砂漠の王に、世継ぎが産まれた。男児であるらしい。その知らせを、ジェイドはどこか遠くの世界の物事として受け止めた。現実感がなく、身近なものとしても感じられない。ただ、すこし前から『お屋敷』を騒がせていた、祝福と戸惑いの気配の理由が見つけられたので、どうりで、と呟いて息を吐きだした。反応としては、それくらいのものだった。
告げた青年はジェイドの名を呼び、続ける言葉にも迷う様子で苦笑した。青年の表情に怒りや不快感はなく。答え合わせがあっていた、とするような、悪戯っぽい安堵があった。青年は今も、王の側近として働いている筈である。そうであるなら『お屋敷』に来る時間所か、王の旧執務室から出てくる暇もあるまいに。
使者として動いたのは気まぐれではないだろう。なんらかの理由がある筈だった。薄く開いた窓から忍び込む風は、すでに夏を終え、初秋の気配を漂わせている。青年が話しかけてこないことをいいことに、動きの鈍い頭をゆっくりと働かせて。あくびをひとつ漂わせながら、ジェイドはのんびり計算し、ゆっくりとした仕草で眉を寄せた。
シュニーと寵妃の、懐妊の時期はほぼ重なっている。シュニーの出産が早かったとはいえ、寵妃のそれは、逆に遅かったのではないだろうか。薄ぼんやりとした祝いの気配が『お屋敷』に満ち始めた時期を考えても、青年が一時、王の傍を離れられると見た今日まで、日数がありすぎる。
あなたは本当に人の心配ばかり得意なんですから、と苦笑して、青年はジェイドの疑問を肯定した。
「寵妃さまも、御子もすこし、体調が優れませんでした。予断を許さぬ、という状態でもありませんでしたが……」
「陛下がなにも手につかずにいて、そっちの方が大変だった?」
「その通りです。あなたには隠しても仕方がない」
椅子の背もたれに体を預け、青年は深々と、なにかを悔いるような息を吐きだし、目を閉じた。顔色は良い、とは言い難かった。疲れているのだろう。面差しも、体つきも、痩せたように感じられた。面会室の椅子に対面で座りながら、ジェイドはやや物申したい気持ちで、視線を己の胸元へ下ろした。
膝の上に腰を下ろし、首にくるんと腕を回して体をくっつけて。椅子に座った『傍付き』にくっつく、『花嫁』の基本姿勢に忠実に、シュニーがくうくう眠り込んでいる。ましろい髪が、寝息に合わせてふわふわと揺れていた。んん、と気持ちよさそうな声をあげて時折頬を摺り寄せるしぐさは、熟睡している時のものだ。
しかし、今は眠っているだけで、先程までは起きていたのである。旦那さまを訪ねてきたお城の遣いにご挨拶しなくっちゃと意気込んで髪や服を整え、ひとこと、ふたこと、青年と言葉を交わして。それで、乏しい体力が尽きてしまった様子でうとうととして、青年が世継ぎが産まれたことを口にする時には、もう夢の中へころんと落ちていた。
眠っている妻を数に含めないにせよ、面会室には他の者の姿もある。窓辺にひとり、戸口にひとり。二人はどちらも、ジェイドが心から信頼する、シュニーの世話役たちだったが、つまり秘する会話をするには向かない環境である。わざわざ二人を指し示し、他にもいますけど、と分かり切った事実を告げたジェイドに、青年はにっこりと微笑んだ。
「あなたが同席させるくらいの相手です。礼儀は弁えているでしょう?」
「万一情報が漏れたら、犯人の特定がしやすいので心置きなく処罰しますね、と言っているようにしか聞こえないんですが?」
「『お屋敷』の情報教育を信じています、ということです。あなた方は口がかたい」
嫌味ではなく、どこか羨んでいるような声だった。城は相当に荒れているらしい。今どんな状態なんですか、と話したがっていることに水を向ければ、青年は即座に顔を歪めて舌打ちをした。
「恐らくあなたが考えているより、うんと悪いですよ。正直、私が想定していた最悪の事態の、すこし下を行っていてまだ下がっている状態です。聞きます?」
