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 妖精たちが一冊の本を取り囲む光景に、生徒たちはなにかの儀式かな、と不思議がる視線を向けては過ぎて行く。声をかける者がないのは、ソキの妖精の顔がかたくこわばっていたからだ。シディもルノンも、ニーアの表情にも困惑と緊張が現れている。視線はソキの本にだけ向いていた。
 そろそろとニーアが手をあげる。
『……私も、先輩の魔力だと思います』
『……そう』
『でも……なんだか……』
 忙しくしてるのに悪かったわね、と妖精が告げるより早く。ニーアは考えこみながら、本を注視して呟いた。誰かに言うのではなく。思考を深めていくだけの呟き。
『今の先輩のものでは、ないような……? なにか、思い出みたいな……昔の……やさしい、記憶、の、ような……』
『ニーアさんのようには読み解けませんが』
 集中を終えて息を吸い込みながら、シディが真っ直ぐな目で妖精を見る。
『この魔力はリボンさんのものだと思います。間違いなく』
『どうなってるんだよ……? 確かめて来たけど、メーシャの『武器』は俺の魔力じゃなかった。当たり前だし、言われた時はなにをと思ったけど……』
『ナリちゃんの杖も、私の魔力じゃなかったわ。私じゃないもの……。私は、私だけ。でも、でも、これは……この子は……』
 確かに。言葉の続かない困惑に、妖精たちの訝しみが滲み出る。世界に同じ魔力を持つ他者は存在しない。例外が、意思なき物に宿る魔力であり、魔術師が具現化させ生み出す者たちだ。ソキの赤い鉱石の蝶は、蜂蜜の魔力で出来ている。ある程度は独立した意識を持つようだが、それはソキの欠片だからに過ぎない。
 零れ落ちたもの。作りあげられたものに、署名として封じられる魔力。それだけが同一のもの。意識持つ魔術師の『武器』は、それに当てはまらない。妖精は手を伸ばして本に触れた。帆布を撫でる。そこに宿る意思は言葉さえ響かせなかったものの、僅かにくすぐったそうに震えたのが感じられる。死に絶えたからこそ、妖精の魔力を持つのではないのだ。
 生きた意識が、妖精と同じ魔力を持っている。沈黙する妖精に、またそろそろとニーアが手をあげた。
『ひとには、双子、というのもあるって聞きます』
『ニーア。アタシが本に見える? アタシが本だったことあった?』
「リボンちゃんなにしてるんですぅ?」
 棚に指先をひっかけてせいいっぱい背伸びして。ぴょこん、と顔を出したソキが、ぷるぷるしながら問いかけてくる。妖精は振り返り、良いから座っていなさい、と言い聞かせた。談話室でも高めの棚の上。ソキには手も届かない場所を選んだと思ったのだが、ぎりぎりなんとかなってしまったらしい。移動しようか、とルノンがソキの本を抱え上げ、舞い上がる。
 ぷきゃんっ、としりもちをついたソキを見下ろして、妖精は髪を手でかきあげた。
『いいから座ってロゼア待ってなさい。終わったら返すから』
「おしりをぶつけちゃったです……。いたいいたいです。……あっ、ロゼアちゃんになでなでし」
『来る機会来る機会全部生かそうとするんじゃないわよーっ! 恥じらいを持てって言ってるでしょう!』
 持ってるですぅ、とおしりに両手をあてながらよろよろ立ち上がり、ソキはくちびるを尖らせて主張した。
「今日だってソキはぁ、ロゼアちゃんの言う通りにお服を着て、ちゃぁんとお背中も、お脚も、ぜぇんぶ見えないようにしているです。慎み、というやつです。恥じらい深いです。えへん」
『肌を出さなきゃいいって話をしてるんじゃないの。言動の話をしてるの。恥じらいと、慎みと、礼儀作法の話をしてるのよアタシは!』
 持ってるからソキには関係のないおはなしでした、とばかり、自信満々に頷かれる。ロゼアはどういう教育をしたんだと舌打ちをしかけ、妖精は諦めの気持ちでソキを見た。そういう偏った教育をしたからこそ、ソキがこうなったに違いないのである。唯一の救いは、ロゼアだけにしかがつがつ行っていない所だろうか。それはそれで問題なのだが。
