五年に一度、『お屋敷』は外部に向かって門を開く。通常なら侵入者を拒む門番たちは、その日だけはにこやかに、ありとあらゆる者の訪れを歓迎してようこそ、と中へ招き入れる。王都の住人は解放された一角を見学し、遠方からは遠足に訪れ、常の訪れを許可されていない商人たちはここぞとばかりに商品を売り込む。
対応する者たちは楽しげに受け答えをし、それでいてひっそりと、警備は常より強化される。あくまで開かれているのは定められた一角であり、不意を突いてその奥へ侵入しようとする者には、容赦ない制裁が加えられることとなる。毎年、一人か二人は侵入者がいるのだという。
絶対に侵入できないって話をちゃんと流してあげているのに、どうしてか後を絶たないの、とジェイドに語った少女は、不思議そうに首を傾げてぱちぱちと瞬きをした。当主として人前に出ているからこそ、少女には理解できないのだろう。語り聞かされ、知識として抱いていてなお、目の当たりにする『花嫁』は人々を魅了する。
その日、開かれた庭に面す廊下を、当主はとことこと幾度か往復する。つまり、運が良ければ『花嫁』、あるいは『花婿』を直に見ることができるのだ。それは高価な宝石をてのひらに乗せて、無垢な笑顔で眼前に差し出されるのに似ている。魔が差すこともあるだろう。もっと近くで見たい、触れたい、あるいは、己のものにしたいと。
午前中で今回の『侵入者』が三人を数えたと聞いて、ジェイドはさもありなんと同情的な息を吐きだした。一人でも惑わされる者は後を絶たないというのに、今年は二人も、とことこ行ったり来たりしているのだ。物慣れた少女と、まだ照れくさそうに対応する少年の組み合わせは、その様を想像するだけでも被害者を増やす。
街や城に出た時に、遠目で見て引き寄せられるよりは対処がしやすいもので、と朝からはりきっていた警備の者たちを思い出し、ジェイドはなにも言うまい、と首を振った。やりくちがまるきり誘蛾灯のそれだが、この方式を導入して以来、外に出た時に不意に襲われる確率がぐっと減ったというのも、少女から教えられていた。
午後は不幸にも惑わされた者が道を踏み外しませんように、と祈りを捧げ、ジェイドは昼寝をしたシュニーを世話役に託して部屋を出た。日曜日であるから比較的時間に余裕があるとはいえ、シュニーが眠りから覚めてすこししたら『学園』に帰らなければいけないだろう。
ため息をついて廊下を歩いていく。常とは違う華やかな空気があった。それは祝祭にも似ている。『お屋敷』には単なる行事の一つであるが、人々にしてみれば滅多にない機会である。風に乗って、『花嫁』『花婿』とはまた違う、幼子たちの太陽のような笑い声が響く。
当主のように解放された場に下りずとも、遠目に、人々がやってくる様子を眺める『花嫁』『花婿』は多い。午前中は、シュニーもずっとそうしていた。あっ、ジェイドだっ、と口々に呼び止めては目を輝かせてくる宝石たちに手を振り返し、『傍付き』たちからなるべく視線を逸らして一礼し、通り過ぎて。
ジェイドは、開かれた一角へ足を踏み入れた。廊下を歩き、人々の視線には『傍付き』らしく礼儀正しく微笑み返し、見張りの立つ扉の前で立ち止まる。騒がしい声が聞こえてくる。『傍付き』たちはこの一日で、入れ替わり立ち代わり、この部屋を訪れる。ジェイドも例外ではない。
「失礼します」
声を響かせてから、扉をすこしだけ押し開いて滑り込む。顔をあげて室内を確認するより早く、あぁあんっ、と赤子の泣き声が耳をつんざいた。
「うーん。このこは元気だから……世話役さんかなぁ。こっちのこは……うーん、うーん、運び手さん。こっちは事務方さんかな。それでこっちは、傍付きの候補さん!」
「えっ……えっ、ぜんぜんわからな……えっ、どうやって見定めて……?」
明るい部屋だった。幼児用の寝台がいくつも並べられ、世話人が付き添って赤子が寝かされている。寝台は一列に五つ並べられ、それが全部で十列もあった。列と列の間をとことこと歩きながら、前当主の少女が手元の紙にあれこれと書き込み、見習い当主の少年が困惑しながらついて回る。
