身構えながら、ゆっくりと段差を飛び降りる。そんな風な感覚で、ジェイドはコン、と硬質な靴音を響かせて着地した。それはあたかも、世界を渡ることを可能とした召喚術師や、空間魔術師が成した術であるかのようだ。しかし態勢を整えていられたのは着地までで、意識をがんと揺らす魔力の揺れに抗いきれず、ジェイドはその場にうずくまった。
ジェイドが『戻って来た』のは、談話室の中程だった。森の中や人気のない廊下であることもあると聞いていたから、それは酷く幸運なことでもあった。口々にジェイドの名を呼びながら、幾人かが走ってくる。その中に己の担当教員の者も聞き留めて、ジェイドは何度か咳き込みながら、体に力を込めて立ち上がった。
ふらつく体は、すぐ伸びてきた手に抱き留められる。その手の熱。伝わる魔力に、ジェイドはああ、と呻くように声を零した。
「シーク、君が……」
「……うん?」
待ち構えていた教員や保健医がジェイドの元へ到着する、ほんの数秒の隙間に。それが失われてしまう前に。ジェイドは弱々しくシークを振り返り、くるしく、息を吸い込めないような気持ちで、告げた。
「卒業試験に、合格できない理由が……わかった」
「ああ……」
うん、と勿忘草の瞳を、ぐしゃぐしゃに傷ついた色を隠しながら、シークは笑った。十五にならずとも、様々な条件が満ちれば、卒業試験そのものは受けられる。シークはこれまで三度挑戦して、三度とも不合格のまま『戻って来た』のだった。そうだろうね、とシークは呟き、そっとジェイドの肩から手を離した。
そうしている間にも、言葉がほろほろと消えていく。眩暈にも似た感覚に、ジェイドは一度目を閉じ、深呼吸をしてから担当教員の男と、待ち構えていた保健医を出迎えた。心配そうな担当教員に、あなただって覚えがあるでしょう安心しなさいと叱咤しながら、学園在住の白魔術師はてきぱきと、ジェイドの診察を行っていく。
魔力の乱れが落ち着く頃には、それに対する言葉は、もうすっかり消された後だった。特別な問題はありません、平常通り、大丈夫。白魔術師のお墨付きを得てほっと胸を撫でおろした担当教員が、不安と期待で満たした瞳でジェイドを覗き込んでくる。ジェイド、と名を呼ばれる。
はい、としっかり響いた声に安心したように笑い、担当教員は所定の手順に従い、それを教え子に問いかけた。
「儀式から『戻って来た』魔術師へ問う。『卒業試験』を語れるか? なにを見て、なにを知り、なにを成したか。その言葉を持ち、告げられるか?」
「はい、先生。俺は……」
告げようとする、けれど、消えていく。ほろほろと崩れてなくなっていく。そのことを、覚えているのに。どんな言葉を当てはめて告げればいいのか、分からなくなる。消えていく。苦心して言葉をかき集めても、それをなぜか、発声することが叶わない。水に沈められて、気泡だけが水面に浮かんでいくのを、見守るような気分でいる。
はく、と口を動かして眉を寄せるジェイドに、担当教員は肩から力を抜いた。
「……糸を何本切って来た?」
「二本です」
それだけがするりと、形を成して落ちていく。よし、と教員の男は頷いた。
「『卒業試験』が無事、終了したことを確認した。おめでとう、ジェイド」
ジェイドは反射的に振り返り、シークになにかを告げようとした。恐らくは謝罪だったのだと思う。胸のくるしい感情は、そういう風にしたがっていた。けれども言葉が響くより早く、談話室に響く歓声が想いをかき消した。おめでとう、といくつもの声。『卒業試験』合格、おめでとう。
やや茫然と口を開くジェイドに丁寧に向き合って、シークはゆっくりと首を横に振った。告げられることもなく消えてしまった感情と、言葉を、必要ないと否定する仕草だった。『卒業試験』は何度でも繰り返される。合格するまで。シークがそれを諦めて、ジェイドが断ち切って来たあの糸に、手を伸ばして千切るまで。
「……ジェイドは、どこへ行くんだっけ? 希望は出した?」
「砂漠に……『お屋敷』からも働きかけて貰ってるから、たぶん通ると思う……」
