前へ / 戻る / 次へ

 ジェイドが城へ呼び出されたのは、シュニーが目を覚まして一週間後のことだった。王命ではなく、魔術師たちの連名による懇願状めいたそれに、ジェイドが送り返した返事は拒否である。目を覚ましたシュニーは、ジェイドが傍に居ないと体調を崩すようになった。常に傍らに。常に肌を触れさせていなければ、シュニーは苦しそうに咳をする。
 数分離れているだけでも、ミードが悲鳴をあげてラーヴェを遣いに走らせ、呼び戻したくらいである。傍を離れることはできなかった。幸いにも、ジェイドが傍にいさえすれば、シュニーはふつうに息をする。笑って、穏やかに、その姿は健康にさえ見えた。手を繋げば立ち上がって、ちょこちょこと部屋を歩き回ることさえできた。
 異変を。明らかな変質を、ラーヴェもミードも理解していただろう。それでもふたりはジェイドに問うことをせず、『花嫁』はしゆーちゃんよかったね、と微笑み、『傍付き』はそっと、言葉なくジェイドの肩をぽんと叩いた。いつか、話せる日が来たら。肩を貸すよ、と告げるラーヴェに、ジェイドはうん、と頷いた。
 当主はじっとシュニーを見つめ、ゆるり、ゆるり、瞬きをしてから首を傾げた。まるで見覚えのない誰かが、その視線の先にいるのだ、とでもいうように。けれどもまた、リディオも問うことなく、ふたりを幾度か見比べた後にかなしげに微笑んで。シュニー、と同胞の名を呼んだ。確かめるような声の響きだった。
 リディオは当主として、ジェイドに来た呼び出しを無視していいと許可をした。誰の目から見ても、シュニーはジェイドの傍から離れられないのが明白だったからだ。医局の女性も、珍しいことにはっきりと眉を寄せて首を傾げ、投薬記録とシュニーの状態を見比べて、深く重いため息をついた。
 これではシルフィールの記録が役に立ったのかが分かりません、と呟かれた言葉はいかにも『傍付き』の嘆きで、ジェイドは思わず視線を逸らし、口元を強く手で押さえた。根本的な所で、『傍付き』の持つ大事なものは己の『花嫁』『花婿』である。それ以外には決してならない。失い、弔い、時が立とうとも。その気持ちは永遠に息を止めている。
 どこにもいかない。なくならない。風化しない。変化しない。あるがまま、残される。それは婚姻へ送り出した『傍付き』に共通することであり、女性のように、役目を全うした宝石を見送った者にも残されるものだった。呪い、と呼ぶ者もあるかも知れない。『傍付き』にしてみればそれは、心からの祝福に他ならない。
 数日は穏やかに過ぎた。シュニーはジェイドを座椅子代わりにきゃっきゃとウィッシュをあやし、眠らせ、哺乳瓶から乳を含ませては、たどたどしい仕草で赤子の背を叩いた。頬をくっつけては、いいこ、と笑う仕草を、ジェイドは目に焼き付けるように見つめていた。
 ミードとラーヴェはレロクを連れて、せっせと毎日顔を出しに来た。『花嫁』たちは相変わらずこしょこしょと耳元でなにかを囁き合っては、きゃぁっと声をあげてはしゃぎ、その内容を『傍付き』に教えてはくれなかった。膝の上で、ようよう声を潜めてミードへ囁く言葉の、淡い、甘い、ふわふわとした残響だけが耳に触れて、消えて行った。
 ジェイドの元に、もう一度、魔術師からの呼び出しが届いたのは、一通目からきっかり一週間の経過した、朝のことだった。当主自らの手によって運ばれてきた手紙は、当然のように開封されている。中身は読まないでも知れた。リディオがしぶい顔をしていたからである。断り切れないんですか、と問うジェイドに、当主は息を吐いて首を振った。
 どうしても確認しなければいけないことがある、と手紙には書かれていた。王の命じた気配のないままに。それ所か、王の目を通されて出されたものとは思えないままに。陛下の耳に入るより早く、と文字が告げていたからだ。二通目の最後には、王の側近たる青年の署名があった。彼らは王を通さず、青年には知らせてジェイドを呼んでいるのだ。
