呼び止める声に耳を貸さずに。ナリアンとメーシャは『扉』から『扉』へ次々と移動し、王宮へ、国境へと飛んで歩いた。廊下を走り回り、行き交う人々に懇願するように声をかけて回る。ソキちゃんを見ませんでしたか、これくらいの背丈の、ちょっとたどたどしく歩く、金糸の髪に赤いリボンをした女の子なんです。どこかにいる筈なんです。どこかに。
迷子を捜している、と思われたのだろう。顔を曇らせて案内所の場所を教えてくれる者もあれば、見かけたら保護するから連絡先を、と申し出る者もあった。国境に常駐する魔術師たちは一様に顔を曇らせ、首を振った。いない、見ていない、会っていない。否定の言葉ばかりが降り積もる。ナリちゃん。メーシャ。落ち着いて、立ち止まって、息をして。お願い。懇願する妖精の声は遠かった。
泣きたい、という気持ちと、泣くものか、という想いが胸の中で渦を巻く。叫びだしたい、声にならない。どうして、なんで、どこへ行ったの。求める感情は背を押す強い力になり続け、走り回る足をどうしても止められなかった。大丈夫よ、みんな探してくれているわ。見つかる、すぐに知らせが来る。じゃあ、なんで、今いないの。どこにも、誰も、みていないの。
どこの国の、王宮なのかも、国境の砦なのかも分からない。廊下を駆け抜けて『扉』に手をかける。次で最後にしよう、メーシャ。休んでナリちゃん、お願い。幾度目かも分からない囁きに頷く。頷いて、『扉』へ魔力を流し込んで踏み込んだ。瞬きより長い空白と、僅かな眩暈。独特の感覚が、世界の異なる場所へ体を運んだことを教えてくれる。
とん、と床に足を下ろして、ふたりは駆け出そうとした。その足を。潜んでいた魔術師が、全力で引っ掛けて転ばせる。
「ていやーっ!」
あまりに突然で受身が取れない。目をぎゅっと閉じてそのまま倒れこんだふたりの体は、しかし床に荒々しく打ち付けられることはなかった。ぼすっ、もすっ、と音を立てて、一面に敷き詰められたクッションが、ナリアンとメーシャを受け止める。驚いて硬直するふたりの頭上を、あーっはははははっ、と振り切った高笑いが通過していった。
「ほーら言ったでしょ? 待ってれば来るって! さあ捕まえたわよふたりとも!」
『ルルクちゃん……!』
「全く! せめて案内妖精の言うことくらいは聞いてあげなさい! ほら、見て! 泣きそうじゃないの。このいたずらっ子ども! さーあ捕まえた捕まえたっ。手厚く保護されて甘やかされなさいよーしよしよしよく頑張りました!」
クッションの海をものともせずに歩み寄り、ルルクは倒れたまま立ち上がらない二人の頭を、わしゃわしゃと乱暴に撫でて行く。それからぱんぱんっと両手を打ち合わせれば、それを合図にわっと駆け寄ってきたのは花舞の王宮魔術師たちだった。誰も彼もが涙ぐみ、もーいろんな所から連絡来てるよしょうがないなー、と口にして、二人のことを立ち上がらせる。
「探す探す、最優先で探すって言ったのに。ぜーんぜん話聞いてないんだから!」
「まあなー、ロリエスもストルも倒れたんだろ? 目の前で。で、『学園』戻ったらやっぱり倒れてるわ、ソキちゃんいないわだろ? 不安になるよ無理だよなー。でも走り回って疲れたろ? ちょっと冷静になったろ?」
「なんとかするから、任せなさい!」
両腕を捕まれ二人がかりでずるずるひっぱって歩かされながら、ナリアンとメーシャは騒がしい花舞の王宮魔術師たちに、怒られ宥められ叱られて、気まずく視線を交し合った。ふたりはそのままぽいと臨時治療室の札がかかげられた一室に投げ込まれ、白魔術師たちの細々とした検診を受け、改めて状況を尋ねられ、気がつけば食堂の一角でよく焼けたパンを口にしていた。
ちいさく切られた根野菜葉野菜が浮かぶコンソメスープ。籠に山と盛られた焼きたてのパン。薫り高いバターに、ごろごろと果実がはいった苺のジャム、ブルーベリー、数種類の柑橘が混ざり合ったマーマレード。厨房から走ってきた魔術師が、肉ーっ、と叫びながら大皿を机に置いた。分厚いベーコンとソーセージが、とにかく山と積まれている。
それを殆ど無意識に手元の皿にとり、口に運んで飲み込んで、ナリアンはえっと声をあげた。
「俺なんでご飯食べてるの……っ?」
