作りたての金貨よりやさしいひかりで、室内は満ちていた。呼吸をするたび、ほのかに甘いと思うのは、腕の中に残ったシュニーの香りとぬくもりがあるからだった。『花嫁』の髪と肌に染み込んだ、ふわふわとした花のにおい。今日の朝もジェイドが用意して、シュニーの好みを選んで手入れしたにおいだった。
残ったのはそれだけだった。あとは、なにもかも消えてしまった。髪のひと房、身に着けた服すらも許されず、漂う魔力に溶け消えてしまった。想いを辿るよすがはなにもない。もうすこしで消えてしまうであろう香りと体温と、そして記憶が全てだった。シュニー、とジェイドはぽつりと呟く。響く声がもう、ない。記憶の中からしか響かない。
部屋には喪失を悟ったミードの泣き声が響いている。ラーヴェが固く抱き寄せて慰めても、その声は激しくなるばかりだった。異変を知った世話役たちは戸口に駆けつけていたが、誰一人として室内に踏み込もうとはしなかった。そこが境界であるように、茫然と立ちすくんでいる。口元に手を押し当て、あるいは震えながら瞬きと呼吸だけをして。
問う声は向けられなかった。それだけが、ジェイドの救いだった。なにがあったのか、など聞かれれば、笑いだしていたかも知れない。告げるべき言葉を見失って。選ぶべき意識を間違えて。じわじわと冷えていく、失われていくぬくもりと香りを感じながら、ジェイドはただ、息をしていた。呼吸と、瞬き。繰り返すのはそれが全てだった。
とうとう『花嫁』を喪った『傍付き』が胸の中で泣き叫んでいる。とうとう望みを叶えきった『魔術師』が、うすく微笑みさえ浮かべて目を閉じている。祈るように。なにを、とジェイドは思った。なにを考えるのが正解なのだろう。どんな感情を選ぶのが正しいのだろう。どういう風な表情で、言葉で。今は、誰であればいいのだろう。
と、と、と物慣れない足音が響く。ふっとジェイドが視線をあげた時には、寝台の傍にはリディオが立っていた。当主は蒼褪めた顔で、硬い表情で、幾度かそうしていたのであろう仕草で、もう一度だけ室内をくまなく見回した。シュニーの存在を探すように。シュニーの不在を確かめるように。視線は殊更ゆっくりと、室内のどこへも触れて行った。
ああ、と声にもならない吐息が吐き出された。納得と、失望と、押しつぶされた悲しみがそこにはあった。『花嫁』の喪失を、当主は悼んではならない。同じように悲しまなければならない。特別に嘆くことは許されない。平等であらねばならない、という意識が、ミードに許された嘆きを、リディオに与えはしなかった。
絶望的なまでの義務感に、その感情は擦り切れかけている。リディオさま、とそれでも名を呼んだジェイドに、当主は穏やかに微笑んだ。いつもの通りに。
「……シュニーは」
それでも、押し出された声は裏返って掠れていた。それを恥じるように握りしめられた手を、そのつめたさを、温める者を持たないまま。リディオは何度も、何度も深呼吸を繰り返して、首を振って、くるしさもかなしみも心の奥底へ沈め切って、まっすぐな目で顔をあげた。
「お前の『花嫁』は幸福に咲いた。誇っていい」
「……はい」
「葬儀の手配と、準備はこちらに任せてくれていい。日時が決まったら連絡する。墓標の希望はあるか? 色や形や……材質。なければ、当主として、シュニーにふさわしいものを……シュニーに、一番、ぴったりなものを、選ぶと約束する。どうする? ジェイド」
ジェイド、と。最後に。最後の一呼吸で囁かれたシュニーの声が、今もまだ耳の奥に残っている。己の声でそれをかき消したくはなかった。首を横に振ると、リディオは予想していた微笑みで、そっか、と呟いた。ぽん、と肩を手が叩いて行く。ぽん、ぽん、とジェイドの繰り返す呼吸の速さで。手が触れ、撫で、慰め、離れていく。
