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 一本の万年筆だけを持って出たのは、それがシュニーから贈られたものだったからだ。結婚して幾許かした頃。寝静まった夜にそっと灯篭に火を揺らし、終わらない書類に目を通す日が、いくつか続いた後のことだった。ジェイドがそれまで使っていた筆記具を、これはもうだめ、と取り上げたシュニーが、戸惑う手に変わりに握らせたものだった。樫の木で出来ている。
 これで、お仕事の時もわたしのことを忘れないでしょ。ジェイドはうっかりさんの、忘れんぼさんだけど、これならしゅにだって一緒にお仕事をできるでしょ。頬をぷっと膨らませながらも自慢げに告げたシュニーのことを、今も色褪せず思い出すことが出来る。声の響きも。だからこそ、それを手放すことはできなかった。思い出がそこに残っていた。
 後は全て手放した。うつくしい便箋。目を奪うような鮮やかなインク。精緻な模様の描かれた封筒。封蝋、刻印。手紙を出す為の様々なもの。それを揃えたのは言葉を待つシュニーの為で、『お屋敷』で手紙を待つミードとリディオに送る為だった。今はもう、どちらも失われてしまった。手紙を出しても、きっとふたりの元へは届かないだろう。魔術師の言葉など。
 捨ててもいい。できるなら火をつけて燃やすか、もしくは好きなひとに貰って欲しい。そう言って万年筆以外を遠ざけようとしたジェイドに、じゃあ全部ちょうだい、と告げたのはひとりの魔術師だった。会議で筆記役をすることが多い女である。それならば上手に使ってくれるだろう、と譲り渡して、ジェイドは新王に挨拶だけして城を出た。
 一月で戻って来なくても良いようになったので、国の端まで行けるだろう。しばらく戻れないと思います、と戴冠したばかりの主君へ告げた筆頭に、新王は報告書は都度書きなさい食事は日に三回とりなさい睡眠は七時間以上を厳守しなさいとつらつらと保護者のような言葉を小言めいた響きで並べ立て、ごく穏やかな笑みでいってらっしゃい、とジェイドの背を押した。
 戻りたくないのなら、せめて。楽になるようにいきなさい。生きていくことに。呼吸をすることに。辛い、と思わないでいいようにしなさい。もっと休憩させてあげたかったのですが、と新王はジェイドに仕事をさせることに申し訳なさそうな顔をしながらも、走り出そうとすることを止めはしなかった。
 それでも、あなたはもう、わたしの魔術師なのですから、と。付け加えられた言葉が、戻ってくる場所があることを、示していた。帰る場所は失われてしまったけれど。戻る場所なら、まだもうすこし、あるのだと。言い聞かせて、ジェイドは城を後にした。万年筆と、ましろいひかりだけを連れて行く。あとは全て、なにもかも、部屋の中に置き去りにして。
 砂漠の国は息をしていた。ようやく、それを思い出したかのように見えた。薄ぼんやりとした不安が押し流され、行き交う人々は皆、新王への期待と希望をこめて、あれやこれやと噂する。新王の身分は、誰もが知っていた。代行であった時分より隠されていた訳ではない。かつて封殺された王と側女との悲劇を、まだ覚えている者もいた。言葉は面白おかしく、好奇心に満ちて、また時には誠実に囁かれあった。
 とにかく勤勉で民のことを考えてくださる。中央へあげた要望が、まっすぐな矢のように届けられて帰ってくる。隣の都市の流行病に、医師と薬を直々に手配くださったのだという。見掛ける使いの方々、魔術師たちの表情が明るくなった。目を輝かせて、こどものように楽しげに飛び回っている。新王は魔術師を友のように扱われるのだと言う。
 嬉しいだろうよ、と誰かが言った。物ではなくようやく、人として扱われたのであるならば。言葉に、息苦しさがついて回るのはいつものことだった。人々の噂話は暖かくも無責任で、言葉にならない感情で、息をするのが辛くなる。物であることに、どうと感じたことはない。ただ、心ある使われ方としたいと願った。それだけのことだった。
 前王を悪しき様に罵る言葉は殆どなく。処刑された筆頭と補佐へ対する非難も、不思議なくらい耳には触れていかなかった。シークの魔術は、その魔力の影響下を脱しても人の記憶に残るものだ。記憶に刻まれた感情は、生半なことでは消えはしない。それなのに不思議なくらい、訪れる都市、様々な場所で、ジェイドは歓迎を受けた。ただの国の使者のように。