「……どうぞ」
「陛下の関心が国に戻ってこない所か、御子に行っていない」
あたなだって今は腕が塞がっていますけど、抱き上げるくらいはしたでしょうと問いかけられて、ジェイドは素直に頷いた。シュニーの治療が始まって以後、乳母の元から帰って来た時に、ウィッシュを抱くのはジェイドの役目である。最近は、哺乳瓶から乳をあげるのも随分上手くなった、と思っている。
調子の良い時こそシュニーもきゃっきゃと抱き上げるが、最近は専ら、寝かしつけも食事もジェイドの担当だった。ぱぱばっかりずるいねええええっ、とシュニーが頬を膨らませるくらいに。愛情や、興味関心が我が子と妻に平等であるかと問われれば、ジェイドは戸惑いながらも、申し訳なく首を振るだろう。
ジェイドが最優先しているのは、シュニーである。ウィッシュのことはもちろん可愛い。目が合えばふにゃふにゃとあいらしく笑うさまはいとけないし、暖かで柔らかくて、ちいさな体はどんなことをしても守ってあげなければいけないものだと思う。健やかな成長を願う。いとしい、と感じる。それでも、シュニー以上には、ならない。
もしかして父親の自覚とかそういうものに乏しいのでは、とやや落ち込んだこともあったが、それは『傍付き』が子育てをするにあたっての通過儀礼であるらしい。『お屋敷』の斡旋によって婚姻を結んだ『傍付き』が、必ず一度は抱える悩みであり、己の宝石を娶った者ならばなお突き当たるものであるのだという。
『傍付き』は、『花嫁』をなにより優先せよと整えられる。時には己の身より、その存在を優先せよと教育される。つまりは単純に、その弊害である。愛がない訳ではない。関心が薄い訳ではない。だから大丈夫なのだと肯定されて、ジェイドはようやく、不安をひとつ消し去った。
ふつうの、父親のように。愛せていたのなら、大切にできていたのなら、我が子を想う気持ちが、そこにちゃんとあったのなら。誰かが肯定してくれるくらいに、できていたのなら。おかしくない、と思えた。不安がることはなく、ただそこにある想いのまま、ウィッシュに接していいし、想っていい。想いの肯定を得て、息をする。
だからこそ、ジェイドは王の現状に無言で眉を寄せた。それは御子が産まれる前から危惧されていたことではあった。しかしそれは、国に関心が戻らない、ということであって。御子に関心がない、と側近が告げるようなことではなかった筈だ。どうして、と言葉短く問うジェイドに、青年は深々と息を吐きだした。
「つまりね、抱き上げたりしないんですよ」
「御子を?」
「御子を。名前も……寵妃と相談はしていたようなんですが、結局……王がつけたのではありません」
どの名前にするか決めかねる、ではなく。どれでもいい、と言ったのだという。同席していたハレムの女は、あまりの怒りに泣きながら、青年へそれを訴えた。そんなことってありますか、あんな言葉がありますか、と嘆く女は、寵妃の味方だった。それが救いだった、と青年は言った。
寵妃はさびしそうに微笑み、ではわたくしが決めさせていただきますね、と王に囁いた。つまり、と青年は目を閉じて、眩暈と頭痛を堪えながら吐き捨てた。寵妃は理解していたのだ。己が身重になったのは、愛ゆえに子を望まれたから、ではなく。ただハレムへ繋ぎとめる鎖をひとつ、王が増やそうとした結果である、ということに。
愛されていたと思ったことはありません、と青年は呟いた。大切にされていた、と思ったこともありません。名前をつけたのは母でしょう。いくら幼かったとは言え、探し出すことが本当にできなかったとは思えない。保護することができなかったとは。ただ、それでも、あの方は。私が目の前に現れた時には、愛そうとしてくれました、と青年は言った。