 妖精はソファにのすっと座りなおしたソキを見つめ、頭痛を堪える息を吐き出した。
『ソキ。たまにはつれなくして気を引くとか、そういうこともしてみなさい』
「つれなく……? です?」
『ロゼアに冷たくしてみなさいっていうこと……なんだけど……アンタには無理よね……』
 ロゼアちゃん寒いの嫌いなんですぅ、とこっくり頷くソキにその冷たいじゃないと訂正する気にもならない。いいからじっとしていなさいよ、談話室に移動するのだって渋ったんだからと再度言い聞かせ、妖精はひらりと舞い上がった。今度こそ、ソキの手が届かない高い棚の上。白い本を見つめる妖精たちの目は、変わらぬ困惑に満ちていた。



 それに気がついたのは、ナリアンが最も早かった。ふわん、と新しい魔力が場に現われる。蜂蜜めいた色だった。ちかちか、ぴかぴか、星のように瞬いている。歌っている。ふわんふわんと目の前を横切っていくそれを凝視して、ナリアンは思わずえっと声をあげた。
「そ……ソキちゃん……っ? 先生! 先生ー! ソキちゃんの魔力がー!」
「は?」
「これ! これっ! ソキちゃんの魔力じゃないんですか……?」
 ナリアンが指差す先に、蜜色の魔力がふよふよ浮かんでいる。ロリエスは訝しげに目を凝らし、記憶を探り考えて、ナリアンの混乱を首肯した。
「そうだな、ソキの魔力だと、私も思う。チェチェリア」
 これを、とロリエスが示そうとすると、魔力は意思を持つかのようにふるる、と震えた。いやん、と声が聞こえるように、触ろうとした手をちょっとだけ避け、ぷかぷかふわわ、漂っていく。周囲の魔力と比べても、なぜか格段に遅い、とするよりも鈍い動きだ。
 会話を聞いていたのだろう。チェチェリアは振り返り、それをすぐ見つけ出して、にっこりと笑った。
「ソキだな。間違いない」
「えっこれどういう……?」
 困惑するナリアンの周りを、魔力はふよふよ漂った。やがて、ソキの魔力はナリアンの頭の上に着地する。ちかちか、ぴかぴか。ふるるるるっ、とご機嫌な印象で魔力の玉が揺れ動く。重さは当然感じない。え、え、と困惑しているうちに、魔力はしゃぼん玉のようにぱちんと弾け、消えてなくなってしまった。
 すぅ、と風の属性を抱いた魔力が、ナリアンの中に流れ込む。疲労が押し流され、すっきりとした気持ちで瞬きをした。訳知り顔で顔を見合わせて笑う教員たちに、ナリアンはなんなんですか、と頬をやや赤くしながら問いかける。肩を震わせ、ロリエスが目を細めた。
「心配なんだろう。今頃、メーシャの所にも行ってるんじゃないか」
「恐らくは祝福かなにかだろう。愛されてるな、ナリアン」
「心配しなくても……いいもの、ですか?」
 目を凝らしてあたりを見回しても、蜜色の魔力はあれひとつきりのようだった。魔術を発した名残であるなら、もっとたくさん出てくる筈である。知識を掘り返して首を傾げるナリアンに、ロリエスとチェチェリアは、声を揃えて恐らく、と言った。
「心配で様子を見に来たんだろう。ロゼアの所にも、時々赤い蝶がくっつきに来る。『扉』をくぐったにせよ、『学園』からの長旅で形を保てなかったんだろう。具現化の持続は術者本人の集中と適性に、体力も絡んでくる、とされているからな」
「されている、なんですね」
「己の魔力を、魔術発動や物質付与以外の形で出せる者は珍しい。予知魔術師は特例だが、つまり……そもそもの数が少ないから研究が難しい」
 まあ、今後研究は飛躍的に発展するだろうがと苦笑するチェチェリアに、ロリエスも静かに頷いた。天才の名を冠すエノーラとキムルが錬金術師を牽引し、滅多に現れない予知魔術師が二人もいるのだ。なにかと不器用なリトリアとは違い、ソキは入学時からぽむぽむと魔力を具現させ続けている。
