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 ようやく塞がった傷口を眺め、少年はやや名残惜しそうに呟いた。
「よかったのに……。治さなくても」
「馬鹿なことを仰らないでください……。お願いですから、どうか。どうか……お願いですから」
 死のうとなさらないで。絞り出す声で懇願する『傍付き』から、当主となった少年はふいと視線をそらして頷いた。分かっている。死なないでいて欲しい、と思われていることを、知っている。彼女がそう願ってくれるうちは、死にきれないことを知っている。
 生きてください、と囁かれる。その言葉を叶えていたい、と思う己の心を知っている。望まれるなら叶えてあげたい。望んでくれることを、返してあげたい。少年はふ、と笑って喉に指先を押し当てた。呪われた思慕は、今や命の為の取引に使われている。
 そうしてくれると知っていたから。少年の恋の片割れは、目の前で喉を突いて死んだのだ。その瞬間を何度でも思い出せる。その瞬間を。忘れることができずに、瞬きの一瞬の空白、真昼の暗がり、夜の静寂の中に、鮮やかに描くことができる。
 死にたい、という願いは奪われた。そして失われたきり、許されないままでいる。当主という立場だけなら、無視してしまえた。『お屋敷』にとっての幸運は、それでも『傍付き』がひとり残ったことだろう。少年のたましいは、あの瞬間から息を止めたままでいる。
 呼吸を。思い出して、途絶えさせないで、どうか、どうか、と。繰り返される願いだけが、少年をか細く生に繋いでいる。前当主の少女は、それを見誤った。すこしでも、わずかでも、立ち直ってくれたのだ、と思ってしまった。安心してしまった。欺かれていることには気がつかなかった。
 ただ、嘘をついていただけだったのに。嘘を重ねて行っただけだったのに。そうしなければ、いきて欲しい、という言葉には応えられなかった。なにを求められているのかは知っていた。どういう期待が寄せられているかを理解していた。その通りにふるまった。
 けれど、嘘を重ねても、心がそれを飲み込むことはなかった。じわりじわりと降り積もっていく圧迫は、息苦しさを募らせて行くだけ。呼吸をするたび、瞬きをするたび、喪失を突きつけられていくだけだった。なにもその空白を埋められなかった。
 埋めようとも思わなかった。代わりを探すことはしなかった。それこそが裏切りに他ならず、その喪失だけが唯一、少年を責め立てた。生き延びたことを、それだけが。その痛みだけが、与えられた怒りだった。他には誰も口にしなかった。なぜ生きたのかを。
 もう替えがいなかったから。『傍付き』を殺してまで生きてしまったことを、誰も怒りはしなかった。そのことを、よかった、とさえ前当主の少女は言った。生きてくれてよかった、と。恐らくは誰もがそう思っていることを、いたことを、少年は知っている。それは『傍付き』の死の肯定だ。喪失は誰にも肯定された。否定されなかった。
 手首と指先にできたかさぶたを見つめて、少年はぽつ、と問いかけた。
「ミードは?」
「……ラーヴェからの返答がありません。世話役たちの声も、補佐であるアーシェラの言葉も……すべて無視されています。部屋には鍵が」
「うん。まあ、そうだろうな。……ああ、でも、それじゃあ……間に合ったんだ」
 その言葉を、安堵に満ちたように。それでいて、興味がなさそうに。歩き疲れて立ち止まるように、少年は呟いた。
「それなら……俺たちの勝ちだよ、ミード」
 傷口の、ようやく塞がった指先に口付ける。傷つける痛みには理由があった。意味があった。それはふたりきりの、裏切りの約束だった。今頃はもうとうに、ラーヴェは仕掛けに気が付いているだろう。出てこないということは、そういうことで。ミードは枯れることなく生き延びた、ということだ。
 出てきたら連れておいで、と少年は『傍付き』に命じる。不安に思っているだろうことをひとつ、教えてあげないとかわいそうだから。柔らかな、擦り切れた微笑みには頷きがひとつ。少年は満たされたように、ふう、と息を吐きだした。



