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 離れていく距離を埋めるように、宿では必ず手紙を書いた。突然出て行ってしまってごめん、シュニー。この手紙が君の元へ届くことを祈っている。最初の何通かは必ずこの書き出しで、祈るように万年筆を走らせた。『お屋敷』がこの機会に新しい『傍付き』を宛がおうとしているのを知っていたから、届くかも、読まれるかも、ただ不安で、怖かった。
 そうして離れて、ようやく、やっと。震えるほど、胸がつぶれるほど、息が苦しいほどに、君のことを大事だと知ったと告げたら、どう思うだろう。その言葉は届けずに、書いては握りつぶして屑籠へ捨てた。届きますように、と書かなくなったのは、見かねた妖精が簡単な呪いを教えた後のことだった。祝福を手紙に。必ず望む者の手に触れるように。
 砂漠の国境を超える日にも、手紙を書いた。逃げてごめん。君が想うくらい、気持ちを返してあげられなくてごめん。傍にいてあげられなくて、ごめんね、シュニー。でも君が大事だ。とても大切に思っている。泣かないで。君の為に過ごした一年とすこしより、なんでかずっと、君のことばかり考えてる。泣かないで。必ずまた会いに行くから。
 返事は届かなかった。走るように星降へ向かうジェイドを、追いかけるように、もしかしたら手紙は届いていたのかも知れない。それを問うことはしなかった。怖かった。行かないで、と言っていたのを、振り切って出てきたのはジェイドの意思だ。妖精が訪れて旅を告げた時、ジェイドはそこに希望を見出した。それをシュニーは、見ていた。
 疎外され傷つけられ、救われながらも重荷にも思う。息苦しい場所から、離れて良い理由を探していた。その理由になったのが、魔術師としての召喚だった。魔術師になりたかった訳ではない。それを喜んだ訳ではない。ジェイドはただ『お屋敷』から、シュニーの傍から離れなければいけない、そのことを喜んだ。それを理解していた。誰よりも。
 シュニーは傷ついただろう。今度こそ、誰かが。ずっと彼女の傍にいて、ジェイドよりも彼女のことを理解していて、あの場所にも馴染み仲間として扱われ尊重され、知識も経験もある誰かが、シュニーのことを慰めただろう。手紙の祝福は届くまでを保証するもので、それを読むかは本人の意思に委ねられる。もちろん、どう思うのかも。
 やっぱり間違えてしまっていたの、皆が言うのが正しかったの、この人にずっと傍にいて欲しい、とシュニーが笑い、見知らぬ誰かに照れくさそうに笑いかける悪夢は、ジェイドの精神を苛んだ。旅の足取りが鈍り、それでも前へ進み続けて。もうひとつ、国境を越えようとするジェイドの元に。先回りするように、手紙が届いていた。シュニーからだった。
 会いたい。一通目。たったそれだけしか書かれていない手紙が、どれほどのことをしたのか教えるようだった。責める言葉など、どこにも書かれていなかった。二通目も、三通目も。追いかけてきた手紙はジェイドを求める言葉ばかりで、四通目でようやっと、手紙をくれて嬉しい、と書かれていた。そこから、ぽつぽつと近況が書かれるようになった。
 やはり、シュニーには『傍付き』候補が宛がわれているらしい。でも、みんなきらい、と枕を投げて怒ったそうだ。シュニーはもう選んだもの。シュニーばっかりが好きでも、同じ好きじゃなくても、ジェイドは頑張ってくれたもの。だから、もっと好きになって、だから、シュニーはジェイドが大好きで、だから、だから。
 待ってるから。ずっと待ってるから、ジェイドがシュニーのことを好きになってくれたら、好きじゃなくても、同じじゃなくても。会いたい。告げる文字が震えていた。泣いて、泣いて、それでもジェイドを見ればとろけるように笑った。その顔を思い出した。傍を離れて、会えなくなって、ほんとうに自由などなくなって、はじめて。想いを知る。己の。