えっ、えっ、と泣きそうに少女の手元と赤子たちを見比べる少年に、ジェイドは思わず微笑んだ。ううん、とジェイドの訪れに気が付いた様子はなく、少女が悪戯っぽく首を傾げる。
「なんとなく?」
「えっ、えぇっ……ええぇ……? いいのか? それ、それで、いいの……?」
「うーん? でも、参考意見、なのよ。わたしが、こうじゃないかな、っていうのが、絶対そうなるっていう訳じゃないの。この子たちが将来、この『お屋敷』でなにになるかは、もうちょっと育った後の適性を見て、その時の『運営』が判断するものだもの。だからね、なんとなくでいいの。なんとなくで」
それに、『花嫁』『花婿』として迎える子は見れば分かるでしょう、と少女は言った。それだけが分かって、それを間違えなければ、わたしたちはいいの。赤子の泣き声がいくつも響く室内で、少年は困惑しながらも頷いた。そして、ふ、と戸口を振り返り、ジェイドを見て表情を和ませる。
声なく。口の動きで名を呼んでくる少年に、ジェイドは気持ちを込めて一礼した。にこにこと笑って手を振る少女は、さあ続き、と少年を促し、またとことこと寝台の間を歩いていく。あのこは世話役、あのこは運び手。きっと『お屋敷』の力になってくれる。歌うように少女は告げていく。『花嫁』『花婿』を定める声は響かない。
集められた五十人のうち一人もいなくても、次の五十人には一人、いるかも知れない。五年に一度迎え入れる孤児、訳ありの赤子、幼子たちは時に数百。その中のひとりか、ふたりだけが、外生まれの宝石として迎え入れられる。稀に多ければ、もうすこし。五年に一度の周期で、花は増えていく。
中には『戻ってくる』者もあるのだという。嫁いだ先の『花嫁』から、『花婿』から。育てて欲しい、と希われて。うつくしく、あいらしく、脆く、弱く、生まれ育った血筋の『次』は、またその性質を持ってしまうことが多い。手元ではどうしても育てきれない。専門の機関として、『お屋敷』は養育を託されるのだ。
五年に一度、あるいは、そうしてほとりほとりと。『お屋敷』は花を増やしていく。その為の開放日なのだった。五年に一度、砂漠の全土から、故あって育てられなくなった幼子や、弱く脆く生まれてしまった赤子や、孤児たちが『お屋敷』に引き取られてくる。
その選定の為に、当主は幾度も部屋を往復するのだ。今は赤子の時間であるが、隣の部屋にはもうすこし、成長した幼子も集められているのだという。だいたい二歳ですね、と告げられて、ジェイドはそちらの部屋へ足を向けた。集められた者たちの顔を見て回ることも、この日定められた、『傍付き』の役目のひとつだった。
部屋は五つ使われている。年齢ごとに一部屋に集められ、入れ替えながら当主が見定め、あるいは『傍付き』たちが見て回る。『花嫁』『花婿』を見送った者も、まだ手元で慈しむ者も、等しくそうすることが求められる。これだけの命を救うために。生かす為に。嫁がせていくことは、必要なのだ。
隣の部屋には迎え入れた幼子たちと、世話人たち、そして『傍付き』候補の少年少女たちの姿があった。眠らせたり、あやしたり、絵本を読み聞かせる世話人たちの傍で、こちらもまだ幼い候補生たちは、好奇心に目を輝かせて一挙一動を見守っている。
そのうちの、ひとり。眠る幼子の傍に座り込み、ひどく神妙な顔をしている者がいた。ジェイドは遠目に候補と、その幼子の姿を見て、ふ、と口元を和ませる。前当主の少女は宝石として迎え入れる者を見れば分かる、と言ったが、それは『傍付き』も同じことだった。
見れば分かる。不思議と目を惹いてならない、すこしだけ、体温を上げるような。鼓動を早くさせるような存在は、いつか『花嫁』と呼ばれるだろう。候補の少年の目が、はなよめだ、と囁いている。このこがおれのはなよめ。ずっとずっとそばにいたい。このこのためなら、なんだってできる。なんだって。
世話人たちがそっと視線を交わし合い、ジェイドもまた、頷いた。少年はやがて『傍付き』と呼ばれることだろう。迎え入れた幼子が無事に育ち、『花嫁』と呼ばれるようになった暁には。すこしだけ、ジェイドは少年を羨んだ。『傍付き』は誰もがみな、赤子のうちに『花嫁』の候補と引き合わされる機会を得る。
