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 妖精が住まう森と花園の中心には、まろやかな円を描く平原が広がっている。大部分の花妖精の住まいである平原には、ありとあらゆる花が咲き乱れていた。人の世の四季があるようで、ひどく曖昧な場所だった。それでも風に揺れる花の香りは夏の終わりと、秋の始まりを告げて、どこか涼しげに空気を染めている。
 その、ひとつ。ほんのりと淡く朱に色づく、やや大振りな白い花が揺らされる。いつまで眠っているんですか、と心配交じりの声に、妖精はちいさくあくびをしながら身を起こした。朝日、とするには天の上まで昇りすぎている太陽がまぶしく目を焼く。きゅっとまぶたに力をこめて目を擦ろうとすれば、間近から響くため息がひとつ。
 擦らない、とやんわり叱られ手首を捕まれて、妖精はねぼけまなこで瞬きをした。
『だって……昨日の、おそくに、戻ってきたのだもの』
『だからと言って、眠りすぎでしょう。花はもう開いているのに。……それとも、どこか痛くしましたか?』
 君たち花妖精は弱くできているから、と不安がる声に、妖精はもう一度あくびをして来訪者を見た。少年の姿をした、鉱石妖精である。森で蜂に襲われていたのを助けられて以来、なにかと世話を焼きにくる、生真面目な性格の妖精だった。
 大丈夫よ、と呟きをまったく信頼していない目に、妖精は居心地が悪く羽根を動かした。
『ずっと気を張っていただけ。あのこが熱を出すから……』
『熱を? ……まさか、看病していたんですか?』
『違うわ。心配で傍にいただけ。……ようやく熱が引いて落ち着いたから、私もこちらへ戻ってきたの』
 ソキの看病をしたのは、主にロゼア、そして世話役の人々である。妖精が入る余地はない。魔術的な不調であれば助けられただろうが、恐らくはリボンが失われそうになったことに相当びっくりして、不安で、それが原因でソキは熱を出したのだった。祭りから帰った夜にはもうだるそうに咳をして、次の日からは伏せってしまった。
 それを置いてかえるのもどうにも忍びなく。妖精は数日間、寝込むソキの傍にいてやったのだった。浅い眠りを繰り返し、起きてはリボンが結ばれていることを確かめ、うとうととしてまた夢に落ちる。その繰り返し。時折、花籠でじっとしている妖精を見つけては、緊張しきった瞳は綻んだ。かたく結ばれた蕾が、やんわりと緩むように。
 安心して、嬉しくて、やわやわと瞬きをして。ありがとうです、と言って幼子は眠りにつく。ソキを見守る他に妖精ができることもなかったのだが、いつもなら嫌がる薬を素直に飲んでくれる、とロゼアがたいそう有り難がっていた。妖精さんとお話するです、と求められるのに、元気になったらね、と言ったのが良かったらしい。
 それでも、熱が引くまで数日かかり。そこからさらに、ソキが妖精が帰るのを受け入れるまで二日かかった。元気になったからお礼をするです、おはなしもするです、と寝台に転がりながら、ソキはきらきら輝く目で妖精をじっと見つめ、帰ってしまうのを惜しがった。
 ここで暮らせばいいです、ソキはちゃぁんとお砂糖も、お茶もお水も、はちみつだってご用意するです。ねえねえ、どうしてだめなの、ねえねえなんで、ねえねえ、とぐずるのを説得して、落ち着かせて、なんとか来月またくるから、と約束して、飛び立つ為の二日間だった。
 だから、すこしくらいは寝ていたってかまわないでしょう、と。目をこすり、あくびをする妖精に、溜息がひとつ。
『まったく……我侭に付き合って、君が疲れてどうするんですか。案内妖精が、担当した魔術師を可愛がる気持ちは僕にも分かります。でも、甘やかすばかりではなく、時には叱りもしなければ。僕らは魔術師を可愛がるのが役目ではないんですよ。導くこと。それが、案内妖精のお役目なのですから』
