深く満たされた眠りから目覚め、ナリアンはしばらくの間、ぼんやりと天井を見上げていた。疲れはそうと意識しなければ分からない程に遠くにあり、瞬きの間にもほろほろと消えて行く。部屋の暖かさに意識が緩んだ。あくびをしながら身を起こして、辺りを見回す。静けさが訪れる部屋は、普段と変わりないように見えた。
やや雑多な机の上。教科書と参考書が山と積まれ、書き散らした紙の側にはインク壺がいくつか。うつくしい硝子ペンはどれも写本師時代からの愛用品。ソキから貰った飴玉の残りが、袋から零れて転がっている。火を揺らす灯籠。明るい影と暗い影。吐息に揺らされるように落ちつきなく踊っている。
枕に視線を向ければ、端にニーアがちょこんと眠りこんでいた。両手を重ねて頭の下にいれ、枕をふかふかの寝台代わりに身を横たえている。寝返りで落ちてしまったハンカチを拾い、手の熱で暖めてからニーアにかけ直す。ふわ、と笑みに緩んだちいさな横顔を眺め、ナリアンは寝台から立ち上がる。
無造作に放っておいたローブに袖を通す。冷えた布に眉を寄せながら、ナリアンは大股に部屋を歩いた。散らばったものを端に寄せ、掃除しなきゃと息を吐く。眠気に目を擦りながら飴玉を口に放り込めば、蜂蜜の味がした。ソキの好む味。守ってあげるですと張り切られたことを思いだし、ナリアンは思わず口元を緩めた。
かわいいな、と思う。大丈夫だよ、と言ってあげたい。だってソキはこんなに些細な言葉ひとつでも、ナリアンの心を柔らかくしてくれる。守ってくれてるよ。充分だよ。もう、充分なんだよ。だから。俺にも君を守らせて。守らせて欲しい。今度こそ。その為なら俺は、どんな努力だってしよう。それで君の命に手が届くなら。
瞬きをする。眠たさと静寂が、一瞬前の思考を洗い流していく。飴玉を転がしながらもう一度あくびをして、ナリアンは喉の渇きに気がついた。水差しは空になっている。考え、ナリアンは水差しを手に持って部屋をでた。水道は各階の廊下、左右の端にひとつずつ。朝には顔を洗う者たちで溢れる場所は、まだ誰の姿もなく冷えた空気に眠りこんでいた。
水を満たして硝子越しに空を見上げれば、まだ星が強く輝いている。早朝ですらない、夜である。ニーアが眠っているからそうだとは思ったのだが。もう一回寝よう、とナリアンが部屋へ戻ろうとした時だった。扉の開く音がした。振り返る。
「……ロゼア?」
額に手を押し当てて。まるで痛みを堪えるように。おぼつかない足取りで、部屋を出てくる姿に呼びかける。いつもならすぐ視線が向いて、ナリアン、と笑う友人から反応がなかった。視線は階段を向いていて、どこかへ行こうとしているように見えた。止めなきゃ、と反射的に思って走り出す。水差しのことは忘れていた。喉の乾きも。
「ロゼア!」
ふらつく腕を捕まえて引き止める。階段の手前。暗くて足元がよく見えない。ほんの僅かな距離なのに、疲労を思い出してしまったかのように息切れがした。は、と呆けたようにロゼアがナリアンを見る。
「……ナリアン? どうしたんだよ」
「俺の、台詞、だよ……!」
おおきく息を吸い込んで。呼吸を整えて、ナリアンはロゼアの腕を掴んだまま顔を覗きこむ。
「体調悪いなら、一緒に行く。レグルス先生の所だよな?」
「……体調、悪い?」
「ロゼア。顔色よくないよ。足元もふらついてる」
目を見てしっかりと言い聞かせる。あのままでは、階段を無事に降りきれたかも危うかった。ロゼアは眉を寄せて首を振り、額に手を押し当ててごめん、と言った。悄然とした声だった。
「寝ぼけてたみたいだ……。なんでもない。大丈夫だよ」
「……どこ行こうとしてたの、ロゼア」
