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 彼なら今怒られてるよ、と男は言った。無残に踏み荒らされた勿忘草の瞳を、それでもなお、穏やかに和ませて。
「ただ、反省の色がまるでないから……そうだな、一時間もすれば戻るとは思うよ。待つ?」
 妖精はおずおずと頷いて、男の向かう机の上に舞い降りた。ソキのきゃあきゃあした追求を逃れて訪れた砂漠の城。魔術師たちの集う執務室は、午後の陽光に満ちて眩い程に明るかった。男はどうぞ、と言って真新しい針刺しを転がし、小皿に花びらと砂糖菓子を置いてくれた。飲むものもいるね、と呟き、ちいさな陶杯にミルクが満たされる。
 妖精を持て成すのに慣れた男だ、と思う。もちろん、『学園』に導かれ卒業して王宮魔術師になるのだから、触れ合うことが初めてである、ということはないのだが。付き合うことに慣れている雰囲気を感じた。男は妖精がおずおずと砂糖菓子を手に取った所までを見守り、足りなかったら言ってね、と言って視線を外してしまった。集中は、手元の紙に下ろされている。
 あたかも歌詞を書き写すがごとき滑らかさで、万年筆がインクの軌跡を描いていく。ソキのようにきゃっきゃとあれこれ話しかけられないのは久しぶりだと思いながら、妖精はかすかに、残してきた鉱石妖精を不安がった。寝起きのソキは案の定、鉱石妖精を見ると頬を染め、妖精ちゃんのときめきですうううっとだいこうふんした。大変だった。
 鉱石妖精は落ち着いた口調と微笑みでソキと言葉を交わし、一応、恐らく、なんとなくは、誤解だということを理解してくれた、と妖精は思っているのだが。なぜか今日は朝から鉱石妖精とぽそぽそ、ないしょのおはなし、をしていて内容を教えてくれないので不安が残る。ろくでもないことをしそうな、されそうな気が、していた。
 幾重にも圧し掛かった心痛で、妖精はため息をついた。そんな風にソキと仲良さげにしている鉱石妖精であるのに、聞けばロゼアを気に入ったらしい。見えないのになんとなく睨まれているような気がするし、面白くなさそうでかわいいですね、とのことだ。妖精が城へ出かける間際には、大胆にもロゼアの肩に腰掛けて、その一挙一動をつぶさに見守っていた。
 妖精がひとを気に入ることは、ままある。それ自体はどうとも思わないのだが、今後、妖精がソキの様子見に行くたびに、ついてくる気配がひしひしとした。妖精が嫌がっても、僕は案内妖精のお役目ではなく自由意志で遊びに行くだけですよ、偶然にも同じ場所に、と言われてしまえば終わりである。
 はやくソキが入学できるようにならないものか。一年、二年ではまず難しいと分かってはいるのだが願わずにはいられない。もしくは、帰ったら鉱石妖精の興味がなくなっていることを祈るばかりだが、一度気持ちを向けたら長いのが、あの種族の特徴である。とてもではないが、数時間で関心が潰えるとは思えなかった。
『……あなたはなにを書いているの?』
 ぐるぐるした気持ちと向き合いたくなくて問いかければ、男は妖精の悩みを見透かしたような微笑で、楽しげに言った。
「反省文かな」
『反省文……?』
「ああ、でも始末書になるかも知れないね。彼ときたらまっ……たく! 反省していないからねぇ……」
 おかげで我らが王は朝から頭を抱えて呻いてらっしゃる、といかにも面白そうに呟く男からも、反省の意思というのは感じられないものだった。妖精は首を傾げながら、改めて室内を見回した。魔術師の執務室というのはどの国であっても似たような作りで、壁には整頓された棚がいくつか、部屋の中心には向き合った机があわせて六つ置かれている。
