最近のジェイドは、シュニーが『旅行』へ行くたびに時間を持て余している。それというのも、やることがないからである。『花嫁』が不在にしている間に『傍付き』が課される教育というものがあるが、口に出すのを憚られるそれをジェイドは免除されているし、『魔術師』としても一通りの教育が終わってしまった為だった。
卒業試験はしかるべき時を待ち、所定の手順によって執り行われる。つまりそれは試験という名がつけられているが、儀式めいたことであり、こちらの都合で期日が指定できるものではないのだという。その知らせは占星術師たちの集う、星見の館から下される。早ければ半年か数ヶ月前、遅くとも三ヶ月前に、日が指定されるのだという。
どんなに短くとも向こう三ヶ月はやることがないので、ジェイドはやや途方にくれている。勉強をするにも必要な部分は終わっているので、論文を書くような研究をしようにも、周囲がいいからこの隙に休めと止めてくるので集中しきれない。やることがない状態で休むと落ち着かない、と零せば哀れむような視線を向けられた。
君それ病気だから早めになんとかしようね、お医者さんの予約はしておいてあげたからね、と微笑んで告げたのはシークだった。当人に無断でそういうことをしないで欲しいのだが、幸か不幸かジェイドの予定は空いていた。数日後に控えた受診のことを乗り気ではなく考え、ため息をつきながら、ジェイドは前当主の部屋から廊下に出た。
関係のないことを考えていないと、少女が告げた、要約すれば、だって『傍付き』はそういう風な好きじゃないんだものわたしはしってるんだからっ、というぶんむくれた訴えの内容について深く思い巡らせてしまいそうで。さりとて受診のことも気分を浮かばせる内容ではなく、己の不器用さに深々とした息が重なっていく。
その欲望を抱くから、『傍付き』は教育によって壊される。ジェイドはただ、そうする意味がないから免れただけであり、ラーヴェは『花嫁』から言葉にして求められたからこそ、叶えられただけなのだ。言葉は正確でなければならない。暗号のように。正しく紡がれた『許可』だけが、『傍付き』の壊れた欲望を引き戻す。
あいまいであっては叶わない。『花嫁』が『傍付き』を求めることは、触れられたいと願うことは、あまりに日常で普通のことだからだ。触ってほしい、と希われても、それは鍵となる言葉にならない。あなたのものだと告げられても、『花嫁』は『傍付き』の宝石であるから、なお解放には届かない。
あえて意味を取り違えなさい、と目隠しをするように。丁寧に丹念に『傍付き』は教育をされる。勘違いを重ねていくように。真綿で首を絞められるように。希望を自ら粉々に砕いていく。期待する心のひかりを消していく。永遠でなくともいい。その瞬間まででいい。誰よりも傍にいる。その願いひとつを叶える為だけに。
それでいて『お屋敷』は望みを残している。無事に宝石を送り出し、その後も研鑽を重ねた一握りの者だけが、十数年後にそれを知る。なぜ『傍付き』に剣が与えられるのか。なぜ、『傍付き』にだけ、佩剣が許されるのか。それは、刃物が花をうつくしく手折る唯一のものだからだ。望まれれば、それは許される。許されて、いたのだと。
あなたのものにしてほしい。うつくしく育て上げた花が、他のどこでもなく、『傍付き』の元に己の幸福があるのだと。そう告げた時に。傷つけることなく、己のものにする為に、その象徴の為に剣が与えられ、予行演習めいた教育は行われていた。触れ方を、加減を、あまりに弱く脆い花をどう愛せばいいのかを。
ラーヴェが三週間引きこもって出てこなかったのは、純粋にその成果である。異性の組み合わせであっても、同性であったとしても、結果は変わらないだろう。触れる欲望なき愛情があることを知っている。そういう恋の形があることも。『傍付き』がそれに当てはまらないだけで。
あるいはそういう『傍付き』もごく稀にいるのかも知れないが、己の性別や様々なものを呪いつくすような女の不機嫌を感じる分に、前当主の側近の女は、絶対にそれに当てはまらない。牙を抜かれ爪を剥がれ耳を塞がれ目隠しをされ、首輪をつけられて、ひとつの望みだけが叶い続ける。
