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 ロゼアが目を覚ましたのは、日が落ち、すっかり夜になった頃だった。お腹を空かせた寮生が、食堂で幸せな満腹感に満ちている頃である。ソキがロゼアが起きる前にお風呂行ってふわほわになっているべきか、悩んでいる時のことだった。あ、とシディが声をあげるより一瞬はやく。
 ぱっと振り返ったソキは、ねぼけまなこのロゼアにのしかかるようにして抱きついた。
「ロゼアちゃん、ロゼアちゃん、ぎゅうー! はぅ、はう、にゃう……!」
 ロゼアはぼんやりしながらソキを抱き寄せ、仰向けに寝返りを打った。ふあ、と幼いあくび。脚をからめ、お腹の上に乗せたソキの髪を、ロゼアは指でくしけずるように幾度か撫でた。ふにゃー、と幸せでとろとろの、ソキの声が響く。
「……あ、あっ、ロゼアちゃん? おはようございますですよ。起きる? 起きるです?」
「おはよう、ソキ……」
 やんわり笑ったロゼアが、ソキの頭を首筋に引き寄せる。髪の匂いをかぐように鼻先を埋めて、ロゼアはゆっくりと、ひどく落ち着いた様子で深呼吸をした。
「ごめんな、ひとりで寂しかったな。もう大丈夫だよ」
「あのね、あのね。ソキはロゼアちゃんがお眠りの間にも、課題をちゃあんとやったんですよ。えらい? えらい? かわいい? ほめて?」
「うん。かわいいな。かわいいソキ。えらいな……よく頑張りました」
 珍しく、覚醒しきらないのだろう。普段よりあどけない笑顔でソキを誉め、ロゼアは照れるソキを強く抱き寄せた。体いっぱいにかかるソキの重みと、温もりと、香りを堪能する。満たされて、取り戻して、ほっと息を吐き出して。ようやく目を覚ましたロゼアは、あれ、と言って瞬きをした。
「シディ? どうし……なんで頭を抱えてるんだよ」
『いえ……。お付き合いを……されていないと……ソキさんから聞いていたものですから……』
「うん? そうだな。……あれ、リボンさんまで。おはようございます。どうされました?」
 その質問には答えたくない。妖精はシディと同じく頭を抱えながら、ソキの頭上までひらりと舞い降りた。不思議がっているロゼアを半ば睨みながら、至近距離で魔力を確認する。ざらざらと荒れていた魔力は、満ちて穏やかな水面を感じさせた。呆れる程に落ちついている。
 妖精はロゼアに乗っかったまま落ち着いてしまったソキの肩に降り立ち、頬をぷにぷにと手で押した。
『寝るんじゃないのよ。ほら、乗っかってたらいつまでもロゼアが起きられないでしょう?』
「やぅー。ソキは今、ロゼアちゃんにおはようのぎゅうをしてるんですぅ」
「リボンさん。俺はこのままでも起きられますから……よっと」
 ソキが転がり落ちないように背に手をそえて、首に手を回させて。ロゼアは腹筋の要領で体を起した。寝台に座るロゼアの膝上で、ソキはよじよじ身動きをし、落ち着くところを見つけるとこれでいいですぅ、とばかりふんすと鼻を鳴らす。
 んー、とまだ眠そうに目を擦るロゼアの手は、離さずソキの腰を引き寄せていた。
「寝すぎたな……。ソキ、おなかすいただろ。ご飯食べに行こうな。……汗臭いかな。ちょっと待っててくれたら、先に俺お風呂に行ってくるけど」
『ソキ、ひっついて匂いをかごうとしないの! 気になるならさっさと着替えなさいよ。ソキがおなかすいてしょんぼりする前にね!』
『ソキさんは……たくましいですね……』
 ロゼアちゃんをふすふすするちゃんすだったですぅー、とくちびるを尖らせてむくれながら、ソキは仕方がなさそうにロゼアの膝から降りた。さすがに、ソキを抱き寄せたままで着替えは出来ないからである。