「食べられる時に食べておいた方がいいぞー。動いても吐かない程度にな!」
あとお前らそれが終わったらお弁当作りな、と言い渡されて、メーシャが困惑しかない表情で首を傾げる。
「なにが……どうなっているのか、教えて頂いても?」
『メーシャもナリアンも、特に異常なし。だから『学園』の調査部隊に同行することになった。今は、その前準備』
王宮魔術師の代わりに説明を受け取ったルノンは、角砂糖の小瓶の横に座り込んでいた。思わず見つめてしまうと、ルノンはひたすら砂糖をかじり、飲み込んで、また次のひとつを手にとって、という動作を繰り返している。ニーアも同様だった。ひょい、ぱく、ごくん、ひょい、ぱく、ごくん、という動作しかしていない。
えっと、と困惑するナリアンとメーシャに、魔術師が苦笑しながら口を開いた。
「悪いけど、動ける魔術師の数がすくない。在学生には見せたい光景じゃないけど……。ごめんな、耐えてくれ。……詳しい説明を預けても?」
『任せて!』
満面の笑みで請け負ったニーアは、それから角砂糖を六個口に運んだ。こくこくとミルクピッチャーに入った蜂蜜を飲み干して、花妖精はようやく人心地ついたのだろう。あのねナリちゃん、と柔らかな笑みで立ち上がった。ニーアが語った所によると、ナリアンとメーシャの意識がやや飛んでいるのは、緊張と疲労に加え、やはり魔力に乱れがあったせいであるという。
魔力はとにかく繊細なものだ。感情や精神の揺れに敏感で、師や級友が目の前で倒れ、ソキが行方不明であるのに安定していたらそちらの方が怖かった。そうであるから状態に異変はなく、心身ともに健康。時間が落ち着きを運んでくるのを待つしかないので、出来れば安静にしていて欲しいが、とにかく魔術師の手が足りないのだという。
砂漠に調査へ出向いていたものは、ある一定の分野に精通したものであれど、各国の一流揃いである。三日間の短期決戦調査であるから叶った顔ぶれが、全員戻らない以上、王の護衛や各国の調整を踏まえ、動ける者は全員動くことが決定された。ナリアンとメーシャが各国を、ソキを探してさ迷っている間に、である。
ルルクがぎこちなく体を動かしながら、星降に現れたのもその頃であったらしい。魔術師の守護星を今年は四つ持つルルクは、白魔法使いの凶行に巻き込まれたものの自力で回復し、状態を報告しに動いたのだ。守護星が四つということは、防御力と回復力が四倍ってことよ意識保てなかったけど、と胸を張ったルルクは、後輩二人が混乱しきっている話を聞き、捕獲を申し出たのだという。
大丈夫、そんなに走り回れるなら、誰かを助けにだって行ける筈。止める王宮魔術師をその一言で黙らせ、ルルクは花舞に移動して後輩たちを待っていたのだ。万一二人に異変があった時、最も保護に良い国が花舞だからである。ロリエスが不在の、白魔術師の多い国だ。王宮魔術師はたった二人を女王の傍に残して、全員が『学園』へ向かうのだという。
思わず、ナリアンは口を挟んだ。
「砂漠へは……? だって先生たちは、まだ」
「二手に分れられる人数がいないの」
答えたのはルルクだった。普段から突き抜けた元気で、ナリアンたちを転ばせた時も確かになにもかも振り切って笑っていた学び舎の先輩は、ようやく疲れを思い出したかのように目を擦っている。短めの栗色の髪は艶を失い、狐色の目は悪戯っぽい光を灯しながらも眠たげだ。
ルルクが椅子に座り、温かなミルクティーを一口飲み込んで息を吐くまでじっと待ってから、ナリアンはあの、と声をかける。どう問いかければいいのか分からず、言葉はそれ以上続かない。それでもルルクは微笑して、うん、と頷いてくれた。分かっているよ、大丈夫。ナリアンが入学してこの方、一番落ち着いて穏やかであるのではと思ってしまう、ルルクの柔らかな声。
「それでもね、まずは『学園』なの。なんでかっていうと、そこにまだ……推定犯人から実行犯の間くらいの白魔法使いが倒れてるし、砂漠の物理最高戦力ラティもいるし、なにより卒業資格のない魔術師のたまごっていうのは、外に出た王宮魔術師と比べて耐性に乏しい。だから、はやく助けに行ってあげないと……最悪、後遺症が残る可能性が非常に高いし、高くなる。不安なら言っておくけど、死なない。死にはしないけど、ちょっと、生きていくのがキツいことになるかも知れない。だから優先される」
