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 体調不良でも、曇りの日が続いたのでもないのに、シュニーはここの所眠ってばかりいる。じわじわと弱り続けていることは確かにしろ、シュニーの体調そのものは奇妙に安定していた。熱は出ず、咳もなく、体が重たくだるい、といったことも訴えられない。不調そのものを、つらい、と告げる言葉はないままだった。
 ただ、力が抜けていく。ゆるやかに。指先、足の先まで血と体温がめぐって行かない。ひとつ、ひとつ、蕾がしおれて行くように。咲いた花が、日暮れと共に眠りにつくように。そうしている時間が、終わってしまった。鼓動を巡らせる時が。体に熱を宿し続ける時が。おしまいになる。そういう気持ちになるのだという。
 実際、シュニーの手と足の先はつめたくなってしまうことが多い。それを手で包み込んで温めるのが、切なくとも、ジェイドは好きだと思った。いとしいひとの体が、熱を宿してあたたかくなる。同じ温度になれば、もうそれで、冷えてしまうことはない。ひとつを分け合って、ふたつに、なる。とく、と鼓動がやわらかくよみがえる。
 それを幸福と呼ぶには切なく。悲しみと受け止めるには、穏やかだった。
「しゆーちゃん。今日も眠ってるの? ……うぅん。まま、起きないねぇ。抱っこはみぃで我慢してね」
 ぴょこんと寝台を覗き込んだミードが、残念で申し訳なさそうに、腕の中に囁いた。ジェイドの腕はシュニーでいっぱいで、受け渡すにはためらいがあったのだろう。いいこ、いいこ、とウィッシュをあやしてくふくふと笑うミードを寝台にそっと下ろす、『傍付き』の腕には赤子がもうひとり。
 あのね、ラーヴェの抱っこはミードのなんだけど、レロクとウィッシュくんには貸してあげることにしているの。かんよーなおこない、なの。だってみーどはままだもの、しゆーちゃんと合わせて、なんとふたりぶんもままだものおおおっ、とこの上なく誇らしげにふんぞりかえって説明されたのは、つい先日のことだった。
 思い出してかすかに肩を震わせれば、ミードはふかふかの寝台で気持ちよさそうに目を細め、ジェイドくんごきげんさん、と砂糖菓子を食んだように呟いた。
「どうしてだか、あててあげましょうか? んっとね……。しゆーちゃんが、気持ちよさそうに寝てるから?」
「もちろん、それもありますけど。ただ、ミードさまが可愛らしくて」
「ジェイド。ひとの『花嫁』を口説かない」
 半ば諦めた叱責の声で、手を伸ばしてきたラーヴェに鼻を摘んで捻られる。抵抗するにも腕にシュニーを抱いているので、ジェイドは眉を寄せて頭を振った。
「別に口説いてないだろ。褒めただけ」
 ふぅん、と微笑んだまま目を細めたラーヴェが、ちらりとミードに視線を向ける。『花嫁』は顔を赤らめて、なにか言いたげにもじもじと身をよじっていた。なにか雲行きが怪しい気がする。あの、と声をかけるより早く、ミードはよじよじとジェイドから距離を開け、腕に抱くウィッシュをしっかと抱いたまま、ちょこちょこと訝しく首をかしげた。
「んん……ふつうの褒め? 褒めだったの……? んと、んと……ジェイドくんはもしかして、もしかして、いけないひとなのでは……?」
「待ってください待ってくださいラーヴェだって! シュニーに可愛いとか言いますよね!」
「ジェイド。『花嫁』に声を荒げない」
 ごっ、と重い音を立てて拳が頭に落とされる。ジェイドはいつまでもそういう基礎的なことができないね、とやわらかく囁く『傍付き』の、目が笑っていない。的確に痛みを与える箇所への殴打を、『花嫁』を怯えさせない一見落ち着いた仕草で行う、という技術を遺憾なく発揮するラーヴェは、結構本気で苛立っていた。