『分かってるわよ。……生真面目なんだから』
『聞こえましたけど』
 にっこり笑われて、妖精はさっと空へ飛び立った。お説教が長引きそうだったからである。しかしすぐ、やんわりと腕を捕らえられてしまう。花妖精は種族の中でもっとも軽やかに飛ぶが、鉱石妖精は鋭く、時に矢のように空を切る。不意をつかなければ逃げられないことは分かっていた。
 まったくあなたはすぐそうやっていなくなろうとして、と文句を言われるのに唇を尖らせ、妖精はつかまれた腕を振ってみた。しかし右に左に動かしても、なぜか手を離してもらえない。分かっているだろうに、どうしたんですか、と微笑まれ、妖精はむっとしながら訴えた。
『離して。ついてこないで。わたし、あなたのお説教にお付き合いする気持ちになれないの』
『ひとりで出歩かせるのが心配で。また蜂にたかられますよ』
 森に行くとすぐ襲われるでしょう、とため息をつかれて、妖精は不満げに羽根をぱたつかせた。
『そんなに必ず追いかけられている訳じゃないの。落ち着いて話せば、蜜を分けてくれることだってあるのよ。あの時は……あなたたちが狩りなんてするから、気が立っていたのだと思うし……待って? あなたたちのせいじゃない?』
『彼らに。鉱石妖精と花妖精の見分けがつかない訳がないでしょう。いじめられやすいんですよ、あなた』
 魔術師に言わせれば、妖精の種族は見分けがつかないものだという。しかし花園に住まういきもので、判別がつかない、ということはありえない。魔力の質も、色もまるで違うのだ。分かりやすい見かけに、そう、という特徴が存在しないだけで。指摘にさらに不満げに羽根をぱたつかせると、ほら、と柔らかく苦笑された。
『そこで言い返さないからですよ。言い返しても、やり返しても良いんです。不満があるなら……ほら』
『う、うぅ……』
 花妖精は。怒り、だとか。不満、だとか。そういう感情を持っても、表に出しにくい種族だ、とされている。負の感情がない訳ではない。けれどもそれは、花に降り注ぐ激しい雨や風に似ている。過ぎ去っていくものだ。じっと待っていれば。だから花妖精は、いつも、それを溜め込んでしまう。
 感情を、どう出せばいいのか。ふるまえばいいのか。知らない、訳ではないのだけれど。分からない、と思うのが一番近い。まったく、と吐息と共に苦笑される。
『せめて言い返せるくらいになりましょうね。それが難しいなら、大きな声で誰かに助けを求めるくらいは』
『わたしたちが、助けてもらわなければいけないことって? なに?』
『危ない目に、あったことがないとでも?』
 蜂に襲われていた時だって逃げるばかりだったでしょう、と怒られて、妖精は不満げに羽根を動かした。花妖精の飛翔速度に追いつけるのは、鉱石妖精くらいのものである。それだって短距離の話で、長くなればなるほど、花妖精を捕らえられる者はいない。だから、飛んでいけばいいのだ。相手が追えぬ遠くまで。
 言葉にはせずに不服そうにする妖精の思惑を、理解している顔つきで。だから声に出して怒りなさいと言っているでしょう、と鉱石妖精は告げた。理解するまで、何度でも。それを繰り返し、言い聞かせるつもりのようだった。生真面目、とそれだけなんとか言葉に出して、妖精はもう一度、つかまれた腕を振ってみた。
 にこ、と微笑んだ鉱石妖精が、はいはいと言って手首ではなく、手をつなぎ合わせてくる。ちがうそうじゃない離して、と思っても上手く言葉にできず。妖精はため息をついて、好きにさせてやることにした。



 四季を穏やかに過ごし、一年の巡りを年明けではなく夏至の日を基準にする妖精にとって、一月に一度、というのは慌しい。注意して過ごしていても、定めた日を迎えるまではあっという間の出来事だった。当日の朝になって、出かける準備にもたついたことは認めよう。それでも別に遅刻している訳ではないのに。