傍にいる。もう、どこにも行かないで、傍にいる。誰が触れても、淡く心を開かれても。それでも、失わない。『お屋敷』は当主を鎖す大きな檻だ。そこにいる限り、もう決して離されない。ジェイドは出てきた部屋を振り返り、『お屋敷』の中では珍しく、ぴたりと閉まった扉を見た。
全てが終わったら告げるのだという、とびきりのわがままを、少女が囁く日はまだ先だろう。ジェイドとシュニーの幸福を見送ったら、と少女はふたりに約束していた。その望みがどうか、女の想いに報うものであればいい。ジェイドは複雑な気持ちで息を吐き出して、人気のない廊下をゆっくりと歩き出した。
少女の部屋は『お屋敷』の母屋ではなく、やや離れた場所に設えられている。特別な用事がない限り廊下を行きかう者はなく、賑わいが近いこともない。穏やかな空気がのんびりと漂っている。だからこそ。廊下を怯えたように歩き、辺りを見回す少女の姿はひどく目立った。
ありていに言えば不審者である。開放日はとうに昔のことであるし、今日は商人の訪れもなかった筈だ。知らないうちに迷い込んでしまうには、この建物は複雑な道筋を通らなければ辿りつけない。ジェイドは眉を寄せ、背後を振り返り、周囲を見回して溜息をついた。
廊下にいるのはジェイドと、こちらに背を向ける少女だけで、誰かがやってくる気配はない。さてどうしたものか、と悩みながら、ジェイドは少女へ歩み寄った。『お屋敷』の者として声をかけ、対処せずにはいられないが、抵抗された場合に制圧していいものかどうかが分からない。
しかし、無視してしまう訳にはいかず。ジェイドは俯き、怯えて震えているようにも見える少女に、そっと声をかけた。
「あの……」
ぱっ、と少女が振り返る。まあるく見開かれた瞳は、甘そうな林檎の色をしていた。
「……え?」
思わず呟き、ジェイドは凍ったように動きを止めた少女に手を伸ばした。なにを考えていた訳ではなく、しいて言えば、それは眼前にある存在を確かめようとする動きだった。肌に指が触れる寸前。違う、と分かっていて、ジェイドは静かに問いかけた。
「シュニー……?」
かくん、と少女の脚が折れる。力が抜けたようだった。廊下に倒れ込む寸前。腕を伸ばして少女を抱き寄せ、ジェイドもその場にしゃがみこむ。ジェイドは少女の体を抱いたまま、茫然と言葉を探していた。少女もまた、全身から力を抜いて、俯きながら言葉を探しているようだった。
不幸なまでに誰も通りがからない。沈黙だけが広がっていく。なにかを確かめたいのに、なにを聞けばいいのか、どう言葉を持ってくればいいのかが分からない。悩んでいると突然、少女が立ち上がろうとした。許さず、ジェイドは息を吐きながら少女を強く抱きしめた。
あぅ、とも、うぅ、ともつかない声が腕の中から弱々しく響く。息を吐きながら天井へ向けていた視線を下ろすと、少女はまだ顔を手で隠しながら、耳まで赤く染めて震えていた。呼びかけたいのに。少女を呼ぶ名を、ジェイドは知らない。困り果てるような、苦しいような気持ちになりながら、ジェイドはもう一度少女に手を伸ばした。
震える手に触れて、顔を見せて、と囁く。少女は無言で首を横に振った。いや、と。だめ、という言葉だけが返される。ジェイドは微笑んで、少女の手首を掴んだ。びくっと体を震えさせるのに構わず、顔から手を引きはがして、覗き込む。少女はぽかんと口を開いて、涙ぐんだ目でジェイドを見つめ返した。
鼓動が跳ねる程、少女はシュニーによく似ていた。くせのない白雪の髪に、ほんの僅か色合いの違う林檎のような瞳。白くしっとりと整えられた肌は丹念に整えられたもので、纏う香水は恐らく、同じものだろう。身長は少女の方がやや高く、体つきはしっかりとしている。体重も恐らく、同じくらいに調整してあるのだろう。
顔立ちもよく似ていた。印象を似せるよう、化粧で調整もしているのだろう。真昼の廊下ではなく、差し込む光の調整された室内であるなら、一瞬見間違えたかも知れない。それくらい、少女はシュニーにとてもよく似ていて、とてもよく、似せられていた。
