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 それではかいぎをはじめますっ、とぷんすか怒ったミードの声が、ほわほわふわりと空気を揺らす。半年ぶりへ『お屋敷』に戻った、その翌日のことである。いえ今日から仕事というかすぐにでも出発する必要があるのですがというジェイドの主張は、右腕をミードに、左腕をリディオに掴まれて、だめ、と言われたことであえなく消えた。
 あらかじめ用意しておいた休暇届でぺしぺしジェイドの頬を叩きながら、『お屋敷』の当主はそれはそれは麗しい微笑みで、これから話があるからそれが終わるまではどこへも行ってはいけないよ、と言い放ち。ぷんすかぷんすか怒り切ったミードは、もおおおミードは怒ったんだからぁああかんにんぶくろのおがきれたんだからぁあああっ、と絶叫した。
 いちにちもいないでしょそれなのにおしごとにいっちゃうのはいけないでしょおしろはじぇいどくんをはたらかせすぎでしょいけないことをしたからってこんなにじぇいどくんをとっちゃうだなんていけないでしょどうしてじぇいどくんはまじちしになるとすぐおうちにかえってこなくなるのっ、とほんわほんわふわふわした声でそれはもう、怒られて。
 これはもうかぞくかいぎなんだからぁああああっ、と言い放った当主の妻の決定により、執務室が急遽整えられた。ジェイドが朝起きて身支度を整え、それでは申し訳ありませんが行ってきます、よろしくお願いします、と挨拶をしにミードの元へ顔を出してから、実に二十分も経過しないでいるうちのことだった。早業だった。
 その二十分の間に城に使いを出し、首尾よくジェイドの休暇届を叩きつけた当主は、ほくほくした顔で青年からの返事を見せびらかせてみせた。下記の者に特別休暇を許可する、という文面に加え、ご家族の問題が落ち着かれるまでは如何様にも、と書き加えられている。丁寧なことに、魔術師筆頭の署名と、王の代理印までがしっかりと押されていた。
 薄々分かっていたことなのだが、砂漠の王宮魔術師と王の代行は、ジェイドのことを甘やかしすぎではないのだろうか。怒られることは怒られるし、したことの償いを自分でしろ、と放り出されはするものの、こうしてすぐに助けの手を伸ばしてくる。理解があって救われている面があることは確かなのだが、なんとなく腑に落ちないものがあった。
 こういう時でなければ助けられもしないくせによくそんな顔をする、と呆れたように、当主めいた声でリディオが囁く。お前がいつまでもそうやって分からずに、一人で全部やろうとして、やってしまうものだから、こういう時にこういうことになるのだよ、と。吐息と共に囁いて、リディオは書状を折り畳み、机の上に放ってしまった。
 それに、どういう意味ですか、と問うより早く。んもおおおっ、と怒り切ったミードが、机の上に置いた帳面をぱしぱしと手で叩いた。
「じぇいどくんっ! りでぃお! かいぎなの! かいぎっ! かぞくかいぎ! はやくこっちにきてすわるのっ!」
「はいはい。分かってるよ、お待たせミード。ジェイドの身柄はもぎ取って来たから、安心していいよ」
「りでぃお、えらい! えらぁーいっ! さすが!」
 やっぱりジェイドくんには、『お屋敷』のってどこかに書いておくとかお服に刺繍するとか札を下げてもらうとかしておかないといけないんじゃいかと思うのっ、とリディオを褒めながら主張する『花嫁』に、当主は真面目な顔をし、もうそれくらいしていいかな、と呟いている。『花嫁』『花婿』をふたりにしておくと、ほんとうに、ろくなことをしない。
 走り寄って円卓の椅子へ腰を下ろすと、ミードはふふんと胸を張り、わかったらいいの、とばかりこくりと頷いた。その隣で香草茶をすするリディオは、もう落ち着いた態度で傍観の構えをしている。ミードの気のすむように決めたら実行してあげる、と言っているのが、ただひたすら恐ろしい。ジェイドはそろそろと、執務室に視線を走らせた。