 そのからくりを知ったのは、とある都市で、ジェイドの目の前を見知った妖精が飛びすぎようとしたからだった。ヴェルタ、と呼び止められたジェイドの案内妖精は、愛しい子を目にすると、すこしばつの悪そうな顔をした。そのまま、もそもそとした声で、また今度、と言って飛び去ろうとしたヴェルタを捕まえたのはシュニーである。
 ましろいひかりはジェイドの胸元からぱっと飛び立つと、いつも砂粒の魔力を捕まえている時と同じく、ヴェルタの羽根をはっしと掴んで引っ張った。そのままぐいぐい引っ張ってジェイドの前へやってくると、シュニーはぺっかぺっかと明滅し、ふんぞり返るようにまぁるくなった。ふわふわの毛玉のようにも見える。まるくてふわふわでとてもかわいい。
 ヴェルタは、まだ妖精としての姿を保つことすらできない、幼くやわらかい同胞とジェイドを幾度か交互に見比べて、ほとほと呆れたような、諦めたような顔をして大きく息を吐き出した。見つかっちゃった、と言葉が落とされる。見つかるつもりはなかったんだけど、と続けられた意思によると、妖精たちは魔術師の目を盗み、国中を飛び回る最中であるらしい。
 悪いことはしてないよ、と叱られるこどものような顔をしてヴェルタは言った。くちびるを尖らせてぷいっと顔ごとそむける姿からは説得力が欠けていたが、妖精のまとう淡い祝福のきらめきが、言葉の正しさを証明していた。シュニーは物珍しそうにヴェルタの周囲をふよふよと漂っては、ちかちかぺかかと不思議そうに明滅する。
 シュニーはヴェルタのことがどうにも気になるようで、四枚羽を引っ張ってみたり、腕や顔にふこふことじゃれついてみたりと、ひっきりなしにちょっかいを出した。ヴェルタは慣れた様子で幼い同胞をいなしていたが、あからさまに面白くなさそうな顔をするジェイドに、ふふっと笑いに吹き出した。
 だぁいじょうぶだよ、ちいさいこさん、とヴェルタはシュニーに囁いた。いつかはお前も語る言葉を取り戻し、触れる姿を得ることだろう。ただそれはお前が欠けたものをすべて取り戻した後のこと。人のように、流れる時が成長をもたらすことはないけれど、そのまま、ということもない。羽根は生えるし手足も、体もちゃぁんとできるからね、と囁かれて、ようやく納得したように、シュニーはふわふわとジェイドの元へ戻ってきた。
 満足しきった綿毛のように、まんまるくなって肩の上へ落ち着かれるのにほっと胸を撫で下ろしていると、ヴェルタがそろそろと飛び去ろうとする。悪いことをしていないなら、なにをしているのか教えてから行ってほしい。そう呼び止めたジェイドに、再びばつの悪そうな顔で振り返った妖精は、そこでようやく諦めたのだろう。祝福してる、と視線をそらしたままで教えられた。
 そもそも、妖精は各国の城以外へそう出歩くものではない。欠片の世界の大気が、妖精にとっての毒だからである。すこしばかりであればさしたる影響があるものではないが、長期間ともなれば弱りもするし病にもなる。毒から守る祝福を期間限定で授けられ、案内妖精としての役目は果たせるのだ。
 シュニーがジェイドにくっついていられるのは、魔力の供給を直に受けているからである。空気清浄機を持ち歩いてる状態だと思えばいいよ、という詳しい者たちからの説明には思う所もあったが、実際にはそのとおりなのだろう。新王との接続によって正常に戻り始めた砂漠の国は、それでも妖精にとって生きられない場所であることに変わりない。
 その毒がたとえ、花園で一日休めば問題なく回復してしまえるくらい、弱いものなのだとしても。あえて飲み込み動くだけの理由は、普段であるなら無い筈だった。ジェイドが訝しみ、あるいは咎めるより早く、ヴェルタはだって、と吐き捨てた。このままだと魔術師が排斥されるだろ。でも、お前たちにはなにもできないだろ。それなのに助けも求めてはくれないだろ。
 だったら勝手にやるしかないだろ。それのなにが悪い、さあ言ってみろ、とばかり腕組みをして胸を張る己の案内妖精に、ジェイドは無言で額に手を押し当てた。妖精たちの祝福が成したのは、シークの魔術の緩和、その結果による恐怖心の清浄化だろう。偽りによって書き込まれた恐ろしさに、それを覚えていなくてもいいんだよ、と耳元で優しくささやくような。