砂漠の状態はあなたたちが話してくれたおかげで、私も聞いた、と。ルルクは後輩たちの視線をまっすぐに受け止め、それを見つめ返しながら言葉を紡ぐ。
「それでも、砂漠にいる魔術師は相応の対処ができる。私たちは今はそれを、幸運な猶予だと思って動くしかない。……それにね」
「それに?」
「……首謀者がいる本拠地に、今の状態でのこのこ出かけていったら全滅する」
言葉を失うふたりに、ルルクは華やかに微笑んでみせた。
「それを食べたら、花舞の魔術師たちにどうすればいいのか聞きに行くといいわ。『学園』でなにが起こったか……誰が、なにを、起こしたのか。教えてくれる筈だから」
その上で、したいこと、するべきと思うことがあれば言うといい。はい、と苦しく返事をする後輩たちに、ルルクはルノンから角砂糖を分けてもらいながら大丈夫、と告げた。己に言い聞かせているのでは、なく。心からそうと思い、信じぬいた者の強い響きで。
なにか、大切なものが失われた。
そのあまりの喪失感に、リトリアは足元をふらつかせてしまう。語り続けた言葉で乾いた喉が、ひとつ、ふたつ、咳を吐き出した。胸を両手で押さえて涙ぐむリトリアの体を、ツフィアの手がしっかりと支える。失われたものの正体を、ツフィアは知っているようだった。それなのに振り返って見たツフィアの顔は穏やかで、安堵し、喜んでいるように見えた。
思わず。ぷ、と頬を膨らませたリトリアに、ツフィアはくすくすと喉を震わせて笑う。
「そんな顔をするものではないわ、リトリア。……まだ王の御前でしょう。しっかりなさい」
「もう、もう……! だから、私は早くねって言ったのに! ツフィアのおはなし、聞いてって……!」
喪失感と、苛立ちと。異常事態への焦りと恐怖が入り混じって、リトリアの怒りは王たちへ向けられる。長方形の机の向こうに座った四カ国の王たちは、それぞれに頭を抱えて沈黙している最中で、リトリアの文句が届いているかも定かではない。もう、もうっ、と怒りながら、リトリアはぷうーっと頬を膨らませてツフィアを睨む。
うん、とおかしげに微笑むツフィアの手が、ふくれたリトリアの頬を撫でる。くすぐったい。や、と身をよじるとなぜかさらにくすぐられた。遊ばれている。
「もう、やっ、ツフィアったら遊ばないで! ……や、やぁっ、くすぐっちゃだめ!」
「機嫌は直った? 八つ当たりしてはいけないわよ」
「なおった、なおったのっ! でも八つ当たりじゃないの! ツフィアのお話を聞いてくれてたら、こんなことになる前に止められたかも知れないのに……!」
すくなくとも、対策を取ることができた筈だ。ツフィアが己の武器たるリトリアに『語らせた』のは、言葉魔術師とはなんであるか。今まで、幾度も王たちに問いかけられ、その度に話すことができない、と口を閉ざしていたことだった。ツフィアには話すことができない。言葉魔術師に課せられた、それこそが制約だった。
それは予知魔術師の口を通してのみ語られる。言葉魔術師の『武器』として、対として必ず現れる予知魔術師あってこそ、告げられる。なんであるか、なにができるか、どういうことなのか。けれどもそれにも条件があった。予知魔術師の成熟を待たなければいけない。それは精神的な成熟であり、肉体的な成長であり、魔術的な安定だった。
リトリアには、なにもかもが足りなかったのだ。シークがソキを誘拐して、ツフィアにそれが求められた時。リトリアはまだあまりに幼かった。条件を満たさぬままにツフィアがリトリアの口を借りれば、永遠の支配が刻まれる。予知魔術師は言葉魔術師の武器そのものとなり、その自我はあまりに希薄なものとなり、また。酔う、のだという。
支配に対する反発を消す為か、その他の理由があるのかは分からない。まるで酔ったように、機嫌よく。予知魔術師は言葉魔術師に支配されきる。そのことを受け入れる。喜びと感じ、そして役に立とうとする。使われたがるようになる。武器として。個人としての我は薄く、武器として重用されたがるようになる。条件を満たさなければ。未熟なまま、その口を借りれば。
