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 どれくらい姿を見ていなかったのだろう。主君たるその人のことを。どれくらいの間、声を聴いていなかったのだろう。ともすればその響きを思い出せない程に。どれくらいの想いを持っていたのかすら、咄嗟には分からない程に。興味はなく、関心は薄れ、忠誠は拠り所を変えてしまっていた。ジェイドが、魔術師が、城中の誰もが恐らくはそうだっただろう。
 それでいて失われたと告げられれば、身を貫いたのは言葉にならない程の恐怖だった。それは大きすぎる喪失であったし、なによりそれは、失われることすら思いつかなかいものだった。王とは長らくそういうものに成り下がっていた。永遠ではなく。それでいて、損なわれるとは思われないもの。大切に遠ざけられて、それでおしまい。差し出される手のひとつもなく。
 殺された、と聞いて胸をよぎったのは後悔だろうか。悔恨だろうか。分からないままにジェイドはウィッシュを養育部に預け、手早く準備を整えて『お屋敷』を後にした。なにがあったのか、どうして呼び出されたのか、いつ帰ってくるのか。ミードもリディオも不安がる顔を隠すことなく問いかけたが、シークもジェイドも口を閉ざして、ただ首を横に振った。
 王が損なわれたことを口外してはならない。一刻も早く魔術師は城へ戻れ。それが魔術師たちを取りまとめる筆頭と、補佐、そして代行から下された、唯一にして絶対の命令だった。その情報をいかなる理由、いかなる相手であれ、渡すことは許されていなかった。けれども、それこそ、永遠ではない。永遠にはならない。永遠に、できないことだ。
 すぐに分かります、とジェイドは言った。すぐに、でも、けど、それが本当か嘘かを確かめに行かなければ。蒼褪めて震えながら告げるジェイドとシークを見比べて、『お屋敷』の当主は眉を寄せ、温かな手でふたりの背をそぅっと押した。いっておいて、そしてどうか。帰っておいで。待っているから。はい、とジェイドは頷き、夜明けすら遠い闇の中を、掻き分けるように走り出した。
 『お屋敷』から城へ到達するまでの、短くも永い道を共に駆けながら、シークは言葉短く知ったことを語った。夜更け。代行がハレムを訪れた。王はまだ起きていた。部屋の中で二人はなにかを話していた。代行が一度、部屋の外へ出た。それからまた戻ってきて、言い争うような声と物音がした。王妃さまの悲鳴。叫び声。警備を呼ぶ代行の怒鳴り声。
 部屋に警備が踏み込んだ時には、もう全てが終わった後だったのだという。荒れた部屋の片隅で腹と喉を裂かれた王が倒れ。顔や腕、首に切り傷を負った代行が、短剣を持って茫然と座り込む王妃を抱き寄せていた。王妃は意識のない幼子を抱き寄せていて、動けないでいる警備に、たすけて、と告げたのだという。か細く、うつくしい哀願であったのだという。
 かくして。国王陛下殺害の嫌疑が、代行と王妃のふたりにかけられた。それがたったの一時間前。騒ぎが火のように回るより早く、異変を察知した魔術師筆頭とその補佐が、ハレム一帯を魔術的に封鎖した。魔術師と、それが許した者以外は誰も立ち入れず。それによって情報は物理的に封鎖されている。動ける魔術師が国中へ、同胞を連れ戻しに走っている。
 悪いことに、癒しの術を持つ白魔術師は、連絡の届きにくい僻地に。長距離の移動を一瞬にして可能とする空間魔術師は、馬を一昼夜走らせなければ辿りつかないオアシスに、それぞれ出向いている最中だった。それでも、一瞬も躊躇わず。動ける者は早馬に飛び乗り、彼らを連れ戻しに行った。戻るのは明日の昼か、夜になるか、明後日のことか。
 戻る時には全てが終わっている可能性を知りながら、それでも己の信念によって飛び出して行った者たちのことを、筆頭たちは責めなかったのだという。ただ、深く、息を吐き。目を閉じて。ゆるく苦笑しながら瞼を押し上げ、筆頭はシークに、ジェイドを呼んでくるよう頼んだのだという。理由は知らない、とシークは言った。事情を告げる言葉の、それが最後のものだった。
