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 暗闇を照らす灯篭がひとつ、机の上に置かれている。雑多に物が置かれる中、作業をする場所だけが整えられていた。男の手が、針に通した糸を切る。深い疲労が吐息と共に、男の体を背もたれに預けさせた。目を閉じて手で顔を覆い、つかの間の薄闇に安らぎを知る。
 どれくらいぶりに目を閉じただろう。
「……おつかれさまでした、ユーニャ先輩」
 呼びかけられた言葉が己へ向けられたものだと、男が理解するのにしばらくかかった。それほど、誰にも名を呼ばれることがなかったからだ。そしてようやく、終わったのだ、と理解する。じわりと滲み出してくる喜びのままに微笑して、ユーニャはゆっくりと目を開いた。
 振り返る。闇の中に立つ男も、笑っていた。
「ロゼア」
 年老いた英知さえ感じさせる穏やかな赤褐色の瞳を、覗き込みながら言葉をかける。何年経過しただろう。外界と切り離されたこの場所に、時の流れはあるようにも感じたが、失われたままだ。この部屋は、閉ざされ、隠され、切り離された。世界のどの輪廻からも。どの祈りからも。
 そうすることでしか守れないものを、大事に隠して。そしてようやく、完成させたのだった。
「これでようやく、俺たちも眠れるね」
「はい。……間に合った、でしょうか」
「分からない。まだ分からないけど……大丈夫だよ。きっとあの子が来てくれる」
 可愛かったね、と囁くユーニャに、ロゼアはやや緩んだ笑みで頷いた。もちろんソキであるなら、いつどんな時でも可愛いのは間違いないのだが。ごめんなさい、ゆるしてくださいです、と力なくえくえくと泣いて腕の中に納まりきるさまは、それはもう本当に愛らしかった。
 あれが、繰り返す消滅を受け入れた世界たちの希望。唯一残された時の果て。そして恐らくは、最後の。
「……きみも、ようやくまた会えるよ。嬉しいね」
 ユーニャが語りかけていたのは、机の上で修復を終えたばかりの一冊の本だった。緋色の帆布で作り直された、上製本。魔術師の『武器』たる一冊である。この『本』を蘇らせる為に、ユーニャたちは全てを賭けた。そして、正しく報われた。
 これがソキの手に渡れば、それで。絶えた世界の祈りが、報われる。
「……驚かれないといいけど」
 くすくす笑うユーニャの視線を受け、『本』は柔らかな魔力の光を発して、明滅した。抗議のようであり、恥ずかしがっているようでもあった。無言でロゼアは目を細め、机に歩み寄ってそれに手を伸ばす。『本』の表面を二度、三度、指先で撫でて。
 胸のつかえを出すような声で、囁いた。
「ソキを……よろしくお願いします」
 もちろん。必ず。絶対に。今度こそ。任せて、と。囁くように、歌うように。光は淡く明滅し、音のない、時のない、暗闇が降りるばかりの部屋を照らし出していた。



 ふにゃにゃーんっ、とソキの声が談話室に響き渡る。上機嫌な、はしゃぎきった、ふんわほんわ響く、聞く者をもれなく微笑ませやわりと脱力させる甘い声だった。談話室の一角で勉強会を開いていた少女たちは目を瞬かせ、ある者はそちらを振り返り、ある者は思わず口に手をやってくすくすと微笑む。そんな穏やかな空気の中で、ひとり。
 ルルクはふあっ、と声をあげて勢いよく椅子から立ち上がり、取るものも取りあえずソキの元へ駆け寄っていった。
「えっ、はいなになにどうしたのっ……?」
 いやお前がどうしたんだ、という談話室の視線を一身に浴びながら、ルルクはソファの上できゃっきゃとはしゃぐ、ソキの元へ辿りつき、眼前にしゃがみこんだ。妖精は頭の痛そうな顔でルルクを睨んでいたが、ソキの胸の上に寝転がっている為に様々な説得力が消滅していた。