「また明日にでも……数日後でも、間に合うから。また、何度か、聞きに来るな」
返事はなく。項垂れたままでいるジェイドに、気を悪くした様子はなく。かなしく慣れた仕草で世話役と、泣くミードに視線をやり、当主は疲れた様子で息を吐き出した。
「泣き止まないなら、部屋に連れて戻れ、ラーヴェ。その状態で、ジェイドの傍にいるんじゃない」
「御当主さま、ですが」
「ジェイドと……シュニーの傍にいたい、お前たちの気持ちは分かっているよ。でも、もうすこし、後にしてやれと言っているんだ」
分かるな、と当主は仕草だけは愛らしく、こてりと首を傾げてラーヴェに言葉を突き付けた。
「静かにさせてやれ。……ああ、もう、ミード」
ばか、と頭の痛そうな声でリディオは呟いた。けほこほと、喉を傷める程に声をあげてなお、落ち着く様子を見せずに激しくなるばかりの泣き声に呆れたようでもあり。それくらい全身で悲しめることを、羨むような声でもあった。すっとジェイドの傍から離れ、当主は嘆く『花嫁』へ歩み寄った。いやいや、とむずがる顔を、覗き込みながら囁く。
「そんなに泣いたら、シュニーが心配するだろ。……それに、今ミードが体調崩したら、誰がレロクとウィッシュの面倒みるんだ? ……シュニーの分、まで。するって、決めたんだろ」
息を、たどたどしく、殺しても沈めても溢れてくるかなしみで途切れさせて。だから、そんなに泣いたらいけないだろ、と不器用に慰める当主に、ミードは口を両手で押さえて忙しなく頷いた。瞬きで涙を振り払う『花嫁』の顔には決意がある。それでも滾々と湧いてくる押さえきれない悲しみが、やわらかく響く嗚咽と涙を途切れさせはしなかった。
ラーヴェが立ち上がる気配がする。さわさわと柔らかく空気を揺らすだけの響きで、ラーヴェと当主がなにか言葉を交わすのを感じても、それを音の連なりとしてしか受け止めることができない。意味のある言葉を意識に触れさせるには、ジェイドは疲れ切っていた。どういう意識でそれに向き合えばいいのか、まだ分からないままだった。
当主が、『傍付き』が、世話役たちがいるのだから、『お屋敷』の中に身を置くのにふさわしい者であるべきなのだろうか。しかし『傍付き』としてのジェイドは、ミードのように泣き叫ぶばかりで、呼吸を止めたがるばかりで、胸が感情で塞がってしまうばかりで、他者に応対するというそれだけのことが、今はどうしてもできそうにない。
『魔術師』なら、まだ対応できるだろうが、それに切り替えたくはなかった。満ちた思いで目を閉じ、微笑む意識には。笑いたくなかった。それが反射的な仕草であっても、なにかの感情から来るものであっても。笑いたくなど、なかった。今はまだ。呼吸、瞬き。鼓動。かつてシュニーとぴったり重なっていた心音は、いまは一つきり。
これからずっとジェイドは、己の鼓動一つきりを抱えて、生きていかなければならない。なんという途方もない喪失だろう。その空白をどうして、ひとは乗り越えていけるのだろう。ぼんやりとした瞬きの間に、膝の上に撒かれた、ざらざらとした金の砂粒が目に入る。砂金にも似た魔力の欠片。シュニーがそこにいた、という証。
ひとつ、ひとつ、ふわふわと浮かび上がっては、世界になろうとするひかり。世界とひとつに戻ろうとする。ジェイドの中へ、溶けて戻ろうとする魔力が、それでもまだ、今はそこに残っている。両手ですくってまだ溢れる程の量に、ジェイドは手を伸ばして触れた。ざらりとした質感に、ぬくもりが宿っている。シュニーの熱だった。
ああ、どうしてもこれを、失いたくない。
「おいで。……おいで、シュニーさん」
からかうように。幾度も口に乗せたその響きは、滑らかに零れ落ちていく。ラーヴェとリディオが振り返って目を向けてくるのにも構わず、ジェイドはほの甘い光沢に艶めく、魔力の砂金へ呼びかけた。