乱暴な仕草に驚く少女をまじまじと見つめて、ジェイドは自然に微笑んだ。
「……どうして、ここにいるの?」
「あ、の……あの、えっと、わたし」
「君がなんであるのか、分かってる。だから誤魔化さないで教えて」
少女は泣きそうにくちびるを震わせ、俯いてジェイドの名を呼んだ。甘く響く、うつくしい声だった。どう整えたものか、その声音すら、とてもよく似ている。甘やかして慈しんでしまいたい欲望と、ひどく冷たくして傷つけてしまいたい衝動が、胸の中で渦を巻く。
ジェイドは、少女の手首を掴んだ指を、己の手のつめたさを意識して見つめた。こうして触れることなど、ない筈だった。
「……教えて」
話すことなど。
「俺に……閨教育をする、シュニーの『水鏡』である君が。どうしてこんな所にいるのか」
会うことなど、ない筈の。
扉の前に立つ当主側近の女は、混乱した笑みのまま現れたジェイドを見つめて沈黙した。言葉がないようだった。どうしていったい、よりにもよってなんであなたなんですか、とその顔に書かれている。全くの同意見である。ため息しか出なかった。『水鏡』の少女はひどく申し訳なさそうにしながら俯き、ジェイドの背に身を隠している。
女はジェイドと『水鏡』を何度も何度も見比べて、いよいよ目の前の光景が避けられない現実のものであると受け入れると、仰け反って天を仰ぎ、ど、と言って呻いた。どうして、と言おうとして、一音以外は声にならなかったのである。女は苦しげに喉に手を押し当て、首を横に振って目を閉じ、やがて座り込んで頭を抱えた。
その気持ちは、ものすごく、よく分かる。座り込んだまま動かない女と、達観しきって凪いだ目で息を吐くばかりのジェイドを見比べて、『水鏡』の少女はますますしょんぼりと肩を落として涙ぐむ。気持ちを分かち合う相手は、どこからも現れない。当主の私室付近は人払いがされていて、静まり返るばかりだった。
「……ちょっと経緯だけ説明して頂いてもいいですか」
「前当主さまの私室からの帰りに、迷子になっているのを発見。保護。事情を聞いて連れて来ました」
「道に迷いました……。ほんとうに、ごめんなさい……」
今にも泣きそうに目に涙を溜める少女をどうしても放っておけず、ジェイドはため息をつきながら振り返った。びくっ、と怯えられるのに半分は苛立ちながら、手を伸ばしてやんわり抱き寄せる。あ、ぅ、えっ、と戸惑った声が零れるのを無視しながら、背をとん、とん、と叩いてやる。
少女は『花嫁』ではない。分かっている。シュニーとは別の存在だ。分かっている。だからと言って無視してしまうことはできなかった。あまりに似ている。似すぎている。違う、ということは明確に理解していても。淡い戸惑いや拒絶に、反射的な怒りと失望を覚えてしまうくらいには。印象が重なる。
というかシュニーの『水鏡』であるなら、もうジェイドには素直に甘えるべきだし、頼るべきだし、慰められるべきだし、なんというか嬉しそうにしてくれたりして構わないのだが。少女は慰めるジェイドをおろおろと見つめると、狼狽をひっこめることもせずにそろっと離れようとした。
ふ、と思わず笑みが深まる。逃げようとする体を力任せに抱き寄せると、ぴゃぁあっ、と声があがった。落ち着かせる為にやや雑に背を撫でながら、ジェイドは混乱する少女と額を重ね、無理に視線を重ねさせる。
「目的地ここだろ。どこ行くの?」
「あの、あの……わ……わたし、シュニーじゃないのよ……?」
「……見れば分かるけど?」
眉を寄せ、不機嫌な顔で問うジェイドに、だからぁっ、と『水鏡』の少女はやわらかな悲鳴をあげた。
「慰めてくれなくったって、いいの……! こ、こんなに、くっついて、ちかいのっ! だめなんだからぁ!」
「は?」
「なんで怒るのぉ……!」
なんで、と言われても。慰めて、と甘えてくるならともかく、可愛くないことを言われたからに決まっているのだが。ジェイドはため息をつきながら少女の頬に手を伸ばし、到底『花嫁』にはしない雑さでうりうりと撫で潰した。え、あ、あれっ、と目を白黒させる少女に、ジェイドは穏やかな微笑みでもって告げる。
