞いたから。調査のお話も聞きたいし、寝る前におはなしもしたいし、顔も見たいし……なんで駄目なの? 前は……あ……ん……んと、んと。あの、なんで駄目なの……?」
在学時代、ツフィアが口をすっぱくして言い聞かせた注意事項を、思い出したようでなによりである。微笑を深め、ツフィアはしっかりとリトリアの目を覗き込む。
「犯されたくないでしょう? ストルをむやみに加害者にするんじゃないの」
「……お部屋の、扉を、あけておけばいいのでしょう?」
「リトリア。ストルは上流階級の行為教育を受けていないし、それは一般的ではないし、大体あなたすこし前に『学園』で会った時に、鍵のかけられた部屋の中にいたでしょう……!」
いまひとつ察しが悪いだけで、リトリアは無知でもないし理解していない訳ではない。頬を染めながら文句を言われるのに、ツフィアは切々と言い聞かせた。あっ、と声をあげて思い立ったリトリアは、だって、と諦めの悪い呟きで頬を染めた。
「あれはあの、その……相談をするのに、ふたりきりの方が話しやすいだろうってストルさんが」
「そう。話ね。……相談はできたの?」
「う、うぅ……あの、ストルさんがちゅってしてくれて、あんまりドキドキしちゃって、あの、だから、あの」
私そんなにして欲しそうなの顔に出ちゃうのかな、と目をうるませるリトリアに、ツフィアは笑顔のままで頷いた。ストルの理性にも大体問題があるが、リトリアの誘引をどうにかしなければ根本的な解決にならない。
さてどう叱るべきかと悩んでいると、だってぇ、と弱々しい声が訴えてくる。
「ストルさん、私のこと好きなんでしょう……? 私も好きなの。だからね、あの、もう我慢しなくてもいいかなって……ストルさんにくっついて、ぎゅっとしたいし、キスもたくさんしたいの。たくさん好きって言いたいの」
「……リトリア」
「でもあの、まだ、あの、ちょっと怖いから……そこからは、まだだめよって、言えば、大丈夫?」
大丈夫ではない。分かってはいる。リトリアは、分かってはいるのだが。理解が足りないだけである。ストルの理性をすり減らすのはやめてあげなさい、と同情的な気持ちで告げる。りせい、と難しい言葉のように眉を寄せて繰り返し、やや不満げに首が傾げられる。
「だめ、じゃなくて……いやって、言えばいいの……? でもいやでは……なくて……うぅん」
「リトリア。ストルを我慢しなさい。いいこだから」
「これまでずっと我慢してたのに……っ?」
ぶわっ、と藤色の瞳に涙が浮かぶ。これは泣き落とされる展開だと、ツフィアは過去の経験から知っていた。しかし、ここで絆される訳にはいかない。他ならぬリトリアの身の安全の為に。
抱き寄せて宥めて甘えさせてしまいたい気持ちを堪えながら、ツフィアは息を詰まらせ、言い切った。
「自立した大人の女性を目指すのではなかったの?」
「め、目指す……! めざ……す、もの……」
でもそれはもしかしてぺたぺた甘えられないということではないのかしら、と思い至ったリトリアの、意思が明らかに挫けかけている。顔を手で覆ってしばらく悩み、リトリアは指の間からちらっとツフィアを見上げた。
「あの、ツフィア?」
「なに?」
「あの、あの、ストルさんをね、ころころ転がせる悪女になれば、いい? 自立した悪女になるの。そうしたら、いい?」
どうしてもぺったりくっつきたいらしい。ツフィアはふっと微笑んで、期待するリトリアに首を振った。
「リトリア。出来ない目標を掲げるのはやめなさい」
「で、できる! 悪女、できるの! 男の人をてのひらで転がす、格好良い悪女になるの……!」
たくさんくっついて、ぐらっときた所をふっと笑ってぽいなのよ、とリトリアは拳を握って力説する。溜息をついて、ツフィアはリトリアに手を伸ばした。頬に触れて撫で、なあに、とはにかまれるのに、言葉を捧げぬまま微笑する。