 鉱石妖精に手を引かれ、妖精はいまひとつ納得しきれない顔をして、砂漠の王宮を飛んでいた。
『いいですか? ご挨拶はきちんと、陛下にも魔術師の方々にもして行かなくては。その『お屋敷』でしたか? その方々にも。大変よくして頂いているのですから、返礼の品などあってもいいんですよ? 聞いています?』
『……ねえ、あなたはわたしのなんなの……。なんで一緒に来ているの……』
『心配しなくても、僕が一緒に飛ぶのはここまでですよ。王宮魔術師と話をして待っていますから、帰る時には声をかけてください。くれぐれも、ひとりで帰らないように』
 迷子になる、とするような言い草である。わたしがききたいのはそういうことじゃない、という顔をしながらも妖精は諦め気味に頷いて、砂漠の王と魔術師たちに挨拶を済ませた。へぇー、ふーんっ、と言いながらにやにや笑って、よかったねえ、などと言ってくる魔術師の言葉の意味は、聞かないことにした。誤解甚だしい。
 鉱石妖精は特性として、生真面目で頑固で世話焼きである。こう、と決めたらひとの意見は参考程度にしかしてくれない。つまり、どうも保護対象としてみなされてしまったせいで、送り迎えされているだけなのだ。断じてそういう関係ではないし、微笑まれて照れくさくなったのは気のせいで、気の迷いである。
 えっなにどこで出会ったの微に入り細を穿ち根掘り葉掘り聞きたいっ、とはしゃぐ魔術師たちを嫌そうに眺め、花妖精はぷいっと顔を背けて『お屋敷』へ飛んだ。保護者の世話焼きである以上、鉱石妖精が変なことを言う筈もないし、帰る頃には落ち着いているだろう。火のない所に煙は立たない。
 真夏の砂漠に、落ちる影の色は濃い。眩い光を避け、影へ影へとすいすい移動しながら、花妖精は『お屋敷』へたどり着く。背の高い壁に囲まれた建物は、上空から見下ろすと花を模した形をしている。密に絡み合った花弁の。うつくしく開く、花の形。その、一片。ソキが暮らす場所へ、開かれた窓の隙間から入り込む。
 ふわ、と空気が揺れたように感じたのだろう。ん、と不思議そうに視線を向けてくるロゼアの腕の中、うとうとしていたソキがねぼけなまこを向けてくる。ぱちぱちっ、とせわしない瞬き。きゃぁああーんっ、とはちみつ色したふわふわあまあまな声で、ソキは妖精に向かって両手を伸ばした。
「妖精ちゃんですうぅ! いらっしゃいませですうううろぜあちゃんろぜあちゃん妖精ちゃん! 妖精ちゃんが来てくれたですううソキ妖精ちゃんとおしゃべりするぅ!」
「ソキ。眠たかったんだろ?」
「ソキはぁ、もう起きたです。えらいえらいです」
 ふふんっ、と自慢げに腕の中でふんぞりかえるソキを抱きなおし、ロゼアはそっと息を吐いている。妖精はぎこちなく視線をそらし、ロゼアからすっと距離をとった。この少年は、ソキを腕の中で眠らせるのを、なによりの幸福だと思っている。寝るんだろ、と名残惜しく言い募るさまからも、離したくないという意思が妖精にはよく分かった。
 それなのにソキはくしくしとまぶたをこすり、頬をふくっとさせて、おしゃまな声で言い放った。
「ロゼアちゃん? ソキは、妖精さんとお話をしなくっちゃいけないです。きんきょうの、ごほうこく、なんですよ。魔術師さんの、お役目、というやつです」
「そうだな……」
 確かに、それは砂漠の王から言い渡された、『学園』に入学しない魔術師としての義務ではあるのだが。ロゼアは溜息をついて室内を移動し、天蓋のついた寝台へ歩み寄る。ソキの体をそっと降ろし、ロゼアはこつ、と幼子と額を重ね合わせて言った。
「じゃあ、眠たくなったら、すぐ寝ような」
「はー、あー、いー」
「……なにかあったら、すぐ呼ぶんだぞ、ソキ」
 心配そうに告げるロゼアに、ソキは目をきらきら輝かせてはいはいですぅーっ、と返事をしている。ソキ、とぉっても楽しみにしていましたっ、というのがすぐに分かるはしゃぎ具合は、先月の祭りの時と同じものだった。ロゼアは息を吐いてソキから離れ、天蓋の布を四方、完全に下ろしてからいなくなる。
