なにから話そうか、とジェイドは言った。落ち着いた、穏やかな、優しく響く声だった。言葉を相手に届けるのに長けた声だ、と妖精は思う。声を張り上げなくともするりと耳に触れ、意識へ優しく落ちていく。隔離される程、常軌を逸しているとは思えなかった。シークの言葉を聞いていてさえ、それが冗談だったのではないか、と思わせる程に。
困惑もあらわな妖精たちの様子に、シークはまあそう思うよねえ、と理解者の苦笑で頷いた。うちの筆頭と来たら天性の誑しだから君たちでもそうなってしまうのは理解できることだよ、と。呟きに、ジェイドは肩を震わせて笑った。
「俺が誑かそうと思ってそうしたのは、妻と陛下くらいのものだよ、シーク」
「ほぉらこんなこと言う……。その陛下がおかんむりだよ、ジェイド。撤回するまで、君をここから出すなとのお達しだ」
「ああ、そうなの? 困ったな……脱走か……」
なにがどう困っているというのか。白んだ目で距離を取る妖精たちに、僕は君たちの味方だからね、という顔つきで頷いて。本当に困ったよねえ、と言葉上だけ、シークはジェイドに同意してみせた。
「撤回すれば出してくれるっていう話なのに、全然その気がないんだもんねえ……。困った筆頭だよ」
「困ってるのは俺のほうだよ、シーク」
正方形の部屋には、とにかく物がない。さっさと椅子を奪って腰掛けてしまったシークに肩を竦めて、ジェイドは窓辺に立ったままでいた。視線は室内と、『お屋敷』の尖塔をゆるゆると往復している。他愛もない言葉と向けられる微笑みで絆されそうになりながらも、妖精が警戒を失わないでいるのはその仕草のせいだった。
己の意思の向く先以外、今はなんの興味も関心もない、とそう告げる動き。視線を向けないまま。やんわりと意識に好意を織り込む、魅了めいた声がのんびりと告げる。
「厳選に厳選を重ねて十五人で妥協します、って言ってるのに。落ち着けだの考え直せだの人数を減らせだの。全滅に走らないだけ、俺は落ち着いてるし考え直したし、減らせるだけの人数は減らしてやって、十五人で我慢します、なんだよ? それが最低人数。これ以上の譲歩はしない」
「脱走してでも?」
からかうように言葉をかけながらも、シークは油断なくジェイドのことを見つめていた。男の視線がゆっくりと、室内へ戻ってくる。夜の瞳。月を弔い、星を失った、ひかりなき暗闇の色。思い出したように瞬きをして、ジェイドはあくまで穏やかに、あまやかに微笑した。
「最後の手段として候補にいれてる。……安心していいよ。今の所、積極的にそうしたいって訳じゃない」
「尋ねておくけど、君が最後の手段かなって踏み切るだけの条件は?」
「調査報告と向こうの出方次第かなっていう所はあるけど……うーん、忍耐? 俺の忍耐が後どれくらいもつか?」
シークは椅子の背もたれに己の体を全て預け、子供っぽく足を動かした。なにかを投げ捨てるように、ぱっと両腕が広げられる。
「わぁお、驚くほどなにも期待できないねそれ! そもそも君の忍耐って存在するのかい?」
「もちろん存在しているよ。砂漠みたいに広い時と、砂時計みたいに小規模な時があるけれど」
「どちらにせよ、なんか砕けてないかな? 忍耐ってもっと強固なものであるんじゃないかな? っていう疑問が拭えなくていまひとつ安心できないし、今はどっち? って知りたくもないことを聞きそうになるお返事をどうもありがとう」
にこ、にこにこ、と笑いあう魔術師たちに、妖精はついてきたことを後悔しながら首を振った。思い出されないうちに帰ろう、と決意する妖精の、気配を感じたようにシークの視線が向けられる。お待たせ、と声をかけられて、妖精は無言で羽根をぱたつかせた。待っている間にそっと帰らなかったことを心から悔やんだ。