「喉が……渇いて。水でも、飲もうかなって……ごめん、心配かけて。大丈夫、ごめん」
まるで、怒られるのを恐れるような早口。眉を寄せて、ナリアンは掴んでいた腕を離してやった。危なげなく立ちなおして、ロゼアはもう一度微笑んで告げる。大丈夫だよ、ありがとう。視線はしっかりとナリアンを見ていた。いつも通りのロゼアに、見える。ナリアンは無意識に、ゆっくりと瞬きをして焦点を合わせた。
ロゼアに。その魔力に。目を向ける。注視する。それは一瞬のことだった。黒色のインクが、水に投げ込まれるような情景。心象。それはすぐ混ざり合って分からなくなる。火の熱が触れ合った所からすぐ、暖めていくように。混ざり合ってひとつになって分からなくなる。とぷん、と沈んでいく。暗闇に遮られて水底が見えない。
「……明日も。忙しいんだろ、ナリアン。眠らないと駄目だ」
「……ああ。そうだね。分かってる」
眩暈を覚えて。それを顔に出さないように苦労しながら、ナリアンは頷いた。今のはなんだろう。水は魔力だ。魔術師の魔力。目覚めたものは皆、己の魔力を水の形で幻視する。認識する。それに混ざり物など。あっていいことではない。水は己だ。己の自我だ。意識であり、心。意思。喉の渇きを覚えて、ナリアンは息を吸い込んだ。
「ロゼア……」
「うん? ……大丈夫だよ、ナリアン。ほんとに寝ぼけてただけだって」
でも、そんなの。はじめてだよね、と否定する言葉を飲み込んだ。ロゼアが寝ぼける所なんて、入学してから一度も見たことがない。でも、まだ一年半だ。一年半しか一緒にいない。それでなにを否定してしまえることができるのだろう。恐ろしい予感が指先を冷やした。手を握りこむ。
助けたいのに。なにを助ければいいのかすら、分からない。
『……ナリちゃん?』
ふわん、と妖精の灯りがともる。暗闇を切り裂く程の力は持たず。けれども絶えることなく、どこまでも寄り添うように。眠たげにふわふわ漂い、飛んできたニーアはこしこしと目を擦る。差し出したナリアンのてのひらへ、降りるのではなくぎゅっと抱きついて、ニーアは笑った。
『どうしたの、ナリちゃん。まだ夜よ……?』
「ニーアこそ。起きちゃった?」
花妖精は、本体の眠りに強く影響される。夜明けと共に目を覚まし、陽が落ちれば大体の者は眠りについて、朝まで起きることがない。ソキの妖精は夜遊びも好きにしているようだが、ニーアはとにかく眠いらしく、夕食の時にもあくびをしてばかりだった。食べれば多少目が覚めたようだが、それでも眠たげに目を擦ってばかりいた。
眠いだけで起きていられない訳じゃない、というのがソキの妖精の言葉である。そこを気力でどうにかしようとして、してしまうのが、ガッツと根性でどうにかできると思っているソキに、じつによく似ていた。ソキの場合は、やって出来ないことの方が多いのだが。
音と声で起したかな、と申し訳ながるロゼアとナリアンを見比べて、ニーアは眠たげな顔で微笑した。首を振る。
『ううん。違うわ、ナリちゃん。ニーアを呼んだでしょう……?』
冷たい手を温めるように身を寄せて。ニーアは目を見開くナリアンに、寄り添うように笑いかける。
『大丈夫よ、ニーアがいるわ。ナリちゃんはもう、ひとりじゃないの。ひとりじゃないのよ……』
相談していいの。話していいの。ニーアがいる。みんないる。お友達も、仲間も。先生も。言いながら、うとうとと眠たげにして。ナリアンの手の中で眠ってしまったニーアに、ロゼアが穏やかに微笑した。
「夢でも見たのかな……。ソキも最近、時々寝ぼけるんだ。かわいいよ」
「ロゼア」
俺たちも眠ろう、と部屋へ戻ろうとするロゼアを呼び止める。なに、と問われるより早く、ナリアンは告げる。声で。この一年半。長くも、短くも感じる時の中で取り戻した勇気で。