 室内からいなくなった訳ではなく、布を隔てた場所で待機しているだけなのだが。妖精は定位置となった花籠に舞い降りながら、ひそかにそっと息を吐き出した。近況報告。様子伺いの間、万一のことを考えて、妖精とソキの他には誰もいない方がいい。そう告げた砂漠の王の言葉は正しい。反論のしようもなく、正しいのだが。
 どうも妖精が来るたび、ロゼアが不機嫌になるのは、絶対にそのせいに違いなかった。ある程度会話が終わって、魔力が落ち着いていて、生活上無意識に零れたり影響を与えていない、と判断されれば同席も許可できるのだが。はやく会話を終わらせなければ、と妖精は決意した。布の向こうからなんとなく視線を感じる気がして怖い。
 落ち着きなく羽をぱたつかせる妖精と対照的に、ソキはちたちた手足を動かしてはしゃいでいた。妖精ちゃんとないしょのおはなしですううっ、とご機嫌である。ないしょ、というのがただ単に嬉しいらしい。
「あのねえあのねっ。ソキが頑張ったお話をするですからぁ、聞いて? あのねこないだね、お熱が下がって妖精ちゃんがお帰りになってしまったあと、なんですけどねソキね、あのねソキねあのねっ」
『聞くわ。聞くから、落ち着いて、ゆっくり、話しましょうね。……はい、このあいだ? どうしたの?』
「うんっ! あのねおリボンなんですけどね、ソキね、あのね」
 妖精が集中して、ソキがなにが伝えたいのかを考えながら話を聞いたところによると。つまり、ソキはあの日から、リボンを結べるようにならなくては、と思ったのだという。星祭りの日から、ちょうど一ヶ月が経過した様子見の日。ソキの様子を見に訪れた妖精に、まず告げられた近況がそれだった。
 自分でリボンを結べるようになれば、もうあんな事故は起きない筈だ、と思ったらしい。ソキはけんめいにロゼアを説得し、ついに数日前から、リボンを結ぶ練習がはじめられたのだという。今日もふんわりと整えられ、結ばれたリボンはきちんとした形で、とてもソキが結んでいるとは思えなかったのだが。それはやってもらったらしい。
 練習の道具まで作ってもらったのだという。ここにあるんですよぉ、となぜか枕の下からもそもそ取り出されるそれは、正方形の板に布が張られ、穴を二つ開けてリボンを通した単純なつくりのものだった。板は万に一つも怪我をしないよう、角が丸く整えられている。
 幼児用玩具に似通った印象のそれを自慢げに見せられ、妖精は恐る恐る口を開く。それで練習しないといけない、ということは。もしや。まさか。
『あなた……いままで、本当に結べなかったの……?』
「ソキ、だいぶ上手になったんですよぉ」
 ふふん、と腰に手をあててふんぞりかえる幼子に、妖精は額に手を押し当てて息を吐く。そもそも、結ぶ、という単純な、技術とも呼べない動作を練習することに説得が必要だったことから頭が痛いが、妖精が言ってどうなることではない。
 結ぶだとかそういうことは、ロゼア他世話役たちのすることで、ソキのすることではないと言われても眩暈に言葉が消えて行くだけだった。これでは、他になにが出来るのか分かったものではない。
『分かっているとは思うけど……『学園』ではね、身の回りのことは、あなたがひとりでしなければいけないのよ?』
「わかってるです」
 この上なく自慢げな顔をして、ソキはこっくりと頷いた。
「だからぁ、ロゼアちゃんも、結ぶの練習していいよ? って言ってくれたですしぃ、ソキ、じつは、ちゃぁんとひとりでお着替えだって、歩くのだって、できるんですよ?」
『えっ……?』
「え? ええぇ? んもぉ、ほんとだもん!」
 布に周囲を囲まれた寝台の上。いつ訪れてもそこにいて、どこへ行くにもロゼアに抱き上げられている幼子が、ひとりで歩いている所など、妖精は一度も見たことがない。てっきり、なにか不具合があって歩けないものだとばかり思っていたのだが。