「ボクの用事は終わった。あとは君たちが好きに、質問でもなんでもするといい。……ふふ、陛下おいたわしい。今日もボクからの、ジェイド? 駄目ですよ。全然反省していませんし、反省のそぶりもありません、時に『お屋敷』との交渉は如何です? その進捗によってはもうすこし思い留まるようですが、っていう報告を受けなければいけないだなんて」
「ちゃんと胃薬を差し入れるんだよ、シーク。あの方はすぐ食欲が失せるから」
「ボクの気遣いがなってないみたいな言い方をしないでくれるかな? 安心していいよ、ちゃんと頭痛薬持って行ってあげるからね」
この魔術師たちを臣下として管理しなくてはならない、という一点のみにおいても、妖精たちは砂漠の施政者に心からの同情を捧げた。にこにこ笑いあう二人は微妙に仲が悪い、ふりをして楽しくじゃれあっているようにしか感じられない。妖精はほとほと呆れた息を吐き出した。性格が歪みきっている。
ソキの素直さを恋しく思いながら、妖精はようやく窓辺から離れ、寝台へと腰掛けた男へ問いかける。
『あの日。あなたは……あそこで、なにをしていたの?』
「シークは? なんて?」
「ボク? 正直に言ったよ。無断進入、暗示にかく乱、わるいこと!」
うわぁ悪人だ、わるいことだ、と魔術師はくすくす笑いあっている。ややうんざりした様子で、苛立たしげに、鉱石妖精はその光景を睨み付けた。いい加減にしなさい、と怒られる気配を感じたのだろう。楽しげな笑みをひっこめて、ジェイドは素直に囁いた。
「あの日はわるいことはしてないよ。お墓参りに行っただけ」
『……お墓参り?』
「妻の。……報告をね、してあげなきゃと思って。でも『お屋敷』はとにかく、俺が立ち入るのを嫌がって許可しないから。ちょっと無理に進入させてもらっただけだよ。ありがとうね、シーク。手伝ってくれて」
俺ひとりだとちょっと骨が折れるんだよね、見つかった時とかに、と続けられて、シークは苦笑いで肩を竦めた。その言葉からも常習犯であるのが察せられたので、妖精は無言で額に手を押し当てる。よくもまあ今まで、あの場所と『魔術師』との関係が悪化しなかったものだ。
『……本当に、墓参りだけなんですか? あとはなにも?』
「あの日はね。用意もしていなかったし、時間もなかったから」
用意があって、時間があったらなにをしていたのかを、妖精は勤めて考えないことにした。男があの場所に突きつけている要求を考えれば、ろくなことではないのは確かだ。あの日ね、とシークがしみじみと呟く。
「突然だったもんね。『学園』のパーティーに行ってたと思ったら、真っ青な顔して帰ってきて。今すぐ、って言うんだもん。毒でも盛られたのかと思うくらいだったよ」
「あ、毒盛るのでもいいなぁ……斬首じゃなくて服毒にしようかな。どう思う? シーク」
「君のその、復讐に関する貪欲さは嫌いじゃない。でも、たぶん駄目だと思うよ」
にっこりとした笑顔のままで隠さず舌打ちするジェイドから視線を移し、シークは妖精たちに首を傾げてみせた。質問はもういいの、と問う仕草に、妖精は魔術師を守護する案内妖精としての義務感だけで、ぎこちなく口を開いた。
『あなたが、あのこに……ソキに、危害を加えない、と、思えるには情報が足りない。……お墓参りの為に、あそこに居た理由と、十五人を引き渡せという要求が……繋がらない。あなたは、なに? なにがしたいの? なにを、したいの……? なにをするつもりなの?』
「言っておくけど、俺は聞かれたことには答えてるよ。したいことなら、約束を破られたことに対する報復。あとは個人的な感情による復讐」
「そうだよねぇ君は聞かれたことは教えてあげてるよねぇ……。聞かれたこと、しか、言ってあげてない、とびきりのいじわるなだけだよねぇ……」