そして、その瞬間に思うのだという。このこだ、と。このこがおれの、わたしの、はなよめ、はなむこ。このこのためなら、どんなことだって。そばにいるためなら、どんなことだって。そう思って、強く強く決意して、努力を重ねていく。名前を呼んで、と許可を与えられるその日まで。
その、衝動的な運命を。すこしだけ感じてみたかったと思って、ジェイドは苦笑した。『花嫁』を失わない『傍付き』が思っていいことではない。それくらいの決意をして傍にあった候補たちを押しのけて、シュニーに選ばれてしまった自覚はあったから、なおのことだった。
本当によくラーヴェに恨まれなかったな、と思いながら次の部屋へ向かう。帰る前に顔を見ることができればいいのだが。最近のラーヴェはミードの傍に付きっ切りである時間が長く、『お屋敷』と『学園』との往復を続けるジェイドとはすれ違ってばかりだった。
ふと、予感が胸をざわめかせ、ジェイドは口唇に力を込めた。季節は初夏。妖精が魔術師たちを迎えに来る季節。年明けに十四になった『花嫁』ならば、もうそろそろ、嫁ぎ先が決まってもおかしくない時期だった。
『花嫁』を乗せた馬車が、とろとろと『お屋敷』から離れていく。見送る世話役たちの顔には、一様にほっとした安堵が広がっていた。『旅行』に赴く『花嫁』が、そのまま嫁がされてしまう、ということはまずありえない。それは先方でなにか重大な事故が起きたという証であり、『お屋敷』の不手際をも意味しているからだ。
目的地へ向かう行程でも、滞在する屋敷の中でも、『花嫁』は常に監視と護衛に守られる。惑わされて手を伸ばす者はあれど、その熱が肌に触れることはなく、穢されてしまうこともない。可能性が全くない、ということではないのだが。『花嫁』は不慮の事故が発生した際にも、己の身を守る方法を、言葉を、教わっている。
その為に教育は成されるのだから。砂粒のような可能性は、いつでも心に暗い影を落として消えなかったが、常に見つめて息を苦しくするものに、してはいけなかった。大丈夫、まだ帰ってくる。この『旅行』は、まだ。永遠の別れではない。
そう言い聞かせるように部屋へ戻る世話役たちの間をすり抜けて、ジェイドは馬車が去った方角をいつまでも見つめている、『花嫁』の『傍付き』へ声をかけた。まだ霧の晴れぬ、早朝のことだった。ねぼけまなこの『花嫁』が、いやいや、と首を振って『傍付き』にすがるのを、ジェイドは言葉にならない想いで見つめていた。
別れの日はもう、すぐ傍まで迫っている。夏が終わり、空気には秋の匂いが混じっていた。
「ラーヴェ。おはよう」
「……ああ、ジェイド」
瞬きをして、振り返るまでには、いくばくかの時間があった。離れていく馬車に寄せていた気持ちを、手元まで無理に引き戻したように、かすかな痛みすら感じさせる。きゅ、と口唇を噛んで歩み寄り、ジェイドはラーヴェの肩を叩いた。戻ってくるよ、と言いかけて、やめる。
今回はそう慰められても、もう次に同じ言葉を告げられるかどうかは、分からなかった。
「随分早いように思うけど、なにかあった? まさかとは思うけど、呼び出しとか?」
「いつもより少し早いだけだよ。今日、ミードさまが『旅行』に行かれると聞いたから……顔が見られるかと思って」
ミードが先の『旅行』から戻って、今日の出発へ至るまでは三ヵ月程の間があった。その期間をミードは殆ど『花嫁』の区画から出ず、また頑としてラーヴェを傍から離さずに過ごしたのだった。シュニーの布に施す花の刺繍だけは、人の手を介してジェイドの元へ戻って来た。残りは八つ。今年中には終わらないだろう。
ミードがその空白をどんな想いで見つめていたのかは、ラーヴェしか知らない。いざ嫁ぐことが決められても、その知らせが『花嫁』本人にもたらされるのは半月前と定められている。『旅行』が決められるまで、一日を削れる思いで過ごしただろう。今日ではない、けれど、明日かも知れない。明日ではなくとも、明後日かも知れない。