 なんでこんな所にいるんだろう、ではなく、まあそこ気持ちよさそうですものね、と一定以上の理解を得ている微笑で頷き、ルルクはロゼアから微妙に視線を逸らしたまま、きゃんきゃんはしゃいでいるソキにもう一度問いかけた。
「ソキちゃん、なに?」
『……一応確認してやるけど、アンタなんであれで来るのよ』
「えっ……? ああ、講習で、ソキちゃんがなんかこう、こんな感じのふにゃうにゃした声でちたちたしてたらこっち来てくださいですよ、の集合の合図だから覚えるようにって聞いてて……?」
 でぇっしょおおおお、とばかりソキがふんぞりかえる。心行くまで自慢げなソキを膝の上に抱き上げたまま、ロゼアは微笑してルルクへ問うた。
「誰ですかそれ言ったの」
「えっ、め、メグミカさん……」
「メグっ……!」
 優秀な手下が増えたことを喜びなさいよどうかと思うけど、という妖精の視線を受けても、額に手を当てたロゼアは返事をしなかった。そこでようやく、なにか苦悩していることに気がついたのだろう。ロゼアとルルクをきょときょと見比べ、ソキはぱちくり瞬きしながら、ちょこ、とちいさく首をかしげる。
「ロゼアちゃん? どうしたの? ……あ、きっと、人数が足りないです!」
 ふにゃにゃーんっ、とソキが甘い声でちたちた手足を動かした。え、なになに行けばいいの、と会話を漏れ聞いていた談話室の生徒たちが、ざわめきと共に移動する中。ぱっ、と廊下から繋がる扉を開けて室内に飛び込んできたユーニャが、首を傾げながらも早足で、ソキの元へ駆け寄ってくる。
「お姫ちゃん。なに? ロゼア、どうかしたの?」
『アンタもなぁんでそれで……いや、いいわ。答えなくてもいいわ。ほらソキ、よかったわね。これくらい居れば十分でしょう?』
 さっさと説明しなさいよと妖精に促され、ソキはきょときょとと聴衆と化した先輩たちを見回した。談話室のほぼ全員が、ソキとロゼアの座るソファを、ぐるりと取り囲むようにして集まっている。ふふふん、とソキは心行くまで自慢いっぱいな顔をして、こくり、と一度、深く頷いた。
「これで説明ができるです。ロゼアちゃん? ソキ、えらい? すごーいでしょう?」
「すごいな、ソキ。可愛いな」
「でしょおおぉ……?」
 きゃぁんきゃんきゃんろぜあちゃあぁああっ、とご機嫌にはしゃぎきった声を響かせて、ソキはぴとっとロゼアに抱きつきなおす。腕いっぱいにやんわりと抱き寄せ、髪を撫でて息を吐くロゼアに、胸の上から退避した妖精は忌々しそうな眼差しで舌打ちをひとつ。
『いちゃついてないで説明しなさいよ』
「せつめ……? ……あ、そうでしたややんややん違うですううう忘れてたじゃないですううソキちゃんと覚えてたぁ……!」
 妖精の、空気を電気的に痛ませる、ぴりっとした怒りを感じたのだろう。大慌てでロゼアの膝上にもちゃもちゃと座りなおし、ソキは居並ぶ魔術師のたまごたちに向かい、これですぅーっ、と勢い込んで白い帆布の本を掲げて見せた。文庫本より一回りちいさな、ソキの『武器』である。
 うん、といまひとつ理解が辿りつかない呟きで、ルルクが口元に手をあてた。
「なにか説明してくれるの? ……それなに?」
「ソキのぉ、よちまじゅちしの武器、使い方講座ー! ですぅー!」
『やりなおせ』
 冷淡な口調で妖精が吐き捨てる。えええ、とぷっぷり頬を膨らませ、いまなにか間違った所あったかなぁ、と不思議がる表情で、ソキはしぶしぶ言い直した。
「予知魔術師のぉー! 武器、使い方講座、でーすぅー!」
 ようやく『武器』の使い方を習ったのでお披露目したかった、というのが、ソキが先輩たちを呼び集めた理由であるらしい。よくわからないソキの説明と、それを分かりやすく補足するロゼアの言葉によってようやく理解を得た顔で、各々の視線がソキの本へ集中した。
