お父さんっ、と男を呼ぶ娘の声が、広間に絶えることなく響いている。罪人を、そうと名乗り出た男のことを、いつまでも諦めずに呼んでいる。魔術師、兵士たちに鉄柵を乗り越えて行かぬよう抱き支えられながら、地に半ば押さえつけられながらも。この先には希望があるよ、と優しく告げた筆頭と、同じ色の瞳を激高させ絶望させながらも。なおも手が、声が、届くことを諦めない強さで、まっすぐに前を見つめている。
娘はまだ幼かった。年のころは十とすこし。一人前と認められるにも早すぎる幼さは、今や感情に食い荒らされ見る影もない。そこにあったのはまさしく手負いの獣であった。世界全てと敵対する憎悪だけが、幼い娘の両手足に力を与えていた。ごめん、と魔術師が繰り返す。ごめん、ごめん、ごめんな。でも、と告げられる言葉に、娘が激しく首を振って抵抗する。
そんな言葉は聞きたくない。血を吐くように。まさしく、血を滲ませながら。娘は幾度も咳き込んで、己を捉える腕に指を、爪を食い込ませて絶叫した。裏切者、嘘つき、どうして分かってくれないの、どうして誰もやめさせてくれないの。お父さんはそんなことしない、決してしない。胸に抱いた忠誠をそんな風に裏切るだなんてことを決してしない。そんなひとじゃない。
お父さんはやってない、お父さんじゃない。どうして分からないの。どうして私さえそう思ってしまうの。この感情はなに。この言葉はなに。私をかき回していくこれはなに。皆これにやられてしまった。あなたたちだってそれは知っている筈、分かっている筈。お父さんじゃない、お父さんを助けて。お父さんおとうさんおとうさん、お父さんっ。
その、断末魔にすら似た叫びを掻き消すように。罪を償え、と幾重にも声が重なって地を揺らす。殺しの罪は、死によって償われるのが砂漠の習わし。忠誠を誓う王を害した魔術師たちを、その罪を。命の灯火を消すことで、血を流して清めることで。贖い給え、許し給え。城の、大広場の中心は急ごしらえの鉄柵で囲まれていた。その中に、二人の男の姿がある。
瞬きを、殆どしないままで。絶えず涙を零しながら、うわごとのようにごめんなさいと繰り返し続けるシークの手を握って、ジェイドは窓からその光景を見下ろした。見ないでいい、聞かないでいい、という許しも、救いも、シークはがんとして聞き入れなかった。最後の最後まで傍にいたい、という願いは、他ならぬふたりに拒否されたからここにいる。
鉄柵の内側には、護衛に守られた王たちの姿があった。白雪の王はもの言いたげな顔をして、楽音の女王はその顔にくっきりとした不愉快を表明しながら、花舞の王は視線を伏せて静かに祈り続け、星降の王は泣き腫らした顔をして、今もまだぼろぼろと大粒の涙を零して首を横に振っている。どの王も、もう言葉を発さなかった。それがもう手遅れだと知っていた。
知らせを受けて。王たちが砂漠に介入できたのは、全てが終わり整え切られた後だった。砂漠の王の死より、一日後のこと。筆頭と補佐が紡ぎ、シークが砂漠の国の隅々にまで、隣接する二国の、国境に接する都市の一部にまで広げた魔術に、人々の認識が書き換えられた後のことだった。人々は、まるでその目で見たかのように、一様にこう訴えた。
我らが愛する砂漠の王を、弑逆した者こそ砂漠の王宮魔術師、その筆頭と補佐である。罪には罪を、死には死を。その忠誠を裏切った罪、その守護に背いた罪を。罪人よ、その命によって贖い給え。言葉は大きなうねりとなって砂漠をかき回した。感情が、意思が、紡がれる言葉によって幾重にも上書きされていく。魔力という腕から逃れても。人の口から口へ伝わる、響き渡る言葉が、その呪いをさらに深めて広げていく。
時にして、一昼夜。手遅れだと王たちが歯噛みするまで、たったそれだけの時間で事足りた。世界からの祝福を受けた『王』たちは、魔術師の呪いの影響を受けない。そうであるからこそ、王たちは噂を跳ねのけ真実を知り。同じく、書き換えられなかった代行に、責任を取りなさい、と言った。これはあなたの為に成されたことなのでしょう、と王たちは言った。
あなたの命と、この国の、先と。それを守ろうとして、そうして守り切る、ふたりが成したことでしょう。だとすれば、あなたが責任を取りなさい。この国の次の王。今はまだあやふやで分からない、けれど。あなたは魔術師による書き換えを受けなかった。それはあなたの身に流れるまことの王の血が、祝福によってあなたを守り切ったというなによりの証明。