 あとでちょっと、と言い出さず実力行使されたのは、シュニーの傍からジェイドが離れるべきではないからだ。ふたりは、ひとつのもののように。触れて、はじめて完成する、ひとつの命のように。ジェイドがシュニーに触れていると、体調が安定して心地よさそうなのだと。告げたのはミードだった。
 みぃもラーヴェにくっついてると気持ちよくってきゃあきゃあするけど、しゆーちゃんはもっともっとなの。だからジェイドくんはなるべく離れちゃいけないの、と真面目な顔で言い聞かされたのだった。『花嫁』が。同じ『花嫁』の状態に関してそう告げるのならば、それはある意味、医師の診察よりも正確な診断足りうる事実となる。
 そしてそれは、『傍付き』に対する評価でも同じことだった。ミードはじいぃっと、拗ねたような顔つきで叱られているジェイドを見つめたのち。こっくり、大きく頷いて鼻を鳴らした。
「じぇいどくんったら、いけないひと」
「許してくださいお願いします」
「あ、あっ! これはもしかして、ウィッシュくんもしょうらい、いけないひとになるのでは……!」
 興奮のあまり発音がたどたどしくなりつつも、予感に戦慄した声だった。くっ、と堪え切れない笑いがラーヴェからこぼれる。白んだ目を向けると、ラーヴェは口元を手で押さえつつも、断続的に咳き込んでいた。未だ引かない頭の痛みにため息をつきながら、ラーヴェ、とジェイドは低まった声で親友を呼ぶ。
「謝るから、笑ってないでミードさまを止めて欲しい」
「もちろん。君がもうすこし反省したらね」
 声を荒げない、というのは基本中の基本だろう、と叱るラーヴェに言葉に詰まっている間も、おろおろしたミードは落ち着きを取り戻さなかった。たいへんたいへん、と眉を寄せて目をぱちくりさせ、腕の中ですこやかに眠るウィッシュに、こしょこしょとした声で囁きかける。
「いーい? いーい? ウィッシュくん。あのね、いけないひとになったら、だめよ。しゆーちゃんみたいにね、もてあそんで、ころがして、ぐらっときたところを、ぽいっ、ならいいの。でもね、でもね、いけないひとは、いけないの!」
「ミードさま……! なにとぞ俺の息子にあらぬことを吹き込むの止めて頂けますか……! 反省した反省したって言ってるだろラーヴェこの……笑い上戸……!」
「ウィッシュくんはぁー、しょうらい、どんなひとにときめきをおぼえるの……? あのね、あのね、おはなしができるようになったらね、わたしにそーっと教えてね」
 笑いすぎて咳き込むラーヴェに苛立っている間に、ミードの興味関心は逸れたようだった。『花嫁』の気分は、ころころころりと変わりやすい。それに感謝すればいいのか、脱力して泣けばいいのか分からないでいるうちに、ミードはウィッシュに頬をくっつけすり寄せて、幸せそうにくふくふと笑っている。
「ときめきの相談とか、ないしょのおはなし、しようね。とってもたのしみ……! ……あ、あっ、でも、でもね? ラーヴェはみぃの、ラーヴェは、みぃのなんだから。ときめきを覚えたら、いけません。わかった?」
「……ラーヴェ。反省したから、ほんとしたから、そろそろミードさまを止めてほしい」
「安心していいよ、ジェイド。昨日はレロクにも言い聞かせてたから。同じことを」
 平等で公平だね、さすがミード、と褒めるラーヴェの判断力を心底疑いながら、ジェイドは弱々しく首を振った。なにに安心すればいいのか分からないし、そういう平等とか公平はどこかに捨て去って欲しい。もちもち頬をくっつけながら、ミードはふわふわのはしゃぎ声を響かせている。
「ウィッシュくんがー、ときめくのは、どんなひとー、かなー? うーん。しゆーちゃんにとってもよく似てるからぁ……つまり……? またお外のひとだったりするの……?」
「あのミードさまそろそろ本当になんと申しますかそういう不穏な予想をするの止めて頂いていいでしょうか胃が痛くなってきたのでなにとぞ……!」