 恋の兆しが、確かにあったことを知る。一心にジェイドのことだけを想ってくれる少女を、確かに。好きになりかけていたことを、ようやく自覚する。待っていて、と返事を書いて、旅を続けた。どんどん距離が離れていくことは分かっていて、それでも前へ進んだ。顔を見て、好きだと言いに行くから、そこにいて。
 離れて、はじめて。気持ちを理解して。離れていくのに、恋に落ちた。傍にいられなくてごめん。傍にいる時に、そうしてあげられなくてごめん。好き、と言ってくれたのに。ずっと、言い返してあげられなくてごめん。大好きだよ、シュニー。諦めないでいてくれてありがとう。その手紙を最後に、ジェイドは『学園』に入学した。



 三か月ぶりに足を踏み入れた『お屋敷』は、変わらずジェイドへの敵意に満ちていた。妖精と共に旅立った日より、肌を刺す悪感情は強くなったかも知れない。溜息を堪えて、ジェイドは足を進めた。特例、異例ともいえる外出を許される為に、どれ程の努力を重ねたのか、言うつもりはなかったが、理解する者もいないだろう。
 先導に焦れながら廊下を進み、ジェイドは飛び込むようにその一室へ辿りついた。椅子に座って、もじもじ、髪が気に入らない様子で手を触れさせていたシュニーが顔をあげる。ジェイド、と言って涙ぐんで、両手を広げて求めるその姿に。笑って、駆け寄って、ジェイドはシュニーに両手を伸ばした。
 ぐんっと力を込めて抱き上げる。ずっと。周囲の『傍付き』が『花嫁』を腕に抱くのを、羨ましがっていたのを知っていた。鍛えても、いくら頑張っても、そうしてあげられるのはすこしの間だけで。すぐに座り込んでしまったジェイドに抱き着いて、シュニーはぽろぽろと涙を零した。
「ずっと待たせてばかりで、ごめん。……逃げていてごめん。ごめんね、シュニー」
 好きだよ、と言った。
「待たせてごめん、待っていてくれてありがとう。ちゃんと、同じ気持ちで、君が好きだよ。大好きだ」
 何度も、何度も頷いて。好き、大好き、と繰り返して、シュニーはジェイドの腕の中で泣いた。
「重く、なかった……?」
「うん。俺も君も、これから、もっと大きくなるから……鍛えるし……そうしたら、もっと、ちゃんと抱き上げてあげられるから。待たせてばかりだけど、シュニー。もうちょっとだけ待ってて」
 会いに来るよ、とジェイドは言った。毎日、必ず。ずっと一緒にはいられないけど。顔を見て、それですぐ、戻ってしまう日の方がきっと多いけど。たくさん寂しくさせてしまうけど。その約束の為に三か月努力して、これからもずっと、頑張ることを決めてきたから。
「して欲しいこと。全部は難しいと思う。今すぐ、できないことの方が、多いと思う。でも、我慢しないで言って欲しい。……シュニーのことが大事だよ。大切にしたいって思う。好きで……これからもっと、好きになっていくと思う。……俺が、好きになるまで。待っててくれてありがとう」
 俺の花嫁になってね、というと、シュニーはぱちぱちと瞬きをして。涙を擦り、瞳をとろけさせて笑った。



 走っていく。月日を、距離を、努力を、なにもかもを。早起きして朝食を詰め込んで、授業前の短い間に『扉』をくぐる。呆れと関心をちょうど半分にした王宮魔術師たちに挨拶をして、『お屋敷』へ向かう。注意する声を無視して廊下を走って部屋に飛び込み、おはようと挨拶をして一言、二言声を交わして。それで終わり。
 いってきます、また夜に。いってらっしゃい、の寂しげな声に大好きだよと言い残して身を翻し、『学園』まで駆け戻る。走るのはずいぶん早くなったし、体力もついた、とジェイドは思う。一日は慌しい。授業を受けて魔術に対する理解と知識を深めながら、魔力安定への研鑽を積む。
 ほんの僅かな魔力の乱れさえ、ジェイドには許されない。万に一つの事故は、『お屋敷』と『学園』を往復する日々の終わりだ。決して己の魔力を暴走させず、事故なく怪我はさせず、また、使用しない。それがジェイドが五王との間に取り付けた誓約だった。