そうであるならば。産まれついた死による影において、ならなかった承認が今度こそ下されるでしょう。この者たちがあなたに捧げた、まことなる献身と忠義によって。その言葉に、代行は息を繰り返すことすら、痛みを感じる顔をして。はい、と頷いた。王よ。この欠片の世界において、なんらかの意思によって承認された、まことの王たちよ。今は仰る通りに致します。
体より、心が傷ついた顔をして。寝台の上から、それでも優雅に一礼してみせた代行が。まだそう呼ばれる男が。その時と同じ顔をして、集まった群衆に道を作らせ、ゆっくりと、鉄柵へ歩み寄っていくのが見えた。娘が、やめて、と声を張り上げる。その声だけは不思議と、距離を隔てた部屋の中、ジェイドの耳にまで飛び込んでくる。
代行は一度だけ、残される娘を見て。視線を外して、恭しく招かれる鉄柵の中へと身を滑り込ませて歩いていく。言葉はなかった。どんなものですら。代行が中心に向かって歩いていくにつれ、群衆の声が静まり返っていく。娘だけが声をあげていた。呪う言葉も、止める言葉も、もはや失ったように。父のことを呼んでいた。幾度も幾度も、血を吐きながら。
その声を向けられている筆頭は、椅子に座ってのんびりとあたりを見回している。ジェイドの目からはそう見えたし、代行も、そう思ったのだろう。唇が動いて、言葉を落とす。その声はジェイドまで届かなかった。筆頭が笑いながら、なにか受け答えをする。補佐はその隣に置かれた椅子に座りながら、呆れた顔をしていた。よく見る表情だった。
ふたりに、戒めはされていなかった。魔封じをされた鉄柵と、大広場に描かれた巨大な魔方陣が、二人から魔術の術と抵抗の意思を奪っていた。鉄柵を組み、それを描いたのは砂漠の王宮魔術師だった。そんなものは無意味だと、王たちと、代行、ジェイドとシークだけが知っている。あの二人は望んであの場所にいる。この国の為にこそ、そこにいる。
代行が、鞘から剣を引き抜いた。場には、娘が父を呼ぶ声だけが響いている。神に祈ることすらせずに。立ち上がって。最後に、筆頭は己の娘へ視線をやった。名が、呼ばれたのだろう。声を失わないように。聞き逃さないように。その時だけ、娘は口を閉ざした。筆頭は笑っていた。晴れやかだった。満足しきっていた。すこしだけ、申し訳なさそうに、眉が下がっていた。
なにか、告げられる。言葉か、意思か。残される者へ、残していく者が、贈り物のように言葉を囁き告げる。娘は一瞬だけ顔を両手で覆い、父のことを呼んだ。息を吸うだけの空白。顔を覆っていた手が外され、娘は己を押さえ込んでいた魔術師や兵士たちの手を、穏やかに押しのけた。震える脚に力が籠められる。顔をあげて、背を正して、娘はまっすぐに前を見た。睥睨した。王者のように。
筆頭が声をあげて笑う。いとしさに溢れた響きだった。代行がため息をついて、筆頭に問う。なにか、他にありますか。その言葉はまっすぐに、ジェイドの元まで響いてくる。王よ、と筆頭は忠誠を誓いなおすように告げた。二心を抱き裏切った魔術師が、その死の供をすることをどうぞお許しください。代行が、筆頭をまっすぐに見つめて、待つ。この期に及んで、可能性のない希望を、待つように。
それでも。言葉はもう、響かなかった。静寂と視線のただ中で、筆頭は恭しく代行に一礼する。居並ぶ王たちに。代行の手が強く、剣の柄を握り締める。罪人を。そうとされる男を、片腕で抱き抱えるようにして。刃が心臓を貫いた。一撃で、確実にそうなるように。痛みも、苦しみも感じないように。砂漠の魔術師たちは丹念に、祝福を与えて代行に差し出した。それが、呪いだと呼ばれる性質のものであっても。祝福だ、と。ただ、愚直に、信じた。
筆頭の体が、地に横たえられる。代行は顔を伏せていて、誰にも表情を見せなかった。補佐が立ち上がり、同じように王たちへ一礼する。残す言葉を。顔を伏せたままで代行が言う。補佐は柔らかな表情ですこしだけ考え、筆頭と同じ言葉を繰り返した。のち、代行をまっすぐに見て微笑み告げる。王よ、どうか。あなたの死を連れて行くことをお許しください。