大切にできなかったものだから、今度こそ大切にしようと思って。名を付けられなかったからこそ、名を、呼んでくれようとした。傍にいられなかったから、傍に、いていい理由を与える為に認知までした。不器用でしょう、と青年は王を嘲笑う。でも、それで報われた気がした。生きてきたことを。生きていていいんだ、と思えた。あの日、あの時に。
大切な思い出を、大切にしたままで。それを過去へ置いて行かなければいけない痛みに、息を詰めながら。青年はゆるゆると瞼を開き、疲れた微笑を浮かべてみせた。
「ジェイド。王はあなたを連れ戻したがっています。寵妃さまの手から、御子を取り上げてしまう為に」
だから私が来ました、と青年は言った。立場故、素性故に、失敗しても許されるのは青年だけであるから、と。魔術師が受けるには危ない命令すぎた。彼らは王の『物』である。どんな扱いを受けるか分からない。冷やかささえ感じる声に、ジェイドは皆は、と王宮魔術師の安否を問うた。
無事でいますか。祈りを込めた囁きに、青年はええ、と頷いた。もちろん、とは、言わなかった。
「今日も、国中を走り回ってもらっています。あなたがいる頃と変わりなく、忙しさに終わりが見えないのが申し訳ない限りですが……。陛下の傍には、あまり行かないようにしてもらっています。そのせいで、魔術師を遠ざけて実権を握ろうとしているのでは、など悪口を言われましたが」
「その陰口言ったやつ、生きてるんですか?」
「残念ながら面と向かって難癖をつけられたもので、今は病院にいますね」
ジェイドとしては噂話が流れてきた、程度であることを祈っての問いだったのだが、想定が現実と比べてあまりに優しすぎた。それは本当に大丈夫なんですか、とジェイドは胃を痛くしながら息を吐く。それを顔を突き合わせながら言うものがある程、城の状態が悪化していると分かったからである。
青年は問いを微笑みひとつで聞かなかったことにして、魔術師たちとの仲は良好ですのでお気になさらず、と告げる。
「彼らも、あなたを気にはしていましたが……どうか、今の状態で連れ戻してはくれるなと。こちらは任せていいから、元気でやっていることを伝えて、あなたの現状も教えて欲しいと言われました」
「無視されるとか不安しかないんでもうすこし上手く誤魔化してもらってもいいですか……」
「奥方といちゃいちゃしていました、と言っておきますね。楽しく子育てもしているようだ、と」
肩を震わせて言う青年は、本当はそれを確認したくて来たのかも知れない、とジェイドは思った。青年はそれからいくつかの情報をもたらし、重ねて、ジェイドに言葉を告げた。どんな命令がくだされようと、戻ってきてはいけない。あなたがそれを許すまで、私がここを守ります。この場所を、この城を。この国を。
あの日。城から走り出していくジェイドの背を押した言葉と、全く同じものだった。
こほ、と乾いた咳が空気を揺らした。一度、二度。三度目が響くまでには時間があったが、結局はやや大きな音を立てて咳き込まれると、ミードはぱっと顔をあげてラーヴェを見た。おろおろと視線がさ迷って半泣きの顔をされるのに微笑み、ラーヴェは求められるまま、ミードの体を抱き上げた。
そのまま、寝台に足を運ぶ。あわあわと不安げに落ち着かないでいるミードの背を撫でながら覗き込むと、やはり目を覚ましたジェイドが、夢現の目をしながら喉を押さえていた。その腕の中では、まだシュニーが眠っている。起こさないように体を起こして、と告げればジェイドは眠たげな顔をしながらも頷き、ラーヴェの指示通りにした。
けほ、とまた乾いた咳。ラーヴェが水差しから湯飲みに水を注ぎこむより早く、身を乗り出したミードが有無を言わさず、その口に喉飴を突っ込んだ。目を白黒させて、そこでようやく、ジェイドは意識を覚醒させたらしい。やや落ち込む息が吐きだされ、視線がシュニーの眠りを確認したあと、親しくふたりに向けられる。
「ごめん……。ありがとうございます、ミードさま。ラーヴェ」
「ジェイドくん。この間から、お咳をする……! お風邪? 乾燥? 喉に良いお香を、もうすこし焚く?」