指先で、軽く頤を上向かせる。え、あ、あぅっ、と真っ赤になって言葉を漏らし、つふぃあつふぃあえっとあの、あの、と混乱するリトリアに、笑いかけて待った。熱にとろりと潤んだ瞳。う、うぅ、と呻きながらすこしすました顔で瞼を閉じた所で、そしらぬ顔で手を離す。
「……どうしたの? リトリア」
「え……え、えっ、あ、えっ?」
や、だ、だましたっ、だましたっ、と真っ赤な顔でぽかぽか叩かれるのに心から笑って、ツフィアはあなたには難しいのではないかしら、と囁きかけた。リトリアは間違いなく転がされる方である。転がす方ではない。うー、うーっ、と言葉にならない様子でくちびるを尖らせ、リトリアははっとした顔で視線を落とす。
無言で見つめていたのは『全ての言動が保護者に通知されます』の札だ。真っ赤な顔で机に倒れ伏したリトリアは、いいものツフィアがいじめたんだもの私じゃないもの、といじけた声を出す。ツフィアは無言で視線を反らし、額に指を押し当てた。
ツフィアも、その存在を忘れていた、とは。言い出しにくいものがあった。
部屋からぴょっこり顔を出したソキが、通りすがる先輩を次々呼び止めては質問を投げかけたせいで、ロゼアの不調は瞬く間に学園中へ知れ渡ることとなった。部屋を抜け出してちょこちょこ歩き回らなかったのは、妖精がそれをがんとして許さなかった為である。
寝台の傍に用意された品々を見る分に、ロゼアはソキが傍から離れることを想定していない。また、ソキが傍にいるとロゼアの魔力の安定と回復が早いと、シディが断じた為である。ロゼアを元気にする為ならば、ソキが傍を離れることに否やを唱える筈がなかった。
ソキも本当は寝台に腰掛けたまま勉強を進めたかったのだが、教科書を読んでいくら考えても、妖精に質問しても分からない箇所があれば課題が進められない。課題が進まないということは、また授業についていけないで遅れてしまうということである。
それは駄目です、いけないです、と主張するソキと、アンタまたそんなこと言って、と叱る妖精の妥協点が、部屋から出ないで呼び止めることである。耳をそばだて、じっと廊下を見て誰か来るのを待つソキと妖精の姿は、獲物が罠にかかるのを待つようでした、とのちにシディは語った。
かくして。努力のかいあって全ての課題を終わらせ、ソキは眠るロゼアの背に頬をぺっとりくっつけて、ふにゃふにゃ幸せな声をあげた。いつもは向かい合わせにくっつきあってぎゅとして眠っているので、ロゼアの背中は貴重なのである。堪能しなくてはいけないのだった。
「はうー……ロゼアちゃん、はぅー……! はうー……きゃううぅううふにゃんにゃ!」
『腹立ってきたからロゼア起さない?』
『いけませんよ、リボンさん。自然に起きるまで待ってあげましょうね。……魔力もだいぶ安定しました。これなら、起きていてもだるいということはないでしょう。数日、様子を見た方がいいことは確かですが……』
穏やかに眠り続けるロゼアを見つめ、それにしてもとシディは首を傾げた。魔力の不調は、未熟な魔術師にはよくあることである。要は風邪のようなものだ。注意して予防することはできても、ひいてしまえば安静にするしか回復手段がない。
昨年のソキのように、不調と魔術の発動が妙な具合に噛み合ってしまえば、逆に多少手段はあるのだが。それにしても、基本は日にち薬である。回復には倦怠感を伴い、苦痛を覚えることもあるので、レグルスは睡眠薬を処方したのだろう。眠ればどうということもない程度だ。
だがそれにしても、ロゼアが眠って半日程度。ここまで安定するのは見たことがない。
『……これで、急激に崩れることがなければいいんですが』
『大丈夫じゃない?』
どうしてそう言えるんですか、とシディが問うより早く。妖精は苛々した眼差しをロゼアに向けながら、舌打ちをして言い放った。
『ソキが好き勝手くっついてるから回復が早い。そうに決まってるじゃない』