王たちが息を飲んで補佐を見る。恭しく、己が定めし王に命を差し出す魔術師を。代行は顔をあげて、言葉に、泣きそうな顔で笑った。ばかじゃないですか、あなたたち。うん、と補佐は幼子をあやすようにして笑って、囁いた。だからさ、この国を。どうぞよろしく。はい、と代行は背を正して言った。受け取りましょう。言葉が響く。なにか、儀式のようにして。
魔術師たちの祝福は、死の痛みと苦しみから、最後までふたりを守り切った。丁寧な仕草で、代行が補佐の体を地に横たえる。一拍遅れて。歓声があがった。その場に集った民たちの、新たなる王を祝う声だった。新王陛下、と誰もが代行をそう呼んだ。新王陛下万歳。新たな王の行く先に、砂漠の黄金のひかりあれ。
叫び声は万雷の拍手のように響いて行く。集った王たちが、それぞれの作法に則って、茫然と立つ男へ礼を送った。承認はここに成された。星降の王が静かな声でそれを告げる。新たなる王の承認が、ここに確かに下された。砂漠の新たなる王よ。その誕生に祝福あれ。王冠はその頭上に。これより、あなたの鼓動がこの国の、あなたの血潮がこの国の。あなたの祈りこそ、この国の。ひかりとなり、恵みとなり、希望となる。心せよ。惑わず、迷わず、前へと進め。
王たちは、おめでとう、とは口にしなかった。ただ悼むように、目を伏せなにかを祈っていた。ああ、と誰かが吐息と共に言葉を零す。戴冠だ。泣き崩れるシークを抱き寄せて宥めながら、ジェイドは強く目を閉じて、息を吸い込んだ。戴冠だ。新たなる王。心と忠誠を捧げるべき主君。彼の人は落日を迎えた砂漠の国に、朝焼けを導くだろうか。それとも暗闇に憧れるよう輝く、月や星のきらめきになるのだろうか。
呪いのように敬愛が浮かび上がる。魔術師としての性が、生きて呼吸をするのと同じように、うまれたばかりの新王へ親しみを注ぐ。彼の人は世界から承認された、まことなる王。言葉もなく、ジェイドは息を吐き出した。嗚咽か、歓喜か、分からない。ただ、息をする。呼吸をする。必死に。生きることへ意識を繋ぐ。そうしなければ。
名も付けられない空虚が、意識を食いつぶそうとしている。
廊下の端。薄く開いた窓から、清涼な風が吹き込んでくる。息がしやすい気がして、ジェイドは肩から力を抜いた。筆頭と補佐を喪った日から、一週間。一度だけ強い雨が砂を荒らしただけで、砂漠の天気は穏やかだった。久しぶりに、喉をうるおす水が美味しいと感じた。そんな風に呟いたのは誰であったのか。
洗濯物を干すと気持ちよく乾く、と下働きの者たちは笑いながら、大広場に縄を張り、一面に真っ白な布をはためかせた。清潔な石鹸の匂いが風に溶ける。ちいさな幸福を拾い集めるように、誰もがすこし、早足に廊下を行き交った。視界の端を、妖精の光がひらりと通過していく。姿を見せなかったのが嘘だと思うほど、あっけなく、砂漠は妖精の姿を取り戻していた。
まだ城の外へは行こうと思わないけど、と。新王陛下に祝福を、と訪れた妖精のひとりが、羽根をゆらめかせながら魔術師たちに囁いた。あの愛しい子たちの、優しい子の紡いだ魔術はこの国と、その隣の端まで広がって行った。うつくしく繊細なレース模様のように。編まれ拡げられたその魔術の線が水脈のように、風の通り道のように、新王の祈りを疾風のごとく国の端まで伝えている。
腐ったものが押し流されるまでは今しばらく。ジェイドの成した『それ』の欠片を回収するまでは、本当には落ち着いてしまわないだろうけれど。すぐに見違えるほどよくなるよ、と妖精たちは口を揃えて囁いた。新しい恵みの王に。魔術師の献身を捧げられた、同胞の祈りと希望によって戴冠した砂漠の王に。
幸いあれ、祝福あれ、と妖精たちは口々に告げ、花園から出かけてきては、物慣れぬ青年のやり口に、ああでもないこうでもない、ときゃっきゃとはしゃいで品評しあった。姿が見えず、声が聞こえなくとも、なんとなく察するものがあるのだろう。己の魔術師たちに向ける目には助けを求める色があったが、ジェイドをはじめ、誰もがそっと、辛抱強く頷いた。諦めて欲しい。あるがまま、受け入れるしかない。それが妖精との付き合い方だからだ。