ツフィアは待ち続けた。捕らえられることが決まってなお。再会し、リトリアの成長がまるで見られず、ソキやロゼアに刻まれたシークの印を確認し、焦りと苛立ちを募らせながら。待って、待って、そして。先日、ようやく認めたのだ、という。リトリアの成長を。これならば武器として使われたがる、予知魔術師の本能めいた誘惑に従うことなく。語りきることができると。
言葉は一歩間に合わなかった。警告をすることも、シークのやり口を暴くことも叶わず、この日が来てしまった。数多の衝撃からやや立ち直り、白雪の女王は、額に手を押し当てながらも顔をあげる。
「確認するけど……」
ナリアンとメーシャが星降へ、花舞へ、楽音へ、白雪へ。異変を知らせて一時間あまり。耳にした瞬間に王たちになにもかもを置いて集合、かつリトリアとツフィアの召喚を命じた女王は、ひとの耳へまっすぐに届く、きよらかな声で問いかけた。
「言葉魔術師は、人々や……魔術師を、操る術を持つ。合ってる?」
「はい。間違ってはいません」
「うん。詳しいことはまた今度聞かせてね。ええと、じゃあ、それで……それでね」
おおまかに間違った結論に達していなければ、今は修正しなくていい、と言いおいて。白雪の女王は苛立ちを押さえ込んだが故に凪いだ瞳で、ツフィアとリトリアに微笑んだ。
「貴方達の意見で構わないのだけれど。報告には、フィオーレとロゼアくんが操られた……まるで、彼の言葉魔術師そのものであったようだ、とある。それは、このことで間違いない? つまり、言葉魔術師によって操られたものだと思っても?」
「誰がその報告を?」
「ルルク。動けない状態で、意識は僅かにあったそうよ」
そうなる前の状況から考えて、砂漠をなぎ倒して『学園』を制圧したのはフィオーレで間違いないんでしょうけれど、と女王はため息混じりに呟いた。ツフィアは実際に見ていませんが、と前置きした上で、はきと響く声で肯定した。
「まず、間違いはありません」
「ありがとう。あと……疑ってるんじゃないから、気を悪くしないで答えてね。あなたにも同じことはできる?」
「……いますぐ、でなければ」
即答にならなかったのは、ツフィアはそんなことしませんっ、と怒り出しそうな気配を察し、リトリアの口を塞ぐのに手間取った為である。ぷうう、と膨らまされる頬に苦笑しながらくすぐると、リトリアはだめだめっ、と甘い笑い声でむずがった。短気は大人とは違うのではないかしら、と囁くと、リトリアの動きがぴたりと止まる。
瞬きをして。よそ行きの顔で姿勢を正したリトリアに笑いながら、ツフィアはなぜか優しい目をしている王たちへ向き直った。
「準備が必要です。突然、やれ、と言われて出来ることではありません。……なにか?」
「よかったね、ツフィア」
慈しみ溢れるまなざしで星降の王に囁かれ、ツフィアは訝しく頷いた。なにがよかったのか分からないが、否定をするとめんどくさいことになりそうだからだ。星降の王はうんうん、と何度か頷き、ほんわー、とした笑顔でよかったねえ、と繰り返す。
「リトリアに避けられて落ち込んでたもんね」
「手紙も来ないって気落ちしていましたからね……」
「……終わりなのでしたら退室させて頂いても?」
え、えっ、と王とツフィアを見比べて頬を赤らめて喜ぶリトリアは愛らしい。愛らしいのだが。知って欲しくないことを次々暴露される、嫌な予感しかしなかった。さ、帰りましょう、とリトリアを伴って退室しかけるツフィアに、ちょっと待って、とあわてた白雪の女王の声が響く。
「私が知りたかったのは、同じことが出来る場合に、同時にそれを仕掛けて傀儡にするのを防衛するなりなんなりが、可能かどうかっていうことなんだけど……!」
「……可能か不可能か、でしたら。不可能ではありませんが、恐らくその魔術師……ただびとであれば、確実に。精神が壊れて廃人になります」
「やめよう。それは駄目だ」
即決した白雪の女王は、先ほどツフィアをからかった王たちに、いいからしばらく黙っていなさいと視線を投げかけた。思考をまとめる為に動き回る瞳が、空席を認めて悔しげに細まる。砂漠の王。その空白をかみ締めるように瞬きをして、白雪の女王は幾度か、組んだ手を組み替えた。