「世界になんて、いかなくていいよ。俺の所においで。俺のもとへ……戻っておいで」
連れて行くって。いつまでも、どこまでも一緒だって。いなくならないって。約束しただろ。だから、ね。おいで。ここにおいで。俺の可愛い『花嫁』さん。いとしい、可愛い、シュニーさん。
「君のことが、本当に好きだよ……」
その囁きが、いかなる奇跡の引き金を引いたのか。あるいは何らかの魔術詠唱の形を持ったのか。祝福を成したか、呪いと化したのか。ざらり、と砂が動く音がした。ほの甘いひかりが、さざ波のように揺れ動く。ふわ、とひかりが舞い上がった。ひとつ、ふたつ。たんぽぽの綿毛が風にあおられ飛び立つように。ふわ、ふわ、いくつも、舞い上がっていく。
いくつかは室内の輝きに紛れ、いくつかは世界へと溶け消えていく。いくつかはジェイドの内側へと戻り、枯渇していた魔力の器をそっと潤した。そのうちの、ひとつ、だけ。まあるい、柔らかそうな、ふわふわと漂う魔力のひとつだけが、いつまで経ってもなににもならず。何処へ溶け消えて行こうともせず、ジェイドの前に残っていた。
瞬きを、して、瞼の裏に一瞬の白昼夢を見て。ジェイドは、昔のことを思い出していた。そのひかりがジェイドに、もう一つの運命を告げた。『魔術師』たれ、とジェイドに言った。妖精のひかり。意思ある魔力。信じられないような、信じていたような、ただただ確信だけがある名前の付けられない気持ちで、ジェイドはそれに指先を伸ばした。
ふわふわした魔力は、それでようやく拠り所を見つけたように。ふるる、と嬉しそうに震えて、ジェイドの指先へすり寄ってくる。ほんの少し周囲の魔力と色合いの違う光だった。金の光沢を持ってはいるが、全体的な色合いが淡く甘く柔らかい。ふわ、ふわ、と頼りなく点滅するたびに、金が黄色に、黄色もすこしづつ、色が抜けているようにも見えた。
白く、なっていく。魔力のひかり、その色から、ジェイドが知る、見覚えのある輝きへ戻っていく。新雪のような。風に揺れた花のような。眩しい陽光のような。愛した、シュニーの髪の色。息をつめてじっと見つめていると、ましろくほわほわとした、綿花や綿毛を思わせる風になったひかりは、満足そうにふるふると震え、ちかちかと瞬いた。
ジェイドの方へ近寄って来るのを待てず、指でそれを包み込みながら引き寄せる。そっと、それに口付けを送った。
「……シュニー」
ジェイド、と響く声はない。ぬくもりも、香りも、重みも、鼓動もない。それでも、そのひかりは嬉しげにふんわりとまあるくなって、ジェイドの頬に、指先に、すり寄ってくっついた。息を、つめて。震えながらくちびるを開いて。そこで、ようやく、ジェイドは微笑んだ。頬に涙を伝わせながら。
当日と翌日の記憶は乏しく、なにをしていたのか、どうしても思い出すことができなかった。水分は口にしていたものの、どうも食事は忘れていたらしい。思いつめた顔の世話役に食卓まで引っ張られ、椅子に座らせ給仕までしてもらって初めて、ジェイドは空腹を思い出した。生きることを。これからもしなくてはならない、という当たり前のことを。
ありがとう、食べるから、と言えば世話役は顔を覆って泣いた。生きてくださるんですか、と絞り出された声に、ジェイドは微笑みながらうん、と言った。だから安心していい。これからは、ちゃんとするよ、と告げれば世話役は何度も声を出さずに頷き、よかった、と掠れた声で囁いた。
食事を終えると湯に叩き込まれ、着替えまで用意され、逃げられないようにか腕を引かれて当主の元へと連れて行かれる。当主の執務室にぽいとばかり放り込んで、そこで世話役たちの仕事は終わりであったらしい。それでは、と頭を下げて何処へ立ち去られるのを扉が閉まるまでしぶい顔で見送って、ジェイドはため息をついてリディオと向き合った。