シュニーの傍にいることが、ジェイドの望みだ。しかしそれ以外の望みを置き去りに、歩いて行きたい訳ではない。親しい友の幸福を願う気持ちを携えていきたい。こんな風に、裏切りたくはなかった。そっと諦めたように微笑する、当主の少年の擦り切れた笑みを思わせる表情で佇むシークに、ジェイドは手を伸ばした。
抱き寄せて目を閉じる。失わせてしまった、と思った。それはこの世界で生きる魔術師が義務として負うもので、本当なら、異界の迷い子たるシークには関係のないことだった。それなのに、この欠片の世界の理が、シークにもそれを強要する。箱庭たる『学園』から羽ばたきたくば、未熟なる魔術師よ、その義務を果たせと。
『卒業試験』で呼び込まれる、砕かれた世界の欠片で、ジェイドがなにをしてきたかシークは知っている。それを語る言葉を封じられていても。
「ごめん……」
談話室からぽつぽつと、戸惑った視線がふたりに向けられる。それでいてそれは、戸惑いだけではなく。いくつも視線が、逸らされていた。ジェイドの担当教員も、保健医も。卒業資格を持つ者は皆、くるしく、シークから視線を逸らして目を伏せていた。
繋がりを断ち切った瞬間の、心地よくも重たい音が、耳の裏にまだ残っていた。
「シーク、ごめん。……ごめんな」
「……君がいるなら、ボクも砂漠にしてもらおうかな」
謝罪に応えず。シークは優しく響く声で、己を抱き寄せた友人の背を叩いた。
「結婚式も見に行かないといけないしね」
「……普通に招待して、許可が下りれば、卒業資格無くても出席はできる」
「友人の祝い事にね、背を押してもらいたいだけだよ。いつまでも、ずっと……この未練を持ってるのはね、いけないって、ボクだって分かってる」
瞬きで奪われた故郷を。帰るべき家を。帰りたいという気持ちを、未練だと。そう言わせてしまったことが、ただ苦しい。出来ることはない。悩みながら、ジェイドは思わず呟いていた。
「シークにも『花嫁』がいればいいのにな」
「……ん?」
「『花嫁』がいればいいのになって」
なにもかもを捧げて、悔いのない。そういう相手がいればいい。きっとシークの帰る場所になるよ、とジェイドは言った。帰りたかった場所へ連れて行ってくれるひと、では、ないけれど。愛することができて、帰りたい、と思える場所になれば。そこが新しい家になる。
帰る場所になってくれる人がいればいいのに、と思うジェイドに、シークは苦笑して肩を竦めた。
「ボクにはいいよ。泣かせてしまいそうな気がするし」
「……ああ、うん。シーク、好きな子は泣かせるもんな。ほんとすぐ泣かせるもんな……」
泣いている顔も可愛い、ではなく。泣いている顔、が、可愛い、という趣味の持ち主である。比較的お気に入りらしい藤色の少女や、きゃんきゃんかみついてくる白魔法使いの少年を、暇さえあればつついて泣かせて保護者を怒らせる、と言うのが、最近のシークの日課である。
意外と年下にもてるよな、と呟いたのは、その二人が一日一回はぴいぴい泣かされているのに、シークの周りをちょろちょろするのを辞めないと知っているからである。どうしてだろうねえ、と自分でも不思議そうに苦笑して、シークはさて、とジェイドの背を押した。
「さ、ボクはもういい。大丈夫だから、やるべきことを済ませておいでよ。……『卒業試験』の合格、おめでとう、ジェイド。欠片の世界に生きる魔術師の、これからに幸いあれ」
「……ありがとう」
やらなければいけないことがあるのは確かで。行って来る、と小走りに離れたジェイドは、ふと気になって一度だけ振り返った。シークはもうこちらを見てはおらず、いつの間にか傍に寄ってきていた少年少女にじゃれつかれて、腰を屈めてなにか話しているのが見えた。
帰りたい場所に帰れず。けれど、ジェイドがいなくとも、シークはひとりきりではなかった。そのことに、心から安堵して前を向きなおす。誰かが慰めになってくれればいいと思う。本当にそう思う。ジェイドは、心の全てをシュニーに渡してしまっているから、もうどうしてもそういう風にはなれないから。誰か、と祈るように思って、歩く。
