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 墓標なのだというそれは、手のひらに乗る大きさをしていた。結晶化した蜂蜜色の、ちいさな石。香炉の形に切り出され、角を丸く削って整えられている。あまやかな香りが染み込んでいるようなそれは、あまりにうつくしく、あいらしく、どこかいとけなかった。
 あまりにいとおしくて、それをどうしても、墓標だと思えない。前当主の少女の、墓標であるのだと。側近の女は五指をやわらかく折り曲げ、香炉のかたちをしたそれを包み込むようにして持った。目を細めて、己の指越しにそっと口づける。
 その仕草を、ジェイドは黙して見守った。場に集った『傍付き』たちや『運営』の数は数十に及ぶが、誰も一声も発さず、身動きさえしなかった。音のない真昼の、穏やかな静寂。青空に見守られる、中庭の片隅で行われている、それが葬儀だった。
 季節ごとに色とりどりの花が咲き乱れる、中庭の一角。群れそびえたつ建物の、渡り廊下や回廊の柱が、中庭に格子状の影を落としている。地に落とされた影模様の、淡い隙間。その一角に、女のてのひらから香炉がそっと下ろされた。
 丹念に耕された柔らかな土の上。木々と花の、淡い影と光差す場所。それがもし花の種であるなら。土に根を潜り込ませやがて芽を出し、花を咲かせる住処とするのに、とても良い場所だろう。『傍付き』たちが白い大きな花弁を、雨のように撒いて行く。ひえた甘い香りが穏やかに漂った。
 前当主の微笑みが見えるようだった。ジェイドは込み上げてくる感情をやり過ごすために、一度大きく息を吸い込んだ。体調が急に悪くなった、という幕引きではなかったのだという。少女はじわじわと弱っていった。それは当主の座を受け渡す前後から、『お屋敷』の誰もが知る事実のひとつだった。
 長くはない、ということも。言われずとも誰もが察し、知っていた。それは火が風に消されるように。あるいは糸が解けるように。やわらかく、そっと響くもののような終わりだった、と女は言った。抱き上げた腕の中で眠り、そのまま瞼を開かなかったのだと。
 女は。『花嫁』を失った『傍付き』の女は、白い花に埋められていく香炉の傍に座り込み、石の表面をずっと指先で撫でていた。過去、幾度かその光景を見たことがあった。この場所からどこへ行くこともなく枯れてしまった宝石たちは、決まって中庭の日当たりの良い場所に墓標が置かれて弔われる。
 その形は香炉であったり、咲いた花であったり、ちいさな動物や植物であったりと様々だ。それは決まって原石を元に作られる。不透明な蜂蜜色の香炉は、失われた少女の髪と、特に瞳の色を思わせた。蜜色の瞳を、時折、とろりと蕩けさせるように笑う。好奇心に満ちた、悪戯っぽい、それでいて穏やかに背を正して立つ。そんな少女だった。
 香炉の置かれた土の下に、少女はいない。脆い骨は殆ど残らず、灰は『お屋敷』の掟に従い、静かな砂漠へ還された。残るのは失われた空白と、いとけない墓標。七日間この場所に置かれた後、香炉は専用の廟へと移される。そこへ訪れる資格をジェイドは持たない。鍵を渡されるのは失った者だけだった。
 悼む気持ちを向ける形を、だから七日間しか目に写せない。ひとり、ひとりと立ち去り、日常の業務へと戻っていく『傍付き』を見送り、ジェイドはそこへ立ち続けた。ゆるゆると日が暮れ、茜色から紫紺の夜が足元へ降りてきても、その場を動けるような気持ちに、落ち着けることはなかった。
 あの少女にはもう永遠に会うことができないのだ。思えば幼少期に肉親から離されたジェイドが、はきと親しい存在を弔うのは、これが初めてのことである。『お屋敷』を訪れるきっかけとなった『花婿』たる祖父の死は、どこか遠くで行われ、終わったあとに旅支度と共に知らされた。死とは長く、そういうものだった。