 どうして、と問うジェイドに、妖精はいっそ相手を馬鹿にした表情で言い切った。できることが目の前にあるのなら、お前たちだってそれを成すだろう。ちょっと疲れて、大変でも、放置すれば成すすべもなく迫害され排斥されていくと分かっているなら、それを放置するのも忍びない。哀れみだよ、と妖精は言った。砂漠の魔術師、お前たちを哀れんでいる。
 かわいそうに思っている。だから、助けてあげるだけ。分かったら別に感謝とかしなくていい、同情してるだけだから、と腰に手を当てて力説しながらもぷいと顔を背けたヴェルタに、肩の上でシュニーはちかちか明滅した。あまのじゃくさん、いじっぱりさん、いけないさん、とジェイドに言いつける動きに、ヴェルタが耳まで赤く染め上げる。
 ジェイドに、まだ、シュニーの言葉は届かないのだが。ともかくっ、と裏返った声で叫んだヴェルタは、ぎっとましろいひかりを睨み付けた。よけいなことを言うんじゃない、と怒られたシュニーは、しらないもん、とばかりにジェイドの服へ潜り込んでしまった。
 服の中にもぐってぬくぬくするのが、最近のシュニーのお気に入りである。くすぐったいのであまり動かないでいてほしい。しばらく待ってもシュニーが出てこないので諦めたのだろう。ともかくそういうことだから、言いふらしたりしないこと、と告げ、ヴェルタはさっと飛び去ってしまった。
 言いふらすのと書くのは厳密にすれば違う気がするし、と、ジェイドが王への報告書にしたためさせたのは、その日の夜のことである。情報は瞬く間に共有され、ジェイドは行く先々で、顔を赤くした妖精に髪を引っ張られることになった。じぇいどをいじめちゃだめぇえええええっ、とばかり、最近のシュニーはぷうぷうふくれてばかりいる。
 城に、戻ることはなく。砂漠をめぐる旅を続けるジェイドのもとに、それがやってきたのは、出発から半年が経過した頃だった。旅装に身を包み、ジェイドの前に現れたのは前当主の側近の女性。『お屋敷』からの使者だった。



 ジェイドが連れて行かれたのは、『お屋敷』の所有する家だった。それは単に家、あるいは『安息の家』の名で呼ばれる、『お屋敷』の拠点のひとつだ。そこは外部勤務者たちの中継拠点や情報交流に使われる場所で、砂漠の国の大きなオアシスに点在している。
 もちろんそれは各国にもあり、首都にひとつ、大都市にひとつ、中小規模の都市には人口や地域で区切ってまとめてひとつ、作られているものだ。目的は主に情報収集。外部勤務者は各国と『お屋敷』の橋渡しだ。これ、という富豪があれば『花嫁』『花婿』の嫁ぎ先として相応しいかを選定し、その情報を『お屋敷』に流すのである。
 最も重要なのは『旅行』へ行き来する宝石たちの護衛と世話。そして秘密裏に行われる、嫁いだ宝石たちの観察、監視と、有事の救出、救護である。幸せであるなら、それでいい。けれども万一、嫁ぎ先にて害されるようなことがあれば、それを『お屋敷』は決して許さない。外部勤務者。彼らは『お屋敷』が用意した目であり、口であり、耳である。
 外部勤務者と区別して内勤と呼ばれるジェイドは、彼らと顔を合わせる機会が極端に少なかった。正式にシュニーを嫁がせていれば、転属の可能性もあって顔合わせや交流などもあっただろうが、魔術師として多忙を今も極めるジェイドからしてみれば、関係者ではあるものの、ほぼ全員が初対面の相手である。人見知りはしないが、緊張することは確かだった。
 くつろぐことなど、できる筈もなく。客間にぽいと投げ入れられてから、ソファに座って背を正したままでじっとしているジェイドに、茶と菓子を持って戻って来た女性からは呆れ交じりの笑みが向けられる。別に敵地という訳でもないでしょうに、と告げられる言葉はからかいだけに満ちていて、悪意はなく、恐れもなく、そうであるからこそ訝しみが勝った。
「あなたは……」
 魔術師が怖くはないのですか、と。続きを言えもせず口ごもったジェイドに、女は苦笑しながら対面のソファに腰を下ろした。女は手早く茶と菓子を机に並べ、まあいいから食べなさい、と進めてくる。なにかを口にする気には、なれないのだが。ちらりと視線を向けると、小皿には乾燥果物と、飴玉がいくつか転がされていた。
