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 食事の時間がもったいない。だから一口で一食まかなえるようなものにして欲しいとエノーラは言った。言ったのだが、砂漠の王宮付き料理人たちは強かった。いいですか食事時間を仮に三十分として、一日三回で一時間半。連続した一時間半だとしても、三回分一時間半にしても、その遅れで間に合わないのだとしたら計画段階から間違っている。
 だから諦めて、休憩を兼ねたとしても食事は取れ砂漠の王宮にいる間は絶対に、と怒られて、エノーラは机に肘をついてふてくされたまま、サンドイッチを頬張った。片手で楽に食べられるものにしてくれただけ、料理人たちも理解はしてくれているのだ。食事をおろそかにするなど言語道断だと怒っただけで。なにか積もったものがあったにちがいない。
 心当たりは、と睨むように視線を向けた先、ラティが笑顔のままでさっと視線を反らす。ええとそれはその、と言いたがらない言葉の先はない。諦めず待ってやると、前科がたくさんあるからかな、と弱々しい声が零れ落ちた。
「陛下の不眠がまだ酷かった時にね……ちょうど成長期と重なってたみたいなんだけど、眠らないから食べられなくて、吐いちゃったり、でもあれこれ動かなくちゃいけなくてその……何度か寝込んだりしてたのを忘れられないらしくて……」
 なにせ、ラティが砂漠の王宮魔術師として就任した初仕事は、王を眠らせることなのである。初めのうちは毎日だった。毎日、毎日、魔術で守られた眠りの中にしか、王は安らぎを得られなかった。一週間が経過して、料理人たちが目を赤くしていたことをラティは覚えている。
 夕食の時間を急かされたのだそうだ。古参が覚えのある限り、眠れなくなってから初めてのことであったという。それから、少しずつ食事の量が増やされた。今では執務室の手が届く場所に、簡単に口に運べる甘味まで常備されるようになった。最近は冷え性もすこしましになってきたのだという。
 エノーラは深々と息を吐き出した。
「それで砂漠は心配性が多いのか……」
「まあね。エノーラの顔色がよければ、そんなには言われなかったと思うけど」
 エノーラが持とうとしていた報告書を奪い、ラティは笑顔で首を傾げた。砂漠の城務めは確かに心配性が多いが、過保護ではない。他国の客人にまであれこれ指図する程、お人好しでもない。それなのに連絡は瞬く間に城内を駆け巡り、ラティの元まで届けられた。フィオーレが魔力酔いさえしていなければ、確実に呼ばれていただろう。
 使わない一室に押し込められたエノーラに会いに来る途中、すれ違ったキムルは苦笑いをしていた。僕には止められなくてね、との言葉が全てだ。無表情で目を向けてくるエノーラに、ラティは視線を重ねて懇願した。
「追い詰められないで、エノーラ」
 相談して、だとか。頼って、だとか。言葉を伝えられないのは、ラティには手が届かない領域であるからだ。錬金術師の中でも、たった一人。エノーラだけがその場所まで走っていける。辿り着く手段はエノーラしかない。その意思、その力しか。止めることしか、ラティには出来ない。
 それでもまだ、止めることは出来る。その言葉は残されている。時間も。
「お願い」
 もう、間に合わないと。取り戻せないと嘆く程では、ない。占星術師だからこその予感をもって暗に告げるラティに、エノーラは不愉快そうに眉を寄せたまま、しばらく返事をしなかった。瞼が下ろされる。その奥に苛立ちを押し込めるように。やがて、目を開いて。エノーラはようやく、ぎこちなく、笑った。
「……私そんなに、ひどい?」
「うん、余裕ないんだなってすぐ分かる。顔色悪いし、すぐ苛々してるよね……報告書も、さっきから同じ所読んでるよ」