どこかにいる誰か。これから巡り合う誰か。あるいは、もう見知った誰か。どうか。シークを救ってあげてくれないだろうか。ジェイドの両手はシュニーでいっぱいで、時折触れることはできても、もうこれ以上を抱え込むことができない。傍にいることができても、ずっとではない。離れていく。会いに行くことはできても。
祈ることは無責任ではないだろうか、とジェイドは思う。祈って、願って、自分では救うことすらできないのに。当主の少年のように。ジェイドではシークの助けにはなれない。救いにはなれない。なれないのだ。それでも、シークはジェイドを友と呼ぶ。ともだち、と呼んで笑ってくれる。それを、光だと、思いたかった。
くらやみの、指さした遠くの、遠くの果てに見えるひとすじの光。そこを目指して、休みながら、立ち止まりながら、それでも、それを希望とするように歩いて行けたら。やがて辿りつく場所で、待っていたよ、と告げられたら。ここに来てくれることをずっと信じて、願って、祈っていたよ、と。そのことは、救いにはならないだろうか。
ひりつく喉を潤す、とうめいな水のように。いつか手に入る希望に、なってはくれないだろうか。なにをしてあげられるだろう。どんなことならできるだろう。諦めず、足元の汚泥に立ち止まらず、ただ歩んでいくだけの力に。どうすればなれるだろう。ジェイドは、シークの。そういうものでありたい。その為にずっと、考えている。
それは、卒業資格を得た日。ミードが布に咲かせる花が、とうとう、残りひとつになった日のことだった。
駄目って言ってる訳じゃないけど、と口ごもったのは当主たる少年その人だった。ふかふかのソファに身を沈め、かつて少女がそうさせていたように、側近たる女を背後に従えながら、困った顔で首を傾げる。
「外部から人を呼ぶのも、『お屋敷』で式を開いて祝うというのも、ちょっと……」
「しゆーちゃん。結婚できないの? なんで?」
「できるよ。式を開くのをね、どうしようって話だよ、ミード。知らない人たくさん来たら困るだろ」
こてん、と首を傾げぱちくり瞬きをするミードに、少年は穏やかな口調で囁きかけた。しらないひと、とミードは無垢な口調で繰り返す。やがて、意味をはっきりと理解したのだろう。ぴっ、と声をあげて震え上がった花嫁は、座椅子代わりにしている『傍付き』に、あわあわと急いでひっついた。
「しらないひと……!」
「うん。知らない人、こわいね、ミード。人見知りしちゃうもんね」
「ひ、ひとみしり、なおった……。なおったもの……」
でも、しらないひとたくさんは、いや。だめ。ぷっと頬を膨らませて主張するミードに、さもありなんとばかり当主の少年は頷いた。『花嫁』『花婿』は程度の差あれど、人見知りの傾向がある。長じて矯正されていくものではあるが、見知らぬ者に多く会わねばならない、というのは、それだけで心身の負担になる。
身元確認も警備も大変だし時間がかかるし、なにより『お屋敷』の中で公にできないのはもう分かっているよね、と困ったように当主から問いかけられ、ジェイドは悄然と頷いた。もう一人の当事者であるシュニーは、ジェイドの腕の中でぷすぷすぴすすと愛らしい寝息を響かせている最中で、会話に参加する予定はないままだった。
ようやくシュニーに課せられた『旅行』が終わった。張り切って帰ってきたシュニーは、しゅにじぇいどとけっこんするっ、と興奮でふわふわしきった声で主張し、出迎えた当主はあっさりとうんいいよ、と頷いたのだが。問題は場を移し、今後のことを相談する場で起きた。
結婚式、と繰り返して呟き、少年は困りきった顔でジェイドを見た。
「陛下に……ご相談申し上げるから、城の一室でそーっと、なら、なんとか……」
「ないしょの結婚式なの?」
「うん。ひみつの結婚式かな」
ないしょないしょ、ひみつひみつ、と囁きあってきゃっきゃ笑いあう当主夫婦だけ見ていると、心が穏やかで平和な気持ちにもなれるのだが。実質ふたりは夫婦というよりは共謀者であるし、それ以前に『花嫁』『花婿』を一緒にしておくと碌なことにならないし、褒められるようなことをしない、というのは実証済みである。