 そのうち、主を得ているのはひとつだけ。つまり男しか室内にはいないのだった。魔術師は多忙である。日中に机に向かう時間はさほどないものだが、そうでなくとも、もしかすれば事後対応に追われているのかも知れなかった。廊下は慌しく行きかう音と、人々の声であふれている。穏やかな静寂がゆるりと漂うこの場所とは違って。
 男がやたらのんびりとした雰囲気で妖精をもてなしてくれたので、休日なのかしら、と思っていたのだが。違う。これはたぶん、さぼっている。共犯者にされた気持ちで食べかけの砂糖菓子を小皿へ戻し、妖精は不安げに男を見た。
『あなた……と、昨日の、彼。なにをしたの?』
「進入かな」
 悪戯っぽく、こどものように笑って。あまりにあっさりと言った男は、目を丸くする妖精に、くすくすと笑って言い添えた。
「もちろん、無断進入だよ。それに伴う、暗示とかく乱と……まあ、色々。悪いことだね、悪いこと」
 しれっと指折り数え上げる男からは、やはり反省、というものの存在を感じ取ることができない。欠片たりとも。ああぁああっ、と裏返り引きつった声がして、音高く扉が開かれた。立っていたのは少年だった。年の頃は十五か、十六。今年ようやく『学園』を卒業したであろう、年若い魔術師だった。
「聞こえてるからなシーク! おっまえやっぱり反省してなかったな馬鹿ああぁっ!」
「そこで、反省してねぇんじゃねえか、とは言わない君の育ちの良さが可愛いなぁ、と思うよ。フィオーレ」
 ボクらの王の方がよほど口が悪くなるよねぇどうしてかな、とのんびりと述べる男に、ああぁあっ、と髪を掻き乱してフィオーレはしゃがみこむ。その仕草は、なんとなく慣れていた。十は年上であろう男に、日夜振り回されているようだった。しばらく妖精が見つめていると、ぐずっ、と落ち込みきった風に鼻がすすられた。
「もうやだうちの筆頭と筆頭補佐……。なんでこんな性格のが揃っちゃったんだよ……愉快犯と愉快犯が手を組むとかもうただの悪夢だろ……人選どうなってたんだよ……」
「フィオーレ。彼はなにも、面白そうだからという理由で『お屋敷』に無断侵入した訳ではないんだよ?」
 我らが筆頭には彼なりの正当な理由があってのことさ、と男は言った。それを今、陛下に対して説明をしている所だよ。だから長引くし、まあ、反省もしていないし今後も見込めはしないのだろうけれど、と続けられて、フィオーレがよどんだ眼差しで顔を上げる。
「ジェイドが……ジェイドに、理由があったと、して、さぁ……お前は? シーク」
「ボクが? なに?」
「理由!」
 机に肘をついてにこにこと見守られていることに、我慢ならない様子でフィオーレが跳ね起きる。あああもぉお前だからなんでそういう顔ばっかりもおおっ、と身悶える白魔法使いの青年の肩を、通り過ぎる者たちが次々と叩いて行った。頑張れ、と言わんばかりであり。またやってる、と呆れているようでもあった。
 口を挟めず見守る妖精の視線の先。シーク、と呼ばれた男は勿忘草の瞳をうっとりと細め、柔らかく微笑みかけさえしながら、しれっと言った。
「面白そうだったから」
「陛下ああぁああああシークやっぱり愉快犯でした陛下ああああああそれで全然反省してないです陛下陛下あぁああっ!」
 ごしゅじんこいつわるいやつっ、ごしゅじんやっぱりこいつわるいやつっ、ときゃんきゃん吠える子犬を見つめるまなざしで、ふふふ、と満ち足りた笑みを零してシークは万年筆を机に置いた。
「だって考えてもご覧よ? 筆頭から頼みごとがあると呼ばれたと思ったら、『お屋敷』に侵入したいから手伝って欲しい、だなんて言われたボクの気持ちを」
「おまえぜったい、なにそれたのしそうとかいっただろおれにはわかるんだぞ……」
「僕だってね。陛下の信頼を裏切るのは心苦しかったよ? けど、ジェイドにあんな顔されたらねぇ……助けてあげたくもなるだろうよ。誰だってね」