つまりこの筆頭と来たら極めて機嫌が悪いのさ、と苦笑されて、妖精は居心地が悪く服を握り締めた。ようやく話ができたのに、言葉は返ってくるのに、知りたいことにはなにひとつ辿り着けない。戻って砂漠の王に聞く方がよさそうですね、と苛立った鉱石妖精の声が響く。それに、妖精が頷こうとした瞬間だった。
ふわり、と白いひかりが現れる。妖精たちは思わず、目を見開いた。ひかりから魔力を感じた。魔力は、生まれたばかりの妖精の気配だった。まだ自我にも乏しいような、弱々しい気配。たどたどしい意思。白いひかりはふわふわとジェイドの周りを飛び回り、どこか叱り付けるように明滅した。
指先を、ひかりに伸ばして。ジェイドはうつくしい表情で微笑んだ。胸の一番大切なものを、そのまま差し出すような表情だった。ひかりはジェイドの指先に口付けるようにして揺れ、すぅ、と消えてなくなってしまう。同時に、淡い妖精の気配もなくなった。
いまの、と呟く妖精たちに、ジェイドはちら、と視線を向ける。
「……時間があるなら、説明してあげるけど」
「やぁい奥さんに怒られて反省したんだ」
ジェイドが笑顔で投げた枕を、シークが受け取って投げ返す。そのままぽんぽんと枕を投げ合ってきゃっきゃじゃれあう魔術師に、落ち着きというものは見られない。深呼吸をして首を傾げ、妖精は思わず呟いた。
『……はい?』
え、ちょっと、もう、なにもかも意味が分からないんですが、と言う鉱石妖精に、妖精は無心で頷いた。断片的に与えられた情報は、混乱を招くだけでなにひとつ繋がっていかない。だから説明してあげるって言っただろ、と拗ねた口調で、ジェイドは息を吐く。己のこれまでの対応を、まったく棚上げした態度だった。
じゃあまず結論から言うと今年の新入生に俺の息子がいるんだけどね、と言われて、妖精は話を遮った。とてもではないが頭が追いつかない。ジェイドの元に現れた同胞の気配を、シークは奥さん、だと言ったのに。それを否定する言葉のないまま、息子、新入生、と繋げられてもとてもではないが理解が追いついて行かない。
ふらふらと机の上に降り、立っていられもせず座り込みながら、妖精はふるふると首を横に振って呻く。
『あなた……妖精と婚姻を……? 息子って、その……どうやって……? それとも、なにかの暗喩? ちょっと、よく、分からないの……』
婚姻だけならば、可能だろう。妖精と魔術師は、魔力というものを媒介にした同胞である。大きな枠で捉えれば、魔力を持つ者、という同種族である。過去に例がない訳でもなかった。しかし、それは婚姻までだ。次代を存在させた、という話を妖精は聞いたことがなかった。秘匿とはいえ限度もあるだろう。噂すら聞かないことは考えられない。
あるいは魔力を持って作り上げたなにかをそう呼んでいるのかとも思うが、今年の新入生、と男は言った。まず間違いなく、『学園』への新入生のことだろう。案内妖精に導かれていった、人の中から生まれる突然変異。魔術師。それは、妖精との結晶である筈がない。この世界は壊され、閉ざされている。そうであるからこそ、もう魔術師は、人の間からしかうまれないのだ。
混乱する妖精に笑いかけ、ジェイドは組んだ手に頬を寄せるよう首を傾げた。
「俺の妻は、それはもうとびきり愛らしく美しく可愛らしいひとだったけど、妖精ではなかったよ。妖精みたいに可愛かった、というか、妖精より可愛かったけど。俺の妻は世界一可愛い」
『……そ……え……ええ、と……? その……その、方との、息子さん、が?』
「今年の新入生。ウィッシュっていうんだ、俺が名前付けたんだけどね」