「市街地と城内の魔力の安定度が、明らかに違うの。何回も確認したくなるくらいにはね」
 気がつかなくて読んでいたのではないと告げながら、エノーラはラティに言葉を叩きつけかけ、口に手をあてることでその衝動を封じ込めた。どうして気がつかなかったの、なんて。ただの結果論だ。砂漠に訪れる他国の魔術師が、いなかった訳ではない。誰からも報告はなかった。それが全てだ。今に至る全て。
 それでも。誰かを責めて、責任を押し付けてしまいたい。
「……二時間で起きるように調節するから。休んで、それから……また、頑張ってくれる?」
「もちろん」
 怖い。弱音を零してしまいたい。意思と感情は読み取れている。だからこそ怖い。理解ができないものがそこにある。虚勢を張る足元が崩れてしまいそうになる。笑え、とエノーラは己に命じてラティを見返した。
「私にしかできない。だから……私を使うことに罪悪感なんか抱かないでね、ラティ」
「……レディが起きてくれたらなって、思う」
 エノーラの手を引いて寝台に押し込め、魔術の準備をしながらラティは呟いた。火の魔法使いは、エノーラの親友だ。手伝えることがないにしろ、傍にいるだけでも楽になることがあるだろう。そうね、とエノーラは素直に頷いた。いて欲しかった。無責任でもいい。大丈夫よ、と笑って。頑張れ、と言って欲しい。
 背を押して欲しい。暗闇の中へ走り出していく為に。
「……なにか見たい夢はある?」
 脱力して目を閉じたエノーラに、ラティが囁く。夢を導く術だけに長ける占星術師。できることを、それでも諦めずに追い続けた研鑽の術は、どの魔術師をも凌ぐだろう。申し出が好意だと分かっている。それでも受け止める気持ちになれず、いいわ、とエノーラは首を振った。
「いらない。……ごめんなさい、ラティ。今、あんまり……優しくされたくなくて」
「分かった。いいよ、気にしない」
 おやすみ、と囁いて魔術を発動させる。夢のない眠りはすぐ、エノーラへ染み込んだ。顔色の悪さを気にしながらも立ち上がり、書類を整え、ラティは空になった食器を持って部屋を出た。たった一度、ほんのちいさな魔術だけで魔力が空になったのを感じる。ラティは目を伏せて、できることをした、と呟く。誰もが今、できることをしただけ。
 後悔にも似た感情をねじ伏せて、前を向いた。



 通りすがりに飴を渡すくらいの気軽さで、魔力を押し付けるのはやめて欲しい。お疲れさま、これで元気だして、と肩をぽんと叩かれて受け渡される魔力で、ラティは足元をふらつかせながら王の執務室へ帰りついた。気分としては食べ過ぎのそれに近い。胃がなんだかぐるぐるしている気がする。そんな筈もないのだが。
 ラティの魔力総量は白魔法使い曰く、三ミリリットルくらいである。水器はその分しか受け止めきれず、遠慮なくざばざば注がれた分は、行き場をなくして体の中を循環する。悪酔いにも似ていた。ただいま戻りました、と呻くラティの顔が青褪めていたからだろう。心配しながらも不愉快そうに眉を寄せ、砂漠の王は吐息と共に問いかけた。
「なんで見舞いに行って体調崩してくるんだお前は……」
「な……なんか魔術必要なことありませんか陛下……。吐きたいんです違う間違えた魔力使いたいです……っ!」
 じんましんがでたらどうしよう、と膝をついて嘆くラティに、王は大まかに理解したようだった。ほいほい受け取ってくるなよと呆れた顔で呟かれる。
「それじゃあ、許可してやるからなんかそのあたりを適当に祝福……ああ、いや、今やると魔力測定に影響でるか。……測定終わったヤツから無差別に眠らせるとかなら行けるか……?」
「陛下。通り魔のような提案をされるのはいかがなものかと……! 時に最近寝不足だったり致しませんでしょうか……っ?」