 今日もジェイドの服にもぐっていたましろいひかりが、もそそそそっ、と急いで襟元から顔を覗かせ、ぴょんっと机の上に飛び乗った。見ていると、飴玉の前で忙しなく明滅している。ジェイドはなにを考えた訳ではなく、飴玉を指で持ち上げると、はい、とシュニーに差し出してやった。もふっ、とジェイドの指先が、綿毛のようなひかりで埋まる。
 数秒待ってから指先を引き抜くと、持っていた筈の飴が消えていた。きゃぁあああやったぁあああっ、とばかり、ぴょんこぴょんこ飛び跳ねているのを見る分に、受け渡せたのだろう。ほのぼのと笑みを深めるジェイドに、女からは微笑ましさに満ちた目が向けられた。
「シュニーさまがいらっしゃる?」
「はい。……リディオさまから、お聞きに?」
「行くのなら、一緒だから、とお話くださいました。……そうですか」
 よかった、と告げられた言葉は、意外なくらい喜びに溢れていた。戸惑うジェイドに苦笑して、女は『花嫁』と共にある喜びを私も知っていますから、と告げる。かつて『傍付き』であった女は、さて、と言ってため息をついた。
「その上で……私は、あなたは『お屋敷』に戻らない方がいい、と思っている一人です。先に言っておきますが」
「……はい」
「なにもあなたを排斥しようとしているだとか、悪感情を持っているだとか……嫌いになった訳ではありませんよ。あなたはシルフィールさまのお気に入りでしたから。あえて、あなたを傷つける可能性のある場所に、来なくともいい。そういうことです」
 客間は静かだった。それでいて、話し声と静寂だけで耳が痛くなってしまわないのは、そこかしこにある人々の気配が、やさしく空気を震わせているからだった。部屋の扉は開けられたままになっていて、廊下を行き交う誰かの気配が、零れ落ちては消えていく。『お屋敷』の、どこかの、部屋のようだった。そこへ身を置くのと同じ感覚だった。
 懐かしい場所に。慣れ親しんだ場所に。戻れたようで、ほっとしながら、ジェイドは無垢な気持ちで頷いた。
「分かっています……。今日は、それで、どのような?」
「……そうですね。まずは、これを」
 そう言って女が差し出したのは、一冊の本だった。本、とするよりは、小冊子とする方がいいのかも知れない。表紙と裏表紙には分厚い立派な紙が使われているが、中に綴じられた紙は、なんだかよれているようにも見える。見覚えのないものだった。なんでしょうか、と恐々手に取るジェイドに、女は笑いを堪える顔で中を見れば分かりますよ、と言った。
「中は、きっと見覚えのあるものですよ」
「……はぁ」
 題名も、なにも書かれていない。表紙を開くと、やはり中の紙はぐしゃぐしゃだった。丸めて捨てられた紙を、丁寧に伸ばしたもののように見える。
「……いや、なんですかこれ……?」
「分かりませんか? そうですね……。ラーヴェからです。半分こにしてあげるから大事にするんだよ、とのことで。ほら、めくって、よく見てください」
「いやこれただのくしゃくしゃの紙ですよね……?」
 ラーヴェからなんらかの慈悲を与えられているということだけで、座り心地の悪い気分になってくる。眉を寄せながら紙をそっとめくる。次に綴じられていたのも、やはり、くしゃくしゃの紙だった。丸めた上に濡らしたのか、よれてどうしようもない状態になっている。さらに、もう一枚。めくって、ジェイドは目を瞬かせた。
 くしゃくしゃの紙に描かれた模様には、見覚えがある。花と、植物模様。贅沢に金を使った鮮やかな彩色に、喜ばれた覚えが、あった。シュニーにも、ミードにも。
「便箋……?」
 置いてきたものだった。筆記役の女が、全て引き取った筈のものだった。え、と思わず声を零しながらもう一枚をめくると、酷く乱れた文字で、ジェイドくんへ、と書かれている。それだけを書いた文字列は、水を零したように滲んで、よれて、またくしゃくしゃに丸められた後があった。次の一枚も、また宛名だけで終わっている。
 ミードの文字だった。
「……それはね」