なんていうか妻そっくりに育ってた可愛かった、とゆるみきった顔と声で囁かれて、妖精はぎこちなく頷いた。ああ、うん、よかったわね、としか言葉が出て行かない。説明をしてもらっているのに、ますますよく分からなくなってしまった。困って鉱石妖精の服をくいくいと引っ張れば、苦笑気味に息を吐きだされ、言葉を引き継がれる。
『それはどうも、おめでとうございます。新しく魔術に目覚めた我らが同胞に祝福あれ。……それで? それがあなたの、無断侵入その他諸々に対する理由なのだとしたら、もうすこし筋道をもって説明して頂きたい』
まさか、我が子を魔術師として目覚めさせたことに対する報復とでも言うつもりなのですか、と。鉱石妖精の瞳は不審と怒りに燃え、ジェイドのことを睨みつけていた。ジェイドは呑気に指折り、なにかを数え。んー、と理解しているのか、していないのかも定かではない曖昧な声を響かせ、眉を寄せた。
「そうだな……じゃあ、やっぱり最初から説明しようか。そこからするのが一番、理解には早いと思うんだよね。まず、俺の出身は花舞なんだけど、そこにはもう三十年くらい帰ってない。今後も帰る予定はないし、もう帰れないんじゃないかなって思ってる」
『……あなた、いまいくつ?』
妖精の目には、二十そこそこ、くらいにしか見えないのだが。魔力を持つ魔術師は、その最盛期を持って肉体の成長、老化がごくゆるやかになることがある。個人差があるので全員とは言えないが、年相応の落ち着きを持っていない目の前の男は、確実にそうである筈だった。
訝しく問う妖精に、ジェイドは三十六、とさらりと言い放つ。
「砂漠に来たのは五歳だったかな……。ウィッシュは俺が十五の時の子だから、今二十くらいだと思う。……二年半しか、育てられなかった。俺のいとしい、可愛い子……。俺はね、ずっと信じてた。『お屋敷』が約束を守ることを」
『……約束?』
「幸せにするっていうこと、だよ」
そのたった一つの約束の為に、俺はあのこを手放した。十数年、ずっとそれを信じてた。でもそれが嘘だったんだから、彼らは責任を取るべきだ、と。あくまで声を荒げることはなく。穏やかに、落ち着いた口調でそう囁いて、ジェイドは妖精たちに問いかけた。さて教えてあげるその前に、君たちはあの場所のことをどれくらい知っている。
「『お屋敷』のこと、『花嫁』のこと。……たぶん、あんまり知らないでいるとは思うけど」
『……ソキが、なにか。特別な生まれ育ちをしていることなら、分かるわ』
未だに妖精は、ソキがひとりで立ったり歩いたりしている所を見たことがない。移動は常にロゼアが抱き上げ、ソキも周囲も、全くそれをよしとしている。
『花嫁、と呼ばれているのも知っているわ。砂漠の花嫁。ソキのことよね?』
「そう。『砂漠の花嫁』。いつか金銀財宝と引き換えに、他国の貴族豪商、時には王家へ嫁いでいく者のことを、砂漠ではそう呼んでいる。あの『お屋敷』は、その養育機関。伝説の、とすら謳われる、国家公認の人身売買組織……と、口汚いのなんかは言うね」
あの場所で育てられる少年少女を見ただろう、とジェイドは言った。誰も彼もが愛らしく、美しく、華憐であった筈だ。そういうのばかりを集めて育てている。
「……まあ、『お屋敷』については、あとでちゃんとどこかで話を聞いた方がいいよ。俺はあの場所で働く人たちにだいたい嫌われてるし、俺も嫌いだし、だからどうしても否定的になる。否定的な言葉で、印象を決めてしまわない方がいい」
『そうするわ』
「ああ、そうして。……さて。話そうか。俺があの場所を初めて訪れたのは、俺が五歳の時。供を連れて、花舞から旅をした。それをしなければいけない理由が、俺にはあった。旅立ちの半年前に、俺の祖父が死んだからで、その遺品を届ける為で、俺が選ばれたのは……俺の母、祖父の一人娘より、俺の方が、彼の面影があったからだ」