腹が満ちて、体がさっぱりとしていて温かだからなのか。驚くほど落ち着いた、穏やかな気分でいた。リディオは向き合ったジェイドを探るようにしばらく見つめ、うん、とだけ言って机の引き出しを開けた。取り出したのは見覚えのある、城からの印がある書状だった。ジェイドの状態が悪ければ、焼却処分にでもされたに違いなかった。
ありがとうございます、と受け取るジェイドに、リディオはため息交じりにミードの様子を教えてくれた。泣いて、落ち着いて、赤子たちの世話をして、泣いて、寝て、の繰り返しであるらしい。ラーヴェはミードに付きっ切りで、傍を離れようとはしていない。行くなら顔を出してからにして欲しい、と言われてジェイドは書状に視線を落とした。
城からの呼び出しに、当主が案にでも許可を出し背を押すのは、シュニーの出産以後はじめてのことだった。行くと思いますか、と呟くジェイドに、リディオは目を伏せてほろ苦く笑う。どちらでもかまわないよ、と当主は言った。ただ、けれど、もう、『お屋敷』は、ジェイドを留め置く理由を失ってしまったから。
好きにしていいよ。自由に。心の望むままにしてくれて、もういい。ありがとう、と告げるリディオに、ジェイドは一礼してから退室した。ミードの区画に辿り着くまで、誰かに声をかけられることはなかった。さわさわとした話し声と、視線だけがジェイドの姿を追いかけていく。腫物に対する扱いに、ふと昔を思い出した。結局、そこへ戻っていく。
ミードの部屋は、陽光のきらめきと暖かさ、人の気配とやさしい笑い声に満ちていた。広々とした寝台の上に、ミードと、レロクとウィッシュの姿がある。ふたりの赤子はもちゃもちゃと絡まるようにくっつきあって、子猫同士が毛繕いするのに似た動きで、きゃっきゃと笑い合っている。機嫌は良いらしい。ほっ、と思わず息を吐き出した。
ジェイドくん、とミードが呼ぶ声は奇妙に落ち着いた響きだった。パパが来てくれたよ、と抱き上げてレロクと離そうとするのを首を振って止めて、ジェイドはただ寝台に歩み寄った。傍らに立つラーヴェにありがとう、と告げてから、ミードに微笑んでその様子を見る。泣き腫らした目をしていた。悲しみのこびりついた、演技ではない笑みがあった。
さびしいね、とまだ泣きそうに震える声でミードは囁く。言葉を出さず頷いて、ジェイドは我が子に視線を向けた。ウィッシュは、よくよくシュニーそっくりの赤子だった。ま白い髪も、なめらかな肌も、ふくふくとした柔らかそうな頬も。赤い柘榴のような瞳も。シュニーの面影を濃く残している。きっと、そのままに成長するだろう。
痛みに触れるような気持ちで。溢れる、愛おしさを堪えきれない想いで。ジェイドはウィッシュに手を伸ばし、無垢に見つめてくる視線に微笑みかけた。頬に触れて撫でれば、あまく、とろけるように笑われる。そっくりだ、と思わず呟く。あまいぬくもりに指先が震えた。
ジェイドくん、とまたミードが呼びかける。あのね、わたしがお世話をします。大丈夫、まかせてね。安心していてね。しゆーちゃんとふたりで、ママだったの。だからね、これからも、ふたりで、ふたりの、ママをするの。だからね、安心していてね。安心して、行ってきてね。帰ってくる時は、ちゃんと、おかえりなさいを言わせてね。
そっと、背を押す手があった。振り返ればラーヴェが苦笑していて、行くんだろう、と問いかけてくる。ジェイドに今度こそ逃れられぬ呼び出しがかかっていることは、自失している間に、周囲がすっかり知るものとなっていたらしい。行かないといけないかな、と気乗りしない気分でジェイドは呟いた。