 アーシェラ、とラーヴェの補佐を呼ぶ世話役の、悲鳴じみた声が控え室に響き渡る。入っていいって、ラーヴェが、ミードさまが、と途切れながらも告げられた瞬間、アーシェラはジェイドを一瞥もせず駆け出していく。部屋が閉ざされて、三週間が経過した日のことだった。
 動揺は火のように部屋中に広がり、押しつぶされたように消えていく。それについて『運営』からの通達は、ついぞ下されないままだった。『傍付き』たちは新年の挨拶のおり、当主たる少年から、なんの気もない雑談のような言葉としてそれを知らされた。ミードは嫁がない。当主の妻となる。
 ラーヴェは、と誰かが言った。『傍付き』はどうしているのですか、と。『花嫁』が年末に嫁いでいくことは、知らされなくとも『お屋敷』の誰もが知っていた。それは祝福されることだった。『傍付き』はその為に『花嫁』を育て上げる。国の為に、人の為に、命の為に。『お屋敷』が続いていく為に、それは必要なことだった。
 少年は興味を失ったような瞳で場を眺め、落ち着いた声でこのまま『お屋敷』に残留する、とだけ言った。それ以上も、ことの詳細も、決して語ることはなかった。年末にアーシェラたちが締め出されてからの混乱が決定付けられ、動揺と不安は火傷のように『傍付き』たちを蝕んでいく。
 説明を求めるいくつもの声に、少年は答えず、姿を現すこともなかった。側近の女の説明によれば、体調を崩して起きあがれないらしい。数人の医師が出入りしていたのは誰もが見知ったことだったから、無理を押すことはできなかった。宝石たちは些細な傷、病でも時に死に至る。その綱渡りの脆さを、知らぬ者は『お屋敷』にはいない。
 代わりに動揺を鎮めたのは、前当主たる少女だった。少女は部屋へ押しかけてくる者ひとりひとりを丁寧に落ち着かせ、時に叱咤し、時には怒り、丹念に言葉を聞いて、丁寧に感情を解きほぐした。新年から半月とすこし、その前の異変の夜から三週間あまり。暴動が起きなかったのは、ひとえに少女がそうして鎮めていたからだった。
 知っていたのか、という問いに、少女はきっぱりと分からなかった、と言った。なにかを考えている風であったのは、知っていた。なにかずっと抱え込んでいたことも、知っていた。でもわたしも、誰も、それを聞きだすことはできなかった。楽にしてあげることも。そしてこれからも、きっと、誰も、そういう風にはしてあげられない。
 もし知ってたらわたしは止めたかな、と自問するように少女は呟いた。次々と訪れる者たちが表面的な落ち着きを取り戻し、ジェイドがそっと、少女の様子を伺いに来た時のことだった。止めたかな、それとも、そのままにしておいたかな。応援だけはしなかった、と思う、と言葉は迷いながらも差し出された。
 問うよりはやく、少女は困りきった、泣き出しそうな顔で少女はジェイドを見た。だって、ね。お金がないでしょう。でもあのこはそれを知っていた。この先をどうするか考えて、その上で決めてしまった。くらい影を帯びて少女は言った。ごめんね、ジェイドくん。『お屋敷』はきっと、これから。
 あなたのようなひとを、迎えることを、ながくできなくなるでしょう。あのこはきっと、送り出された『花嫁』の、『花婿』の行く末に夢を見ない。幸福な夢を、そこにしあわせがあるのだという希望を、描くことができない。震える手を祈りに組んで、少女はごめんね、と繰り返した。ジェイドに、『傍付き』たちに、『花嫁』に、『花婿』に。
 その未来に、ごめんね、と囁き告げた。でも、彼の、そう思ってしまった気持ちが、わたしには分かる。欲しかったのがその先の、その末の幸福ではないと、思い込んでしまう気持ちがわたしには分かる。あの時、あの瞬間に。『傍付き』の腕の中で息絶えてしまいたいと思った気持ちが、誰より、わたしには理解できる。
 だってあなたたちに、『花嫁』に『花婿』に、あの教育をせよと命じるのはわたしなのよ、と少女は言った。ラーヴェにも、ミードにも、しなさいという命令をわたしが出した。彼もこれから、その指示を出し続ける。どんな想いでいたのか知っているのに。嫁いで行く、その先の幸福の為に、どうしてもそれをしなければいけない。