 失うことに慣れていないのだ、と唐突に気がつく。時にあっけなく枯れてしまう宝石たちの存在は知っていても、シュニーと『学園』で必死だったジェイドが、それを強く意識することはなく。また、時折見かけた、中庭に座して動くことのできない少年少女の存在からは、焦燥に似た気持ちで目を逸らして生きてきた。
 あのように。足に立ち上がる力を、呼吸をする意思さえも乏しく失われてしまうことがあるだなんて、考えたくなかったからだ。シュニーが失われてしまう可能性が、あんな風に唐突にあるだなんて。だから葬儀にも出た記憶が殆どない。一度か、二度、花を捧げたことはある。それだけだった。
 ラーヴェは苦笑しながら、ジェイドに『傍付き』としての作法と決められた言葉をいくつか教えてくれたが、真っ先に花を捧げて以後、足早に区画へ戻ってしまった。ミードの体調が優れないのだという。少女とミードは、ジェイドの目から見て関わりの薄い母と娘であったが、情がないという訳ではなかったらしい。
 亡くなったと聞いた時からミードは嫌々と癇癪を起こして嘆き、つわりの重さと相まって、ここ数日はずっと寝台に臥せってしまっている。わたしがついているから、心配しないで、とシュニーに送り出されなければ、ラーヴェは決して傍から離れようとしなかっただろう。
 流れる心配は、今はなく。けれども長引けば分からない。難しい顔をして医師が告げても、でもでもだって、とミードは感情を落ち着けることができなかった。だって、だって、もうちょっとって。産まれたら、だっこ、してくれるって。よかったわねって、まま、いったもん。いった。みぃ、だから、まま、まま。
 おねえさまもいなくなったのに、ままもいなくなっちゃった。やだ、やだ、と泣くミードの手を握って、シュニーはラーヴェがいる、と囁いた。ラーヴェは絶対にいなくならないでしょ、シュニーも一緒にいるでしょ、ジェイドもいるでしょ。いなくならない。いなくなったの、悲しいね。シュニーも悲しい。一緒に悲しいのしようね。
 ジェイドもちゃんと、悲しい、してきてね。シュニーはミードとちゃんと待ってるから、悲しいのしてきて、大丈夫だからね。可愛がってもらってたでしょ。しゅに、ちゃんと知ってるんだから。いってらっしゃい、ジェイド。言葉に背を押されて、歩き、けれどもまだそこから足を踏み出すことができない。前にも。後にも。
 夜がもうそこまで来ている。冷えた花の香りはもうかすかに漂うばかりで、代わりにその白さが、淡い灯篭のようにくらやみに色をにじませていた。女は夜の訪れを意識しない顔つきで、ただ、墓標を撫でていた。ようやく、と伏せたまなざしが穏やかな感情を滲ませている。
 ようやく、あなたに、触れられた。
「……シルフィールは、あなたに……さよならを言えなかったことを、申し訳なく思っていました」
 息をして、ただそれだけを繰り返して時を過ごして。それだけをしていたい、という気持ちを落ち着かせて。女が口を開いたのは、もうあたりが暗く夜に覆われた頃だった。闇の中でも苦にならないのは、『お屋敷』のそこかしこに灯りが灯されているからだ。
 中庭を見下ろす回廊に、渡り廊下に、部屋の窓辺に。いつもより多く灯篭が置かれている。火が揺れている。鎮魂の祈りと、悲しみのように火の熱と影が揺れている。時折人影が現れ、女とジェイドを見下ろしては、しばらくしていなくなる。『お屋敷』の誰もが、前当主の喪失を悼んでいた。
