日当たりの良い『お屋敷』の庭は穏やかだった。前日まで雨が降っていたせいで空気はきよらかに、どこかきんと冷えている。土は、座り込んでも手で払えば服が汚れない程度で湿ってはおらず、ジェイドは全身に陽光を浴びながら、のんびりとあくびをした。一ヶ月、国中を巡って、戻って。数日の休みを得る。その日々の繰り返しで月日が過ぎていく。
昨夜の遅くに『お屋敷』に戻ってきたジェイドに、リディオは明日から一週間はお休みだよ、と囁いた。当主命令かつ王代行の許可つき、という根回ししきった、どうあがいてもジェイドが逆らえない書状を携えて。どうしていつも完全に逃げられないように予定を組むんですかとため息をつけば、リディオはあどけなく首を傾げて逃げないようにと囁いた。
なにを聞いているのか、と純粋に不思議がる目をしていた。この場所から逃げたことがない、訳ではないので押し黙るジェイドに、リディオはくすくすと笑ってゆっくりしていればいいさ、と告げた。時間がかかってしまったけど。そういうことを言ってくるくらいに落ち着いたのなら、ただ普通の休みのようにも過ごせるだろう。
中庭は人の気配と、穏やかなざわめきに満ちていた。どこか遠慮がちな、遠巻きにする視線が向けられるが、それはいつものことである。気にしないであくびをするジェイドに、そういう所だけは図太くなって、と傍らでラーヴェが苦笑する。ラーヴェの腕の中には定位置だと決めきった顔をしてミードが納まり、レロクとウィッシュを抱いていた。
いい天気だねぇ気持ちいいねえ嬉しいね、ときゃっきゃとはしゃいだ声を上げるミードに、ジェイドは落ち着いた気持ちで頷いた。『花嫁』が誤って赤子をころんと落としてしまわないよう、ラーヴェが時折座りなおさせたり、腕で引き寄せて抱きなおしたりと微調整を繰り返す。それを眠たいような気持ちで眺めながら、ふ、と視線をあげた。
漂うと進むの中間くらいのとろとろとした動きで、ましろいひかりがジェイド目指して戻ってくる。いやぁああいやぁあああんっ、と泣き声が聞こえてきそうながびがびした明滅に、ジェイドは苦笑しながら指先を伸ばした。ひょい、と追いかけてきた蝶を捕らえれば、ましろいひかりはぷっくぷっくと膨張し、拗ねた軌跡でジェイドの肩に着地した。
まったくひどいめにあったのっ、とばかりふるふる震えてぺかーっと輝くましろいひかりは、どうも機嫌が悪いらしい。言葉はなく、感情も伝わらず。動きや明滅でしかその想いを読み取る術はないのだが、まあ大体合っているに違いない。蝶を開放してやると、翅をゆらめかせ一目散に飛び去っていく。見送る視線の先には青空が広がっていた。
かなしい気持ちを穏やかに包み込んでくれる。そういう気持ちになる、晴れた空だった。ふっくふっく、普段より大きく膨らむましろいひかりを指で撫で宥めていると、傍らのラーヴェから、これみよがしにため息をつかれる。
「ジェイド。……遊んでないで集中おしよ」
「そんなこと言われても……。いや、別に遊んでる訳でもなくて……」
「ジェイドくん? どうしたの? お膝がさびしいの?」
それじゃあやっぱり、ウィッシュくんはパパのお膝にしましょうねぇ、と心もちガッカリした声を響かせて。うーん、と腕をぷるぷる震わせて膝から膝へと移動させようとする動きを、そつなく『傍付き』の手が助けていく。ジェイドが動けないでいるうちに、足の上にもちっとした重みが乗せられた。
一月会えないでいるうちに、また重たく、すこし大きくなった気がする。ぺとっとくっついてくる我が子が膝から落ちてしまわないよう、手を伸ばして支えながら、声を潜めて問いかけた。
「ラーヴェ……? 今、ウィッシュ、その……」
「まだ一歳にはなってないよ、ジェイド。それは来月」
予定表に書いておこうね。その日にはどんな手を使っても『お屋敷』に戻ってきているんだよ。さもなくば大変なことになるし、するからね、と噛んで含めるように言い聞かせられた。大変なことになるのは十分理解できるのだが、大変なことに、するのは、やめてほしい。