 きっかけは純粋な魔力漏れだが、以後、ソキはそれを意識して生み出している。魔術の術は、努力だけでは届かない。それを成すのに必要なのは、ただ純粋な適性だ。才能とも呼ばれるそれを持つ者だけが、その場所へ辿り着く。可能か、不可能かで区別がされる。望みは決して届かない。
 魔術師たちの、どうすることもできない掟だ。それは時に希望を隠し、時にささやかな救いともなる。
「ソキは、今日はなにをしているんだ?」
 問いかけるロリエスの顔の前を、形を失って球状になった蜜色のひかりがまたひとつ、ぷかぷかふわふわ通過していく。恐らく、メーシャの元へ行きたいのだろう。チェチェリアが手で捕まえようとすると怯えたようにぷるるるっと震え、もそもそした動きで指を避けようとする。やぁんやぁんろぜあちゃぁん、と言いつけるように、魔力はぺかぺか瞬いた。
 チェチェリアが笑いながら手を遠ざける。ふしゅる、と安心したように全体を和ませ、魔力はぽやぽや、砂漠の王宮、奥深くへと移動して行った。その先には確かに、メーシャがいる筈である。迷わないで辿り着けるかな、とはらはら見守るナリアンの隣で、チェチェリアが口に手を押し当てる。
 肩が震えていた。笑っているようだった。



 ロゼアと一緒に本棚を見上げていたソキは、あっと声をあげてくちびるを尖らせた。
「ソキの赤蝶々ちゃんたちが、なんだかいじめられた気がするです……!」
「ナリアンと、メーシャの所へ送った子?」
「はじめてのお使いです……心細くて、けんめいに頑張っているにちがいないです……」
 そわそわ不安げにあたりを見回すソキの背を、ロゼアはやんわりと撫で下ろした。大丈夫だよ、きっと二人の所まで辿り着くよ。大丈夫、大丈夫。柔らかな声で何度も囁かれ、ソキはゆるゆると気持ちを落ち着かせていく。二人ともちゃんと数字から戻ったかなぁ、と首を傾げるソキの頬を、ロゼアの指の背が幾度も撫でた。
 ソキが二人の元に蝶を送ったのは、ニーアとルノンの代理である。呼び寄せられてから白い本を取り囲み、ああでもないこうでもないと不思議がる妖精たちの話し合いは、未だ終わる気配がない。掃除から戻ったロゼアがソキを腕に取り戻し、ゆっくりお昼を終えてなお、『武器』が返却される気配はないままだった。
 もう、リボンちゃんが手元から離しちゃだめって言ったですのにぃ、とぷんすこしながら、ソキは図書館へやってきた。妖精が、待ってる間にやることがなければ、自分の『武器』について勉強なさいと告げた為だ。リトリアに簡単な問い合わせの手紙を送り、返事を待つ間に、やることはやっておかなければならない。
 うぅん、とロゼアの腕の中でくちびるを尖らせる。背の高い本棚の一番上へ、ぐーっと両腕を伸ばしてちたぱたした。
「あそこ、あそこに予知魔術師の御本があるです。うーん、うぅーん……!」
「ソキ。ぱたぱたしたら危ないだろ」
「もうちょっとでー! とどくですぅー!」
 妖精が同行していれば呆れ顔で、アンタがもうひとりは必要な高さはもうちょっととは言わないと教えてくれただろうが、あいにくと会議中である。図書館の人のいりもまばらで、頑張ろうとするソキをじっくり眺めて愛でているロゼアを、積極的に止めてくれる者もいない。一分程ちったんぱったん頑張って息切れをしたソキは、しょんぼりとロゼアに抱きついて懇願する。
「ロゼアちゃん……本を取ってくださいです……。ソキには届かない高さでした」
「うん。いいよ」
 ロゼアはソキをしっかりと抱いたまま、書棚にかけられた梯子に足をかけた。瞬く間に目的とする棚まで辿り着く。ロゼアの手に取った一冊を、ソキは満足げに受け取った。
「これだけでいいの? あとは?」
「あと、えっと、そっちの御本と、その隣のもです」
 ひょいひょいと二冊をさらに取り、ロゼアは身軽く梯子から飛び降りた。ふわ、とソキの頬を風が撫でる。衝撃はそれだけで、ロゼアが床に靴をつけた音すら、ほんのかすかにしか響かない。読書に適した場所を求めて歩き出すロゼアの腕の中で、ソキは三冊の本を、それぞれじっくりと見比べた。