 脅威にならず、無力であれ。例え己の命が危機に晒されることになろうとも。未熟である身で『外』に出ることを願うなら。それを飲み込めるなら許そうと王たちに告げられて、ジェイドは偽りなきよう整えられた誓約書に名を書き入れた。勤勉であれ、誠実であれ、諦めることなく前を向け。その言葉だけは、ただ、囁きとして耳に残った。
 口約束ではない契約は、『扉』をくぐるごと、ジェイドの魔力を封じ込める。目隠しをされるような、耳を塞がれるような、やわやわと喉を絞められるような、閉ざされる不愉快に慣れる日は来なかった。辛いと感じることの方が多い日々だった。慌しい毎日はジェイドから学友との交流を奪い、余裕を削り、時に足を止めさせた。
 会いに行かなければそれですこし、楽になる。一日だけ。休んで、たまには誰かとゆっくり話をして。なにも考えずにゆっくり眠って。明日になったらごめんと告げればいい。誘惑は何度もジェイドに囁き、そのたび、それを切り裂いて捨てていく。誘惑は、かつてのジェイドが心底欲しかったものだ。日常と、仲間たち。
 求めれば今度こそ、たやすく手に入るだろう。魔術師の卵たちは毎日忙しく行き来するジェイドを、体を壊さないか不安がり心配することはあれど、異端として忌避することはしなかった。戸惑いながら、それでも仲間として見守ってくれていた。それでも、そこにシュニーがいない。走っていく先にしか。
 朝も、夜も。不安がって、うつむいて、涙ぐんで。今度こそもう来ないかも知れない、と。その心をシュニーは一度も、口に出すことはしなかった。もし行かなくても、次の日に顔を出したジェイドを責めることなく、とろけるように笑うだろう。会いたかった、と言ってくれる。嘘偽りなく。
 もう会いにきてくれないのではないか、と泣いたことも、その悲しみや苦しみも、全部隠して。嫌いにならないで、という悲鳴を、離れていかないで、という願いを今度こそ表に出すことはなく。ただ、会えて嬉しいと、もうそれだけで満足しなければいけないのだ、と己に言い聞かせながら。
 そのことに、ジェイドが耐えられない。嫌いになんてならないから、ただ信じて、怒って欲しい。けれどもそれが出来るほど、シュニーはジェイドを信じていない。一方的にジェイドを好きで、引っ張り込んで努力を強いている、とシュニーが思っているからだ。違う、と言って、好きだと告げて、日々を繰り返しながらジェイドは待った。
 半年、一年。二年目の日々も同じようにして過ごす。平日は朝と夜、休みの日は課題を持ち込んで解きながら、ジェイドはシュニーの傍にいた。他の『花嫁』のように、花や服や甘味を望むでもなく、構って欲しいと口に出すことはなく。シュニーはじっと、ジェイドの背にくっついて待っているのが常だった。
 終わったよ、というとぱっと顔を輝かせて抱きついてくる。それからようやく、シュニーはあれこれ話し出すのだった。誰とどんなことをしたのか。なにが楽しかったのか。それは殆どが、ジェイドが『傍付き』としてシュニーに与える筈のことだった。『花嫁』として相応しく。育てて欲しいと、望まれたのに。
 努力ばかりが積み重なる鬱屈とした日々。それが終わりを迎えたのは、二年目の長期休暇の初日のことだった。寝泊りの為の一室を借りて荷物を置き、シュニーの元へ顔を出す。明日から二ヶ月は一緒だよ、と告げるジェイドを、シュニーはじっと見つめて目を潤ませた。どこか拗ねた顔つきだった。
 どうしたの、と問うと、シュニーはもうっ、と怒ってジェイドに抱きついた。
「どこか行っちゃだめ!」
「……うん? 一緒にいるってば」
「二ヶ月しても行っちゃだめ!」
 たぶんそれが、はじめての、シュニーが言った我侭だった。二年、ずっと我慢して。ようやく、言ってもいいのだと。甘えて、怒った、言葉だった。それで嫌われはしないのだと。もう、もうっ、とぎゅっと抱きつきながら怒るシュニーに、ジェイドは思わず声をあげて笑った。
 なんで笑うのおおっ、と怒るのさえ、愛しかった。