 ということで、はい、反省文と差し出された三つ折りの紙を疑わしげに見つめながら、フィオーレがそろそろと手を伸ばす。その腕を掴んで、ぐい、と引っ張って。顔を間近に寄せ、驚きに見開かれる灰と緑、二色の入り混じる不思議な瞳をじっくりと眺めて。ふ、と唇から零すようにシークは笑った。
「あと、君のかわいい泣き顔が見たかった」
 う、えっ、と狼狽するフィオーレに、シークはまるで他人事の暢気さで言った。大変だねぇフィオーレ。
「筆頭にも僕にも騒ぎ起こされて、どっちもあんまり反省してなくて。困ったねぇ大変だねぇ泣いていいよ?」
「う、うっ、うぅ……!」
 なんの感情にか、じわじわ顔を、耳まで赤くして。震えだしたフィオーレから、シークは満面の笑みで手を離した。はい、行ってらっしゃい、と送り出そうとするシークを涙ぐんだ目で睨み付けて。ぱっと身を翻したフィオーレは、うわぁあん陛下へいかあぁああっ、と走り去っていく。
 は、と幸せにうるんだ吐息が吐き出される。
「あー、かわいい……。僕も十五の頃はあんなだった……記憶がないな……。かわいそうにねぇフィオーレ。悪い大人につかまっちゃって」
『……やりすぎると嫌われるわよ』
「ろくでもない大人が本気になる前に、逃がしてあげるのもたしなみかな、と思ってね。……見合いの話もあるし」
 陛下がそうせよと仰られたらボクからは断れないしね、と苦笑して。まあそれはいいんだよ、と男は椅子に座りなおした。
「さて、さっきは一時間と言った訳だけれど。これからもし、ボクが陛下に呼び出されてジェイドと一緒に怒られたりするとなると、申し訳ないけれど今日中に彼が、君と話をする時間は持てないかも知れない。どうしようか」
 なんというか。極めて面倒くさそうにこじれている砂漠の魔術師事情に巻き込まれたくなかったし、巻き込まないで欲しかった。妖精はただ、どうしてあの場所に魔術師が、しかも二人もいたのかを知りたかっただけであって。込み合った事情に首を突っ込みたい訳ではないのだ。
 言葉に迷いながら、別にあなたでもいいのよ、と妖精は呟く。
『どうして、あそこに魔術師がいたのか。それを知りたかったの。……ソキに用事だったのかしら、と思って』
「違うよ。ああ……もちろん、彼女が……いや、後輩になる予定の魔術師のたまごが、あそこにいるのは知ってるさ。でも別に会いに行った訳じゃないし、特別用事があった訳ではないよ。僕も彼も。全然関係ない。……ほんとうに、ちっとも、関係ない、と……言い切ってあげることもできないけど。『花嫁』だからね」
 でも、彼女には関わりのない用事だったんだよ、とシークは言った。そこから先を知りたかったらジェイドに聞くといい。僕から話せることじゃない、と告げて、シークは椅子から立ち上がった。彼方から聞こえてくる足音が、己を呼びに来たのだと分かって。
 まあ、彼の身柄が空いたら知らせてあげるよ、と手を振って、シークは部屋から出て行った。これから怒られるとはとても思えない、余裕のあるゆったりとした態度だった。



 ぷっぷううぅっ、と頬を膨らませたソキが、びとっとばかりにロゼアにくっついている。ぜったいにはなれないです、という意思が感じられた。抱き上げているロゼアは緩んだ笑みで、どうしたんだー、とソキをあやしている。ソキはうにゃうにゃと拗ねた声でなにかをロゼアに訴えているのだが、妖精にはうまく聞き取れなかった。
 首を傾げながら窓辺から室内へ入り込むと、気がついたソキが目をうるうるに潤ませて、いやぁやんっ、とロゼアに頬を擦りつけた。
「ろぜあちゃんはソキのぉ……! 妖精ちゃんはくっついたら、いけなぁ、ですよぉ……! だめえだめぇっ」
『……ちょっと、あなた。私がいない間になにをしていたの』
 いじめたんじゃないでしょうね、と疑いのまなざしを向ける。ロゼアの頭の上あたり。興味深そうに漂っていた鉱石妖精は、おかえりなさい、と穏やかに微笑んだ。