 どんな命令でも、どんな理由があっても。そう告げた青年の顔と、言葉と、声を思い出す。正しいのはきっと、今すぐ魔術師の元へ足を運んで話を聞くことだった。なにがあったのか。なにを、知りたいと思っているのか。シュニーを連れてでも、そうするのがいいと分かっていた。しかし、それはできることではなかった。
 『お屋敷』の空気は常に、清浄に保たれている。温度湿度は一定になるように管理されているし、吹き込む風も、恐らく砂漠でいっとうきよらかなものだ。『魔術師』の目を通せば、それははっきりと分かる。古の祝福を受けた地に、『お屋敷』は作られている。砂漠の古い伝承、砂獣がうつくしい男女と引き換えにした、安穏たる地に。
 そこを離れて。すこしの間でも、外の空気に触れさせても、シュニーが耐えられるかどうかの確証はなかった。一度だけでも、その一度が手遅れになるということを、『傍付き』は学び、知っている。できません、とジェイドは言った。リディオ、お許しください。今は、いまだけはどうしても、連れて行くことさえ。
 大丈夫、と当主は頷いた。『お屋敷』は『傍付き』の判断を信じる。その判断を、ちゃんと守り抜く。だから、もう心配しなくていい。断っておく、とどこか楽しそうな笑みでリディオは囁き、それが二度目の終わりだった。三度目の訪れは、すぐだった。その翌日に手紙はもたらされた。
 息急き切って。一人の魔術師が、まるで追っ手から逃れてきたかのように。人目を気にしながら、どうか、と門番に渡して走り去ったのだという。三通目はこれまでとの連名とは違い、一人の名、一人の筆跡だけが言葉を書き連ねていた。久しぶり、の言葉もなく。どうか、と願う言葉からはじめられていた。
 どうか、今すぐ。今日にでも、明日にでも。確かめさせて欲しい、会って欲しい。一目でいい、きっと分かるから。一言でいい、きっと、必ず、助けてみせるから。どうか、ジェイド、お願いだから、と懇願する手紙の末に、書かれていた名を、シーク。いったい何が、と強張ったジェイドの腕の中、手紙をひょい、と覗き込んで。
 シュニーは目をぱちくりさせて、あっ、と嬉しそうな声をあげて笑った。
「このひと、ジェイドのおともだちでしょう! シュニーに、ご挨拶に来ましたって言って、おめでとうって、言って。それで、それで、ジェイドはあなたの傍にいるのがしあわせだからって言ってくれたの!」
「……式の時に?」
「そう。結婚式の時にね、そーっとね、ジェイドには内緒だよって。……あ、内緒だった! きゃぁ、やっ、やぁん……どうしよう……」
 おろおろとあたりを見回し、へにょりと眉を下げてごめんねえ、と呟くシュニーの愛らしさで、シークは許すだろうし許さないのだとしたら人の心がないから気にしなくてもいいんだよ、と微笑んで慰め。ジェイドはどうしたものかと思案した。門番の言葉を受けた当主も、ただ事ではない、と思ったのだろう。
 断るにしても、その知らせを城へ出していいのかすら、分からない。魔術師の連名ではないことからも、これはシークの独断である。それ程までに、なにかがあるのだ。心当たりは、と問う『お屋敷』の当主に、ジェイドは穏やかな笑みで言い切った。
「たくさんあるので、どれなのか分かりません」
「……うん。うん……そっか……。それは、その……どれくらい、とっても、いけないことなんだ?」
 わかりません、とジェイドは素直に白状した。本当の所、ジェイドは己がなにをしてしまったのか、その正確な答えを知らないままである。繰り返す夢は痛みと希望に満ちすぎていて、真昼の記憶に蘇らない。なにかを、して。罪を犯しました。『魔術師』としては恐らく、許されないことです。そう言い切ったジェイドに、当主はただ微笑した。