「ジェイドくん? いーい? だいじなことです」
 つつん、とくちびるを尖らせて主張するミードに、ジェイドは力なく頷いた。確かに大事なことである。しかしながら、まだ半年にも満たない赤子には、すこしばかり早すぎる、大事なことである。シュニーを抱きなおして力なく呻くジェイドの隣で、ラーヴェはすこぶる楽しそうに咳き込んで笑っている。
 うーん、うーん、うむむっ、と考えて悩む声をふわふわ漂わせ、ミードはあっ、となにかに気がついたような声をあげた。『花嫁』は大体そうなのだが、特にミードの『あっ』には格別碌な事がない。ああぁあ、と絶望的に呻くジェイドの隣で、ラーヴェはまだ楽しそうに笑っている。
 らーヴぇったらなにかたのしいことでもあったのかしら、と目をぱちくりさせて首をかしげ。問うことはせず。『花嫁』はまたこしょこしょと、眠る赤子へ囁きかけた。
「いーい? ジェイドくんもね、しゆーちゃんの。しゆーちゃんのジェイドくんです。だからね、ときめきを覚えるのはね、いけません。わかった?」
 呻くジェイドの傍らで、ラーヴェがそろそろ呼吸困難になりかけている。そっと体勢を変えて薄情な親友を足先で蹴り転がし、ジェイドはいいですかミードさま、と諦めずに言った。
「大丈夫です。大丈夫ですからどうぞ、ご心配なさらずに……! ラーヴェほんとお前そろそろいい加減にしろよ……!」
「あっジェイドくんたら、ラーヴェをいじめてる! いけないひとーっ!」
「苛められてるの俺ですけど!」
 えっ、とミードが驚ききった声をあげる。えっ、えっ、と狼狽しきってきょろきょろと室内を見回し、ミードはええぇっ、と声をあげてふるりと身を震わせた。あう、あう、と半泣きの怯えた呟きをこぼし、ミードはぷるぷる震えながら、そっとジェイドに問いかける。
「だ、だれにいじめられたの……? みぃがこらしめてあげる……!」
 あなたに、と言うよりはやく。復活したラーヴェが、光の速さでジェイドの口を手で塞いだ。ラーヴェなにしているの、ジェイドくんがお話できないでしょう、と目をぱちくりさせる『花嫁』に、『傍付き』はあくまで品の良い、穏やかな笑みで囁いた。
「ミード。気のせいだよ」
「……きのせい?」
「そう。気のせい」
 え、えっ、と不思議そうに、『花嫁』の瞳が『傍付き』たちを往復する。きのせい、きのせい、でも、でも、と不思議がる呟きが不安定に落とされ、その間、ラーヴェはただ微笑んでいた。なにも変わったことなどない、と告げるような、いつも通りの笑みだった。
 ミードはそれをじーっと見つめて。じー、じー、じぃーっと見つめたのち、こっくり、力強く、あどけなく頷いた。
「ラーヴェがそう言うなら。みぃの気のせい! ……きのせ? あれ?」
 あれ、そういうおはなしだったっけ、あれ、あれ、としきりに首を傾げるミードに、ラーヴェは言葉を重ねることはせず、ジェイドから手を引いた。こうなってしまえば、『花嫁』が本題へ戻ることは至難の業である。あれれ、とくちびるを尖らせるミードに、もういいですと項垂れて、ジェイドは深々と溜息をついた。
 その腕の中で。ふぁ、とシュニーがあくびをする。起きるかな、と見つめてもシュニーはジェイドの胸に頬をこすり付け、また眠りの中へと深く潜ってしまった。ミードが残念そうに、まま、起きないねぇ、と腕の中の赤子に語り掛ける。ジェイドはそれに頷いて。
 シュニーの頭を胸に引き寄せ、おやすみ、と囁きかけた。



 ミードが赤子と一緒にすぴすぴお昼寝をして目を覚ましても、シュニーは眠ったままだった。よぉく眠るねえ、としみじみ感心したミードは、かれこれ四日間、シュニーと話をしていない。いつ訪れてもシュニーが眠っていて、話し声にも物音にも、閉じたまぶたを持ち上げないからだった。時々、寝返りをして、あくびをして、眠ってしまう。