 シルフィールさま、と。はじめてその名を口に出して呼び、あまりに慣れない響きだと思った。ジェイドは少女のことを御当主さま、あるいは前当主さまと呼び、誰も彼も、女もそのように呼んでいた。とうめいな響きのその名が、紡がれることはなく。口にすることはなく、耳にすることはなかった。
 悔やむように。それでいて、見えない鎖からようやっと解き放たれたように。のびのびと、ほっとした表情で微笑して、女はええ、と頷いた。
「『ジェイドくんに会いに行く暇がなかったの。だから、伝えてね。ありがとうって言っていたって』と。……眠る数日前は、とても元気で。たくさん話をしてくださいました。貴方や……シュニーさま、ミードさまに宛てた手紙や、日記もいくつか。落ち着いたらお持ちします」
「……話、されたんですか?」
 少女は側近たる女を、決して傍から離そうとはしなかったが、会話が多くある訳ではなかった。執着はしていたが、ふたりの間には常に距離があったように思う。だからこそ不思議な、安堵交じりの気持ちで尋ねる。女は香炉を撫でながら、いとおしく目を細めて微笑した。
「シルフィールも、御当主さまと同じように、元からの候補として育てられた方ではありませんでした。様々な条件が重なり、当主となられた……。その座は、あの方には、ほんとうは重すぎた。分かっていたのに……」
 それでも私たちは縋るしかなかった。あの儚くちいさな、あいらしい方に。シルフィールはそれに確かに応えてくださいました。ジェイド、あなたが知るように。ぽつりぽつりと、言葉が零されていく。ジェイドの他にも誰かが、暗闇の中で耳をそばだてている気配がした。
 女もそれに気が付いていたであろうに、咎めず。言葉を留めることもなく。告げた。
「頑張ったでしょう、と仰って。はい、とても、と言ったら……じゃあ、もう、いいでしょう、と」
 くしゃりと顔をゆがめて笑い、浮かぶ涙をそのままに。女は震える指先を、香炉に押し当て囁いた。
「名前を呼んで欲しい、と」
「……なまえ」
「『花嫁』だった時のように。名前を呼んで、好きと、言って欲しいと……それが」
 あの方がずっと秘めていた、『とびきりのわがまま』の中身でした。シルフィール。名を宝物のように告げて、呼んで、囁いて、女は引いた指先を、己の口唇に押し当てた。暗闇の中から、いくつもすすり泣きが響く。聞き慣れぬ少女の名がさわさわと空気を震わせる。微笑んでいた少女の、返事をする声だけが響かない。
 悪戯っぽく笑いながら、少女がふと姿を見せてくれないものか、ジェイドはあたりを見回した。そんなことはないと分かっていて、それでも、期待しすがる程に、会いたかった。さようなら、も。ありがとう、も伝えられないまま。名を呼ぶこともできないまま。失ってしまった『花嫁』だった。



 数日はまま、ままぁ、と泣き暮らしたミードは、女から残された手紙を受け取り、ようやくすこしだけ落ち着いた。手紙を読んでは泣き、まま、まま、とラーヴェにすがりつくことこそ変わらなかったが、ただ闇雲な悲しみではなくなった。ようやく、失ってしまったことを悲しめるようになったのだ。
 喪失はミードにとってあまりに突然で、予想もしていなかったことで、いなくなったことすら受け入れられないでいたらしい。ままにも抱っこしてもらうんだからっ、とふくらんだ腹を撫でては誇らしげにしていたのだと、ラーヴェがジェイドに零し聞かせた。そういえば少女は一回も、うん、とは言わなかったのだと。
 手紙はラーヴェにも、ジェイドにも、シュニーにも一通ずつ届けられた。ありがとう、元気でね、と書かれたそれは単なる別れの挨拶のようだった。数日後、もしくは数ヵ月後にまためぐり合える期待をそっと残すような、特別なもののない、悲しみを残さない言葉だった。またね、と書かれていないだけの、手紙だった。