 駆け戻った城の空気は、拍子抜けするほど平穏だった。張り詰めた緊張など、どこにもなく。ただ眠たげな夜の空気が、朝焼けを待ちわびながら漂っている。普段と違うことといえば、灯篭を手に持ちあちこち駆け回る魔術師の姿が目に付くくらいだが、それも特別おかしいことではない。何日かに一回は目にする光景であるから、不穏を呼び起こすものにはなっていなかった。
 シーク、ジェイド、と慌ただしく行き交いながら、同胞たちは言葉短く告げていく。私はこれから南の端へ、俺はこれから北へ。西のオアシスへ、東の都市へ。白雪へ、楽音へ、『学園』へ。散り散りになっている王宮魔術師たちを、呼び戻しに行って来る。それまで、筆頭を、補佐を、そして代行をよろしく。すぐに戻るからね。必ず、すぐに、戻るから。
 連れ戻して、全員が集まって。それでなにかが助かる訳ではあるまいに、と。口にしたのはシークだった。行かないで、そこにいて。置いて行かないで、と告げられないでいる目をして。伸ばす手を震えながら握って。すがる言葉を、封じ込めて。吐き捨てるよりは弱く、吐息に紛らせるよりは強く、口にしたシークに。誰もが、そうだね、と頷いた。
 それでも、行かなければいけない。その先の希望が潰えてしまった今であっても、今だからこそ。一人では到底、立ってはいられない不安に立ち向かっていく為に。縋りつく誰かを、探しに行くだけなのかも知れない。それでも。立ち止まっていられないの、走っていないと不安なの、その弱さをどうか。許してね、と言って同胞たちは駆け抜けていく。
 手に灯篭を。揺れる火を。暗闇を切り裂く灯り、ひとつだけを手に。走って行く仲間たちの背を見送って、シークは、行こう、とだけ言った。行こう、ジェイド。筆頭たちが呼んでる。そうして、ふらり、と歩き出したシークの姿に、ジェイドはなぜ自分が呼ばれたのかを知った気がした。シークが、どこかへ行ってしまわないように、繋がれたのだ。
 最近は、すこし悪戯っぽく笑うようにもなって。楽しさと、喜びと、安堵と、そして未来に希望をひとかけ、見出したかのような。この不安定な、異邦から落とされた魔術師が。その心が。どこかへ行ってしまわないように。目の届く所に行かせて、目の届く場所へ戻したかったのだ、と。それに、なにか言い知れない予感を覚えながら、ジェイドは黙ってシークの後を追った。
「……シーク」
「なに」
「いや……手でも、繋ごうか」
 はぁ、と思い切り裏返った声を出して、シークが立ち止まる。まるく見開かれた目は、『学園』時代よりずっと感情的で、そのことに、ごく自然に笑みが浮かんだ。シークは言葉にならない様子で、はくはく、幾度か口を動かして。それからなにかを残念がるように、平坦な目をして大きく首を横に振る。
「ジェイド……。君、状況分かってる……? どうしたの大丈夫眠い……?」
「眠くないよ。状況も、分かってる。……ただ、えっと……あのな」
 なぜか、そうしなければいけない気持ちになって。ジェイドは幼子にそうするようにシークの前にしゃがみこみ、訝しむその目を、覗き込むようにして言った。勿忘草の、その瞳に。
「さびしいかと思って」
「ジェイド君ちょっとどうか……してるのは……前からだったか……」
 憐れむような目で見つめられて、いいから行くよ、と先を急かされる。筆頭たちが閉鎖してるとは言え、ずっとできるものじゃないんだから、と告げられる通りに、城の奥深くからは、発動され続ける魔力の気配を感じ取れた。魔力切れを考えずとも、四十八時間が限度として封鎖された場所に。なにが待っているのか、考えると息が苦しくなる。
 こどもじゃないんだから、と手を繋ぐことを再三拒否されて、ジェイドはやれやれと息を吐きながら立ち上がった。どうしてこっちが聞き分けを悪いみたいな態度されなきゃいけないんだ、とぶすくれるシークに、ジェイドはちらりと目を向けて。さびしいくせに、と呟く。瞬間、思い切り足を踏まれた。