 妖精は寝台の上、座り込んだまま頬を膨らませるソキの姿を、まじまじと見つめて問いかけた。
『あ……あなた、歩けるの?』
「ぷぷぷ! 妖精ちゃんが疑っているです! よくないです! ロゼアちゃんロゼアちゃんろぜあちゃぁあんっ!」
 癇癪を起こしてちたぱた暴れながら、ソキが天幕の向こうへ声を荒げる。とっ、と軽い足音が一度だけ響き、ロゼアがするりと天幕の中へ入ってきた。ロゼアは不思議そうな顔で憤慨するソキをひょいっとばかり抱き上げると、よしよし、と囁いて背をやんわりと撫でた。
「どうしたの、ソキ。妖精さんがいらしてたんじゃないの?」
「ろぜあちゃ! ソキ、お散歩にいくですううう! ソキ、ひとりで歩けるぅ!」
「……ソキ。なんのお話してたの? 俺に教えて?」
 面白くなさそうにすいと目が細められ、ロゼアの視線が花籠へ向く。妖精はさっと飛び立って、寝台の上の空間へ逃れた。なんだってそんなことで、一々非難がましい意思を向けられなければいけないのか。ソキはぷんぷん怒りながら、あのねあのねえぇっ、とロゼアに事の次第を言いつけている。
「ソキはぁ、ひとりで、お着替えだってできるですうううっ! リボンだって結べるよに、なったですうう歩くのもぉ、ソキはちゃぁんと上手になってるんだからぁっ! ソキ、なんでもひとりでできるもんっ。できるううぅできるですううう!」
「うん、うん。そうだな。そうだよな」
 あんまり怒ったら喉が痛くなるだろ、やめような、とソキを抱き上げあやすロゼアは、そうだなー、そうだよな、と言葉を繰り返している。妖精は首を傾げて沈黙した。そうだな、とロゼアはソキを宥めているのだが。できるよな、とは、一度も言っていなかった。
『……えっと?』
 待てど暮らせど見つめても、ロゼアはできる、と決して言わず。やがて落ち着いてくちびるを尖らせるだけになったソキを、ぽん、とばかり寝台の上に座らせた。妖精が訝しんでいる間に、ロゼアはソキと、リボン結びを見せる約束を交わしていたらしい。
 張り切って練習板を引き寄せるソキの自信満々な横顔からは、散歩へいく主張が忘れ去られていた。



 ソキが練習板で結んだリボンは、案の定へっちょりと歪んでいた。右と左の輪の大きさも違えば、垂れ下がるリボンの長さもまちまちで、全体的になんだか力なくへにょっとしている。ソキはくちびるを尖らせて何度もやり直したが、力の入れすぎだったり、緩すぎたり、一度も綺麗に結びきることができなかった。
 あれ、あれっ、とぐずりながら何回も何回もやり直し、最終的にこの板とリボンがソキのことをいじめるですううううっ、と癇癪を起こした所で、練習は中断になった。ソキはロゼアの腕に抱き上げられ、ぽん、ぽん、と背を撫でられながら、ぐずぐずと鼻をすすって涙ぐんでいる。
「ちぁうですこっ、こんなはずじゃなかたです……妖精ちゃんに、いいところを見せるよていだたです……。でき、できるもん……ソキ、リボンむすびだって、ちゃぁんとできるぅ……!」
「うん。そうだな、ソキ」
 予想しながら、妖精は待ってみたのだが。やはりロゼアは、できる、とは口にしなかった。えくえくしゃくりあげながらソキが訴えた所によると、この間ロゼアと一緒にやった時は綺麗に結べた、ということである。妖精は微笑みを浮かべて頷いた。ソキは大事な所に気がついていないが、恐らくはこの後も、気がつかせてもらえないに違いない。
 歩ける、というのも、似たような雰囲気を感じる。できることなら確かめたかったが、興奮が落ち着いたソキはうとうととして眠たげだ。今度こそ寝てしまいそうである。ようせいちゃ、と名残惜しそうにソキがもそもそ呟いているが、うん、と微笑むロゼアの手つきは完全に寝かせにかかっていた。