『いじめてなんていませんよ。ただ、彼が出席する会議へ僕だけついていったのが、相当気に入らなかったようですね』
 妖精が砂漠の城へ出かけた後、ロゼアが呼ばれたのだという。そこでソキの相手をしてくれていればよかったのに、鉱石妖精はロゼアにくっついて行き、ソキを置き去りにした。その結果、戻ってきた時にはぶんむくれて拗ねてかんかんに怒ったソキがいて、ロゼアはずっと、その機嫌取りをしているということだった。
 あなたどうしてそういうことをするのよ、と頭を抱える妖精に、鉱石妖精はふわりと飛んで近寄った。
『彼に興味があるんですよ。軍属でも、騎士見習いでもないのに訓練されきった、非常に洗練された身のこなしをする……のに、子守をして、しかもそれが本職なんですよね……? ボクのことが見えているような節もありますし……なんなんですか、彼。というか、ここはどういう組織なんです?』
『知らない。陛下に聞けばいいじゃない』
『……君ね。昨日今日の付き合いではないんでしょう?』
 どうして説明できないんですか、とため息をつかれて、妖精は不満げに羽根をぱたつかせた。知らず、知ろうともしなかった理由はただひとつ。興味がなく、必要とも思えなかったからである。妖精が見守り、その日が来たら導くのはソキである。幼子が所属する組織ではない。
 付き合いの中で、他国では見たことがない系統の中で暮らしていることが分かっても、それ以上の知識が必要とも思えなかった。なにより、魔術師の面倒くさいこじれきった事情が絡んでくるとなれば、なおのこと。なるべく距離を置いておきたい。魔術師は妖精の同胞であるが、人のいる世で暮らす者たちは、規律より感情に生き過ぎる。
 城で会った魔術師たちのことを話すと、鉱石妖精は苦笑いで頷いた。
『なるほど。彼が呼ばれていた会議もそれでしたよ。昨夜、二名の侵入者あり。無傷で取り逃がしたが、こちらの被害もなし。どうも王宮魔術師らしい。陛下に質問状と抗議文を、いや引き渡しの要求だろう、そんなことよりも進入経路と原因は、昨夜の警備はどうなって、と……皆さん、大変なお怒りようで。物取りではなかったようですが』
『わたしも、なんで侵入したか、までは……』
 困惑しながら、妖精は昨夜の様子を思い浮かべた。鉱石妖精を伴って現れたことにいたく興奮したソキが、きゃんきゃんおおはしゃぎでこうふんして、あれこれ誤解甚だしい質問ばかりをしてくるのを、ひとつひとつ訂正していくだけでも大変だったのだが。そういえば、と思い出して、妖精はすいと視線を部屋の戸口へと向けた。
 この『お屋敷』のつくりは独特で、いつも扉は開かれている。密室を極力避けているように、扉が開け放たれたままか、あるいは目隠しに布が下げられている状態だった。窓も、外の天気が荒れていなければ、大体は薄く開かれている。それが昨夜は、異なっていた。扉が閉じられていたのだ。どこもかしこも。
 ソキの部屋の窓は開いていた。しかし妖精がするりと滑り込んでソキと話を始めると、はっと気がついた様子で、ロゼアが閉じてしまったのだ。室内に留まる世話役たちも、普段は時間によって入れ替わり立ち代り、四人か五人がいる程度であるのが、十を数えていた。思えば、恐らく。侵入者を知り、立てこもっていたのだろう。
 ソキに怯えた様子がなかったのは、知らされていなかったからに違いない。異変が起きていることを。ロゼアはソキに気がつかせもせず、やんわりと布で包むように、幼子を守りきったのだ。今も、それを知らず。ソキはロゼアの肩に頬をうりうりと擦り付けた後、ふんすっ、と鼻を鳴らして顔をあげた。
「ろぜあちゃん? いーい? ロゼアちゃんはぁ、ソキのなんですぅ。だからぁ、ロゼアちゃんにぴとっとくっつくのもぉ、だっこも、ぎゅうも、ソキの。いいですか? ソキの。ソキのですよぉ、ソキの。よーせーくんのじゃないんですぅ」