 ちょっとだけ待っててな、と立ち上がり、衣装棚の前で寝巻きを脱ぎ捨てていくロゼアを、ソキは手で顔を隠すことなくきゃあきゃあと見つめた。



 恥じらいと慎みを持ちなさいと妖精に怒られて、ソキはぺしょりとロゼアの肩に頬をくっつけた。
「リボンちゃんたらすぐ怒るぅ……」
『アタシに怒られるのが嫌だったら、アタシに怒られるようなことをしないでちょうだい』
「ぷぷぷ」
 肩でふくらんだ頬がくすぐったかったのだろう。歩きながら笑うロゼアの隣を、落ち着いた態度でシディが飛んでいく。妖精の傍からやや距離を保っているのは、近づいたら最後、羽根を掴んで引っ張られるのが目に見えているからだ。
 ようやく捻挫が治ったんですよ、と羽根をさすりながら呟くシディに、ロゼアは大変なんだな、と苦笑した。とん、とん、と階段を降りていくロゼアの足取りはしっかりしていて、抱き上げるソキの重みを負担に感じている様子もない。
 魔力が安定して、体調も回復したのだろう。それでも、些細な変調を見逃してしまわないよう注意しながら、シディは薄暗い寮の廊下を照らすよう、ロゼアの目の高さで飛んでいく。世界に存在する、第四の魔力のひかり。妖精のひかり。それを魔術師は、注視せずとも視認する。
 ふあふあ落ち着ききったあくびをしたソキは、ロゼアが階段を降りきった所でそのひかりに気がつく。
「あ! ナリアンくんとニーアちゃんと、メーシャくんとルノンくんですー! おかえりなさいですうう! 遠足どうだったです? ソキに教えてください!」
 廊下の向こう。『扉』で他国と接続する場所からゆったりと歩み寄ったナリアンが、疲れた顔で遠足、と呟いた。
「遠足……むしろ小冊子の題字を直さずに、俺に覚悟を決めさせてからにして欲しかった……」
「でも、遠足だと思い込みたい気持ちも分からなくもないよね……。目がしぱしぱする……。ただいま、ソキ。ロゼア。ルノンから聞いてたけど、リボンさんとシディさんもいらしてたんですね」
「んん? ちっとも分からないです」
 おはなしをしてくださいです、おはなし、とちたぱたしながらねだるソキの目の前に、穏やかに下りたのはルノンだった。メーシャの案内妖精は笑いながら、今日は勘弁してやって、と囁きかける。
『ちょっとね、大変だったんだ。メーシャはよく頑張ったよ。もちろん、ナリアンも。だから、おはなしはまた今度……俺でいいなら教えるけど』
「ルノンくんもメーシャくんとご一緒に遠足だったです? ソキ、ルノンくんのおはなしを聞くです!」
「ありがとう、ルノン。ごめんね、ソキ……。うーん、ご飯は食べたんだけど、おなかすいた……だめだ、寝たいけど、寝る前に食堂に行こう……」
 俺も行くもう一回ご飯食べないと眠れない、と半泣き声で言うナリアンの隣で、ニーアもこくこく頷いている。聞けば砂漠で夕食が振舞われたとのことだが、帰ってくるほんの僅かな間でおなかがすいてしまったらしい。
 大変だったんですね、としみじみ頷き、ソキはロゼアの背中をぺちぺちと叩いた。
「ロゼアちゃん、ソキも一緒にご飯を食べるです。やっぱり、お風呂はご飯のあとにするですよ」
「え? ふたりとも、ご飯まだなの?」
「あのね、ロゼアちゃんがおねむりさんだったの。ソキはけんめいに看病をしたです」
 看病という言葉の意味を見失った顔で、妖精とシディが沈黙した。え、とぎょっとした顔で、ナリアンがロゼアを見る。
「ロゼア、風邪引いたの?」
『アンタ今のソキの説明で、なんでそこまで辿りつけんのよ……』
 引き気味の妖精を不思議がりながら、ナリアンは看病と言っていたので、と告げる。ソキの説明って推理力と連想力を試されるよね、とほのぼのした表情で頷くメーシャにも、それで通じていたらしい。