 口元を、手で押さえて。幾度も瞬きをして。声も、感情も堪えようとするジェイドに、女は静かに語って聞かせた。ある日、『お屋敷』を訪れた魔術師が置いて行ったものです。いらないと言われたから、全て引き取ってきました。わたしが貰ったものだから、どうしようと勝手でしょう、こちらでも不要でしたら使うので戻してください。そんな風に言って。
 王からの使者が運び込んできた物だから、まさか勝手に処分する訳にもいかず。中身を確認した後に、当主が呼ばれたのだという。危険なものはありませんが、どういたしますか。そんな風に尋ねられて。リディオは持ち上げられはしない重さの、けれども抱えきれてはしまう箱を抱いて泣いたのだという。ジェイドの名を呼んで、泣いたのだと。
 騒ぎを聞きつけてやって来たミードも、中身を見て悲鳴をあげて泣き出した。じぇいどくんに捨てられちゃった、こわいこわいが我慢できなかったから、おいてかれちゃった。もうお手紙、こない。どうしよう、どうしよう、と震えて、混乱して、ラーヴェがどう宥めようと、慰めようと、当主夫婦はジェイドを呼んで泣き続けた。
 そして、インクのひと瓶、便箋の一枚たりとも、城には返還されず。その日から、ミードは手紙を書こうとしたのだという。ごめんなさいって、いう。怖くて、ごめんなさい。大好きよって、いう。何回でも、ちゃんと、いう。それで、お手紙してねって、お願いする。いなくならないでって、いう。わがままでごめんなさいって、それで、それで。
 泣いて、泣いて。ジェイドに捨てられてしまったのだという、魔術師を怖いと思うその感情を遥かに凌駕する絶望的な想いに、全身を震わせて。それでいて、魔術師に対する恐怖を拭い去れもせず。体調を崩し、熱を出し、咳き込みながら、何度も何度も諦めず、ミードは机に便箋を広げて、そこになにかを書こうとした。
 恐怖で思考が白く塗りつぶされ、何度も、何度も、書こうとしては書けなくて、そのたびに便箋を駄目にして。ようやく名を書けるようになっても、言葉が奪われて。幾度も、幾度も、泣きながら、恐怖と向き合い、その先へ行ってしまったジェイドに、すがるように、ミードは手紙を書こうとした。なんて言ったらいいのかわからなくなっちゃった、と泣きながら。
 半年、かけて。出された手紙がこちらです、と女が差し出したのは、二つ折りにされた便箋だった。
「それは、半年分のミードさまの頑張りの記録。こちらが、半年分の、ミードさまの頑張りの結果。どうぞ」
「……あなたは、俺が怖くないんですか?」
「そういえば、あなたが私の腰くらいの身長だった頃には、まだ隠れてびーびー泣いていたこともあったな、というのを思い出したら。別にそれほどでもなくなりました」
 隠れて泣いた記憶はあるが、びーびー泣いたことはない。筈である。そうですか、と遠い目をしながら便箋を受け取ったジェイドに、女は口元に手をあてて、冗談ですよ、と笑った。
「上の世代はだいぶ落ち着きました。恐怖を感じたこともありましたが……」
「……時間と共に楽になるものではある、と」
「そうですね。そう説明も受けましたが、それ以上に……ジェイド、私たちは、そんなことよりも深い怒りや、悲しみや、恐怖を覚えて、知っていた。自分の感情の本物と、偽物の区別くらいは、つけられますよ」
 年若い者や、やわらかで無垢な宝石の方々は難しいでしょうが、と女は苦笑する。だいたいからして『傍付き』の訓練課程には、洗脳への耐性や精神汚染、薬物への耐性をつける訓練というのも存在している。あなたもさわりくらいはした筈でしょうと窘められて、ジェイドは遠い目をして頷いた。ありがたく思えばいいのか、空恐ろしさを感じればいいのか、ちょっと気持ちの持っていく場所に混乱する。
 ラーヴェが殺気立っていたのはミードの恐怖があった為であり、送り出す前の『花嫁』『花婿』を持つ世代は、未だにそうであるのだ、と女は言った。けれども、まことを知り、それを受け入れ、落ち着けぬ程には、誰も彼もが弱い訳ではないのだと。まあ、完全に落ち着くまでは近寄らないでください、というのが本音ではありますが、と言って。
 女は、ジェイドに手紙を読むよう促した。たった一枚、紙を折っただけのそれを。半年かけてようやく、届けられたミードの心を。そっと、開く。書かれていたのは、たったの二行だった。一行目の文字は、やはりぶるぶる震えている。しかし、なんとか読み取れた。ジェイドくんへ。