「……操られない為に、できることはあるの? 呪いみたいに、解除できるもの?」
「印をつけた相手。この場合はシークですが、彼がその印の抹消に同意すれば」
「同意がない場合は殺せばいいのかな?」
ぞっとするような声で、表面だけは穏やかに問いかけたのは花舞の女王だった。黙ってて欲しかった、と白雪の女王が遠い目で口を噤む。いいえ、と慎重に、ツフィアは息を吸い込んだ。王たちは誰もが恐慌に怒り、焦り、苦しんでいたが、感情を抑え込んで冷静であることを自らに課していた。それでも。触れる怒りの激しさに、眩暈がする。
「印は……相手を意のままに操るもの、として使われますが、元来は意思を託すものでした。遠方にいる同胞へ、間違いなく意思を……命令を伝え、例えその体動かなくとも操り人形のように『動かす』ことが必要な時、必ずそれを成す為の。印は、刻めば刻む程に結びつきを強くします。幾度もなぞられた言葉が、濃く深く紙面に染み込んで行くように……」
死地に踏み込んでしまった仲間を。自力では体を動かせぬ程に痛めつけられてしまった同胞を。助け出す最後の手段、祈りとして、使われたこともあった術だ。唇に力をこめて、ツフィアは震えと感情を押し隠した。
「言葉魔術師は死してなお、その意思を印へ移すことができます」
「……つまり?」
「その印を基盤にして、意思をなにもかも、己へと書き換える。……書き換えるのです、陛下。操る、のでは、なく」
印をつけるのは、お守りを持たせるのとおなじこと。万一の備え。祝福として使われていたことも、確かにあったのに。いまやそれは、他人の体に乗り換える禁忌の術の、前準備だ。花舞の女王は目を伏せ、深く息を吐き出した。
「それが……言葉魔術師は殺してはならない、という言葉の意味なんだね?」
「はい」
侵食の度合いにもよるが、今の状態でシークを殺せば、確実に誰かが乗っ取られる筈だ。そしてそうなった場合、元通りにする術はない。声にならないうめき声をあげて、白雪の女王が頭を抱え、机に突っ伏した。
「それって絶対そうなるの……?」
「本人に明確な意思がない場合は、普通に死んで終わりでしょうが」
「印を消す方法は、術者本人の同意しかないの? 絶対?」
リトリアが口を開きかけるのを、ツフィアは視線ひとつでやめさせた。ん、と分かりやすく口を両手で押さえられたので、当然のごとく、王の視線はツフィアに集中する。その視線が温かく優しく生ぬるかったので、ツフィアは心から息を吐き出した。甘やかしではないと言ってやりたいが、王たちへの敬意がそれを阻み、ため息に変換する。
「……リトリアには、私の印を消すことしかできません」
「ソキならできるのね?」
「彼女が。魔術師として成長していく、魔力の水器がある魔術師であれば、可能だったでしょう」
リトリアが瞬きをして、首を傾げた。それはつまり。
「……できないの?」
「信頼関係の成り立つ言葉魔術師と予知魔術師であれば、可能なことなのよ。あなたは私の『武器』。『武器』は魔術師を助け、魔術師は『武器』に助けられる。私はあなたを『武器』として使うことができるし、同時に」
あなたが明確な意思を持って魔術を紡げば、予知魔術師として。言葉魔術師を『動かす』ことが叶うのだと。それは本来の仕組みを逆流させる行為だ。互いに、己以外の存在を受け入れる、確固とした信頼があって初めて可能なことである。いまひとつ分からない顔でおろおろするリトリアに、ツフィアは微笑んで、言葉を噛み砕いてやった。
「砂時計は上から下に砂が落ちるでしょう?」
「う、うん。落ちる。わかる」
怒られた顔をしてこくこく、必死に頷くリトリアに、ツフィアは笑いをこらえながら囁きかけた。
「私は砂時計をひっくり返すだけで砂を落とせるけど、あなたがそれをしようとしたなら、砂時計がひっくりかえさないように魔術で固定して、砂が下から上に逆流するようにも魔術をかけないといけないし、無理な衝撃で硝子が砕けてしまうかも知れない。そういうことよ」
やって出来ないことではないが、手間隙かかるし危険も大きい。そういうことだった。わ、わかった、わかったの、とまた必死に頷くリトリアに、ツフィアは微笑して言った。