「ジェイド。不調ならば、医師に来て頂こう。今、君が体調を崩してはどうしようもない」
飲みなさい、とこちらも有無を言わさず、湯飲みが差し出される。うん、と頷いて喉を潤しながら、ジェイドは眠気を完全に消し去るあくびをして、ゆるく室内を見回した。眠る前にやや篭っていた空気が入れ替えられ、細々と散らかっていた物品が、整理整頓されて置かれている。
すこしだけ荒れていた空気が押し流され、ふわふわとした香気が漂っていた。喉の通りをよくする香りだった。見れば整理された机の上に香炉が置かれていて、ちいさなちいさな鉄鍋の中、湯といくつかの薬草が揺れている。見覚えのないものである。ええと、と記憶を探って額に手を押し当てながら、訪問予定がなかったことを確認して、息を吸う。
「……ミードさま、いつからいらっしゃいました? 申し訳ありません、お迎えもせず……ラーヴェも、どうして起こしてくれなかったんだよ」
「ミードが起こしたらかわいそう、と言ったからに決まっているだろう?」
そうだなその通りだな、とジェイドは遠い目をして頷いた。特に差し障る理由がないのであれば、『花嫁』のおねだりは聞き入れられるべきものだ。掃除も整頓もして、よく眠れるように湯をかけて待っていたのだと自慢げにラーヴェの腕の中でふんぞりかえったミードは、気合に満ちた顔つきでふんふんと鼻を鳴らして頷いた。
「ジェイドくんが間に合わないところは、みぃがいるからね! まかせてっ!」
「……ラーヴェ?」
「喜ぼうね、ジェイド」
止めて欲しい、という意思を分かっていながら、笑顔でごり押してくるのが『傍付き』の知ったやり方である。お手を煩わせる訳には、と困惑するジェイドに、ラーヴェは声を潜めて囁いた。どうか受け入れて欲しい。シュニーの為に、ミードができることはこれくらいしかない。考えて、考えて、すこしでも、と思い至った結果なのだと。
そう言われてしまえば、まだ泣き腫らした跡のある『花嫁』を、拒否することはできなかった。ミードさまもご無理のないように、と告げれば、母となっても少女めいた『花嫁』は輝くばかりに顔を明るくして、こくこく、こくこく、心底嬉しそうに、何度も何度も頷いた。
「あ、あの、あのねっ。みぃ、ジェイドくんみたいにね、しゆーちゃんのお世話は、できないからね。でもでも、お茶を入れたり、お湯と一緒に香りを焚いたりね、とっても、とっても、得意なの。だからね、お手伝い、させてね。ウィッシュくんのお世話だって、みぃ、きっとできるんだから! あのね、ウィッシュくんね、レロクと、とっても仲良しなの」
ここへ来る前に、レロクの様子を見に養育部へ行ったのだという。そこでレロクは、赤子用のちいさな寝台でくうくうと眠っていた。その腕いっぱいに、ウィッシュを抱え込んで。やわやわのちいさい赤ちゃんがもちもちにくっつきあっているのは、しあわせを全部注ぎ込んだみたいに可愛かった、とミードはとろける瞳で溜息をついた。
話を聞くと、レロクはウィッシュにたいそう興味があるらしい。母親同士がよく一緒の部屋でくつろいでいるので、見知っている為だろう。ウィッシュの近くにいれば機嫌がいいし、くっつけておくとすぐに眠ってしまうのだそうだ。ウィッシュも、ふわふわ笑って嬉しそうにしているのだという。
それを聞いたミードは、ちゃんすだ、と決意したのである。これはふたりいっぺんに、ミードが子育てできるのではないだろうか。もちろん、ウィッシュの母はシュニーである。そこから取り上げるようなことは決してしないが、ミードが面倒を見ることができれば、シュニーの体調が悪い時にも同じ部屋で、せめて見ていることができる。
だからね、お願い。お手伝いさせて、ねえねえ、させて、と必死に頼み込んでくるミードに、ジェイドは眠るシュニーを抱きなおしてから頷いた。
「シュニーが、それを良い、と言ったら……お願いします」
