なにが起きたのか分からなかった。呆然としたまま壁に背を預けてしゃがみこみ、メーシャは己の膝が震えていることを知った。立っていられない。未経験の恐怖が意識を貫き、未だ去ってはくれなかった。苦しくて、息をしていないことを知り、メーシャは苦心して口を開く。全身が強張って震えていた。瞬きを何度しても、目の前の悪夢から覚められない。
乾いた咳を何度か。えずきながら苦心して、メーシャは息を吸い込んだ。一度呼吸を思い出せば、途切れることはなく。メーシャは生理的な涙を浮かべながら、目の前の光景に、ただ瞬きをした。
「せんせい……? ウィッシュさん……?」
廊下は午後の陽光に溢れていた。満ちた黄金のひかり。暖められたやわらかな風が吹く。それはメーシャの青褪めた頬も撫でていく。弱々しい呼びかけに応える声はなかった。どちらからも。二人は廊下に倒れこんでいて、ぴくりとも動かないでいる。唐突に、それは起きた。悲鳴もなく。苦痛もなく。
ただ、ぶつ、と。引き千切られる嫌な音が、メーシャの頭の奥に残っている。異変はそれだけ。その音が響いて、メーシャは瞬きを一度した。吐き気を堪えて。意識を。魔力を揺らしたその『音』を堪えて。息をした。瞼を開いた時、もう世界はしんと静まり返っていた。ストルとウィッシュが倒れていた。
なにか転ぶことでもあったのだろうかと。はじめは不思議に、メーシャは二人を見つめてしまった。どちらかがすぐに、恥ずかしがって笑いながら立ち上がると信じて疑いもしなかった。一秒、二秒、五秒、十秒。指先からじわじわと染み込む不安に鼓動を早くさせながら、メーシャはその時が来るのを待った。
大丈夫だと言ってほしい。あるいは、なにかの冗談であるのだと。それなのに、笑い声はなく。呼吸の音さえ、拾うことができない。立ち上がらなきゃ。助けなきゃ。声をかけて、それで。返事がなかったら、どうすればいいのだろう。メーシャはゆっくり、あたりを見回した。白く染め抜かれた魔力の欠片が、夥しい数のそれが、漂っている。
近くには調査を進める魔術師たちと、砂漠の王宮で働く者がいる筈だった。それなのに、駆け寄る足音のひとつもない。悲鳴はどこからもあがらない。どこか遠くで、砂が風に散るきれいな音がしていた。花と木の葉が揺れている。穏やかな音。人の声はない。気配はない。断ち切られてしまった。メーシャ以外の、全てが。
悲鳴さえ、上げられない。喉は呼吸を続けていた。それなのに息苦しくて、強く手を押し当てる。世界が水に歪む。その雫が、頬を伝うのを拭い宥めるように。ふわん、と蜜色のひかりがひとつだけ、現れた。吹き飛ばされて、ようやく戻って来られた、と言わんばかりに。ふわふわ、ちかちか、ぴかぴか瞬いて、メーシャの近くでふよふよと漂い動く。
ひかりは周囲を威嚇するように、膨らんだりしぼんだりを繰り返したのち、ふふんっ、と誇らしげにぺかぺか瞬いた。これでだいじょうぶですぅ、とソキの声が聞こえたような気がした。なんだろうこれ、と見ていると、ひかりはふよふよとメーシャに近寄った。頬にぺとっとくっついて、ひかりはふるふる揺れ動く。ろぜあちゃんろぜあちゃん、と甘えるソキのようだった。
よく分からないが、かわいくて心がほっとする。ゆるく体から力を抜いて、メーシャは自然に微笑んだ。ひかりに指先を触れさせる。目を伏せ、ありがとう、と告げた瞬間だった。走ってくる足音と、それより速く。空を切って滑空する、妖精の声が響く。
『メーシャ!』
「ルノン……!」
『メーシャ、ああ、よく無事で……!』
勢いそのままに突っ込んできたルノンが、びたっ、とメーシャの頬に激突して停止する。ルノンと頬の間につぶされて、ひかりはふしゅる、とちいさくなって消えてしまった。ああぁんいじめられたぁーですぅーっ、とほわふわした泣き声がどこかで聞こえた気がした。ルノンを摘んで頬から離し、メーシャは息を吐き出した。
「ルノン、痛いよ……」
『うんうん、ごめんなメーシャ。ひとりにしてごめんな……! よ、よく、本当によく無事で、メーシャ、メーシャ……!』
「あ、駄目だ。聞いてないね……もう」