 そうだね、と少女は泣き笑いで言った。そんなのいやだよね。しんじゃいたいよね。でも、たくさんの、ほんとうにたくさんのもののために、だれかが、わたしが、それをつづけて、つないで、いかないといけないって、わかってしまったんだよね。いなくなれないよね。いなくなりたいよね。くるしいね。ずっと、ずっと、くるしいままだよね。
 その苦しさを飲み込んで、いなくなりたい気持ちと共に、歩いていける者だけを当主と呼ぶ。彼は、ほんとうなら、それができなかった。『傍付き』がひとりなら、きっと、その腕の中で共に息絶えたのでしょう。言葉を告げられないでいるジェイドに、少女はやわらかく、穏やかに微笑んだ。
 シュニーのことを幸せにしてあげてね、と願われて。ジェイドはそれに、頷くことしかできなかった。あなたは幸せでありましたか、と。問うことはどうしても、できなかった。



 だからぁ、みぃはごとーしゅさまのおくさまー、をすることになったのっ、とえへんと自慢げに説明を締めくくられて、ジェイドはそうですかとも言えずに微笑んで沈黙した。ミードが事の重大さを理解しているとは思えないのだが、『花嫁』を膝に乗せてふわふわ緩んだ笑顔になっているラーヴェからも、なぜか深刻さを感じることができなかった。
 もうこれはこれでよくないですか、と死んだ目で問うジェイドに、ミードの世話役たちが必死になって首を振ってくる。お願いだから聞き出してください私のここ一月の心痛を哀れと思うならどうか、とラーヴェの補佐であるアーシェラから再度頼み込まれ、ジェイドは投げやりな気持ちになりながら、視線を前へ戻した。息を吐く。
 約二ヶ月ぶりに顔を見たラーヴェは、想像していたどの状態とも違っていて、なぜかとても機嫌がいい。幸せそうにふわふわ気配が緩んでいて、うんうんそうだなミードさま可愛いなお膝に乗せてぎゅっとするのかわいいよな俺もシュニーぎゅっとしたいよく分かる帰りたい、という気持ちにさせてくれる。帰りたい。すごく。今すぐ。
 しかしジェイドにそれは許されていない。なぜならシュニーを人質に取られているからである。ミードの隣に座り込んで、こしょこしょ耳元で内緒話をしあい、ないしょないしょときゃっきゃご機嫌に笑いあっている状態であっても、心理的に人質に取られていると思えばそれがすべてだった。どうしてこんなことになっているのか分かりたくない。
 ラーヴェが部屋の扉を開けた、という情報が『お屋敷』を駆け巡ったのは先週の出来事だ。ラーヴェはすぐ当主に呼び出され、なんらかの話し合いがされたのだという。『運営』からそれとなく下ろされた情報はそれが全てで、ジェイドが他の者に探りを入れても、誰もが困った顔で分からないと零すだけだった。
 そこから一週間。明日にはジェイドは長期休暇を終えて『学園』に戻る、という日になって、シュニーがミードから遊びに来ませんか、と招待を受けたのだった。シュニーの布に刺繍ができていなかったことを、ずっと気に病んでいたらしい。それでおしゃべりもしたい、とのことで、ジェイドは『花嫁』をつれてミードの区画を訪ねたのである。
 訪ねた部屋は、思っていたよりもずっと様子がおかしかった。考えていたような妙な息苦しさや閉鎖感こそなかったものの、ラーヴェは普段の五割増しで幸せそうにふわふわしているし、ミードはその膝に陣取ったまま絶対に離れようとしないし、補佐たるアーシェラと世話役たちはミードさま幸せそう愛らしい、と胸を押さえて咽び泣いていた。
 なにもかもなかったことにして帰ろう、と決意したのはジェイドだけで、シュニーは逆に目を輝かせてミードお話しましょうっ、と意気込んだ。『花嫁』としてなにか通じてしまうものがあったらしく、部屋に来てからというものの、ジェイドはシュニーに放置されて、ひたすらなにか苦行めいた事態に放り込まれていた。
 ミードさまがお幸せそうで胸がいっぱいでお願いだから事情を聞かせてくださいと言ってもひ、み、つぅー、と仰ってかわいくてかわいくてかわいいからジェイドお願い聞き出してあなたなら出来るしあなたならラーヴェも許してくれる、筈、というのが代表アーシェラ以下世話役一同の総意である。もう諦めて欲しい、とジェイドは思っている。