「さ……びしくなんて、ないけど……!」
「痛い。……痛い、痛いって言ってるだろ……!」
「皆、帰ってくるって言っただろ! ばーかっ、ばーかっ!」
 悪口の語彙が乏しい、と呟くとさらに体重がかけられる。はいはい寂しくないのな分かった分かったと早口で言うと、シークはふんっと鼻を鳴らして足を退け、忌々しそうに舌打ちまで響かせた。
「寂しがり屋はそっちだろ。あんなことまでしたくせに、人に対してよく言う……」
「……返す言葉もないけど……。だって、シーク、さびしそうな顔してたから。本当にいい? やっぱり手、繋ぐ?」
「……うん。ジェイド、深呼吸して行こうね。疲れてるトコ呼んだもんね、ごめんね」
 だめだこいつ早く終わらせて眠らせないと、という顔をされたので、ジェイドは微笑んでシークの手を握ってやった。は、という虚を突いた声が零れるのに頷いて、さあ行こうか、と歩き出す。え、あ、え、と声を漏らしながらずるずると引っ張られて数歩を歩き。シークは声にならない呻きをあげて、手をぐいぐいと引っ張りながら天を仰いだ。
「意味が……意味が分からない……! なにかなこれ……! ちょ、あぁー! 手繋いで歩くとか、あー! やだー!」
「シークって混乱すると語彙が幼くなるよな」
「……なにか『お屋敷』であったのかと思えば」
 呆れに塗れた声に、ジェイドはシークの手を離さないように力を込めながら、向かおうとしていた方角へ顔を向けた。魔術師筆頭補佐が、苦笑しながら壁に背をつけて、ふたりの姿を見つめている。補佐、と口々に呼びかけるふたりに、男は苦笑しながら立ちなおし、おいで、と言って歩き出す。
「ちょっと大変なことになってるから……シークから事情は聞いた?」
 まさか知らないのでは、と思われたらしい。心配そうに問いかけられるのに頷けば、補佐は苦笑を深めてジェイドを眺め、だったら安心かな、と呟く。ジェイドも、シークも。ふ、と肩の力を抜いて零される言葉に、なにかを感じて問うよりも早く。筆頭補佐たる男は、さあ、とハレムの門の前に立って告げる。
「ここからは、時間との勝負になる。……あと四十六時間。ふたりとも、代行と……筆頭の言うことを、よく聞くこと」
 はい、と頷く二人に、補佐は満足そうに頷いて。ありがとう、と言って、封鎖区域へと足を踏み入れた。



 部屋の入口には、二人の警備が立っていた。逃がさない為というよりは、万一の侵入者を排除する為なのだろう。そんなに緊張しないでいいよ、と補佐が声をかけて室内に入る。まぁたやってる、と呟いて立ち止まった補佐の視線の先には、寝台があった。そこで身を起こそうとする代行を、筆頭が押さえて睨みつけている。
「いいから大人しく寝ててくださいって言ってるのに……。ディ、それ、俺が出てってから何回目? 五回目くらい?」
「おかえり、ラッセル。六回目だよ、六回目……! この方と来たら、俺の言うことちっとも聞いてくれやしない……! いいから! 白魔術師が戻ってくるまで大人しくじっとして動かず回復に努めてくださいお願いします! あんまり動くとうっかり死ぬでしょうが!」
「うーん、うっかりって言うのはちょっとアレだけど、俺も同じ意見だから。じっとしてて欲しいなぁ……」
 あぁ、大丈夫だからね、たぶん大丈夫だけど万一あの人が抜け出してあれこれしそうな時は呼ぶから一緒に押さえてねお願いね、と室内を覗き込む警備の者たちに頼み込んでから、補佐は部屋の扉を閉じてしまった。内鍵もしっかりとかけてから、呻き声と意地がぶつかり合う寝台へと歩み寄っていく。シークとジェイドも、その後を追った。
「あ、というか、ジェイドに頼んで『お屋敷』から医師を派遣してもらえばよかったのか……まずった……」
「今から行きましょうか?」
「うーん……。代行? 体調どう? 痛い? 貧血? 痛い? 死にそう? 痛い?」