 年が明けると、ジェイドは十、シュニーは十二になった。針のむしろのような新年の挨拶巡りから解放され、ジェイドはよろよろとシュニーの膝に倒れ込んだ。『お屋敷』の中でジェイドが心安らぐのはシュニーの傍だけである。なんで挨拶に行っただけであれこれ嫌味を言われなければいけないのか。
 傍にいられなくて寂しい思いをさせているのなんて、指摘されずとも知っているし、『傍付き』としての知識や経験が圧倒的に欠けているのも自覚している。魔力を無理に封じられていて本当によかった、とジェイドはシュニーに抱きつきながら息を吐いた。苛立ちでうっかり呪いでもしたら、待っているのは独房とシュニーなしの日々である。
 耐えられない。
「……ジェイド? どうしたの? 甘えっこさん?」
「うん。……もうちょっとだけ甘えさせて」
「ジェイド可愛い……! ふふ! いいのよ。私、お姉さんだもの。たくさん甘えてね。ねっ」
 かわいいかわいいっ、とはしゃいだ声で頭を撫でられると、ようやく気持ちが落ち着いてくる。もそもそ体を起こせば残念がられたので、膝の上に頭を乗せてみる。やわらかい。室内の世話役たちからは、それだからたくさん怒られたり嫌味言われたりするんですよ、と呆れ半分のやさしい目を向けられたが、気が付かないふりをする。
 シュニーは大はしゃぎでジェイドを撫でたり抱きしめたりして、満足したのだろう。しびれないうちに、と身を起こしても、もう残念がる目は向けられなかった。
「ジェイド、どこへご挨拶に行っていたの? 今日は誰にいじめられたの?」
「……色んな所に挨拶に行って、どこでも誰にでもいじめられた」
 だからなんでそこで、そんなことないよって言えないんですかあぁあっ、と潜めた声で世話役に叫ばれ、ジェイドは目を固く閉じ、耳を両手で塞いだ。こういう受け答えが『傍付き』たちの反感を買っているらしいが、一々誤魔化すのも、嘘をつくのも不誠実だ、とジェイドは思う。
 とにかく『花嫁』に心配をかけるな、という方針らしいのだが。世話役たちのお小言がひと段落した所で、耳から手を外したジェイドが見たのは、寝台の上でぷんぷん怒りながらなにかを探すシュニーの姿だった。なに探してるの、と問えば、ちょうど見つけた所だったらしい。
 えらく自慢げな顔をして振り返ったシュニーの手には、うつくしい毬が持たれている。
「安心して、ジェイド。私が、えい! ってしておくからね!」
「……投げるの?」
「あのね。おなかをねらうの」
 自信満々、やる気に満ちているシュニーに、世話役たちは言葉もなく頭を抱えてしゃがみこんでいる。駄目って言ってるじゃないですか、と呻く世話役たちのお叱りを、シュニーは聞こえないふりで受け流した。だんだん当たるようになってきたんだからっ、と自慢いっぱいの言葉に、ジェイドは笑って寝台から立ち上がった。
「じゃあ、投げる練習でもしに行こうか。晴れてるから庭に行こう。見てあげる」
「まかせて……!」
 奨励すんなあぁあああっ、と『花嫁』の近くにある世話役にあるまじき怒号が、室内から流れて廊下まで響き渡る。そっくりな仕草でささっと両耳を手で押さえ、聞こえなかったことにしたふたりは。視線を交わし合って、くすくす、と笑った。



 シュニーとジェイドが出歩くと、『お屋敷』のそこかしこから悪夢めいた呻きが向けられる。ひっと息を飲み、ちょ、え、まっ、なん、えぇ、など言葉にならない声ばかりが響き、人々が次々と頭を抱えてしゃがみこむ光景は見慣れた者だ。誰か責任者呼んで来い、と声が響き、彼方へ走り去っていく足音も同様に。
 まあ今日はなにかと忙しそうだったから、到着まで一時間はかかるだろうな、と目算をつけて。ジェイドは手を繋ぎながら、よろよろ、一歩、一歩、ふらつきながらも、確かめるように歩いているシュニーの顔色を確認した。蒼褪めていたら抱き上げる。赤くなりすぎて、熱を出しそうなら同様に。