ルノンはメーシャの案内妖精である前に、同居人で兄弟で家族で保護者で相棒である。昔から心配をかけては怒られたり見守られたりしていたものだが、離れている間になんらかが起きたことで、ルノンも余裕がなくなってしまったらしい。ちいさな体いっぱいですがり付いてくるのに、手を添えて立ち上がる。いつの間にか、立ち上がれるようになっていた。
恐怖はまだ心の底に、ざらざらと残っていた。息を、吸う。意識して深く。吸って、吐き出して、よし、と気持ちを切り替えた頃、ようやく彼方から響いていた足音の主が、メーシャの前に飛び出してきた。
『ナリちゃんナリちゃん! メーシャちゃんよ! メーシャちゃんがいたわ!』
「うわぁああメーシャくんメーシャくん!」
「えっちょっとまっ、ナリアンごめんお願いとまって落ち着いてっ! 受け止めきれな」
ごっ、と頭と壁の間で音がして。意識が一瞬、遠くなった。
膝を抱えて座り込み、肩を落として反省するナリアンに、メーシャは一応尋ねておくことにした。
「……今日の朝、寝てるトコに飛び込んで行ったの、さ。実は怒ってた、とかじゃないよね?」
なんというか、ごしゅじんごしゅじん見つけたああああっ、と飛び込んでくる大型犬を思わせる動きだったので、そんなことはないだろうとメーシャも思っていたのだが。ぷるぷる震えながらごめんね違うんだよ本当にごめんメーシャくんごめん、と呟くナリアンを見る分に、受け止めきれない可能性を考えられなかっただけ、であるらしい。
ルノンとニーアがせっせと癒してくれたおかげで、腫れも痛みもない後頭部に手で触れて確認しながら、メーシャは怒ってないよ、とナリアンの前にしゃがみこんだ。
「ただ、ハリアスとか、ソキならともかく。ナリアンはちょっと抱きとめきれないから、次にする時は予告してくれると嬉しいな。ロゼアなら予告なしでも出来る気がするけど」
今日の朝も受け身取ってたしね、と呟くメーシャに、ナリアンはこくりと頷いた。寝起き、というか寝ていたせいでソキを巻き込んでつぶしていたが、それでも誰に怪我をさせることもなく、きちっと捌いて見せたのだ。目を覚ましていたのなら、不意をついても難無く受け止めきることだろう。
「ロゼアだもんね……。ううぅ、本当にごめんね、メーシャくん。俺、不安で、怖くて、ルノンさんがメーシャはって叫んで飛んで行くの、追いかけるので精一杯で……」
ソキの案内妖精に呼ばれたニーアたちが、用事を済ませて戻ってくる直前のことであったという。瞬きひとつ、呼吸ひとつを超えて悪夢が広がった。前触れはなかった。すくなくとも、ナリアンには感じ取れるものではなかった。ただ、ロリエスはぶつり、となにかが千切られる音が響く寸前、ナリアンを振り返ったのだという。その名か、なにかを叫ぶ声は響かなかった。
不愉快な音。目を閉じずにはいられない程の眩暈。しゃがみこんでしまうくらいに、意識を揺らす衝撃からナリアンを救ったのは、蜂蜜色のちいさな魔力。気がつけば、ちかちか、ぴかぴかしながらナリアンの周りをくるくる、ふよふよ漂っていた。そのたった一つの魔力は、ニーアとルノンが悲鳴じみた声で急行する響きに驚いたかのように、ぴっ、と明滅して消えてしまった。
俺もそれを見たよ、とメーシャは言った。ソキが調査へ向かったふたりへ贈った、祝福の魔力。それが恐らく、『それ』からふたりを守りきったのだ。妖精たちは、ちょうど『それ』がなされた瞬間、『扉』をくぐっていたのだという。だからこそ、なんの影響も受けずに戻ってくることができた。ルノンを追って走ったナリアンとニーアが見たのは、倒れ伏す魔術師と人々の群れ。
意識を保っているのは恐らく、ナリアンとメーシャ、ルノンとニーアだけなのだ。その影響がこの一角だけではないことが、ぞわぞわとした不安感と共に感じる静寂が物語っている。少なくとも城内は影響下にあり、魔術師も人も関係なく、倒れている。反省を終えて立ち上がったナリアンは、きゅ、と唇を噛んでストルとウィッシュに歩み寄る。
祈るように息を止めて。ナリアンはウィッシュの頬に手を押し当てた。ナリちゃん、とニーアの声がやわらかに囁く。