「俺の『水鏡』なのに、シュニーみたいに甘えてこないってどういうことなの? 教えてもらえる?」
「え……えぇ……。だって……だってぇ……」
少女はぽそぽそと、強くは響かない甘いとろりとした声で、うわき、と言った。目を潤ませ、恥ずかしげに頬を染めてつんとくちびるを尖らせて、少女はだめでしょ、とジェイドに言い聞かせてくる。
「うわきでしょ。いけないでしょ。だめでしょ?」
「……迷子の保護は浮気に含まれないと思う」
「なぐさめるのはほごじゃないでしょ!」
いうこときいてくれなきゃだめでしょっ、と怒って言い聞かせてくるさまが、シュニーそっくりで本当にかわいいのに全然かわいくない。あー、はいはい、そうだね、だめだね、と適当な返事で頬を潰して気がすむまでいじめ、ジェイドはややすっきりした笑顔で、ぜいはあ息を乱す少女から手を離した。
少女は頬に両手を押し当て、林檎色の瞳に涙をいっぱい溜め、ぐずぐずと鼻をすすりあげた。
「いじめっこ……楽しそうにいじめてくる……報告書とちがう……!」
「いじめてないよ。人聞きが悪いからやめような」
「わたし、シュニーじゃないから言うことはきいてあげない……! や、やぁーっ、うそっ、ほっぺつねったぁ……!」
つねってないよ摘んでるだけだよ、と微笑みと共に言い聞かせ、ジェイドは少女の柔らかな頬を、むにむに摘んでひっぱった。むにん、と伸びる。かわいい。ほわっとした笑顔で頬を弄るジェイドに少女は目をまんまるくして涙ぐみ、いやいや、と抵抗にもならない身じろぎをした。
「『花嫁』に対する加虐傾向ありって報告しなきゃ……!」
「は? シュニーにこんなことする訳ないだろ?」
「もぉー! うわき! うわきでしょ! うわきじゃないの……っ?」
いじめてないし浮気でもない。いやんいや、とぷるぷる震える少女の頬を好きに摘んでもちもちして、ジェイドは満ちた笑顔でぱっと手を離した。
「ところで、御当主さまになんの用事?」
だめ。言わない。だめだめっ、とばかり、きっとまなじりを険しくした少女は、両手で口を塞いでぷいと視線を逸らしてしまった。本当にかわいいのに、かわいくない。さてどうしたものか、と微笑むジェイドに、背後から、女の呆れ声が問いかける。
「……聞いて連れてこられたのでは?」
「事情を聞いたら迷子だというので。地図を見せてもらって、これだと道筋を説明してもまた迷子になるな、と思ったので連れてきました。御当主さまに呼ばれた、ということまでしか」
精巧とは言いがたい、省略の多い手書きの地図だった。握りしめていたせいでくしゃくしゃになったそれを何とか解読し、なるべく人目につかない道を選んで連れてきたら当主の私室だった、というだけだ。執務室ではないからこそ嫌な予感に顔をしかめるジェイドに、女はそうですよね、と息を吐く。
知っていたら、他でもないあなたが、ここへ彼女を連れてくる筈もない。言葉の意味を問うより早く、女が守っていた扉が、内側からゆっくりと開かれた。
「……ジェイド」
ためらいがちに。どこか、ばつが悪そうに。そろっと顔を出して呼んだのは、当主となった少年だった。はい、とゆるく微笑んでジェイドは答える。どういう顔をしたらいいか、すこしだけ考えながらも、笑みは自然と浮かんだものだった。膝をつくかどうかを悩んで、距離があったからこそ、普通に立ったままで視線を返す。
少年はジェイドを見返して、口元に静かな笑みを浮かべてみせた。ほっとした、安堵の見える笑みだった。ジェイドがこうして少年に向かい合うのはずいぶん久しぶりのことで、なんと声をかければいいのか分からなくなる。新年の挨拶で姿を見たから、息をしてくれているのは分かっていた。
顔色は、あまりよくない。扉の前に立つ女性が気がかりな視線を向けているので、やはり体調がよくないのだろう。眠られておられますか、と問う声は意識せずに零れて行った。恐らくそれがジェイドの、一番不安なことだった。少年はしあわせそうにはにかんで、ゆっくり、首を横に振った。