 咳をしていたら立ち止まる。休憩して落ち着かなければ、部屋に戻る。それはシュニーとジェイドがふたりで決めた約束である。無理をしない。我慢してまでは、しない。ジェイドが駄目だと思ったら、言うことを聞く。今日のシュニーは息切れをしているだけで、体調は落ち着いているように見えた。
 立ち止まって休憩しても咳き込むことはなく、荒れた呼吸もだんだんと落ち着いていく。
「……ジェイド」
「うん?」
「しゅに、あるくの、じょうず……なった、でしょう?」
 疲れていたり、恐らく、意識がそこまで届かない時。私、ではなく、己の名で囁いてくるシュニーに、ジェイドは心からの笑顔で頷いた。
「上手になってるよ。すごいな、シュニー。……ゆっくり行こうな」
 今日の目標は、とりあえず、小言を言う誰かに見つかる前に中庭へ辿りつくことである。手毬を投げるのは室内でもできなくはないからだ。はにかんだ笑みを浮かべて頷いたシュニーは、ジェイドの手を大切そうに繋ぎなおして、またゆっくりと一歩を踏み出した。
 歩く、という動作のやり方を。考えながら、確かめながら、シュニーは歩いていく。並んで歩きたい、という望みをかなえてやりたくて、ジェイドはいつも手を繋ぐ。ゆるく引いて、ゆっくり、隣に立って歩いていく。シュニーがそう言い足したのは、ジェイドが『学園』から戻ってすぐのことだった。
 追いかけたかったのだ、とすぐに分かった。離れていくジェイドを、シュニーは寝台の上で手を伸ばすことしかできなかった。歩くことは、『花嫁』の教育に含まれていないことをジェイドも知っている。だからこそ。追いかけていきたくて。どうしても立って、歩いていきたい、と思ったその気持ちに。もう、駄目だとは言えなかった。
 階段だけはジェイドが抱き上げて、ようやく、先に中庭が見えた頃だった。
「ああぁああ!」
 ふわふわの。蜂蜜めいた甘い声が、廊下の空気をやわやわと揺らす。
「しゆーちゃん!」
 はっとして振り返った、階段の踊り場に。一人の男と幼い『花嫁』がいた。『花嫁』は当然の顔をして男の上に抱き上げられており、なにやら興奮した様子でシュニーを見て、ちたちたぱたたと身動きをしている。落ち着かせる為に背を撫でながら、男はゆっくりと階段を下りてきた。
「シュニーさま、でしょう。ミード」
「らヴぇ? みぃは、ちゃぁんと! しゆーちゃん、て言ったでしょう? しゅーちゃ……んん……? しゅ、ゆー、ちゃ? ……しゆーちゃん!」
「ミード。遊び終わったら、今日は発音練習をしましょうね」
 その言葉は、『花嫁』にとってあまりに衝撃的であったらしい。みるみるうちに金色の瞳には涙が浮かび上がり、いやぁ、と弱々しい声で『花嫁』は『傍付き』に抱きついた。
「らヴぇがいじわるを言う……。みーどはちゃぁんと、しゆーちゃんをしゆーちゃんて言ったもの……」
「ミード。しゆー、じゃないでしょう? シュニーさま、ですよ。シュ、ニー」
「しゅ、い……に。しゅに……しゅにぃ……しー……しゅにーちゃん」
 したったらずの甘い声で、苦心して、何度も何度も繰り返して。ようやく呼ぶことができた名前は、それでもどこか、ふわふわと響く。『傍付き』は可愛くてならない、という笑顔で『花嫁』を見つめた後、戸惑うジェイドの前へ歩み寄り、こんにちは、と言った。
「さ、ご挨拶しましょうね、ミード。こんにちは、ジェイド。シュニーさま」
「こんにちは……」
 人見知りをするのだろう。恥ずかしそうに『傍付き』にくっつきながら、もじもじする『花嫁』は、ジェイドを見て、シュニーを見て。えい、と気合の入った様子できゅっと目をつむって言った。
「しゆーちゃん! ……言えた!」
 ふ、と笑みを深めて。『傍付き』が『花嫁』の頬をもにもにと手で押しつぶす。いやぁああっなんでええぇっ、と甲高い声で抗議する『花嫁』に、ジェイドは思わず苦笑した。本人は本当に言えたつもりで、そしてなにより、一生懸命にそうしたのだろう。『花嫁』の名を間違えられる不愉快さより、くすぐられるような愛らしさが先に立つ。
 シュニーもそうなのだろう。くすくすと肩を震わせて、シュニーは男の名を呼んだ。