『……いえ、ボクもくっついてたというか……肩に座って運んでもらっただけなんですけどね……?』
「ソキの! ソキのそきのおおぉっ!」
 んもおおおぉきしゃぁああですううっ、と鉱石妖精をちたぱた威嚇して主張して、ソキはロゼアにうりうり擦りついた。ぽん、ぽん、と背を撫でて、ロゼアが歌うように同意する。そうだな、ソキのだな。俺はソキのだよ。大丈夫、どこにも行かないだろ、ここにいるだろ。安心していいよ。今日はもうずっと一緒にいような。
 ぐずっ、ぐずっと鼻を鳴らし、ソキはようやく落ち着いたように、ロゼアにぎゅっと抱きつきなおした。
「じゃぁ、それでぇ、ろぜあちゃ? よーせーくんと一緒に、どこへ行ってたです? なにしてたの? ソキに教えてくれなくっちゃいやんやんです」
「んー……。ソキ、その、妖精さん? 俺にくっついてたの?」
「お肩に乗ってたです! よくないです!」
 張り切って言いつけるソキに、ロゼアはうぅん、と眉を寄せた。会議の間もくっついてたのかな、とひとりごち、ロゼアの視線が室内をゆっくりとさ迷う。天井の近く、開かれた窓、枕の隣の花籠。妖精たちの浮かぶ、天蓋の近くで視線がとまる。ソキがそのあたりを見て威嚇していたにしても。妙な確信のある目で、ロゼアが口を開いた。
「会議をしてたんだよ。話し合い。内緒のことが多いから、一緒だったとすると困るな。……ソキ? その妖精さんから、会議の話を聞いたりしたの?」
「あ! そうですそうです。妖精くんに聞けば、ロゼアちゃんのひみつがソキには分かっちゃうかもですうううう! これは良いことを聞いたですうううきゃぁっ、きゃぁんきゃぁんろぜあちゃんがソキをこしょってすぅううう」
 あー、墓穴だったかー、と発言を反省する顔で、ロゼアがこしょこしょとソキをくすぐってはしゃがせる。ソキはやんやん身をよじって笑い、ロゼアの腕や手をぺっちぺっちと叩いているが、抱き上げられた状態でそう逃げられるものではない。いやぁーんやんやんくしゅぐぅのやぁあっ、とじたじたするソキに、ロゼアがやんわり囁きかける。
 その内容をほぼ聞いていない勢いの即答で、ソキはこくこく頷いていた。できるぅ、ロゼアちゃんの言うこと聞けるぅっ、と笑い声交じりに必死に約束した時には、ソキはもうくたっとして、ぜいぜい息を繰り返していた。
「う、うぅ……ひどいめにあたです……。ロゼアちゃんがソキをこしょっていじめたです……いけないです。いけないです」
「うん、そうだな。ごめんな、ソキ。もうしないよ。だから、約束は守ろうな」
「……んん?」
 こころあたり、ないです、という顔でソキが首を傾げる。その頬をもにもに撫でながら、ロゼアは笑顔で、取り付けた約束を繰り返した。
「ソキが待っていた間のお話は、妖精さんから聞かない。約束したろ」
「やくそくぅ……? したぁ……?」
「したよ。した。……ほら、メグミカたちにも聞いてみような」
 ねえねえ、ソキお約束、したぁ、と不思議そうな声で問いかけられて、世話役たちが次々と声をあげていく。しましたよ、されておられましたわ、と戻ってくる返事は、ロゼアの肯定ばかりで。ソキはううん、といまひとつ納得できない顔つきで、しぶしぶ、ちいさく頷いた。
「じゃあ、聞かないです……。ロゼアちゃんのひみつにせまる、だいちゃんすー、だったですのに……」
『……分かったと思うけど。うかつに、あのこに話したりしないでね? なんていうか、ロゼア怖いし……』
『不思議ですよね。あれでまだ、魔術師のたまごとして目覚めてはいないんですから』
 まだ、とは。妖精はやめてと羽根を震わせて、ロゼアと鉱石妖精を見比べた。
『やめて……? そのうち、魔術師になるように聞こえるじゃない』
『数年内には魔術師になりますよ、恐らく。視認こそしていないものの、魔力を追って視線が動いていました。痕跡のようなものを感じるんでしょう。本人としては、勘、くらいのおぼろげなものかも知れませんが』