「予知魔術師、応用編、です。こっちは、予知魔術師の伝言、です。それでこっちが、分からなくなったら開く本。予知魔術師にしか読めないから安心してね、です……読めないから安心してねです……?」
 ソキがまだ読んでいない、予知魔術師に関する本は、これが全てである。元から数が多くない為、背表紙だけで判別できたが故に、題まで確認はしなかったのだが。この中にソキの求める情報があるかは、難しい気がしてきた。むむっと眉を寄せるソキに、ロゼアは微笑しながら囁いた。
「リトリアさんにもお手紙したろ。大丈夫だよ、ソキ」
「はぁい」
 本はどれもしっかりとしたつくりだが、すぐ読み終えてしまいそうな厚みだった。窓辺に引き寄せた椅子にロゼアと一緒に座りながら、ソキはまず応用編を手に取った。目次にさっと目を通す。限られた魔力でどう予知魔術を展開していくかが主で、『武器』についての項目はなかった。
 すぐに閉じてもう一冊を手に取る。予知魔術師の伝言。目次に目を通すと、入学から卒業まで、効率のいい授業計画、とある。次章は王宮魔術師としての魔術活用術。興味がない訳ではないが、これもソキの今求める情報ではなさそうだった。それに、ソキの一番効率の良いやり方は、本よりロゼアが詳しいに決まっているのである。
 んもぅー、と落ち込みながら、ソキは最後の一冊を手に取った。予知魔術師しか読めない本、とある。ソキが目次を覗き込むのを一緒に眺めていたロゼアが、ん、と眉を寄せたのを感じて視線をあげる。なぁに、と問えば、ロゼアはしぶい顔をして首を振った。
「ソキ、俺には読めない……。たぶん、全然違うものが見えてる。ソキにはちゃんと、文字が見えるの?」
 急いで本に視線を戻す。目次は簡単な言葉が並べられていた。困った時に。体調、魔術、武器。あっと目を輝かせて、ソキはこくこくと頷いた。
「ぶき! あるです……! ロゼアちゃん、ここ! これ!」
 ソキが指を押し当てた先をためつすがめつし、ロゼアは呆れと疲労の入り混じった息を吐き出した。
「駄目だ……。ごめんな、ソキ。俺にはアスルが転がってたり、伸びたり、色々してるようにしか見えない。絵文字、というか。絵本……?」
「え、ええぇえ! いいなぁ、いいなぁ……! ソキも、ソキもあするみたいですぅ……!」
 ロゼアが言うには、本を特別な魔力が包み込んでいるらしい。手に持つ者の適性を読み込み、判別しているようだった。ソキは本を振ったり閉じたり、眺めたり撫でたり、閉じたり開いたりを幾度も繰り返し、目次をもう一度見直して、心の底からがっかりした。
「アスル……。アスルの絵文字……きっと可愛いに違いないです……。ロゼアちゃん、どんなだったか後で絵に描いてく」
「ソキ、本読むんだろ。読むの偉いな、いいこだな」
 でっしょおおお、とあっさり乗せられて、ソキは意識を本に集中させた。ソキはいまひとつ分かっていないが、ロゼアにも苦手なものはある。ソキは目次をちまちまと読み進め、ひとつの項目に目を止めると、きゃぁんと叫んで目を輝かせた。
「魔術師の『武器』の使い方が分からなくなったら、ですぅ! これ、これですー!」
「よかったな、ソキ。なんて書いてあるの?」
 えっと、えっと、と本をぺらぺらめくって行く。これ、という所を開いて、ソキはそれをはりきって音読した。
「この本には書いてないから、手順に従って『予知魔術師の伝言』の内容を書き換えてね! ……う?」
 疑問いっぱいな顔で『予知魔術師の伝言』を手に持ち、膝から滑り降りようとするソキを、ロゼアはやんわり抱きなおした。
「どうしたの。なんて書いてあるんだ?」
「んっとねぇ……ソキはこの本を持ってけんめいにお歌をうたう……? です……?」
「……ん?」