「うん! ……うん、あのね、大丈夫。しゆーちゃんが嫌なことはね、しないの」
嬉しいことをね、したいの。それでね、ミードもね、もうすこし、たくさん、しゆーちゃんのお傍にね、いたいの。ご迷惑じゃないようにするし、お手伝いをするし、助けられることもね、すこしはね、あると思うの。それでね、だからね、だから、と口ごもり、涙ぐんで、ミードは眠り続けるシュニーをじっと見つめた。
すぅっと深く穏やかな眠りに。じわっと浮かぶ涙を増やしながら、目をくしくしと擦って、『花嫁』は囁き落とす。
「おともだちだもん……おともだち、なんだからぁ……」
「……すまないね、ジェイド」
抱き寄せられ。とん、とん、と背を叩いて慰められながら、ミードはひくひくとしゃくりあげている。いや、とか細い声が『花嫁』の心を零していく。いなくならないで。元気でいて。一緒にいて。もうすこし、ううん、もっと、たくさん。いつまでも、ずっと。いっしょにいて。いなくならないで。
花の香りのように、甘く淡い言葉に籠められた感情を。ジェイドは誰より、理解できる。無意識に、手を伸ばしていた。横顔の、零れる涙を拭うジェイドに、ミードがきょとんとした顔をする。じぇいどくん、と不思議さに彩られた声と共に、こてり、首が傾げられた。なあに、と言葉を待つ無垢な眼差しに、心から微笑みかける。
「ありがとうございます、ミードさま。……どうか、泣かないで」
「……うん。うん……うん!」
ぱちくり、目を瞬かせて頷いて。何度も、何度も頷いて、涙を手で拭って。もう大丈夫っ、とばかり強く笑みを浮かべるミードは、美しかった。愛らしく、美しく、しなやかに。咲き誇る『花嫁』の姿に、ジェイドはゆるく笑みを零して。それからそっと視線を外し、えっと、と親友に向かって弁解した。
「ごめん……」
ありとあらゆる意味での、ごめん、だった。それは例えば『傍付き』に無断で『花嫁』に触れたことに対してでもあるし、『花嫁』の慰めに、途中で手も口も出したことに対してでもある。『花嫁』は『傍付き』のものであり、そして恐らく、一応、多大なる疑惑と公的な立場が異なっているにせよ、夫と妻である、筈だからだ。
居心地の悪そうな顔をするジェイドに、ラーヴェは苦笑しきっていいよ、と言った。諦めを多分に含む、慣れと、許容に塗れた声だった。
「ただし二度目はないからね」
「一回でも許してくれてありがとう……」
それに弱っている相手に決闘を申し込んでも苛めているだけだし、まあ二度目がなければいいよ、と続けられて、ジェイドは力なく頷いた。ラーヴェから見ても、ジェイドが弱っているように見えるという事実は、それなりに心に来るものがある。時折咳が出るくらいで、体調不良、と思えることもないのだが。
顔色悪く見えたりするかな、と問いかけたジェイドに、ラーヴェは聞き分けのないこどもを見つけてしまったような、形容しがたいしぶい顔をした。
「戸は叩いたし、声もかけた。待っても返事がなかった。世話役も傍にいないことだし、なにかあったかと思って勝手に入らせてもらったけど……目を覚まさなかった時点で、体調の悪さは自覚すべきものだろう……?」
「あのね、気にしなくていいのよ、ジェイドくん」
もう、いじめちゃだめでしょう、と頬をふくっとさせながら。二人の『傍付き』の視線をひとりじめした『花嫁』は、思い切りほこらしげにふんぞりかえって言った。
「ラーヴェもね、レロクが産まれてしばらむぐぐ」
「ラーヴェ。ミードさまなにか訴えてらっしゃるけど? なんで口塞いでるんだよかわいそうだろ」
「……ミード。それは内緒って言ったことだね。内緒は言ったらいけないよ」
やんやんやぁんラーヴェがおくちをふさいでくるうううっ、と暴れていたミードは、耳元でそう囁かれるとぴたりと動きを止めた。ぱちぱちと瞬きをして、あどけなく首が傾げられる。ううん、と悩んで眉を寄せながら、ミードは疑わしげにくちびるを尖らせた。