 当主執務室。リディオが日夜過ごす部屋は、側近の手によって殊の外穏やかに整えられていた。調度品は朽葉色で整えられ、金具は全て金で統一されている。棚に、窓辺に、季節の花と緑が飾られ、室内の空気は瑞々しくも、ほんのりとした甘さで満ちていた。窓から差し込む光は強すぎず、『花嫁』の区画よりは明るく調節され、整えられている。
 出入口はひとつ。閉ざされた扉を背に門番よろしく立っているのは、当主側近たる女だった。女はジェイドと視線が合うと、この後に及んで往生際が悪いんですよリディオの手をこれ以上煩わせないでくださいね、骨折るぞテメェ、というような、穏やかさを装いきった微笑みを向けてくる。数日は、隙を見せれば折りに行く。そういう微笑みだった。
 日常生活に一番支障の出ない骨はどこだったかしら、と真剣に考えだす女からさっと視線を外して、ジェイドはふんふん、打って変わって機嫌よく鼻歌を響かせるミードを無言で見つめた。ウィッシュとレロクを養育部に預けに行っていたラーヴェがいつのまにか戻って来ていて、あれやこれやと『花嫁』の耳に囁いている。
 ふんふん、と元気よく頷いたミードが、さすがらヴぇっ、すごいっ、すてきっ、だぁいすきーっ、とはしゃいだ声をあげるたびに、胃の痛みが激しくなった。えっとぉ、んっとぉ、と首を傾げ、ミードが帳面になにかを書き込んでいく。どうしようかなぁ、んー、んんーっ、とくちびるを尖らせたミードが筆記を止めた所で、ジェイドはそっと手をあげた。
「ミードさま? なにを書かれて……」
「いーい? じぇいどくん!」
 ぷんすこ怒った声を即座に返されて、ジェイドは思わず椅子で背を正した。機嫌が良くなった訳ではなかったらしい。はい、と悄然としながら声を返すと、ミードは椅子の上でちたちたと暴れながら、かぞくかいぎなんだからぁああっ、とふんわふんわした響きで怒りをぶちまける。
「じぇいどくんが、あんまりに、あんまりに、いけないひとだから、もうこれはかぞくかいぎなのっ! わかるっ?」
 分かりません、と言おうものなら、大変なことになりそうだった。分かります、と頷くしかないジェイドに、ラーヴェが視線を逸らしてぷるぷる震えているのが見えた。思い切り咳き込んで笑う声が扉の前からは響いてくる。当主側近の女に、相変わらず、笑いをこらえるという機能はついていないらしかった。
「というか……あの……家族、会議……?」
 ミードとリディオは、当主夫婦であるのだから、家族である、のだとして。その名称でなぜ、ジェイドが巻き込まれているのだろうか。恐る恐る問いかけたジェイドに、ミードはぷぷぷぷぷっ、と頬を思い切り膨らませて。ぱぁああんっ、と持っていた万年筆を帳面に叩きつけて、この上ないむくれた声で絶叫した。
「じぇいどくんはみぃのかぞくでしょおおおっ!」
「あっはいすみません……! す……み、ません……? えっ……。え……えぇえ……?」
「いーい? じぇいどくん! じぇいどくんはうぃっしゅくんのぱぱでしょ!」
 ミード、万年筆を投げない、と窘めてくるラーヴェにこくこくと聞き流している態度で頷きながら、『花嫁』はおへんじはっ、とジェイドを叱りつけてくる。もはや、はい、しか返事が許されないような状況である。扉の前から響いてくる絶え間ない笑い声を背にしながら、ジェイドは恐る恐る、はいその通りです、と頷いた。
 リディオは素知らぬ顔で香草茶をすすり、一人平和に、もくもくと乾燥果物をかじっている。
「でしょっ? そうでしょ? それで、しゆーちゃんがままなの。それでね? みぃとしゅーちゃんはおともだちで、それで、ふたりで一緒のままなの。だからね、ウィッシュくんのままもミードで、だから、だからジェイドくんは、なんと! ミードのかぞくということになるの! わかった? わかったぁ? おへんじは? おへんじはっ?」
「……ラーヴェも家族枠なのかだけ確認させて頂いても?」