その知らせが近いことを、『お屋敷』の誰もが感じ取る。『花嫁』が嫁ぐには準備が必要だ。婚礼の衣装を含めて、祝福の為の準備が。『花嫁』は誰より敏感に変化を感じ取る。『傍付き』を離さなくなるのは、その為だった。ジェイドがなにか言葉を続ける前に、それを遮るように、ラーヴェは大丈夫だよ、と言った。
「まだ、帰ってくる。それに……ほんとうは、それは、祝福されることだ、ジェイド。幸せに、なられるのだから」
君はその証明だろう、と言葉にはされず。柔らかな笑みに作られた瞳が物語っている。ジェイドは視線をそらさずに息を吸い込んで、そうだな、と言った。嫁いだ先で、宝石は幸せになれる。恋をして、ひとを愛して、血を繋ぐこともできる。
ジェイドはまさしく、その証明だ。『花嫁』は、『花婿』は、幸せになれる。
「……なにがあってもすぐ来るから。呼んで」
いざ嫁いでいくその日にしか、他の者には知らされない。国中に鳴り響く祝福の鐘の音と、送り出した者だけに許される衣装を『傍付き』が纏うことで周知と成すからだ。朝と夜しか来られないジェイドには、祝う、という点でも、慰める、という点でも不利である。
なにが、とは言葉にすることができずに。求めたジェイドに、ラーヴェは照れくさそうに笑って、一度だけ頷いた。
当然のことではあるのだが、誰がいつ、どこへ嫁ぐのかを当主は知っている。その選定をし、決定を下し、様々な準備をはじめるように、と命令をするのも当主の仕事であるからだ。そうであるから、最近の、見習い当主は物憂げだ。前当主たる少女に、そんなに悩まないのよ、と窘められても、表情が晴れることはなかった。
数ヵ月ぶりに書庫室へ引きこもってしまったのだと聞いて、ジェイドは遠い目をしながらその場所へ向かった。シュニーの『旅行』中のジェイドにわざわざその知らせがもたらされるということは、行って様子を見てきて、という前当主からの業務命令に他ならない。
門番よろしく、扉の前でジェイドによろしくお願い致しますと微笑んだ『傍付き』は、表情をそのままに素振りをしていた。その剣でなにを仕留めるつもりなのか。ジェイドはじりじりと距離を伺って書庫室に駆け込みながら、そんなに気に入らないなら前当主さまと見習い当主さまにも仰ればいいじゃないですかっ、と呻いた。
他の誰かが『花婿』にちょっかいを出すのが気に入らない気持ちは分かる。本当に心底分かる。ジェイドも自主的にやっているわけではない。業務命令で呼び出されたのである。拒否権はあってないようなものだ。前当主の生き残った『傍付き』は柔和な微笑みで死角を狙いながら、あなたに対する準備ではないのでお気になさらず、と微笑んだ。
気にしなくなった瞬間、死角に回り込んで殴打する準備を整えながらなにを言っているのだろうか。説得力って言葉の意味を知っていますか、もちろんですそれがなにか、と言葉を叩きつけあい、うふふあははと微笑みを交わして、ジェイドは疲れきった気持ちで書庫室の扉を閉めた。
扉を閉めれば、そこから先に女はやってこない。来なくていい、と少年が告げたのだという。ひとりにしてほしい、と。それが強がりだと分かっていても、拒絶を告げられたのなら、『傍付き』はそれを乗り越えては手を伸ばせない。そういう風になってしまった。ジェイドはただの代理だった。
薄闇の中を進んで、灯篭と水差し、菓子の置かれた机の下を覗き込む。毛布を敷き詰めた巣めいた場所で、少年はくちびるを尖らせ、膝を抱えて座り込んでいた。どうしてジェイドがやってきたのか、少年には察しがついたのだろう。浮かんだ微笑みは諦めと、息苦しさを漂わせていた。
「……俺にはね、ジェイド。まだ、ミードの気持ちの方が……よく、分かるんだよ」
離れたくない。傍にいたい。傍にいて、欲しい。その望みを叶える為に、『傍付き』として選びとる。その気持ちこそが恋だ。それを、そう呼ばなければ他になんの言葉も当てはめられないくらい。純粋で、ひたむきな、恋。目を伏せて、ジェイドは静かに頷いた。