「そう。分かったの? 分かったのね?」
「うん!」
「じゃあ私に説明してみせて。分かったのでしょう?」
えっ、と言ってリトリアが固まった。え、えっ、とおろおろ視線をさ迷わせるのを見る分に、理解しきっていないのにわかった、という悪癖は改善されないままでいるらしい。今にもお説教を始めそうなツフィアをいったん止める為、白雪の女王はあえて挙手しながら言った。
「乱暴な解釈かも知れないけど。ソキの場合は、砂時計の硝子が砕けているからできない。そういう風に考えてもいい?」
「はい」
「うー……ん……。ああもうなー、とりあえずこれは……後回しにしよう……。時が解決してくれることもあるからそうなるといいなー、と信じて……!」
よし会議終了っ、と八割方やけになった叫びで立ち上がり、白雪の女王は花舞の女王の背をぐいぐい押して一緒に歩きながら、リトリアとツフィアに目を向けた。
「じゃあ、ありがとうね二人とも! この後はゆっくりしていてねと言いたい所なんだけど、『学園』調査部隊に同行して私のために馬車馬みたいに働いてくれるといいんじゃないかなっ?」
「……全然分からなかったけど、君は君で動揺しているんだな、ということが今分かったよ」
「えっそんなことないよ……?」
首を傾げる白雪の女王に、花舞の女王が残念な顔をして首を振る。王たちが騒がしくいなくなってしまうと、部屋はしんとした静寂に包まれた。それでも城のどこかが、落ち着きなくざわめいているのを感じる。息を吐いて部屋を出ながら、ツフィアはととと、と何処かへ行こうとするリトリアの手を、しっかりと握り締めた。
迷子防止の為であり。うやむやになりかけている説明を、合流前にさせる為だった。
ナリアンとメーシャが妖精を伴い、王宮魔術師たちと共に『学園』へ駆け戻ったのはもう日が暮れた後だった。夕闇に染まる暗がりの建物を、魔術師の生み出した光源が次々と明るく照らし出していく。常なら建物を整備する専門の者が、灯りを入れたり訪問者を出迎えてくれるのだが、なにもかもがしんと静まり返っている。深夜より、時が深く沈んでいる。
とりあえず踏み込んでもこれ以上の魔術的な異変がないと知るや、王宮魔術師たちは『学園』中へ散らばった。ある者は教員棟へ、ある者は授業棟へ、図書館へ、それらを繋ぐ森の小道へ。妖精の花園へ向かい、状況を確認し可能なら助力を頼みに行く者を見送って、ナリアンとメーシャが向かったのは談話室だった。
良いと言われてから動きなさい、と先発部隊が言い残していったから、そこはすでに明るく、ざわめきのある、色と温度を取り戻した場所だった。倒れる魔術師のたまごたちを、次々と白魔術師が抱き起していく。机と椅子は可能な限り端に寄せられていた。どこから運んできたのか柔らかな絨毯が引かれ、その上に次々と運び込まれている。
動かすと危険な状態は脱したので、あとは適切な回復をして、目覚めを待つらしい。めまぐるしく魔術師たちが行き交い、会話が飛び回り、状況が変化していく。どうしたら、と気圧されるナリアンの腕を、じゃれつくように誰かが引いた。
「ナリアンさん、こっち!」
「リトリアさん……?」
「え? ……あ! あの、あの、その……ナリアンさん、こんばんは」
ぱっと手を離してもじもじとはにかみ、リトリアは照れくさそうに微笑んだ。メーシャさんにもこんばんは、とぴょこりと頭を下げたリトリアは、ふたりの視線を柔らかく受け止めるように頷いた。
「あのね、ロゼアくんはちょっと特別に、こっちにいるの。それでね、寮長がナリアンくんの顔をみたい、というから。よかったら、こっちへどうぞ。メーシャさんも」
「寮長、もう、目を覚まされてるんですか……?」
「うん。……え、あ、う、うぅ……あの、はい。はい、です。聞かなかったことにしてね……」
頬を両手で挟んでひとしきり恥ずかしがり、反省をして、リトリアは深呼吸をする。それからぎゅっと目を閉じて気合を入れ、リトリアはナリアンの両手を持って微笑んだ。
「あの……ツフィアにはとびきり内緒にしてね。お願いね」
「う、うん……分かりました」
「ありがとう! メーシャさん、お願いね。内緒、内緒にしてね。ね」