 こうなった『花嫁』に、はい分かりました、以外の言葉は通用しない。『傍付き』が特に止めもしていないので、なおさらのことである。リディオも口を挟まないということは、特に異論がなく、『お屋敷』としても問題とするような認識ではない、ということだった。側近の女が、呼吸困難になりそうなくらいである。
 達観した想いでそれだけを問うたジェイドに、ラーヴェはふ、とどこか小馬鹿にするような笑みで、やんわりと首を傾げてみせた。
「呼びたかったらお兄さまって言っていいよ、ジェイド」
「なにがあってもその言葉だけは口に出すまいと心に誓った」
「じぇいどくん! おへんじはっ? はい、でしょ!」
 その返事には心の準備が必要なので、急かさないでそっとしてすこし待って欲しい。頭を抱えて机に突っ伏すジェイドに、ミードはまたぷんすか怒りながら、おへんじしなきゃだめでしょっ、と言った。
「じぇいどくんは、だから、かぞくなんだから! だから、これはかぞくかいぎなの。わかったぁっ?」
 怒り方が、言葉が、すこし。シュニーに似ているな、と思って口元が緩んだ。ふ、と笑い交じりのため息がでる。顔をあげて、ジェイドは一度だけ、問いかけた。
「……家族?」
「かぞく!」
 えへん、とやりきった顔をして、ミードが胸を張っている。もくもく乾燥果物を頬張っていたリディオも、ちら、と視線を向けてちいさく頷いた。城からだって、ご家族の問題が解決したら、と返事が来たことだし、と言われる。知らない間に根回しされきって、外堀は埋め尽くされた後であるらしい。恐らく、これを知らないのはジェイドだけだった。
 いつからそうだったんですか、と問いかけたジェイドに、ミードは目をぱちくり瞬かせた。素直な感情だけを表す『花嫁』の目が、まっすぐにジェイドのことを見つめる。
「いつから……?」
「はい」
 そんなの、と。迷いなく。自信たっぷりに。自慢げに笑って、ミードはしっかり言い切った。
「しゆーちゃんが、ジェイドくんのかぞくになった日から!」
 かぞく。あげられたね、と。柔らかな声が耳元で囁く。記憶の中で、シュニーが笑う。ほらね、言った通りでしょう。しゅに、ちゃぁんと、じぇいどにかぞくをあげられていたでしょう。うふふ、と笑う声がよみがえる。幸せそうに。シュニーが思い出の中で笑っている。その笑顔も、声もまだ、はっきりと思い出せる。
 顔を覆って。俯いて。動けなくなってしまったジェイドを、じーっと見て。ふわり、現れたましろいひかりに満面の笑みで頷いて。我が意を得たり、とばかり頷いたミードが、気を取り直した声で、それではかぞくかいぎをはじめます、と言った。自信に満ち溢れた、どこからも否定されることなどないと信じ切った、堂々とした宣言だった。
 ちいさな、声で。はい、とだけ言ったジェイドに、ミードはえへんっと胸を張って。ましろいひかりに、任せてね、と力強く頷いた。いつかのように。あの日々と変わらずに。ジェイドくんのことだって、ミードに任せてね、と頷き。『花嫁』は投げ出した万年筆を握りしめ、華やかに前を向いた。



 つまりジェイドが目の前の仕事に集中しきってしまう性質であるのがいけないのだ、とラーヴェは容赦なく発言した。ふむむむ、と分かっているのか分かっていないのか微妙なふわふわした声をあげて、ミードが書記よろしく、帳面に言葉を書き連ねていく。じぇいどくん、いけないひと、と書かれていた。筆記は正確にお願いしたい。
 無言で額を手で押さえるジェイドに、リディオがそっと哀れんだ目をして、言われたことを書こうな、とミードを窘める。『花嫁』はきょとんとした顔をして、書いているもの、と言って、帳面をじぃっと見つめながら首を傾げた。んん、と呟きながら文字が足される。集中するの、えらいけど、いけない。ジェイドは微笑んで、もうそれでいいことにした。
 今まで、その性質は大体肯定的に現れてきた。そうであったからこそ、ジェイドは『魔術師』と『傍付き』の両立を成し遂げたのだろう。否定的に現れたのは、『学園』を卒業して砂漠に迎えられて以後のこと。ジェイドが王の所有物となり、物として国中を飛び回るようになってからだった。比重が均等ではなく、傾けば、それは明らかな偏重となる。