 コイツらがよってたかってこんなんだからソキの会話力が一向に育たないのでは、という疑惑に、妖精が頭を抱えてよろめいた。ロゼアはそれぞれの反応に苦笑しただけで特に意見を告げず、友人たちを安心させるように頷いた。
「うん。でもたくさん寝たから、もう大丈夫だよ。……ありがとうな、ソキ」
「ロゼアって風邪引くんだね……」
「風邪じゃないよ。引いてない、というか……メーシャは俺をなんだと思ってるんだよ……」
 なにって、とメーシャはうつくしい面差しを柔和に和ませ、ロゼアだよ、と言い切った。ナリアンが無言で深々と頷く。ロゼアも体調崩すんだね、とナリアンにまで言われて、ロゼアは憮然とした様子でそういうんじゃない、と繰り返す。
「体調も、崩した訳じゃなくて。寝てたのは確かだけど……ああ、いいや。食べながら話す。なにか残ってるといいけど」
 好きなものを好きなだけ食べられるように用意されていると言えど、すでに殆どの寮生が食事を終えた後である。あるといいね、おなかすいたね、と言葉を交わしながら、四人は妖精を連れて談話室の前を通過していく。
 ロゼアの様子が気になって伺っていた者や、ナリアンとメーシャの帰りを確認して胸を撫で下ろしていた者たちは、その様子に顔を見合わせ笑いあった。この場所へ踏み込むまでに、案内妖精との別れは来るのだけれど。
 入学式みたい、と誰もが。思い出を振り返り、心を和ませた。



 とにかく、数えるという作業があんなに大変だったとは思わなかった。心得て待っていてくれた調理師たちのふるまいでほっと心と体を満たし、ひと心地ついたあと、メーシャとナリアンは口を揃えてそう言った。
 教員たちは慣れているのか、それこそ魔法のようにざくざくと数を重ねていくそれを、ふたりはひとつずつ目で追って数えて行ったのだ。数え間違えないようにしないと、と気を張っていたのは最初だけだった、とナリアンは言う。
「こう、数をかぞえていくんだけどね、いち、に、さん、し、って。それが途中で分からなくなるんだよね……どこまで数えてたっけ? とかそういう分からないじゃなくて、こう……数をかぞえるって、なんだっけ、みたいな。ひとつあるとそれが『いち』で、ふたつあると『に』なんだけど、『いち』と『に』がどういう意味を持ってて、それってつまりどういうことだっけ……? ってなるんだよ……」
「あれ? 俺って数字だったっけ? 数字ってなんのことだっけ俺のことだっけ? 数えるってなにを? 俺を? って思うよね」
「……明日も、明後日もあるんだろ? 大丈夫なのかそれ……」
 心底心配そうに、かつ疑わしげに問うロゼアに、メーシャとナリアンは吹っ切れた、晴れ晴れとした表情で頷いた。
「大丈夫! 俺もう数字だから!」
「そう、大丈夫。俺はもう数字だから」
「ソキ、知っているです。せんのーというやつです」
 たいへんなことです、と真面目な顔で頷いて、ソキは額に手を押し当てて友の精神を心配するロゼアの膝上で、むむむっとくちびるを尖らせる。
「もうー、おにいちゃんは一緒に行ったのになにをしてたですか! メーシャくんとナリアンくんが数字になちゃたです! ……ねえねえ、おにいちゃんも数字になっちゃったです? たいへんなの? ルノンくんは数字なの? 数字じゃないの? ニーアちゃんは?」
『俺は妖精。数字じゃないよ。……メーシャ、ごめんな。今日はゆっくり寝ような』
 不安定魔力の調査測定で、数字になるのは初心者の通過儀礼であるらしい。数字になってそこを超えて己を取り戻すとざくざく数えられるようになるんだよー、不思議だよねー、俺も前数字だったー、というのが、ひとりほのぼのしていたウィッシュの言である。
 大体二日目か、三日目には数字から自分に戻れるらしい、と同行していた妖精たちから又聞きして、ソキは不安に視線をさ迷わせる。