「話してよ、ロゼア。……今じゃなくていいけど。怖い、ことがあったら……助けさせてよ」
「……ありがとな、ナリアン。でも、だ」
「大丈夫なんて、言うな」
跳ね除けるように。響きだけは穏やかに、ナリアンは言った。
「大丈夫だなんて言うなよ、ロゼア」
「……うん」
「頼って。いいね?」
ロゼアはもう一度、照れくさそうに、うん、と頷いた。
「ありがとう、そうする。……話すよ。今度、話す。考えて……考えが、纏まったら」
「分かった、待ってる」
「あ、ナリアン」
それじゃあおやすみ、と別れようとするナリアンを、今度はロゼアが呼び止めて。その、と珍しく言葉にためらい、考えた末に。ロゼアは照れくさそうに、ちいさく首を傾げてナリアンに問いかけた。
「ソキ見てく?」
ああぁー、たぶんこれロゼアなりの感謝の気持ちをこめたお礼のつもりなんだろうな俺の親友尊いなーっ、という気持ちで頭を抱えかけ。ニーアを手に乗せているから諦めて、ナリアンは力なく、一度だけ頷いた。
「じゃあ、顔を見ていこうかな……。俺思うんだけどロゼアって時々果てしなく天然だよね……」
「天然? どこがだよ」
「そこがだよ……?」
ロゼアってたまに『お屋敷』基準が抜けてないんだなって思う、と苦笑しながら告げるナリアンに、ロゼアは多少の心当たりがある様子で視線をさ迷わせ、沈黙した。待っていると、いやだって、と言い訳がましい視線が向けられる。
「ナリアン、忙しいし……。二日も三日もソキに会えないと元気なくなるだろ……?」
「うん、うん。分かってた。俺を思いやってくれたんだなって、俺はちゃんと分かってたよロゼア。……ソキちゃんに会えないと、二日くらいで元気なくなってくるんだねロゼア……」
ソキが、ロゼアが傍にいないと早ければ二分でもうだめです元気がなくなってきちゃったです、と言い出すことがあるのを考えれば、長いと思ってあげられないこともない。ロゼアはソキちゃんのこと好きだもんね、と呟くと、息をするように頷かれた。ナリアンの知る、いつものロゼアの反応だった。
くすくす笑いながら室内に招かれる。ちょうど、寝台でくちびるを尖らせたソキが、目をくしくし擦って妖精に宥められている所だった。ああぁああっ、と非難でいっぱいの、ほわほわふわふわした声が、寝ぼけながら奏でられる。
「ロゼアちゃぁあん……! そき、おいてく、なて、いけな、です……! いけぇな、こと、でぅ……うぅ……ふにゃ」
「ソキ、ソキ。ごめんな、起しちゃったな。おいで」
『……なんだってナリアンまでいるのかしら。ニーア、こっちへいらっしゃい。ほら寝るわよ』
ソキを抱き上げたロゼアを睨みつつ、妖精がナリアンの手からニーアを呼び寄せる。ふらふら起き上がったニーアはねぼけまなこではい先輩と頷き、ふらふらした動きで寝台の上、妖精の隣に落下した。ソキのハンカチが何枚も敷き詰められた寝床で、妖精はもぞもぞと寝返りを打ち、ニーアと手を繋いで眠り込んでしまう。ニーアも気持ちよさそうに寝てしまった。
えっ、と狼狽するナリアンに、眠気のない顔をしたシディがふるふると首を振った。
『すみません……。リボンさん、あれで寝ぼけてるんです……。花妖精は、複数集まって眠る習性がありますから……呼んでしまったんでしょう』
「……シディさんは、眠らないんですか?」
『僕は、いましばらくは。……先程、目を覚ましたばかりですから』
なにかを警戒するように、シディの目がナリアンを見て、ロゼアを見て、ソキを見た。室内をぐるりと見回し、妖精の目がきゅぅと細くなる。警戒していることが、はっきりと見て取れた。とん、とん、とソキの背を撫でて寝かしつけながら、ロゼアが不思議そうにナリアンとシディを呼ぶ。