 ひょい、と顔を覗き込むようにして補佐が代行に問う。同じようにして、ジェイドは思わず眉を寄せた。怪我をした、と聞いてはいたのだが。頬にも首にもガーゼが当てられ、包帯でぐるぐる巻きにされている。まだ乾き切らない血がにじんでいる所を見ると、塞がっていないのだろう。縫ったのがだめになっちゃうだろー、と補佐が言い聞かせるよう息を吐く。
「そんなに心配しないでも、ちゃんと王妃様は保護してあるってば……。王子も、今お医者様に見て頂いてるから」
「陛下は……!」
「……何回聞かれても、何回でも同じことを言うしかないけど。俺たちがついた時には呼吸してなかったよ。まだ温かくはあったけど、息はされてなかった。……御遺体は、今は王妃の寝室に。死因については……お医者様の手が空き次第」
 だからね。あの方、もういないんだよ。あまりにあっけなく、魔術師筆頭がそれを告げる。あまりに現実味がなく。あまりに、軽く響く言葉で。言い知れない気持ちで口を閉ざすジェイドより、代行は怒りの方が勝ったらしい。炎のような目で掴みかかられながらも、魔術師筆頭の男は慌てず、その腕に手を添えただけだった。
 だから、あんまり動くと死ぬって言ってるだろ、と言い聞かせ、相手の体調を見定める目で静かに言葉を語り掛ける。
「俺の忠誠を疑ってるんだったら、今はまあ代行の思う通りだとしか言いようがないよ。俺の心は陛下から離れてたし、離れてる。認めるよ。……でも、そうじゃない時期だってあった。あの方を心から……本当に、俺の主だと思って、敬っていたこともあるし、その気持ちは本当だった。大切で、好きだった。嘘偽りなく。……だから、悲しい。本当だよ」
 さ、力を抜いて。語るように、ぽん、と己を詰る腕に触れると、そこから力が抜け落ちるのが見えた。ジェイドから見てもてきぱきとした動きで代行を寝台に寝かしなおし、筆頭は事情を聴きたいけど、と誰にともなく呟いた。
「今、聞くと、そのまま死んじゃいそうだから聞きたくないな……」
 深く息を吐き出して。魔術師筆頭の男は、寝台の傍に椅子を引き寄せ、そこへ沈むように腰かけた。補佐が心得た動きでジェイドたちの傍から離れ、身を屈め、筆頭にあれこれ声を潜めて語り掛ける。恐らくは、他の魔術師の動きを告げているのだろう。報告が一通り終わるのを待ってから、ジェイドは言葉を探して、ようやくその問いを舌の上へ乗せた。
「……なにがあったんですか? 代行は……」
「……短剣に、どうも毒が塗られてて。毒消しは飲ませたけど、上手く効いてない……。医師も、なにが使われたのか分からなければ、どうとも、と言うし……なんの毒かは分からないって言うし……」
「誰が……?」
 どうも気乗りのしない顔をして、筆頭と補佐が、代行を見た。顔の半分以上を包帯に覆われ、熱にふくらみ、赤らんだ頬をしながらも。ぷい、と拗ねたような動きで代行が顔を背ける。うーん、と思い悩む顔をして、筆頭が首を傾げて言った。
「代行も、王妃も……。あと犯人も分かってない……分かってないっていうかどっちかが嘘をついている……」
「はい……?」
「どっちもね、自分が刺したって言ってんの。陛下をね。でね、どっちもね、殺意があったような、なかったようなって言っててな……? それでな、短剣に毒が塗られてたんだけど、その毒の入手経路はなんとなく分かってるんだけど、毒そのものがなんだったのか、ふたりとも知らないっていうんだよなぁ……。なんだこれどうしようって感じ……」
 お前探偵役とか向いてないから口を開くのやめておこうな、と優しい声で補佐が筆頭に囁きかける。遠回しでもなく直球で黙れ、と言われるのにやや落ち込んだ顔をして、筆頭は素直にこくりと頷いた。ジェイドの隣で、ううぅ、と涙ぐんだシークが頭を抱え込む。
「吐き気がするほど緊張感がない……」
 全面的に同意したい。そんなこと言われても、という顔をする上司ふたりに向かって、ジェイドは気を取り直して質問した。
「入手経路が分かっている、というのは?」
「新しく入った娘が持ち込んだ物だって。本人も認めてる。希釈して使うと体調を悪くするものだって言うんだけど、いや毒なんて全部そんなものだし……これも錬金術師の到着待ちかな……白魔術師とどっちが早く帰ってくるかな……」