行きたくない訳ではないのだが。まだすこし、この場所で微睡んでいたい気持ちがあった。そこかしこに、シュニーの気配が残っている。思い出に溢れている。もうすこし、この場所で息をしていたい。駄目かな、と眉を下げて呟くジェイドに、ミードがふわふわした声で、じぇいどくんっ、と言った。怒っているような声だった。
連れて行くって言ったでしょう。ミード、ちゃんと聞いていたもの。だったら、もう行かないといけないでしょう。しゆーちゃんを、ちゃんと、連れて行ってあげなきゃいけないでしょう。言葉に、応じるように。ふわん、と何処から、ましろいひかりが現れる。未だどこか安定しない、弱々しい気配を漂わせながら。しろいひかりが、ふわふわ、揺れる。
肩の上に引き寄せながら、ジェイドは見えているんですか、と問いかけた。『花嫁』の視線はしっかりと、そのましろい輝きを追いかけていて、今も目はジェイドの左肩を捉えている。ふふんっ、とこの上なく、ちからいっぱい自慢げに、ミードは腰に手をあててふんぞりかえった。
おともだちだもの、とミードは言った。すごいでしょう、えらいでしょう。ミード、しゆーちゃんのおともだちだものっ、とさらにふんぞる『花嫁』に、しろいひかりはぴかぴか、喜ぶように明滅した。沈黙するジェイドの耳に、特に変調を感じはしないが、とラーヴェがそっと囁いた。真実、見えているようだから、そのことの調査も頼みたい。
一も二もなくジェイドは頷いた。『魔術師』の目で見ても、ミードに変質の気配は感じ取れない。人の中には時折、妖精の姿を見る者もあるとは聞くが、確認できることはしておくべきだった。落ち着いたら、信頼できる仲間を寄越すよ、と告げるジェイドに、ラーヴェは今度こそ苦笑して、君もちゃんと帰ってくるようにね、と囁いた。
ここは君の家でもある。戻るべき場所のひとつでもあるのだから。うん、と幼い気持ちでジェイドは頷いた。ウィッシュを腕に抱いてあやしてから、ミードに託して部屋を出る。帰って来ますから、と約束すれば、ミードは明らかにほっとした様子で、いってらっしゃい、と囁いた。しゆーちゃんも、ジェイドくんも、いってらっしゃい。
いってきます、という風にちかちか瞬いて。淡いひかりは、またすぅっと空気に溶け消え見えなくなってしまった。存在があることは分かるので不安にはならず、ジェイドは足早に『お屋敷』を移動していく。医局に顔を出し、女性と言葉を交わし。控室に寄って己の世話役や、アーシェラたちにも声をかけていく。
不在の間、どうぞよろしく、と告げれば世話役たちは笑いをこらえた顔で、はじめて言われましたよそんなこと、と囁いた。不在は、いつものことでしょう。どうぞお気になさらず。さあ、行ってらっしゃい、と誰もがそうして背を押すから、ジェイドはとうとう諦めて、その日の午後、砂漠の城へ戻ることにした。
城は、意外な程に変わりがなかった。見覚えのある者たちとばかりすれ違い、長く不在にしていたとは思えない態度で、代行なら王の執務室におられますよ、と声をかけられる。魔術師の方々も、今日は何人も一緒におられます、と言われることから、方々顔を合わせてジェイドを待ち構えているらしかった。憂鬱の一言である。
こそばゆい、嬉しいような気持ちも感じながら、ジェイドは気負いのない足取りで執務室の扉を開けた。即座に、いくつもの視線がジェイドに向けられる。部屋にいたのは四人だった。魔術師筆頭と、その補佐。ついに王の代行扱いされている、側近たる青年。そして、不安でいっぱいの、蒼褪めた顔をしたシーク。
視線が向けられるだけで、誰も言葉を話さなかった。青年は言葉に迷う顔で首を傾げていて、三人の魔術師たちは食い入るように、ジェイドの左肩の上を見つめている。いやん、と恥ずかしがるように、人見知りをするように、現れたましろいひかりがふよふよと肩から移動する。もぞぞぞぞ、と首のあたりから服の中に入られてしまった。