たったひとり、わたしだけのものでいて、と望んだひとに。しあわせになれるよ、と告げられて、花開く恋は蕾を閉じていく。そうして誰もが嫁いでいく。ぎゅ、と閉じた少年の目から、涙がいくつか零れ落ちた。
「分かるのに……どんなにか、傍にいてほしくて、恋しいか、分かるのに、知ってるのに……。ミードの嫁ぎ先を決めて、そこに送り出す指示を出すのが、俺なんだよ。……ごめん。ごめんな、ジェイド。ジェイドを否定してるんじゃ、ないんだ。幸せになれるって、教えてくれる。教えてくれた。ジェイドは、だから……」
ごめん、とほたほた泣きながらうずくまる少年に、ジェイドはいいえ、と首を振った。
「ですがどうか、不安に思いすぎないでください。祖父は幸せであったと聞きます。……ラーヴェのミードさまも、きっと、幸せになります。ラーヴェがそう育てたのですから」
「うん……。うん、分かってる。分かってる……! ごめんな……ごめん、分かってるんだよ。ごめん……」
自己嫌悪で眩暈がした。どんな言葉を重ねても、ジェイドはそれを経験することがない。幸せになれる、と囁いて。シュニーを手放す日はこないし、そんなことはできない、と思う。ミードはきっとしあわせになれる、と。乾いた声で少年が囁く。
「それに、それで……すこし余裕ができるから。あとのことは、ゆっくり、考えればいいって」
「……前当主さまが、そう?」
「うん。……わかってる。全部、わかってるよ。嫁がせなきゃいけないことも、幸せになれることも……わかってる」
わかっているよ、と囁いて、少年は微笑した。なにかひとつのことを決めてしまって、それに殉ずることを決めてしまって。ひたすらに、そこへ歩いていこうとする。落ち着いた、穏やかな、当主らしい微笑みだった。ごめんな、ジェイド、と少年は言った。ほんとうにごめん、と寂しげに。
幾度も、幾度も、許しを求めず繰り返した。
長期休暇の初日に『お屋敷』に戻って以来、ラーヴェの姿を見なかった。その日も別に会った訳ではない。偶然、シュニーの部屋に行く途中、遠目にすれ違っただけだった。会話はなかった。片手をひらりと挙げて挨拶に代え、ラーヴェは数人の世話役たちと連れ立って、ミードの区画へと消えていった。その背を見送ったのが最後だった。
年末年始に向ける準備と、どこか落ち着きのないざわめきが『お屋敷』を満たしていく。期待と不安。恐れのようなもの。足元まで降りてくる冬のつめたい空気とあいまって、それはどこか気持ちを静かに冷やして行った。年明けを待たず、今度こそミードは嫁ぐのだろう。誰もが口には出さず。誰もがそれを予感していた。
ジェイドが、シュニーと一緒に前当主に呼び出されたのは、年明けを数日に控えたある日のことだった。今日か、明日か、と誰もが祝福の鐘が鳴る時を待ちわび、落ち着かない空気で『お屋敷』がざわめくさなかのことだった。少女は執務室から引っ越した、ちいさな私室で二人を出迎えた。
物のない部屋だった。応接用の机と、向かい合わせのソファ。壁には本棚があり、棚には茶葉や菓子が飾り付けるように置かれている。執務室から移設してきたのか、見覚えのあるソファに恐る恐る座れば、少女は目を和ませていらっしゃいませ、と言った。その背後には常と変わらず、口数の少ない女が、ひっそりと立っている。
「お呼び立てして、ごめんね、シュニー。ジェイドくん。どうしても、今日のうちに済ませてしまいたかったものだから」
「……いいえ」
微笑む少女は詳細を告げなかったが、だからこそジェイドは理解した。明日、なのだろう。新年を迎えられるとは、思っていなかった。落ち着かない素振りで、シュニーはジェイドの膝の上でもぞもぞと身動きをした。不機嫌、というよりは不安げな顔を隠せず、ジェイドにぎゅっと抱き着いたままで離れようとしない。
横に座りなおさせることを諦めて、ジェイドはシュニーの背をゆっくりと撫でた。少女はシュニーの態度を咎めることなく、ただほんのすこし羨ましそうに、目を細めて微笑んだ。