 一見、ただのちいさな本である。数秒の沈黙。えっ、と誰かが戸惑いきった声をあげた。
「使い方知らなかったの……?」
「だぁれもソキに教えてくれなかたです。しょくむたいまんです。いけないです」
 ぷりぷり怒っているソキに、怠慢だったのはお前だと怒るのも諦めたのだろう。はいはいそうねいけないわね、と心底適当に同意してやり、妖精もまた、白い本に視線を落とす。忘我の集中を終え、見守っていたロゼアと妖精に、ソキは説明をするです、と言った。どう告げられたのか、言葉を口にするのではなく。
 よいせよいせ、とまずロゼアの腕を引っ張って、その手をぽんっと白い本の上に乗せさせた。一同が見守り、ロゼアがなぁに、と微笑し問うのに、ソキはふふんとなぜか自慢げに言い放つ。
「ロゼアちゃん? 魔力ちょーだい?」
「……俺の魔力? ソキ、本の使い方を俺に教えてくれるんじゃないの?」
「使い方こーざなんですぅ」
 はやくぅはやくぅ魔力ちょうだい、ご本にね、魔力をね、にゃーってするです、と聞いていた妖精が額に手を押し当てて呻く説明であっても、ロゼアは特別おかしいと感じないのだろう。不思議そうにしながらも頷き、うん、と告げた指先から、ほろほろと魔力が零れ落ちていくのを妖精と、魔術師たちは感じ取る。
 無言で、妖精は視線を持ち上げ談話室の天井を見た。梁の近く、ひっそりと。息を殺し、気配を潜ませて、シディがじっとロゼアのことを観察している。灯火のような魔力を宿す、羽根のまたたき。異変はない。感じ取れない。今はまだ。安全とは言いがたく、思いがたく、けれど。
 妖精が知覚できる異変さえ、表層には表れていない。おかしいとは感じとれても、そのおかしさに触れられない。大丈夫、大丈夫。今はまだ。言葉にならぬ意思、魔力の揺らめきとしてそのことを伝え、けれどもシディは降りてこなかった。部屋の高く。澄んだ空気の中にひっそりと、その身を置いている。
 そこに、己の案内妖精が観察のまなざしでいることを、ロゼアが知っているかどうか。感じ取っているかどうかは、分からないことだった。ふ、と息を吐き、妖精は視線をロゼアとソキへ戻す。その体の周辺。漂う空気に、零れたロゼアの魔力があれば、それを見るつもりだった。そのつもりだったのだが。
 漂う魔力の一欠片もない。ぎょっとして、妖精はロゼアとソキ、白い本に視線を何度も往復させた。ほろほろ、陽だまりで口にする砂糖菓子のように。ロゼアの魔力が指先から、求められるまま零れ落ちた気配を、妖精も確かに感じたのに。ロゼアも、なにか変だとは思ったのだろう。訝しむ顔で己の手を眺め、ソキ、と静かな声で淡い『花嫁』の名を呼ぶ。
 その声に。ふふふん、とソキは自慢いっぱいの声でふんぞり、ロゼアから白い本を受けとってぱらぱらとめくりだす。目的の一説を見つけ出したがる幼子の瞳が、なにも書かれていない紙面を探し、やがて。あったですうぅっ、とほわふわしきった声が発表し、ずいっ、と注目の前に、開いた本を差し出した。
「これがぁ、ロゼアちゃんの魔力のぉ、分析結果ですぅー! これでしょ? それとね、これでしょ? 太陽の魔力ですからぁ、熱と光なんですけどぉ、ロゼアちゃんの魔力はほわふわきゃぁんであったかですからぁ、全部の半分こじゃなくて、こっちがちょっと多くて、こっちがちょっとすくなくて、それで黒魔術師さんだから赤蝶々ちゃんです! えへん!」
『分かるように話せって言うのにも飽きそうだけど、アンタそのアスル大行進がだからなんだっていうのよ』
「えっ。……え、えっ、ええええっ?」
 分からない、と告げる妖精の言葉にあまりにびっくりしたのだろう。ロゼアの膝上でぴょんこと飛び跳ねるように体を震わせたソキが、慌てた仕草で本をひっくり返し、紙面に目を向ける。真っ白な紙面に、アスルの絵文字が何行にも渡って書き記されている。妖精の目にはそう見えたし、居並ぶ魔術師のたまごたちにも、ロゼアにも、そうなのだろう。