 それなら、それでも。俺は『当主』として『傍付き』を許すよ。せいいっぱい、できることを、できるかぎりやってくれた。そのことを、その結果を。俺が許すよ。どんなことであっても。ありがとう、と囁いて笑って、リディオはよし、と頷いた。じゃあ、俺も。『当主』として、『魔術師』のジェイドに、できるかぎりのことをしないと。
 大丈夫。包み込むような、慈愛に満ちた、当主の顔をしてリディオは微笑み、囁いた。大丈夫。俺がなんとか、してあげる。シュニーと待ってて。その言葉を告げられた次の、その次の朝。ジェイドは、いいよ、と言って当主に呼び出された。シュニーを連れて、ふたりで、俺の部屋に来て欲しい。出来れば今日中に。
 ジェイドに伝言を運んできたのは、当主側近の女だった。聞けば執務室でも面会室でもなく、当主の私室であるという。一瞬、水鏡のことをジェイドは思い出した。さよなら、と告げたきり、会うことのない当主の傍女。ひとり、赤子を産んだと聞いた。儚くなったかを、ジェイドは知らない。ただ、『お屋敷』で執り行われる葬儀は、なかった。
 私室であるのはただ単に、騒ぎになることなく最高位の警備を敷ける場所が、すぐに用意できなかった為である。そう説明される女に導かれ、ジェイドはシュニーを抱き上げ、養育室へ顔を出してから当主私室へ向かった。うふふ、ウィッシュとレロクくん、もちもちくっついててかわいかったねえ、と機嫌の良いシュニーを抱きなおす。
 幸い、『お屋敷』の中の移動で、シュニーが体調を崩すことはなく。とく、とく、と近くで奏でられる心音と、髪を撫でたり、頬をふにふにと突いて絡んでくる指先も、あたたかいままだった。離れなければ、傍にいれば。いつかのように。いつものように。シュニーは息をして、ひどく、穏やかでいる。
 当主側近の女はふたりを、羨むように、憐れむように見つめた後、ひどく静謐な仕草で一礼して、当主の待つ扉を叩いた。入れ、と声がする。失礼します、と開かれた扉の内側へ体を滑り込ませるジェイドに、椅子から勢いよく立ち上がる音が届く。顔を向けると、そこに、シークがいた。
 約束したな、と駆け寄ろうとする腕を掴んで、リディオが魔術師の少年を睨みつけている。騒ぎを起こさない、大きな声を出さない、目の届く範囲でだけ動く。魔術師を、王の許可なく、『お屋敷』の許可なく。内部へ踏み込ませたことが、誰にも、知られてはならないのだと。ジェイドにも聞かせる為に、告げられた言葉だった。
 ああ、と呻いたのは、ジェイドとシーク、どちらだったのだろう。なんという無茶を、と言葉を飲み込んで、全てを、当主に問い、告げる言葉の全てを後回しにして。ジェイドは泣きそうに震えて、力を失って立つシークに歩み寄った。シークの視線は、ひとつの所へ向けられている。ひとつの所。ひとりの、『花嫁』にだけ向けられている。
 シーク、と眼前に立って声をかけるより早く。力を失った少年の足が、床に崩れるようにして座り込む。シーク、と呼び掛けても視線があがらない。立ち上がろうとも、せず。シークは泣き顔を覆うように顔に手を押し当て、ジェイド、とどこか懐かしく響く声で、同胞の名を呼んだ。
「なんて……ことを……」
 震え。恐れ、怯え、嘆き、慄く、湿った声だった。シーク、と幾度か呼びかけるジェイドの腕の中で、シュニーは声もなく、じっと、少年の姿を見つめていた。そうして罪を暴く者が、やがて現れてしまうのを。確かに知っていたような、眼差しだった。



 まず一般に対してなぜ魔術師が隔離されているのかと言えば、身に宿す魔力が毒となるからである。冷えた薄荷水をいくらか飲んで落ち着き、ソファに身を沈めてシークが呟いたのは、魔術教本で幾度か目にしたその一説だった。魔術師は人の世において隔離される。それは差別であり、区別であり、守護であることを知らなければならない。