「ラーヴェ。……あんまりミードを怒らないであげて。また拗ねてしまうでしょう?」
「……そう仰るのであれば」
 しかし、手遅れであったらしい。頬をもにもにされる、という折檻から解放された幼い『花嫁』は、それはもう怒りに怒った様子で頬をぷっくぷくに膨らませ、我慢が出来ない様子でラーヴェの肩をぺちぺちと叩き出す。
「らヴぇ! しゆーちゃんのいうこと! なんできくの! らヴぇはみぃの! みぃのなんだから! みぃのみぃのみーどのおおおっ! しゆーちゃんのじゃないの! みーどのなの! うわきっ! うわきなのっ?」
「ミード。手を痛くするでしょう。叩くのはやめましょうね」
「うわきっ、う、う……え……ふぇ……えぅっ……だめなんだからぁ……」
 半泣きでぐずりだす『花嫁』を、男は腕の中に閉じ込めるよう、やわらかく抱きなおした。とん、とん、と指先が背を叩く。そうしながら男の視線がジェイドとシュニーに向けられて、先に行っているように、と促される。目的地としていた中庭は、もうそこに広がっている。
 なんで合流することになっているんだろう、と思いながらも、ジェイドはシュニーの手を引いて歩き出す。ゆっくり、ゆっくり。己の足で歩いていくシュニーを眩しげに見つめた『傍付き』は、やがて『花嫁』にだけ意識を与え、穏やかな歌のよう、言葉を囁いた。



 ラーヴェは『お屋敷』の中で、ジェイドに好意的なほぼ唯一の『傍付き』である。それはラーヴェが元々は、シュニーの『候補』であったからだ。ラーヴェか、『候補』と呼ばれるもうひとりの内どちらかを、シュニーは『傍付き』として決めあぐねていた。そんな折の事故であったのだと誰もが言った。
 ジェイドが選ばれたのは、まさしく事故である。末裔が『お屋敷』を訪ねてくることは本当に稀なことであるから、空気は祝祭のようにさわさわとして落ち着かないでいた。それを不思議に思ったシュニーが詳しい話をせがみ、ラーヴェと『候補』はシュニーを連れて、散歩がてら遠目に様子を眺めに行ったのだという。
 一目で恋に落ちた。その瞬間を、シュニーの『候補』たちはすぐ傍で見ていた。『花嫁』が『傍付き』となる者を選びきれないのは、よくあることなのだという。はじめは十数人、そこから半分、徐々に数を減らして最終的にはたった二人が『候補』として残される。『花嫁』を腕に抱く許可を得る『候補』として。
 それは大体が『花嫁』より年上だ。選別の時点で特別な理由がない限り、そういう風になっている。それは後年、歩く理由を持たない『花嫁』を腕に抱き、守るが故のことであり、体力や体格をそれに合わせて鍛え上げる必要があるからだった。だから年下が選ばれるのは、単純に事故めいた遭遇であり。外部の者となると、前代未聞であったのだという。
 同じ『お屋敷』の仲間であれば、『候補』のひとりであれば受け入れることもできたのだと。シュニーの『候補』の片割れは『お屋敷』そのものから去り、ラーヴェは他の『花嫁』につけられた。かねてからミードは、ラーヴェが気になっていたらしい。すぐに『傍付き』として指名され、そのことは、ただ歓迎を持って迎え入れられた。
 元いた『候補』を押しのける形で選ばれたのはどちらも同じであるのに、待遇には天と地の差があった。周囲に苛立ちこそすれど、ジェイドはラーヴェを羨んだことはなかった。羨んだり疎んだりするには難しいほど、ラーヴェがジェイドに気を配ってくれたからだった。
 今も。ラーヴェは幼い己の『花嫁』をシュニーに預け、すこし離れた所から、ふたりの様子を見守っている。まだ十にもならないちいさな『花嫁』は、損ねた機嫌をもう上向きにしているらしく、シュニーに顔を寄せてなにかをこしょこしょ囁いては、きゃぁっ、とはしゃいだ声で笑っていた。
「……ミードさまは、シュニーが嫌いっていう訳ではないんですね」
「まさか」
「じゃあ、やっぱりあなたのせいなんじゃ?」