『大丈夫よ。ウィッシュちゃんも、大丈夫……あたたかいでしょう? 息もして、いるわ。ね?』
「……うん。ああ、そうだね……よかった」
でも動かしたらだめよ、とニーアは囁く。ナリアンに告げ、メーシャのことも見て、ゆっくりと言い聞かせる。
『魔力が、ひどく……ひどく、乱れているの。嵐が来た夜の泉みたいに、木の枝葉や花びらが混じったみたいに、魔力に異物が混ざりこんでいるの。それが悪さをしていて……目を覚ませないでいる。魔力を持たないただびとなら、数時間すれば、もしかしたら目を覚ますかも知れない。でも、こんな……ああ、でも、動かさないで。いま、みんな必死に戦ってるわ。悪さはしているけど、これは……この魔力は、本来、誰かを傷つけることができるものじゃないもの。大丈夫、だから、大丈夫よ……』
「誰、か、に」
それを口にするには、勇気がいった。どうして、なんで、とそればかりが頭の中に溢れている。それでも。乾いた口を必死に動かして、メーシャは声にだして問いかけた。
「攻撃された、って……こと……?」
『……誰かに、じゃないんだよ。メーシャ』
告げるのに、迷っていた鈍い口ぶりで。ルノンは苦しげな顔をしながらも首を振り、ニーアは聞きたくない、と告げるように手で耳を塞いでいた。妖精たちには一目で分かったのだろう。溢れ出し、世界を染め抜く白い魔力が、誰のものであるのか。それ程の魔術を行使する者のことを、なんと呼ぶのか。
『これは、魔法使いの……白魔法使い、フィオーレの』
「フィオーレさんが、これを、したの……?」
どうして、と呟きに答えはない。メーシャ、とルノンが呼んだ。とにかく。続く言葉が、安全な場所に、であったのか。無事でよかった、だったのか、知ることはなく。きゅっと口唇に力をこめたメーシャは、顔を上げると同時に頬を両手で強く叩いた。
「っ……よし!」
倒れ伏すストルの姿を見るだけで、泣き出しそうな気持ちになりながら。メーシャは驚く妖精たちとナリアンに向かって、行こう、とその意思だけを乗せて手を差し出した。
「意識、あるひとが他にいるかも知れない。ここでこうしてても、なにも始まらないよ。動き回るのが最善なのかは、今の俺にはまだ分からないけど……先生たちを見守って、また、誰かが助けに来てくれるのを待つしかできないのは、くるしい。……それに」
『それに?』
駄目だ、と。ルノンの目は告げていたけれど。言葉を促してくれるルノンの優しさが、昔から、メーシャは好きだった。思わず、綻ぶように笑って、言う。
「ここで起きたことを、どこかに知らせなきゃ。『学園』まで戻れば、寮長が最善を教えてくださると思う。探しに行って良いって言われたら、動くよ。自分勝手にはしない。駄目だったら、諦める。その時にできることを、するよ。闇雲に動いたりはしない」
だから。ここから『学園』へ走っていく。許してくれなくてもするけど、できれば許して、一緒に来てほしい、と。告げるメーシャに、ルノンは苦笑しながら頷いた。ほ、とニーアが胸を撫で下ろすその傍で、ナリアンが頭を抱え込む。
「メーシャくんの寮長に対するその信頼感はなんなのどこで騙されたの……!」
「だって、ストル先生が仰ってたよ。『シル寮長は性格に多少問題があると言えなくもないが、ここぞという時には頼りになるし、頼っていい相手だから覚えておくように』って。俺もそう思うよ。だからね、一回帰ろう?」
メーシャくんはなんであのひとを信頼なんてしちゃったのなんでどうしてねえなんで、としんだ目で呻くナリアンに、メーシャはうぅん、と言葉に迷い。のち、華やかな笑みを浮かべて見せた。
「俺はだってほら、寮長に反抗期じゃないから」
『ナリちゃん、大丈夫よ! ロリエスちゃんがシルくんと結婚しても、ロリエスちゃんがナリちゃんの先生であることは変わらないもの! 元気を出して?』
「ソキも時々、チェチェリア先生に言ってるもんね。『チェチェせんせい、ロゼアちゃんとっちゃだめですぅー』って。うん、俺もちょっと気持ちはわかるよ?」