ぎゅっと手を握って頼み込まれて、メーシャはやんわりと微笑んだ。
「リトリアさん、ソキに似てきました……?」
「え? え、え? そう、かな……。あ、それでね、こっち。こっちの部屋です。案内しますね」
リトリアに連れられて行ったのは、保健室だった。いくつかある寝台に眠っていたのは、顔見知りばかりである。ロゼア、フィオーレ、ラティ、シル。保健医はまだ意識が戻らない様子で、ゆったりとしたソファに横たえられている。白魔術師が何人かと、火の魔法使い、そしてツフィアが彼らを見守っている。
唯一目を覚まし、体を起こしているのは寮長だった。思わず駆け寄ったナリアンに、寮長は苦笑して手を伸ばしてくる。
「よう、ナリアン。無事だったとは聞いたが、元気そうでなによりだ。……いやそこで避けるなよ撫でさせろよ」
「寝なくていいんですか」
「病気じゃないからな。体が上手く動かないだけで……時間が経てばなんとかなるだろ」
執拗に構おうとしてくる寮長を避けながら、ナリアンは傍を離れようとしていない。くすくす笑って見守ってから、メーシャはロゼアの近くへ歩み寄った。一緒の枕には、シディの姿もある。ぐったりとして、動かないさまが痛々しい。固い表情で見守っているレディに、恐る恐る、メーシャは問いかけた。
「ロゼア、どうなんですか……?」
「……明日には一度目を覚ますと思うけど」
視線を動かして、火の魔法使いはフィオーレを見た。眠る白魔法使いは、他の者と比べて悪夢を見ているように表情が苦しげだ。首謀者だからではなく、ソキの呪いの影響であるという。
「眠らせておいた方がいいかも知れないって話していた所よ。友人として、意見はある?」
「どうしてですか? ロゼア、なにか……?」
「理由……理由はいくつかあるんだけど、そうね……」
迷うように腕を組み、レディはまたしばらく、ロゼアを見つめてから口を開いた。言葉を選び。与える情報を、選んでいるようだった。
「ソキさまが行方不明と聞いたわ。ロゼアさんどうされると思う?」
「探しに行くと思います」
「そうよね……」
まだ見つからないの、とレディが問いかけたのはリトリアとツフィアだった。フィオーレの頬をつむつむ指先でつついていたリトリアは、きゃぁ、と叫んで両手をあげる。室内の注目を一身にあびてそろそろを手を下ろし、リトリアはそっと、ツフィアの背に身を押し込めて言った。
「まだ、なの……。探してはいるんだけど……。今、予知魔術使って探していいか、許可を待ってる所だから。もうすこし時間をください」
「リトリア。フィオーレを突くのはやめなさい、と言ったでしょう」
「おしおきしてたの。……や、やっ、なんでくすぐるのぉ……!」
反省を促しつついちゃつくのやめなさいよ、と心の底から思っている眼差しでリトリアとツフィアを眺め、レディが灰色の息を吐く。ともかく、そういうことだから、と火の魔法使いは疲れた様子で呟いた。
「ソキさまの安全が確認できるまで、ロゼアさんを起こすのはやめておいた方がいいと思うのよね……幸い、ルルクの言う所によると、妖精が解除しない限り呪いによって目を覚まさない筈だから、大丈夫だとは思うんだけど……」
「……談話室で、いったいなにがあったんですか?」
ナリアンも、メーシャも、詳しいことは聞けないままである。王宮魔術師たちがあまりに忙しく動き回っていた為で、唯一意識があったというルルクも、語る時間を持つことができなかった為だ。レディは眉を寄せて沈黙し、ぽつりと、分からないのよ、と言った。
「ルルクも、最初から最後までずっと意識があった訳じゃないし、顔を向けて目で見られた訳でもなくて……途切れ途切れに会話が聞こえたくらいなの。だから、本当になにが起きたか、最初から最後まで分かるとしたら……ソキさま、ロゼアさん、ソキさまの案内妖精とロゼアさんの案内妖精、だけなんだけど……」
その半分が行方不明で、半分が未だ昏倒中である。どうしたものか、と考えるレディに、メーシャの肩からルノンが飛び降りた。ルノンはナリアンにひっついていたニーアも呼び、まっすぐな目でレディに笑う。
『そういうことなら。シディの回復、手伝うよ。……ただ、無理はさせないでくれるか?』