 なにせ、ジェイドが聞いても、よく分からなかったからだ。説明の締めの言葉、だからごとーしゅさまのおくさまー、をすることになったのっ、という所だけは聞き取れたが、それ以外はずっとふにゃふにゃ鳴かれているようだった。恐らく説明はしてくれていたのだろう。いっしょうけんめいに。身振り手振りで。
 けれども発音がほわほわふにゃふにゃ甘くてとろけていたせいで、ジェイドにはふにゃんにゃ、なの、それでねっ、にゃあぁんでねっ、だからきゃんきゃんにゃぁーなのっ、と言っているようにしか聞こえなかった。ラーヴェに解読を求めても、ふにゃふにゃしてるミードかわいい、という笑顔が返ってきただけだった。なんの役にもたたなかった。
 聞き出して、といわれても、今聞き終わった所である。聞き取れなかったので発音を頑張って頂けませんでしょうか、など言っても結果は火を見るより明らかだ。ぶんむくれて怒って終わりである。というか途中でラーヴェが止めも補足もしなかったので、ジェイドには本当にどうすることもできない。
 世話役たちも分かっていることである。ミードはラーヴェの『花嫁』だ。ラーヴェの言うことならば聞き入れる。ある程度。それなのに、言うことを聞かせられる相手が沈黙しているということは、『花嫁』の説明を黙認している、ということだ。あるいは、詳しく情報を共有するつもりがない、ということだった。
 諦めてくださいそれかラーヴェを説得してください俺には無理ですほんっとラーヴェの相手とかほんと無理ですほんとにほんとに心から、とうつろな目で首を振るジェイドに、『傍付き』はふ、と笑って。片腕でミードをやんわり抱き寄せると、幸せに緩んだ穏やかな声で言った。
「ミードは本当にふにゃふにゃ言ってただけだから、分からないと思うよ」
「……はい?」
「らヴぇ? わ・た・し・はぁ! ちゃーんと。説明してたでしょ?」
 体をぺっとりくっつけてふんすと不満げに鼻を鳴らし、ミードはそう主張した。そうだね、と柔らかにラーヴェが微笑む。
「ふにゃふにゃ言ってただけだよね、ミード?」
「んん? ……みぃしらない!」
 ぺっかーっ、と輝く笑顔だった。発音がおぼつかない『花嫁』は、自分でそれを理解していて、時々逆手に取ってくる。せつめーしてあげたもの、ふふんっ、とやたらと自慢げに胸を張って主張したのち、ミードはそれでねあのね、とシュニーとのこしょこしょ話に戻ってしまった。これ以上は話してくれるつもりがないらしい。
 無理です諦めましょう、と伝えるべく振り返ったジェイドの視線の先では、アーシェラが胸を手で押さえてうずくまっている。ミードさまの笑顔で胸が苦しい、らしい。よく見ると泣いている。世話役たちが理解しきった顔で目を潤ませながらハンカチを渡し、頷きあっている所まで観察して、ジェイドは正面に向き直った。
 帰りたい。帰りたいのだが、シュニーはミードと大盛り上がりの真っ最中で、とてもではないが許してくれそうにはなかった。ふたりでないしょのおはなしをするのっ、とラーヴェすら追いやられる始末だ。落ち着くまではずっとはしゃいでいるに違いない。
 菓子や茶器の用意を整えてから部屋の隅へやってきたラーヴェに、ジェイドは潜めた声で問いかけた。視線はシュニーに向けたままで。当たり前のようにラーヴェもそうしているから、お互いに、表情を読み合うことはできなかった。
「ラーヴェは……ミードさまが、ご当主さまの……奥方であることは、いいの?」
「いいもなにも。ミードがそうする、と言っているからね。ご当主さまもそう仰った。通達も下されたろう?」
「そうだけど」
 説明もなにもない決定事項だけが書かれた紙が一枚、回覧されただけである。曰く、『花嫁』ミードは当主の妻とする。日付と、その一行だけの知らせである。説明したくないんだろうね、と前当主の少女はため息をついたが、さりとてそれ以上には少年の内面を説明してくれることはなく。『お屋敷』の混乱は日ごとに増しながら今にまで至る。
 せめてもうすこし言ってあげて欲しい、と求められて、ラーヴェはふむと考え込む呟きを発した。視線はこしょこしょと囁き合う『花嫁』たちの、くちびるの動きに向けられている。ラーヴェ程の精度はなくとも、ジェイドもそうして言葉を読むことができるから、内容は知ることはできた。それぞれの『傍付き』の、自慢話をきゃっきゃとしている。