 目の前のことに過度に集中しきってしまえるのはジェイドの得がたい才能であるが、それは反面、視野の狭さとなって現れる。成長すれば改善するかと思いきや、そうする暇もないくらいの二つの環境が、今に至るまで漠然と放置させてしまった。口頭での改善要求、注意に留まって、具体的な行動に移さなかったのが『お屋敷』の失策である。
 つらつらと、歯に絹を着せぬ物言いで告げていくラーヴェに、ジェイドに対する遠慮や配慮は存在しない。あー、と心当たりが大分ある苦笑と頷きで清聴するリディオの隣で、ちょっと難しそうな顔をして、ミードがぱちぱちと瞬きをしている。むむっとくちびるが尖ったのに苦笑して、ラーヴェはやさしい笑い声で、そっと『花嫁』に囁いた。
「ジェイドはね、やらないといけないことがあると、それに一生懸命になって、他が色々おろそかになる。分かる?」
「む、むむむむぅ……。おうちに帰ってくるのは、ジェイドくんの、やらないといけないこと、じゃないの?」
「……シュニー様がいらっしゃればね。やらないといけないこと、だったよ」
 魔術師のたまごとしての仕事が『学園で学ぶこと』であるから、それを両立していられたのだ。しゆーちゃ、と落ち込んだしょんぼりとした声で呟いたミードが、へろへろとした文字でおしごとなくなったから帰ってこない、と書きかけ。直後、ぷぷぷぷぷくっと頬を膨らませ、ミードの手がぱぁあああんっと帳面に万年筆を叩きつける。
「しゆーちゃんがいなくてもうぃっしゅくんがいるのにうにゃあぁああやにゃああああっ!」
「ミード、すぐに怒らない。物も投げたらいけないよ」
「うぃっしゅくんのぱぱするのもー! じぇいどくんのおしごとでしょおおおおっ!」
 まじちしさんにごめんなさいするよりもそっちがだいじでしょそうでしょそのとおりでしょっ、とぷんすかぷんすかものすごい勢いで怒って、息切れして咳き込んでくたっとしたミードは、その黄金の瞳に涙をためて、ぐずっ、と鼻をすすりあげた。
「それとも、それともぉ……まじちしさんの方が、ぱぱするより、ジェイドくんにはおしごと、なの……? なんで……? な、なん……ふぇ……」
「そんなことないよ、ミード。これはね、ジェイドの視野が狭くて、仕事以外の全方面で粗忽でうっかりしてるだけの話だからね。家族会議するんだよね、ミード。いい方法を考えてあげようね。ジェイドにもできるようにね。……ね?」
 やんわりと微笑み囁くラーヴェの、ジェイドに向ける目だけが全く笑っていない。それに全く気が付かず、ぐずっぐずずっ、すんすんくすん、と鼻をすすってしゃくりあげたミードは、涙目をくしくしこぶしでこすり、ややくちびるを尖らせてジェイドを見た。
「じぇいどくんそんなにうっかりさんなの……?」
「……ええと……はい……まあ……そうです……」
 ちょうど良いから普段言えない悪口をぽんぽん言っているようなラーヴェの性格診断を肯定するのには、結構な抵抗があったのだが。ここで、違う、と言おうものなら、じゃあなんでなのおおおっ、とミードの怒りが瞬間再沸騰するのは目に見えていた。怒らせるのは本意ではない。その怒りが、『花嫁』の体調を削ると知っているから、なおのこと。
 こふこふけふん、と咳をするミードに、リディオが息を吐きながら飲んでいた香草茶を差し出した。はっしと両手でひっつかみ、ぐびーっと一気飲みするミードは、外見に反して大変思い切りがいい。ぷふーっ、と喉の渇きも違和感も、大変に満足したぺかぺかの笑みで空の陶杯をリディオにかえしたミードは。
 えーっと、と数秒前のなにもかもを忘れたふんわかした、気を取り直した声で、投げた万年筆を持ち直した。
「じゃあ、みーどがジェイドくんがお家にちゃーんと帰ってくるのを考えてあげる! ……ねえねえらーヴぇ? ジェイドくん、なんでおうちに帰ってこないの? まじちしさんなのがいけないの?」