 反応としてはそれが全てで、寝ぼけるようなこともなく、ひたすらシュニーは眠っている。落ち着いた、穏やかな寝姿だった。表情はゆったりと落ち着いていて、なにか夢を見ているようにも感じられるが、悪いものへ落ちて迷ってしまうことも、今のところはないようだった。
 医師の告げる所によれば、病気ではなく。『花嫁』『花婿』の感じる所によれば、過度に弱って起きていられないわけでもなく。『傍付き』の知識と直感的な判断によれば、ただ穏やかに心地よく、眠っているだけ。それだけだった。ただ。ちり、とジェイドの、魔術師としての側面が、警告のような、焦燥めいた感情に揺れ動く。
 シュニーが中々目を覚まさなくなってからも、ジェイドは夜中に夢を見た。同じ夢だった。擦り切れそうなくらいに繰り返し、繰り返し、同じ夢を見た。花の夢だった。花に水をやる夢だった。魔力は枯渇し、喉の渇き、咳と共に真夜中に目を覚ます。朝の訪れを祈っているのか、遠ざけたいのか、分からないままに目を覚ます。
 あまりに眠るシュニーを不思議そうに眺め、『花嫁』って冬眠したかしら、とあどけない口調で呟いたのはミードだった。様子を見にジェイドの部屋を訪れていた当主は、冗談とも本気ともつかない口調で、冬眠することもある気がする、と言った。
 そっか、とまじめに頷いたミードは、しゆーちゃんの冬眠終わるといいね、と言って部屋からいなくなってしまった。レロクとウィッシュを養育部に預けに行ったのだ。育児は一日八時間まで、とラーヴェと約束したのだそうだ。ぷーっと頬を膨らませるミードはたいそう不満げにしていたが、微笑む『傍付き』から延長の声はないままだった。
 ふたりの面倒を見るにせよ、なににしても。八時間。それが、『傍付き』の定めた『花嫁』の限界である。いやいやだめだめもっとする、もっとするううっ、と定期的にミードがぐずって訴えても、今のところ、一度も延長されないままである。
 ううううぅ、レロクとウィッシュくんのままが増えちゃう、と往生際悪く訴える声と、それを宥めるラーヴェの笑い声が、廊下に響き、遠ざかって消えていく。まったくミードは変わらないな、と苦笑して、当主もまた、すぐに部屋からいなくなった。城からの帰りに、顔を見に寄っただけなのだという。
 最近、当主の外出は頻繁だ。城に呼ばれることなどそうはなかったというのに、この所週に一度、二度、三度、と増えるばかりで、落ち着く気配は見られない。なにかありましたか、と問うジェイドに、当主は柔らかな笑みで、うん、とだけ言った。それだけで、詳細を語ってはくれなかった。
 噂話。『お屋敷』の人々の口を借りて、ジェイドはその呼び出しが、王からのものではないことを知っている。王の関心は未だ、寵妃にだけ向けられたまま、人々にも国にも、戻らないままだった。『花婿』に魅せられた、と噂され、当主側近に密かにではなく命を狙われている青年が、不埒な真似をしている、とは、思わないのだが。
 一応、そっと、嫌なことはありませんか、とだけ問いかけたジェイドに、少年は目を細めて緩やかに笑った。そう問われたことが、気遣う気持ちを向けたことが、嬉しいのだとわかる表情だった。言葉はなかった。とうとうそれについて一言も告げぬまま、リディオはくちびるに指を押し当てて微笑し、とことこと部屋を去っていった。
 まあ、ほんとうに害あることならば、それを当主側近が見逃す訳はない。命があるとも思えないので、不安は残るが大丈夫なのだろう。夕刻の、夜が滲み出した部屋でため息をこぼし、ジェイドは眠り続けるシュニーを抱きなおした。とくとくと鼓動は落ち着いていて、手も足も、ぬくまってぽかぽかと温かい。