いまでも。俺の顔を見て、泣きだしそうに笑って。ああ、と吐息を零した老婆の、その言葉を。表情を。覚えている。俺はね、と静かな声でジェイドは言った。
「かつてあの場所から嫁いだ『砂漠の花婿』の、孫として……遺言と遺品を、届けに行ったんだよ」
今はもう、憎しみすら感じるあの場所で、はじめて。言葉を交わした時の想いを。それでも、捨てることができないでいる。忘れることも、できないでいる。ずっと信じていたかった。愛して、愛されて、そうして送り出された祖父のように。この子もそうされるのだと。幸せになるのだ、と。
祈って。抱き上げた幼子を手放した。あの日の希望が、潰えた今でも。どうしても。
嫁いだ砂漠の宝石が、子を成すことは稀である。男であっても、女であっても。恋をして、愛しく思ったとしても、その体はあまりに弱く、脆くできている。生まれた元よりそういう性質であったものを、そのままに育てられて嫁いでいく。子を成すことはできても、産むことができず。産むことが叶っても、生きることができず。花は枯れてしまう。
ごくごく稀に生き延びるのは、だからこそ、やはり花婿だった。彼らは十数年に一度の確立で、生まれ育った『お屋敷』へ戻ってくる。殆どが遺骨の一部を。あるいは言葉を。物を。己の血を引く者に託して、戻ってくる。ジェイドも、そうして戻ることを託されたひとりだった。ジェイドだけに託された遺言と、品が、僅かな供と共に幼子を旅立たせた。
その人に会えたらこうして、と伏した祖父に言われたままに。ジェイドは通された部屋にやってきた老婆の前で、両手をぱっと広げて笑って見せた。ほら、幸せになったでしょう。自慢げに。告げられたそのままに。願いを叶えてみせたでしょう、と誇らしげに。戻ってくる筈がなかった言葉を、意思を、幸福を携えて。ジェイドはそれを成し遂げたのだ。
滞在は幸福だった。『お屋敷』はジェイドたちを賓客として丁寧に持て成した。ジェイドの顔を見に来るのは祖父より年上の者が多かったが、父親くらいの年齢の者も、もっと年若い者も顔を出し、誰もが興奮を隠せない様子で話を聞きたがった。嫁いだ『花婿』がどんな風だったか。どういう風に笑っていたのか。話していたのか。その一生を。
包み隠さず、覚えている全てをジェイドは提供した。同じ問いを繰り返されても、飽きることなく言葉を告げた。誰もがそれを喜んだ。一月もの逗留を感謝に包まれて過ごし、ありがとう、気を付けて、と送り出され、ジェイドは『お屋敷』を後にした。異変が起きたのは、その後のことだった。
首都から離れたある都市の宿で。ジェイドはいきなり拘束された。やってきた者たちは、どこか見覚えのある男たち。ぽかんとするジェイドに、男たちは苦しげな顔をして告げた。『お屋敷』に戻ってください、今すぐに。間違いだと分かればすぐに解放します。間違いだと分かれば、と言葉が繰り返された。なにを言っても、それしか答えて貰えなかった。
数日ぶりに訪れたその場所の空気は、全く違った者だった。歓迎と喜びを持ってジェイドを見ていた筈の瞳は、猜疑と恐怖にすら彩られ、誰もが遠巻きにひそひそと言葉を交わしていた。捕らえられた盗人のようだ、と感じてそれを口に出すも、帰ってくる言葉はひとつだけ。間違いだと分かれば。
ジェイドは旅の汚れを落とされ、服を着替えさせられた。許可なければなにもするなと言い含められて、連れて行かれた場所で、ひとりの少女が泣いていた。寝台に身を伏せて、入って来たジェイドたちに顔を向けることもなく、なにかをずっと訴えて泣き続けている。『花嫁』だ、とジェイドはすぐに分かった。