「寝てるから安心して他の方法を考えろ」
 陛下今日もハレムから朝帰りでしたものね、とにこにこしながら立ち上がったラティに、意外と放っておいても大丈夫じゃないのか、と疑惑の視線が向けられる。しかし歩み寄る足取りがやや心もとないのを見止めて、王は額に指を押し当て目を閉じた。記憶を探る沈黙。夜明けのように瞼が開かれる。
「ソキが先日、呪いを具現化したって言ってたろ。あれは出来ないのか?」
「なにか呪いたい案件ございました……?」
「やめろ素振りをするんじゃない。撲殺を目論むな魔術師だろ……言い方が悪かった。祝福を具現化して、置いておくことはできないのか? 祝福、祝福だからな、ラティ。呪いじゃなくて」
 シークを誅殺する機会だと思ったのにな、と残念そうにするラティは、例に漏れず殺意高めの魔術師である。文献に言葉魔術師殺すべからずの忠告があるのは知っていても、どうにも諦めきれないらしい。他国の魔術師たちも、同じだろう。殺してはいけない、という言葉が存在している。その理由だけが消し去られている。不自然なまでに。
 それをもし、語る者があるとすれば。それがツフィアだ。ツフィアは王に話がある、と言っている。今度こそ、問われる言葉の全てを明らかにすると。その為にリトリアの同席を絶対条件としていることが分からないが、機会はもうすぐそこに来ている。焦る必要はない筈だった。シークは砂漠の地下、奥深くへ閉ざされている。
「具現化って……そうほいほい出来ることじゃないんですよ、陛下」
「難しいのか?」
「正直に申し上げると、そうです。具現化っていうのは、うーん……魔力を水、祝福や呪いといった術の方向性を砂糖とすると、煮詰めて飴を作る感覚なんですけど……。こう、火加減となるとまた別の技術っていうか……。物質として存在する形に整える、ということでもあるので、錬金術師なら……というか、エノーラならなんとかできちゃうかな? くらいのことで」
 ソキちゃんは予知魔術師だから別枠として考えて欲しいと訴えるラティに、王はつまり難しいんだな、と頷いた。上手く説明もできないので、ラティはそれを全面的に肯定した。難しいというか、可能不可能の不可能寄りで、できない、と表すのが感覚的には近いのだが。
 魔術師にしか通じない感覚である。言葉が届かなければ、適度な所で妥協も必要だった。それなのに王は、分かった、と頷きながらもしれっと言った。
「じゃあ、とりあえずやってみろ」
「え、ええぇ……私にはなんとかならないことなんですが……?」
「失敗するとどうなるんだ?」
 祝福の性質を乗せるのであれば、部屋中にそれがぶちまかれるだけである。城内へ零れていくことも考えられるので、調査中の魔術師がさぞ頭を抱えることだろう。砂漠の魔術師が調査の邪魔をしてどうするんですかと呻くラティに、砂漠の王は好奇心に溢れた少年めいた瞳で、いいからやれよ、と命令を下した。暴君である。
「成功させればいいだろ?」
「……分かりました。分かりましたが、事前に申し上げておきますと、成功確率すっ……ごく! 低いですからね!」
 城内で調査中の顔見知りたちに頭の中で謝りながら集中するラティに、どれくらいだよ、と王が訝しげに確率を問う。集中しきった瞳で、ラティは静かに言い切った。
「ソキちゃんが徒競走で一位になるくらいです」
「可能性が低いじゃなくてマイナスに振り切れてんだろうがそれ」
「ロゼアくんが競争相手を全員転ばせてソキちゃんを抱き上げて走れば行けますよ陛下……!」
 それはすでに別競技である。だめだな、と早々に見切りをつける王に全力で頷いて、ラティは元気よく言い放った。集中しきって解き放たれるのを待つだけの魔力が、体の中でぐるりと円を描いている。