あんまり見ないであげてくれますか、とジェイドは言った。俺の妻、恥ずかしがり屋で人見知りの気があるもので。笑顔でさらりと告げると筆頭は天を仰いで呻き、補佐は胸を手で押さえてしゃがみこみ、シークが達観しきった表情で、死んだ魚の目をしながら君ってそういうところあるよねほんとどうかと思うよ君のそういうところ、と言い放つ。
ふ、と青年の笑いが空気を震わせた。事前に魔術師たちから、あれこれと話されていたのだろう。情報は間違いなく共有されている、理解した顔で、青年は落ち着き払ってジェイドを見た。視線が合うと、にっこり笑われる。思わず背を正すジェイドに、青年は走り出す背を送り出した日と同じ響きで、おかえりなさい、と言った。
大体の事情は聴きましたが、あなたからも弁解くらいは聞きましょう。話してくださいね、と椅子を進められて、ジェイドは苦笑しながらはい、と言った。頷く以外の選択肢は、許されていなかった。とりあえずこれに目を通して、そのあとこちらに署名をお願いします、と差し出された紙束には、分かりやすく、始末書、と書かれている。
従順にジェイドはそれを受け取った。もぞっ、と首元から顔を出したましろいひかりが、控えめに、申し訳なさそうに、ぺかぺかちかかと明滅する。それに手をやって撫でながら、ジェイドは『魔術師』として、深く潔く、息を吸い込んだ。息をして。生きていかなければ。この先も、共にある為に。
ジェイドが砂漠の城に戻ったその日。王の顔を見ることは、叶わなかった。
じつは『花嫁』のひとりが妖精を目視しているようなんだけど、体調その他の調査をお願いしたい、と言い出したジェイドに、筆頭は胃がねじれている表情で分かったと呻き、そっと一枚の始末書を追加した。始末書も、一枚二枚ならともかく、十を超えてくるとなると反省文すら作業的なものになり、ちっとも心がこもらない。
ひたすら、ほぼ無心で発生経緯、原因と理由、反省と謝罪に再発防止策を書き連ねながら、ジェイドは慣れ切った仕草で書類を分類し続ける、代行と呼び名を変えた青年を注視した。分類しているのだから王の下に運び込むのかと思いきや、仕分けされた山が増えていくばかりで、運び出す気配は見られないままだった。
陛下はどうされているのかと部屋に出入りする者に訪ねても、苦笑ひとつ、さぁ、と曖昧な言葉が帰ってくるばかりだ。情報規制が掛かっているのかと思ったが、ジェイドの監視に同席していたシーク曰く、本当に知らないのだという。ここ最近、王の姿を城では確認していない。ハレム付近で姿を見た者ならあるのだという。
つまり、とうとう一歩も出てこなくなったし、仕事にも熱心ではなくなった結果に彼が代行と呼ばれるに至ったんだよ、と補足されて、ジェイドはそろそろと青年に視線をやった。青年は、それでも王を王と仰ぎ、信じることを止められないでいる瞳で、ふ、と息を吐いて微笑してみせた。遠くを見る目をしていた。
もういいから、魔術師たちを悪役にでもなんでもして戴冠しろって言ってるのに聞きやしない、と拗ねた口調でぼやくシークに、青年は素知らぬ笑みで聞こえないふりをして見せた。まあ、ジェイドが帰って来たのなら試しに運んでお説教してもらえば、まだなんとかなるかも知れませんし、と己でも楽観的だと思っているような声で青年が言う。
それを、駄目だ、と否定したのは魔術師筆頭の男だった。あれこれともたらされる報告の確認に、魔術師たちの詰め所へ戻って来た男は、ジェイドが熱心さとは別の義務感のみで書き上げた始末書を摘み上げて息を吐く。不合格ではないが、合格とも言い難い。しかし、これ以上形式的なそれに時間を割く暇はなく、納得するしかない、という風に。