妖精たちには様々な種族あれど、共通して彼らは気まぐれで、思慮深く、身勝手で、情愛に溢れ、薄情でありながら、献身的で、ひどく優しい。馬鹿なことを、と筆頭と補佐に怒りながら、妖精たちは血に穢れた大広場の空を、次々と飛び回った。これからずっと、こんな馬鹿にはなるんじゃないって、迎えに行く魔術師のたまごに言い続けてやる。簡単に忘れられていくだなんて、決して思うな。はらはらと。花が散るように、妖精たちの涙と怒りと、祝福が溢れた。
結果として、城のどこより清浄な地と化した大広場は、今日は格好の洗濯日和を迎えている。ばたばたと風にあおられる洗濯物をぼーっと眺めた後、ジェイドはため息をついて廊下を歩き出した。城はすっかり活気を取り戻している。魔術師たちも多くは泣き明かした後、強く前を睨みつけるように顔をあげ、国中を飛び回る生活を再開させていた。
一週間。ぼんやりと、漂うように日々を過ごしているのは、ジェイドとシークだけである。新王は私も滞っていたものを全部終わらせたら何日かは休みます、と言い置いて、その日から次々と仕事をさばき続けている。どうしても王でなければならない物以外は殆どやっていたことであるから、勝手も知ったことであるらしい。ああーっ、問題が解決したーっ、と喜びに咽び泣く声が、城のあちこちから今日も聞こえていた。
その喜びを、理解はできるのに。手元に引き寄せて、同じように笑ってはあげられない。この一週間ずっと、ジェイドはそんな気持ちで鬱々としている。本当なら部屋に引きこもっていたいのだが、とぼとぼと廊下を歩いているのは、他ならぬ新王から呼び出しがかかったからである。
『お屋敷』の当主夫婦が挨拶に来るから顔を出すように、というのがその内容だった。
ちょうど、決めなければいけないことは、終わったばかりであるらしい。いくつかの書類を手に文官と、見覚えのある『お屋敷』の事務方が連れ立って部屋を出て来たのに一礼して、ジェイドはなるべくため息をつかないよう、気を引き締めて室内に体を滑り込ませた。あ、とまっさきに目を向けたのは、気配に敏い『お屋敷』の当主、リディオだった。
その顔色が、ひどく蒼褪めている。ジェイドは思わず立ち止まり、随行している側近の女を凝視した。リディオの体調が悪いことに、女が気が付いていない筈がない。ジェイドの目から見てさえ動かすのをためらうくらいの状態であるのを、なぜ『お屋敷』の外へ出してしまっているのか。一刻も早く穏やかな場所へ戻さなければ。死を近くに感じ続けた心が、血の気の引く焦燥に鼓動を早くする。
しかし、ジェイドがなにか言うよりも早く。きゅ、と口唇に力を込めたリディオが、顔をあげてまっすぐに魔術師を見た。
「いい。……なにも、言わないでいい。自分でも、分かってるんだ。無理を、言って……」
「……私が話しておきますから。もうお帰りになられては?」
眉を寄せながら囁く新王の言葉にも、リディオは頑なに唇に力をこめ、無言で首を左右に振った。幼子のわがままじみた仕草に、溜息がひとつ。苛立ったそれを吐き出したのは側近の女だった。いいから、はやく、座りなさい。そして一刻も早く用件を終わらせて帰らせなさいと言わんばかりの烈火の視線に、ジェイドはささっと足を進め、王の背後に立ちなおした。
ゆったりとしたソファに身を沈めたまま、新王が苦笑いをして隣の空間を手で叩く。おいでなさい、と声にも出して求められて、ジェイドはなんでですか許してください、と首を横に振った。
「仲良く隣り合って座るような関係でもないでしょう……。というか、あなたの隣に座れる筈がないでしょう……なんですか寂しいんですか王陛下?」
「寂しい、と言ったら座ってくれますか?」
これはもしかしてうわきのけはいなのではないだろうか、と疑う目でリディオがちらちら見てくるので、からかうのは本当にやめて欲しい。身の潔白を証明するのに両手を肩の高さまであげながら、御存知かとは思いますが、とジェイドは呻くようにして言った。
「あなたの隣に親しく座るには、立場、というものが御座います陛下……。ところでお妃さま決めたんですか?」
新王は、藪蛇だったか、という顔を隠そうともせず。極めて不思議なことにごく気品あふれる仕草で、思い切り盛大な舌打ちをした。嘆かわしい、とばかり首が横に振られる。
「次の王がもういらっしゃるのに、わたしに世継ぎを求めるとか乱世の元だと思いませんか思いますよねわたしはそう思いますので生涯独身で通します。なにか問題でも?」