「よーし皆にごめんなさいって言って回ろー!」
 祝福とは、個々が胸に持つ世界への祈りであり、愛である。発動に思い描くものは様々だ。苦笑いして見守る砂漠の王へ意思を捧げながら、ラティが脳裏に描いたのは星降の城だ。一生をそこで過ごすと思っていた。魔術師として未来を手放し、異界へ招かれるその瞬間まで。その場所を、彼の人を、守り続けていくのだと信じていた。
 夢を手放した日のことを忘れられない。今は眠りと共に、それを贈ることしかできないのに。
「……あれ?」
 祈りの形に組み合わせた手の中に、なにかがあるのを感じて両手を開く。魔力がそこへ収束したのを感じた。一瞬の眩暈。瞬きをして世界を取り戻した時、ラティの手へうまれていたのは小さな剣だった。柄まで入れて、ラティの両手と同じくらいの大きさだ。指先で摘んで鞘から引き抜けば、刀身は細いものの、意外としっかりしている。
 えっと、と戸惑いながら、ラティは恐々と己の主君へ視線を向ける。
「……成功しちゃいました」
「そこで剣出してくるのがな……。ソキは花弁だったんだろ? 個人差あるのか、やっぱり」
「成功例が極端に少ないので、個人差なのか偶然の一致か、までは……」
 どうしようかな、と困惑しきりでラティは小刀を見下ろした。重量はあるものの、腰にある長剣のことを考えれば玩具のようなものだ。書類が風に飛ばされないように上に置きますか、と献上したがるラティに、砂漠の王は笑いながら首を振った。
「いい。祝福だから、いいものだろ? 自分で持ってろ」
「え、ええ、こんなちっちゃいの護身用にもならな……あ、ソキちゃんにあげていいですか? ソキちゃんなら護身用にしてもぴったりくらいの大きさかも! いらなかったら手紙の封切るのとかに使ってもらえばいいし」
 ただし、ソキに刃物を渡すことに関して、ロゼアの許可が取れればの話であるのだが。好きにしろよ、と苦笑する王に、ラティはそうしますと頷いて伸びをした。過剰な魔力を出せたので、体が楽で気持ちいい。あ、二時間でエノーラを起しに行くので、またその間だけお傍を離れますね、と報告するラティに、砂漠の王は仕方がなさそうに頷いた。
 背負い込みすぎるなよ、とかけられた言葉に、占星術師は微笑んで一礼した。



 四階のソキの部屋。絨毯の端から端まで。右に左にころころ転がって往復しているソキは、不機嫌顔である。ぷーっと頬を膨らませて、アスルをぎゅっと抱きしめている。妖精は部屋の入り口に視線をやり、ロゼアが戻ってくる気配がないことを確認すると、ほとほと呆れた表情で息を吐き出した。
『いい加減にやめなさい、ソキ。酔うわよ』
「ソキだってソキだってぇ、お掃除できるんです! できるもん! おそーじ!」
『そうね。今まさに、絨毯の埃を服にぺとぺとつけてる所よね……ああ、もう。ソキ、こら!』
 なんだか目がくるくるしてきたです、とソキはくちびるを尖らせて動かなくなった。案の定、酔ったらしい。しばらく動くんじゃないのよ、と肩に降りて頭を撫でてやれば、しょぼくれた声がほよほよと響いていく。
「ロゼアちゃんはいつも、お掃除の時にソキをお部屋においていくです。よくないです」
『ソキ? 掃除の役に立つようになってから落ち込みなさいね』
「ソキはぁ、お片づけ得意なんですーぅー。それにぃ、ソキも、あの、水拭き、というのをしてみたいです!」
 こんなね、布をね、こうやってね、ぎゅむっとしてね、それでね、それでね、と起き上がり、身振り手振りで説明してくれるソキに、妖精ははいはいそうねと頷いた。水を絞りきれなくて、びったびたの布であちこち塗らしてまわるのが目に見えていた。挙句の果てに零した水をふんずけて転び、頭だのおでこだのを打つに違いない。