 察しているのか、偶然か、重要な話をする時だけは耳に口を寄せて手で隠し、こしょこしょと囁いては顔を見合わせて笑っているので、内容を知ることはできなかった。
「そうじゃなくて。ラーヴェは」
「ん?」
「ラーヴェは……ミードさまが」
 好きだろう、なんて問うことはできなかった。そんなことは聞かないでも知っている。誰かの妻となることを、受け入れられるのか、と。口にしてしまうことは、できなかった。そうする為に『傍付き』は『花嫁』を手放すのだ。眉を寄せて黙り込んでしまったジェイドに、ラーヴェは苦笑しながら身を屈め、横から顔を覗き込んでくる。
「ジェイド。……ミードが、さっき、なんて言ったかは覚えている?」
「聞き取れたトコなら」
「聞き取らせようとして言った所、だね。……なる、と。する、の意味をミードは分かってる」
 分かっていて、だから、そうとは決して言わなかった。囁くラーヴェに、ジェイドは目を瞬かせた。
「それは……つまり?」
「言えない。秘密」
「考えろってことな、分かった……。でも、とりあえず良かった……のかは分からないけど、安心した……脱力したのかも知れないけど」
 もっとおかしくなってるかと思った、と言ってジェイドはラーヴェを見返した。『花嫁』を嫁がせられなかった『傍付き』は悲惨だ。大体が病や怪我を元に枯れてしまうこともあって、日を増すごとになにかがおかしくなっていく。満ちたものがじわじわと腐るように。そこから助かる者もいる。しかし、だいたいは気が狂う。
 幸せになると信じて送り出すことで、はじめて、完成するように作られる。ジェイドは一生未完のままだ。あるいは、ラーヴェも、もうそうなってしまったのかも知れない。見つめ返す瞳は、穏やかだった。穏やかに、緩んでいた。幸福に満たされて。見たことのない喜びを、抱いているのが分かる。
「……ラーヴェ」
「うん?」
「ミードさまは、ご当主さまの奥方を、する、なら。ラーヴェは?」
 迷うことなく言葉が告げられる。『傍付き』。今度こそ、死がふたりを別つまで。別つとも。病める時も健やかなる時も、求められるままずっと、ずっと傍にいる。だから。ミードがどうしてもしたいなら、ご当主さまの奥方くらい、すればいい、と微笑んで言ったラーヴェに。ジェイドは苦笑して肩をすくめた。
 『花嫁』は知らないことであるが。どうしてもしたいなら、というのは。遠回しな、『傍付き』たちの不満である。



 当主の配偶者というのは、『お屋敷』において限りなく存在感が薄いものである。それにジェイドが思い至ったのは、ミードがおくさまをするんだからあああっとふんぞり返って張り切っているからで、シュニーが大丈夫なのかしらと不安そうにしながら『旅行』へ行ってしまったからで、つまりは精神的に暇になったからである。
 どういうことをするものなんですか、と問いかけたのは前当主の少女に、だった。少女が当主であった頃、当然、夫君というものは存在していた。夫があるからこそミードが生まれ、その姉である『花嫁』も産まれたのだから。少女はなんとも言えない表情で質問をしてきたジェイドを眺め、ううぅん、とソファの上で首を傾げてみせた。
「気になっちゃったのね……?」
「すみません……。気になったというか……気にもなったんですが、そういえば、姿を見たこともないな、と思ってしまって。どんな方なんですか……?」
 名前も知らないし、顔も見たことがない。存在を知らないので、非実在の可能性すらまことしやかに囁かれる。それが前当主の配偶者である。存在していることだけは確かな筈だ。ミードと、姿を消した『花嫁』の父がその配偶者であるのだから。少女はううぅん、と言葉に迷う呻きを漂わせ、視線を逸らして呟いた。
「わたしもしばらく会っていないし……だから、その……思い出すから待ってね……?」
「思い出さないと説明できない感じなんですか……? え……?」
 非実在の可能性がじわじわと真実味を帯び始めてくるから、やめて欲しい。ええぇ、と信じられない呟きを零しながら待つジェイドの前で、少女は落ち着きなく視線をさ迷わせ、指先をもじもじと擦り合わせては、ああでもない、こうでもない、というような顔で首を傾げ、瞬きをしている。