「問題がないとどうして思えたんですか……? いいんですよ、陛下。男子でも女子でも年上でも年下でも。ご結婚されてる相手以外で、とりあえず人類であったのなら、それで。支え、というのは必要でしょう。……それともまさか、人に話すのに憚られるような趣味があったり……? なんというかこう、無機物じゃないとダメ、みたいな」
「今思い出しましたが、ジェイド。わたしは不敬罪というものの施行に強い憧れを抱いていました」
とても心が躍ります、と微笑む新王に、ジェイドはきらびやかな笑顔で冗談を申し上げました、と言い切った。ぷふっ、と堪えきれなかった笑い声が響く。口に両手を押し当てて、我慢しようとして、それでも駄目だったのだろう。リディオは肩の力が抜けた表情でしばらく笑い、はぁ、と息を吸い込んでからジェイドを見た。
「よかった……」
「え……なにがでしょう……? 王陛下の性格が香ばしいことが……?」
「ジェイドが、ジェイドのままで……。よかったなって、思ったんだ。ごめんな。……ごめん、ジェイド。顔が見られて、よかった。元気そうで安心した。声が聞けて、嬉しい。ほんとだ。ほんとだからな。……大好き、だよ」
会いたかった、と囁く声が、それでも不安定に震えている。不安そうに胸元に押し当てられた手が、服の布を握りしめていた。リディオさま、と訝しげに呼ぶと、返事までに僅かばかり間があった。すぅ、と息を吸い込んで。一度だけ、目を伏せて。
それからようやくいつものように、すこしはにかんで、リディオはうん、とジェイドに柔らかな笑みを向ける。
「うん。大丈夫。……大丈夫だよ、ジェイド。ごめんな」
「いえ……あの、体調が優れないのでは? というか……ミード様もいらっしゃると聞いたのですが」
室内にいるのは、新王とジェイド、リディオと側近の女の四人ばかりである。廊下にも隣室にも護衛の姿はあるものの、部屋には立ち入らないままだった。もしや飽きて城内でも散歩しているのだろうかと訝しむジェイドに、新王は困った顔をしてなにかを告げかけ。それを遮るように、リディオがちょっと、と声をあげた。
「ラーヴェが落ち着かせに、出ている……。もうそろそろ、戻ってくると思う」
「……なにか、いえ……なにが、ありましたか?」
リディオが、ミードが、という個人ではなく。『花嫁』『花婿』に及ぶなにかが、起きていたのだ。あるいは、今も。だからこそ、それを告げに。『お屋敷』の当主は不調をおしてでも新王に面会する必要があり、それを側近の女も認めたからこそ、ここに姿があるのだろう。うん、とリディオは口ごもって視線をさ迷わせた。
何度も、何度も手を組み替えて、落ち着かない様子ではくはくと口を動かして。何度も、言葉を探して。やがてリディオはそっと、ジェイドを覗き込むようにして囁き告げた。
「……この一週間で、二人枯れた」
「は……え、と。え……?」
「一人も、今日が峠だろうと思う……。助かるかどうかは……」
分からない、と告げるリディオに、殆ど無意識に。ジェイドは、ウィッシュは、と問いかけていた。許されるなら今すぐにでも『お屋敷』に駆け戻っていきたい、とするジェイドを、『お屋敷』の当主はなぜか嬉しそうに眺めてから。だいじょうぶだよ、と柔らかな声で微笑んだ。
「ウィッシュは、助かった。……熱は出たけど、今は落ち着いてる」
「そう、ですか……よかった……」
それでも、今すぐ顔を見て抱き上げたい気持ちが勝る。終わったら帰宅していいですか、と新王に問うと、リディオが困ったように眉を寄せた。ジェイド、あの、と声があがるのと。みぃだってだいじょうぶなんだからぁあああっ、と半泣きのずびずびした声が扉の向こうから響いたのは、同時のことで。思わず笑って脱力したジェイドに、リディオは静かな声で告げる。
「話をしよう、ジェイド。その為に来たんだ。……ミードが来たら、話を」
「……はい」
不安が。リディオの瞳の中にあるその感情が、伝染したようにジェイドにも広がっていく。うまれゆく感情を言葉にする術を持たない。それでもなんとか拾い上げ、声に成そうと苦心している間に、ミードを抱き上げたラーヴェが、ひょいと応接室に現れた。だいじょ、だいじぶ、ああぁううう、と鼻をずびずびすすりながらむずがるミードが、ラーヴェにぎうううっと抱き着いている。