 絶対に眠らせる、という強い意志を感じて、妖精は無言で花籠から飛び上がる。そっと、そーっと、うとうとするソキに近づき、耳元でやさしく囁いた。
『また来るわ。今日はおやすみなさいな』
「ええぇ……でも、でもぉ……。また来月、なの? ソキはもうちょと、おはなしぃ、あぅ……」
『……じゃあ、また明日。もうすこし、様子を見に来るから。ね?』
 おとまりぃ、するです、してほし、ですうぅっ、と納得していない声で文句を言われて、妖精は言葉に迷った。過保護な鉱石妖精が城で待っているせいで、泊まっていく、とすぐ返事をすることができない。ソキは妖精が返事をしてくれるまで起きているつもりのようで、しきりに目をこすっては頬をロゼアに擦り付けている。
 はやく返事をしてくれないかな、と言うようにロゼアの目が妖精を見た、気がしたので。妖精は羽根をせわしなくぱたつかせ、聞いてくるわ、と言った。
『その、帰りを待ってる仲間がいて……。泊まっていいか、聞いてくるから』
「んん……? それはぁ、もしか、し、てぇ……妖精ちゃん、のぉ……ときめきなの……? きゃぁんなの……? ふにゃっ? ときめききゃぁんなのっ?」
「ソキ。寝ような。お話は寝て、起きたら、聞こうな」
 目をきらぁんっと輝かせて身を起こしかけるソキを、ぐっと抱き寄せて。ロゼアは穏やかな声で、しっかりと言い聞かせた。でも、でも、と声はまたすぐふにゃふにゃと溶けていき、今度こそソキの瞼が下りてしまう。ぴす、ぴす、すぴっ、と寝息が響いてくるのを聞きながら、妖精は無言で額に手を押し当てた。
 どうしてあっちでもこっちでも、そんな誤解を受けなければいけないのだろうか。違うのよと告げるにもソキはすでに夢の中である。ロゼアがさりげなく言い添えたことを考えると、確認した結果がなんであろうと、とりあえず一度は戻ってこなければならない。明日ではなく。今日。ソキが午睡から覚める頃には。
 妖精は天蓋の隙間から顔を出し、窓の外を確認した。夕方と呼ぶには、まだ幾許かの時間があるようだった。急いで戻って王と魔術師に報告して、鉱石妖精に泊まるから先に帰ってと言って、戻ってくることを考えると大変に慌しい。暇をもてました王宮魔術師は話が長い。用事が終わっても、あれこれ引き止められることも多いのだった。
 癇癪を起こしてもちたちた暴れても、ソキの魔力に一切の乱れがなかったことを考えると、報告そのものはすぐ終わりそうではあるのだが。さあ、どう終わらせていったものだろうか。悩みながらも気持ちを焦らせ、ぱっと飛び立って行こうとする妖精の背に、穏やかな声がかかる。
「すこし、長めに眠らせておきますから……お気をつけて」
『……ねえ、あなた。ほん、とう、に、わたしのことが分からないの……? 逆に嘘でしょう……?』
 しかし妖精が目の前まで近づいて手を振っても、ロゼアの焦点が合わないのである。天蓋から垂れ下がる、布の隙間あたりを眺めていて、呼びかける妖精の声にも気がついたそぶりはない。見えず、聞こえず、触れられない。魔力を持つ者以外には。世界にあるその法則は、確かにあるまま、妖精をひとという存在から隠していた。
 妖精はロゼアの目の前でしばらく行ったり来たりを繰り返し、顔や肩に触ろうとしては失敗して、呆れと恐れの入り混じった息を吐きだした。どうやらロゼアは勘だけで、妖精のいる方に目を向けたり、話しかけたりしているらしい。生まれたばかりの幼子の中には、ごく稀に妖精を目にする者もあると聞くが。それとも全く違うものだろう。
 どうか魔術師として目覚めませんように、と祈りながら、妖精はソキの寝台を抜け出て飛び立った。なにせ魔術師になってしまえば妖精は見えるし、声は聞こえてしまうし、触れられるようにもなってしまうのだから。ソキの傍から摘み上げられ、ぽいっと遠ざけられてしまような気がして、妖精はふるふると羽根を震わせた。