「戻れなかったら……ナリアンくんと、メーシャくんは、ずぅっと数字のままなんです……? たいへんなことです……!」
『大丈夫よ、ソキ。どんくさくて戻れなくても、一週間くらい放置すれば自然に回復するものだから』
『何回か目にしていますけど、何回見ても聞いても毒か麻薬かなにかなんですかっていう気持ちになりますね……測定の初期段階……』
 ほんと、ほんとに、と心配するソキに、妖精たちは曖昧な笑みを浮かべてそれぞれに頷いた。今の所、数字のままになっている魔術師はいないのである。いまのところ。
「まあ……先生たちが一緒なら、大丈夫だと思ってるけど。ナリアン、メーシャ。無理しすぎないようにな」
「ありがとう。でもロゼアだって、明日はゆっくりしていないとね」
 ざばざば砂糖を入れて甘くした、ミルクティー。もしくは、液状ミルクティーの味がする砂糖なのかよく分からない物体を飲みながら、メーシャは穏やかにロゼアに笑う。
「風邪、というか……魔力風邪っていうんだよ、確か。ソキも去年なってたやつだよね。一回落ち着いても、しばらくは不安定だって聞いたよ。たまにはごろごろしなよ、ロゼア。怠けるって大事だよ」
「うん……ゆっくりしていようとは思うけど。メーシャはなに飲んでるんだよ……。砂糖だろそれ。なんかでろでろしてる……」
「そうだよメーシャくん。黒砂糖の方が栄養あるよ」
 ロゼアが視線を向けると、ナリアンは黒砂糖の欠片を無心に頬張っていた。ニーアちゃんそっくりです、と関心するソキを撫で、ロゼアが親友の惨事に息を吐く。シディはロゼアを慰めるように、それでいて視線を反らして呟いた。
『砂糖からは……なぜか、微量に魔力を補充できるんですよ、ロゼア。疲れた時にも回復させてくれますしね』
『いいからアンタたちもう寝なさいよなんでぐだぐだ起きてるのよ! ニーア! ルノン! こいつら風呂に引っ張って行って溺れないように見張って、湯冷めしないうちに寝台へ叩き込んできなさい!』
『ナリちゃんと一緒にお風呂だなんて……! せ、先輩私どうしたら……!』
 頬を赤らめて落ち着きなく羽根を動かすニーアに、ルノンが苦労を背負った微笑で僕が代わりますよ、と言った。ナリアンを促して立たせ、眠そうに目を擦るメーシャと、ロゼアに目を向ける。
『ロゼアも、お風呂で温まって。ゆっくり眠りましょう。さ、早く』
「分かったよ。シディは相変わらず生真面目だな……メーシャ、起きてるか?」
「寝そう……。お風呂に入ったらちょっとは目が覚めると思う……」
 湯船で沈まないかどうか、見張っていなくては危ないだろう。急がなくては、と思うロゼアの膝から、ソキが滑り降りてよろよろと立つ。ソキもお風呂へ行こうな、と微笑むロゼアに、こっくり、気合の入った頷きがひとつ。
「心配しなくても大丈夫ですよ、ロゼアちゃん! ソキがちゃぁんと、一緒におふ」
『はいはいソキはアタシとニーアと女子! 風呂! に! 行くわよ! 一々手間隙かけさせないでちょうだい』
「ソキはロゼアちゃんが気持ち悪くなたりしないかどうかぁ、お傍で看病するですううぅ。ナリアンくんも、メーシャくんも、ソキがちゃぁんと守ってあげるです! 心配しなくてぇ、いいんですよ?」
 すふん、と自慢げにふんぞりかえって宣言されて、メーシャはすっと眠気の引いた表情で、てきぱきと立ち上がった。
「ありがとう、ソキ。眠気ましになったよ」
「う? ……あれ? あれ……?」
「今のうち! 今のうちにお風呂行こうよロゼア、メーシャくん! 目が覚めた今のうちに……!」
 慌しく食堂から走り出ていく二人の横顔に、まずい早く休まないと、と書かれている。ソキの庇護欲を刺激するくらい疲れ果てていることを、ようやく自覚できたらしい。苦笑して後を追うルノンとシディに頷いて、ロゼアは憮然とするソキに手を差し出した。