「さて……花の刺繍が、残り五つになったでしょう? ジェイドくんも、来年になって、十五になれば、無事に卒業資格を得られる見込みである、との連絡が来ています。おめでとう。本当によく、頑張ってくれました。ジェイドくん。シュニーも……もう少し、来年、一年くらいはかかると思うけれど、もうすこし、『旅行』に、行ってね」
つん、と拗ねてくちびるを尖らせながら、シュニーはこくりと頷いた。事前に、卒業資格のことをシュニーに話して置いてよかった、とジェイドは胸を撫でおろす。少女からの情報が先であれば、シュニーはまたかんかんに怒って、話を聞く所ではなくなるだろう。
来年は、と。少女は困ったように、やわらかく首を傾げて言った。
「どれくらいの頻度で『旅行』に行くかは、もう任せてしまってあるから……。なにかそれについて、不安があるなら、ご当主さまに聞いてあげてね」
「はい。……もう、お仕事は、全て、向こうに?」
「うん。……ううん、ひとつだけ。ジェイドくんとね、シュニーの、そのあとのこと。それを決めて、伝えて、守らせるまでが、わたしの最後のおしごとよ」
ぬるまった薄荷湯をひとくち、ゆっくり飲み込んで。少女は、だから安心してね、と囁いた。これから『お屋敷』はたくさん変わっていくだろうけれど。それでもまだ、わたしの言うことしかきかないでいてくれるひとも、たくさんではないけれど、いるのよ。こく、こくん、と喉をうるおしながら、少女はふっと息をする。
呼吸すること、を、思い出すように。
「……お加減は?」
「まだ、だいじょうぶ。悪くなった、というほどでも、ないの。いつもと、同じ。いつも、これくらいなのよ。ただ……そうね、やっぱりすこし、落ち着かないでいるから……緊張しちゃうのかも。慣れてる筈なのにね」
気が抜けちゃったのかな、と呟く少女に、ジェイドはそれでいいと思います、と告げた。『お屋敷』を守り、次代へ引き継ぐという重責を、少女はもう十分に果たしてみせた。ゆっくりしていていいんですよ、と言うジェイドに、少女は嬉しそうにやんわりと笑う。
「ありがとう……。ふふ、シュニーが拗ねちゃうから、おしごとのおはなしを、するね」
「むぅ……。ジェイドはわたしのなんだからぁ……!」
ぐりぐり体を擦り付けられて、ジェイドはそーっと天井を仰いで意識を逸らし、努めて力を込め、心の中で数を数えた。ぎゅってしなきゃだめでしょっ、と頬を膨らまされるのにごめんと囁き、腕を回して抱き寄せると、シュニーは気が済んだらしい。
ふふ、ところっと機嫌をよくした笑い声が首筋をくすぐって、ジェイドはひどく遠い目をした。
「そ……それでね……これからの、ことなんだけど……」
口元を手で押さえて思い切り震えながら言う少女に、ジェイドはいいんですよと頷いた。いいんですよ、その背後で遠慮なく笑ってるあなたの側近みたいにしてくれても。
「ふ……っく……。ふふ……もう、そんなに笑わないの! つられちゃうでしょう?」
背後を振り返ってぴしりと叱り、もう、と呟きながらソファに座りなおして。やおら、少女は背を正し、気持ちを落ち着かせるように深呼吸をした。
「とりあえず、もしかして一番不安かな? と思っていることを、先に言うね。ジェイドくんの卒業資格と、シュニーの残りが終わったら、ずっと一緒にいてもいいよ、って言えます。結婚、して、いいよ。それでね、でもね、住む所なんだけど、シュニーにはこのまま『お屋敷』に残ってもらいたいの」
「はい……。それが、シュニーの為にも一番いいかな、と思っていました」
「ありがとう。ジェイドくんにそう言ってもらえて、安心しました」
シュニーはジェイドがいればそれでいいらしく、ひっついたままで満足そうな顔をしている。微笑んで抱き寄せなおしながら、ジェイドは続きを促した。こく、と薄荷湯を飲み込んでから、あえかな息が吸い込まれる。
「それでね」
「はい」
「こどもができたら教えてね」
思いっきりむせたジェイドの腕の中で、シュニーがきょとん、として首を傾げている。むせるジェイドを落ち着かせるのはシュニーに任せ、少女はもじもじと手を組み合わせ、あっまちがえちゃったっ、と恥じらった。