 なんに対する守護であるか。人に対して、魔術師に対して、我らが共に歩む世界の平定、平和、そのものに対しての守護である。ぶつぶつと幾つかの小節を目を閉じて眉を寄せながら呟き、薄荷水で喉を潤して、ようやくシークは深いため息を共に瞼を持ち上げた。ぐしゃぐしゃに踏み荒らされ、傷つき擦り切れる、勿忘草の瞳。
「……魔術、というのは。そのままでは人の世に毒を撒く行為に他ならない。無加工の、無精製の、毒物。それをいくらか加工して、精製して、整えて。ようやく、人の手にも受け渡せるようにしたもの。それが、欠片の世界に現れる、突然変異たる魔術師の、使う、魔術だ」
「……うん。そうだね、その通りだ」
「それはひどく痕跡が残りやすい。毒物の名残としても、加工した者の署名を描き入れる行為にすら似てる。……ああ、だから……だから、くそっ……ジェイド、皆、知ってた。知ってる。ジェイドがなにかしてたこと、ずっと、魔術を使って、なにか……知ってて……」
 見逃していた、とシークは言った。ジェイドが、あんなに生真面目で頑なで真面目な魔術師が、それでも禁を犯して魔術を使うのであれば、それはたったひとりの為に他ならないのだと。砂漠の王宮魔術師たちは、誰もが知っていた。だから見ないふりをした。『お屋敷』でなにか魔術が使われている気配を感じても、その痕跡がいくらあろうと。
 目を逸らした。けれども、それにも限度があった。最初に気が付いたのが誰だったのかは分からない。それはぞっとするような事実だった。発動が途切れる間がない。朝も昼も、夜もずっと。昨日も、今日も、ずっと。いつからか、いつまでもと分からない。それはまっすぐに引かれ続ける一本の線のように。途切れないまま、発動を続けていた。
 朝も、昼も、夜も。早朝に出かけ、深夜に戻ってくる魔術師たちは、いつしか祈るような気持ちで『お屋敷』を見つめるようになった。どうかどうか、どうか、今日こそ。祈るように、焦りながら、胸の中で泣き叫ぶよう願っていた。今日こそ魔術が途切れますように。あの魔力が、途絶えますように。あの祈りが終わりを迎えますように。
 だってあんなの生きていけない、と、とうとう一人が泣き伏した。その魔術がどんな規模であれ、どんな効果であれ、昼夜を問わず延々と続けるだけの魔力を持つ者は、魔術師とは呼ばれない。限りない者。魔法使い、と呼ばれる。ジェイドは限りのある魔術師だった。だからこそ、魔力は有限であるものだった。
 魔術師にとっての魔力は、もうひとつの命である。人が飲む水であり、吸い込む空気であり、流れる血液であり、繰り返される鼓動である。途絶えてはいけないものだ。枯渇させてはいけないものだ。すこしならば、体も保たれる。長く息を止めているように、ずっと水が飲めなくて喉が渇いてしまうように。すこしなら。耐えられる期間なら。
 ジェイドの発動は、それをはるかに超えていた。そしてそれは、この不安定な国の均衡を緩やかに削って行ったのだ。魔術師たちがいくら駆け回ろうと、青年が王を叱咤し国政へ向かわせようと、ゆるやかにゆるやかに悪化していく。坂を小石が転がるように。水に落とされた毒が、水脈の隅々まで染みわたっていくように。
 どうしても、もうだめだ、と。魔術師たちが判断したのが、件の一通目であったのだという。ジェイドの様子は、青年を通じて知っていた。『お屋敷』に脅されて妙なことをしている風でもなかったから、なにかは恐らく、己の意思で成したことなのだろう、と青年は告げて深々と息を吐き、署名に名を連ねたのだという。
「偶然だとは思うけど、一通目の後、発動の規模が落ちた。……だから二通目までは間があっただろう?」