 あれだけ密着していれば触発されるものもあるでしょうし、と鉱石妖精が見つめる先。ロゼアはソキを抱き上げたまま、ソファに腰掛けた所だった。隣に降ろすこともせず。もちゃもちゃと座り心地を調整して、ふふんっ、となぜか自慢げにしているソキにも、膝から降りる気配がない。待てど暮らせど、そのままだった。
 くっついたままで本を読み出すソキの髪を、ロゼアが手で幾度も梳かす。妖精は嫌なことに気がついて沈黙した。迎えに来てからこの方、ソキとロゼアが離れていた回数を数えることができる。頭を抱えるように両手を押し当て、妖精は風に流されふらついた。
 飛ばされてしまわないよう、鉱石妖精が腰を抱いたのにも気がつかず。ぞわぞわとした予感を感じて、妖精は涙声で呟いた。
『ロゼアが『学園』に呼ばれても、あのこの入学許可が下りなかったらどうしよう……』
『……先に行って待っていてもらえばいいだけのことでは?』
『あのこが我慢できるとは思えない……。え? ほんとうに? ほんとうに、ロゼア、魔術師になりそうなの……? えっお願いだから、いいこだからやめて……? こっち来ないであっち行って怖い……』
 どの属性を持つなんの魔術師だとしても、歓迎できる気持ちになれそうになかった。ソキに対して見え隠れする独占欲が落ち着けば、仲良くできる可能性もあるだろうが。基本的にそれは増えていくもので、減るものではない。妖精は身震いして、そこで腰を抱く腕に気がつき。ぺしっ、と音を立てて、鉱石妖精のてのひらを叩いた。
 その日。砂漠の城から、知らせが来ることはなかった。



 落ち着かないようにもぞもぞ動いてはロゼアに抱きつきなおすソキを、魔術師たちが取り囲んでいる様子は異様の一言である。これで緊迫感が漂っていれば妖精も止めただろうが、魔術師たちはじわじわぐずりはじめたソキを見ても、可愛いねぇ可愛いねぇ、というまなざしを崩そうとはしていなかった。
 直に話しかけたり触ろうとしないのは、ロゼアが眦を険しくしてそれを許さないからだろう。無断進入の件がまだ解決していないので、それを知る『お屋敷』からの魔術師に向けられる評価は悪化の一途を辿っている。ついに、ソキがふわふわした声で、もうかえるぅ、やぁんもうかえる、かえるうぅと言い出した所で、はじめてロゼアは微笑んだ。
「帰っても?」
 入室するなり、おはようございますソキに触らないでください用意された質問以外で話しかけないでください、と要求したロゼアの、ふたつめの言葉がそれだった。魔術師はしゃがみこんだり、遠巻きにソキを観賞するだけで話しかけてこなかったので、用事がない、もしくは終わったと思われても致し方ないことだろう。
 さもありなんとため息をつく妖精に、とりなしてくれる気がないと分かったのだろう。ええぇ、としゃがみこんでソキを見つめていた魔術師のひとつが、ようやく慌てたような声を出した。
「待って、待って! まだ陛下にご報告していないから、勝手に帰られるのは困ります。それに、もうすこし観察していたいし……」
「は?」
「あっ怖い。やだ最近の若者ちょう怖い……」
 違うの観察って言ってもえーっとそういう意味じゃなくてね、と両手をぱたぱた振りながら言う女性は、確か占星術師だった筈だ、と妖精は思う。名は、確かラティ。魔術師であるのに砂漠の物理攻撃最強との呼び声高い、王の懐刀である。ラティは礼儀正しく微笑みながらも、一音で不穏を滲ませてみせたロゼアに、やや怯えた顔をして言った。
「案内妖精からも報告は受けてるんだけど、ほんとに安定しきっているのかどうかを、複数の魔術師の目で確認しておかないといけないの……。先月もやったでしょう? 毎月のことで、めんどうくさいとは、思うんだけど……はぁあそれにしてもソキちゃんかわいいねぇ……。ごめんね暇だよね飴食べる?」