ミードさま、と呼ぶと金の瞳が向けられた。魔術師の祝福、世界に満ちゆく魔力の色彩。妖精を視認する瞳が、ジェイドをまっすぐに、見て。ミードはぎゅっと目をつぶり、でもでもだってみぃはジェイドくんがだいすきすきなんだからぁあああっ、と絶叫した。は、とその唐突さに声をあげるジェイドに、ラーヴェがふんわりと笑みを深めて首を傾げる。
それから、いつものように、ジェイドちょっと後で話がある、と続けられなかったので。ジェイドはハッキリと眉を寄せ、なに、とその違和に問いかけた。目の前に、ジェイドには隠されたものがある。うん、と『お屋敷』の当主は言った。はなしをしよう、と柔らかな声で。覚悟を持った者の声で、囁いた。
ラーヴェと一緒にソファに腰かけたミードは、リディオがなにを言うより早く、まずみぃがじぇいどくんとおはなしするんだからっ、と言い放った。直前まで泣いていたのがありありと分かる、そう告げる今でさえずびずび鼻をすする半泣き声である。新王が物珍しそうに『花嫁』を見守る中、『傍付き』は息を吐き、その背を抱き寄せてとんとん、と叩く。
ずびいいいいっ、と差し出された布で鼻をかんで、多少気を持ち直したのだろう。目を鼻をあかくしながら、ミードはラーヴェの膝上でもちゃもちゃと方向転換をし、気合の十二分に入った面持ちでジェイドのことを見た。
「じぇ、じぇいどくっ……じぇいどくん!」
「はい。……はい、あの、ミードさま……?」
「じぇいどくん、だいすきよ! ほんとなの。あのね、すきなの。とーっても、すっごく、すきなの。だいじなの! わかった? わかったぁ……っ?」
ラーヴェが、なにか不慮の事故でジェイドの肋骨が折れたりしないかな、と思っていることは長年の付き合いでよく分かった。ふわんふわんと甘やかに響く声で心から主張されて、ジェイドは口元を引きつらせそうになるのを全力で堪え、せいいっぱい自然な微笑みでありがとうございます、と受け答えをした。ラーヴェと、決して視線を合わせないよう注意しながら。
それは『花嫁』の、心からの言葉だった。己の『花嫁』でなくとも、差し出されるこころが理解できない『傍付き』など、いないだろう。本当に伝えたいと思って、まっすぐに告げられた、『花嫁』からの告白だった。新王の視線が珍しいものを観察する色を帯びて、『花嫁』と側近を往復する。なんだろうこれ、と真剣に面白がっている顔をしていた。
しかし、当たり前のように、ミードからの説明は一切ない。リディオは妻の言動に対して若干達観したような顔で終わるのを待っていて、特に説明や補足を入れてくれる気配は感じ取れなかった。当主がその態度であり、『花嫁』が説明をしないのであれば、『傍付き』があえて口を開く理由もない。
もういいよね、と囁き問うラーヴェの目が、おもしろくない、と語っている。恋情ではないと分かった上で、それでも。最愛の宝石が誰かにすきすき告げているのを見て、それを受け入れるような寛容さは、どんな『傍付き』であろうと持ち合わせてはいないのだ。
ミードはうぅんと眉を寄せてくてん、と首を傾げ、疑り深い目でじいぃっとジェイドを見つめてくる。
「ジェイドくん? ……だいすき。分かった?」
「はい。……ミードさま。ラーヴェのことは?」
「らーヴぇ?」
きょとん、とした顔で、ぱちくり瞬きをして。一児の母とは決して思えない、あいらしく、いとけないまま完成した『花嫁』は、にこにこと笑う『傍付き』に自信たっぷりに言い放った。
「らーヴぇは、みぃの、すきすきすきすきだぁあーいすきー!」
声の、ふわふわした甘さが桁外れである。ありがとうございますこれでラーヴェの不機嫌がマシになる『傍付き』っていうのはそのあたりちょろい生き物ですからねっ、と内心胸を撫でおろすジェイドに、新王が明らかに面白がる目で、そっと問いかけてくる。
「……どっちと夫婦なんでしたっけ?」
「リディオさまが御当主さま、ミードさまはその奥方さまです」
ただし部屋に戻ってきてから今に至るまで、ミードはラーヴェの腕の中に納まりきったまま、どこへ座りなおされる気配もないのだが。それでも普通なら、王の御前である。ラーヴェもミードを一人で座らせるくらいのことはするのだが、その腕は『花嫁』を抱いたまま開く素振りを見せないままだ。側近の女も、リディオも、それをよしとしている。