 一周回って話題と疑問が開始地点へ戻った気がして、ジェイドは遠い目で首を振った。そろそろ本人にもそういう質問をして欲しいのだが、うかつな発言で『花嫁』が怒る為、ジェイドの発言はラーヴェの微笑みのもと、暗に封じられ続けている。とろけた甘え声でミードに尋ねられて、ラーヴェはそうだね、と呆れず諦めず、穏やかな声で繰り返した。
「ジェイドはね、魔術師としての仕事をしなさい、と言われると、そればかりに集中してしまうんだよ」
「おうちに帰るのも忘れちゃうの?」
「忘れてたの? ジェイド?」
 そういえば確認するのを忘れていた、とでも言わんばかりの気安さで尋ねられる。好奇心と非難に満ちた『花嫁』と当主の視線を向けられて、ジェイドはそっと遠い目になった。忘れていなかった、と言いたい所ではあるのだが。青年に帰れ、と言われるまで、帰る場所があったことすら思い出さなかったのが本当の所だった。
 帰る場所。家。おかえりなさい、と出迎えられる所を、ジェイドはシュニーと一緒に失ってしまったつもりでいた。『お屋敷』にはまだ、ウィッシュがいるのに。ミードも、ラーヴェも、世話役も、リディオも、いってらっしゃい、と送り出してくれたのに。その言葉、その祈りをひとつも理解せず、手から零れ落として、それに気が付きもしなかった。
 視線を逸らして。申し訳ありません、と謝罪するジェイドに、『花嫁』の頬がまたぷーっと膨らんだ。
「やっぱり、お服に刺繍する? お背中にする? お腹にする? お脚のトコにする?」
「許して頂けませんでしょうか……」
「んもぉ! ジェイドくんったらぁ、わがまま! じゃあどうすれば忘れないの? まじちしさん、やめる?」
 辞められません、としっかり言い聞かせて、ジェイドは深く息を吐いた。どうすればやめるって言うのかなぁ、とむむっと悩んでいるミードは、確実にジェイドから言質を取りに来ている。魔術師が王の所有物であると知っている筈のラーヴェは微笑むだけで、リディオはふあふあとあくびをするだけで止めないので、同意見ではあるらしかった。
 魔術師、だよ、ミード、まじゅつし、言ってごらん、と発音を正すラーヴェに、まーじーちぅーしー、と自慢げに言い直すミードの声が、ふわふわ部屋を漂っていく。まじゅつし、とやや怪しいながらも真似して言いなおし、リディオはよし、と頷いて乾燥果物に手を伸ばした。もくもく、幸せそうに食べているのを見る分に、好物であるらしい。
 見ていておなかが空いたのだろう。それをミードも食べてあげてもぉ、いいのよ、と言っておすそ分けしてもらいながら、『花嫁』はジェイドに、きょとんとした目を向けた。もちもち頬張りながら首を傾げられるのに、ジェイドは気合を入れなおしてお願いする。
「服に刺繍は許してください。他で。その他で……!」
「うー、うぅー……? 紐をつけた札を、首から下げる?」
 それはただの公開処刑のようなものである。許してください、と懇願するジェイドに、ミードは困り果てた顔でラーヴェを仰ぎ見た。ふむ、と『傍付き』が首を傾げる。ラーヴェは、良い機会だからと好き勝手にジェイドの悪口を披露しているようにしか思えないので、嫌な予感がひしひしとするのだが、自分では代替え案が思いつかないのも確かだった。
 あんまり変なことを言わないで欲しい、と思いながら見つめていると、ぽつ、と声が響いた。
「仕事なら、するんだろ? ジェイド」
 指先を濡れた布で拭いながら。おなかいっぱい、という緩んだ雰囲気で、リディオが微笑していた。仕事だった間は、ちゃんと『魔術師』も『傍付き』も両立できていた訳だし、と呟く当主に、ミードがやや不服そうにでもお仕事に浮気していたもの、と言った。うん、とリディオはきれいな笑みで囁いた。旦那様と『傍付き』が違うからだね。
 まったく、仕方がない、と。柔らかく許容するなんらかの感情で、『お屋敷』の当主はジェイドへと告げた。