 せっかくの説明を、最後のかわいい漏れが台無しにしていた。いまひとつ魔術師の言葉を信じきれない顔をするロゼアの膝上で、ソキはもぞもぞ座りなおし。つつん、とくちびるを尖らせて、ラティに抗議した。
「みんな、みぃんなが、ソキのことをじぃーっとみてくるぅ……」
「ごめんねちょっと凝視しすぎたね。ごめんね。だって可愛いんだもん。……かわいいなー。あぁあああー、かわいいなー……いまいくつになったんだっけ? お姉さんに教えて? いつつだっけむっつだっけ?」
 案内妖精の記憶が確かなら、ソキは今年で十になった筈であり、新年を迎えれば十一になる筈である。案の定ぶんむくれたソキは、やんやんもうじゅうになったんですううっ、と甲高い声でラティを怒り、ロゼアにびとっとくっつきなおしてしまった。
 いやぁんやぁもうかえるううううっ、という声が、怒りにまみれた本気の要求になってきている。
「まじちしさんにいじわるを言われたです! ろぜあちゃ! かえる! ソキ、もうかえるうぅっ」
「うん、うん。そうだな、ひどいな。……じゃあ、帰りますね」
『ほら、こんなに怒っても魔力に乱れがない。分かったでしょう?』
 だからもう言うとおり帰してあげなさいな、とため息をつく妖精に、魔術師からの視線が集中した。妖精は今日もロゼアを避けて天井近くを漂っていた為、全員の視線が自然と上向きになる。その隙を逃さず椅子から立ち上がったロゼアの傍には、鉱石妖精の姿があった。すっかりロゼアを気に入って、今日も朝から挙動を観察している。
 毛を逆立てる猫のように、ソキは鉱石妖精を威嚇していた。
「やうー、やうぅーっ……あんまり近くにいちゃだめなんですぅ……! もぉーっ、ロゼアちゃんをじぃっと見つめちゃだめだめえっ」
『いつ魔力に目覚めるのかな、と思って。きっかけがあるとすれば、やっぱりソキさんなんでしょうか。どう思います?』
『わたしに聞かないでちょうだい……。ほら、嫌がられてるでしょう? もうすこし離れてあげて』
 言っても聞かないことは分かっていたので、妖精は服の端をちょいと摘み、くいくい引っ張って距離をとることを促した。嫌がるソキの為に離しているだけだというのに、肝心の幼子はなにを勘違いしているのだか、きゃぁん、と声をあげて頬を染め、妖精たちを見比べて指先をもじもじとさせている。
 魔術師たちも、ほのぼのとした目を向けてきたので、妖精は思わず、鉱石妖精を睨みつけた。
『もう……! 誤解は解いてくれたんでしょう……?』
『ええ。解きましたよ。誤解は』
「ねえねえ妖精さん。妖精さんは、どこで、どんなでいとをするの? ソキに教えて? ねえねえ。ねえねえ」
 瞬時に機嫌を回復させたソキにふんわふんわした声で問いかけられて、妖精は無言でよろめいた。誤解がなにも解けていない上に、悪化している。あのね、と腰に手をあてて、妖精はきらきら目を輝かせるソキを見た。
『デートなんて、しないの。誤解しないで、とわたしは昨日も言ったでしょう? 違うの』
「ちがうの?」
『そうよ』
 ふんふん、と頷いて。ソキは目をぱちくりさせて、あどけなく首を傾げた。
「なんで?」
『なん……え……? え……?』
「あ! も、もしかしてぇえっ! ひみつ! ひみつの、こいー、というやつなんですぅきゃぁああんっ」
 絶望的に話が通じないことがよく分かって、妖精は遠い目になった。違う、違うのよ、と諦めず繰り返して、妖精はちっとも話を聞いていないのに、目をきらきらさせてふんふん頷いているソキに、しっかりと言い聞かせた。
『そういうんじゃないの。分かったわね?』
「ん、ん! ソキ、ちゃぁんと分かってるですうぅ!」