『傍付き』が、そうせねばならない、という判断を下したのだろうか。なにかが、いつもとは異なっている。もういいな、と確かめるリディオに、こくんと無言で頷くミードの顔がやや強張っていた。よし、と気合を入れて、すぅ、と深く息を吸い込んで。リディオがジェイドを見る。
新王は『花嫁』『花婿』の愛らしい姿で時間を潰しているように、黙って静かにふたりを見つめ。見守っていた。
「さっきも、言ったけど……陛下にも、お伝えした通り、ですが」
「私のことは、気にしないでいい。申し訳ないね、家族会議に邪魔をして」
「いえ……なら、お言葉に、甘えて……。……だからな、ジェイド。その、さっきも言った、けど……」
苦しそうに、眉を寄せて。何度も、何度も、浅く息を吸い込んで、吐き出して。視線を伏せて、ジェイドを見て。逸らして、それを幾度も繰り返して。ようやく、絞り出すように、リディオはもう一度その言葉を告げた。
「一週間で、ふたり、枯れた。もうひとり、今日にも、そうなるだろう……『花嫁』『花婿』は例外なく体調を崩してる」
「なにが、あったんですか?」
「……ジェイドが一番よく知ってるだろ?」
ふ、と。笑顔しか作れないような笑い方で。すこし、相手を責めるように。憐れむように目を細めて、リディオは王の背に立つジェイドを見た。その、僅かばかりの距離を。手を伸ばしても届かない、親しくあっても近しくはない、その距離を。侵しがたい断絶だとでも、言うように。
「ジェイド」
大好きだ、と告げたその声で。
「魔術師はなにをしたんだ?」
『お屋敷』の当主は、拭えぬ怒りを宿した瞳で、魔術師をまっすぐに見据えた。
「……前王陛下に、魔術師は、なにをしたんだ?」
魂を引き裂くような泣き声が、今も耳の奥にこびりついている。国中に放たれたその魔術が、人々の記憶と心に偽りの言葉を刻み込んだ。ちがうのに、と父を呼び血を吐きながら叫んだ娘の怒りが、首を絞めるように息を苦しくしていく。その言葉が感情を湧き上がらせていく。怒りにも似た判断。魔術師筆頭と補佐が、王陛下を殺害した者であるのだと。
吐き気を堪えるように。口元を手で押さえたジェイドに、リディオはそっと目を細めて囁いた。
「……怖いんだ、ジェイド」
訴えるように。
「よく分からない気持ちが、心の中にずっとあって、誰かに対してずっと怒っていて……誰かのことが、ずっと、ずっと、怖いんだ……。だって、その、誰か、が……魔術師が、前王陛下を、殺した、って……。理由も分からないのに、そう思うんだ……怖い。怖い、怖い。ジェイド。魔術師が、怖い……そう、言って、ずっとそう、言って……!」
まだ『傍付き』さえ持たない『花嫁』の候補がひとり、『花婿』の候補がひとり。恐怖に狂って枯れたのだという。なにかが怖い。誰かに向ける怒りを、ずっと収めることができないでいて。誰かが。誰か、魔術師が、魔術師のことが、怖い。その恐怖は『花嫁』『花婿』が飲み干した毒だ。言葉を話せぬ赤子は延々と泣き叫び、『花嫁』『花婿』は『傍付き』の傍を片時も離れず震え続けた。
『お屋敷』と魔術師の関わりは、浅く、広く、あるいは深い。そこにジェイドが居たからだ。魔術師であると、誰もが知っていたからだ。その心に書き込まれた憎悪の種に、悲鳴をあげたのはミードだった。魔術師、と思えば浮かぶのはジェイドであるから。ジェイドくん、と悲鳴をあげて、否定して、嘘、違う、なんで、嫌、と叫んで。怖い、と身を縮めて震えて泣いた。
魔術師が、怖い。ジェイドくんが、怖い。『お屋敷』の知る魔術師は、ジェイドそのひとであるからこそ。魔術が植え付けた言葉は、感情と共に口に出されるに従って、まっすぐにジェイドの形を成した。だから、こそ、と。当主は震えながら顔をあげ、蒼褪めるジェイドを見て、息を吸い込んで告げる。
「……『お屋敷』に、戻らないで……欲しい。ジェイド、違う。ごめん。会いたいって、顔を見たいって、声を聞いて、話したいって、思うのに……!」
怖いんだ、とリディオは言った。好きだよ、大事だ、家族だって思う。でも、怖い。そんな風に思いたくなんてないのに、どうしてそういう風に思うのかも分からないのに。魔術師という存在が、怖くて怖くて、仕方がない。