「こどもができることをしたら、ちゃんと教えてね、だった」
どちらにせよひどいしぜったいにおしえたくないしぜったいにひどいしぜったいにおしえたくない。ぜったいに。
「ジェイド、ジェイド」
「……なに、シュニー」
あー、俺はいまなにも聞かなかったほんとなにも、なにも、聞かなかったああぁあああ、と呻きながら、ジェイドはぎこちなく『花嫁』に微笑んだ。正面では少女がつらつらと、性行為における『花嫁』の身体的な負担と妊娠の可能性と体調管理の大切さを語っているが、ジェイドはなにも聞いていないので理解などしたくない。
というかうつくしい少女の口から、性行為、という単語が出てきた現実には対応したくない。ジェイドがまるきり聞く耳を持たないのに、少女がふむ、と考え込んでかわいい単語の方がいいのかしらあのね、と言いなおしているのからも、全力で意識を逸らす。あのね、あのね、ともじもじしているシュニーはほんとうにかわいい。
かわいいな、かわいいな、と見守っていると、シュニーはうんっ、となにか決意したように頷いて。あのね、ともじもじしながら、ジェイドに向かって首を傾げた。
「ジェイド。シュニーとするの、いや?」
「……いやじゃ、ないよ……」
ただ、すごく泣きたい。しかし、きゃぁあよかったっ、とはしゃいで、にこにこご機嫌なシュニーは大変に愛らしかった。でもとりあえず泣きたい。ややうつろな目で脱力するジェイドに、少女が、でも全部終わってからじゃないとするのはだめよ、と言ったのにだけ、顔をあげて。ジェイドはぷるぷる震えている少女に、力なく頷いた。
だから、いいんですよ。その背後で遠慮なく笑ってるあなたの側近みたいにしてくれても。
深夜。突然の訪れに戸惑いながらも、ラーヴェは戸口で当主の少年を出迎えた。寝台では泣きつかれたミードが眠り込んでいる。いや、いや、とぐずり、離れたくないと懇願されるのに、引き裂かれるような気持ちになりながらも眠らせたのは、ほんの僅か、前のこと。
なにかありましたか、と訝しくも問うラーヴェに、少年は柔らかく、うつくしく微笑した。
「ごめんな、ラーヴェ」
「……ご当主さま?」
区画はしんと静まり返っている。いくつか監視の目はあろうが、世話役も補佐も、すこし前から遠ざけられていた。ラーヴェだけにして、ふたりにして、おねがい、とミードが柔らかな喉を引きつらせ、幾度も叫んで願ったからだ。最低限の目だけを残して、後は控えの間にいる筈だった。祈るように。
戸惑うラーヴェに少年は答えず、とことこと部屋に入って来た。そのまま、寝台を見つめて立ち止まる。起こしますか、とラーヴェは訪ねた。わざわざ当主が姿を現した以上、それには意味がある筈で。『お屋敷』の者として、それを聞いておかなければいけなかったからだ。
少年は、うん、と呟いた。肯定とも否定ともつかぬ、返事のような、ひとり言のような声だった。なにかがおかしい、と不審に思うラーヴェに、少年が振り返る。浮かんでいたのは穏やかな笑み。感情が擦り切れ、摩耗しきったが故の。凪いだ、掠れた、微笑みの残り香。
ごめんな、ラーヴェ、と少年は言った。そして、一息に、ためらわずに。
「やれ」
命令を下した。がっ、と鈍い音がしたのが、意識の最後。倒れ伏すラーヴェを無表情に、少年の『傍付き』が見下ろしていた。ラーヴェはぴくりとも動かない。念の為に薬をかがせてから、場を離れて。少年は、寝台で眠るミードへ手を伸ばした。
不穏を感じたのだろう。う、うっ、とぐずりながら目を開けたミードは、夢うつつに少年を見る。なぁに、と問われるのに、少年は呟く。
「……余裕なんて、いらないんだ」
なにかを考える時間なんて、そんなものは。泣き出しそうな囁きに、ミードは少年に両手を伸ばす。どうしたの、とミードは言った。なにか怖い夢をみたの。少年はそれに、うん、とちいさな声で頷いた。きっと、ずっと、怖い夢を見ていく。不思議そうに目をぱちくり瞬かせるミードに顔を寄せて、少年は耳元で言葉を告げた。
夢を。花開くことなく、潰えた夢を。いま許されるのだとしたら、その方法があるのだとしたら。どうする。