 情報はハレムの外に漏れてないよ、と筆頭は言った。唐突に、しっかりとした声で。王が隠れられたことを、魔術師たちの他は数人しか知らない。だからどうしようか、と問いは代行へ向けられていた。彼らが王としたい、と願った者へ。
「隠すなら隠す。公表するならするで、どんな情報をどこまで出す?」
「……隠すって、言うのは?」
「王がこれからもハレムに居て、外に出てこないっていうことにするって意味だよ、ジェイド。これは不可能って程じゃない。色々難しいだろうけど……ジェイドだってここ一年くらいは、顔も見てなければ声も聴いてなかった。でも、やってけてただろ? ただ問題が……」
 王と言う存在を喪った国が、どこまで保たれるのか分からない、ということである。王子に戴冠させるのには早いし、と告げる筆頭の目が、ひとつの望みをかけて代行に注がれている。補佐も、ジェイドも、恐らくはシークも。それしかない、と思って。それを望んで、沈黙していた。その望みが確かにあることを、代行すら知っているだろう。
 できるわけないでしょう、と絞り出した声が、場に響いて行く。
「私は王を……私が、王を刺したんですよ。そう言っているでしょう!」
「聞いた。それは何回も聞いたよ……。俺もね、あれを見てるから、ちょっとそこを庇いきれないな、とは思ってる」
 ハレムで騒ぎが起こったことに、いち早く気が付いたのは筆頭と補佐のふたりであったのだという。用事があって、ハレムの門で代行が出てくるのを待っていたふたりは、尋常ではない悲鳴を聞きつけて。あとでどうとでも罰せと言い捨てて、ハレムへ侵入し、そして。血だまりに倒れる王と、短剣を手に持つ王妃。意識を失った王子と、傷つけられた代行を見た。
 錯乱した王妃が王を害したのだ、代行は王を庇おうとして傷ついた、と誰もが思い。けれどもその意思を、外ならぬ青年が否定した。王を刺したのは私である。その証拠に、王妃の持つ短剣は私のもの。王妃はただ、短剣を奪おうとされた。いいえ、と悲鳴がそれを否定したのだという。いいえ、いいえ、と繰り返し、王妃が泣きながら繰り返した。
 この方を殺してしまったのはわたし。この子の首を絞め殺してしまおうとしたこの方を、どうして許しておくことができましょう。けれどもこの方はわたしの大恩ある方。せめても苦しまないようにしたかったのに、このひとが庇おうとなさるから。わたしはもうどうなってもいい。どうなったっていい。でもどうかこのひとと、この子だけは。たすけて。
 王子の首には指のあとがあった、と筆頭は言った。代行の証言からも、王が王子の首を絞めていたことは分かってる。助けようとして揉み合いになって剣を抜いてしまった、というのが代行の言い分。助けようとして代行から剣を奪って刺した、というのが王妃の言い分。多分どっちも全く嘘っていう訳ではない、と本人を前にして筆頭が息を吐く。
「だって代行だけが怪我してるだもん……。陛下から王妃かばったか、王妃から陛下かばったんだろ……?」
「……どちらにせよ。王になれる筈、など……今更、わたしが……」
「なれるよ」
 ジェイドが目を見張るほど。甘く優しい、幼子に囁くような声で筆頭が言った。寝台に伏す青年の髪をゆっくりと撫でながら。ぎょっとする代行の顔を覗き込んで、筆頭は穏やかな笑みで囁く。
「そういうのは、もういい。あなたはこれまで十分頑張った。その努力を、俺たちはずっと見て来たし、知ってる。だから……だからさ、もういいから許可を頂戴? 俺たちに、言って?」
「なにを……」
「忠誠が欲しいって」
 それだけでいいよ、と筆頭はあまく笑った。そう言って望んでくれたら、なんだってしてあげる。あなたと、この国の為に。どんなことだって。囁きに、眉を寄せたのはジェイドだけではなかった。シークも、どこか息苦しそうな顔をして、不安げに筆頭と代行を見比べている。魔力が動いている。穏やかに編まれた、それでいて、確実な意思を乗せた魔術がある。