ラーヴェ最近俺をいじめて遊んでるだろう、と息を吐くと、まさか、と微笑まれる。
「頑張っている弟よ。こんなに可愛がってるのが分からない?」
「うっわぁああああうわぁああぁあ……いやぜっ……たい! 俺で遊んでるだろ!」
「あっ、ジェイドくんたら大きなお声を出してる! いけないでしょっ! いけないひとには、えいっ!」
ずぼっ、と口に飴玉を詰め込まれる。顔を逸らして笑いを堪えるラーヴェに白んだ目を向けながら、ジェイドはむぐむぐと飴玉を転がした。あまい蜂蜜の味がする。おいしいです、となにかよく分からない敗北感に塗れながら呟けば、そうでしょうそうでしょう、とミードが自慢げにふんぞりかえる。
「これはぁ、しゆーちゃんが好きだった、とっておきなの! この日のために、おとりよせー、をしておいたの。えらい? えらい? ジェイドくん? 褒めてくれてもぉ、いいのよ?」
「……御指名だよ、ジェイド」
「ラーヴェも遠慮しないで褒めればいいだろ……。……はい、もちろん、偉いです。偉いですね、ミードさま」
うふふんそうでしょうそうでしょう、と頬を赤らめて喜んだミードは、レロクも大きくなったら食べようねー、と歌うように囁きかける。あっでもらヴぇにはあげる、あーんしてあーんして、してしてねえねえしてったらぁああああきゃぁあっ、きゃぁああ、あーんっ、きゃぁーっ、とはしゃぎきったふわふわとろとろの声が、中庭に漂っていく。
戸惑いきった足音がひとつ、ジェイドの前で止まったのは。ミードが赤らんだ頬に手をあてて、やんやんきゃぁんとラーヴェにあーんしちゃったきゃぁあああっ、と嬉しがっている、その最中のことだった。
「……ジェイド?」
「はい。ああ……はい、こんにちは」
顔をあげると、立っていたのは壮年に差し掛かる年嵩の男だった。未だジェイドがシュニーを抱き上げるのにも苦労していた頃、前当主の命令で、補助をしてくれた者たちの一人である。ジェイドが一人前として補助を必要としなくなってからは、久しく顔も見ないでいる相手だった。普段は外部で勤務していると聞いている。
お久しぶりです、と目を細めて穏やかに微笑するジェイドに、男は穏やかな声でああ、とだけ返し。手に持った大振りの、冷えた甘い香りのする純白の花弁とジェイドたちを、戸惑いながら幾度か見比べた。素知らぬ顔して微笑むラーヴェに息を吐きながら、さもありなん、とジェイドは苦笑する。
「大丈夫です。今日からで、合っていますよ。場所も、時間も、あっています。……お久しぶりです。そして、ようこそいらしてくださいました。シュニーの、葬儀へ」
心細さとさみしさを連れてくる言葉を、口に出すのには、まだ躊躇いがあった。しかし、告げなければいつまでも戸惑われるままだろう。傍にラーヴェとミードが、赤子付きできゃっきゃと呑気にしているせいで、中庭で日光浴をしているくらいにしか見えないのは、ジェイドには十分理解できることだった。そうして欲しい、と頼んだことでもあった。
花は、どうぞ、こちらに、と。努めて息をして、言葉を吐き出して、ジェイドはすいと視線を動かした。座り込む傍らには、丸く、白い、香炉が置かれている。真円に整えられたその香炉は、たんぽぽの綿毛を模して造られている。繊細に切り出された薄く透明な石は、強い風が吹くと本物の綿のようにゆらゆらと揺れ動いた。
その加工があまりに繊細で、精緻である為に、シュニーの葬儀は今日この時を迎えるまで行えず。また、ジェイドが一週間、『お屋敷』に滞在する根回しを終えるのにも、時間がかかったから、というのがリディオの言葉だった。ましろいひかりは時折ふわんと現れ、香炉の周りをふよふよ飛び回ったり、上に乗っかるようくっついたり、自由にしている。