「どうしたんだ? 二人とも」
『……いえ。ロゼア、気分は?』
「普通。すこし眠いかな。……ん、ごめんな、ソキ」
ロゼアの肩に頬をくっつけ、ソキはふにゃうにゃ文句を言っている。和んだ眼差しで見守っていると、程なくソキは眠ってしまった。すぴ、ぴすっ、ぴす、と幸せそうな寝息が響いている。ふ、とシディが苦笑した。警戒を抱いておくのが難しい愛らしさ、というものもある。よく眠っていますね、と笑うシディに、ロゼアは口元を緩めて頷いた。
「そうだな。ソキかわいい」
『はい。ロゼアも寝ましょうね』
「うん……。ナリアン、寝ていくか? 狭いけど」
たぶんなんとかなるよ、と提案するロゼアに、ナリアンはあくびをしながら頷いた。起きた時には疲れが取れたと思っていたのに、一時的なものであったらしい。お邪魔します、と言って寝台に横になる。眠りはすぐに訪れた。穏やかに。次にナリアンが目を覚ましたのは、満たされた眠りの先の、朝のこと。
俺だけ呼ばないなんてひどいよね、と笑いながら寝台に飛び込んできたメーシャに、遠慮なくつぶされる。笑い声の中での目覚めだった。
未だ未熟な『学園』のたまごが、王に会う機会は限られている。ソキのように面談で呼び出されるのはあくまで特例であり、通常なら新入生を歓迎する夜会にて、挨拶の折りに遠目で顔を見るのが精一杯だ。年末年始の帰省中、運が良ければ挨拶を交わすことが叶うが、親しく時を過ごすのは王宮魔術師になってから。
そうであるから、メーシャとナリアンにしてみれば、久しぶりに顔を合わせる砂漠の王である。今日は城の調査だから王に挨拶を、と引き出された場でどうにか言葉を交わし、二人は緊張と不思議さの入り交じった感情で砂漠の王そのひとを見つめてしまった。整った顔立ちの男である。
黒色の短い髪は砂漠の夜。黄金の瞳は満ちた夜明け。導きの我らが王。砂漠出身者がこぞって自慢する男の、顔立ちにしかし、見覚えがある。そう思ってしまうほど、ロゼアによく似ていた。年齢の順で考えれば、ロゼアが王に似ていることになるのだが。親子、とするより兄弟的な似方である。
ソキが、ロゼアちゃんにとてもよく似ているですから陛下も格好いいです素敵です、と頬を赤らめてもじもじするくらいなのだから、知ってはいたのだが。いざ顔を見ると、本当によくよく似ていた。二人の、困惑混じりの沈黙と凝視の意味を正確に理解している顔つきで、砂漠の王は心底不本意なため息をついた。
「ロリエス、ストル。教え子に、王の顔を凝視するなって教育しておけ」
「……でも、この二人がこれだと、よっぽどですよ。陛下?」
緊張していたとも思いますし、あまり怒らないであげてくださいね、と。王にも教員たちにも声をかけながら、執務室に現れたのはラティだった。砂漠の国の占星術師。いつもの長くて固そうな、棒のような杖を片手に、腰には長剣を帯びている。魔術師のローブを着て、杖を持っていてなお、護衛騎士の雰囲気を漂わせる出で立ちだった。
ラティ、とほっとした声で呼びかけるメーシャに笑顔で手をひらつかせる。おはよう、と声をかけて立ち止まらずに。ラティは渋い顔をする王に、慣れきった仕草で片膝をつく。騎士の一礼。
「おはようございます、陛下。佩剣の許可をありがとうございます。ご安心くださいね。なにがあってもこのラティ、必ず陛下を守ってご覧に入れます」
「……期待してる」
諸々の感情を飲み込んだ顔で告げる王に、ラティは張り切った笑顔で頷いた。久しぶりの貴人の護衛が陛下だなんて嬉しい嬉しい幸せ、とふわふわした気配のまま、立ち上がったラティはメーシャたちの元へ歩み寄る。