 ソキ、とロゼアの心底困った穏やかな声に、ええええええっ、とほんわふんわした涙声が抗議する。
「あっ、あんまりですううううう!」
『アンタにはなにが見えるっていうのよ……』
「ソキ、はい。紙に書こうな」
 ロゼアから紙と万年筆を差し出され、ソキはえくえくしゃくりあげながら、正確にそれを書き写した。黒魔術師、太陽の属性。魔力は光と熱の要素で複雑に編まれ、それを表す式は美しいアラベスクめいていた。曲線ではなく、直線だけで構成された幾何学模様は、輪郭を辿れば正確な円となる。魔法陣だった。
 魔術師が研鑽の果てに手にすることが叶う、世界でたったひとつの魔法陣。妖精は声なき悲鳴をあげながら、ソキが手に持つ万年筆を蹴飛ばした。魔法陣に、荒々しい直線が引かれて台無しになる。ああぁああっ、と非難の声をあげるソキに、妖精はこの馬鹿っ、と青ざめた表情で震えながら叫んだ。
『アンタ、それなんだか分かって……! 描くんじゃないっ!』
「え、えぇ……。いけないです? これはぁ、ロゼアちゃんの魔力のお印なんですよ。ひとりひとり違うの。それでね」
『説明しなくていいアタシは分かってるアタシは分かってるのよ……!』
 それは、己の魔力の、もうひとつだ。それでいて、そのもの、でもある。形なき、ただ水の形でしか知覚することのできない魔力。世界に解き放たれればそこでようやく、光の球として見ることが叶う筈の。それは構成式だった。魔術師にとっての魔力とは、血液であり、鼓動であり、心臓であり、脳ですらある。それを解き明かすことは命を握るにさえ等しい。
 予知魔術師の恐ろしさを、妖精は思い知る。これがもし悪意あり、魔術師の前に立ち塞がったのであれば。魔力を持つ者であればある程、絶望的な戦いであった筈だ。ひとりひとり、固有で、変幻である筈の魔力が解析される。それは魔術を解きほぐされるということだ。世にある魔力そのものに最も近しいとされる妖精の瞳でさえ、それは望んで叶えられることではないのに。
 零れ落ちた魔力、ほんのすこしで、ソキはそれを成してみせた。集まった魔術師のたまごたちは、まだ未熟であるからこそ、その恐ろしさが理解できないのだろう。星占いの結果みたいなものじゃないの、と流れてくる囁きに本物の頭痛を感じながら、妖精はちっとも降りてこないシディを胸の中でめいっぱい呪った。ひとりだけ安全な場所に逃げてるんじゃないわよシディめ。
 言葉を探して、妖精は息を吸い込んだ。危険性を説明するのは簡単だが、それでは、集まった者たちにまでそれを知られてしまうだろう。魔法陣を書ける程の魔術師は、稀である。魔法使いでさえ、叶わないことが多い。それはひたすらな、血を吐くような研鑽と、心を壊すほどの、呪い染みた呪いの末。己と魔力と世界を分析しきった末に、はじめて、己の意識へと贈られるものだ。
 文献に残っているかさえ定かではなく、今ある魔術師たちの中で、それを知る者がいるかも分からない。表す者が、いるのかどうかも。絶えたら絶えたでいいものだ、と。妖精は知っている。大戦争を生き抜いた魔術師たちさえ、それを望んでいたのだと。それは書いたらいけないものなの、と、なんとかそれだけを告げる妖精に、ソキは頬をぷっと膨らませて、はぁい、と言った。
 不服でならない声だった。
『……ソキ。予知魔術師の武器は、それ?』
 魔術師の、魔力の解析。ひとりひとり異なる、固有のそれを分析し、記し、さらにはそれを予知魔術師以外には開示しない。誰かの手に渡ったとて、無意味なのだ。その本はソキの手にある時にだけ息をする。文字を表す。意味になる。リトリアが在学時代、本を持ちあるけど、それを人前で開くことのなかった理由を、妖精は知る。