ジェイドを返して頂きたい、と筆頭は青年に、はきとした声で求めた。これがしたことは、これが責任を取らなければならず。また、本人しかその修復を可能としないことであるので。王の手慰みにこれ以上貸し出す訳にはいかないのだ、と冷ややかな目で非難した男に、青年は文句を言わなかった。ただ、溜息の回数だけが重ねられた。
数日、ジェイドは『お屋敷』に帰らずに城の部屋で眠った。戻って、出迎えるシュニーがもういないことを、殊更に突き付けられたくはなかったからだ。慣れない寝台でぼんやりと横になるジェイドの傍らに、ふわふわと白いひかりは寄り添い、頬にくっついてすり寄った。指先を触れさせて微笑みながら、ジェイドはゆっくり目を閉じる。
それでも、『傍付き』の『花嫁』はもういないのだ。その空白が、心をがらんとしたものに変えていた。半身を喪ってしまった。共に、今もあることは、確かなのだけれど。喜ばしいと思うことも、本当なのだけれど。拭い去れない悲しみに、そっと瞼を下ろす。今はそれに向き合えない。息をして、明日も、生きていく為に。どうしても。
ジェイドの罪を明らかにする多忙な日々は、それこそが確かな救いとなった。なにをしたのか。なにが起きたのか。どうなってしまったのか。冷静な意見を交えながら考えて行くことは楽しかったし、明らかになっていく道筋に、確かにそれがシュニーである、という確信が深まっていく。失ってしまったけれど。いなくなっては、いないのだと知る。
ただ、己の行いが不安定な国を、とうとう突き崩してしまったのだと知って、ジェイドは深く反省した。魔術師たちの細かな調査により数値化された、砂漠国内にある魔力のゆがみが、どうしようもない歪みとなって表れていた。それはふりまかれた呪いによく似ている。歪みは、人を死に至らしめる程のものではない。幸いなことに。
ただ、気分が悪くなる者が多くなるだろう。病気になる者や、怪我をする者が多くなるだろう。日照りが続くことが多くなり、また雨は豪雨となって降り注ぐ。作物の実りは悪く、清らかな水は湧く量をとぼしくさせ、また、濁って行くだろう。目に見えない希釈した毒が、国中へ霧散してしまった。
その毒を、ひとつ、ひとつ、中和して。呪いを、ひとつ、ひとつ、祝福して消していくこと。対処する方法はそれしかなく、それが出来るのは、成した術者だけなのだと魔術師は結論付けた。それは数百、数千の糸の束から、たった一本を引き抜く行為に似ている。どれも同じ色をした、同じ形をした糸の中から、本来あってはならないひとつを見つけ出す。
魔術師は魔力を視認できる。だからこそ、全く同じものだとしか思えない。その中に人を、国を苛む毒が紛れていたとしても、魔力とはそもそもがそういう質のものである。判別は不可能としか言えなかった。けれども、ジェイドなら。それが元は己の魔力であると気が付き、それが、かつて己の妻であったものの欠片であると、区別ができる。
手元に残った意思あるものは、ほんのひとつ、一欠片。不安定で弱々しく、意思すらまだ乏しいもの。飛び去ってしまったもの、世界に溶け消えてしまったものを、ひとつ、ひとつ、集めて。ひとつに戻していけば、そのたび、妖精としての存在が深くなる。ちいさな姿を目にすることも叶うかも知れない。
それはジェイドに齎された、贖罪の方法であり、かそけき希望ともなった。『花嫁』のことは任せておいて、行っておいで、と背を押され、ジェイドは城を旅立った。ひとつ、ひとつ、呪いを追いかけていく。国の端へ。あるいは、大きなオアシスへ。現れていく歪みを読み解いて祝福し、呪いを消して、魔力をひとつ回収して、また次へ。
それは膨大で終わりの見えない作業だった。砂漠の国はどこもかしこもきしきしと悲鳴をあげて歪んでいたし、ひとつを修復しても、またすぐに別の個所が歪んでしまう。治した筈の所が、また歪んでしまう。本来ならば、王宮魔術師が総出であたり、日夜国中を飛び回ってすることだった。それを、ジェイドはたった一人で行わなければならない。