「ないしょ? 言った? ……ほんとうに?」
「言ったよ。ふたりの秘密にしようねって、約束したよね」
「ふたりの、ひみつ……!」
輝く笑みで照れながら、ミードは頬に手を押し当ててもじもじと身をよじった。あ、もうこれは聞き出せないな、と悟るジェイドの目の前で、ミードはもじもじ、もじもじ嬉しげに指をこすり合わせながら、甘えた仕草でこっくりと頷く。
「ひみつ、ふたりの、ひみつね……! ラーヴェがいねむりの、ねぼすけさんしていたの! みぃとらーヴぇのひみつ……! やややんなんでほっぺぶにってするのおおおおっ!」
ラーヴェが隠したがっていたことを、ミードが全部言ってしまったからである。ふぅん、と呟いて見てくるジェイドに、しばらく決して視線を合わせず。やぁあああっ、と暴れるミードが息切れを始める頃、ようやく、顔を背けたままでラーヴェは言った。
「まあ……でも……本当に体調を崩していないかどうか、確認だけでも、しておいたほうがいい」
「ラーヴェ、寝ぼけることあるんだ……?」
「あっジェイドくんったら、ひみつをしってる! いけないひと! ……うふふふ? あのね、あのね、これはひみつのことなんだけどね、ラーヴェねえぽやぽやしていてとてもかわいかったの! とても! それでねっ、ねむってるの、かわいくてね、きちょうなの! きちょうなねがおだったのっ!」
きゃっきゃ大はしゃぎして教えてくれるミードに、ひみつ、という言葉の効果が消え去って久しい。そうなんですね、と相槌を打ちながら、ジェイドはそっと胸元へ視線を下ろした。頬をすり寄せて安らぐ、シュニーの眠りは、深く。目覚める気配もないままだった。
そもそも『花嫁』が子育てをする、という事態は想定されていない。『お屋敷』の管轄外の出来事と言ってしまえばそこまでだが、本来『花嫁』とは嫁ぐものである。同時期にふたりの『花嫁』が残留することも想定外の事態であるなら、出産を終えて存命し、こそだてしたいっ、と張り切って主張するに至っては異常事態の範囲である。
つまり、シュニーの体調を受けてのミードの主張は、『お屋敷』に季節はずれの嵐を呼んだ。レロクもウィッシュくんもみぃがままと、ままの代理、というのをするの。これはもうきまったことなの。しゆーちゃんもいいって言ったの、と困惑し頭を抱える養育部一同を前にして主張するミードに、呻くように返された言葉は考えさせてください、だった。
そうさせていい、という情報が養育部になかった為である。はりきった『花嫁』のお願いと、それに続いたなんでえぇええええっ、という怒りにいくら心が苦しくなろうと、過去の情報がない以上は即答ができないことだった。なにが『花嫁』を弱らせ、致死へ至らしめることなのか分からない。どんな些細なことですら、きっかけになる可能性はある。
『お屋敷』は常に、詳細な情報と規律によって整えられ、形作られ、人々が動く場所である。『花嫁』『花婿』を中心にして、積み上げられる情報は莫大なものであり、それは日々更新されていく。しかし山のように残された幾千の情報の中にも、『花嫁』が子育てをした情報は乏しく、二人同時となるとひとつとして存在しなかった。
嫁いだ者の情報にも手は伸ばされた。嫁ぎ先で幸福に過ごしているかを定期的に調査、監視する役目の者たちはいるが、しかし、普段家の中でどのような生活をしているかまでは『お屋敷』の手が及ばない。『花嫁』『花婿』が、密かに伝えられた手段を行使し、助けを求めた時以外では。
大体からして、『花嫁』の赤子、というのは稀な存在である。『花嫁』は己の弱さを知っている。それがどれほどの負担がかかることなのかを、しっかりと教育されている。それでも望むほど、愛するひとができたその時に。無知のままでいてはならないと。選択肢を与える為に。『花嫁』は、閨教育と共に知識を与えられて嫁ぐのだ。