 真剣な面差しは、決して茶化してからかっているのではないからこそ、どんよりとした不安が滲んだ。少女の側近は珍しく傍に控えることをせず、話題が始まった時から、なぜか本棚の整理を始めていた。とん、とん、と本を抜き差ししてはなんらかの法則に従って揃えている音だけが、ちいさな来賓室に響いている。
 うーん、と考えながら薄荷湯をひとくち飲み込んで、少女はちいさく頷いた。
「あのね、ジェイドくん」
「はい」
「じつをいうとわたし、あのひとに五回くらいしか会ったことがないの」
 なにを言っているのか分からなかった。は、と乾いた声を零したジェイドに、少女はううん、と悩ましげに眉を寄せ、ぱたぱたと指を折っていく。
「顔合わせでしょ、スピカを産むのにしてもらった時でしょ、スピカを産んだ時に見に来てもらった時でしょ、それで、ミードを産むのにしてもらった時と、産んだあとに見に来てもらった時でしょ……? あ、あれ、でもスピカとミードが『傍付き』を選んだ時に、お祝いに会いに来てくれたから……えっと、そうすると……七回……?」
 現実が受け止めきれないので、ぜひとも積極的に口を閉じてもらいたい。ジェイドは隠すことなく対面のソファで頭を抱え、指折り数え挙げられたその七回に沈黙した。道理で覚えがない筈である。少女は頭を抱えるジェイドをちらっと見たあと、ずずず、と音を立てて薄荷湯をすすった。
 視線があちこちをさ迷い、気まずそうに言葉が続けられる。
「というかね……七回はあの……嘘ではないんだけど正確でも、なくて……」
「……はい」
 もはや義務感だけで返事をするジェイドに、少女は眉を寄せたまま、そっと息を吐きだした。
「ちゃんと、会った、のが、七回っていうだけで」
「……はい?」
「特別誰も聞いてこないし、わたしも言いふらしたくはなかったし、というかそもそも、『運営』は知ってる筈っていうか知らないとおかしいというか、だからね、あの、その、つまりね……わたしが頼んで、お願いして、連れてきてもらったから、あのひとがどう思ってるかは、未だに分からないんだけど……」
 だからその、と。ぽそぽそ響かない声で、頬を染めて。少女はまるで恋でも告白するように、やわやわと響く淡い声で、それを告げた。
「わ、わたしの……褥教育をしてくれたひとなの……! あ、えっと、今は閨教育っていうんだっけ……?」
 好奇心を持ってしまった過去の自分を殺したい寧ろ死ね、とジェイドは思って遠い目をしつつ頭を抱えて沈黙した。聴覚を消したい。というか記憶を焼き払いたい。知りたいと思って聞いてしまってすみませんでした本当に反省しているのでこれ以上は勘弁してくださいお願いします、とジェイドが口に出すより早く、あのね、と声が響いて行く。
 少女がかつて『花嫁』であった頃、『傍付き』として選んだのは女性であった。つまりは今、恐らく、殺意なりなんなりを誤魔化す為に、する必要のない本棚の整理を続けて意識を誤魔化している側近の女、そのひとである。少女はいちどだけ、こちらを向きもしない女をちらっと見たあと、すこしだけ頬を膨らませ、拗ねた声で続けていく。
 現在、五か国のうちで同性婚を認めているのは砂漠だけであるから、同性の『傍付き』を選んだ者の閨教育は、だいたい二人が担当することになっている。嫁ぎ先で宛がわれるであろう異性と、異性に対する抵抗があった場合の同性である。つまり少女の閨教育は二人がかりで行われ、そのうち一人、異性の方を後年そっと呼んだのだという。
 当主である以上、後継ぎがどうしても求められる。『花嫁』は産む側であるから、相手は慎重に選ばねばならず。その選定の手間と知らない相手を嫌った少女が、どうしても逃れられないなら、と指名して頼み込んで、配偶者として種を貰ったのだという。そうですか、とジェイドは耳を両手で塞いでえずくように呟いた。
 『花嫁』がその教育以外で、それを施す者に会うことはない。絶対的な規律がそれを禁じているし、なにより『傍付き』が事故を装って殺害に走りかねない。ジェイドはそっと、本棚に向かい合う女の様子を探った。よくぞ殺さなかったものだとしみじみ関心するが、『傍付き』の内心を理解した様子もなく、少女はつんとくちびるを尖らせている。