そうせざるを得なくさせてしまったのも、ジェイドだった。自分の選択で、そうしてしまった。それでも、と疲れ果て、寝台に倒れ込みながらジェイドは目を閉じる。それでも、きっと何度でも同じ選択をしてしまうだろう。何度過去に戻れたとしても。これだけの結果になると、知っていたとしても。
シュニー、と呼ぶと、ふわんとしたましろいひかりが眼前に現れる。すこしだけ、白い色が濃くなった気がするひかりは、ふわふわと空を漂って、ジェイドの指にからむようくっついてきた。ふ、と笑みが零れる。かつてシュニーであったものを追いかけて、国中をさ迷っていく。それはどこか、思い出を辿る旅に似ていた。
ジェイドが城に戻ってこられたのは、半年も後のことだった。とりあえず城へ立ち寄るだけの目途がついたので、旅先から都度送っていたとはいえ、報告をしに立ち寄ったのだった。今の所、数値に大きな変化はないらしい。徐々に病人の数が増えており、医師の手が足りなくなってきている。
ジェイドの努力はまだ、悪化をゆるやかにする程度のものだ。歯止めにはなっていない。それでも、底に落ち切ってはいない。魔術師たちは旅先までジェイドを追いかけ、できる限りのことをしては城へ戻り、かつてと同じように国中を飛び回っていた。血液のように、彼らは走り回る。それでも、できることがある、と信じて立ち止まりはしない。
王に変わりはないのだという。代行の青年はあがってきた書類に忙しく名を書き入れながら、会いたいのであればハレムに足を運ぶしかない、と言った。どこか突き放した物言いだった。諦めたんですか、と問うジェイドに、青年は微笑んで、期待することを、とだけ返す。彼の方が王であることを諦めてはいないのだ、と案に告げた。
すくなくとも、ジェイドの目のつく範囲で、そう思っているのはもう青年ひとりきりのようだった。魔術師たちは本来なら王に仰ぐべき指示を青年に委ね、その言葉を命令として動き回っている。城の者たちも、そのように動いていた。時折、用事があって砂漠を訪れる他国の使者や、五王たちだけが、彼の男のことを、王、と呼んだ。
四日かけて半年分の報告を済ませ、足早に城を出て行こうとするジェイドに、青年は苦笑して帰ってからいきなさい、と声をかける。何処に帰れというのだろう。不思議に思って首を傾げるジェイドに、青年はやわらかな怒りすら感じさせる声で、ゆっくりと、『お屋敷』に帰っていきなさい、と命令した。
帰りを待つ人が。あなたにはまだ、いる筈でしょう。告げられて、はじめて。いってらっしゃい、と言われた声を思い出す。いってらっしゃい、帰ってきてね。泣きそうな声で見送ったミードは、もしかしたら、このことを分かっていたのかも知れなかった。
はっとして慌てて駆け戻った『お屋敷』で、ジェイドはみっちり、恨みがましげな当主のお説教を受け。世話役たちの、呆れ交じりのお説教と、おかえりなさい、と言葉を受け。笑顔のラーヴェに、終わったらちょっと、と呼び出しを約束させられながら、涙目のミードに延々、延々と、いけないひとっ、いけないひとっ、と怒られた後に。許されて。
はい、とウィッシュを差し出されて。半年ぶりに、重たくなった体をその腕に抱き上げた。
「……ちゃんと帰っておいで、ジェイド」
重たさに目を白黒させるジェイドに、笑いながらラーヴェが囁く。大きくなっていくのを、成長していくのを。生きていく姿を。傍にいられなくとも、ちゃんと見てあげようね。父親だろう、と窘められて、ジェイドは夢から目を覚ましたような気持ちで頷いた。
ウィッシュの瞳が、どこか不思議そうに。ましろいひかりを見つめていたことには、ついぞ気が付かないままだった。