今も、ましろいひかりはふよふよと香炉に近づいては、大きさや形を真似するように、ふこふこと伸びたり縮んだりを繰り返し、なにやら楽しそうに明滅していた。指先を伸ばして、つん、とましろいひかりを突っつき。繊細な香炉をそっと撫で下ろしながら、ジェイドは戸惑う男に告げた。
「献花を、ありがとうございます」
「ああ……ジェイド、お前の『花嫁』は幸福に、美しく咲いたよ」
決められた言葉を口にして、男は白い花弁を指先から地へと零した。きよらかな、冷えた甘い花の匂いがあたりを漂う。不意に、ぞっとした。喪失がそこにあった。胸にぽかりと穴が開いている。どくどく、鼓動が耳元で聞こえた。ラーヴェとミードが口々に、ジェイドの名を呼ぶ。いくつもの音の連なり。その中に、シュニーの声が聞こえない。
シュニーの。ジェイドを呼ぶ声が、ない。
「最近は……また、魔術師として、忙しくしていると聞くが」
記憶の中に、まだ眠っている。揺り起こせば目を覚まして囁きかける、思い出に。柔らかな体温と重みに追いすがるように、ウィッシュを抱き寄せて息を吐くジェイドを、慎重に見つめながら。男は、体調に気を付けるようにと囁いた。留意します、と硬い声でジェイドは頷く。んん、んーっ、と腕の中で、ウィッシュがむずがって声をあげた。
ジェイド、とラーヴェが肩を強めに叩く。はっ、として。ジェイドは腕から力を抜き、ぐずるウィッシュを抱きなおした。ごめん、と囁く。ごめんな、ウィッシュ。痛かったな。ごめんな、と繰り返すジェイドを、ウィッシュはじっと見つめ返して。やがてふんにゃりと機嫌よく笑い、もぞもぞと胸元へすり寄って来た。
喉の奥が渇いて、目元がじんと痺れていた。膝の上に乗る重みが違う。香りも、ぬくもりも、なにもかも。代わりにしようと思ったことはない。けれど、なにひとつ、代わりにさえすることができない。喪失がそこにある。いとおしいと感じるたびに、空白のありかを思い知る。まだそれを、直視できず。まだそれに、慣れることができない。
男は痛ましくジェイドを見つめ、無言で肩に手を置いた。七日間、ゆっくりしているといい。落とされた言葉に、ジェイドは素直に頷いた。ましろいひかりがふわりと浮かび上がり、ジェイドの頬にすり寄ってくる。呼ぶ、声は、なく。もうそれは、思い出の中でだけ響いている。
困ったことがあるから相談に乗って欲しい、と下がり眉をしたリディオがそっと部屋を訪ねてきたのは、六日目の夜のことだった。シュニーの葬儀は明日までであるから、明後日にはジェイドは、また月に一度、『お屋敷』に帰ってくる多忙な日々を再開する。そろそろ様々な連絡や、準備もしなければならず、ゆっくり話せるとしたら今日が最後だろう。
けれども、まだ長く穏やかな葬儀の最中だ。『傍付き』がどれ程に宝石の喪失を悼み、その空白と向き合っていくかを知っている当主としては、邪魔をしたくない、という気持ちがあったのだろう。まだ、その気持ちを拭い去れないでもいるのだろう。義務感と感情の間で迷い、申し訳なさそうな顔をして、リディオは迎えたジェイドの顔をじっと見た。
今にも、ごめん、と言いそうにしょんぼりとした顔に、ジェイドは思わず肩を震わせながら、机の灯篭に火を入れた。世話役たちの姿は、室内になく。今はジェイドがなにもかもをしなければならない居室に、どうぞ、と穏やかにリディオを招き入れる。リディオは戸口ですこしくちびるを尖らせたのち、こくん、と頷いておずおずと入って来た。
火と、ましろいひかりの灯りで、ジェイドにはすこし眩しいくらいだが、リディオにはちょうどいいだろう。おひとりですか、どうなされましたか、と問いかけながらソファに座らせる。てきぱきと湯を用意してお茶をいれれば、リディオはやや呆れたようにジェイドを見た。言葉はない。どうされました、ともう一度問えば、静かに息が吐き出される。
「……いいんだぞ。そんな、もてなそうとしてくれなくても……」
「お気になさらず。性分ですから」