「……間を、置いてくれた理由は?」
「これくらいなら立て直せるかどうか、奔走してたんだよ。皆ね」
 でも駄目だった、とシークは言った。砂漠の国は、あまりに安定を欠いてしまった。中核となる王が崩れ、それを支える臣の心も揃わず、魔術師たちが足場を崩してしまった。末端が壊死する、と顔色を失ったのは魔術師たちの長。せめて発動をやめさせなければ、というのが、魔術師たちの総意。
 幸い、王はそれに気が付いていない。今はまだ。視線と意識は反れ続けていて、息苦しさに、ひたひたと地脈を満たしていく毒にも気が付かない。幸いだと思う日が来るとは思わなかった、と青年は笑ってシークの背を押したのだという。行きなさい、君の言葉なら届くでしょう。友人だと聞きました。ならばこそ、君が。
「だから、止めに来たんだよ、ジェイド……。でも……まさか、そんな」
 恐怖にすら揺れる瞳が、人の世の悪意に踏み荒らされた色が、ゆるゆると持ち上がってシュニーを見る。愛と善意に包まれ守られ抜いた『花嫁』を。眩しいもののように見て、目を逸らす。
「……白魔術師が人を癒せるのは、毒が薬だと彼らの本能が知っているからだ」
 教本の言葉が。魔術師の教えが。祈るように、懺悔のように、シークの口から零れ落ちていく。そんな場合ではないのに、ジェイドは口元を緩めて微笑した。話すのが上手くなったな、と思う。『学園』を卒業してもしばらくは不安定だった。ジェイドが離れていた間に、誰かと、たくさん話をしたのだろう。
 その、知らない時の隔たりが。分かり合えないものとして、恐怖のように横たわっている。
「四十八時間。……知ってるよね、ジェイド。知ってたよね……?」
「……うん」
「白魔術師の魔術ですら、人の身には毒になる。その限度が、連続四十八時間! 君はそれを!」
 ぱんっ、と音がしてシークの声が途切れる。冷やかな目をした当主が、手にした紙でシークの口元を横から打ち払ったからだ。なにを、とは言わず、乱暴にしないでください、とジェイドは息を苦しく呟いた。声の激しさに怯えるシュニーを抱きなおし、耳を塞いで撫でながら。とくとく、はやく刻まれていく鼓動に、目を伏せる。
 面差しに浮かべる表情も薄く。当主がやんわりと、首を傾げて囁いた。
「二度は言わない。……一度黙れ。さもなくば」
「……シーク。シーク、すまない。言う通りに」
 戸に背を預けて黙したままでいる側近の女性が、明らかに苛立った気配で当主の命令を待っている。このままだと叩き出されるだけだろう。そして二度と、『お屋敷』は門を開くまい。シークは荒れた呼吸を整えるように目を伏せ、てのひらを握って頷いた。
 荒れた静寂に、シュニーが震えてすがり付いてくる。ぽん、ぽん、と幾度も背を撫でられて、シュニーは大きく息を吸った。こく、と肩口でちいさな頭が決意めいた動きで頷く。シュニー、と問う声にうるんだ目で顔をあげ、『花嫁』は震えながら視線を魔術師へ向けて。怒らないでね、と囁いた。
「しゅにが、頼んだの……。しゅに、あ、わ、わたし。わたしがね、ジェイドに頼んだの……」
 反射的に言葉を告げかけた口を、ぱっと手で塞いで。シークは懐疑的な目でジェイドを見た。見えている罠を疑う眼差しだった。苦笑して待っていると、そろそろと手が離される。
「……話しても?」
「どうぞ。いいですよね、リディオさま。彼はもう、落ち着きましたよ」
 ぷい、と拗ねた仕草で顔を背けて。好きにすればいい、と告げた当主は、ぽすん、と愛らしい仕草でソファに身を沈めてしまった。無言で差し出された手に、いつの間に移動していたのか、女が湯気の立つ陶杯を受け渡す。ふう、と息を吹きかけて飲み込む姿は、もうシークから興味を失ってしまったように見えた。張り詰めた緊張さえなければ。