『そっ……いえ、いくらロゼアでも、そこまでは……?』
『違うと思うなら強く否定してみなさいよ。できないでしょ? ……こらソキ! ロゼアを襲うんじゃない!』
ロゼアの服をぺろっとめくりあげてくっつこうとしていたソキの元に急行し、妖精はアンタ目を離すとどうしてすぐそうなのっ、と怒鳴りつけた。ソキはだってぇだってぇともじもじしながらくちびるを尖らせ、ぺろんとめくろうとしていたロゼアの服を元に戻した。
「お冬の寝巻きは布がぶあついです……ソキはもうちょとぴっとりくっつきたいです……」
『……アンタまさか、毎日ロゼアの服ひんむいてるんじゃないでしょうねぇ』
「ねらいめは朝のお着替えです。お着替えの時にくっつくです」
今日の朝はロゼアがもう着替えも終わっていたので、くっつき足りなくて切なくなっちゃった、とのことである。気持ちを落ち着かせる為に目を閉じて黙り込み、妖精はお手柔らかにお願いしますねロゼアまだ眠っていますから、と囁くシディに頷いた。
苛々を通りすぎて、落ち着いた気持ちにすらなってくる。心の底から息を吐き、妖精はソキ、とむくれる少女の名を呼んだ。
『せめて合意のもとでくっつきなさい……。意識がない相手に無体を働くんじゃないの。返事は?』
「はーぁーいー、ですぅうううう」
『アンタだって寝てる間にロゼアに襲われても嬉しいんだったわねナシ! 今のナシ! なんでアンタはそうなのほんとにっ! 慎みを持て!』
つつしんでるですぅ、と文句を言うソキの言葉に信憑性など全くない。妖精の目の前でロゼアの服をむきかけて、なにを言うというのか。白んだ目で睨みつけると、ふんにゃりした笑みが返された。
「ねえねえリボンちゃん。夜のご飯はお砂糖にするです? はちみつにするです? 飴とかぁ、きゃらめるー、とか、こんぺいともあるですよ?」
『アンタすぐそうやってアタシの機嫌取ろうとして……! ……角砂糖』
「はーい! シディくんは? ねえねえ、シディくんは、なににするです?」
僕も角砂糖で十分ですよ、と言ってやると、ソキが分かりやすく落ち込んだ。いっぱいあるのにぃ、としょんぼりするのを、妖精がロゼアと食べなさいよ、と腕を組む。
『さあソキ? ロゼアのむっつりが起きるまでに、あとやっておかないといけないことは? ないの?』
「課題は全部出したです。あと? あとは、えっと、えっと……んん? リボンちゃん。むっつりって、なあに?」
『ロゼアのことよ』
きっぱりとした断言だった。あまりに自信に満ちていた。ふぅん、とさほど興味のなさそうな声を出して、ソキはこくりと頷いた。
「ひとつ賢くなったです。えへん!」
『……ロゼアすみません』
僕には止められませんでした、とシディは首を振る。その動きに従って、羽根がゆっくりと明滅した。ほのかに暖かくも感じる、妖精のひかり。うっとり眺めて、息を吐き出した。導きのひかり。魔術師として目覚めたソキが、一番に見つけたものだった。
「ソキも、魔力を見つけるのは上手ですのに……ナリアンくんとメーシャくんは、けんめいに遠足の最中に違いないです」
『メーシャはともかく。ナリアンは遠足どころじゃないんじゃない?』
「ふにゃ?」
なんで、と問うソキに、妖精は遠い目でそれを告げた。だってこっそりニーアがついていったし、楽しそうだからってルノンまで着いていったもの。だから夜には一緒に戻ってくるに違いない。楽しみーですー、とご機嫌に歌って、ソキはアスルを抱き上げた。
機嫌とは裏腹に、呪いを構成する魔力がゆっくりと深みを増していく。大丈夫よ、とは言わずに。妖精はただ、ソキに笑いかけ、頷いてやった。
不安定な魔力を調査する為に必要なことは、根気と集中。それにつきる。魔術師の目は、通常、ひとの同じ世界しか映さない。純度が濃くなれば零れた魔力を視認することもできるが、風や水に溶け込み、あたりを漂うものまで見るとなれば、まず目の焦点を合わせる必要がある。その為に必要なのは、集中。そして、魔術的な修練である。