久しぶりに宝石の世話をできたジェイドの、嬉しそうな笑み。ましろいひかりも嬉しそうに、ちかちかぴかか、と明滅しながら顔の横を漂っている。ジェイドが楽しそうなのが、嬉しいのだろう。恐らくは。ましろいひかりは未だ、たんぽぽの綿毛のようなふわふわとした存在感で、言葉はなく、形は曖昧に、ジェイドの傍に現れてはくっついてくる。
性分、という言葉を疑わしく感じながらも、リディオはなにも言わなかった。ちょうどいいぬるさで給仕されたお茶を両手で包むように持ち、ずず、と音を立ててすする。その間に、ジェイドはそっと扉の向こうの気配を伺った。どうも当主側近の女は、ついてきていないらしい。目を盗んで出てきたのか、それとも理由があって遠ざけているのか。
冷えた手を暖めるように陶杯を持つ、少年のまま時を凍らせた『お屋敷』の当主が、後者を選んできたのでなければいい、と切に思った。言葉を促すことは、せず。対面に腰を下ろして待つジェイドに、リディオはここに来ても迷いの残る表情で、しおしおと眉を下げ。ぽつ、ぽつ、と弱い雨垂れのように、あの、と幾度か繰り返しては口を噤んだ。
「……明後日、から……魔術師の仕事、だろう?」
「はい。『お屋敷』へ戻るのには、また間が空きますが……手紙や、報告は、必ず」
「うん。待ってる……」
そうじゃなくて、と言わんばかり。リディオの眉がしょげている。そんなに困った顔をなさらないでください、と言いかけて、ジェイドは口を噤んだ。ぽよんっ、とジェイドの額めがけて、ましろいひかりがぶつかって来たからである。ましろいひかりは、蝶に追いかけられていた時のようにがびがびした、毛が逆立ったような輪郭で、不穏に明滅している。
浮気を疑われているような気がした。思わず沈黙してましろいひかりを見つめてしまうジェイドに、顔をあげたリディオが、ごく不思議そうな顔をして。ぱち、とうつくしく、瞬きをした。
「……シュニーが、いるのか? ミードから聞いてる」
「……ええ、まあ」
肯定しきってしまうのに抵抗があるのは、『傍付き』の『花嫁』は事実失われたままであり。なにより、ましろいひかりの感情が、あまりにまっすぐあるからだった。シュニーが今もし、ジェイドの傍らにいたとして。こんな風に嫉妬めいた態度は取らない筈だった。リディオの名を呼び、眉を寄せ、どうしたの、と問いかけただろう。
ましろいひかりのことを、『魔術師』としてのジェイドは、シュニーだと思っている。そういう風に感じ取ってもいる。けれども、こうして差異が現れるたび。違和感があるたびに、どうしてかすこし、立ち止まるような気持ちになる。ああ、と胸いっぱいに息を吸い込んで吐き出したくなる。ジェイドの妻は、失われたのだ。
曖昧で、どこか困惑しているような返事に、リディオは幾度か瞬きをして。それからどこか、悪戯っぽく微笑した。
「嫉妬でもされた?」
「……そのような気が、しています」
「ミードは、ええと……『しゆーちゃんはね? ふわふわの、まふまふの、まるるんっとした、まっしろで、ぴかぴかの、ちかちかの、ほわほわになったの。これくらいなの。それでね、やっぱりジェイドくんがだいすきすきすきすーきすきなの。さすがはしゆーちゃん!』って言ってたけど」
それは実に『花嫁』の説明だった。大事な所がなにひとつ分からない所が、特に。しかしながら、ミードの目から見て、ましろいひかりがシュニーであることは間違えようのないことであるらしく。そうなんですね、と口ごもるジェイドに、リディオは珍しく声をあげて笑った。明るい、弾けるような笑みだった。
なにより、そのことに驚いて見つめてしまうジェイドに、リディオはうっすら浮かんだ涙を指先で拭いすらして。しかたないな、と明るい、楽しげな笑みのままで囁いた。
「ジェイドのことだから、シュニーはもうすこし大人しかったとか、落ち着きがあったとか、そういう風に思ってるんだと思うけど」
その通りである。やや視線を逸らしながら、シュニーだとは思っていますよ、と呟くジェイドに。リディオは信じ切った態度で、もちろん、と頷いた。