「ありがとう、気にかけてくれて」
あんなことをしたのに、とかすかな声で呟き、少年はふっと耐えきれなくなったようにジェイドから視線を外した。焦点はゆるゆるとさ迷っていて、どこにも落ち着く所を見せない。御当主さま、と女が呼んだ。生き残った『傍付き』がそう呼びかけるのを、ジェイドは初めて耳にする。
ふ、と意思を灯した瞳で瞬きをして。ふ、と息を思い出したように。薄く開いたくちびるで、胸をゆっくり上下させて。眠りにまどろむような声で、少年はあいまいに、うん、と言って扉に体を預けた。
「でも……いいよ、あんまり気にしないでいてくれて。もちろん、嬉しいけど……ジェイドに、嫌われるのは、つらいから。嫌うくらいなら、あんまり、関心を……持たないでいて」
「嫌う、など……なぜ?」
整えられた形こそ個の好みが反映されたものだが、『花婿』はひとに愛されるように出来ている。少年は嫁ぐことなく当主となっただけであり、その本質が変わった訳ではない。嫌いになれ、と命じられたとしても苦心するだろう。そこにいるだけで、大切にしたい、と思わせる。傷つくことなどなければいい、と願ってしまう。
誰もが。『お屋敷』の誰もが、少年に対してそう思っている。誰の『傍付き』であっても、世話役や『運営』たち。『お屋敷』に携わる者すべてが、か細い祈りのような気持ちを胸の中から消せないでいる。だからこそ年始の混乱も、少年の元へは届かなかったのだ。誰もがそれをためらった。
己の立つ足元さえないような雰囲気で、微笑むことで全てを拒絶する、うつくしい花園の長に。言葉はもう、届かないのだろう。それでも。感情を乗せた言葉が、傷つけてしまう可能性を、誰もが恐れ遠ざけた。嫌いになどなれない。己の『花嫁』に対する、服従にすら似た、反射的な気持ちと同じ強さでそう思う。
あなたを、嫌いになどなれない。言葉にしても告げたジェイドに、少年は困った笑みでゆるゆると首を傾げ、なるよ、と言った。だって、それだけのことをする。それをもう決めてしまった者の静けさで、少年は顔をあげて微笑んだ。枯れ果てた笑み。
おいで、と少年が手を差し出したのは『水鏡』の少女に、だった。
「まさかジェイドが連れてくるとは思わなかったけど……。来たってことは、いいんだろ?」
「……はい」
「うん。……ごめんな。ありがとう」
少女はするりとジェイドのぬくもりから抜け出し、少年の前で差し出された手を取った。いいえ、と静かな声で呟き、少女は少年の手を恭しく、額に押し当てて目を閉じた。
「わたくしたち、『館』の『水鏡』は……新たな『お屋敷』の御当主さま、あなたの望みのままに、この身を捧げます。どうぞ……わたくしたちが、すこしでも、あなたの助けになれますように」
「……ひとり、か。ふたり。産んだら自由になっていい」
「いいえ、御当主さま」
なんの為に『水鏡』が呼ばれたのか。はっきりと理解して顔色をなくすジェイドの、なにもかもを、制したのは側近の女だった。なにも言わず、なにもせず。することを、許されず。ただ少年の傍に控える影に徹する女の、隠しきれない感情のある眼差しが、ジェイドをその場に縫い留める。少年の望みの通りに。
シュニーによく似た面差しを穏やかに緩ませ、姉のよう、母のように、少女は少年の手を取った。
「わたくしたちは、とても自由です。その、自由な意思の中で……あなたに寄り添うことを、選びました。ですからどうぞ、そんな風には思われないで……」
「……それでも、命令だっただろう、って。嫌ってくれてよかったんだ」
「あなたを」
苦しげに、震える声で少女は言った。
「楽にしてあげられなくて……ごめんなさい」
少年は首を横に振る。ぽつ、と呼ばれた響きが、少女の名だろうか。それは聞き覚えのない響きで。シュニー、というそれとは、まったく別の音をしていた。少女は少年に導かれ、部屋の中へ姿を消す。振り返った少女は、くちびるの動きだけで、ジェイドにさよなら、と告げた。
それから、もう二度と、ジェイドは少女の姿を見ることはなく。二月程、あとのこと。当主の名を明かされぬ傍女のうち一人と、ミードに、懐妊の兆候があると知らせが下された。