 ソキのつたない説明をロゼアがまとめた所によると。本には隠蔽と改竄の魔術がかけられており、予知魔術師が一定の手順を踏むと、本来の内容へ戻る、とそういうことであるらしい。その方法が、本を持って歌う。歌はなんでもいいらしい。ロゼアはほっとしたように笑い、ソキの頭に顎を乗せた。
「ここで歌えばいいよ。どこか行く必要ないだろ」
 ソキも別に、離れたい訳ではないのだが。なぜかくっついていてはいけないような、そんな気がしたのである。しかしロゼアがそう言うなら、ソキに嫌がる理由はない。本を両手でぎゅっと持って、ソキはうんと息を吸い込んだ。囁いたのは、子守唄だった。優しい眠りを告げる歌。起きたらだめよ、と囁きかける。
 起きたらだめ。起きたらだめ。起きないで。それはだめ。いや。いやなの。いや。ロゼアちゃんはソキの。ソキのです。だから、一欠片だって。あなたにはあげない。眠っていて、ずっと。ずっと。覚めない眠りの中にいて。
「……ソキ?」
 思考の中で祈っていたソキの意識を、ロゼアの声が呼び戻す。はっ、と息を吸い込んで目をぱちぱちさせるソキに、ロゼアはこつりと額を重ねて微笑んだ。上手に歌えたな、可愛いな、偉いな。さ、見てごらん。
「本の魔力の色が変わった。俺にはやっぱりアスルに見えるけど……」
 ソキは、わくわくしながら手に視線を落とした。本の題名が、確かに変わっている。変わっているのだが。ソキは納得しきれない顔つきで、本の題名を読みあげた。
「……よいこのまじゅつし、でんごんちょう」
 対象年齢が下げられた気がする。ソキはもう十四で、もう数ヵ月もせず年明けを迎えれば、十五になる淑女であるのに。ゆゆしきことである。これはなんだか、いじわるというものではないのだろうか。しかし、何度読んでも『よいこのまじゅつしでんごんちょう』である。
「……あ! お歌です! お歌がいけなかったにちがいないですうううう!」
 大人っぽい恋歌であるとか、そういうのであれば、適切なものに変化する筈である。絶対にそうである。なんといっても、ソキはそろそろ淑女。淑女になるのだから。やりなおしというやつです、とソキは張り切って歌い直した。恋の歌。伝承歌。英雄譚。しかしソキがなにを歌っても本の題名はかわることなく。ソキの手の中で、静かに開かれる時を待っていた。



 みてみてみてくださいですこれはひどいことですううう、と図書館から帰って来たソキに憤慨しながら本を押し付けられても、妖精はなにがよ、と胡乱な目で首を傾げた。妖精の目から見ても、ソキが持つ本はアスルっぽい絵文字が並んでいるばかりだったからである。このアスル大行進のなにがひどいのと問いかければ、ソキはふにゃああやぁああっ、と怒りきった声をあげた。
 ロゼアの腕の中でばたばたしきりに暴れて抗議するも、床に降ろされる気配はない。危ないだろ、とたしなめるロゼアを睨みつけ、だったら降ろせと言いたくなる気持ちを妖精は堪え切った。言っても言っても、ロゼアはソキを抱き上げたままである。無駄な言葉は重ねるだけ無駄である。無駄なことはしたくない。言って理解するだけ、ソキの方がロゼアより幾分ましである。
 理解したからといって実行するとは限らないのだが。
『……で? ソキはなんで怒ってるのかしら?』
 説明しなさいよそれがアンタの役目でしょうがと暗に込めて問いかけてやれば、ロゼアはソキを抱き寄せ宥めながら、やや幸せそうに緩んだ笑みで告げて行く。ソキにまつわる物事の責任を求められるのも嬉しいのかコイツ末期だなと心底苛々しながら、妖精は要点だけを拾い聞きして、頬をぷっぷくさせるソキの、手にしっかと持たれた本を見る。
 つまり、ソキにだけ読まれる文字で書かれているらしい。妖精はソファに腰かけたロゼアの肩の高さへ降りながら、ソキの拗ねた視線に腕組みをした。
『いいじゃない。よいこの魔術師学習帳だか、伝言帳だか知らないけど。要は理解できればそれでいいの。それで? 本の中身はもう読んだの?』