頭を抱えてうずくまってしまったナリアンに、ルノンがそっと寄り添った。ぽんぽん、と肩を叩くルノンがあえて無言であったのは、ナリアンの救いであったらしい。しばらくメーシャが見守っていると、そうだ聞かなかったことにしよう、という顔つきになったナリアンが、気を取り直したそぶりで勢いよく立ち上がる。
「よし、メーシャくん! 『学園』に帰ろう!」
「うん、そうしようね。……ニーアはいいの? ナリアンの反抗期、放っておいて」
『ナリちゃんは、じつはシルくんのことが大好きだもの! でもね、ちょっぴり素直になれないだけなの。だから大丈夫なのよ!』
こっそり問いかけたメーシャに、ニーアは元気いっぱいに返事をくれた。そっか、と微笑んで頷き、メーシャは視線を移動させてナリアンを見る。数歩先を歩んでいた筈のナリアンは、再び頭を抱えてうずくまっていた。ぷるぷる小刻みに震えている。声もない。ただ、髪の間から覗く耳が赤く染まっていたので、メーシャは苦笑しながら歩み寄り、親友の肩にそっと手を置いた。
「乗り越えようね、反抗期」
「メーシャくんが俺をいじめてくる……つらい……」
「いじめじゃないよ、応援だよ。さ、元気だそうね、ナリアン。帰ったら寮長に報告しないといけないからね」
うあああぁあ、とナリアンが心底嫌そうな声を出して半泣きで呻くが、メーシャはルノンと視線を交わし、くすくすと肩を揺らして笑み零した。それでも、ナリアンは違う人に報告する、だとか、そういうことを言わないので。うんうん頑張ろうね、とナリアンを立ち上がらせ、歩き出して、メーシャは一度だけ振り返った。
きゅ、と口唇を噛んで。メーシャはまっすぐ、ストルとウィッシュに頭をさげる。
「行ってきます」
身を翻して走り出す。送り出す言葉はなくとも。背をそっと押す手を感じた気がして、メーシャは目元を手で拭った。泣くものか、と思った。
ぽて、と床に落ちたアスルが、ころころと転がって机の下で止まる。ソキが手を伸ばしただけでは、拾い上げられない距離。すぐにでもぎゅっとして投げなければいけないのに、張り詰めた静寂に耳が痛くて、ロゼアに抱き寄せられても残るこびりついた恐怖が、ソキから呼吸以外のなにもかもを奪っていた。巻き込まれ、ソキとロゼアの間でつぶされた妖精がうめき声をあげている。
そう、と確信した瞬間。誰よりもソキの反応は早かった。フィオーレがロゼアに声をかけ、談話室に一歩足を踏み入れた瞬間には、だめえええっと叫ぶと同時にアスルを両手で持ち上げていたからだ。一瞬。信じられない、と。信じがたい顔つきをしてラティがソキを振り返った。視線が重なったかどうかを、ソキは覚えていない。瞬きより、呼吸より早い判断があった。
体勢を戻してラティが剣を引き抜かんとし、えい、とソキはアスルを投げようとした。十分に準備をしきった、予想した動きでフィオーレがすいと片腕をあげて。微笑んだ。
「仕方ないね」
それで、なにが起きたのかを。ソキの、断片的な記憶では判断ができなかった。ロゼアがソキを強く抱き寄せる。ロゼアっ、と張り詰めたシディの叫び。ラティが剣を引き抜いて駆ける。ばんっ、と音がした。木の板に両手を強く打ちつけたような。窓硝子が暴風で打たれたような。石畳を、硬い靴底が打ち鳴らしたような。叩いた音だった。なにかが、なにかを、叩いた音だった。
すこしの間、ソキは呼吸ができなかったように思う。力を失った手からアスルが床に落ちて、ぽて、とした音で、ソキは息と瞬きを思い出した。数秒だったかも知れない。もうすこし、長かったかも知れない。意識の空白。切り離された静寂が、唐突に場に下りている。いくつも音がした。なにか落ちる音。なにかぶつける音。なにか転がる音。なにか。なにかの音がいくつも連続して響く。
ソキはロゼアの腕で、震えながらそれを聞いた。アスルを拾いたかったし、なにが起きているのかを知りたかったが、背を撫でるロゼアがソキの耳元で、だめだ、と言ったから我慢する。目を閉じて、大丈夫。ソキ、ソキ。大丈夫だよ、ソキ。焦りや、恐怖。動揺を極限まで殺し胸の中に押し込めたロゼアの、穏やかな、穏やかさを装った声。かすれ声。囁き。
ぽす、と音を立ててやわらかに、シディがソキの膝に落下する。ぶつ切れの意識をかき集めたまなざしで、シディがロゼアとソキを見た。