当主の傍女は七人か、八人、いるらしい。それを教えてくれたのは他でもない当主の正式な配偶者、ミードだったが、さりとて『花嫁』がその正体に気がついているとは決して思えなかった。ミードの察しが悪い訳ではない。人数以外の情報を隠されていて、それ以上を知ろうとする興味を、ミードが全く持たない為だった。
ただ、支えてくれるといいな、とミードは言った。幼い希望を、拙く編む声で。すこしでもいい。持つものを分かち合ってくれたら。つめたい手を温めてくれたら。助けにはきっとなれない。誰もなれないけど、でも。瞬きの、ひとつ。呼吸のひとつ。一歩歩くのでも。支えてくれたらいい。そういう風であってくれればいい。
同胞を気遣う不安げな声。祈りの声。それは夫を想うとするにはあまりに穏やかすぎた。嫉妬も、怒りも、そこにはなく。ミードさま奥様なのですよね、とジェイドが苦笑しながら問えば、『花嫁』はなにを言われているのか分からない、とばかりにぱちくり瞬きをして。首を傾げて考え。
しばしのち、あっ、と声をあげてこくりと頷いた。
「あのね、ちがうの。かんよーなの。わかった?」
「……はい。では、そのように」
「そうなの。かんよーなの」
そういう設定で行くことにしたらしい。ラーヴェはほわほわと緩んだ笑顔で、そうだね、ミードは寛容だね、偉いね、とひたすら『花嫁』を甘やかしている。どやっとした顔で胸をはり、ミードはふくらむ気配のない腹を、服の上からふわふわと撫でた。
懐妊数ヶ月であるという。妊娠の時期はちょうど年末。当主たる少年が最優の『花嫁』を手折った、とされた頃。ジェイドはなにか食べられないものを口に入れてしまった表情で、ミードを膝に乗せて愛でるラーヴェを見た。『傍付き』の男は幸せそうに緩んだ笑みで、ちまちまと刺繍を進めるミードを抱いていた。
その瞳に絶望はなく。行き場をなくした愛情の苦しさも、嫉妬も、許されないものに対する怒りも、見つけることはできなかった。側近の女にあるような、傍にいることを許された、それだけの、かそけき希望の切なさも。ラーヴェはただ、満たされている。幸福と永遠が、男の中には満ちている。
決定的な言葉はなにひとつない。これからもないままだろう。ラーヴェは口を割らないだろうし、ミードはこどもの父親を尋ねられても、きょとんとするばかりだった。ミードは御当主さまの奥様なんだからぁ、おとうさまになるのは御当主さまに決まっているでしょう、とのことだ。
ほわほわふんわりした口調であるだけで、『花嫁』はそれを理解して、誰に教える気もないようだった。
「ねえねえ、らーヴぇ? みぃね、あっ、わたし! わたしね? ママになるの!」
「そうだね。なるね」
「でしょう? それでね、きっと、おとこのこ! らーヴぇに似たかっこいいおとこのこにするの……!」
なぜ当主の次代であるのにラーヴェに似ているのか、という質問を胸の中ですり潰し、ジェイドはそっと胃のあたりを手で押さえた。性格が『傍付き』に似ているだとか、言動だとか、仕草だとか、そういう話だと思い込もう、と言い聞かせる。ラーヴェはやや困った微笑みで、『花嫁』の体をゆるく抱き寄せた。
「……男の子なの? ミード? 御当主さまに似せないの?」
「あっ、でもぉ、ラーヴェはママの! らーヴぇはぁ、ままのだから、ときめきを覚えたらだめなんだから……!」
おなかに両手をあてながら言い聞かせるミードは至極真面目で、苦笑するラーヴェの問いについては聞こえないふりをしている。飽きたのか集中力が切れたのかほったらかしにされている刺繍と針を遠ざけて置きながら、ラーヴェは『花嫁』の名を呼び、頬をもにもにと弄びながら問いかけた。
「ミード? そのこは『花婿』になるの? それとも『花嫁』? どちらでも、御当主さまに似せようね」
「……ぱぱがいじわるいうねぇやややややぁああ! なんでほっぺつぶすのいじめいやあぁああ!」