「ちーさいこむけだもん……。ソキはちーさいこじゃないから読まないんですぅ……!」
 すっかり拗ねている。読まないです、読まないもん、とぷんぷん訴えるソキに、ロゼアはでれでれとした表情でそうだな、ソキの思うようにしような、と言っている。なにがそうだなだこのむっつり、と妖精は我慢せず言い放った。ソキに『武器』なんていらないよ俺が守るからいいだろ、とか思っているに違いない。
 妖精はソキの目の前に移動し、穏やかな響きを心がけて口を開いた。
『いいこと? ソキ。そうやって怒っているうちはまだちーさいこよ。アンタもロゼアも。教員たちだってね、アタシたち妖精からすれば発芽したばっかりの種と一緒よ。まだちーさいの』
「そき、お花咲かないもん。お花じゃないんですーぅー」
『……誰かしらねぇ、ロゼアの『花嫁』だとかなんとか言ってるのはねぇ』
 ぷくぷくの頬を膝でぐりぐり突っつけば、いやいやいやいや、とソキが身じろぎをする。息を吐き、妖精はとにかく、とアスルが大量に転がっているとしか見えない本を、びしっとばかり指さした。
『アンタが今やるのは、拗ねたり怒ったりすることじゃなくて、予知魔術師の勉強! 勉強しろ!』
「りぼんちゃ? ソキのぉ、しろほんちゃんはぁ? どこぉー?」
『はい、こちらですよ。長くお借りしていてすみませんでした、ソキさん。ありがとうございました』
 妖精の怒りとソキの癇癪がひと段落するのを待っていたのだろう。安全圏の天井高くからひらりと舞い降り、シディはソキに白い本を差し出した。ルノンとニーアは、砂漠の国へとまた行ったのだという。ナリアンとメーシャの帰りは、今日も夜遅い。『よいこのまじゅつしでんごんちょう』を膝に置いて白い本を手にするソキに、妖精は勉強、と口うるさく言い聞かせた。
 この白い本がなんであれ。予知魔術師のソキの『武器』が、これである。扱えるようになって悪いことはない筈だった。
『ほら、アンタが音読してくれたら、アタシも一緒に考えてあげるから。ね?』
「……ソキ、音読できるです。おねえさんです」
 音読、という言葉が琴線に触れたらしい。やや自慢げに頷いたソキが、ロゼアの膝に座り直し、『よいこのまじゅつしでんごんちょう』を手に取った。白い本は傍らに。上にぽんとアスルを乗せて、ソキはえへん、と胸を張って本を開く。
「おねえさんですから、リボンちゃんに音読をしてあげるです。おねえさんですからぁ!」
『……よいこのまじゅつしでんごんちょうくせに』
 ソキは妖精の言葉をまるっと聞き流し、きらきらした目で本へ視線を落とした。息が吸い込まれ、待つことしばし。訝しげに見やる妖精に、ソキは目をぱちくりさせて首を傾げる。
「……んん?」
『なに? まさか難しい漢字があるの? 読めないの?』
「違うです。違うです……これ、えっと、本が……えっと、文字、あるですけど。そうじゃなくて、本が、声が」
 話している。歌っている。耳元でひそひそ、内緒話を笑いながら告げるように。遠く、近く。傍で、それでいて離れた場所から。声が囁く。言葉が歌う。紙面を文字が駆け巡る。瞬きごと、読み進めるごとに文字が現れては消えていく。声に出す余裕もなく。待って、待って、と急いで言葉を追いかける。それだけを見て。走って、走って、追いかけるように。
 言葉だけを追って行く。
「ソキ!」
 ぱっ、と視線をあげる。呼吸と、言葉を思い出すのに、時間がかかった。半開きにしたくちびるで、ひぅ、と息を吸い込む。途端に、息苦しさを思いだした。何度か咳き込んで息をするソキを、ほっとしたようにロゼアは抱きなおす。ぎゅ、と全身を包むように抱かれ、とん、とん、と背が叩かれた。
「落ち着いて読もうな……。どうしたの。そんなに面白いこと書いてある?」
「……ううん」