 見ていると、シュニーはふぁ、と気持ちよさそうにあくびをした。瞼は持ち上がらないままだった。



 ふわん、と目の前に浮かぶそれは、たんぽぽの色をしていた。やさしい黄色。その隣に浮かぶものは生まれたてのひよこの色で、近くを漂っているのは蜂蜜の色を宿している。やわらかな陽光、お気に入りの手毬、刺繍の糸、色あせた絵本の紙、夜明けの空のひとかけら。シュニーが愛する、様々な色彩の中の黄色だけが、そこに集められていた。
 朝焼けのようだ、とジェイドは思う。夜が終わって朝を迎える瞬間の、瞼の裏いっぱいに眩さが満ちるあの一瞬の、息を飲むような驚きと喜びの。ひかりに満ちている。はじまりを告げるひかりが、その場所へほとほとと生まれ落ちている。鼓動と同じ強さで。呼吸と同じ感覚で。瞬きごとに増えていく。祈りのようにひかりが満ちていく。
 雪みたいだ、とジェイドは思った。本で読み、話にしか聞いたことがないが、ふわふわとてのひらへ降りてくるそれは、綿雪というものによく似ている気がした。冷たくはない。どこかほんのりと、甘いぬくもりを宿している。触れた、と思うには質感が乏しいそれを、両手の指で包み込むように手の中に閉じ込める。
 泣きそうな、後悔だけのない安堵で心は満ちていた。それが罪でも悪でもかまわなかった。成し遂げられたことだけが重要だった。できること全てで努力した。その結果がもう、ここにあった。『傍付き』であったこと、『魔術師』であったこと。その二つと共に、生きたこと。その苦しみが、もしこの結果の為だったら。
 何度でもそれを繰り返せる。出会いから、何度やり直せと言われても。この喜びを覚えている。この結果にたどり着いたことを、ジェイドは忘れないで覚えている。血を吐くような嘆きも苦しみも悲しみも、やるせない、拠り所のない生も。報われたと思う。全てではなくとも。十分過ぎる程、満たされきる程、ここで報われた。
 『花嫁』が望むなら、地獄の果てまで『傍付き』は共に行く。どんな願いだって叶えてみせる。その為の研鑽と祈りを携えて歩いてきた。けれども『傍付き』には、叶えられなかった。『魔術師』でなければ不可能だった。今はただ満たされている。嘆くことなどなにもなかった。『花嫁』の願いを、『魔術師』は聞き届けられたのだから。
 てのひらで包み込んだそれに、そっと口づける。ふわふわの、やわらかい黄色いそれが、じわりと金の鱗粉をまとう。喉の奥が渇く感覚があった。口付けから、指先から。ジェイドの魔力が染み込んで行く。受け渡されていく。ひとつに、なる。ふ、と息を吐きだした。大丈夫。これでもう、大丈夫。どこにもいかない。いなくならない。
 ああ、願いが、叶えられた。満ちた喜びに『魔術師』は泣いた。淡い光。夥しいほどの魔力の顕現。魔術師に対する祝福。愛そのもの。その一方で、切り替わった意識の側面が目を覚ます。ふ、と光から手を離して、『傍付き』は地に膝を折る。花に、手を伸ばした。そこにはまだ花があった。折れて枯れて弱り果て、朽ち果てる寸前の花があった。
 ああ、願いが、叶えられない。いなくなりたくない、と言われたのに。望まれたのに。どんなことをしても、その願いが叶えられない。ほたほたと声もなく、『傍付き』は泣いた。その涙から、震える指先から。魔力が染み込んで行く。受け渡されていく。鼓動も熱も命も。なにもかも。与えて、繋いで、途切れないように。
 最後のひと呼吸さえ分け与えるように。分かち合うように。捧げられる。花は微笑むように、解けるように、ひとひら、花弁を地に落とした。雨のように。涙のように。落ちた花弁さえ、愛おしく。触れていたい、とジェイドはそれを握り込んだ。やさしい香りが指の間から立ちのぼる。