 用心で、けれど、当たり前のことだったのだろう。それは暗号化されてなお、危険すぎる意味を持つ。魔術師の目に触れさせて良いものではなかった。それを言われるままに書き写すソキは、不用心で無知でうかつで粗忽で間抜けで馬鹿なだけである。額を手でさすって痛みを逃がしながら問う妖精に、ソキはちがーうでーすぅー、と言った。
「これはぁ、分析しただけ、だもん。こういう使い方もできるんですよ? だもん」
『……本来の使い方より先になんでそっちを……そうねそこにロゼアがいたからよね……』
 そうですそうです、その通りです、とソキは頬をふくっとさせながらも、重々しくこっくりと頷いた。そこにロゼアがいたから、優先するのは当たり前のことなのだった。妖精は思い切り舌打ちを響かせてロゼアを睨みつける。ソキに関しての、最初から最後までの元凶、すなわちロゼアである。ロゼアは妖精に微笑み、礼儀正しく、どうかしましたか、と聞いてきた。
 舌打ちして、無視する。
『で? 本当はどうやって使うの?』
「ソキのを書いておくです。入れてね、書いてね、出すの」
『……実演なさい、実演。ああ、ほら、アンタたち! ソキの『武器』で勝手に遊ぶんじゃないわよわちゃくちゃするなーっ!』
 私のも俺のも魔力解析してみてやってやってー、魔力入れればいいの入れとくねー、と在校生の手の間を渡り歩いていた本を奪い返しついでに怒鳴りながら、妖精はふらふらとソキの元へと舞い戻る。知らないとは怖いことである。自動成分表示かなにかだと思っているに違いない。あながち間違ってはいないのだが。白い本は、魔術師たちの魔力をたっぷりと含んでいた。
 これいいの、と眉を寄せる妖精から本を受け取り、ソキはううんと首を傾げて沈黙する。面差しがやや集中していた。誰かが囁くその声に、耳を傾けているようでもあった。ん、とやがて、ソキはこくりと頷いた。
「だめです。一回出してからにするです」
 出す、の意味を誰かが問うより早く。ソキはちまこい手指で白い本をしっかと持ち上げた。ぎゅ、と気合いっぱいに、目が閉じられる。
「えいえい! えい! んしょっ!」
 ふりふり、いっしょうけんめい、本が振られる。手に持っているのが妖精だったら、あっという間に酔う所だ。なにをしているのか見守っていると、そのうち、ぱら、と金平糖のように零れ落ちるものがあった。ぱらぱら、それは本に挟まっていたかのよう、ソキの膝に降り積もっていく。それは金平糖のようであったり、ちいさな木の枝葉の形をしたもの、花弁の一枚を形作ったものもあった。
 それもちいさく、鉱石めいていて、深く中に色を染み込ませ透き通っている。具現化した、魔力そのものだった。ふりふり振ってもそれが出てこなくなった所で、ソキはふんすっ、と満足いっぱいに鼻を鳴らす。
「これでいいです。あっ、リボンちゃんりぼんちゃ? これもぉ、ソキのご本のきのーのひとつでぇ、もらった魔力をこうやって出しておけるんですよ。でもね、ソキの魔力じゃないですから、ちょっぴりしかもたないです。何日かしたら消えちゃうの。……でも綺麗です。ロゼアちゃん。瓶ちょうだい? これをね、瓶にいれてね、窓のとこにおいとくです。きっと、きっと、とっても綺麗です!」
 不意に爆発する可能性を孕んだ劇毒物を置くに等しいのだが。ロゼアは分かっているのかいないのか、うんソキがそうしたいならそうしような、と頷いていた。妖精は具現化した魔力からやや距離を置きながら、アンタもそれができるのね、と問いかけた。入れる、書く、出す、とは、そういうことだろう。魔力を具現化する装置としての本なのだ。
 ソキは考えるように首を右に傾げ、うーん、と言って左に傾げ、まあいいや、と思っているのがよく分かる顔でそうなんですぅ、と頷いた。