 なにを、と問いかけるふたりに、補佐が口唇に指をあてて、しー、と笑った。言ったろ、と補佐の瞳が笑っている。代行と筆頭の言うことを、よくきくんだよ、って。やさしい、夢を見るような眼差しで。代行が、筆頭に言葉を告げる。溜息をついて。なにかを、諦めたようにもして。
「……分かりました。デューグ、ラッセル」
 はーい、と筆頭は弾んだ声で。はい、と補佐はそれを窘めるように。返事をされたことに、また息を吐いて。代行はしっかりとふたりを見据え、静かな声で、あなたたちが欲しい、と言った。あなたたちの忠誠、真心。差し出して受け取って貰いたがっていた、それを。受け取りましょう。いま、この時から。
 うん、と言って筆頭が笑う。心から、嬉しそうに。安堵したように。泣き出しそうな、顔で。
「ありがとう……」
 これで、あなたを助けられる。二人が恭しく代行に頭を下げるのを、見て。言葉にならない予感に、ジェイドは息を苦しくした。シークも、なにか不安げな顔をして視線をさ迷わせている。さあ、すこし休まないと、と補佐に背を押され、部屋を連れ出されても、その苦しさは収まることがなく。
 喪失の予感だったのだと。その時まで、知ることはなく。



 休憩が終わったらジェイドは筆頭と一緒、シークは俺と一緒に来てね、と引き剥がされて半日。ジェイドは、刻一刻と目の前に積み上げられていく資料を半眼で見つめ、それを成していく筆頭を呆れ顔で見つめた。
「……所で、なにをしておいでですか……?」
「え? おなかすいた? ごめんなー、もうちょっとしたら食堂行こうなー」
 にこにこと笑いながら本棚と向き合い、これはいるけどこれはいらない、と選別をしているらしき筆頭は、普段からあまり人の話を聞いてくれない。言うことを聞かせられるのは補佐その人くらいのものであり、そうであるから、彼の青年は砂漠に引き抜かれ、その地位に就いたのだと囁かれる程だ。自由なひとなのである。とても。
 幾度溜息をついても、ごめんなー、疲れたよなー、と告げられるだけで作業に終わりは見えず。そして、なんの説明もしてくれることはなかった。ジェイドはただハレムから魔術師たちの区画へ移動して、かれこれ半日、筆頭に付き合って傍にいるくらいである。今こうしている間にも、なににもならない時だけが、積みあがっていくというのに。
 ジェイドは椅子に座ったまま、再度顔をあげて問いかけた。
「俺はなんで、ここに?」
「うーん。……あのさ、驚かないで聞いて欲しいんだけど」
「はい」
 過去の経験から、筆頭がその前置きつきで話し出す時は、ろくでもないことだ、というのを砂漠の魔術師は知っている。前回は陛下の大事にしてた絨毯に開けたばっかりのインクぶちまけちゃったどうしよう、だったし。その前は、なんか国宝だった気がするすごいお皿割っちゃったんだけどどうしよう、だったし。その前も、その手の器物破損であった筈だ。
 今度はなにを壊したんですかというかそれを聞くのが俺だけでいいんですかだめですよね補佐呼んでくるのでちょっと待っててくださいね、と今にもジェイドが言いそうな気配を察したのだろう。あっ、違う違う、と軽い声で否定して、筆頭はそういうんじゃなくてさー、とあくまで深刻さも、緊張も感じ取れないのんびりとした声で、ジェイドにそれを告げた。
「俺ね、ジェイドに跡を継がせようと思ってたんだけど。ちょっと時間がないから、必要な資料集めたら、要点だけ書いて置くからそれ見て頑張ってな?」
「……はい?」
「あっ大丈夫、補佐はシークにしたからさ。二人で協力して、ごめんだけど、後のことはよろしくな」
 あっじゃないしなにも大丈夫ではないしなんというか言われている意味が分からない。頭を抱えながら正直にそう言って呻くジェイドに、筆頭は困った顔をしながら歩み寄って来た。手に持っていた本をひとつ、書類の山へ追加しながら。ジェイド、と呼んで眼前にしゃがみこんだ筆頭は、穏やかな笑みで目を細める。