「おはよう、メーシャ。ナリアンも。……ロリエス、ストル、そんな顔しないの! 仕方ないじゃない。ロゼアくんったら陛下の……陛下の? なんでしたっけ?」
「砂漠出身の魔術師のたまごと出身国の王だよ! それ以下でもそれ以上でもないから覚えとけ。一々聞くんじゃない」
「うーん……。陛下がこう仰ってるから、偶然なんかすごいよく似てるってことで納得してあげてね?」
どうして自国の魔術師にも、隠し子やら落胤やらそういう方向性で疑われなければいけないのか、という顔つきで砂漠の王が額に手を押し当てる。王と魔術師のじゃれあいにも慣れていないメーシャは無言で何度か頷き、そっとストルに身を寄せて黙り込んでしまった。
緊張してるね、と笑って、ラティは元養い子の顔を覗きこむように腰を屈めた。
「仕方ないか。うちの陛下、慣れないとちょっと怖いもんね」
「ラティ。聞こえる場所で聞こえるように言うな」
「はーい。それでは、陛下。すぐに戻りますので、彼らを送ってきても?」
無言で、砂漠の王が手を振った。犬猫を追い払う雑な動きだった。陛下ったらもう、と笑いながら、有無を言わさぬ力で、ラティはメーシャの腕を引いた。そのまま執務室前の廊下へ連れ出して、ラティは訪れた魔術師全員が出たことを確認すると、ほっとした笑顔で後ろ手に扉を閉める。
「ごめんね。いつもならもうちょっと優しく付き合ってくださるんだけど、今はご機嫌ななめなの」
「なにか、あったんですか?」
ラティの剣を注視しながら、メーシャが強張った表情で問いかける。ラティの魔術師としての武器は、長剣ではない。純粋に、使い慣れた実用品である。ラティはメーシャの肩を落ち着かせるように叩くと、やや非難がましげに教員たちを見た。
「やだ、もう。誰か説明しておいてあげなさいよ。……あのね、メーシャ、違うのよ。他国の魔術師が城に多数いる訳でしょう? 実測調査とはいえ、ほら、部外者といえば部外者だから。市街地だったら別にね。でも城内だから。どの国でもこうして警戒するものなの。まあ、避難訓練とか、そういうのと同じだと思っておいてくれれば大丈夫。たまには警戒しないとね? それに、陛下の機嫌が悪いのは……」
視線をさ迷わせ。口元に手をあてて。堪えきれず、ラティは笑いに吹き出した。
「フィオーレが風邪引いて寝込んだの、心配で苛々してるだけだから。可愛いでしょ?」
「……風邪?」
「というか、魔力酔いというか、二日酔いというか。自家中毒? 魔法使いには時々あるみたい。……ナリアンくん、メーシャも。なにか体調、魔力、おかしいなって思ったらすぐにロリエスとストルに言うのよ。慣れない環境で、慣れない作業を緊張しながらしてるんだから、疲れて当然。休憩は甘えじゃなくて、適切な作業の一環として考えること。分かった?」
フィオーレとラティで王の身辺警護を担当する予定であった関係もあり、佩剣が許可されただけなのだという。重ねて、安心させるように語りかけ、それじゃあ調査頑張ってね、と言ってラティは執務室の中へ戻ってしまった。もうすこし話したかった、という顔をしながら、メーシャは恥ずかしそうに視線をさ迷わせる。
「俺……そんなに不安そうな顔、してたかな」
『緊張はしてた。大丈夫だって、メーシャ。慣れる慣れる』
ソキがありあわせの布で作った『ようせいさんのおでかけかばん』を下げながら、ルノンが楽しげに飛び回る。角砂糖をひとつ、持ち歩けるばかりのちいさな袋が、よほど嬉しかったらしい。ニーアも同じものを下げながら、大丈夫よナリちゃん、とロリエスの肩の上に腰掛けていた。
『ナリちゃんは花舞へ行くのですもの! ね、ロリエスちゃん!』
「ああ、ニーアの言う通りだ」