 警備は、決して当主を裏切らない。信頼できる者たちばかりで行われている。そうでなければ、側近の女がこの場所まで、シークを立ち入らせる筈がない。それでも不安なのだろう。信頼が裏切られることを、リディオは知ってしまった。その痛みが、これからずっと、誰かを信じる希望を持たせないでいる。
 大丈夫よ、とシュニーは言った。リディオに、そして、シークに。どちらにも言葉をかけて、返ってきた安堵はひとつきりだった。
「……きみはジェイドに、なにを望んだの?」
「いなく、なりたく、ないって」
 あのね、と花の蜜のように甘い、とうめいな声が柔らかにささやく。まだ、ずっと、いっしょにいたいの。いなくなりたくないって、思ったの。だからね、わたしが、頼んだの。わたしが、いっしょに、いてって。だから。
「ジェイドが、いけないんじゃ、ないの……。わたしが、わがままだったの」
「我侭じゃないよ」
 祈りを、欲望と呼んでも。あのかそけき言葉を、我侭、とは。かたくシュニーを抱いて言い聞かせるジェイドに、『花嫁』はふわりと笑って、うん、と言った。シークは言葉にならない息を吐き、額に手を押し当てた。
「……君を、死の淵から救うために、ジェイドはしてはならないことをした」
 可能である筈がないことをした、とシークは言った。ジェイドは治癒を可能とする白魔法使いではなく、支えとなるような属性も持っていない。水属性の黒魔術師。救いはない筈だった。ジェイドがしたのは、薄いうすい毒を含ませ続ける行為に他ならないのだという。花に水を注ぐように。人の身に、魔力を与え続けた。
 四十八時間、とシークは繰り返した。癒しを可能とする白魔術師でさえ、人の身に触れる、それが限界なのだと。それ以上は癒しは反転し、猛毒と化す。人と、魔術師の、決定的な違いがそれだ。魔力とはそういうもの。突然変異として目覚めた魔術師は、その瞬間に変質するからこそ、その毒に適応して生き延びる。
 分かっているだろう、と魔術師の瞳が『花嫁』を見る。魔力に満たされたその体を。ジェイドの魔力を血液のように循環させ、ようやく呼吸を続ける、『花嫁』の姿を。
「彼女は、変質した。……ボクの目には……魔術師の目に、もう彼女がひととして映ることはない。とても、そうとは、思えない……」
 魔力に満ちたものに。魔力そのもので編まれたものに。奇跡のように意思が宿っている。ひとと同じ形を作りながら。それをなんと呼ぶのか。魔術師は誰でも知っている。妖精、と呟くジェイドに、シークは声なく頷いた。けれども妖精は人の身では非ず。人の身は、妖精に転じ得ない。
 不完全で、不安定な変質の末を、魔術師は教本で学ばされる。四十八時間を越える治癒は、人の精神の破綻という形で死をもたらす。稀に、ごく稀にそうならない者は、魔力で満たされ魔力へと還る。その身は、一欠片も残さず砕けて消える。人の身は消え去り、ただ、満ちた魔力が戻るだけ。
 離れられないんだろ、とシークは言った。もう、人の身が保つ筈がないのだと。離れたら、それが終わり。でも触れて繋がっていたとしてさえ、もう数日が刻限になる。落ち着いたら城へおいで、話しておくから、と言ってシークは去った。その背を見送り、ジェイドの腕の中で、シュニーはちいさく咳をした。
 触れていて、なお。我慢しきれず、喉が軋み、こぼれてしまった音だった。



 眠るのが嫌だ、と零したのはジェイドだった。シークを見送った日に。血の気の引いた顔でくちびるを噛むリディオに、なんと告げて部屋を辞したのかも思い出せず。いつのまにか日が落ちた部屋の中で、ジェイドはシュニーをぴたりと胸に抱き寄せて、眠りたくない、と囁いた。眠れば夢を見るだろう。花の、枯れ行く夢を見るだろう。