妊娠をきっかけに『お屋敷』に助けを求めた者の記録は残っていた。健康管理は密に連絡を取りながら行われ、出産を終えて数ヶ月までは、嫁いだ『花嫁』が幸福に過ごしていたことを物語っていた。しかし、そこまでである。『花嫁』が自らの手で赤子を育てていたか、という所までは記録がなかった。
申し訳ありませんがこればかりは許可するもしないも判断ができません、お許しください、と涙ながらの嘆願書が当主に提出されたのは、ミードの申し出から二週間後のことだった。二週間。通常業務と平行して過去のあらゆる記録を調べ続けた養育部の者たちの顔には一人残らず隈があり、激務と心痛を伺わせた。
小冊子に纏められた嘆願書、兼調査報告書を机に肘をつきながら指先でぱらぱらとめくり、当主はふぅん、とまるで気のない、ややのんびりとした声で問いかける。
「でも、ラーヴェは許可してるんだろ?」
「そうなんですよ……。そうなんですよ……!」
涙ぐんでしゃがみこみ、頭を抱えてうめく養育部代表の女に、当主は理解不能、とさえするまなざしを向けながら、噛んで含めるように言い放つ。
「じゃあ、問題がない、ってことだ。いいよ、ミード。好きにして」
「そうでしょおおおおぉおおっ?」
当主の傍に置いた椅子の上。得意満面の笑みでミードが胸を張る。
「だからぁ、ちゃーんと言ったでしょー? ラーヴェ、いいよって、言ったもの。えへへへへん!」
「……本当に、ご許可を……?」
灰色のまなざしで問われたラーヴェは、微笑んで頷いた。よかったね、と告げながら『花嫁』をひょいと抱き上げ、きゃあきゃあはしゃぎ倒す背をやんわりと撫でる。
「しないでいる精神的な負担よりは、こちらの方が介入も管理もできますから」
「……ミードさまの最近の体調は?」
「みぃ、元気! とっても元気!」
すごいでしょえらいでしょ、とふんぞり返るミードに、ラーヴェは微笑んでそうだね、と言った。『傍付き』からとりたて訂正がかからないので、体調に不安はなく、また安定しているようだった。入室した瞬間に惨状が広がっていたので会話には加わらず、戸口に背を預けて場を眺めていたジェイドは、感情を処理しきれずにため息をついた。
ミードには今も、妖精の祝福のきらめきが見える。淡い蜜のように光る魔力は、ミードとよくよく相性が良いものであったらしい。一時こそ体調を崩したもののすぐに持ち直し、ミードは日々精力的に、あれこれきゃっきゃとはしゃいでいる。あっジェイドくん聞いてミードはやったのっ、と胸を張られるのに微笑んで、深く息を吸い込みながら歩み寄る。
羨んでしまう感情を、どうしても消しきれない。そのことに、静かに罪悪感が降り積もる。どうしてシュニーではなかったのだろう。どうしてミードだけに、妖精の祝福は与えられ、今も元気でいるのだろう。ミードに、それがなかったら、と思っている訳ではない。『花嫁』が元気に笑っていてくれる姿は、それが己の宝石でなくとも幸せだと思う。
できることをした、と思う。あの時。あの日々のなかで。ジェイドはシュニーの為に、できる限りのことをした。努力を重ねた。嘘偽りなく、誰にでもそう言えるだろう。ただ、それでは偶然を引き寄せられず、奇跡が降りはしなかった。それだけ。それだけのことだ。羨む気持ちは、容易く妬みへと変貌する。けれど、それだけはしたくなかった。
ミードが助かったことを、元気でいてくれることを、よかったと思う。本当に。その気持ちを、幸福を、自分で否定してしまいたくはない。なによりも。その時に、よかったね、と笑ったシュニーの笑顔を覚えている。妖精が祝福を与えた、だからミードさまは助かるよ、とそう告げた瞬間の、ふたりの安堵と喜びを。
ミードさま、と微笑んで呼ぶだけで歩み寄ってきたジェイドのことを、『花嫁』は無垢な目でじっと見つめた。金色の瞳だった。蜂蜜の色。妖精の祝福、きらめく魔力と、まったく同じ輝きをしている。それは世界の愛と祈りの色だ。降り注ぐ日差しに、木漏れ日に、水に土に、火の粉の中に、吹き抜けていく風の中に。満ちる魔力の色だった。