「なら、分かるだろ、ジェイド? そのシュニーは、この間うまれたばかりで、まだ一年も経ってない」
「……そうですね?」
「ジェイド? シュニーは別に昔から、我慢強かった訳でもないし、落ち着いてた訳でもない。ジェイドが……怒っている訳でも、責めてる訳でもないけど……魔術師で、その、ミードがいうような、いけないひと、だから。我慢することも覚えて、落ち着いて、そういう風になって行っただけ」
ジェイドが知らない『花嫁』としてのシュニーを、たくさん知ってる、と。思い出の箱を幸福そうに開きながら、リディオは口に手を押し当て、しとやかに笑った。
「だから、それはお前の思い違いだよ、ジェイド。見えないから、本当の所は……上手く、言ってあげられていないかも知れないけど。ミードの説明と、ジェイドを見てる分に、たぶんそういうことでいまひとつ、納得しきれていないというか……違和感があるんだろうけど」
その通り過ぎて、ぐうの音も出ない。項垂れて頷くジェイドに、リディオはくすくす、肩を震わせて笑った。
「それはきっと、『花嫁』じゃないシュニーだ。……『傍付き』の『花嫁』じゃなくて、『魔術師』の『妖精』の……『花嫁』じゃなかった、シュニーだよ、ジェイド。あと、きっとまだ、幼いんだと思う」
好奇心がいっぱいに満ちていて、理性と思考の前に感情で動いている。当主としての落ち着いた声で話すリディオは、父親の顔をしていて、すこし窘めるようにジェイドを叱りつけた。そこを分かってあげなくてはいけないよ。はい、と頷くジェイドの落ち込みに気が付いた素振りもなく、ましろいひかりはふわふわ漂い、ぴとんっと頬にくっついてきた。
すきすき、と甘く囁く声が聞こえるようだった。思わず、手をあてて包み込むように撫でる。ましろいひかりは照れるように、嬉しそうに、ふるる、と震えて指にもすり寄って来た。すとん、となにかが心に落ちる。驚くほど簡単に、素直に、ただ、シュニーだ、と思えた。深く、心から。
安堵に息を吐くジェイドを見つめて、リディオは悩むように首を傾げた。
「ジェイドに、ひとつお願い……というか、聞きたいことがあったんだけどな」
「……相談では、なく?」
「相談は……また今度にする」
覚悟を決める間の雑談で、そう結論を出してしまったらしい。『お屋敷』に戻る時間は短いですが、帰っている間はいつでも、出先でも手紙をくださいましたらいつでもお聞きしますよ、と本心で告げるジェイドに、リディオはくすぐったげに笑って。うん、と嬉しそうに頷き、それじゃあ今度そうする、とはにかんで言った。
「聞きたいのは……王陛下のこと、なんだ。代行殿ではなく」
「陛下の? ……なにか、ありましたでしょうか」
「あったというか、ない、というか……なにかあり続けているというか……ない、と、いうか……」
どう説明したものやら、という所であるらしい。困り切った顔でちょこちょこと左右に首を傾げながら、『お屋敷』の当主は、ジェイドもお姿を拝見していないんだろう、と問いかけた。ジェイドも、というか。中枢にかかわる者ですら、その姿を見なくなって久しい王である。時折、代行の青年が様子を確かめに行っている、とは聞くものの。
ハレムにいらっしゃるので、と深々と息を吐くジェイドに、リディオは困り切った顔で頷いた。
「じつは、『お屋敷』が……当主が、でも、いいんだけど……。その、どうしても、王陛下でなければ、という仕事が、ひとつ……ひとつ、ふたつ、あって……。その返事が……」
「……届かないんですか?」
「届かない、訳でも、ないんだけど……その、いつつ、お願いしていたものが……半年遅れて……ひとつしか、戻らなくて……」
代行にも、どうしてもこれだけは、期限のある物で早急にお願いしたいのだ、と。幾度も幾度も足を運んで希って、ようやくの結果が、それなのだという。王の魔術師として非常にいたたまれない気持ちになりながら、ジェイドは申し訳ありません、と吐血するような気持ちで謝罪した。