「分かってるだろ。……お前は頭の良い後輩だ。だから、分かってる」
「……罪を、かぶる……つもりですか? 本当に?」
「いつか壊れるって分かってて、陛下を放置した。この結果がこれだ。……かぶらなくても、罪くらい、十分にあるさ」
 茶化すように告げた筆頭に、ジェイドは無言で首を振った。そんなことをしないでください、と懇願する。どうすれば思い留まってくれるのかが、分からずに。手に触れて、嫌だ、と首を振りながら、お願いします、と繰り返す。
「あなたが、そんなことをしなくても……」
「ジェイド。この国には、もう、時間がないんだ。……ないんだよ」
 他の方法を探す、ほんの僅かな時間すらない。ジェイドが、『花嫁』に、よくそうしたように。触れる手を撫でながら、筆頭が囁きかけてくる。この国の壊死はもう始まってしまっていた。それが分かっていてなお、俺は国にしか目を向けなかった。王に意識を傾けなかった。ひとりで、どんなに苦しかっただろう。どんなにか、さびしい気持ちでいただろう。
 それを薄々察していながら、目を背けた。二心を抱いた。裏切られたと、思っただろう。その通りだ。俺は王を裏切った。その裏切りがもしかしたら、凶行へ至らせてしまったのかも知れない。誰にも興味を抱かれないさびしさはね、かなしさは、くるしさは、ひとをそういう風にしてしまう力があるんだよ、ジェイド。
 王は優しいひとだった。穏やかなひとだった。それをお前は知っているね。俺もね、知っていた筈だったんだよ。いつからか忘れてしまっていたけれど、もう思い出したから、今からはずっと忘れないでいるようにする。そういう人を裏切って追い詰めてしまったことを。誰も救えず、助けようともしなかったことを。無視して忘れてしまっていたことを。
「最後の最後まで、味方でいてあげられなかった……。筆頭として、王の……一番傍にいる魔術師として命じられた以上、誰が背いても俺だけは、そうしていてあげなければ、いけなかったのに……。いや、心からそう思って出来なかったんだから、やっぱり裏切りではあったんだろうな」
「でもそれは……あなただけが悪いんじゃない。俺だって……」
「そうだな。魔術師は皆、そうしてしまった。……その上、あの方に心を預けてしまった。だから……ああ、届かなかっただろうよ……誰の言葉さえ、陛下には。……誰もが、あの方を裏切ってしまった。誰も、味方じゃなかったんだから」
 さびしかっただろうな、と筆頭は言った。つらかっただろう。そんな思いをさせたいと、そう思っていた訳ではなかったのに。誰もが、希望を抱いて。望んで。すこしでも救われたくて。そう願っていた筈なのに。だからな、と筆頭は、震えるジェイドの手を叩きながら言った。
「間違えたお前は、間違えることの重大さを知ってるな。……もう、間違わないでくれ。俺たちが全部引き受けていくから。シークと仲良くな。大丈夫、皆助けてくれるよ」
「……名乗り出ても、そんなの……証拠がない。信じられる訳がない」
 代行と王妃がいた部屋へ足を踏み入れたのは、筆頭と補佐だけではない。警備の者が何人もいただろうし、王妃と王子は医師に委ねられたと聞く。看護の者もいるだろう。ハレムは魔術的に封鎖されているとはいえ、そこに居る女たちは誰もが事実を知っている。罪をかぶり切るのは不可能だ。
 思い直してください、と懇願するジェイドに、筆頭は穏やかに微笑んだ。
「……よし。ご飯食べに行こうか」
 立ち上がって、ぽん、と頭を撫でてくる手にすがって。話を聞いてください、とジェイドは繰り返した。お願いだから、そんなことはやめて欲しい。考え直してください、と言葉に、筆頭は笑うだけで答えなかった。



 よーう準備できたー、できたできたー、という受け答えをするのは本当にやめて欲しい。無理に食事を詰め込んだ後にずるずる引っ張られていったハレムで、ジェイドは頭の上を飛び交っていくのんきこの上ない筆頭と補佐の言葉に、胃の痛みを感じながら場にうずくまった。
 お願いだから、どうしたんだろう、と不思議がる視線を向けるのは勘弁して欲しい。