たとえ、寝台を取り囲む世話役たちがいなくとも、一目で理解しただろう。ジェイドよりすこし年上の『花嫁』だった。十にはなっていないだろう、と思った。気が付いた世話役たちが振り向き、忌々しそうにジェイドを睨みつける。その中に、逗留で見知った顔はひとつもなかった。それを、なぜか救いのように感じて、ほっとしたことを覚えている。
ひとりが、泣き伏す『花嫁』に身を屈めて囁いた。なんと告げられたのかは分からない。『花嫁』はぱっと身を起こして、泣き濡れた瞳でジェイドを見た。柘榴のような赤い瞳と、真っ白な髪をした、いとけなく愛らしい少女だった。あ、と声を出して少女は瞬きをした。
あ、あっ、と恥じらうように泣いて腫れた瞼に指先を押し当てて。言葉の出ない様子で何度も、何度もくちびるを動かした。視線はジェイドだけを見ていた。やがて、そろそろと両腕が持ち上げられる。ジェイドに向かって。
『こっちに来て……?』
その瞬間の。世話役や案内人たちの絶望的な溜息と表情は、全てジェイドに向けられたものだった。嘘だろう、まさか、そんな、と呻く声はいくつも聞こえた。少女はそれに目も向けず、一心にジェイドだけを見つめて、腕をふるふると震わせていた。ジェイドが近くに行くまで、腕を下ろすつもりはないようだった。
困惑しながら駆け寄り、そっと手を繋いで腕を下ろさせてやる。とろけるように、少女は笑った。
『あの……あの、あの、私、シュニーって、いいます。あなたは……?』
名乗るな。お願いだから名乗るな。いいから絶対に名乗るな声を出すな、という求めを無視したのは、これに至ってもなんの説明もされないことに、ジェイドが怒っていたからだった。どうしてこんな目に合わなければいけないのだろうと思いながら、ジェイドは少女に名を名乗った。ジェイド。翡翠。宝石の名を告げた。
少女はそれを宝物のように何度も、何度も繰り返して。ジェイドの手を包み込むように握って、少女は懇願した。
『どうか私を、シュニー、って呼んで……?』
呼び返す前に。ジェイドは部屋の外に叩き出された。どうしてこんなことに、まさか嘘だろう、こんなことが、まだやり直せるかも知れない、シュニーさま。悲鳴じみた言葉がいくつも響き、混乱の中、シュニーがジェイドを求める泣き声が響いていた。いやいや、あのひとなの、あのひとがいいの、会わせて、連れて行かないで。ジェイド。
一月逗留していた部屋に連れ戻され、そこでようやく、説明がされる。シュニーが『砂漠の花嫁』であること。どこかでジェイドを目にしたらしいこと。数日前から名も知らぬ誰かにもう一度会いたい、と繰り返しては周囲を困らせていたこと。特徴から、その誰かがジェイドである可能性が高く、それ故に戻ってきてもらったこと。
そろそろ『傍付き』を選ぶ段階であったこと。それなのに、まだ候補を絞り切れていなかったこと。『砂漠の花嫁』が候補たちの中から『傍付き』を指名すること。その指名の方法が、名を呼ぶ許可を与えること。『花嫁』として呼ぶのではなく、様をつける敬いを受け入れるのではなく。その名だけを、呼んで欲しいと。誰かに求めること。
まさか、とジェイドは言った。祖父から『傍付き』のことも伝え聞いていたからこそ、信じられない気持ちが先にあった。名前も知らない、たった一目見ただけの相手を。『傍付き』に選ぶなんて。なにかの間違いだ、と誰もが言った。『花嫁』がそれを誤ることなどないと、誰もが、知っていながら。それは否定された。選ばれたジェイドにすら。
三日三晩、泣いて、泣いて、どんな慰めの言葉にも落ち着くことはなく。シュニーはジェイドを求め続けた。ようやく知ることのできたその名を呼んで。会わせて、と訴え続けた。会わせて、お話させて、あのひとがいいの、あのひとが。遠くから見ただけ。でもその時に。その時から、ずっと。あのひとだって思ったの。名前を呼ばれたいと思ったの。