『……間に、あ……』
じりじりと、消え行く火のように。妖精の羽根に宿る光が、明滅する。言葉の為に息が吸い込まれ、しかし声を発することが出来ずに、シディはぱたりと顔を伏せた。待っても、言葉が発せられることはなく。ふふ、とフィオーレの笑い声が響く。静寂の間に。成し遂げた結果を誇らしく思う囁き。
「ソキだけじゃなくてロゼアも、ふたりを同時に庇うなんて。シディはすごいな。……んー、ロゼアの意識だけでもなんとかしたかったんだけど、しょうがないか」
「フィオーレさん。なに、を……」
「うん。ロゼア、用事があるからさ。ソキのこと連れて俺と一緒に来てよ」
ロゼアの次にソキに来てもらう予定だったけど、こうなったらもう一緒でいいや、と普段通りの声でフィオーレが言う。その響きに。歪んだ声が重なるのをソキは聞いていた。くすくす、楽しそうに『それ』は笑っている。フィオーレにしたのと同じ方法で、ロゼアのことも書き換えようとしている。それは本に、新たな一文を書き入れるかのごとく。
ぎゅううっ、とソキはロゼアに抱きつく腕に力をこめた。体をいっぱいくっつけて、震えながら、なんとか口を開く。
「ろぜあちゃん、だめ……だめ、だめですよ。いっちゃだめ……!」
「ソキ……」
「そき、ソキが、守ってあげるです。大丈夫です!」
アスルさえあれば。アスルさえ投げられれば、大丈夫な筈だった。投げれば必ずあたるように編み上げた呪いは、距離があってもソキの腕力が足りなくても、必ず定めた者に接触する。そういう風にできている。あする、あするっ、と涙声で訴えるソキに、ロゼアはしばらく言葉を返さなかった。
穏やかに、守るように、頭ごと抱えられているから、ソキはロゼアがどんな表情をしているのか分からない。ただ、いつも通りの撫で方だった。穏やかな鼓動めいた触れ方だった。
「……ソキに、なにもしないと誓っていただけますか」
「んー……うん、分かった。しないよ。俺はなにもしない。ロゼアがくればね」
「……ラティさんから、離れて頂けますか」
ふ、とソキを抱き寄せていた腕から力が抜けた。行ってしまうつもりなのだ。だめだめぇっ、と半狂乱になってソキはロゼアにすがりつくが、力でかなう筈もない。穏やかに。優しく、ロゼアはソキを膝からおろしてソファに座りなおさせた。ぽん、ぽん、と背を叩いて宥められる。大丈夫だよ、ソキ。歌うように。耳に口付けるようにロゼアが囁く。
「大丈夫、大丈夫。すぐ終わるよ。すぐ、戻ってくる。な?」
「じゃ、じゃあ、ソキも! ソキもいく、ソキもいくぅ……!」
「……ソキ、手を出して」
ソキは大慌てで服で手をぬぐい、ロゼアにぱっと差し出した。手を繋いで、一緒に歩いてくれると思ったのに。ソキが立ち上がろうとするより早く、ロゼアはソキのてのひらに、そっとシディを受け渡した。
「すぐ戻るよ。シディと……リボンさんを見ていて」
「え、えっ、あ……やぅ、やうぅ……!」
ぽいっと投げ出してしまうことはできなかった。だってシディはソキと、ロゼアを守ってくれたのだ。大丈夫、大丈夫、と歌うように囁くロゼアがすこし体をずらしたせいで、ソキは談話室の様子が分かるようになった。むせ返るような魔力が満ちている。それは乳白色の霧めいて、あたりに漂っている。そこに、誰も彼もが倒れていた。しん、として誰も動かない。
「ロゼアクン」
怯えるソキを微笑みながら眺めて、フィオーレが笑う。
「はやくおいでよ。……いいの?」
「ラティさんから離れてください。……離せよ。行くって言っただろ」
怒りに、ロゼアの声が揺れている。ふたりの姿は、ロゼアの背に隠れてソキからは見えなかった。う、うっ、とけんめいに右に左にぴこぴこ揺れるソキに、動かないで待っていような、とロゼアが言い置いて離れていく。一歩、二歩、ゆっくりと。途中、倒れる先輩をまたぐのをためらったのだろう。ロゼアが右に避けた隙に、ソキはぱっとそちらを見て。
息を飲む。
「ラティさん……!」