「予知魔術師はね、魔力がすくなーいです。だからね、こうやってご本に書いて貯めておくの。それでね、使う時に出すんですよ。あとね、魔術が使われた時にね、それを読み解いて、えいえいってして、貰うの。魔力がこっち来る前に、本に書いて、ソキのにしちゃうです。それでね、ふりふりしてね、出してね、使うです。自分の魔力を使うのは、さいしゅーしゅだん、というやつです。わかったぁ?」
 理解する。たった数回の魔術で枯渇してしまう魔力量の予知魔術師が、なぜ、大戦争で兵器として使われたのか。それが、可能であったのか。魔術師にとっての、それは悪夢だ。魔術は発動する前に消え去り、奪われる。その瞬間に魔力が解析され、記されてしまうのだ。己の命そのものを。予知魔術師の写本。『武器』の中に。
 だからこそ、予知魔術師を殺すのは純粋な武器でなければならなかったのだ。その声が言葉成す前に胸を打ち抜く銃弾や、刺し貫く刃でなければ。その命は奪えなかった。魔力は命に届かない。決して。
『……あとはなんで、これがアタシかってことよねぇ……』
 ソキが赤蝶々や黒蝶々をぎゅむぎゅむ押しつぶすように本に『入れて』いるのを半眼で眺めながら、妖精はいぶかしくひとりごちた。ソキが魔力を籠めようと、ロゼアや魔術師たちがそれを分け与えようと、根幹にある白い本の意思、魔力が染め変えられてしまうことは決してなく。幾度となく触れて確かめたからこそ、目視でさえもはきと分かるそれを注視して、妖精は深々と息を吐きだした。
 たしかに、それは同一だ。妖精のものだ。それでいて、微妙な、差異とも呼べない違和感がある。鏡合わせの、重ねたわずかな歪みのように。なにかが異なっていた。同一であるのは間違いない。同じ土、同じ水、同じ陽で育った、ひとつの種から芽吹いた、おなじもの。そうであると、分かるのに。過去の、己の懐かしい思い出そのものに、触れている気持ちになる。
 妖精が形を成してからの年月は、そう長いものではない。これが例えば切り離し失われ忘れてしまった己の過去そのものだとしても、存在を変容させる程の時はまだ経過していない筈だった。妖精は花の化身。それが魔術師の、『武器』の形になることはない。それがもし、万一、可能だとしたら。存在そのものを変質させるだけの、呪いが成された結果だった。
 その呪いは。ひとりの魔法使いを風の魔力へと転じさせ、ひとりの魔術師の記憶を失わせ、ひとりの魔術師には絶望じみた執着を刻み込んだ。それは世界を繰り返し、書き換える対価として。希望を決して諦めなかった結果として。その呪いが。
「リボンちゃん?」
 やや拗ねた声にはっとして、妖精は視線をソキへと向けた。もう、なんでソキからちょっと離れた場所にいるですか、とむくれた顔で、ソキがちたぱたと妖精のことを手招いている。傍にいてくれることを疑いもしないで。ソキは妖精を恋しがる。妖精は苦笑して、魔力に用心しながらもソキの傍まで移動してやった。肩に腰かけて、頬を撫でる。
 一緒に行く。どこまでも行く。それが妖精とソキの約束で、誓いだった。
『まあ、使い方が分かってよかったわね。でも、さっきみたいなうかつな真似はしないのよ。返事は?』
「はぁーいー……?」
『なにがうかつなのか分かってないなら返事をするんじゃない……!』
 これは早晩、ふたりになる機会を作って、魔法陣についてを教え込む必要がありそうだった。教員にも説明を委ねるべきではない。それを知っているのなら問題はないが、知らないままなら、そのまま一生を終えた方が魔術師としても幸福だ。本が武器である以上、リトリアが知らないでいるとは思えなかったが、それとなく確認する必要があるだろう。
 確かな意味と組み合わさってこそ、知識は己を守るものとなる。