 ミードのものに関してはもうすこし書かれていたのかも知れない。しかし『花嫁』はラーヴェにすらがんとしてそれを見せず、届けた女も内容までは分からないとのことで、ジェイドがそれを知ることはなかった。しかし少女は、己がいなくなった後にミードが落ち込むことを正確に把握していたのだろう。
 ミードは手紙を持ち歩き、ことあるごとに開いては、すんすん鼻を鳴らしてがんばる、と気を取り直すことが多くなった。そろそろ臨月も近くなってきた頃だ。気持ちが前向きになり、体調もぐっと落ち着いてきたので、医師やラーヴェ、当主の少年も胸を撫で下ろしてその日を待った。
 日々はめまぐるしく過ぎて行った。『学園』に入学し、『お屋敷』との往復を始めた頃と同じくらいの忙しさで、ジェイドの毎日は過ぎていく。王宮魔術師は聞きしに勝る忙しさで、ジェイドは王宮と『お屋敷』を往復し、時には数日をかけて砂漠の国内を飛び回った。
 思えばそこではじめて、ジェイドは『花嫁』『花婿』が持ち帰ってきた財貨の行き先と、その末をきちんと目にしたのだった。国に集められたその金品は、あらかじめの計画に従って各地のオアシスへ公平に分配される。時に金銭、時に宝石、時に水や食料、衣服。
 それが正しく行き渡ったか。どう使われていくか。過剰ではないか、不足はなかったか。公平であったか。公平とはなにか。望まれているものはなにか。生きていく為に、生かしていく為に、どの場所になにが必要なのか。ありとあらゆる情報が国中を循環する。血液のように、あるいは、一陣の風のように。
 魔術師は国中を駆け巡る。その目で見て確かめ、知り、時には感情や個人の倫理観を配したが故に公平な、魔術によってそれを判断する。魔術師はその為に端々まで足を運び、見知って、それを王へと報告する。一月は瞬きと共に終わり、一つの季節は呼吸と眠りの間に終わっていった。
 ジェイドが『学園』の生徒のように、一月いっぱいまでの長期休暇を言い渡されたのは、年末を目前にした頃だった。それまで一日か、二日の休日しか与えられていなかったことに、シュニーがついにかんかんに怒って、『お屋敷』の当主を通じた正式な抗議文を王へ提出した為だった。
 ジェイドはしゅにのでしょっ、こんなに忙しいのは浮気でしょっ、王様はジェイドに浮気させてるでしょっ、ジェイドはしゅにのっ、しゅにのなのかえしてかえしてもうだめやぁああだめなんだからぁああっ、という主張をものすごく丁寧にした文書であったのだという。
 かくして取り戻されたジェイドはご満悦のシュニーを膝に乗せ、ミードを見舞うことの運びとなったのだが。シュニーが我慢して我慢して、そうして噴火するまでの一部始終。それをつぶさに見ていたミードは、ジェイドにつつんっ、として顔を背け、いけないひと、と叱りつけた。
「しゆーちゃんをあんなに寂しくさせるなんて。しかも、しかも、うわきをするだなんて……!」
「……本当に心から申し訳なく思っていますが、俺も別に好きで忙しくなっていた訳ではなくて。でもあの、とりあえず……仕事の多忙は浮気に……?」
「ふくまれるでしょおおおっ!」
 ミードより先に、シュニーが怒りに怒った声でそう主張した。はい、すみません、と肩を落としてしょげるジェイドに笑いこそすれ、ラーヴェから助けの手が伸びることはない。微笑む目は、冷ややかな色を消さないままだ。こと『花嫁』に関して、『傍付き』の判定は特に厳しい。
 シュニーさまは耐えてらしたよ、分かるね、と友人に囁かれ、ジェイドは視線を逸らしながら頷いた。そんなに放置していたつもりはない。決してない。ないのだが、ある意味敵地である。頷く以外の選択肢は存在していなかった。申し訳なく思っていることも、本当であるのだし。