 ひそひそと内緒を囁く声。懐かしい、それでいて聞き覚えのない歌を囁く旋律は、どこかへ消えてなくなってしまっていた。遠くでまだソキのことを見ているのが分かるけれど。声が聞こえない。瞬きをして視線を落とす。開かれたページにはなにも書かれていなかった。真っ白な見開き。じっと見つめて、ソキはもう一度、ふるふると弱く首を振った。
「なんでもないの……大丈夫です。大丈夫ですよ、ロゼアちゃん。リボンちゃん。シディくんも」
『……無理をして読まなくていいのよ、ソキ』
 強張った顔をする妖精は、読書を勧めたことを後悔しているようだった。本を閉じなさいと言うべきか迷っている顔つきに、ソキはもう一度大丈夫です、と頷く。上手く言葉にして説明することができない。もどかしく思ったが、危なくない、ということだけ、ソキはロゼアにも妖精たちにもしっかりと伝えた。聞こえた声は、予知魔術師のものだった。かつて生きた予知魔術師の声だった。
 予知魔術師の伝言帳。声を、言葉を、意思を封じ込めた本。生きている、生きた、予知魔術師の写本。今はそっと口をつぐんでしんとしているのは、開かれるのが久しぶりで、それでいて、開かれる間隔が短くて、誰もかれもが興奮してしまっていた為だ。大戦争時代ですら、予知魔術師が二人も、同じ場所に揃っていることは稀だった。
 敵同士として出会うか、あるいは、一人が死んでから引きずりだされたか。予知魔術師は常に兵器だった。二人いれば、ひとりは、ひとりの、予備だった。鉄格子から出られる日を願いながら、その日が来ないことを祈り続けた。外に出たい。でも。死なないで、死なないで、どうか。顔も知らない同胞よ、どうか。未だ知らぬ青空の元で、それでもあなたは生きていて。
 願いはいつも塗りつぶされた。リトリアも、それを知っていた。だから。会えないと思っていた、とソキを迎えに来た日に、あの馬車の終着上で。笑ってくれたのだ。それは予知魔術師の悲願であったのかも知れない。同じ適性を持つ魔術師に、出会って。手を差し出して、握って、笑って、よろしくね、という。たったそれだけの簡単なことが。当たり前のことが、ずっと。
 予知魔術師には許されていなかった。
「ゆっくり……お話、してくださいです。それで、でも、今は、ソキの知りたいことを、誰か……知ってるひとは、教えて、ください」
 そっと本を撫でて。同胞の意思に触れて。ソキは静かに囁いた。妖精たちも、ロゼアも、なにがあるのかと訝しく本を見つめる。ソキはまだ説明する言葉を持たずに、もどかしくて、それでいて満面の笑みで自慢したい気持ちで、そわそわ息を吸い込んだ。あのね、皆なの。写本なの。予知魔術師の。声と、意思と、言葉と。心があるの。生きてたの。生きてるの。
 夥しい血と屍と牢獄を超えて。予知魔術師たちは生きた。自由な言葉などひとつも持たず。告げるその全てが魔術だった。声も言葉も、声ではなく、言葉ではなかった。いつか、いつか、と未来を願った。やがて来る未来を、希望を信じ続けた。もしその日が来たら。声を声として。言葉を言葉として。話せる日が来たら。一度も知らない、そんな日が、来たら。その時に。
 あなたになにをはなしてあげられるだろう。なにを、残してあげられるだろう。祈りの果てに予知魔術師が作り上げ、何者からも隠した写本に。そっと、そっと、ソキは声をかけた。
「ソキの『武器』は……本は……。どうやって、使うの……?」
 さわさわ、と声がどこかで響く。誰かが相談しているような。落ち着かないざわめき。紙面に言葉は浮かんでこない。ソキは待った。じっと待った。誰かがそれを、囁いてくれるまで。やがて、ひとりが歩み寄るように。耳元で誰か息を、吸い込んだように。言葉が告げられる。本に言葉が綴られていく。それを、決して声に出すことなく、読んで。
 やがてソキは、ぱたん、と。『予知魔術師の写本』を、膝の上で閉じた。

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