「……文通してください」
「返事を持って帰りますから、渡してください」
 週に一度、なんて言いません。一月、二月に一度、一往復。まずはそれくらいからで十分です。だからね、言葉をください。どうか、途切れさせないで。途絶えさせないで。遠くで、幸せでいて、なんて、祈らずに。もうすこしだけ、心の傍に、置いてください。お互いに。お手伝いしますから。
 しばらく、言葉を返せなかった。声が出せなかった。どんな言葉を告げればいいのか、分からなかった。シュニーがふわ、と浮かび上がって、ジェイドの指先にすり寄ってくる。いいのよ、と囁くようだった。好きにして、いいの。遠ざけても、逃げても、拒否しても、いいの。繋いでも、離さないでも。息をして、楽にして、そういう風にしてもいいの。
 ふ、と肩から力を抜いて、ジェイドは伏せていた顔をあげる。
「しばらく、時間をください」
「……分かりました」
「インクも、便箋も、置いてきたので。買わないと」
 文通するなら、また、必要でしょう、と。苦笑するジェイドに、女は誠実な態度で背を正し、頭を下げて。ありがとうございます、と言った。



 だから最近は文通してる、と自慢する口調で告げられて、新王は遠慮なく声をあげて笑った。『お屋敷』の当主はどうして笑われるのかも分からず、むむっとくちびるを尖らせ、首を傾げて瞬きをした。
「陛下はもしかして笑い上戸なのでは……?」
「いえ、そんなことはありませんよ。楽しそうでなによりです」
 なにせジェイドときたら一時は本当に拗ねてこじらせて、私への報告書も口頭で誰かに代筆させていたくらいですからね、と告げられて、リディオはさらにむむっとくちびるを尖らせた。別に、そんな風にさせるつもりはなかったのだが。ジェイドが『お屋敷』に手紙を書く、ついでに報告書も仕上げて出す、という風にしていたから、であって。
 でも、それでもちゃんと報告をしてくるから、偉いと思う、とたどたどしく擁護したリディオに、新王はまた声をあげて爆笑した。涙さえ滲ませて、指先で拭っている。リディオは不満いっぱいの顔で、護衛に控える新王の側近に視線を向けた。やはり、ちょっと笑い上戸なのではないのだろうか、この王は。
 どうなんだ、と問いただす眼差しに年若い側近はすいと視線を逸らして沈黙した。半笑いの横顔。リディオはまだ笑っている王にすすっとばかり視線を戻すと、これ見よがしにため息をついて進言する。
「そんなに笑うのはよくない、と思います」
「おや。怒られました」
 怒られている、というのが分かるのだから、そんなに嬉しそうにするのはやめて欲しい。『花婿』に叱られる者というのは、だいたいがそんな反応であるにせよ。いいですか、怒っているんですよ、と言い聞かせても、にこにこと笑みが深めて頷かれるだけだった。かわいいな、とその顔に書いてある。
 やはりもうすこし、その、威厳、というのを持ったりしなければいけない気がする。リディオは拗ねた気持ちでくちびるを尖らせ、かけ、口に力を入れてきゅぅと引き結んだ。その仕草さえ、人の目と心を和ませる。どうですかうちの御当主さまは最高でしょう、分かったら予算を多めに割り振ったりしていいんですよ、という顔をして、側近の女は自慢げな顔をしている。
 帰ったらミードと、威厳、について相談しようと心に決めながら、リディオはようやく笑いを収め、呼吸を整えている新王へ視線をやった。その言葉をあてはめるには、相応しいひとだ、と思う。また楽しそうに笑われるのが目に見えているので、教えを乞おうとは思わないが、今や砂漠の城の誰も彼もが心から、この青年に頭を下げて我が君と呼んでいる。
 ふ、と気が付けば、リディオは王の名を知らないことに気が付いた。それはごく丁寧に違和感ごと隠蔽されているようであり、代行時代を考えても、誰もその名を呼ぶ者がいないのだった。さびしくは、ないのだろうか。それは役目の上に立つということで、個人の存在を、仮面や名札の裏側に押し込めてしまうことだ。