「ほら、ソキ。手を繋ごうな。お風呂の前まで一緒に行くよ」
 もちろん、女子風呂の前まで、である。男子風呂ではない。混浴は禁止されている。ソキはロゼアの指をきゅむっと握り、むーんと眉を寄せてくちびるを尖らせた。
「……げせぬです」
「ソキ。お風呂に一緒に入りたがったらだめだろ」
「違うです。かんみょ……かん、びょう、です!」
 てち、てちっ、と歩き出しながら主張するソキの頭上で、妖精が深く息を吐く。
『万一なんというか看病? の為に一緒にお風呂が許可されたとして、ソキになにができるっていうのよねぇ……。……あ、違うわこれアレだわちょっとソキいいいい! 口実見つけてロゼアにあれこれしようとすんじゃないわよ恥じらいと慎みを持てってアタシはさっきも言ったでしょう! 恥らえ! 慎めっ! がつがつするんじゃない!』
「ちぁうもんかんびょうだもん! ソキだって看病ができるんですぅ!」
 力いっぱい言い切ったのち、ソキはあ、でっでもぉっ、と今思いついたかのような顔をして、指先をもじもじと擦り合わせた。白んだ目で妖精が待ってやると、ソキはきょろきょろあたりを見回し、そっとロゼアの顔を伺った。こっそり声を潜めて、ソキは真剣な顔で妖精に囁く。
「たっ、ただ、あのその、もしかしてっ……もしかして、なんですけどぉ! ロゼアちゃんに、ぺったりくっつけちゃうことがあるかもです……っ?」
「ソキ、前見て歩かないと危ないだろ」
 頭上と会話をしながら歩いたので、途端に転びそうになるソキをひょいと抱き上げ、ロゼアは早足で女子風呂へ向かった。かんぺきなさくせんだったはずです、と拗ねるソキの背を撫でながら、ロゼアは腕に力をこめた。
 俺にくっつきたいの、と耳元で問いかける。くっつきたいです、とねだるソキに、ロゼアはいいよと囁いた。
「お風呂から出たらくっつくのしような。今日は一日寂しかったな。ごめんな、ソキ」
「きゃぁーん! きゃぁあんきゃんきゃん! ソキ、ロゼアちゃんにぴっとりするぅー!」
『えっ……え、えっ?』
 頬を真っ赤に染めてちらちらと視線を投げてくるニーアに、妖精は白い目で安心しなさい、と断言した。ニーアが思っているようなことには絶対ならないし、させないし、どうせ添い寝とかそういう類のことである筈だ。
 ふんふんご機嫌に鼻歌を響かせるソキに慎みを持たせるにはどうすればいいのか考えて、妖精は夜のつめたい空気を泳ぐように飛んだ。



 いつものようにロゼアちゃぁん髪の毛乾かしてぇ、と女子風呂から出て待っていたロゼアにぺっとり抱きついた所で、ソキは待ち構えていたレグルスに捕まった。言い渡されたのは、魔術の使用禁止である。チェチェリアが授業に復帰して状態を確認し、レグルスと協議の上で、日常生活の些細な使用が解禁される。それまでは使ってはいけない、とロゼアは命じられたのだ。
 それはつまり、ソキの髪の毛を乾かしてくれるのもいけないし、アスルを洗ってほわふわにするのもいけないし、ちょっとぺしょっとしたお布団をあったかぽわっとさせるのも、全部いけないということである。あんまりなことである。ソキは当然抗議したのだが、意見は聞き入れられることなく。髪の毛は談話室の暖炉の前でじっとして、ロゼアに櫛で梳かしてもらうことで妥協となった。
 当面の問題はアスルである。投げてはいけないとロゼアに怒られたし、約束もしてしまったので、埃がついたりゴミがついたりすることはないのだが。ソキがひがな一日ぎゅっとしているせいで、何日かに一度は洗ってもらわないと、毛並みがごわっとしてしまうのだ。ごわっとアスルに頬をすりつけると、肌がちょっぴり痛くなる。