 出張を除けば毎日帰ってきていたし、休日も必ずふたりで過ごしていた筈なのだが、朝早く夜遅い日が多く、寝顔を見る日々であったのも確かなことである。んもおおお、んっもおおおっ、とぷりぷり怒ってジェイドにくっつくシュニーは、そういえばすこし、痩せてしまった気がした。
「ごめん……。本当にごめんな、シュニー」
 世話役たちの渾身の尽力のかいあって、ジェイドが撫でる『花嫁』の髪はさらりとした指通りを保っている。お休みの間はずっと一緒じゃなきゃだめなんだから、シュニーのだんなさまのジェイドなんだからっ、と涙目でぐずって求められるのに、うん、うん、とひとつひとつ返事をしながら、胸を撫でおろす。
 シュニーがジェイドの妻となってなお、『お屋敷』に留まれることになったのは本当に幸運だった。そうでなければ早晩、枯れてしまっていたかも知れない、と思ってぞっとする。魔術師の身柄は王のものだ。物なのだ。忠誠と献身的な働きが求められ、魔術師として、ジェイドはそれに強い苦を感じたことはなかったけれど。
 学び舎にいた頃よりずっと傍にいられなくなったことを、シュニーはどんなに寂しく思っていただろう。
「ごめん……。だんだん、仕事にも慣れてきたし、もう、こんな風にはならないようにするから」
「ようにするじゃないでしょっ! ならないでしょっ! しゅにもうさびしいのや! ならないんじゃないんだったら、ジェイドを王様に貸してあげないっ!」
「ならない。ならないよ。ごめんな、シュニー。約束する。ごめん……」
 怒って頬をぷくぷくにして、涙目でぐずっと鼻をすすり、シュニーはジェイドの胸をぺちぺち叩いてくっつきなおす。数日は恐らくこんな感じだろう。本当にごめん、としょげながら抱きなおすジェイドの腕の中で、シュニーは無言でごそごそと座り心地を調整していた。
「……ジェイドくん。もう浮気しない?」
 じぃーっと疑わしげに見つめてくるミードに、仕事は浮気に含まれましたごめんなさい、と力なく頷きながら、ジェイドは深々と息を吐く。
「しません……。『お屋敷』からの抗議文のおかげで、朝も遅くなるし、夜も早く帰ってきます……」
「んもぉ。ジェイドくんは、なんでしゆーちゃんを置いて、お仕事に行っちゃうの? しゆーちゃんのお傍にいるのがお仕事でしょう? ちがうの?」
「兼任なんです……。陛下の魔術師と兼任しないといけないんです……」
 俺だって片方だけでいいなら魔術師辞めてシュニーの傍にいたい、と心底思いながら、ジェイドは遠い目をして呟いた。王宮魔術師は職業ではあるのだが、辞職が認められていないのが残念な所だ。多忙な代わりに給料はすこぶる良いので、休日や長期休暇には気前よく豪遊する者が多い。
 けんにん、とたどたどしく言葉を繰り返し、ミードはくてんとあどけなく首を傾げた。
「なんで?」
「俺が魔術師だからですね……」
「んん……。わかった! わたしも陛下にお手紙してあげる!」
 だってジェイドくんはしゆーちゃんのだもの、まかせてっ、とミードは気合を入れた顔になった。その愛らしさ故に否定してしまうことができず、ジェイドはラーヴェにすっと視線を移動させた。止めて、と目で求めるのに、ゆったりと笑みが深められる。
 ジェイドには理解できてしまう。これは、ミードがやろうと思っていることなんだから喜んで受け入れようね、という『傍付き』の典型的なアレである。味方ではない。陛下ごめんなさい抗議文が増えます、と胃を痛くしながら思っていると、くいくい、と胸元の服が引っ張られる。
 ぷううううっ、とシュニーが涙目で頬を膨らませていた。かわいい、あっちがう間違えたえーっと、今なにか怒らせることしたかな、と考えながら、ジェイドはゆるくうっとりと目を細めて囁いた。