「ええ、もちろん。約束します」
『ありがとう。任せて』
さあメーシャも、いつまでもそんな不安な顔をしてないで。笑って待っていて。大丈夫だから、と告げるルノンに泣き笑いで頷いて、メーシャは祈るように手を組み合わせた。震えるような意思で、考える。いま、なにができるだろう。友の為に、師の為に、同胞の為に。また、己と、誰かの為に。なにができるだろう。どんなことなら。
眠るロゼアの元へ。走って飛び込んで、笑いあったのは、今日の朝の筈なのに。ひどく遠い、過去のように思えた。夜の空には、もう星が輝き始めている。
あんまり慌てて歩いたせいで、『扉』をくぐって出た場所で、ソキはしばらく動けなくなってしまった。はふ、はふ、うぅ、と息をするだけで精一杯で、くらくらした眩暈と戦う。妖精はソキの頭の上に着地して、無言で落ち着くのを待ってやった。どれだけ運動不足だこの貧弱、と思いながらあたりを見回す。
そして、思い切り眉を寄せた。
『……どこよ、ここ』
「う? う、うぅ……。……あれ? あれ、あれ? リボンちゃん? ソキ、どこへ来たです?」
『アタシも今聞いたでしょうが……!』
きょろ、きょろ、と見回した場所は、『扉』のある廊下の端ではなかった。古い本棚ばかりが置かれた、一室のただなかである。あれ、と背後を振り返っても、出てきた『扉』も見つからない。あ、あれ、あれ、ともう一度室内を見回して、薄暗さにじんわりと涙を浮かべかけ。唐突に、あ、と言ってソキはそれに気が付いた。
「あ! ぶきこです! 武器庫、ですよ。リボンちゃん」
『武器庫……? って、魔術師が武器を取りに行くっていう……?』
なんでそんな所に、と聞かれても、ソキには分からなかった。『学園』には確かにそこへ繋がる『扉』があるが、ソキがくぐったのは星降へ続くそれである。ソキがひとりでちょこちょこ歩いて行ったならともかく、先導したのは妖精である。間違える筈もなかった。
うぅん、と考えながら、ソキは室内を見回した。小規模な図書室や研究室を思わせる一室である。窓辺には書き物机と、椅子。まだ火のともる灯りが置かれているばかりで、誰の姿も見つけられない。誰かがそこに座って。誰かがそこに、一緒にいて。いつもソキを出迎えてくれた筈なのに。いなくなってしまったのだろうか、とかなしく思う。
とりあえずあの灯篭を頂きましょうか、と促す妖精に頷いて、ソキはてちてちと机に近寄った。うんしょ、と背伸びをして灯篭に手を伸ばすと、その前に置かれた一冊の本に気が付く。赤褐色に染められた帆布に覆われた、一冊の本。『本』だ。予知魔術師の武器たる、『本』だった。鼓動が跳ねた。
震えるような気持ちで、それに手を伸ばす。表紙にそっと、指先を触れさせる。
誰かに、呼ばれた気がして。ソキはそっと目を開いた。
広がっていたのは、見覚えのある室内だった。薄暗い、古めかしい書庫室ではなく。壁も床も白で統一された、広々とした一室。『花嫁』の区画。その、ソキの寝室だった。体を柔らかく抱きとめる寝台の上に、ソキはいままで眠っていたのだった。え、え、と混乱して、ソキは目をぱちくりさせる。ん、と声がしてやわらかな影がおりる。
「おきたの、ソキ?」
「ロゼアちゃん。ソキ……あの、ソキ」
ん、とまだあどけなさを残した顔で、ロゼアが笑う。なぁに、俺のかわいい『花嫁』さん。伸びてきた指先に髪を整えられ、抱き上げられようとした時。もう一度声が響く。え、と顔を向けた先にあったのは金色のひかりだった。その名を、ソキは知っていた。混乱して手を伸ばすソキの指の先で、ひかりはやがて妖精のかたちを成した。
リボンちゃん。思わず口をついて呼びそうになる『ソキ』の視線の先で、妖精は穏やかに、優しく。やんわりと微笑んで、ソキに囁いた。
『こんにちは、ソキ。わたしは、あなたの案内妖精。あなたは、これからわたしと一緒に……旅を、するの』
それが、はじめて。ソキが魔術師として、世界に呼び覚まされた日。妖精との出会いの日。繰り返されてきた数多の世界のはじまりの日のことだった。
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