 冬なので、日当たりの良い場所を選んで置いても、乾くのに二日はかかってしまう。その間、ソキはアスルを手放さなければいけない。これはほんとうに、たいへんなもんだいである。ゆゆしきじたいである。あする、あする、あんまりごわっとしないでね、しないでねっ、とうるんだ目で、アスルのつぶらな瞳と見つめ合うソキに、妖精は頭が痛そうな声で提案した。
 ロゼアはソキを部屋まで抱いて移動したのち、改めて保健医の診察を受けに行っている為に不在である。シディもついて行ってしまったので、ソキの相手をしてやれるのは妖精しかいなかった。あのね、ソキ、と妖精は根気強く言い聞かせる。
『他の方法を考えなさい。呪うにしても投げるにしても。武器にするにしても』
「リボンちゃん? アスルはぁ、ソキのだいじーな、相棒というやつです。ねー、あするぅー」
『魔術師だったら『武器』を使いなさいって言ってるの。アンタだって持ってるでしょ? 入学してすぐ、武器庫から取って来たやつ』
 どうせならそれにしなさいよ、と言った妖精に、ソキは目をぱちくり瞬かせた。ソキの『武器』は、『本』である。ごくごく普通の、上製本のかたちをしている。それをなぜ『武器』と呼び、あの欠片の世界から取って帰って来たのかを、ソキは未だに知らないままだった。ロゼアのものは、短剣。ナリアンは、杖。メーシャは、銃。それぞれ分かりやすく武器である。
 本のかたちを成す『武器』が、どうやら予知魔術師特有のものであるとソキが気がついたのは、ある時リトリアにそれを告げられてからだった。不思議な夢をいくつかくぐりぬけた後、ソキは図書館で予知魔術師に関する文献を手に取り、どうも『武器』が『本』のかたちを成すのが予知魔術師だけであることをつきとめた。
 様々な『武器』がある。時にそれは指輪であったり、首飾りであったりと、繊細な装飾品のかたちで持ち帰られることがあった。それも武器らしくないと言えばそうだが、装飾品、として大まかにまとめた時に、どんな属性、なんの適性を持つ魔術の元にも、それは現れていた。本は、予知魔術師の元にしか訪れない。はじめから、そうと決まっていたように。
 ソキの本は、白い帆布の張られた上製本。手に取った時は教科書のような大きさをしていた筈だが、いつの間にかちんまりとした文庫本へと進化を遂げた『武器』である。
『アンタあれどこへやったの。ちゃんと持ってるんでしょうね……?』
「しろほんちゃん? しろうさぎちゃんリュックの中に入ってるですよ」
『手に持ってなさいよ……』
 たぶんアレ、アンタがあんまり手に持ってくれないからちいさくなってくれたのよ、と諭す妖精に、ソキはぷぷりと頬を膨らませた。
「ソキのおてては、ロゼアちゃんとアスルでいっぱいなんですぅ。だからね、リュックに入ってるの。お出かけの時は、ちゃぁんと背負っていくですよ」
『この間のデートで背負ってなかった気がするのはアタシだけ?』
「……あれ?」
 あれ、じゃ、ない。怒鳴りつけそうになるのを深呼吸して堪えていると、ソキがもちゃもちゃした動きで寝台のすぐ傍に置いていたリュックサックを持ち上げて、その中から白い本を取りだした。表紙にはなにも書かれておらず、背表紙も白い布があるばかり。中身をめくっても白紙が綴られているだけの、立派な作りの文庫本である。
 お買い物のめもー、を時々書いたりするんですけどいつの間にか消えちゃうです、と言いながら、ソキはぱらぱらと紙をめくっていく。一枚、一枚。最後まで。白い本。白いだけの本。言葉はどこにも書かれていない。
「これで呪うです……? ……リボンちゃん? 本を投げるのはいけないことです」
『言っておきますけど、ぬいぐるみだってなんだって、誰かに対して投げるのはいけないことよそこからよ?』