「月に一度、必ず帰っておいで、ジェイド。これは当主として、『傍付き』だったジェイドへ下す命令だよ」
「あ! りでぃお、えらい! あたまいーい! みぃもそうしよ。いーい? ジェイドくん」
 ああ、結局こうなるのか、という顔をして、ラーヴェが顔を背けて口に手を押し当てる。肩がぶるぶる震えているのを見て、もういいから笑えよ、と思い。ジェイドは達観した目で『花嫁』に、はいなんでしょうか、と言った。灰色の声だった。扉のあたりからは、遠慮なく咳き込んで爆笑を再開する、女の声が響いている。
「ごとーしゅさまのぉ、おくさま、として。ジェイドくんに、めーれーしちゃうんだから! いーい? 月に一度ね、絶対、ぜったい、帰ってくること! それでぇ、ウィッシュくんをぎゅっとしてちゅっとして、たくさん、かわいいかわいいしないといけないの。それでね、なにをしてたのか、おはなししてね。ミードたちにも教えてね」
「……砂漠国内のお屋敷の者に、期日を決めて、ジェイドを発見次第送還するように、と伝えましょうか」
 笑いを堪えながらのラーヴェの提案に、ジェイドはきりきりと痛む胃のあたりに手を押し当てた。それはただの、公開指名手配である。やり方に慈悲がない。でも、それくらいしないと忘れる、というかできないだろう、とやや駄目な子を見るラーヴェからの視線を受け止めきれず、ジェイドは視線を逸らして溜息をついた。
 すこしばかり、前科がありすぎて。自分でも、そんなことはない、と言えないのがつらい。あああ、と呻くジェイドの前に、ほわん、と現れたましろいひかりは。慰めるように頬にすり寄り、ちかちかぺかか、とあいらしく明滅した。



 一月に一度は、必ずお家に帰ってくること。一週間に一度は、お手紙をくれること。もっとたくさん帰ってきたり、お手紙をくれてもいい。あんまり魔術師さんにばっかり浮気して忘れちゃうようなら、刺繍と、紐にお札をくっつけたのと、しめいてはいをする。以上がミードが家族会議によって決定した、ジェイドの家出を食い止める為の策だった。
 ついてはその業務遵守の為、一月の行動計画表を『お屋敷』と城双方に提出し、魔術師と上層部にはつつがない履行の努力を求めることとする。なお、予定より帰宅が遅れる、手紙が届かない、など不測の事態が発生した場合、国内に点在する『お屋敷』の手の者が速やかに動くこととし、都度魔術師にも助力を要請する、とリディオがそこに書き加えた。
 つまり、帰って来なかったり手紙が届かなかったりすると、外部勤務者が捕縛と督促へ向かうように、ということだよ。忘れないようにね、と笑顔で釘を刺したのはラーヴェだった。多分全力で来られるよ、と付け加えられる。うかうかしていると、週に一度は街中で襲われかねない危険を前に、ジェイドは遠い目をして頷いた。
 外部勤務者には、リディオの味方が多い。『お屋敷』の『運営』と共に、絶対的な当主の味方であると誓った者たちは、そもそもが風当たりの強い存在だったジェイドに対して、遠慮と配慮と慈悲がない。ラーヴェよりもない。これ幸いと戦闘訓練に雪崩れ込まれたり、日々の鬱憤を晴らしに襲撃してくることは明白に過ぎた。
 言葉にならない胃の痛みで悶絶するジェイドに、ミードはぷっと頬を膨らませて忘れなければいいのっ、と怒ったが、問題はそこにありながらも、それではなかった。忘れないようにする為の方法はひとつで、簡単だった。『魔術師』としての意識に、切り替えきらなければいいだけである。片隅に『傍付き』としての意識を残しておけばいい。それだけで。
 それが、ひどく、難しい。息をし続けていく為に。前を向いて歩いていく為に。贖罪、ということに集中しきってしまう為に。その意識を残せば、喪失と向き合わざるを得なくなる。シュニーがいない、ということを突きつけられる。ウィッシュを腕に抱くたびに。『花嫁』を失ったことを突きつけられる。息ができないくらいのくるしさを。