俺の思っている方向の大丈夫と違いすぎてなにも安心できない、としんだ目になるナリアンの肩を、ごめんねと告げるようにメーシャが叩く。そうしてからすこし不安げに、メーシャは微笑んだまま佇むストルと、チェチェリア、ウィッシュを順番に見比べた。
「……進路って陛下が決めているんですよね?」
「基本的には」
「俺と……ロゼアと、ソキの進路って、別にまだ決まってないんですよね……? 卒業資格も、ないし……」
俺もまだ卒業資格なんてないんだよメーシャくん、とナリアンの半泣きの声が響く。ロリエスが黙々とニーアに角砂糖を差し出して買収する沈黙の中、ストルがにこ、と小奇麗な笑みを浮かべて頷いた。
「基本的には、な」
「先生安心できなくなりました! 先生……っ?」
「だ、大丈夫だよ、メーシャ。ストルね、たぶんね、ちょっとメーシャをからかって遊んでるだけだから。俺がけんめいに、めっ! てしておいてあげるからね、メーシャ! 大丈夫だよ! たぶん!」
全力でたぶんとか言わないで欲しかった。もう、ストルはめっ、めっだよっ、と必死に叱ってくれているらしいウィッシュの声がほんわりと空気を揺らす。さあ気を取り直して調査をしよう、とチェチェリアが声をかけて促すまで、ナリアンとメーシャは頭を抱え、強く生きようね、と励ましあっていた。
あっルルク先輩です聞いて聞いてきいてくださいですうううっ、とはしゃぎきったとろとろふにゃふにゃの声で、脚にぎゅっと抱きつかれて呼び止められたので、ルルクは無言で祈りを捧げた。神に祈るしかなかった。次の休みには廟に行って世界平和の為に祈ろう。
神様ありがとうございますソキちゃんかわいいです嫌われてなかったよかったほんとうによかった。
「えっと……えっと、なに?」
急に泣き崩れたりすると『花嫁』が動揺します。内心は決して表に出さずに平静を保ちましょう、という『お屋敷』の講習を全力で思い出しながら、ルルクはなんとか息を吸い込み、普段通りと念じながらソキに向き直った。ふにゃあぁあんっ、としあわせそうに鳴かれる。
「先輩きいてきいてあのねあのねあのね! きゃぁんきゃぁんなんですやぁあんやぅふにゃあぁーっ!」
「ソキ。ぎゅってして呼び止めるのは駄目だろ」
次の授業を休講にして不安定魔力の調査に出かけた講師と、談話室へ来た己の判断を全力で褒め称えながら意識をなんとか安定させる。深呼吸をしてから改めて向き合うと、ソキはロゼアに抱きかかえなおされ、ソファの上でだーめー、と言い聞かされている所だった。
だぁ、めーっ、とふにゃんふにゃんした声で繰り返しているソキが、ロゼアの言葉の内容を理解しているとは、ルルクも思わない。それ所ではなさそうだった。ソキは興奮で顔を赤くしてきゃぁきゃあ身をよじり、ルルクに対して座って欲しそうに、ソファの空席をちらちらと見て寄こしている。
ロゼアがルルクを見て、にこ、と笑った。
「お座りにならないんですか?」
早く座れよソキが呼んでるだろ、という音声が聞こえた気がした。気のせいだと思いたくてしんだ目になるルルクに、ソキはロゼアの腕の中から、我慢できない様子ではしゃぎ声をあげる。
「先輩あのねあのね内緒のおはなしなんですよないしょなの! ないしょなんですけどねあのねあのねっ」
「ソキ。ルルク先輩が座るまで、ちょっと待とうな。ないしょのお話したいんだよな」
俺には内緒なのに、という不機嫌が見えそうな笑顔だった。笑顔だが、ロゼアの機嫌は確実によろしくない。ちょっとなにこれ天国と地獄が隣り合ってるんだけどいまひとつ分かることは私は確実にしぬ、という覚悟を決めた表情で、ルルクはおずおずとソファに腰掛けた。