「なぁに、シュニー」
「しゅにをだっこしてるのに、じぇいどったらべつのひとのことをかんがえてる……! うわき……!」
「ジェイドくんうわきっ? うわきなのっ? いけないひと!」
 収拾がつかなくなるので、なにとぞ、ラーヴェはミードの口だけでも塞いでほしい。ちらりと視線を向けても、今日は体調がよくて元気で本当によかった、というほのぼのとした表情しか浮かんでいない。ジェイドの苦悩は、シュニーを放置した罰として恐らく積極的に推奨されている。
 ため息をついて、ジェイドは拗ねるシュニーを抱き寄せなおした。シュニーの為に生きていたい。傍にいたい。幸せでいて欲しい。それだけなのに。それだけのことが、いつも随分と、ジェイドには難しい。シュニーのことを一番に考えてるよ、好きだよ、と告げると、『花嫁』はくちびるをつんと尖らせながら頷いた。
 シュニー、と名を呼ぶと、不機嫌をやや和らげてくすぐったそうに笑う。ジェイド、と呼ぶ声は耳に優しく、甘く。触れては染み込むように、すっと甘く消えて行った。



 おなかがいたい、とミードが弱々しく訴えたのは、年明けを数日に控えた深夜のことだった。すでに予定日は過ぎ去っている。呼び集められた産婆たちが、さてどうしたものかと顔を突き合わせ、日夜相談を重ねている頃のことだった。ラーヴェはすぐに用意を整え、当主へその旨を通達した。
 ジェイドがそれを知ったのは、日が昇って朝食を終え、ゆったりと午前中の予定を相談している時のことだった。ラーヴェの補佐たるアーシェラが心配に顔を曇らせながら現れ、ミードの出産が始まったことを告げたのだ。『お屋敷』は常と変わらぬ空気を保っていた。宝石たちに動揺が伝われば、それは容易く変調となって現れる。
 シュニーに、特別できることはなかった。当主はこの日の為に医療体制を整えなおしていたし、ミードの世話役たちも出来る限りのことをして待っていた。傍にはラーヴェが付いているのだという。そこは御当主さまでなくて対外的に大丈夫だったんですか、とジェイドはアーシェラに冷茶を飲ませながら苦笑した。
 なにせ深夜からなにも口にしていないのだという。ジェイドはシュニーにアーシェラを引き留めるよう頼みながら、部屋を抜け出てその場所へ向かった。出産の為に用意された部屋の前。入れ替わり立ち代わり、産婆や医療師たちが出入りしているその周囲に、祈るように身を寄せ合っていたのはミードの世話役たちだった。
 ラーヴェはいない。扉の向こうで、ずっとミードについているのだという。まあ、ラーヴェのことだ。周到に用意を整えているか手配はしているだろうし、一日くらい飲まず食わずでも多少は応えるだろうが、後に響かせることはしないに違いない。多分。
 『傍付き』に対する雑な仲間意識を遺憾なく発揮し、ジェイドは離れたがらない世話役たちを宥めすかしてシュニーとの居室へ連れて行った。なにも言い残して行かなかったが、シュニーはすっかり理解していて、軽食と茶の準備が整えられていた。
 己の世話する『花嫁』でなくとも、無碍にできないのが『お屋敷』勤めの本能的な習性だ。はいどうぞ、と勧められて、世話役たちは苦笑しながら椅子に腰を下ろし、それぞれに軽食や茶を口に運び、息を吐く。ありがとう、さすがだね、えらいね、と褒めると、シュニーはミードそっくりの仕草でえへん、と胸を張って見せた。
 当主の少年がそっと顔を覗かせたのは、世話役たちが空腹を思い出し、それを満たして落ち着いた頃だった。深夜からわらわらと集まって動かなかった者たちが、そろって姿を消していたので、気になって探していたらしい。ここにいるならよかった、と安堵に零れた呟きに、世話役たちは照れくさそうに当主へ向かって一礼した。