 だいたい、この時期の冷たい水に手を浸すなんてことも、経験がないだろうに。問いかけると、ソキはくんにゃりと首をかしげ、いまひとつ理解していない顔つきで目を瞬かせる。
「お水? ……つめたいです?」
『……まさか? ……いやまさかとは思うけどそんなまさかいやでもロゼアなら、ロゼアならやりかねない……!』
「んん? つめたいお水もあるですよ。ソキ、知ってるです」
 あったかいのと、ちょうどいいのと、つめたいのです。えへん、と胸を張るソキに、そうねそれたぶん飲用ね、と言葉を飲み込み、妖精は額に手を押し当てて思考を巡らせる。風呂場で冷たい水に遭遇しないのかとも思うが、『学園』の魔術整備は完璧だ。必要ない場所ならそのままくみ上げたものが流れるが、水は適時調整されている。
 ソキと共に五国を移動したのも、夏である。夏の山水は冷えて心地よかったに違いないが、冬の、しんと骨を痛ませる温度とはまた違うものだった。なんと言えばいいのか分からずに呻いて、妖精は首を横に振った。どうせソキが、どうしても水拭きしなければいけないような状況になったとして、ロゼアか誰かが布を絞って渡すに違いない。
 ソキの手が荒れる可能性がある作業を、ロゼアが許すとも思えなかったが。ロゼアの教育方針を今一度正さねばならない気持ちで目つきを険しくする妖精に、お水で思い出したんですけどぉ、とソキがややふんぞりながら言ってくる。
「ソキ、つめたいお水でぇ、泳いだこともーあるんですよ?」
『……ちょっと詳しく説明なさい?』
 泳いだ、の意味が妖精が知るものとは違う可能性がある。ソキは膝の上に乗せたアスルをもふもふ手で触りながら、機嫌よく言葉を並べていく。
「えっとね、えっとね。夏にね、泳ぎの練習があってね。水着でね、『お屋敷』のお庭のね、すみっこの噴水の所でね、ちゃぱちゃぱするです。ソキは泳げるですぅー!」
 この上ない自慢顔である。へぇー、そうなのー、と全く信じていない声で返事をしつつ、妖精は重ねて確認した。体のどこまで水に入ったのか。ソキは不思議さいっぱいの顔で目をぱちぱちさせ、んと、と服の上から腰と、おなかのあたりを手で触った。
「これくらい、なんですよ。それでね、それでね、ちゃぱちゃぱしたです」
『……泳いだって言わなかった?』
「泳いだです」
 すごいでしょう、と誇らしげにされる。妖精はもうどうすることもできない気持ちで息を吐いた。お屋敷語では水遊びのことを泳ぐ、というらしい。まあそう思ってるならもうそれでいいわ、正すとロゼアがめんどくさそうだし、と飲み込み、妖精はふふんと自慢げなソキの頬を突っついた。
『さあ、ソキ。ごろごろから起きたなら、アンタも片付けとか……する所がないから、散歩以外のなにかしなさい』
「お散歩はなんでいけないんです? なんで?」
『ロゼアになんて言われたかしら?』
 俺が戻ってくるまでお部屋の中でじっとしていような、である。そうでした、と物分りよく頷いて、ソキが絨毯によじよじと座りなおした。なにをしようかなぁ、と室内を見回すソキの視線を追いかけても、暇を潰せそうなものは見当たらない。裁縫や手芸の道具はロゼアの部屋に移してあるし、勉強の道具一式も同じことだった。
 隠してた本も見つかっちゃったです、とぷぅと頬を膨らませて残念がるソキに、あの本の未練はもう断ち切りなさいと妖精は言い聞かせた。
『本……そうよ、ソキ。本のお手入れしなさい。どうせ一回もやってないでしょう?』
「おていれ? です? ……お掃除? 汚れを拭くの?」
『魔術師の『武器』の手入れよ。教えてあげるから、ほら、本を出しなさい。今日はどこへやったの?』