国の執務も、今は代行が全て執り行っている状態である。それでも、王でなければいけないことなのだ、とリディオは言った。古い契約めいた決まりなのだという。砂漠の国が『お屋敷』を得て、『花嫁』『花婿』を幸福へ送り出すようになってからの。古い、古い、約束ごと。王もそれを知っている。だからこそひとつは、戻って来たのだと。
「……それに背く訳にはいかないから……残りも、戻ってくる、とは思うんだけど……」
半年、一年、待つ訳にはいかないのだ、と当主は言った。明日にでもまた城へ行き、王に会えないか頼み込み、返事を願って来るつもりだ、とリディオは深く息を吐き出して。頼むのはまた今度にする、と言葉を重ねた。もしまた次にジェイドが帰ってくる時に、ひとつも戻っていなかったら。今度こそ、相談をしにくる、とリディオは言った。
その日を待ち望みながら。その時が来ないことを、真摯に祈る響きをしていた。
出て来たばかりの城を振り仰いで、ジェイドは憂鬱な息を吐き出した。王に会うことができなかったからである。休暇を終え、城へ向かったジェイドは予定表を提出がてら、真っ先に代行の元へ向かって『お屋敷』からの仕事について問いかけた。リディオはとうとう確定的なことを口にしないままだったが、それ程に重要視される決定には心当たりがある。
宝石育成における、注文書である。『花嫁』『花婿』は、なにも無秩序に育てられる訳ではない。そこには王の意思が強く反映されている。王に渡される書状には、その宝石の情報が事細かに記されている。髪の色瞳の色肌の色からはじまり、身長体重視力など基本的なこと、声の高低や質、現れ始めている性格、外見から受ける印象など。
時には一人分が数枚の紙を綴らねばならぬほど。偏執的なまでに詳細な情報と、『お屋敷』の過去の情報から、どういった傾向に整えられた者が多かったのか、を王へと渡すのだ。そして、戻ってくるのが注文書。育成におけるオーダーである。それはその幼い宝石が、どのような形に研磨されるかを決定づける。
あいらしい、見れば誰もが思わず微笑んでしまうような幼子は、素直によく笑うように、ちょっと照れくさくはにかみながらも甘えてくるように。はっと息を飲むほどうつくしい幼子は、人の目をまっすぐ射るように覗き込み、はきと言葉を響かせ告げるように。重要視されるのは外見の印象と声の質。そうして『花嫁』『花婿』はつくられていく。
それが中々戻ってこないのだとすれば、こんなに『お屋敷』の運営を妨げることもない。人は日々成長していく。特に幼子のそれが目を見張る程に早いというのは、ウィッシュで実感する所だった。弱く脆い宝石たちの成長速度は、一般の赤子に比べて半年や一年、遅いとも聞く所ではあるのだが。それでも、日々体が大きくなっていく。
首がしっかり座って、瞳が無垢な輝きで、好奇心いっぱいに世界を映していく。養育部は憔悴するばかりだろう。勝手な真似をできないのだ。宝石たちの将来を決定づけるのがオーダーなのである。一から百まで全てを決められる訳ではないにせよ、それがなくては船出することができないのだ。当主の心痛も、察してしかるべきものがあった。
確定的な言葉で告げられなかったのもその為だろう。『傍付き』であれば誰もが、そのオーダーの存在を知っている。それが王の下す命令であることも。はぁ、ともう一度溜息をついて、ジェイドは弱く頭を振った。それが言葉にされなかったからこそ、あくまで疑惑という形でしか代行には伝えられなかったのだが。代行も察してはいるらしい。
足繁く王の下に通ってはせっついているのだが、最近は、三回行って一回、扉越しに声が返ってくれば良い方なのだという。後にしろ、と。どんなに言葉を尽くして重要であることを説明し、懇願しても、分かった、とおざなりな声が煩わしげに響いて行く。そのたび、どうか、と代行は懇願される。あなたが王となってください。この国の。砂漠の。