 複雑な思いは、各々に消化しきった後であるらしい。世話役たちの表情は一様に、当主に対する淡い感謝や敬愛に満ちていて、ジェイドはそれに胸を撫でおろした。少年だけがそれに落ち着かない様子で視線をさ迷わせ、シュニーの誘いも断って何処ぞへ戻ろうとするので、ジェイドは妻に許可を得てから、当主を送ることにした。
 休暇中のありとあらゆる行動については、シュニーの許可制となっている。ゆっくりしてきても大丈夫よ、ミードの様子もちょっと教えてね、と告げるシュニーが、強がりではなく本当に落ち着いて、望んでそう告げたことを確認してから、ジェイドは当主を連れて歩き出した。
 少年はシュニーとジェイドをじっくりと見比べ、ほっとした表情で頷いた。ゆっくりと歩くジェイドに並びながら、少年は非難がましげな声で傍にいてやってよかったんだ、と言った。
「あんなに、忙しくしていたんだから……。抗議文だって本当は、何回か出そうとしていたのに……シュニーが止めてたんだ。知ってたか?」
「いえ。……抗議されようとしていたのですか? リディオさまが?」
「うん? ……うん、そうだ。そうだけど……」
 立ち止まって、まじまじと、少年は名を呼んだジェイドを見つめてくる。急にどうしたのだろう、と不思議がる表情だった。しかし非礼であるだとか、不快感を向けてくることはなく。どこかのんびりと考え込んだのち、少年はなにも言わず、こく、と頷いて歩き出した。
「ジェイドが、あんなにシュニーを放っておくだなんて、思わなかったから」
「……返す言葉もございません」
「頑張ってたのは、知ってる。結婚して、安心しちゃったんだろうな、とも、思った。でも……でも、あんまりに、シュニーは我慢してた。もう方々から怒られた後だろうし、今日、いま、言わなくても、いいとは、思ったけど……。顔を見たら、どうしても。……でも、もうしないんだろ? そう聞いた。……ほんとう?」
 ひた、と視線を向けられて。嘘偽りなく、ジェイドはそれに頷いた。当主は安堵しきった表情で華憐に微笑し、ほんとうなら、それでいい、とあどけなく呟いて足を止める。視線の先には、ミードの出産室があった。一時よりは落ち着いたが、それでも見ていると若い看護師がひとり出てきて、ぱたぱたと何処かへ駆けて行く。
 じっと。見ているだけで、少年はそこへ近づこうとしなかった。
「……ラーヴェが傍についている、とのことですが」
「うん。知ってる」
「……よかったんですか?」
 うん、と面白がる響きで呟いて、当主の瞳がジェイドを捉える。くす、と静かに少年は微笑した。首が傾げられる。
「ほんとに忙しかったんだな、ジェイド」
 暗に、知らないことをからかいながら、当主は穏やかな口調でそれを告げた。ミードより早く、ふたりの『水鏡』がひそやかに出産の時を迎えた。当主たる少年はいずれもそれに立ち会ったが、貧血でぱたぱたと倒れ、役には立たず。以後、出入りが禁止になっているのだという。
「だから、ミードの傍には代理としてラーヴェがいる、ということで最初から決まっていたんだ。……ちょうどいいだろう?」
 周到な用意を整えきったことに、満足した笑みで告げられる。ジェイドは苦笑しながら、はい、とだけ頷いた。どこから、なんの為の準備を整えていたのか。分からないが、少年がそうしよう、と思ったことがきちんと成されたのなら、それでもう良い気がした。
 部屋まで送ります、と告げたジェイドに、少年はそれを積極的に歓迎していない笑みで頷いた。構ってくれなくていいのに、と顔に書かれている。気が付かなかったことにして、一歩を踏み出そうとした時だった。す、とジェイドの目の前をひかりが横切った。金色の、魔力のひかり。妖精のひかりだった。