 ソキは絨毯の端においておいた、しろうさぎちゃんお出かけリュックにあわあわと歩み寄り、中から本を取り出した。白い帆布の上製本。妖精が最後に確認した時は文庫本くらいの大きさであった筈なのだが。手に持ってしげしげと見つめ、ソキはあれ、と声をあげる。
「しろほんちゃんたら、なんだかちょっぴりちいちゃくなったぁ……ですぅ……?」
『……魔術師の『武器』っていうのはね、意思があるの。意思があるから、それなりに進化することもあるし、形状もすこし変わることもあるんだけど……。それ以上ちいさくならないでいいように、せっせと使ってあげなさいよかわいそうに……』
 ちいさくて運びやすくなればもっと使ってもらえるかな、という、涙ぐましい努力が妖精には伝わった。思わず目頭を押さえながらソキを叱ると、つつん、とくちびるが尖らされる。
「だぁってぇ……。しろほんちゃん、なにを書いても消えちゃうです」
 はんこーてきということです。いけないです、とぷくぷく頬を膨らませるソキの手の中で、静かにあるばかりの本は、なんだかしょんぼりとして見えた。彼らの意識、言葉が響くのは『武器庫』の中だけであるという。占星術師であれば夢の中で邂逅することもあると聞くが、全員ではなく一部の者に限られるともいう。
 だからこそ魔術師は、己の『武器』の使い方を知らなければいけない。いけないのだが。ソキの周りにいる駄保護者どもと、駄先輩ども、ほけほけふわふわした天然教員を思い、妖精は期待を失った目でふるふると首を振った。今まで、ソキにそれを確認しなかった妖精にも非はある。あるのだが。
『……ソキ? 武器の使い方はちゃんと勉強したの? 誰かに教わった上でのことなんでしょうね……?』
「う? ……ごすって、殴る、です」
『図書館で教本を読んでその結論なの?』
 妖精の笑顔が、とても怖い。ソキはぷるぷる震えながらアスルを抱っこした。あう、あう、と言葉を探している間に、ゆら、と羽根をゆっくり動かしながら、妖精が腕を組む。
『それとも、リトリアに聞いたの? ウィッシュには尋ねたの? 先輩に教えて貰った? それともロゼアがそう言った?』
「も……もしかして、もしかしてなんですけどぉ……!」
 ぷるるるるっ、と震えながら、ソキは怯えきった目で妖精をうかがった。
「リボンちゃんは大変お怒りですっ……?」
 せめて、使い方が違うの、という言葉を聞きたかった。周り中よってたかってソキをでろでろに甘やかすからこういうことになるのである。あ、あっ、やっ、と髪に両手をあてて震えるソキに手を伸ばして。妖精は遠慮なく、ふくふくした頬を、これでもかと突いてやった。



 腹立ち紛れにソキの胸の上に座ったらふにゃふにゃして居心地が良かったので、妖精はそこで落ち着いてやることにした。やぅ、う、といまひとつ落ち着かない不安げな声を出して、ソキはぴこぴこ左右に揺れ動く。
「リボンちゃぁん……お胸の上に座っちゃやぁんですぅー」
『また胸大きくなったんじゃないの……? そんなに揺れるとまた酔うわよ、ソキ』
「成長したです。ロゼアちゃんも褒めてくれたですぅ……やぁん、リボンちゃんがお胸から降りてくれないですうぅ……」
 手で払い落としたりせず、ぴこぴこ左右に揺れて落ちるのを期待する抵抗の仕方が、じつにソキである。アイツは胸も好きなのかと思いながら、妖精はぴたっと動きを止めたソキを見た。酔ったらしい。日々貧弱さが加速しているのは、気のせいでもないらしい。冬の間に寝込まないように体力をつけさせなければ、と決意する。
「ソキのお胸はリボンちゃんのお椅子じゃないんですぅ……やうぅ……」
『暖かくてちょうどいいわね……冬はここにいようかしら』