 リディオには名を呼ぶ者が多くいる。前当主の最後の願い故だろうか。いつしかリディオは当主だけでなく、その個を表す名でもって呼ばれることが多くなった。軽んじられていると思ったことはない。ただ、呼ばれるたびに、己がそこへいることを確かめられている気持ちになる。当主、ではなくて。リディオが、そこで、息をしている。
 王の名を呼ぶことは不敬だろうか。さりとて、『お屋敷』の当主が親しみを持ってそうしたいと願うなら、さほどおかしいことではなく。許されてもいいように思えた。リディオは、これでも、新王が代行であった時から、青年に親しみを感じてはいるのだ。性格的に多少合わないことがあると、感じることがあっても。その親しみは失われるものではなく、また、青年が同じように感じていてくれることも分かっていた。
 そしてそれは、ふたりの魔術師の処刑を経て、さらに強い共感となった。大切なひとを、失ってしまった。それでも与えられた役目が、前進と呼吸を義務とする。それを己の意思でも、受け入れた。けれども無性にさびしくて、かなしくて、つらい。やりきれない。拭いきれない感情が、心にはずっと置かれている。共感で、理解だった。
 内緒の話をしなくてはいけないから、と新王がしぶる護衛を隣室と廊下に追いやったのを見届けて、リディオはそれを口にしようと息を吸い込んだ。なんと問おうとしたのかは分からない。ただ、名を聞こうとした。それは確かなことだった。しかしなにかを察して向けられた新王の目は、笑いながらそれを咎め、言葉をひとつも許さないでいた。
 悪戯っぽく笑ったまま、王は唇に指を押し当て、穏やかに首を振る。
「いいんですよ。……私は、どうも、あなたほど強くない」
 役目に縛られ続けなければ、この場所に立ち続ける自信がない。個人は共に葬った。静かな声で囁き落とし、新王はさて、と気を取り直した呟きで微笑んだ。その表情に、やはり共感を持って理解する。感情はゆるやかに摩耗する。笑うのが一番楽なのだ。
「まず……『お屋敷』の状態が落ち着いたようでなによりです。持ちこたえて下さったことにも、感謝します」
 結局、枯れた『花嫁』『花婿』は三人に留まった。ジェイドを見送った後で『お屋敷』に戻ったリディオとミードが、医務局に直行し、そこへ勤める者に懇願したからだ。ジェイドじゃない。ジェイドは大丈夫。こわいけど、こわくない。だから。お願いだから、助けて。これ以上失わせないで。
 尽力します、とすぐ言ってくれたのは、前当主の側近の女だった。『花嫁』『花婿』をうしなう想いがどれほどのものか。私たちはよく知っている。それがどうしようもない運命ならともかく、明確な原因があってのことなら、その怒りや憎しみは理解できる。それでも、彼がそうしようと思って成したことではないのだということも、理解している。
 医務局に勤めるありとあらゆる者たちが、力を尽くした半年だった。恐怖は失われないでそこにあった。紙に染み込んでしまったインクのように。消えなかった。だから、そのインクを塗りつぶしてしまうように。日々を過ごした。怯える『花嫁』の傍には、これまで以上に常に『傍付き』があるように。怖いと訴えられるたび、抱き上げて宥めて、物語をその耳に囁き続けた。
 飲み込む水には気持ちを穏やかにする薬草を溶かし込み、循環する空気にも香りをつけて巡らせた。悪化を食い止めるのに、二ヵ月。安定させるのに、一月。回復させるのに、三ヵ月。そして今、ようやく、『お屋敷』は安定した状態に戻りつつある。かつて、ジェイドが帰って来てくれていた頃のような。
 それでも。失われた者が、戻る筈はなく。『傍付き』にも、候補にも。『花嫁』にも『花婿』にも、運営や、『お屋敷』で働く者たちの中にも、ジェイドに対する怒りと恐怖は残されたままだった。
「……予定通りにできそうですか?」
「なんとか……。来月には、ひとり」
「そうですか。では、それまでに……私も、贈る言葉を覚えておかなければ」
 嫁いでいく『花嫁』『花婿』を送り出すのも、王の役目だ。溜息をついて、視線を逸らして、王は当主へ問いかけた。
「予定を……早めることはできますか?」
「来月の?」
「いえ……これから、ずっと」
 この国の状態はお話した通りです、と呟く王に、リディオはゆっくりと頷いた。砂漠の国は『お屋敷』同様、落ち着いた、かのように見える。けれども壊死した末端がよみがえることはなく、今はまだ視線の先に見える希望に、誰もが目を奪われているだけなのだ。前当主の時代からの、『お屋敷』のお金の無さも解消された訳ではない。