『あ、ジェイド』
 は、と声をあげるより早く、声をかけられる。
『なんか、郵便出しに来たらジェイドが長い休みだっていうから、珍しいこともあるな、と思って見に来たんだけど……。あれ、なに? 大丈夫?』
「ヴェルタ……」
 現れたのは四枚羽根の鉱石妖精だった。名を、ヴェルタという。ジェイドを迎えに来た案内妖精だった。言葉の通り、ジェイドの様子を見に来たら、ミードの出産に遭遇して戸惑っているらしい。こどもが産まれるんだ、と簡単に説明してやると、妖精は腕組みをして、へぇあれが、と感心した声で言った。
『でも、あんなに痛がってて……なにか難しいんじゃないのか? 医者も、何人も出入りしてるし……。負担がかかりすぎてるように見えたけど』
「……ああ」
 分かっていた。『花嫁』の脆い体に、出産は耐えきれないことが殆どだ。それでも、祈るように、大丈夫だよ、と告げるジェイドを見つめて。妖精はふぅん、と頷いて羽根をゆるりと明滅させた。
『祝福してやるよ』
「……え?」
『だから、祝福してやる。俺が。あのこを。……そうは言っても、まあ、痛みを軽くして、ちょっと気持ちを和らげてやるくらいのことしかできないけど。頑張るのは本人だ。負担を乗り越えられるかは、あのこにかかってる。でもさ、ジェイド……知り合いなんだろ? 不安なんだろ?』
 そんな顔をするものじゃないよ、俺の魔術師、と。ヴェルタはちいさな手で、ジェイドの頬をゆっくりと撫でた。俺の案内した魔術師、旅をして導いた俺のいとしご。歌うように囁いて、妖精はやんわりと目を細めて笑う。
『気まぐれだよ。ちょっと助けてあげる。それだけだ』
「……ジェイド?」
 不安げに腕を引かれて、ジェイドは息を飲んで傍らの当主へ視線を向けた。少年には、ジェイドがいきなり一人で話し出したようにしか見えなかっただろう。なにかいるのか、と問う当主に妖精が、と告げる間にも、ヴェルタはすいと空を泳いで部屋の中へ入り込んでしまった。
 ジェイドは戸惑いながら案内妖精がいたことと、その申し出を当主へと伝えた。出産を耐えきる『花嫁』は稀である。のちの記録を正しくする為にも、偽りは許されなかった。妖精が、と呟いた少年は、そうかと安堵に胸を撫でおろして微笑した。なら、ミードは助かるんだな。よかった、と囁きはほんものの喜びに満ちていた。
 当主を部屋へ送り届けて、もう一度出産室の前を通りかかると、柔らかな薬草の香りが漂っていた。妖精の祝福が成されたのだ。お礼を言おうと姿を探すが、気まぐれな妖精はすでに花園に帰ってしまったらしい。苦笑しながら部屋へ帰ったジェイドは、シュニーの前にひとりの看護師の姿を見つけて目を瞬かせる。
 どうしたの、と問うより早く、ジェイドを見つけ出したシュニーは、満面の笑みで胸をはった。
「ほめて!」
「う、うん? えらいな、シュニー……? なぁに、どうしたの?」
「うふふん。シュニーねえ、おかあさんになるの! じぇいど、おとうさん!」
 えへん、とミードばりにふんぞりかえるシュニーに、そっかシュニーはかわいいなそっか、と頷きかけて。意味を理解して。ジェイドは思わずシュニーを抱き上げてその場でくるくる回り、見ていた看護師に安静にさせてくださいっ、とさっそく特大の雷を落とされた。
 ミードの出産は無事に終わった。としごとしご、みぃのけーかくとおりっ、とくったりしながらも、知らせを聞いて喜ぶミードの状態は安定していて。ありがとう、と笑うラーヴェに、ジェイドは心からおめでとう、と言った。

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