ロゼアがすぐに、体でソキの視界を塞いでしまっても、光景が目に焼きついていた。意識を失ったラティを、フィオーレは抱き寄せていた。抜き身の剣を、ラティの首に押し当てて。微笑んでいた。ラティが離されたとして、次にそうされるのはロゼアかも知れない。くすくす、聞こえる笑い声が、ずっとロゼアを狙っていたことを知っている。
ロゼアはフィオーレと数歩距離を置き、立ったままで動かない。離してください、と繰り返しロゼアがフィオーレに要求する。ソキのことを振り返らず。行ってしまおうとする。フィオーレはロゼアに微笑みかけ、ちいさな声でなにか言っているようだった。言葉はソキの元まで届かない。代わりに、フィオーレはソキのことを見ていなかった。
いまだ、と思う。ソキはすばやく、そっと、シディをソファの上におろすと机の下に体を滑り込ませた。アスルを両手で抱きしめて机の下から出ると、ぎゅぅっと目を閉じてぶん投げる。
「えいっ!」
へろへろ飛んだアスルは、フィオーレに届かず、途中でぼてりと落下した。やううううっ、と走って取りに行こうとするソキの傍を、疾風ように妖精が飛んでいく。妖精は落ちたアスルの下へ滑空すると、一切の躊躇いなく、それをフィオーレに向かって蹴り飛ばした。ばふっ、と音を立て、フィオーレの顔面にアスルがめり込む。
声もなく場にくず折れて昏倒するフィオーレの前に、ぼて、とややつぶれたアスルが落ちた。ソキはぱちくり目を瞬かせ、はっ、としてぷるぷるしながら声をあげる。
「ああぁあああリボンちゃんあすぅ蹴ったああぁああっ! かわいそかわいそですうううう!」
『状況を見て文句言えこの貧弱がーっ!』
というか自分で投げるのはいいのにアタシが蹴ると駄目なのはどういうことだーっ、と怒った妖精が、ぷくぷく膨れるソキの頬を突きに戻る。いやんや、やんやん、と身をよじって避けながら、ソキはロゼアに目を向けて不思議に瞬きをした。ロゼアは、倒れたフィオーレをじっと見つめている。投げ出された剣と、意識を失ったままのラティを。
不意に。ぐっと肩を押されたように、ロゼアは体をふらつかせた。
「……ロゼアちゃん?」
と、と、と後ろ向きにふらついて、ロゼアは額に手を押し当てた。痛みを逃がすように頭を振る。
「ロゼアちゃん。どうしたの? ……あたまがいたいの?」
『ソキ』
ぞわぞわ、足元から胸までのぼってくる悪寒を、嘘だと思い込みたかった。無視して歩み寄ろうとするソキの眼前に、羽根を広げた妖精が立ちはだかる。妖精は冷静な目でロゼアを睨んでいた。
『アンタ、分かってる筈でしょう』
妖精の言葉に、反射的にソキは目でアスルを探した。そのことに指先が震えた。ロゼアちゃんだもん、とむずがって繰り返す。ロゼアちゃんだもん、ロゼアちゃんだもん。ソキの大好きな、ソキのろぜあちゃんだもん。ちがうもんっ、と悲鳴じみてひきつった叫びに、妖精の瞳だけがソキを見た。
『……アンタが』
「りぼんちゃ……だ、だって、だって、だって!」
『アンタがこんなに叫んでるのに、振り返りもしない。あれがロゼアである筈がない』
ふ、と誰かが笑った。知らない響きだった。知っているのに、聞き覚えのない、嫌な笑い方。妖精がロゼアを振り返る。劫火のような眼差し。容赦せず。妖精は矢のように、ロゼアを指差し絶叫した。
『呪われろっ!』
七色の光が、ロゼアの眼前で爆ぜて消える。それだけで、もう、しんと静まり返っている。
「……呪われてあれ、欠片の世界に満ちる魔力よ」
くすくす、と笑い声がする。二重写しに笑い声がする。知らない音で話し声がする。知らない筈なのに。ソキはそれを覚えている。忌々しそうにする妖精の目の先、くすくす、と肩を震わせて。
「呪われてあれ。欠片の世界の魔術師たち、妖精共よ。……呪われてあれ、故に」
ロゼアが笑った。
「反転せよ」
言葉が紡がれていく。
「祝福は呪いであった。祝福として目覚めさせられたことこそ、我が身に降りかかる呪いそのもの。分断された世界から呼び落とされ、戻ることを許されぬそれが祝福であってたまるものか! 祝福と呼ばれるもの、すべてを否定しよう。それは須らく呪いである。反転せよ、反転せよ、反転せよ。祝福こそ呪いであれ」
それが。
「呪われてあれ!」
魔術詠唱そのものであると。体の中で動く魔力で、ソキは知った。