主犯ふたりはひとしきりはしゃぎあった後、はっ、と我に返った顔をして。それぞれ真面目な顔を作ると、こく、こくっ、とジェイドに向かって頷いた。
「おめでとう、ジェイド。でも、ちょっと待ってね。色々準備するから。……それと、『お屋敷』では、できないと思う。それだけ、ごめんな」
「ジェイドくん、しゆーちゃん、よかったね! みぃ、『花嫁』の結婚式を見るのはじめて! ねえねえ、なにをするの? お祝いするんでしょ? しらないひとがくるの? なんで?」
「……あとでラーヴェが教えてくれるよ。きっと」
結婚式で具体的になにをするのか、ということは、あらゆる一般勉強中の、少年の知識の追いついていない所である。少年が問題視したのは、あくまで『傍付き』が『花嫁』を娶ることを『お屋敷』で公にできない、という点のみであり、式典そのものを開くことではなかった。
現に翌週の予定として、幼少よりお針子として勤め上げた女性と『花嫁』の輿持ちの結婚式が、『お屋敷』の一角で執り行われる予定となっている。回数こそ多いものではないが、珍しいことではない。幸せそうな新郎新婦の姿を見て将来を夢想する『花嫁』『花婿』は多く、それをきっかけに、嫁ぐことに前向きになる者もいる。
最後まで徹底的にラーヴェじゃなきゃいや、ラーヴェのそばにいるっ、と口に出してまで主張してぎゃん泣きして抵抗して抵抗して、ついに本懐を遂げたミードが、例外中の例外であるだけで。宝石たちは皆、例外なく恋をし、『傍付き』に執着せども、彼らが示す嫁ぎ先の幸福にも、希望を持ちあれこれ想像をめぐらせる。
結婚式なのにどうしてしらないひとがくるの、ねえねえなんで、とくちびるを尖らせて不安がるミードに、ラーヴェは言葉に困った様子で苦笑していた。『お屋敷』で行うのは身内の式であるから、祝いに来るのも当然同僚たちである。つまり、ほぼ確実に顔見知りとなる。
外部から招かれるのは出入りの商人や技術者、すくなくとも関係者であるから、見覚えが薄くとも知っているひと、であり。まったく知らないひとが祝いに来る、という状況を、ミードは理解できていないらしかった。ラーヴェに視線で求められて、ジェイドはすぴすぴ眠るシュニーを抱きなおしながら、ミードの名をやんわりと呼びかけた。
「ミードさま。ミードさまは、シュニーのお友達ですよね?」
「おともだち。……おともだち?」
はじめて聞いた言葉です、とばかり目をぱちくりさせて、ミードは『傍付き』に判断を委ねた。仲が良いですよね、と言い直すジェイドに頷きながら、ラーヴェは『花嫁』に、お友達でもいいんだよ、と告げる。同胞であり、仲間である意識の強さが、どうしても友、という言葉を当てはめさせてはくれないらしい。
かすかな違和感を持ちながらも。ラーヴェがいうならきっとそう、ただしい、とばかり満足げにふんぞり返り、ミードはふふんっと鼻を鳴らして言い切った。
「みぃ、しゅにーちゃんの、おともだち! えへん!」
「はい。それでね、ミードさま。ミードさまにお友達がいるのと同じで、俺にも『学園』にお友達がいるんですよ」
「そうなのっ? ジェイドくん、おともだちいるのっ……?」
目をきらきら輝かせて、すごいねぇおともだちいるのすごいねぇっ、とはしゃがれて、ジェイドはこみあげてくるこそばゆい笑いをかみ殺した。嫌味ではなく、純粋な賞賛だと分かるからこそ、くすぐったい。へえ、と少年からも感心した目が向けられるが、その背後で、側近の女性は口元に手を押しあて、爆笑を殺そうと努力していた。
当主の側近はもしや笑い上戸が多いのでは、という不穏な疑問のしらんだ目で女性を眺め、ジェイドは気を取り直して、『花嫁』に優しく頷いた。ただし笑いをかみ殺そうとして失敗して咽たラーヴェには、後でちょっと話がある。
「……そうなんです。それでね、俺のお友達も、俺の結婚を祝いたいと言ってくれているんです。式に来てもらうことになります。ここまではいいですね?」
「うん!」