 それが、肌に染み込んでしまえばいいのに。消えないでいてくれればいいのに。ひとつに、溶け合ってしまえばいいのに。ああ、とジェイドは息を吸い込んで、吐き出した。満たされる喜びと、引き裂かれる悲しみ。心の感じる、どちらも本当の気持ちだった。どちらかにはなれない。どちらも、連れては歩けない。
 夢を見る。朝まで浅い眠りを繰り返し、繰り返し、繰り返し、幾度も幾度も夢を見る。花の夢を。光の夢を。希望に満ち、喪失の予感をひたひたと満たしていく、夢を見る。夢を。繰り返し、ジェイドは夢を見る。その夢が、もう現実を浸食していく真実になるのだと。『魔術師』も、『傍付き』も、否定することもできずに理解していた。
 乾いた咳をひとつ、零して。朝の光が滲む寝台の上で、ジェイドは目を覚ました。枯渇しきった魔力に、全身がだるい。息を吐いて体を起こしながら、腕の中を確認する。ジェイドにぴったりくっついて、しあわせそうに、シュニーが眠っていた。思わず笑みが零れる。可愛くて、可愛くて、愛おしい。
 不意に、シュニーの瞼が揺れる。ふぁ、とちいさなあくび。ふあぁあ、ともう一度、長く、ゆっくりと。んん、と声を零してシュニーが瞼を開く。その瞬間を、ジェイドはずっと待っていたようにも。訪れないで欲しい、と思っていたようにも感じた。ねぼけまなこを包むように、額を重ねて視線を合わせる。
「……おはよう、シュニー」
「おは、よ。じぇいど……」
 目覚めたばかりのシュニーは、ジェイドと同じ熱を宿している。手も、脚も、足の先も、どこもかしこも、ぽかぽかとしていてあたたかい。気持ちよさそうに笑うシュニーを引き寄せなおして、強く抱きしめる。とく、とく、と刻まれる鼓動に耳を澄ませた。今はまだ重ならない音が、ひとつに近くなっているのを知っている。
 ひとつに、なりたい。失わない為に。ひとつに、なりたくない。二人だから、抱きしめられた。相反する感情に声を失うジェイドに、シュニーはすこし不思議そうにして。指で、そっとジェイドの髪を撫でて、露わになった耳に口づける。ジェイド、とシュニーは夫の名を呼んだ。ただ、それだけを。その名、その響きだけを。
 幾度も、幾度も、繰り返した。



 部屋に世話役たちを呼べたのは、久しぶりのことだった。ミードとラーヴェ、赤子たちは毎日顔を出して共に過ごしていたが、世話役たちは必要最低限の入退室を繰り返すばかりで、留まりはしなかったのだ。寝具を清潔なものと取り換え、必要な布を補充し、汚れた物を持ち去っていく。水の補充や空気の入れ替え、そればかりで。
 それはジェイドがそうして欲しい、と願ったのではなく。シュニーの状態を見た世話役たちが、自主的に始めたことだった。遠ざかりたい、と思ってではないことは、そう告げた彼らの表情からも明らかなことだった。『花嫁』と『傍付き』は、そう負担にはならないでしょう。けれど、と言って、世話役たちはあえて『花嫁』から距離を開けた。
 こころだけが傍にいた。ずっと。離れはしなかった。それを、シュニーは眠っていても感じたのだろう。いつも通りの顔をしてやってきた世話役たち、ひとりひとりを近くまで呼んで、『花嫁』は彼らの手や、服を握り込んで、とても丁寧に話をした。それは多くが、感謝の言葉だった。
 空気を入れ替えて、窓に季節のお花を飾ってくれたのはあなたでしょう。あのね、いい匂いがしていたの。ありがとう、嬉しかった。枕も、シーツも、おふとんも。いつもふわふわで、とっても気持ちよかった。洗って、とりかえてくれて、ありがとう。お水がつめたくて、いいにおいがした。あれはシュニーが好きな香草ね。ありがとう。
 ちゃぁんと、ぜんぶ、わかっていたからね。伝わっていたからね、知っていたからね。傍にいられなくて、でも、ずっと一緒にいてくれたことも。ジェイドと一緒に待っていてくれたことも。だからね、なにも悪くて、悲しいことは、なかったからね。ありがとう。分かっていたからね。ありがとう、大好きよ。大好き。大切なひと。