 それを留めることはとうとうできなかったのだと。花を、蘇らせることは叶わなかったのだと。知らしめる夢を見るだろう。金のひかり、蜜のいろ、シュニーの愛する柔らかな黄色に染め抜かれた輝きに満ちた、絶望とともに現れる希望の夢を見るだろう。それはシュニーの願いを確かに叶えたのかも知れない。いなくなりたくない、という願いは。
 ごめん、とは言わず。いやだ、とも言わず。ジェイドはシュニーの首筋に顔を埋めて、眠りたくない、とただ、その言葉を繰り返した。シュニーはうん、と頷いてジェイドの頭を抱き寄せた。髪に頬をくっつけて、熱を分け合って、鼓動に耳をすませて目を閉じながら。ねむりたくないね、と穏やかな声で囁いた。
 まりょくになったら、とシュニーが呟いたのは、なにもかも寝静まった深夜のことだった。静かな、静かな、砂漠の砂が風に運ばれる音さえ聞こえてきそうな夜の中。シュニーは不思議なくらいに、やわらかく響く声で、言った。
「どうなるの……? どこへいくの?」
「……どこにも行かないよ」
 満ちた魔力が飽和して崩れ、ただ、ジェイドの中へ戻ってくるだけだろう。あるいは、世界へ溶け消える。循環する風の中、沸きいずる水の中。かじかんだ手を温める火の中、うつくしい、砂漠の、一欠片へ。そこにシュニーの意識はない。魔力、とはそういうものだ。たゆたい、まどろみ、巡るもの。
 薄く浮かんだ涙を瞬きでごまかして。それなら、とシュニーは微笑んだ。心から、確かに、安堵したように。
「じぇいどは、叶えてくれたね。ありがとね……」
 いなくならない。魔力になって、世界になって、ずっと一緒にいる。シュニーの意識がなくなってしまうだけ。その魔力に触れれば、ジェイドにはシュニーが分かるだろう。かつて愛したひと、己の『花嫁』だった魔力であると。それでも、触れ合う熱はなく。二度と名を呼ぶこともない。
 いなくならない。ずっと、ずっと、いなくならないでしょ。そうでしょ、と囁くシュニーをかたく抱き寄せて、ジェイドは泣いた。眠らない夜が終わり、朝が訪れる。不安でいっぱいの顔をしたミードを迎えて、シュニーは微笑んだ。何日か、だけになるけど。会いに来てね、話そうね、と笑うシュニーに、ミードは声をあげて泣きながら頷いた。
 一日は賑やかに、穏やかに繰り返す。昨日と同じ日を、記憶に刻むように繰り返す。一日、二日、三日目の夜。とうとう眠りに落ちたジェイドは、満ちた光と、花の夢を見た。夜が終わる。朝が来る。一日、一日、時が過ぎていく。そして、シークが訪れて十日目の真昼。
 ミードが、目の前にいるシュニーを見失った時。花が枯れ落ちたことを知った。



 しゆーちゃん、とあどけない声がシュニーを探した。言葉が不自然に途切れ、ミードはこてりと首を傾げる。ぱちぱち、瞬きをする『花嫁』に視線を落として、ジェイドは言葉を失った。ジェイドの腕の中、膝の上に、シュニーは変わらず座っている。ミード、とまだ不思議がる声で呼んでいるのに、『花嫁』の視線は不安定にさ迷っていた。
「しゆーちゃん? しゆーちゃ……あ、れ……? じぇいどくん? しゆちゃ、しゆーちゃんは……?」
「ミード。……ミード、わたしはここよ」
 二度、名を呼んだ時には。もうすでに、なにが起きているのかを、シュニーは理解してしまったらしい。ふ、と全身から力が抜ける。諦めとは違う、穏やかな笑みで。シュニーはここにいるわ、と囁いた。おろおろと、今にも泣きそうに、目の前にいるシュニーを探してあちこちを見回すミードに。
 レロクとウィッシュを養育部に預け、戻って来たラーヴェが戸惑う雰囲気に立ち止まる。訝しく眉を寄せ、ジェイド、と呼んだその声には、『花嫁』の所在を問う響きがあった。ここ、と腕の中で、ぽつりとシュニーは言葉を零す。視線を伏せて。ラーヴェ、わたしはここ、と呟く声は、ジェイド以外には、もう届かない。