「いいの。だって、あのひとはわたしを、そういう風な好きにしてくれてもいいかな、くらいには思ってくれていたから、してくれたんだと思うけど。そ……そういう、欲望のない、愛情、というのも、あるでしょう……?」
 恋だとしても。愛していたのだとしても。目を潤ませ、溜息と共に囁く少女は、一度だけ女の背を、振り返らない姿を見て、諦めたように瞳を陰らせた。何度も、何度も、諦めて。今また諦めを重ねたという、慣れた、それでいて消しきれない希望にすがる眼差しだった。いいの、と少女は呟く。
 指を折って握り込んで、求めて、伸ばしてしまわないようにして。
「わたしばっかりが、ずっと、好きなの……。だ、だって、だってね、ジェイドくん! だってねっ!」
「はい……。あの、なるべく刺激しないようにお願いします……」
「配偶者をお選びになってください、というから! じゃあ、あなたがいいってわたしは言ったの! 言ったのに! 男性でっていうの! だんせいでって! なんのために! 砂漠に! 同性婚があるとおもうの! わたしのためでしょっ!」
 かんかんに怒っている少女からそっと視線を外して、ジェイドは女を伺った。振り返って微笑まれていたので視線を外し、ジェイドはぎりぎりと痛む胃のあたりに手を押し当てる。ほんとよく連れて逃げなかったな、と思った。それ程に少女に当主としての適性があったのか、あるいは、監視が厳しすぎたのか。
 だからきっとそういう好きじゃないの、おんなじ好きじゃなかったの、としおしおと落ち込んで涙ぐむ少女に、いえそんなことはないんです、とジェイドは言った。
「もっとこう……いえ、もうすこし具体的に求めて頂かないと……言えないだけで……」
「いいのよ、ジェイドくん。慰めてくれなくてもいいの。でも、ありがとうね……」
 後継ぎを産まないといけないことは、少女も分かっていたのだという。その上での、『傍付き』に育てられ、恋をして求めた『花嫁』の、最後のわがままだったのだと。分かりました、と。ひとこと、そう言ってくれさえしたら、それでよかった。嘘でもいいから嬉しいって言って欲しかった、と呟いて少女は微笑した。
「だから、いいの。今はもう、いいの。……それじゃあ、この人がいい、って決めた時だって、わたしがどうしてもそうしたいのなら、いいですよって言うだけだったもの……」
「そう……でしょうね……」
 そうとしか言えなかった筈である。『花嫁』が決めたことであるなら、と言い聞かせて、希望したのだから、と飲み込むことで、荒れる気持ちをなんとかしのぐ。どうしても、というのは『傍付き』にとってそういう言葉だ。いじいじ、拗ねて指先を擦り合わせながら、あのひとはそういう風にもわたしを好きでいてくれたの、と少女は言った。
 それがすごく嬉しかったから、すこし、わたしもあのひとのことすき、と少女はゆるくはにかんで告げた。嫁いだ先で宝石はもう一度恋をする。それは求める言葉が与えられるからで、求められる幸福を、知るからだ。それを最後まで残しておく為に、『傍付き』からそれが奪われる。
 少女は知識として知っていても、それに対する本質的な理解ができていない。そういう風に『花嫁』が育てられるからだ。ええとどこまでおはなししたっけ、と少女はぱちぱち瞬きをして、改めてジェイドに向き合った。うん、いいや、まとめちゃおう、とその顔に書かれている。
「だから、当主の配偶者っていうのは、そういうのが役目なの。こどもをね、産ませてもらうの。分かった?」
「分かりました……もういいです。分かりました、もういいです。わかりましたからもういいです……!」
「ミードはどうするつもりなのかしら……そこまで分かっていないことは、ないと思うけれど」
 あのこも『花嫁』ですもの、と呟いた声は珍しく母親めいていた。でも、別に何人かいてもいいということにはなっているから、なんとかなるのかしら。彼がどうするつもりなのか分からないけど、と眉を寄せて吐き出される声は、それでも確かに、同胞たる『花婿』を案じ、ゆるく憐れむ声だった。

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