すかさず、ロゼアの膝の上から、ソキがちたちたと手招きをする。顔を寄せてやると、あのねあのねっ、と興奮しきった声がルルクの耳にそれを囁いた。
「そ、ソキ、ソキ、きょうねっ! ろぜあちゃんに、おし、おしっ、おしたおされちゃったんですううううきゃぁあああああっ!」
その、ロゼアの膝の上で全力で叫ぼうとはしゃごうと、本人に言わなければソキの中では内緒に含まれるらしい。へー、そうなのよかったね、と頷きかけ、ルルクはまじまじと、そのロゼアを凝視した。数秒の沈黙。
「えっ……えっ? ロゼアくんが押し倒したの?」
「そうなんですううう! はぅ、はぅ、はぅ……きゃぁあああやぁああああんっ!」
『なんか朝からはしゃぎきってると思ったら……。そう、そうなの……アンタはアレを押し倒されたっていう解釈にしたの……』
ルルクが視線を向けると、天井近くから妖精がぐったりと降りてきている所だった。傍らにはロゼアの案内妖精、シディの姿もある。おはようございます、と挨拶をすればシディからは微笑みが、妖精からは頷きが返された。ロゼアは穏やかに笑いながら、興奮するソキを宥めている。
抱き寄せられ、ぽん、ぽん、と背を撫でられながら、ソキはうっとり、夢見る乙女の瞳で言い切った。
「押し倒されちゃたです……」
『押しつぶされた、ね。押しつぶされた。違いは大きいわよ、ソキ』
「ちょっとぷきゃんってしちゃっただけです……。これは大きな進展、というやつです……!」
はうぅんやんやん、と頬に両手を押し当ててもじもじするソキは、相変わらずロゼアの腕の中である。ちら、と視線を向けたルルクに、ロゼアはやんわり笑いかけた。よく分からないが、ロゼアの不機嫌は解消されたようである。よかったと胸を撫で下ろして、ルルクは一応尋ねてみた。
「ロゼアくん。押した……つぶしちゃったの?」
「メーシャがいきなり飛び込んできて、俺もまだ眠っていたので……」
とっさに庇いはしたものの、体重がかかったソキはしあわせにつぶされてしまったらしい。ぷきゅんっ、と声がして、しばらく動きもしなかったことだ。ああ、と息を吐き、ルルクはやっぱりどこか痛かったのかな、ごめんな、と改めてソキを撫でるロゼアに、感情を表現できないが故の真顔で頷いた。
「大丈夫だと思うわ……ちょっとしあわせの国に旅立ってただけだと思う……」
「なんですかそれ」
「……ソキちゃん。よかったね」
ロゼアにぺっとりくっついて、ようやく落ち着いた顔をしたソキが、うっとりしきった表情でもじもじと頷く。思わず手を伸ばして髪を幾度か撫でてから、ルルクはさっと立ち上がった。行っちゃうの、とばかりソキがいて欲しがる視線を向けてくるが、妖精たちは理解ある眼差しで頷いた。
ルルクは妖精に頷き返し、ソキと視線を合わせて微笑する。
「また用事があったら、いつでも呼んでね。だからなにとぞロゼアくんを……ロゼアくんの機嫌を……うん……」
「ロゼアちゃんのごきげん?」
目をぱちくり瞬かせ、ソキがロゼアを振りかえる。にこ、と笑うロゼアに不思議そうにしながら、ソキはんしょっ、と呟き、ぺとんと頬をくっつけた。
「ロゼアちゃん、どうしたの? もしかして、また魔力がお風邪をひいてるです……? ソキが看病してあげるぅ……!」
「なんともないよ。ありがとうな、ソキ」
『コイツほんとむっつりだな』
白んだ目で妖精が呟くのに思わず頷いてから、ルルクはロゼアの方を決して見ず、振り返りもせず走り去った。不思議そうに首を傾げるソキの傍まで降り、シディがロゼア、と頭の痛そうな声で諭す。俺はなにもしてないよ、としれっと言い放ち、ロゼアは膝から降りようとするソキを、しっかりと抱き寄せなおした。
降ろす気がないようだった。