もちろん、とうぜんっ、とばかり胸を張って自慢げにするミードに、ジェイドは微笑ましく頷いて言った。
「だから、ミードさまには、会ったことのない、しらないひと、が来ることになります。俺のお友達です」
「……んんん? んと、んと……その、ジェイドくんのおともだちはぁ、しゆーちゃんには、会ったことあるの? しゆーちゃんの、知ってるひと?」
「いいえ。シュニーも会ったことはありません。式で、はじめて顔を合わせることになります。……なにか?」
ミードはいまひとつ不安げな顔で首を傾げては、もの言いたげにもじもじと指をこすり合わせている。シュニーにはあらかじめ、『学園』の魔術師のたまごたちや、砂漠の王宮魔術師、ジェイドの担当教員などが顔を出すことは知らせて了解を得ている。
ミードほど人見知りのない『花嫁』は、まかせてっ、と言って気合たっぷりにこぶしを握っていた。絶好の機会だから、ジェイドはシュニーのだってみせつけてみせびらかして自慢しなくっちゃ、ということであるらしい。そういう意味で、シュニーは来賓をとても楽しみにしているのだが。
この反応の差はなんだろう、と不思議に思うジェイドに、ミードはもじもじしながら問いかけた。
「しゆーちゃんを知らないのに、お祝いに来てくれるの? しゆーちゃんが『花嫁』だから……?」
砂漠の民であるならば。その言葉ひとつで、理由に事足りる。宝石たちは砂漠の恵みであり、希望だからだ。彼らは十分に己の価値を理解していて、それは賞賛されるべきことだと思っているし、祝われてしかるべきことだとも思っている。それは間違いではない。そういう風に思っていても、いいだろう。
しかしジェイドは苦笑して、いいえ、と静かに否定した。
「俺のお嫁さんになるから、です。……ミードさまは、シュニーが幸せだと、よかったな、と思ってくださいますか?」
「うん! しゆーちゃん、ずっとジェイドくんと一緒! しあわせね。よかったね。みぃも嬉しい!」
「ありがとうございます。あのね、俺のお友達も一緒なんですよ。俺が幸せだと嬉しいと思ってくれていて、だから、シュニーにもよかったねって言いに来てくれるんです。……わかりました?」
ようやく納得した顔をして、ミードはこくりと頷いた。疑問を口に出さずともじっと聞いていた少年も、ほっと胸を撫で下ろした表情で口元を和ませている。少年は恐らく、分からなくてもジェイドがしたいと言うならいいよ、という気持ちであったのだろう。そっか、と嬉しそうな呟きが零れる。
まあ当日の警備については『お屋敷』からみっちり指示が出るだろうから安心していいよ、とラーヴェが告げるのに頷いて、ジェイドは眠る己の『花嫁』を抱き、立ち上がった。長旅を終えたシュニーは、安心しきった表情で眠り込み、すべてをジェイドの腕に委ねている。深い眠りは、会話の間一度も乱れることはなかった。
明日からは、もうずっと一緒だ。ジェイドが砂漠の王宮魔術師になることが決まれば、『お屋敷』に居室を構えて通勤していい、という許可はすでに王に得てあった。必要なのは、あとはジェイドがいつから王の魔術師になるかという決定だけだ。それが終わればようやく、式の準備も進められるだろう。
眠らせてきますので、またなにかあったら呼んでくださいと言い残し、ジェイドは当主夫婦の面会室を後にした。扉が閉まる寸前、ミードの、あっ、という声が背に届く。あっジェイドくんとしごむぐぐっ、という口を塞がれたであろうミードの声は、聞こえなかったことにした。
結婚式を『お屋敷』で行えないことについて、シュニーはごくあっさりとした態度で、しょうがないねと頷いた。新郎新婦が『花嫁』であり、『傍付き』であることから、薄々は察していたらしい。それよりシュニーが安堵したのは、ミードが無邪気にはしゃいでお祝いをしたい、と言っていることだった。
ずっとね、ちょっとだけね、申し訳なかったの、とシュニーはジェイドの耳元で囁いた。ミードはずっと、シュニーがどんな理由で『旅行』に行くのかを知らなかった。それは己と同じ『花嫁』としての義務だと思い、回数がずっと多いことも、刺繍の花を増やしていくことも、特別だとは思っていてもその先を考えることはなかった。