その三日間で。ジェイドは殺気立った『お屋敷』の、運営と呼ばれる者たちに引き合わされ、あくまで間違いだと否定されながらも小言のような教育を受けさせられた。『花嫁』とはなにか。本当ならば話すことも、顔を見ることすら叶わない相手に。もう一度会って。別れを言わされる為の準備としての三日間だった。
あるいは、シュニーが諦め、勘違いだったと思い直す為の。祈りのような三日が過ぎた後、ジェイドは風呂に放り込まれ、真新しい服に着替えさせられ、もう一度シュニーの元へ連れて行かれた。三日間。泣き続け、食事も睡眠も満足に取っていない少女は、ひどく蒼褪めて震えていた。ごめんなさい、と繰り返すばかりの声は掠れていた。
『……シュニーさま』
ぱっと顔を上げた少女が。震えながら、泣きながら、笑う。ジェイドに向かって。とろけるような笑顔で。それに、ジェイドは思わず笑ってしまった。泣き声は廊下にまで響いていた。胸が苦しくなるくらいの声だった。それなのに、シュニーはジェイドが現れただけで、名をちょっと呼んだ、それくらいのことで、幸せそうに笑うのだ。
嬉しい、と全身で告げられる。瞳の輝きが、赤らんだ頬が、ジェイドへの好意を告げている。そんな風に恋い慕われて、好きにならないでいられる者は、あるのだろうか。突き刺さる視線で心は傷ついた。それでも、あえて無視して、表情には出さないで。ジェイドはそっとシュニーの傍まで近づいて、座り込んだ。
覚悟があったのかと問われれば、その時にはなく。ただ、少女への育ち始めた好意だけが。ジェイドに、言葉を告げさせた。
『……シュニー』
名を。
『そんなに、俺がいいの?』
呼んで。問いかけたジェイドに、シュニーは無言で抱き着いた。受け止めきれず、倒れてしまったジェイドに抱き着いたまま離れず、シュニーは泣きながら繰り返した。あなたがいいの。あなたが。ジェイド。一目見た時から。あなたが好きなの。好きになってしまったの。ねえ、お願い、傍にいて。どこへも行かないで、離れないで。
わたしのことをすきになって。
『あなたの『花嫁』になりたいの……』
頷いてしまったから。受け入れてしまったから。ジェイドは、家に帰れなくなった。幸いなのはジェイドが後継ぎでなかったことと、手紙を書くことは許されたことだろう。検閲があったにせよ、それはジェイドの心を大いに慰めた。孤立無援の状態に立ち向かうには、ジェイドはまだ幼かった。残してきたものが、ありすぎた。
ジェイドを『傍付き』の候補として受け入れ、教育をしていくことは一方的に決められた。来る日も来る日も座学に実技、目まぐるしい教育の日々。同じ教育を受ける者はジェイドより幼いことも、年上であることもあったが、共通しているのは仲間意識から来る敵意だった。同じ候補と呼ばれても、ジェイドは彼らの仲間として受け入れられることはなかった。
半年が過ぎ、一年が巡っても、仲間と笑い合う日は来なかった。敵意ばかりを向けられる日々だからこそ、シュニーの存在は救いにもなり、重荷にもなった。可愛い、と思う。望むことは叶えてあげたい、とも思う。けれども、愛しているのかは分からなかった。恋はしていなかった。大切にしたいとは、思っていた。大事にできているかは、分からなかった。
その曖昧さを。思いきれない心が、ふと楽になったのは夏の前。初夏の頃。前触れもなく、現れた妖精がジェイドへと告げた。君は同胞。魔術師の卵。これから、学園へ向けて旅立たねばならない。そこにジェイドの意思はなく。行かないで、と泣くシュニーを置いて、ジェイドはひとり旅立った。『学園』へ向けて。
『花嫁』を残して。