 魔力は。あるいは、妖精の姿、その声は。魔術師以外には届かず、見えず、響かない。それを視認できるからこそ、その声を、聞き届けるからこそ。彼らは突然変異、魔術師と呼ばれるのだ。息を、止めたいような気持で。押し黙るジェイドの腕が、変わらず、なにかを抱いているのに気が付いたのだろう。
 しゆーちゃん、しゆーちゃんっ、と泣き叫ぶミードを抱き上げ、ラーヴェが狼狽した目でジェイドを見た。その、空にしか見えない腕の中へ、視線を向けた。
「……いらっしゃるのか、そこに」
「……いるよ」
 おいで、シュニー、と囁いて。ジェイドは愛しい『花嫁』、妻の体をさらに引き寄せた。さらさらの髪に頬をくっつけ、目を閉じて体温を味わう。ジェイド、と囁く声は甘く、優しく、いつもと変わらぬように響いて行く。そうか、とラーヴェは言った。そうか、と噛みしめるように。
 くしくし、くしくし、目を擦って、ミードもまた、ジェイドへ視線を向けた。その腕の中の『花嫁』の姿を、視線が捉えられずに震えて、さ迷う。
「しゆーちゃん……?」
「ミード」
「しゆ、ちゃ……。や、やだ、やだ。いやぁ……!」
 戻ってきて、とミードは泣いた。行かないで。いなくならないで。おはなし、してたもん。いままで、おはなし、してた。いや、いや。おいていかないで。いかないで、いっちゃいや。いや、と訴えて泣くミードをかたく抱き寄せて、ラーヴェは穏やかな声で部屋を出ようか、と言った。
 ふたりに、しようか、と。問いに、ジェイドはいいよ、と言った。どっちでもいいよ。選ぶということが、今はできない。どちら、と考えることができない。腕の中のぬくもりで、意識がいっぱいで。シュニー、と囁くジェイドに、『花嫁』は淡く、息をした。
「ジェイド……」
 泣かないで、とシュニーが囁く。泣いてない、と言い張るジェイドに微笑んで、その頬に伸ばす指先の輪郭が、柔らかく崩れかけている。ひかりに。金のひかり。魔力に。シュニーの体が溶けて、消えかけている。頬に触れた指は、それでもまだ温かかった。
「……あのね。考えてたの」
「……なにを?」
「いなくなりたくないって、言ったこと……。嘘じゃないの。ほんとうに、そう思って、言ったの。……でもね、間違えてたの。そうじゃなかったの」
 ずっとあの人がね、言ったことと。ジェイドが教えてくれたこと。わたしが、これから、どうなるか。考えていたの。ずっとずっと、考えて、それでね、分かったの。間違えちゃったんだって。いなくなりたくない、だったけど、それも本当だったけど、でも、一番はそれじゃなかったんだって。
 ジェイド、と。誰より愛する少女が、ジェイドの名を呼んで微笑んだ。まっすぐに視線を重ねて。
「置いて、行かないで」
 『花嫁』が『傍付き』にそれを求める。『魔術師』に。ジェイドに。
「連れて行って……?」
 いつまでも、どこまでも、一緒に。もう背を見送るのでも、帰りを待つのでも、なくて。一緒に行きたい。何度でも。その背を追いかけたいと願った心の通りに。連れて行って、と『花嫁』が願う。ひかりに、溢れ。崩れそうな輪郭を、なんとか保ったまま。微笑んで『傍付き』に希う。
 いいよ、とジェイドは心から言った。
「分かった」
「ほんと? ……ほんと?」
「ああ。……本当」
 よかった、とシュニーは息を吐き出した。なら、もう、さびしく、ないね。
「……ジェイド」
 ふ、と。膝の上から重みが消えた。瞬きひとつで存在がかき消える。そこにあった筈の姿が消えて無くなる。代わりにあったのは、夥しいほどの魔力だった。夢のように。夢の中で。何度も、何度も、焼き付けた光景そのままに。室内にはひかりが満ちていた。シュニーが愛した淡い黄色の、輝きに満ちた魔力。
 まだ、シュニーの意思をそこに灯すように、囁くように。微笑むように。ふわふわ、揺れて、漂っていた。

前へ / 戻る / 次へ