 そこを定位置と定めてしまったように、シディは天井の梁の影に身を置き、降りてくる素振りを見せなかった。あるいは至近距離に来たら確実に羽根を引っ張り倒すであろう妖精の不機嫌を感じ取ったのかも知れないが、ロゼアに声をかけることもなく、鉱石妖精の瞳はただまっすぐ、己の愛しい子の挙動を見つめている。そこには確かな、張り詰めた緊張があった。
 傍で見ていても、そう嫌なものは感じ取れないのだが。花妖精と鉱石妖精の意見には、やや食い違いがある。危機が迫った時にシディが優先するのがロゼア、妖精がそうするのがソキであるというのも、意見を一致させない理由のひとつなのかも知れなかった。きゃっきゃとはしゃぎながら硝子瓶に具現化した魔力をざらざらと封じ込めるソキを、半分引いた目で眺めながら、妖精は息を吐いて談話室を確認する。
 集まっていた生徒たちは三々五々、それぞれの作業へと戻っていた。穏やかな静寂が満ちる午後だった。ソキの手元には白い本と一緒にアスルが置かれていたが、一時の警戒と比べれば、それは単に習慣めいた行いようにも見える。ふ、と妖精は柔らかな息を吐く。砂漠に行った魔術師たちの調査が進み、実を結べば、ソキの感じた不穏なものへも届く筈だった。
 もうすこしの時だけが、そこへ辿りつかせてくれる。
「あ、いたいた! ソキちゃん、ロゼアくん。こんにちは!」
 談話室の入り口から小走りにやってきたのは、砂漠の王宮魔術師ラティである。ソキはまずその騎士めいた服装に目をぱちくりさせたのち、腰に帯びた長剣に、ロゼアにぴとりとくっつきなおした。
「……なにかあったです?」
「ラティさん。なにか?」
「え? えっと……あ、ごめん! もしかして、これ怖い? ご、ごめんね大丈夫! 抜かないし切らないし刺さないから……!」
 具体的に上げていくのを心底やめて欲しがる、迷惑そうな眼差しでロゼアがさっとソキの耳を塞いだ。ロゼアと意見の一致をみるという点に苦虫を噛んだ表情になりながら、妖精はソキとラティの顔の間にひらりと舞い降りた。腰に手を当てて、王宮魔術師を睨みつける。
『なぁに、アンタ。なんの用? やましいことがないならアタシにまず言ってみなさいって言ってるのよほらほらなんなのよ』
「えぇえええソキちゃんの難攻不落度があがってる……! え、えーっと、あの、ちょっと貢ぎ物を……貢ぎ物っていうか、貰って欲しいものがあるから持ってきたんだけど、あげてもいい? あ、ちゃんと陛下の許可は頂いてきたから、安心してね?」
『ろくでもない用事だった』
 アンタたち王宮魔術師までソキをよってたかって甘やかすからこういうことになるのよ分かってるの反省しなさいと舌打ちと共に一息で告げて、妖精はひらりと舞い上がり、ソキの頭の上に腹ばいで乗っかった。やぁん、とソキがむずがる声を出すが、ぽんぽんと頭を撫でてやると、すぐ落ち着いてしまった。
 ため息をつく妖精に代わり、ラティに問いかけたのはロゼアである。陛下から許可を頂いたと聞こえましたが、という言葉の裏にはまさか俺に無断でソキになにかを貢ぐなんてことなさいませんよね、という意思が隠れもなく滲んでいた為、ラティはささっと居住まいを正し、ソキの前に片膝をついて一礼する。完璧に騎士の仕草だった。
「こちらを」
「拝見します」
 ラティが布に包まれたそれを差し出したのはロゼアだった。当然とばかり受け取ったのもロゼアである。ソキは待っているのに飽きたのか、頭の上にぺたぺた手を押し当て、ねえねえリボンちゃんねえねえ、と話しかけてくる。いいから目の前のことに五分は集中しなさい、と頭の上から半ば叱っていると、きょろきょろ気を散らしたソキの視線が、ロゼアの手に向いた。
「ロゼアちゃん? それなぁに? ラティさん、ソキになにをくれたの?」
「……申し訳ありませんが、これはちょっと」