嫁いでいくからこそ、『花嫁』は様々なものを飲み込んで生きる。そうしなければいけなかったミードに、話せることではなかったのだ、とシュニーは言う。それは明かされないままで終わる筈の秘密だった。それを、当主の妻となったからこそ、ミードは知り。その上で、しゆーちゃんよかったねぇうれしいねえ、と満面の笑みで祝福した。
ずっと、裏切ってしまっている、という気持ちがあったのだという。それに、ミードはそんなことないよ、と示してくれた。おともだち、と言ってくれた。だからもう十分で、嬉しくて、ほっとして、よかったって思うの。でもジェイドが『お屋敷』でしたかったならしょんぼりするね、とシュニーは気遣わしげに眉を寄せた。
しかし考えてみれば、そうと思い込んでいただけであって、別にジェイドは『お屋敷』に祝い事を持ち込みたい訳ではない。一時のような扱いはされなくなって久しいが、された事実がなくなる訳ではないし、降り積もった淀みが消えてしまう訳ではないのだ。逆によかったかも知れない、と気がついてからは、ジェイドも気持ちが楽になった。
卒業の日が確定し、結婚式の時期が決まってからは、慌しくもゆっくりと過ごした日々だった。当日の警備や準備は砂漠の王と当主の間で綿密な打ち合わせをされたのち、決定報告書、という形でジェイドの元へ降りてきた。『花嫁』と『傍付き』は『お屋敷』のものであり、王宮魔術師は王のものである。扱いに不満はなかった。
ジェイドが改めて砂漠の歴史や法律などを学ぶ傍らで、シュニーは着々と式の準備を進めていった。よかったですねえええと泣き崩れる世話役たちにせっせと採寸され、試着と調整を繰り返し、一通ずつ招待状を書いてはジェイドの親しい者の名と、彼らにまつわる話を聞きたがった。
結婚を控えて感情が不安定になる、というのはシュニーには無縁のことで、ジェイドにも理解しにくいことだった。当日まで絶対に体調を崩さないように、と気合をよりいっそう入れた世話役たちのおかげで、ジェイドがいつ訪れてもシュニーはぴかぴかしていたし、それを見るだけでも幸せな気持ちでいっぱいになれた為だ。
唯一困ったことと言えば、シュニーがジェイドを誘惑してくることだけだった。結婚まで、式が終わるまで待ってと言い聞かせても、ちょっとだけちゅうだけちゅうだけねえねえちゅってしてねえねえ、と強請られれば、ジェイドがそれを拒否できる筈もない。
三回に一回は負けて口づけをすれば、幸せそうにとろける笑顔でよいしょ、と服に手をかけるシュニーに、ジェイドは手段を問わず世話役たちに助けを求めてまで止めた。顛末を聞いたラーヴェが爆笑して呼吸困難になりかけた時は、今後の友情を含めて様々考えたものだが、ミードがそっとシュニーに、なにか耳打ちしてくれたらしい。
お式がおわったら、おわったらっ、とそわそわしながらも我慢してくれるようになったので、ジェイドは浮かれた気持ちと胃痛を等分にしながら、恥ずかしがる気持ちを抑え込んで、先達に教えを希った。『花嫁』の体は脆くて弱い。どうすれば傷つけないでいるかを考えてこなすのは、『傍付き』としても、最優先事項のひとつだった。
とは言っても今更ジェイドに閨教育を施す訳には行かず、その時間もない。どうしたものかと首を傾げた当主にそっと口添えしたのは、隣室で話を聞いていた『水鏡』のひとりだった。もちろん、わたくしが直に教えて差し上げることはできませんが、と告げる少女は、ミードや前当主の少女の面影を宿しつつ、落ち着いた声で囁いた。
それからジェイドは、暇を見つけては少年の元へ通って、『水鏡』に口頭で教えを乞うことになった。当然のことながら不思議がるシュニーに、まさか理由を告げられる訳もない。浮気じゃないからっ、シュニーの為だからシュニーひとすじだからと言い聞かせ、ジェイドはせっせと座学に励んだ。今までで一番つらい授業だった。