 分かっていない。絶対に分かってくれていないことが分かったので、妖精はため息をついた。あっちでもこっちでも誤解されている気がした。大体からして、妖精という種族が、ソキのいうような恋愛感情めいたものを持つことは稀である。単純な好意か、あるいは、悪意か。それくらいのものだ。
 本能と、各々の個性によって生まれる心の向きが、それに微細な変化を与えているだけで。どう説明すれば理解してもらえるのか悩んでいる間に、魔術師たちは用事を終えたことにしてしまったらしい。それじゃあね、また来月ね、じっと見てごめんねよかったらこれ、はい、と。退室していく魔術師たちは、次々とロゼアに小箱を手渡している。
 ため息をつきながら受け取るロゼアに、最後にラティがぽん、と書状を渡した。目録であるらしい。得意げに、ふふん、とソキがロゼアの腕でふんぞりかえる。
「みつぎものをたくさん! もらっちゃたです。ロゼアちゃん、ソキ、えらい? えらい? かわいい?」
 ロゼアはぎゅっとソキを抱きしめて偉い偉い可愛いと褒めそやしたのち、ひとまとめにする紙袋まで用意された品々に、ごく僅かに眉を寄せた。『お屋敷』と魔術師の仲は、現在も悪化中である。持って帰ったとして、ソキの手元まで渡されるものが、ひとつふたつもあるだろうか。吐息と共に呟き、まあいいか、とロゼアは荷物を持ち上げた。
 ソキはロゼアの腕から降りる気配がない。歩ける、と聞いたのだし、さすがに、と妖精が声をかけようとした時だった。
「大変そうだね。手伝おうか?」
 声がかかって。ロゼアは廊下へ出ようとする足を止めた。どちらさまですか、と問われるのに、勿忘草の瞳が笑う。
「シーク。……王宮魔術師だよ」
 言って。男は人々の視線を避けるように、するりと部屋へ入り込んでくる。その姿を改めて捉え、ロゼアがなんとも言えない気持ちで沈黙した。妖精たちもシークの姿をじっくり眺めやり、言葉に表せない気持ちで羽根をぱたつかせる。砂漠の伝統的な衣装である灰色のガラベーヤを着て、その上に魔術師を示すローブを羽織っていた。
 そこまでは、他の魔術師とも共通した衣装だった。下に着る服は各々の好みでよいとされているが、ごく私的な用事でない限り、魔術師はローブの着用を義務付けられる為に、印象が似通ったものになる。あの夜は。シークの姿は見えなかったが、すくなくともジェイドに関して、ローブは羽織られてもいなかった。
 夏用に、透けるほど薄い生地で仕立てられているそれを。暑いから、という理由で置いてくることを、魔術師には許されていない。だからこそ、今、シークはそれを着ているのだろう。しかしロゼアが微妙な表情をして沈黙しているのは、その記号的な服装が示す、男の立場あってのことではない。
 男が、まるで装飾品のようにして首から下げている大き目の木札。そこには明滅しながら、二種類の文字が浮かび上がり、入れ替わりながら消えていく。
『私は無断で『お屋敷』に侵入しました』
『奉仕活動中です』
 つまりこの男こそ、『お屋敷』と魔術師関係悪化の原因そのものである。警戒するロゼアに悪びれもなく笑いかけて、そういうことだから、とシークは言った。
「反省を陛下にわかってもらう為に、働かないとね。荷物を持とうか?」
「……いえ、結構です」
「遠慮しないで。あーあ、反省札なんて二ヶ月ぶりだ」
 つまり、二ヶ月前にもなにかしらやらかし、反省を促されていたということだ。目をぱちぱちさせながら木札の入れ替わる文字と、シークを見比べ、ソキがこてんと首を傾げる。
「しんにゅう、です?」
「うん? うん、そうだね」
「お兄さんは、わるいひとなの?」
 その問いに、いかにも楽しげに。悪戯っぽい表情でソキに笑いかけ、そうだよ、とシークは言った。やはり、無断進入に対する反省を、感じ取れない声だった。

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