 我が子をいとしく感じるたびに。かわいいね、と笑い声が響かないことがさびしくなる。耐えられないと思うほど。どうして、耐えられているのかと笑い出したくなるくらいに。三日間の休暇の最終日。城と『お屋敷』との間で幾度も書状が往復し、ジェイドの今後の動きが決められ、明日からまた砂漠国内を忙しく巡っていく、その前夜に。
 ジェイドは膝の上で眠ってしまったウィッシュを抱き寄せながら、そのあまいぬくもりと重みに、瞬きより長く目を閉じた。息を、すべて、吐き出して。もう一度吸い込むことに。ただ、苦心した。



 いち、に、さん、と日付を数えながら移動する。半月で辿り着けない場所には、いくつかの魔術を駆使して向かう。し、ご、と数えながら息をする。通りすがりに文具店で便箋を買って、『お屋敷』宛に手紙を出す。今いる場所の名前、天気、景色。人々の様子。殆ど同じ内容で、魔術師宛にもう一通。投函して先へ進む。時間を日々を数えながら。
 ろく、なな、はち、きゅう。辿り着いたオアシスの端。人々で溢れかえる診療所を横目に道を歩く。すれ違う人々は誰もが咳き込んでいた。空気はどこか淀んでいる。ひそひそと噂話が街に溢れかえっている。王は政をなさらないらしい、最近魔術師の姿を見なくなった気がする、どうもこれは流行り病らしい、薬が足りない、どこへ行っても。
 ゆるやかな気分の落ち込み、体調の低下は希釈された呪いに起因するもの。その呪いが病を呼び込んでいる。今や国中が病に侵されようとしていた。末端からゆるやかに息を止めていく。壊死はもう始まっている。それを、どこへ行っても思い知る。首都に到達すれば『お屋敷』は壊滅するだろう。その時こそ、砂漠の国の息の根が止まる。
 息を、する。呼吸を繰り返すことを不思議にさえ思いながら歩いて、大気を浮遊する魔力のひかりに目を細めて、そこへそっと手を伸ばす。過度に歪んだ魔力に触れる。傷ついた獣の、毛並みを整えるように手を動かす。己の魔力を溶け込ませながら、ゆっくり、ゆっくり、調整する。丹念に撫でた後から逆立ってゆく、その歪みを見つめ続ける。
 じゅう、じゅういち、じゅう、に。ふわん、とましろいひかりがジェイドの胸元から飛び出して、嵐の中からひとかけら、砂粒のような魔力をしっかと掴む。魔力は瞬く間にましろいひかりに溶け込んで、ふ、とジェイドは息を楽にした。じょうずにできたでしょうーっ、とばかりぺっかぺっかと瞬いて、ましろいひかりはふわふわ辺りを飛び回った。
 オアシスに、ゆるやかな風が吹きはじめる。淀んだ空気を入れ替えてしまうには、まだ弱く。けれどもすこし、人々の咳の苦しさが減る。じゅうさん、じゅうし。未だ混雑する診療所に顔を出して、王都から物品と人員が届いたことを確認する。報告書をかねて、手紙をひとつ。『お屋敷』にも、急いで、もうひとつ。日々を指折り数えて冷や汗をかく。
 慌しく街を駆け回る。じゅうご、ろく。朝と夜がくるくると、めまぐるしく回っていく。ねえ、今日は外で遊ぼうよ、競争。笑いあう子供たちとすれ違う。薬が届いた、ああ、これでよくなる。きっともう、大丈夫。落ち着いた、柔らかな声が都市の隅々にまで満ちていく。報告書と、手紙を書いて投函する。それを追い越すようにオアシスを飛び出した。
 王都へ向かいながら、点在する都市へ立ち寄っては、病院と診療所を巡って情報を記しながら進む。病人や怪我人の数、流行病の情報。市場に足を運んで、店主や仲買人に話を聞く。食物の流通や実り。農作物の育成状況。日々の天気。物価の上がり下がり。よく売れるもの出足が鈍っているもの。それを全て書き記して、また次の都市へ。
 瞬きと呼吸の繰り返し。その合間に時が過ぎていく。朝が来て昼が来て夜になる。星が瞬き月が輝き、恭しく陽が昇る。数えていた日数をどこかで見失ってしまいながら、情報をかき集めて帰路を急ぐ。追いかけてきた魔術師に資料を渡し、またいくつか受け渡されて、大丈夫、と言葉をかけられ、かけあいながら分かれて、先へ、先へ。