話を聞きつけたらしいラーヴェが爆笑を堪えつつも同情的な視線を向けてきたので、もうこの際だから手段は問わない教えてくださいと拝み倒す。ラーヴェは困った顔をしながら、求められるままにあれこれと助言をくれた。理性的であれ、暴走するなら欲望は殺せ。『花嫁』を気持ちよくすることだけを考えておく。
最終的にそのふたつだけ覚えておけば間違いないよと告げられて、ジェイドは無言で頭を抱えた。後者はともかく、前者にはあまり自信がない。なにせ三回に一回の確率で負けているので。どうすればいいんだよ、と呻くジェイドに、ラーヴェは笑顔でさらりと告げた。
それが原因で『花嫁』が枯れることを考えればいくらでも耐えられる。うんそうだなっ、とジェイドはぎりぎりと胃を痛くしながら即答した。結局はそこである。それが全てだった。欲望に負けて手酷くすることがあれば、それだけで、『花嫁』は傷つくだろう。その傷が命の灯火を消してしまうくらい、弱く脆いことを知っている。
だから本当なら、『花嫁』が自らこどもを望むことは稀である。『花嫁』は自分の弱さを知っているし、その行為がもたらす負荷がどれくらいのものであるのかを、教育として植え付けられる。加えて通常であれば、月の障りは投薬によってほぼ完全に制御されている。意図しない妊娠、というのはあり得ないことだ。
シュニーさまもジェイドと同じように教育を完全な形では受けていないから、そのあたりの拒否感がないんだろう、と苦笑されて、ジェイドは思わずラーヴェを凝視した。いやミードさまはどうなって、と問えば、『傍付き』はさっと視線を逸らして沈黙した。
もちろん『花嫁』に対する投薬の管理も、月の障りの周期を把握することも、『傍付き』の仕事のひとつである。ラーヴェがそれを認識していないことはありえなかった。しかし、男がミードと共に部屋に引きこもったのは、実に一か月以上にも及ぶ。
その長さの意味を理解して、ジェイドは温かく優しくぬるい笑みを浮かべた。まあ、経験をもとに助言をくれたのだから、役に立つ筈である。なんの経験とは問わないが。最近の調子を問えば、ラーヴェはややほっとした様子で元気であることを教えてくれた。相変わらずおとこのこだと言い張って、名前を決めようと毎日悩んでいるらしい。
名付けにも性別にも興味がないらしい当主の少年は、ミードのこどもが無事に生まれ、育ってくれることを願っているらしい。できれば強く育てて欲しい、と『傍付き』に命が下ったのだという。恐らく身体的には強く生まれてこないだろうし、確実に『花嫁』か『花婿』と呼ばれるだろうから。
心を。強靭に、しなやかに、育てて欲しい。その時を待つから、と少年は微笑したのだという。次期当主として誰かが、少年の抱え込んだ重荷を奪いに来てくれるその日を、その時を。ずっとずっと、待っているから。元気で産もうな、ミードも枯れないように準備しような、と少年はせっせと父親役らしく、環境を整えて回っている。
当主夫婦は結婚式に顔を出す予定でいるから、ラーヴェが傍にいる分、ジェイドは少年の体調の方が心配だった。休んでおられますか、と幾度も口にして窘めるジェイドに、少年は都度、微笑して言葉を重ねなかった。自分を労わることすら嫌なのだ、と気がついてからは言わず、そうすると逆にほっとしたようで、少年はすこし休むようになった。
日々は滑るように過ぎていく。式は結局、砂漠の王宮の一室を借りて執り行われた。王宮魔術師と、僅かな『お屋敷』の者たちが見守る中、ジェイドとシュニーは王に祝福され夫婦となった。満面の笑みではしゃぐシュニーを抱き上げて。まだそうすることもできなかった昔の己に、ようやく報えた気持ちで、ジェイドは花嫁に口づけた。
多少の混乱と騒ぎはあれど、なんとか無事に初夜を終えてぽやぽやするジェイドが、それを見かけたのは偶然だった。眠るシュニーを抱き寄せながら、窓から中庭を見下ろしていた夜のこと。暗闇の庭園を、前当主の少女がゆったりと歩いていた。時折、踊るようにくるりと回る少女は、華憐な花のようだった。
少女が眠るように枯れたのは、それから数日もしない、穏やかな真昼のことだった。