それに。代行は首を縦に振らないまま、時間が降り積もっていく。欠片の世界、五ヵ国の王は血の繋がりによってのみ継承されていくものではない。代替わりは儀式的な承認があってこそ成るものなのだという。世界が、国が、その存在を王だと承認する。それを経てようやく、王は国を背負うのだ。呪いのように。祈りのように。
一挙一動が国の安寧と直結しているのは、その為だった。王の心が離れれば国が乱れるのは、その呪いじみた承認に由来する。代行にはその資格がないのだという。本人がいつかの深夜、誰もが寝静まった夜にぽつりと言葉を響かせた。それが戯れか真実であるのかを、確かめる術もなく。死によって彩られた産まれであるから、それを持たないのだ、と。
だから、待っている。王がどうか御子に、その承認を譲る日を、今はただ待っている。それでも待つだけでは、もう滅んでしまうから。できる限りのことを、できる限り、すべて、なにもかも。死の影はまことの献身と忠義によってのみ払拭される。そんなものが欲しくて尽くしているのでは、ないのだけれど。ああ、と青年は吐息を零して微笑んだ。
一番最初の望みがなんだったのかは、もう思い出せず。けれどもその願いの残滓だけが胸にこびりついている。その強く鮮やかな感情が、今も脚を急き立て前へ前へと走らせていく。だからあの方が王であることを望み続け、こんなにも国に尽くすのですか、とあえて問いかけたジェイドに。代行はただ、首を横に振った。はい、と。いいえ、と口に出し。
この国がとても大切で、好きだからですよ。今言ってしまったことは内緒にしてくださいね、と微笑まれて。ジェイドの胸にしまわれている。思い出して、ジェイドは身を翻し、ゆっくりと馬車の発着場へ歩き出した。まことの献身と、忠義とはなんだろう。それは代行が心をすり減らして行うことで、人々の願いの先にあるものなのだろうか。
望み。欲望がそこにあるのだとして。それを原動力とする力は、果たしてまことの献身と呼べるものなのだろうか。そこを間違えてしまったのかも知れない、と代行は言った。今はもうせんなきこと。この国と人々が大切だという意思だけが、私のまこと。私の本物。さあ、と代行はいつかのように、王の面会を望むジェイドの背を押して言った。
あなたが戻ってきたら会ってくださるように、必ず説得してみせます。だから、あなたはあなたの責を果たしてきてください。その戻ってきたら、が、次の時であると約束しないまま。上手に先延ばししてみせた代行に、もう、こころを告げることはできなかった。このひとが王であればいいのに。言葉を飲み込んで、ジェイドは歩いていく。
馬車の発着場には、魔術師しかいなかった。誰もが手に使い慣れた地図を持ち、長距離の移動に耐えられる格好をして、あれこれと雑談を響かせている。他のオアシスへ向かう人の姿は、ひとつもなく。この国のゆがみをひとつ、目の前に突き付けられる気持ちになる。馬や、駱駝に引かれて車が発着場へ滑り込んでくると、空気が変わる。
いってきます、と誰もが笑顔でそう言った。誰かに告げるのではなく。それでいて、場にいるすべてに宣言するように。いってきます、いってらっしゃい。いってくるね、うん、またどこかで会おうね。またこの場所へ戻ってこようね。それまで元気で、怪我なくいようね。いってらっしゃい、いってきます。それじゃあ、またね。頑張ろうね。
ふわん、と眼前にましろいひかりが現れる。馬車に乗るのに立ち上がりながら、ジェイドは指先でましろいひかりを引き寄せた。不思議そうにじっとするひかりに、ジェイドは笑って囁いた。
「……一緒に行こう、シュニー」
さあ、おいで。約束したろ。告げて歩き出すジェイドの手の中で、ましろいひかりはふるふると震えて。しあわせそうに指にすり寄り、甘く淡く、明滅した。