 疑惑を乗せたまなざしに、ラーヴェは笑みを深めるばかりで言葉を返してこなかった。ミードは『お屋敷』の中を散歩するのが好きらしく、ジェイドともよく廊下で行き会うのだが。すれ違うたびにもじもじと、なにか言いたげにはにかまれ、シュニーと一緒であればほぼ必ず先ほどのように、なにかと騒いでぐずられる。
 ラーヴェがシュニーの『候補』であったことが、気になって仕方がないのだろう。己の『傍付き』として得た今でも。うわきっ、うわきしちゃだめっ、というのが、ジェイドが最も聞き覚えのあるミードの言葉だった。
「安心させてあげないと、かわいそうですよ。……俺が、なにを、と思うかも知れませんが」
「いいや、分かってるよ。ありがとう、ジェイド」
 いくつか年上の男の手が、本物の兄のように親しげに、ジェイドに触れて撫でて行く。大きくなったね、と告げられるのには気恥ずかしさを感じてうつむく。気配を感じたのだろう。ぱっと振り返ったミードが、やあぁああっ、と悲痛な声をあげた。
「うわきっ? うわきなのっ? しゆーちゃん、しゆーちゃん! らヴぇがすぐうわきするううううっ!」
「……なでなでって浮気だった? かな……?」
「なでなではうわきにふくまれるでしょおおっ! らーヴぇはミードのおおおおっ!」
 考え込むシュニーの隣で、ぶんむくれたミードはかんかんになって、じたじたと暴れて文句を言っている。目を細めて『花嫁』を見た男は、くす、と喉の奥で静かに笑った。いっぱいに満たされた、幸福な笑み。ジェイドは思わず、ラーヴェをにらむ様に呟いた。
「わざとだ」
「ぷーってふくれて可愛いもので。……ああ、ほら、ミード。叫ばない。喉が痛くなるでしょう」
 ジェイドの白んだ視線を受けてもまったく動じることはなく、歩み寄って跪いたジェイドは己の『花嫁』に幾度も囁いた。俺はミードのだよ。ミードのものだよ。その言葉を告げる為に。その機会を多く得る為に、求められる為に、ラーヴェはミードを怒らせているに違いなかった。
 かわいそうに、と見守っていると、ラーヴェは『花嫁』に手をきゅっと握られ、頬をぷくぷくに膨らませてなにかを言い聞かせられている。そのうち、ぐずっ、と半泣きでぐずりだすのを、ラーヴェは慣れた様子で抱き上げた。それを近くから見守るシュニーには、微笑ましさと、すこしばかりの安堵があった。
 傍にいた分、ラーヴェがどうしてもシュニーとジェイドを気にかけてしまうように。シュニーもまた、心配してしまうのは確かなことだった。ミードがうわきうわきと騒いで怒るような感情では、決してないのだけれど。ラーヴェの腕の中であやされて、『花嫁』はすぐに落ち着いたらしい。
 しゆーちゃんとおはなしするの、とお姉さんぶった物言いに、ラーヴェは幼子をシュニーに託し、ジェイドの元へ戻ってきた。見ていると、シュニーとミードはひとつの手鞠を覗き込み、身を寄せ合ってはこそこそとなにか相談をしている。投げる、だとか。やっつける、だとかいう単語が聞こえてくるのは気のせいではないだろう。
 一応、ジェイドは聞いておくことにした。
「いいんですか?」
 俺はシュニーがしたいようにさせてあげたいので、別にいいんですけど、と言い添える。『花嫁』たちのくちびるの動きを読み、会話を完全に把握していながら微笑ましく目を細めている『傍付き』は、穏やかな笑みで首肯した。
「ミードの力では、あたってもくすぐったいくらいにしか感じませんので」
「というか、ラーヴェさんをいじめられる人って存在するんですか……?」
「そうですね、たまに」
 ただし、二回苛めて来る気概のある相手はいないらしい。そうだろうな、とジェイドは頷いた。無害なふりをして傍により、喉元を掻き切るのが大層うまいひとだ。ジェイドもやられてばかりではなくて、もうすこし反撃してもいいんですよ、となんの気負いもない微笑で告げられて、ため息をつく。
 ラーヴェに行けない分までジェイドに来ている可能性については、考えたくなかった。

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