 世話役たちはたった一言、はい、と告げて頷くばかりだった。涙を堪え、中には声なく落涙してしまう者もあった。シュニーは慌てず、微笑んで、世話役の涙を拭ってありがとう、と繰り返した。ありがとう、大丈夫よ。ありがとうね。大好き。今日からは普通に、ずっとそうしてくれてたみたいに、一緒にいてね。
「いいでしょう? ジェイド」
「いいよ。シュニーの、したいようにしような」
 ふたりきりでいる幸福より、今は扉を開いておきたい。それはジェイドの本心だった。シュニーはとろけるように笑って、ありがとう、と囁く。世話役たちは、ずっとシュニーの傍にいた者ばかりだった。ジェイドを選んだが故にラーヴェがいなくなった、その時からも。離れず、『花嫁』の傍で、その世話をし続けた。
 ジェイドが魔術師となり、『学園』との生活で奔走し続けている間も。傍に居たくてもいられない間、彼らはずっとシュニーを励まし、慰め、待っていてくれた。呆れられたこともあった。怒られたことも。溜息をつかれた回数など、数えたことはなく。馬鹿にされたこともあった。それでも、冷遇されたことは、なかったように思う。
 戸惑いもあっただろう。拒否感もあっただろう。悩むことは多く、受け入れられないことも多かっただろうに、彼らはいつもシュニーの傍で、一緒に、ジェイドを待っていてくれた。いつからか、誰より、ジェイドの味方をしてくれたのが世話役たちだった。呆れて、怒って、溜息をついて、手を引いてくれた。学ばせてくれた。
 家族がいたなら、こういうものだったのかも知れない。今にして、そう思う。ジェイドが戻れなくなって、遠い過去に置き去りにしてきた、血の繋がった家や、家族。そこで生きて、過ごしていたのなら、周りにはきっとこういう人たちがいてくれたのかも知れない。だから、彼らは家族だった。ジェイドの。そして、シュニーの。
 だからもう遠ざける気にはならなかったし、共にいて欲しい、とも思った。告げれば、世話役たちは顔をくしゃくしゃにして、『花嫁』の前では堪えきった者も泣きだした。ジェイドったら、と腕の中に身を寄せた『花嫁』がからかうように笑う。みんなを泣かせたらいけないでしょう、といとけない、とうめいな声がくすくすと笑う。
 うん、とくすぐったそうに笑って、ジェイドは妻を抱きなおした。たぶん、ジェイドが欲しがっていたものや、失ったと思い込んでいたものは、ずっと前から傍にあって。戻って来ていて。与えられていて。ようやく、それに気が付けるようになったのだ。それを、今はしあわせだ、と思う。
 世話役たちが落ち着いた頃、レロクとウィッシュをつれて、ミードがぴょこりと部屋に顔を出した。赤子ふたりと『花嫁』を両腕でしっかりと抱き上げたラーヴェは、起きているシュニーに笑みを深めて目礼する。
「おはようございます、シュニーさま。お加減は?」
「しゆーちゃん! しゆーちゃんおはようおはようあのね! あのね、ウィッシュくんねっ、つれてきたのウィッシュくんまま! ままが起きてるから今日はままのだっこ? ラーヴェはやくはやくううううっ!」
「うん、うん。そうだね、ミード。落ち着こうね。……そうだね、嬉しいね」
 はやくっ、はやくうううっ、とちたちたしながら訴えるミードにやんわりと苦笑しながら、ラーヴェは早足に寝台に近寄った。ころろんっ、と急いで転がるように寝台に移動したミードは、きらきら、輝く目でシュニーにウィッシュを受け渡す。各々が息をつめて見守る中。シュニーはそっと赤子を受け取り、しっかりとその腕に抱き上げた。
「しゆーちゃんしゆーちゃん! あのね、安心してね。とっても元気でね、それでね、いいこでね、それでね。あっ、あのね、しゆーちゃん。あのね。おはよう……!」