「それは、魔術だって……王陛下が仰った。そう、なんだろう……?」
「……はい」
「なら……それが、終わるまでで、いい。『お屋敷』が落ち着くまで……怖い気持ちが、なくなるまでで、いいから……」
戻らないで欲しい、と告げられて。ジェイドは言葉を返せなかった。あの日から数日で、風に煽られた火のように。国の端々に広がった魔術は、魔力を介さないただの言葉によって嵐と化した。その嵐が収まったあとに残るものが、記憶だ。その言葉を発した記憶。その感情が心にあった、記憶。恐怖を感じたという記憶が残るのは、魔術によってでは、ない。
その恐怖が例え、魔術によるものであっても。記憶は残り続ける。そしてそれは、消えることがない。
「……ウィッシュは、泣きましたか……?」
リディオは、一度だけ頷いて。それからゆっくりと、否定の形に首を振った。怖いとは泣いた、だけどでも、すぐに。ぱぱ、ぱぱ、とジェイドを呼んだ。他の者のように、恐怖の正体を作り上げたのでは、なく。
「だっこ、って。泣いた。……助けて欲しかったんだと、思う」
「……そうですか」
「あ、あの、あのっ、ま、まかせて、ね!」
告げられて、ようやく。ずっと怯えられていたのだと、理解する。視線を向けた先で震えながら、泣きそうなのを我慢して忙しなく瞬きをするミードにも、リディオにも。恐らくはラーヴェや、側近の女にも。怖がって、それでも。ちがうの、好きなの、と胸を張ったミードが、ぷるぷると震えながらも言葉を告げた。
「ウィッシュくん、育てるの、ジェイドくんが帰ってくるまで……!」
それが、限界だったのだろう。ジェイドを前にして、怖い、という言葉を零すことなく。それだけは、決してすまい、とくちびるをかたく閉ざしたミードが、ぎゅぅっと目を閉じてラーヴェに身を寄せ直す。ちがう、ちがうの、ちがうんだからぁっ、と言葉を、感情を否定したがって、苦しんで、ミードがふるふると首を振っている。
その葛藤がさらに、『花嫁』の体調を削っていく。リディオも、似た状態ではあるのだろう。焦れたように歯噛みする側近の女が、ずっと緊張しきっているのはその為だった。
「……ジェイド。どこへ」
ふ、と前触れなく部屋の外へ出ようとするジェイドの背に、新王から咎める声がかかる。それに挑むように振り返って。ジェイドはきつく響く言葉で、御前失礼致します、と告げた。
「これ以上は。お許しください……陛下。陛下、許してください、家族なんです」
はっ、と息を飲んで。リディオが視線を向ける。追い縋ろうと立ち上がりかけたのに首を振り、ジェイドは柔らかく微笑んだ。
「ウィッシュを……よろしくお願いします」
「……分かってる」
「リディオさま。ミードさま、ラーヴェ」
さよなら、とは。どうしても言えなかった。
「……行って来ます」
家族。家族だった。帰る場所だった。シュニーが残してくれた、大切な、暖かな。それを、ずっと、大事にしていたかった。早足に部屋から出ていくその背に、ジェイド、といくつもの声が引き留めたがって名を叫ぶ。いってらっしゃい、とぐしゃぐしゃの、引きつった涙声でミードが言った。待ってるから、とリディオが祈るような声で叫んで告げた。
は、は、と笑うように息を零して、ジェイドは廊下を駆けて行く。しんと静まり返った、呼吸のしやすい、いつかと比べれば光に溢れた、人の笑顔とざわめきが、どこか遠くに満ちた城の片隅で。ジェイドは立っていることができず、壁に背を預けて座り込んだ。何度か咳き込み、口元を拳で拭う。
ふんわりと、現れたましろいひかりが、ジェイドの頬に身を寄せてくっついた。それを、抱き寄せるように、指先で触れた。
「……ごめんな、シュニー」
ふるふる、否定するように、ましろいひかりが揺れ動く。ありがとう、と囁いて目を閉じた。眠りたかった。今すぐに。朝が来て、目を覚まさなければいけないのだと、知っていても。
姿が見えないジェイドを探して、シークがやってきて、揺り起こされるまで。夢を見ていた。陽だまりの中に座り込みながら。醒める時が来ないことを祈り続ける、夢を見ていた。
家族がいて、シュニーもいて、笑っている。
辿りつけなかった幸福な未来の、夢だった。
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