 手紙ちゃんと書いてるの、とすれ違いざまに魔術師が笑って走って行く。あの可愛い御当主さまの奥様が、またぷーってしちゃうよ。御当主さまのことも、あんまり怒らせたらだめだよ。書いてあげて。陸路より早く運んであげる。私の風で、俺の転移で、駆け戻る馬と一緒に。運んであげる、と次々に求められて、ジェイドは思わず苦笑した。
 いつの間に当主夫婦は、魔術師を篭絡してしまったのだか。ジェイドに会いに、あるいは一瞬だけ交錯して別れていく魔術師の誰もがそれを口にして、城から届く青年の書状にすら、同じ言葉が書かれるありさまだった。全く、誰を主だと思っているのやら。呆れ交じりに宿で呟くジェイドに、入れ違いで国の端へ向かうシークが、意味ありげに微笑した。
 王の所有物だ、と皆分かっているさ。そうかな。そうだよ、でも使われるなら上手に使われたいのが本当の気持ちだし、なにより、感情的にわがままを言われるっていうのは中々嬉しいことだからね。くすくす、と笑って言葉魔術師が目を細める。眩しい幸福を見つめるように。心のあるひとに利用されたいんだよ、どうせならね。それが『物』の願い。
 利用して、使って、あなたがしたいと思うように。気持ちを乗せて、感情を見せて。心を預けて、言葉を告げて。西へ東へ、北へ南へ。体力が擦り切れて吸い込む呼吸が血を滲ませて、なお。この国の為にこの人々の為に、走り続けろと、そう命令して。その通りに動いて見せる。だから、どうか。よく頑張ったなって言って。ありがとうって、言って。
 捧げる心に報いて欲しい、と。渇望する魔術師たちの想いに、『お屋敷』の当主と代行の青年は、無意識に応えてみせたのだろう。お願いだから、と懇願して。そうしなさい、と命令して。いっておいで、と背を押して。気をつけて、と心配して。おかえりなさい、と出迎えて。ありがとう、と感謝した。物の心が、そして傾く。
 王の所有物のまま。いつしか密かに、彼らを、『物』は主と呼んだ。さあ、どうか命令して、この国の為に。人々の為に。そうすればもう一度走って見せましょう。諦めかけた思いを、もう一度繋いで前を向きましょう。壊死した砂を治療しに行きましょう。わたしたちはあなたの吐息。わたしたちは、あなたの血液。この国の。そして、人々の。
 失った希望を取り戻した目をして、魔術師たちは笑いながら駆け回る。ジェイドがすれ違った幼子たちのように。さあ、行ってらっしゃい、またあとで。辿りついたら休みなさいな。大丈夫、ゆっくり、ゆっくり、焦らないでね。食い止めてるよ。頑張ってくれてる、その結果はちゃんとここにあるよ。一緒に頑張ろう。この国で、まだ、生きて行こう。
 この国を、まだ生かして行こう。強い光を宿す意思で、まっすぐに前を向いて。魔術師たちは国中に散らばり、城へと駆け戻っていく。その流れのひとつとして、ジェイドも城へ辿りついた。足を向けたのは代行の青年の元だった。書類の山と、ひっきりなしに出入りする人々。忙しさの中の談笑、笑い声に囲まれながら、代行がおや、と微笑する。
「おかえりなさい、ジェイド。……なにか?」
 このひとが。王ならばいいのに。喉まで出かかった言葉を飲み込み、ジェイドは首を横に振った。ただいま戻りました、と告げると代行の視線がジェイドの全身を確認し、怪我がないことを知って穏やかな安堵に気配が緩む。明日で一月になるから御当主がずっとそわそわしていたよ、と笑われて、ジェイドは体から力を抜いた。
 さあ、帰っておいで。今日から三日はまたお休み。背をぽん、と押されて見送られる。はい、と告げて戻った『お屋敷』で、待ち構えていたミードとリディオに腕を掴まれ、帰って来たかえってきたおかえりなさいお手紙があのねあのねと左右から同時に話しかけられ、ジェイドは思わず、ふたりを抱き寄せるように、その場に座り込んで。
 安堵か、幸福か、なにかの為に。すこし、声をあげて笑った。

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