ミードの瞳、髪からは魔力を感じない。変質した訳ではないだろう。ジェイドの見知った色彩から変わらず、だからこそなお、それを尊いと思う。魔術師ならば誰もが、ミードの姿にそれを感じるだろう。世界からの、魔術師に対する祝福。祈りと、愛。
「……ジェイドくん」
ちいさな手が伸ばされる。母となってなお、幼さとあどけなさを残すてのひら。無垢な瞳が、真剣な感情を宿して、一心にジェイドを見つめている。指が、じゃれるように服を摘み、弱々しい力でそっと引く。
「あのね。わ、わたし、ね……わたし、しゆーちゃんには、なれないけど……」
でも、でも、あのね、と。『花嫁』はジェイドの胸の澱を察して、それに怯えさえしながら。それでも、強く前を向く意思で、泣きそうになりながらも言葉を紡いだ。
「しゆーちゃんが、大事なの……。だからね、しゆーちゃんが大事なものもね、大事でね、大事にね、したいの。大切なの。一緒に、大切にさせて、欲しいの……」
「……はい」
「わたしね、ジェイドくんに助けてもらった。そうでしょう?」
まっすぐに、視線が重ねられる。瞳が覗き込まれる。奥底まで。祝福のきらめきは、今も淡く輝いている。はい、と頷こうとしたジェイドに、『花嫁』は微笑んで首を横に振った。ちがうの、と告げられる。目を瞬かせるジェイドに、ミードはそっと手を伸ばした。
両手が、祈るように包み込まれる。
「そうじゃないの……。それも、だけど、そこからじゃないでしょう……?」
「ミードさま?」
「ずっと、最初から、ジェイドくんはわたしの……わたしの、『助け』だったの。わたし、ちゃんと知ってる。ラーヴェがわたしのところに来てくれたのは、ジェイドくんが、しゆーちゃんに選ばれたから。ジェイドくんが、諦めないで、魔術師さんをしながら『傍付き』をしてくれたから、わたし、しゆーちゃんと、おともだちになれた」
ほかにも、たくさん、あるでしょう、と。『花嫁』は、ようやっと祝福を返せた、というように、幸せに満ちた笑顔で言った。
「わたしが旅行に行っている時、ラーヴェがさびしくなかったのは、ジェイドくんがいてくれたから。わたしがいまも元気でいられるのは、ジェイドくんの妖精さんが、わたしを助けてくれたから。……いまのわたしがあるのは、ぜんぶ、ぜんぶ、ジェイドくんのおかげなの」
だから、ね。助けさせて、と『花嫁』が笑う。
「ジェイドくんの、助けになりたい。今度は、わたしが。……しゆーちゃんのね、しあわせが、もっとずっと、ずっと、続いて行くように。ジェイドくん、お願い。わたしにね、しゆーちゃんと、ジェイドくんを、助けさせて」
ふたりとも、だいじ。たいせつ。だいすきよ、と。心ごと差し出すような微笑みで、ミードが言った。そうだよ、と言葉少なく、ラーヴェが全てに同意する。君と、君たちのおかげで、今がある。だから。助けさせて欲しい。負い目に感じないで欲しい。どれだけ君と、君たちに助けられていたか。こういう風にしか返せないのが心苦しいくらいだ。
そんな、と言いかけて、ジェイドは口を手で塞いだ。それを否定してしまうことこそ、してはいけないことだった。言葉に迷い、俯きかけるジェイドに、当主が笑う。
「難しくないだろ、ジェイド? うん、って言えばいいんだよ。……ありがとうって、言えばいいんだ。それでいい」
「……うん。あ……ありがとう、ございます……?」
「あ、じぇいどくんったら、ぜんぜんわかってない! しかたないひと!」
もうっ、と『花嫁』が華やかに笑う。ありがとう、ありがとう、だいじょうぶだからね。いっしょにいるからね、ひとりじゃないからね。ひとりになんてしないからね、と。世界からの、魔術師に対する祝福。祈りと、愛の色彩を宿した『花嫁』が笑う。
すがるように、息を吸い込んで。ジェイドは、ちいさく頷いた。