「世界よ、魔術師よ、妖精どもよ!」
悲鳴をあげる声も、否定する意思も、なにもかも奪われる。己という意識の支配者が一時、書き換えられる。悪寒、眩暈、痛み。
「……あ……う、やっ、やあぁああぁっ!」
ひとときの間を置いて、ソキの悲鳴が談話室に響き渡る。呪いが消えた訳ではない。祝福が奪われた訳ではない。それはあるがままにそこにあり、けれどもシークに対してだけ真逆のものとして作用する。それを予知魔術が、ソキが、成し遂げてしまった。
一時のことなのか、永遠なのかは分からない。けれども法則が書き換えられ、故に。アスルはもう、『こわいこわい』を剥がせなくなってしまった。同じだけの効果を与える祝福など、ソキは編むことができない。痛みは祝福ではない。無理に魔力を使われた痛みと、アスルを使えない恐怖で怯えて叫ぶソキに、ロゼアは、額に手を押し当てて体をふらつかせた。
ソキ、とくちびるが動く。声はなく。その様に妖精が目を細めて、舌打ちをする。
『憑依されてるのかなんなのか知らないけど、意識はあるのねロゼアのヤロウ……。ソキ。ソキ、いい? 落ち着いて聞きなさい。ソキが呼べばロゼアの意識が戻るかも知れない。分からないけど、可能性はある。ロゼアの意識さえ戻れば、あとはアタシがなんとかしてやる。だからソキ、ロゼアの意識が戻るような、こう……衝撃を与えるような……じつは好きなひとができたんですぅー、とかなんとか言ってみなさい』
「しょうげきを与えるです。わかったです……。ソキ、じつはロゼアちゃんがいっとう好き好きなんですぅ……!」
『この状況なんだからアタシの言うことくらいは聞いたらどうなの……!』
とっておきのソキの秘密なんですうぅっ、それを秘密と思ってるのはお前だけだーっ、とソキと妖精が言い争っている間に、状態は安定してしまったらしい。は、とロゼアにため息を吐かれて、ソキはびくりと体を震わせた。
「全く……遊んでいる場合じゃないだろう? こっちへおいで、ソキちゃん。それとも、抱き上げてあげた方がいいのかい?」
「やうぅ……!」
助けを求めて、ソキは談話室を見回した。誰かがやってくる様子もないし、倒れた先輩たちはぴくりとも動かない。呪いが効かなければ、妖精が敵う筈もなく。怯えて首を振るソキに、ロゼアは、ロゼアの体を操るそれは、穏やかな笑みを見せつけた。
「言うことを聞かないと、ロゼアくんがどうなると思う?」
だから、ソキではなく。ロゼアが狙われていたのだ、と妖精は理解する。ソキを動かすのには、それだけでいい。本人を直に支配してしまうより、余程楽に言うことを聞かせることができるだろう。案の定ソキは震えながら、今にも要求をのみ込もうとしていた。駄目よ、と妖精は言い聞かせる。
『時間を稼ぎなさい。こんな異変、絶対に誰かが気が付く。必ず助けは来るから!』
「その前にロゼアくんの腕とか足が無くなってもいい? ソキちゃんがいいなら、いいよ。好きに時間を稼ぐといい」
慣れた仕草で、ロゼアの腕がラティの剣を拾い上げる。それに、ソキは体を震わせた。とと、と足元がふらついたように、たたらを踏む。シディのいるソファに後ろから倒れ込み、ソキはぎゅぅっと目を閉じた。ソキ、と妖精が呼ぶ。ロゼアの声が、楽しげに笑った。
「さあ、ソキちゃん」
おいで、と手が差し出される。ソキは閉じた瞼を開いて、ロゼアの体を、てのひらを見つめた。息が吸い込まれる。泣きそうな吐息。それなのに。瞳には、強い意思が咲いていた。気が付いた男が、なにをするより早く。ソキはロゼアに向かって微笑み、そして。
「ロゼアちゃん」
ラティが贈った祝福の剣を、両手で持って己の首筋へ押し当てた。
「……ロゼアちゃん。ロゼアちゃん……ロゼア、ちゃん……!」
ソキは知っている。自分にどれ程の価値があるのかを。それをどれくらい、ロゼアが認めてくれているのかを。大切にされていることを知っている。傷つけ損なわれることが、どれほど。ロゼアに衝撃を与えるのかを。
「かえしてっ……!」