「ねえねえリボンちゃん。ロゼアちゃんはまだ帰ってこないです……? ソキ、ねむたくなってきちゃいました……」
 あくびをしてむずがるソキは、投げてはいけない、というのを分かっているからこそ、妖精の言葉を聞き流している。叱る代わりにアスルをぎゅむぎゅむ踏みつけながら、妖精は遅いですとふくれるソキに同意してやった。ロゼアの魔力は確かに落ち着いていた。状態の確認だけなら、そう時間がかかるものではない。
 ただ、妖精たちが感じた嫌なにおいを、その懸念を、シディがレグルスに耳打ちしたのだとすれば、いつ戻ってくるかは分からないことだった。夜を明かすことはないだろうが、ソキがねむたさに本格的にぐずるまでには、間に合わない気がする。溜息をついて。妖精は目をくしくし擦るソキに、横になっていなさいな、と囁いた。
『ロゼアが戻ってきたら、起こしてあげるから』
「んー……。ソキ、ロゼアちゃんにぴっとりする予定だったです……さびしです……」
『……眠れない?』
 ころり、と素直に転がったものの、ソキの全身に力がこもっている。まるくなって、ぎゅっと全身に力がこめられていた。顔の近くまで降りてやると、ソキは眠そうなまばたきをしながらも、甘えた声でうん、と頷く。
「ねえねえリボンちゃん。おはなしして、おはなしして」
『……はなしって、どんな』
「んと、んと。んっと……あ、あのね。リボンちゃんは、蜂蜜を取ってくるって、この間言っていたです。だからね、はちみつのおはなし」
 甘えた声こそ、蜂蜜のように響いて行く。おはなし、して。ねえねえ。何度も何度も強請られて、妖精は苦笑して頷いてやった。
『妖精の花から、蜜を集める蜂がいて……。妖精はその蜂を倒して、蜂蜜を取れて一人前って言われるんだけど』
「うん。うん。それで? それで?」
『アタシも、色々蜂蜜集めて食べるんだけど、やっぱりその蜜は特別においしくて……もう、ソキ?』
 うん、それで、ねえねえ、それで、とはしゃいだとろとろの声で促してくるソキの頬を、妖精は苦笑して撫でてやった。話の続きを知るよりも、なんでもいいから、声を聞いていたいだけなのだろう。たくさんの人のざわめきも、静かすぎる静寂も。どちらもソキにはじわりと染み込む毒にひとしい。うるさいのが嫌いで、さびしいのも嫌な、とびきりわがままな魔術師のたまご。
 そき、おはなし、ちゃんときいてるもん。だから、ね。おはなし、して。りぼんちゃん。ねむたくて解ける声に分かったわと囁いて、妖精はその耳に口付ける。
『おやすみ、ソキ。ロゼアはすぐ帰ってくるわ。……帰ってきたら起こしてあげる』
「ほんと? ほん、と……? 帰ってきた、ロゼアちゃん、ぎゅう……。ぎゅうで、あのね、なでなでで、あのね。あのね……ソキ、ロゼアちゃんにね、くっついてね、それでね」
 分かってるわ、と妖精は言ってやった。分かってるわよ、ソキ。約束。眠たい声に何度も繰り返し囁けば、やがてうとうとと瞼が閉じられていく。アスルを抱きしめてまあるくなって眠る頬に、身を寄せて。大丈夫よ、と妖精は言った。何度でも。
『……今度、こそ』
 衝動的に、言葉が口をついて出る。胸に、涙の気配が満ちる。意味も分からず、こみあげるものを雫にして零して。妖精はソキと額を重ね、何度も、何度も、繰り返し告げた。今度こそ、今度こそ。今度こそ、必ず。
『迎えに行くわ』
 そして、導いてみせる。覆された運命の先へ。幸福で笑う場所まで、必ず。このこを。
『……ソキ』
 どうして、今度こそと、そう思ったのかを理解することは叶わずに。妖精は眠るソキに寄りそい、祈るように目を閉じた。

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