「うん、おはよう、ミード。……ミード、ありがとう」
 ジェイドに支えてもらいながらウイッシュを抱き、片手で、シュニーはミードの頬に触れた。
「ありがとう、わたしの、おともだち」
 ぱちぱち、ミードが瞬きをする。じわっ、とすぐに涙が浮かんだ。うん、とミードは頷く。うん、うん、と何度も頷いて、鼻をすすって、『花嫁』はだっておともだちだもん、と呟く。そのやりとりで、『花嫁』たちには十分であるらしかった。あとは、もう、言葉もなく。ふたりはくっついて、よりそって、くすくすと蜜のような笑みを零した。
「ウィッシュ、重たくなったねぇ……。レロクくんも、大きくなったね。仲良し?」
「うん! 仲良し。いっつもね、くっついてね、寝てるの。かわいいの! ……ウィッシュくん、しゆーちゃんのことじっと見てる。……うふふ。ままだよ、ウィッシュくん。まま」
「そっか。……うふふ、ままですよ。わかる?」
 ふにゃ、と。あまく、やわらかく、幸せそうに、赤子が笑み崩れる。きゃぁあっ、とふたりの『花嫁』の、はしゃぎきった声が空気を震わせた。笑った、かわいい、ままだもんね、笑った、ときゃっきゃはしゃぎあう二人に、ラーヴェが心底和みつつ、安心したように息を吐く。
 シュニーの座椅子代わりになっているからこそ、ラーヴェを視線ひとつで傍まで呼んで。なに、と身を屈められるのに、ジェイドはこっそり囁いた。
「リディオさまと、フォリオさんにも知らせは出したけど……。遠慮して来ない気がするから、連れて来て欲しい」
「……今日中に? 明日まで? 数日中に?」
「急ぎはしないよ。でも、数日中にはお願いしたい。……医局の、あの方も、どうか」
 顔を出してくれるだけでいいから、と吐息混じりに願うジェイドに、ラーヴェは真剣な顔をして必ず、と言った。君の願いだ、叶えるよ、と頷いてくれたラーヴェに、ジェイドはくすぐったいような気持ちで笑う。こんなに、誰かが優しくしてくれて。こんなに、わがままを聞いてくれるような時は、あっただろうか。
「……いいんだよ、ジェイド。わがまま言って」
 内心を読むことに長ける『傍付き』の苦笑に、『花嫁』たちが会話を止め、きょとん、としてジェイドを見つめる。それに気にしなくていいと首を振って、ジェイドは親友にゆるく首を振って見せた。わがままは、もうたくさん叶えられている。これ以上はなんだか、申し訳ないような気持ちになる。
 熱を。手も足からも失わないで、温かくて。くすくすと機嫌よく笑うシュニーを抱きなおして、ジェイドはゆるく目を細めた。腕の中に幸福がある。ジェイドの望んだ全て。わがままの、全て。叶えられた全てが、あたたかく、とくとくと、まだ鼓動を刻んでいる。笑って、囁いて、生きている。
「……じゃあ。毎日、会いに来て欲しい。これまでみたいに」
 眠っている間、ずっと、そうしてくれていたように。これまでの普通を、これからも。変わることなく、続けて欲しい。それで十分なのだと。告げるジェイドに、ラーヴェは分かったよ、と頷いた。その視線が、ふ、と戸口を見る。側近に連れられて、どこか遠慮した顔つきをして立つ、当主の姿がそこにあった。
 あ、とシュニーが嬉しそうに笑う。リディオ、と呼ばれても、まだすこし立ち入るのにまごつく当主に、『傍付き』たちはくすくすと笑って。頼まれたからね、と言って、ラーヴェが歩み寄っていく。ここちよいざわめきに室内が満ちる。人々の気配と、声と、笑い声に満ちる。
 シュニーはずっと、しあわせそうに。とろけそうな笑みで、笑っていた。



 一枚、一枚、ゆっくりと。花が落ちていく。光が、満ちていく。夢を見る、その終わりが。近いことを知っている。

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