ロゼアはソキの為に、すでにその術を会得している。やや自慢げに告げたチェチェリアに、ほのぼのと、わーすごいさすがロゼアー、すごーい、と言ったのはウィッシュだけで、ロリエスとストルは静かに頷いただけだった。横顔に、うちのこだってそれくらいできるようになる、いますぐにな、と書かれていたとウィッシュは震えた。
必要な知識は事前の課題で詰め込まれていた為、残されていたのは実地訓練。それだけである。ロリエスとストルがつきっきりで焦点を合わす術を教え、集まった魔術師たちが同情的なまなざしで見守る中、幾度目かの挑戦をして。二人はほぼ同時にそれを成し遂げ、うわ、とぴったり重なった声で驚く。
まぶしい。思わず目を閉じて、ナリアンは今視認したものを思い返した。微細な欠片だった。『学園』でも時折目にする、零れ落ちた魔力と、形状は同じであったように思う。ふわふわと漂うシャボン玉。七色の揺らめきで漂うそれとは違い、いくつかの、淡く透明な色を宿していた。そろそろと瞬きをしては、うー、と呻くナリアンの傍らで、ロリエスがこれでもかという程自慢げな顔をする。
「よし、これでナリアンは戦力として数えられるな」
「メーシャもだ。よくやった。……大丈夫だから、落ち着いて目を開けるんだ。本当はそう、まぶしいものではない」
「ナリアン、メーシャ、大丈夫? あたま撫でる? 撫でようか? 撫でるね? いたいのいたいのとんでいけー……あれ? いたくはないのか。眩しい? まぶしいの飛んで行けー」
ああ、このひと本当にソキちゃんのお兄さんだよな、とナリアンは和みながら微笑した。メーシャも同じことを思ったらしく、ソキみたいだ、と呟いてくすくす笑う。薄闇の向こうで、ふふん、とウィッシュが自慢げにしたのが分かった。
「そうだよ。俺、ソキの先生だからね! もー、ふたりともさー、心配してあげろよー」
「大丈夫です、ウィッシュ先生。ありがとうございます……慣れるのには、もうすこしかかりそうですが」
目を開いて、まばゆさに眉を寄せながらも告げるナリアンに、ウィッシュはきれいな表情でうん、と微笑した。ふわふわと咲く花のようだ。ごく自然にそう思う程、改めてうつくしいひとである。弱々しいと思うより、どこか脆さを感じさせる雰囲気は夜の月明かりの元が似合いそうであるのに、ウィッシュは光に目をやんわりと細め、おひさまだいすきー、とのんきにしている。
生徒を置いてきた立場はチェチェリアと一緒だが、本当に遠足に来たようにほわほわ楽しそうなのは、純粋に性格の差に違いなかった。よしじゃあ準備が整った所で、と責任感の強い声でチェチェリアが手を叩く。
「ここからは二手に分かれて観測を開始する。私とロリエスとナリアン。ウィッシュはストルとメーシャについていくように」
「あれ? チェチェリア? 俺がせんせいだよ。ついてくのはメーシャだよ」
「ストル、メーシャ。分かっているとは思うが、ウィッシュは目を離すとわりと勝手にどこかへ行くからな。頼んだぞ」
え、待って、ねえ待ってなんか違うよねひどくないひどいよねひどいひどい、とウィッシュが文句を言うのを上手に宥めながら、ストルが『花婿』の手を引いて歩きだす。くすくすと笑いながらメーシャがあとを追いかけ、ナリアンと目をあわせて手を振った。じゃあ、またあとでね。うん、またあとでと手を振り返し、ナリアンはようやく、落ち着いた気持ちであたりを見回した。
ナリアンが訪れたのは、首都の一角である。王城の裏手。背の高い塀がまっすぐに続いている。道には馬車のわだちが残る、どこかひっそりとした一角だ。繁華街は遠く、ざわめきが聞こえて来ない。さびしい印象がないのは、生きた気配がそこかしこにあるからだろう。塀の向こう側から吹く風に、くすくす、あまい笑い声が混じる。