「……ミード」
戸惑う『花嫁』に、『花婿』は微笑んで。微笑みながら、涙を流して懇願した。
「たすけて」
そして、言葉が告げられる。それは『花嫁』なら、誰もが望む願いだった。別れの悲しみに弱りきった心では、その誘惑に抗いきれない。いいの、とミードは震えながら問いかけた。いいよ、と少年は笑って答える。すこしだけ我慢してくれたら、俺のいうとおり、そのとおりにしてくれたら。
ミードの視線が震えながらさまよう。床に伏した『傍付き』を見つけて、少女は震えながら手を伸ばした。その手を絡めて少年がつなぐ。
「……どうする?」
ひえた手だった。すこしだけ驚いて、ミードは目を瞬かせる。さむいの、と『花嫁』は囁いた。さむいよ、と少年はこたえる。手を温めてくれるひとを、もう失ってしまったから。ミードはくちびるを閉ざし、ながく言葉に迷った。
「……わたしは、たすけに、なれる?」
「うん……ごめんね、ミード。助けに、なれてしまう。助けに……ごめん、ごめんな……」
「ラーヴェ……。ラーヴェ、ラーヴェ……!」
顔を手で覆って、幾度も『花嫁』は『傍付き』の名を呼んだ。すすり泣くような声だった。心からの。裏切りに対する、それは、懺悔だった。
泣き声。泣き叫ぶ声。ラーヴェ、ラーヴェ、と『花嫁』が呼んでいる。泣いている。全身の痛みを無視して跳ね起きた時、部屋には甘い菓子のにおいと、すえた精のにおいが混在していた。
「……ああ」
少年が寝台から、ゆっくりと身を起こす。中途半端に乱れた服を雑に手で整えて、とと、とふらつきながらも立ち上がる。
「今終わったから、もういいよ。……ミードの結婚は、とりやめ」
少年がてのひらから、なにかを床に投げ捨てる。零れ落ちたのは糖衣錠だった。甘い菓子のにおいがしていた。ざぁっと顔を青ざめさせるラーヴェに、少年はくすくす、と喉を震わせて笑う。
「裏切り者。お前にはこれがなんだか分かるんだ。……いいよ、好きに使って。ミードはもう飲んでるから、まだくるしいだろうし」
「……は」
「ミードは嫁がない。このまま、当主の妻とする。言ってること、分かるね?」
ふらつきながら、少年は部屋の出口へ向かう。ひどくだるそうな様子で。一度だけ振り返り、少年はいいの、とラーヴェに問うた。はやくしてあげないと枯れるけど、そんなにぼぅっとしていても、いいの。突き飛ばされるように寝台へ駆け寄ったラーヴェに、泣きじゃくるミードが両手を伸ばす。
「ごめんなさ……ごめんなさい、らーヴぇ、ラーヴェ……!」
取り戻された腕の中で、『花嫁』は泣いた。信じたくない気持ちで、ラーヴェはてのひらで『花嫁』を辿る。その輪郭を確かめるように。乱れた服と、血のにおい、精のにおいが濃く、『花嫁』にまとわりついている。太股の奥に、吐き出されたばかりのそれがなまぬるくこびりついている。血のにおいがした。なにかの。誰かの。
ごめんなさい、と半狂乱に繰り返しながら、ミードはラーヴェにすがりついた。目を閉じて、ずっと。ラーヴェだと思っていたの。ラーヴェだと思ったの。したの。どこにも行きたくなかった。ラーヴェの傍にいたかった。ごめんなさい、ゆるして。うらぎった。ごめんなさい。ごめんなさい、らーヴぇ。ごめんなさいごめんなさい。
それでも。
「らーヴぇの、に、なりたい……! して? ねえ、して? して? してぇっ……!」
「ミード……」
「ラーヴェのにして……? ミードを、ラーヴェの」
たったひとりに、して。そばにいさせて。離さないで。ずっとずっと、一緒に、いて。ねえおねがい、ゆるして。ごめんなさい。うらぎってごめんなさい。ゆるして。きらいにならないで。ゆるして。狂乱する『花嫁』を抱いて、ラーヴェは哂った。どんなことを命じられたとしても。それだけは、できない。嫌いになるなど。許さないことなど。
おいで、とラーヴェは『花嫁』を引き寄せた。
部屋の扉が閉ざされる。それから半月。新年を迎え、数日が経過しても。ラーヴェは扉に鍵をかけて閉じこもり、その『花嫁』と共に、姿を見せることはなかった。