見れば室内にいる世話役たちは、ああああなぜか急に耳が遠くなったんですよ困りますよねえええええ、という微笑みで、全力で手で塞いでいた。ラーヴェはため息をつきながら、ばったばったと暴れるミードを折檻し、抱き寄せなおし、こつりと頬を重ねて言い聞かせている。
御当主さまの、だね。パパじゃないよね。御当主さまがお父様になるんだよ。そうだよね、ミード。眉を寄せて困った顔で囁くラーヴェに、ミードは不満いっぱいですっ、と頬をぷううっと膨らませ、しぶしぶ、本当に仕方がなさそうに、義務感たっぷりの仕草で頷いた。
「ちゃんと分かっているもの……。言ったらいけないの……。内緒のぱぱなの……」
「ミード?」
「いやぁああんらヴぇがみぃのほっぺをいじめるぅー!」
反省と改善は困難な筈である。ジェイドはそろそろと視線を戻し、御当主さまだよ、と言い聞かせているラーヴェに、それを教えるかどうか悩んで息を吐く。ミードは絶対に、分かっていて、わざと言っている。御当主さまがお父様なのに、自分をママと呼んでいるのが良い証拠である。
ラーヴェがそれに全く気が付いていない、とは思い難かったが、年始から数ヵ月、ずっとぽやぽやふわふわしているのだ。うっかりしている可能性も、なくはなかった。
「うー、うぅー……! あ、ジェイドくん。ねえねえ? ジェイドくんは、いつパパになるの?」
とんでもない方向で矛先を向けようとしないで欲しい。顔を真っ赤にしてげほっと咳き込み、ジェイドは弱々しく首を振り、放置された刺繍を指さした。枠には中途半端な花がひとつと、空白がふたつ、残っている。
「まだです……予定を組んで実行することでもないですし、まだですほんとまだです……」
「そうなの……? しゆーちゃんは、年子にするって言ってたよ?」
先の『旅行』から帰って来たシュニーがミードの懐妊を知るなり、張り切って次の予定を立てて行ってきますと笑顔で出かけて行った理由が判明した。えっなんでそんなすぐに、と寂しがっていたのはジェイドひとりである。そして当事者になるジェイドにその予定を知らせてくれないのが、じつに『花嫁』だった。せめて言って欲しい。
聞けば『旅行』実行の許可を下した少年も、ふぅんいいんじゃないか年子、と言っていたらしい。相談して欲しいとは言わないが、それとなく知らせるくらいは、本当にお願いだからして欲しい。心の準備というものがあるので。真っ赤になって咳き込んでむせるジェイドを不思議そうに見つめ、ミードはことりと首を傾げた。
「ジェイドくん。年子、いや?」
「……いえあの……それ、ほんとにシュニーが……?」
「うん。あのね、ないしょの計画なの! ……あれ? ないしょのけいかく……あ! ないしょだった!」
どうしようないしょ、ないしょだったのに、とおろおろと口に手を押し当てるミードに、ジェイドは心からの笑みを向けた。
「聞かなかったことにしますから、いいですよ」
「ほんと? ほんと? 約束ね、ぜったい、ね。……ほんと?」
「はい。本当です。……聞かなかったし、なにも知らない……うぅ……」
弱って額に手を押し当てながら、ジェイドは胸を撫でおろす『花嫁』の様子をそっと伺った。今日は体調も機嫌も良いらしくのんびりとしているが、最近はつわりで一日ぐったりと眠っていることも多いのだと聞く。『花嫁』は弱く脆い。出産に耐えきれるかどうかは、殆ど賭けのようなものだった。
万全の体制が整えられていると聞く。前当主の少女も二度の出産に耐え、けれども三度目は命と引き換えになる、と言われてそれ以上を止められた。当主は、『花嫁』ではなくなった分、ある程度体を強く整えなおされる。一般人と比べれば微々たる調整だが、それを乗り越えられるだけの体力が供えられるのだ。
ミードは『花嫁』である。その危険を当人が知らぬ訳はなく、ラーヴェが承知していない筈もない。刺繍はできる時でいいので無理しないでくださいと言い置いて、ジェイドは『花嫁』の私室を辞した。またね、と機嫌よく手をふるミードは、それでももう母親のような顔をして、ふくらみの薄い腹を大事そうに撫でている。
あっなまえをかんがえなくちゃっ、とふわふわ響く幸せそうな声が、立ち去る背に風のように届いた。