響かない。砂糖菓子のような声。ソキの。『花嫁』の。
「……さてナリアン。小冊子を開いて」
訝しむナリアンに、ロリエスが教員の声で指示を出す。はい、と即座に背を正して遠足のしおりを開いたナリアンに、ロリエスからは満足そうな、チェチェリアからは暖かいまなざしが向けられた。ここの、と言いながら、ロリエスは小冊子の地図を指で示す。
「ここと、ここの場所が私たちの担当だ。やるべきことは、ひとつ。漂う魔力を視認し、数を数え、分類し、分析し、仮説を立て、検証し、実験し、結果を出す。なにか質問は?」
「……数を、数えると仰いましたか? え……え、なんの数を……?」
「今言っただろう? 漂う、魔力を、視認して、数を数えるんだ」
見れば、チェチェリアはすでに達観した笑みを浮かべていた。『学園』に集合した魔術師たちが、移動し、数名ごとに分かれて行くたびに、溜息をついて遠い目をして呻いていた意味を思い知る。それでも理解したくなくて、ナリアンはえ、と声を出して瞬きをした。魔力を、もう一度、焦点を合わせて見つめ直す。
広がる砂漠の砂のように、とは言わないが。見てすぐに数が分からない。十や二十ではない。そして、建物のようにひとつの場所に留まっている訳でもない。ふわふわ、風とはなにか違う流れに乗って動いている、それを。数えなければいけない。よし、とナリアンは真顔になった。
「先生、帰りましょう」
「ナリアン。ナリアンがいるから、私たちに割り当てられた区画は初心者向けだという事実を教えてやろう……」
「大丈夫だ、ナリアン。やれば終わる。やれば終わる。やれば、終わるんだ……!」
身を翻して歩き出そうとするナリアンの腕が、両側から掴まれる。うわあぁあ、と泣き声をあげるナリアンに、ふわん、と愛らしいひかりが舞い降りた。
『ナリちゃん……!』
「ニーア! ……ニーア、どうしてここに?」
『ナリちゃんが遠足っていうから、気になって……。ひとりで来たんじゃないわ、大丈夫! あっちにはね、ルノンがいるの』
あっち、と指さされたのは、メーシャが立ち去った方角である。どこから一緒にいたんだと苦笑するロリエスに、ニーアはやや怒ったように、腰に手をあてて身を乗り出した。
『ひどいわ、ロリエスちゃん! ナリちゃんをいじめないで!』
「間違えないで欲しい、ニーア」
穏やかに微笑んで。死線を眺める目をしながら、言ったのはチェチェリアだった。
「王にいじめられているのは、どちらかと言えば私たちの方だ」
『え……え……? ご、ごめんなさい……』
「ちょうどいいから、ナリアンを手伝ってくれないか。ナリアンは初めてだから、先程はああいう説明をしたが……もうすこし分かりやすく言おう。ナリアン?」
はい先生、とぴしりと背を正して答えるナリアンに、ロリエスは言う。
「世に漂う魔力は、大まかに三種類。ひとつ、魔術を発動した痕跡として残るもの。ひとつ、発動痕とは別に、自然物の中に溶け込んであるもの。ひとつ、発動の痕跡を消そうとして、なお残存するもの。この三つだ。魔力の不安定測定とは、基本的には二つ目の、自然物の中にある魔力。風や、土や、水。火や、光、暗闇。星の光、月明かり。それらに溶け込む微細な魔力の観測を主目的として行われる測定だ。これを記録し、観測していくことにより、自然災害の発生予測、作物の実り、病の流行などがある程度把握できる……とされている」
「……仮説、なんですか?」
「精度は八割から九割。必ずそれが当たるという訳ではないが、ほぼ確実な傾向として注視される。……また、これを定期的に記録しておくことにより、『学園』に招かれぬ、未だ、目覚めたとして呼ばれる前の魔術師のたまごの、不幸な魔術暴走をある程度は抑え込める、と考えられている」