 面白そうなので僕も行きます、と言った鉱石妖精に眩暈を感じている間に、王と魔術師は許可を下してしまったらしい。気が付いた時には、なにかあったら呼んでねー、とのんきに手を振る魔術師たちに見送られ、妖精は来た道を逆戻りしていた。手はしっかりと繋がれている。
 それで、どこから入るんですか、と『お屋敷』を見下ろしながら問う鉱石妖精に、ため息をつきながら問いかけた。
『どうして手を繋ぐの……。迷子になんてならないったら』
『もう暗いでしょう。はぐれたら大変ですよ』
『ねえ。わたしの言うこと聞いている? 迷子に、ならない。ならないのよ?』
 鉱石妖精は振り返り、にこ、と笑いかけてそうですね、と言った。そうですね、と言ったのに。ぎゅっと手に力が込められて、離される気配が遠ざかる。無言でぶんぶん腕を振る妖精に、はいはい、と宥めるような声が向けられた。
『それで、どこから中へ入るんですか? 早くしないと、君の魔術師が目を覚ましてしまうのでは?』
『あっちの、窓をいつも開けてくれているの……ねえ、また誤解されるから。手を離してってば……』
 そういえば、王と魔術師の誤解がとけたかどうかを、確認しないで来てしまった。困って眉をさげる妖精に、鉱石妖精はちら、と視線を投げかけ、口元を淡く緩めて微笑んだ。
『大丈夫ですよ。さ、行きましょうか』
『……あなたもしかして、わたしの話を聞く気がないの? そうなの? そうなのね?』
『まさか。誤解されるのが嫌、ということでしょう?』
 通じてはいるらしい。ほっとして頷く妖精に、また、機嫌が良さそうに鉱石妖精は笑いかけた。
『誤解はされません。大丈夫です』
『……ん?』
 ぐい、と手が引かれる。向こうの窓ですね、と飛んで行かれるので、妖精もついて行かざるを得なかった。なにか噛み合っていない気がするのだが、追及するのに嫌な予感を感じて、妖精は口を噤む。とりあえずソキがまだ寝ていて、眠りにつくまでのあれこれを覚えていなければいいな、と思った。
 ふと、視線を感じて。妖精は空で止まった。
『……なにか』
『ねえ、あれ』
 視線は、はっきりと。上空へいる妖精たちを捉えている。探すまでもなく、引き寄せられるように分かった。妖精はまっすぐなまなざしで、まなざしの主を見つけ出す。『お屋敷』の、うつくしく整えられた庭を囲む回廊に、ひとりの男が立っていた。顔の区別がつく距離ではなかったが、妖精にはなぜか分かった。ロゼアではない。もっと年上の、男性だった。
 鉱石妖精が無言で手を引き、するすると高度を下げていく。その動きも、男の視線は追いかけた。見えているのだ。やがて、顔の区別がつき、声を交わすのに十分な程の近くに辿り着くに至って、妖精はじっと男の瞳、その色を見つめた。今、天から暮れ行く夜のような。黒色の瞳だった。瞬きをする。視線はしっかり、妖精を見ていた。
 ああ、と。納得の響きで、声がこぼれていく。
「君たちが案内妖精? ソキさまの」
『……わたしが、そう、だけど、あなた……誰……?』
 男が名乗ろうとするより早く、彼方から呼び声が響く。振り返った先、回廊の終わりから、くらい影が男のことを呼んでいた。夕闇の薄暗がりに溶け込んで、その姿が妖精からはよく見えない。見つかっちゃった、とくすくす笑い、男は戸惑う妖精たちに背を向けた。
「俺にここで会ったことは、ソキさまとロゼアには言わないで。聞きたいことがあるのなら、また明日にでも王宮へおいで」
 ゆっくり。音のない足運びで歩き出しながら、男は悪戯っぽく振り返って、言った。
「俺はジェイド。迎えに来ちゃった彼が、シーク」
 砂漠の国の王宮魔術師だよ、と。星祭りの夜、ロゼアが着ていた上下にとてもよく似た服を着た男は。そう名乗って、ないしょにしてね、と唇に指を押し当てた。

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