 ソキの視線に入らないようさっと布でくるみなおされたそれを、妖精はしっかり確認していた。
『剣よ。……と言っても、短剣とも呼べないようなちいさいものだけど。手紙の封切るのに使うくらいのものかしら? いいじゃないの、やったって。このド過保護が』
「リボンさん。ソキは刃物を扱ったことがありません」
 きっぱりとした物言いは、これからも扱わせる気がない、ということを示していた。確かに、ソキの手に刃物というのは、想像しただけでも危なっかしいばかりである。けれども、知らなければ危険を避けることさえできないのだ。妖精はぱっと飛び立ち、ロゼアの目の高さで、怒りの滲む睨みを向けた。
『これくらいのものなら、いいじゃないの。扱い方を教えるのも大事なことよ』
「ちいさくとも、刃物は刃物でしょう」
「わぁ……私これ、見たことある……。リトリアちゃんの教育方針で対立するストルとツフィアだ……」
 刺激してしまわないようにそろそろとロゼアから包みを受け取ったラティに、ソキの好奇心いっぱいの視線が向けられる。じー、じぃいーっと見つめられて、ラティは苦笑しながらそーっと囁く。
「……見るだけね?」
「はーい!」
 ロゼアがソキの腰をしっかりと抱いているので、離れてこっそり見せるのは不可能だった。ラティは持ち帰りかな、と内心息を吐きながらも布を取り、祝福の具現、細くしなやかな剣を、ソキの視界へと差し出した。わぁっ、と華やかな声があがる。うっとりとした眼差しに、ラティは思わず息を止めた。滑らかに輝く碧玉のうつくしさ。赤らんだ頬と、そわそわと組み替えられる指先の、いとけない愛らしさ。
 半ば操られるように、ラティはその剣をソキに差し出していた。
「……ほしい?」
「うん! ロゼアちゃん、ロゼアちゃん! ソキ、これ、欲しいです。ねえねえ、いいでしょう? いいでしょう? ロゼアちゃん、ソキ、これ、大事にするですねえねえ、ねえ、ねえ? ほら、ほら、見てくださいです。きらきらしてるですうぅ……! ラティさん、これ、なにに使うの? どうやって使うの? これをソキにくれるです? これ、ソキの? ねえねえロゼアちゃん? これ、ソキの?」
「……うん。ソキのだよ。ソキのだ……」
 なんてことをしてくれたんだ、と遠い世界を眺めたがるロゼアの眼差しが語っている。今にも勝訴、と訴えそうな顔つきで髪をかき上げ、妖精はソキの顔の横へと移動した。
『よかったわね、ソキ。慎重に大事になさい。慎重に。……そんなに気に入ったの?』
「うん! あのね、あの、これ、ラティさんの魔力です? きらきらしてるの! きらきらで、ふわふわで、きゃぁあんなの。しあわせがいっぱい詰まってるの。嬉しくってね、それでね、きゃあぁんなの! ラティさん、いいの? ソキにくれるの?」
 胸の中の幸せを、腕いっぱいに抱きしめて。それを差し出されているのだと。喜びにはしゃぎながら問うソキに、ラティは鼻をつんとさせながら、言葉なく頷いた。祝福だと、ソキは分かってくれているのだ。これがラティの祝福であるということを。祈り。尊いもの。喜び。胸に抱いた希望の形。幸せであれ、と祈る意思。その具現であるのだと。
 ソキの説明はつたなくとも、ただの剣でないことは分かったのだろう。ロゼアが詳細を問おうと、口を開いた瞬間だった。
「ロゼアクン」
 呼び声が、した。
「……ああ、ちょうどよかった。二人でいたんだね」
「あれ? フィオーレ」
「ラティまで。……ん、まあ、いいや。久しぶり、ロゼア。ちょっと用事があるんだけど」
 俺と一緒に来てくれないかな、と笑う。砂漠の白魔法使い、フィオーレが。談話室の入り口に立って、ロゼアのことを手招いていた。

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