月日が雨のように過ぎていく。季節が巡っていく。春、夏、秋、冬。また春になる。妖精たちが世界を飛び回り、新しい同胞を連れて五ヵ国を渡っていく。そして夏になる。強い日差しを布で遮って、ジェイドは砂漠の国を見て回った。ゆっくり、ゆっくり、人々の生活に笑顔が戻ってきていた。報告に、代行は口元を綻ばせてよかった、と言った。
「他の魔術師たちの報告も、近頃はだいぶ落ち着いています。病は変わらず多いですが……流行してから、収束までの時間が短くなった。医師も、薬も、なんとか足りています。……ようやく、落ち着いてきましたね。自分でもそう思いませんか? ジェイド」
「一時に比べれば……。陛下は?」
「門前払いがさすがに頭に来たので、今日はあなたを迎えたら強行突破でもしてやろうかと。また『お屋敷』からの仕事をひとつ……ひとつ、ふたつ……いえ、いくつか……停滞していると、昨日、催促のお願いをされましたから」
頭が痛そうな代行をそっと気遣いながら、門前払い、と思わず憂鬱な声でジェイドは呟いた。つまり、ハレムに立ち入ることさえできなかった、ということだ。今日はなんで機嫌が悪いんでしょうね、とため息をつくジェイドに、おなかでもいたいんじゃないですか、とすさまじく適当な声で代行が息を吐く。
「まあ、こちらは任せて……。『お屋敷』に帰りなさい、ジェイド。おつかれさま。休暇の終わりは、いつもの通り。予定表を提出してから旅立つように……ゆっくりしているんですよ。ウィッシュくんは、いくつになったんでしたか」
「二歳半、くらいですね。……最近、帰ると、ぱぱ、って出迎えてくれるようになって……」
ぱぱぁ、ぱぱぁっ、と満面の笑みでよちよち歩み寄り、脚にぎゅむうううっと抱きつかれておかえりなさい、と言われたのは前々回のことだった。前回はそれで、やだもう連れて行く一緒に仕事に行く、と抱き上げて出立しようとして、大事件を起こしたのが記憶に新しいのだろう。ああ、と呆れ交じりの目で、代行がため息をついた。
「可愛いのは分かりますが……誘拐しないでくださいね……」
「俺思うんですけど我が子を連れて行くのに誘拐とかおかしくないですか。だってぱぱ行っちゃうのって言うんですよ。おかしくないですか連れて行くでしょう普通常識的に考えて?」
「……誘拐しないでくださいね、ジェイド」
笑顔で噛んで含めるように繰り返し、代行はそっと紙を引き寄せ『お屋敷』への手紙をつづった。前回の件でジェイドに反省と改善があまり感じられません。出発の日の一時間前にはウィッシュくんを誰かが抱き上げて、決してジェイドには抱かせておかないでください。走って逃亡とかしそうな気がするので。すごくするのでお願いします。
はいこれを御当主へ渡すんですよ、と紙を差し出され、ジェイドは受け取りながらもむっとした顔をした。
「ちゃんと子育てしないとウィッシュに懐かれませんよとか言ってたくせに……親子一緒の時間は大事なんじゃないんですか……?」
「はいはいすみません私が言いました。でもね? ウィッシュくんが話し出しただけでここまででろんでろんの甘々になるとか誰も想像していなかったものでね?」
「一番最初に話した単語はパパでした」
それは今聞いてない、という顔で代行が柔らかく微笑んだ。いいからもう帰りなさいね、きっと待ってますよ、と言われてジェイドは走り出す。おかえり、またウィッシュくんを連れて城にも顔を出してよ会いたい、行ってらっしゃい、また何日か後にね。いくつもの声に見送られて『お屋敷』に戻り、リディオに代行からの手紙を渡して。
数日の休暇をウィッシュとめいっぱい堪能する筈だったジェイドが、呼び戻されたのは次の日の早朝。青醒めた顔で。息を切らして途切れ途切れに告げられた言葉を、理解できずに。ジェイドはシークに、もう一度、とそれを求めた。だから、とシークは繰り返す。あまりに現実味のないその言葉を。
「国王陛下は崩御された……。代行も、怪我を……」
「……は」
「……陛下、殺されたんだよ、ジェイド」
どうしよう、とシークは言った。途方に暮れた声だった。