「……胃薬いる?」
「いらないので止めてください……」
「それはできないんだ。ごっめんごめん」
 せめてもっと重々しく謝って欲しい。顔を覆って蹲るジェイドの頭を、補佐の手が二度、三度、撫でるように触れて離れていく。その手を捕まえてしまわなかったことを、いつまでも後悔した。
「……全く。それで、なにをするつもりなんですか?」
 血の気のない顔で寝台に体を起こした代行が、筆頭と補佐に問いかける。ふたりは顔を見合わせて晴れやかに笑い、悪いこと、と声高らかに宣言した。悪だくみをそう楽しげに言うひとがありますか、と代行がげっそりとした息を吐く。
「……それで、なにを?」
「はい! 俺が陛下殺害の犯人です!」
「はい、俺が共犯者です」
 自白しちゃったー、いぇーい、とはしゃぎ倒すふたりに、代行がそうですかという微笑みのまま、頭を抱えて寝台に倒れ伏した。
「……ジェイドの気持ちがよく分かりました。馬鹿ですか止めなさい」
「我が君」
 ごめんな、と笑って筆頭が告げる。時間がないんだ。あなたと、この国を。もっと上手に救いきるだけの時間が。
「それに、もう準備、終わったからさ」
 あとはやるだけなんだ、と筆頭が歌うように言葉を囁く。はっと息を飲んだのは誰だっただろう。ジェイドが体を起こした時、部屋にはもう、筆頭の紡ぐ魔術で満ちていた。砂漠の筆頭は水属性の占星術師。望んだ夢をひとに手渡すことができる術者。補佐は風属性の錬金術師。ゆらめく風の流れにすら術を編み込み、その効果をどこまでも拡げていく。
 その、補佐に肩を抱かれて。泣き腫らした目をしてシークが立っていた。補佐が身を屈めて、むずがるシークに何事かを囁く。いやだ、いや。そんなことをしたくない、と泣くシークの元へ、ジェイドが駆け寄るより。震えながら紡がれた言葉が、世界を書き換えてしまう方が早かった。
「『……言葉ある者よ、今こそ」
「ジェイドも、シークも。ちゃんと覚えておいて、大事なことだからね」
 詠唱の邪魔にはならず。けれども、はきと響く穏やかな声で。筆頭が告げる。
「命令したのは、俺だ。……彼に責任はないよ」
「……このひとたちの」
 涙が、いくつも零れ落ちる。見開かれた、勿忘草の色をした瞳から。
「まことなる願いを……叶えたまえ』」
「『さあ、夢を見よう。万雷の拍手と共に夢を織って迎えよう。瞬きの間に。ひとつ息を吸う間に。……大丈夫、その先には希望があるよ。俺はずっとそれを信じてる』……我が君。どうぞ。俺の成すことをお許しください」
 部屋の中心から、逆巻くように風が吹き抜けていく。起こったのは、それが全てだった。泣き崩れるシークに駆け寄ることすら忘れ、え、と呟いてジェイドは立ち上がる。体の中で、頭の中で、なにかが。猛烈な速さで書き換えられていくのを感じる。風と共に国の端まで散って行ったであろう魔術に。瞬き、呼吸、言葉を発するだけの間で、なにかが。
 言葉が、消され、書き加えられていく。
「……え?」
 このひとたちだ、と思う。身の内から湧き上がる、ぞわりとした憎悪すら覚えながら。筆頭と、補佐を見て、ジェイドはこのひとたちだ、と思う。王を殺したのは、このふたりであるのだと。違う、という記憶はそこにあるのに。それを消してしまうような言葉の渦が、ジェイドの中で暴れ続けている。
「あ……あ、あ、あぁああ……」
 うずくまって、頭を抱えて、シークが泣いている。声をかけて、傍にいて、大丈夫だ、と言ってやりたいのに。書き換えられていく、そのおぞましい衝撃と。言葉が、意思が。言葉すら成さず泣き喚くシークへ、駆け寄る力を与えなかった。
「ああぁあああああっ!」
 血を吐くように泣き叫ぶ声が、室内には響いている。



 殺しの罪は、死によって償われるのが砂漠の習わし。
 筆頭と、補佐。二人の処刑が決まったのは、その日のうちのことだった。

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