力の入りすぎた手が震えて、やわらかな肌に赤い線をつける。ひ、と悲鳴を殺すように、ロゼアの喉が鳴った。息苦しく。頭痛を振り払うように何度も頭がふられ、乾いた咳を幾度も零して。鈍く。夢へ沈められた霞がかった、ひどく苦しげな眼差しで。赤褐色の瞳が、ソキへ向けられた。
「……ソキ」
「ロゼアちゃ」
「ソキ、ソキだめだ。手を……!」
ぐら、とロゼアの体が傾ぐ。その体に再び、魔力が混在させられる、一瞬の隙を決して逃さず。跳ね起きたシディがまっすぐ、ロゼアを指さして絶叫する。
『ボクが望むものは拘束され吐息のみが許される!』
気迫を使い果たしたシディが、羽根からソファに倒れ込むのと。ロゼアが両膝をつき、そのまま支えきれずに床にうずくまってしまったのは、殆ど同時のことだった。目をぱちくりさせながら、ソキは震える瞳で妖精へ問う。妖精はじっくりロゼアを観察したのち、慎重に息を吐きだして、ソキの手元まで飛んできた。
『大丈夫よ。ロゼアには、呪いがきいた。これでもう、シディが解除するまでは起きないわ。……大丈夫。もう大丈夫だから、さあ、ソキ、力を抜いて。それを離しましょうね』
「う、う……うまく、できな、です。あれ、あれ……」
『緊張してるだけよ。ソキは誰にも操られたりしてないわ。大丈夫、大丈夫……息を吸って、吐いて。そうそう、上手よ。いいこね、ソキ。大丈夫よ……』
手の甲、手首、腕を服の上からそっと撫でられて、ソキはじわじわと手から力を抜いて行った。白い指先に、血の色が戻る。するっと抜け落ちた祝福の剣を素早く回収し、布で包み、妖精はそれを全身で抱きながら、深すぎる息を吐きだした。
『アタシはロゼアに衝撃を与えろとは言ったけど……絶望させろとは言わなかったわよ……。自分を粗末にしていい、とも、言わなかったわよソキ』
「粗末じゃないもん。ソキはロゼアちゃんの『花嫁』で、いっとう大事なんですから、怪我をしちゃいけないです。分かったぁ?」
『分かったわよ分かってたわよこの手のことでソキに話が通じないなんてことはね……!』
もう、と妖精の手がソキの頬を打つ。痛みはなかった。それなのに、涙がじわっと浮かんできて、心が痛くて。ソキはごめんなさい、と口にする。妖精は苦笑して、打ったソキの頬を撫でた。妖精はすこし落ち着いた様子で、談話室の惨事を眺めてうんざりとした顔をする。
『未曽有の大災害ね……。さて、どうしたものかしら。この感じだと『学園』全部がこうだろうから、待ってても……ロゼアはシディが寝てるから起きないとしてざまぁみろ反省しろばーかばーか』
「ロゼアちゃんわるくないもん!」
『は?』
ソキにあんな行動を取らせた時点で、その責任はロゼアに押し付けてしかるべきものである。一音でソキを黙らせて、妖精は腕組みをした。
『問題はこの顔だけちゃんちゃら白魔法使いよね……。コイツがまた復活してくるとも限らないし……ソキ、アスルの呪いはどれくらいにしておいたの? 即死?』
「はんせーとかいりょーを重ねて、一日は起きて動けないくらいに、いたいいたいにしておいたです」
『……ロゼアが、なにかあった時の殺意が高めだから、もしかしてもしかしてと思ってたけど』
まさしく攻撃で、呪いである。獰猛にも程がある。やりすぎだと言いたい所だが、結果としてはよかったのだろう。妖精は祝福の剣を持ったまま飛び立って、ソキを先導するように空を飛んだ。
『ま、いいわ。行くわよ、ソキ。安全な場所に避難して、助けを求めましょう』
「分かったです……。あ、こ、これはもしかして、ロゼアちゃんに行ってきますのちゅうをするだいちゃんすなのでは」
ないですか、とソキが言い終わるより早く、戻って来た妖精がばしばしと頬を叩いてくる。その表情が麗しい微笑みであったので、ソキはぐずっと鼻を鳴らしながら、てちてちと談話室を歩き出した。『扉』へ向かって。
ナリアンとメーシャが、駆け戻って来た時。そこにソキの姿はなく。倒れ伏す者たちに、ふたりは顔面を蒼白にして国々へ飛んだ。星降へ、花舞へ、楽音へ、白雪へ。二人は砂漠と『学園』の異変を知らせ、助けを求め、ソキを探した。けれども、どこの国にもソキはおらず。待っても、待っても、姿を見せることはなく。
消息を辿ることは、できなかった。