 妖精の悩む声が真剣である。やうー、やうー、と身動きをして、ソキは助けを求めて部屋の入口を見た。開け放たれた廊下の向こうにひとはなく、ロゼアも戻ってくる気配がない。このままだとソキのお胸がリボンちゃんのお椅子にされちゃうです、とすんっと鼻をすすり、いやんいやん、と改めてもぞもぞする。
「のっちゃだめぇ……!」
『なんでそんなに嫌がるのよ。減るもんでもあるまいし』
「肩がみしみししちゃうですぅ……!」
 聞けば、妖精が重くて痛いだとかそういうことではなく。肩が凝るのが嫌でぐずっていたらしい。理由は分かったが、ソキの体温がぬくぬくと暖かく、ふわふわもちっと柔らかくて動きたくない。妖精は、心から面倒くさそうにソキを見上げて言ってやった。
『肩凝らないように祝福してあげるわ。それならいいでしょ?』
「……りぼんちゃ……ソキのおむねが気にいったにちぁいないです……。リボンちゃんをゆーわくしちゃったです……ロゼアちゃんにはきかないですのにぃ……」
 もにもにしてもすりすりしてもだめなんですぅー、と落ちこむソキに、妖精は適当な態度ではいはいそうねと頷いた。だめというか表面に出ていないだけで、喜んではいる筈である。なぜならロゼアはむっつりだからだ。あんまりロゼアにだってやるんじゃないのよ、と言い聞かせると、ガッカリしきった声ではぁい、と返事が響く。
「……あ、でもでもぉ? 押し倒されちゃったですからあぁああああふにゃああきゃぁああんきゃぁっ! もうちょっと、もうちょっとですううう」
 今日のおねまきはロゼアちゃんがいっとうすきすきなのを着せてもらうですっ、と昼間から気合を込めてふんふん鼻を鳴らすソキは、重くないと言った通り、胸の上の妖精が気にならないらしい。座り込んだまま、常と変らぬ態度で白い本を手に取り、ためつすがめつ眺めている。腹ばいになって寝転びながら、妖精もなんとなく白い本を見つめた。思えば魔術師の『武器』を観察する機会というのは、意外とすくないものである。
 剣や杖と違い、本をどう『武器』として使うのかは妖精にも分からない。ロゼアが戻ってきたら図書館へ行って本を探すことと、リトリアに手紙を今夜にでも出すことを約束させて、妖精は目を眇めた。魔力を注視したのは無意識だった。存在そのものが魔力に近い妖精たちは、感覚としてそれを受け止める。加えて、魔術師が苦労して読みとるそれを、常の視界に写しているから、意識して『見る』ということは殆どしない。
 妖精は、じっと『本』を見た。なにか違和感があって、なにか、覚えがあった。懐かしいような。知っているような。
「……リボンちゃん? しろほんちゃんが、どうしたです?」
『……これ。この魔力は……?』
 魔術師の使う武器にも、魔力が宿る。それは持ち主の魔力であり、属性の魔力であり、そして。意思を持つ、声を響かせる、『武器』たちの持つ固有の魔力そのものだ。白い本にはソキの魔力が宿っていた。風の魔力も溶け込んでいるのを感じる。湯に溶かされる蜂蜜のように。甘くきらきらと輝いている。とろけている。それがソキの魔力だ。心地よく、柔らかく、甘く。きらきら、ちかちか、愛らしく輝く。
 妖精が訝しんだのはもうひとつだった。『武器』の持つ固有の魔力。魔力はひとつとして同じものがない。個性であり、識別であるからだ。『武器』の魔力。それに妖精は覚えがあった。知っていた。分からない筈がなかった。そんな筈がない、と思いながら手を伸ばして本に触れる。確認して。
『……アタシの、魔力……?』
 妖精は、信じがたい思いでソキの『武器』を注視した。予知魔術師が『武器庫』から持ち帰って来た本を。必ず守ってみせると、そう。暗闇の中でソキに告げた、予知魔術師のたったひとつの『武器』を。

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