こちらは正真正銘の仮説ではあるが、とロリエスは苦く笑った。錬金術師や占星術師の最近の研究から、魔術師のたまごが魔力に目覚める前には、周囲の自然魔力が著しい偏りをみせる、ということが判明した為だ。水属性を持つ者ならば、水の魔力が不自然に集まり。風属性の者なら、風の魔力がぐるりと渦を巻く。
かつて、火の魔法使いであるレディが目覚める前夜には。砂漠の国中に、不自然なまでに、火の魔力が満ちていたのだという。
「国により、場所により、自然魔力には特色がある。知らない場所を尋ねるたびに、見る癖をつけておけ、ナリアン。異変は魔力となって零れ落ちる。それは警告で、痕跡だ。覚えておくように」
「はい。……先生、俺たちは」
なにをするんですか。なにを見るんですか、と問うナリアンに。ロリエスは企みごとを囁くよう、強い笑みを刻んだ。
「私たちが観測の中から探し出すのは、魔術を発動した痕跡として残る、残留魔力。そして、残留魔力を消した痕跡として生まれた、残存する魔力の偏り。そのふたつだ。その二つを見つける為に……とにかく、徹底的に、数を数える。必要な情報は、三つ。ひとつ、漂う魔力の純粋な数。ひとつ、その魔力を属性によって分類した結果。ひとつ、その分類の中の残留魔力と、痕跡魔力のバランス。この三点。私たちが行うのは、数を数えることと、それを属性ごとに分類すること。分析は錬金術師が行う」
私が泣いてここからがご褒美だって新しく目覚めるまで結果を持ってこい待ってるからね、と砂漠の王宮で手を振ったエノーラのことを、ナリアンは思い出した。補佐にはキムルがつくというが、首都に散らばった魔術師の数は、三十名を超えている。彼らが取りまとめてくる夥しい結果を。錬金術師は、今や遅しと待っているに違いないのだ。
「先生」
「うん?」
「なんのために、この測定を?」
測定地は、砂漠の王城をぐるりと取り囲むように定められている。中心となっているのは城だ。今日は市街地、明日と、明後日で城内を探る。良い質問だ、と褒めるよう、ロリエスの唇が三日月を描く。
「裏切り者を、今度こそ断罪する為に。たくらみを、白日の元に晒す為に、さ」
「それを……それを『学園』でしなかったのは、どうしてなんですか」
ロリエスの言う方法が有効なら、それは『学園』でこそ行うべきことであると、ナリアンは思う。ソキがあんなに騒いだ異変の特定の為に。見て、やるべきではなかったのだろうか。そうだな、とロリエスはしっかりと頷いた。
「その通りだ。よく気がついた。……だが、『学園』でこれはできないんだ。可能、不可能、という意味ではない。魔術師のたまごが集まる場所には、魔力がありすぎる。偏り、不安定になりすぎている。常に。……だから、そこから痕跡を探ることはできないんだ、ナリアン。それこそ……白紙にインクをぶちまけたような、盛大な魔力が、世界を染め変えない限りは」
どんなことがあっても、紛れてしまうのだという。それでも、通常ではなく。異変が起きていることは確かだ、という所までは、教員として訪れる魔術師たちが、口々に報告していた。不安定、偏っている。それは変わらない。けれども、どこか、なにか、おかしいと。ナリアン、とロリエスが、己の正しさを信じる者の瞳で言う。
「己が、今できることを。可能なことを、私たちはするんだ。……できるな?」
「はい」
「それでこそ私の後継だ」
わぁ俺の未来が決まってる気がする気のせいかな、と耳をふさいで首を振って、ナリアンはロリエスの言葉を聞かなかったことにした。珍しくもまっすぐ、純粋に、嬉しそうに笑って褒めてもらったことは確かなのだが。チェチェリアの、強く生きるんだぞ、というような笑みにも気がつかなかったことにしたい。
ナリちゃん頑張ろうね、ニーアも一緒に数えるわっ、と気合を入れる花妖精が、唯一の癒しである。頷いて、ナリアンは瞬きをする。意識を定める。世界を、見る。魔力を。そこを確かに染め変えた筈の、未だ見ぬ、同胞の悪意を。