 ミードが留まり、三人が枯れた。その意味を誰より、当主は知っている。ふ、となにかを緩めるように。リディオは微笑んだ。新王と、同じように。
「……ずっと、って。どれくらいの間のこと?」
「五年か、八年……いえ、十年か、十五年か……。王子が即位されるまで」
「……足りない?」
 新王はまっすぐに『お屋敷』の当主を見て、迷わず、はい、と答えた。足りない。この国へ巡る血液と呼吸が。生きていく為の金銭が。ひとを、ひととして生かしていくだけの力が。枯渇し、死に絶え、そこから回復し、蘇っていくだけのなにもかもが。そっか、とリディオは呟いた。考えれば当たり前のこと。
 『お屋敷』にそれがないのだから、共に生き行く国に、それが潤滑である筈がない。それを稼いでいく為に『花嫁』『花婿』は嫁いでいく。それなのに三人も、いなくなってしまった。今、これから、育ちゆく花たちの数を新王には渡してある。オーダーの調整と、正確な把握の為に。これで足りるかを、当主は問いかけた。
 間に合わせましょう、と王が応える。足りる、とは、言わなかった。そっか、とリディオは微笑んだ。十年、十五年。その時の長さを考える。幼い王が即位できるだけの時間を、保たせるだけの長さのことを、考える。その、永遠のような時の長さ。その先に、その果てに。あるものを、感じられるものを。それでも、確かに、希望と呼べる。
「育成を急ぐことはできる。嫁ぐ時期を早めることも……第一条件に、適正ではなく、財貨を掲げることも、できる」
 それは、きっと、花の寿命を縮める行為だ。分かっている。嫁いだ先で、花がしあわせに咲くことはできないだろう。分かっている。恋しさに胸がつぶれて泣くだろう。分かっている。それでも、元より、そうしようとは思っていたことだ。そうしなければいけない、とは、分かっていたことだ。ほんのすこし加速するだけ。ほんのすこし、罪が増えるだけ。恨みが重なってしまうだけ。
 ジェイドのように。戻ってくる花の末が、長く表れないことを。それでも、当主を継いで生きていくと決めた時に。ミードを歪めてでも手元に置くと決めた時に。産まれてくる者に、次の当主への希望も、祈りも、全て託して。『お屋敷』を、この国を、ただただ、次へ繋げて行く為に生きていくと、決めた時に。もう覚悟していたことだった。
 当主は、ただ、柔らかな笑みでもって囁く。
「けど……そうして嫁いでいく者は、決して幸せにはなれないだろう。必ず、不幸になる訳ではない。すぐ枯れてしまう訳でもない。でも、使い捨てに近い。それを……それを理解しておられますか」
「……命令するのは私です。受け入れるあなたに罪はない」
 罪、など。当主と呼ばれたその時から負っている。目の前の青年が、王として即位した時と同じように。罪なら、とリディオは胸に両手を押し当てた。息をしている、それだけで。今も生きている、そのことを、本当は誰にも許されたくないのだと。交わす視線の間に、二人はそれを理解し、共感し、分かち合った。
 震えもしない、穏やかな声でリディオは告げる。それでもきっと、この先に、この次に、あるものを希望だと呼べる。そこへ辿りつく為になら、辿りつかせて渡す為になら、きっともう、どんなことだって。どんな罪だって。飲み込んで歩いて行ける。大切なものを、次の世代に渡そう。大切にしたかったものを。大切にはできないままで。
「……ああ、手紙で……よかったのかも知れないな」
 そこには、幸福だけを選んで記すことができる。優しい想いだけを、渡したい心だけを。ジェイド、と目を伏せて、リディオはもう笑い合うことは望めないであろう家族に囁いた。きっとこれを知れば、ジェイドはひどく怒るだろう。『傍付き』なら誰でも、当主のことを許さないに違いない。『花嫁』『花婿』はきっと、幸せになれない。それを知っていて送り出す。ただ、誰かを救う金銭と引き換えにする為に。
 一刻も早く枯れてしまえ、と祈って、願って、送り出す。幸せな記憶が薄れてしまう前に、大切なひとが己を呼ぶ声を、耳の奥から消してしまう前に。それでいい。長く頑張らなくていい。ひとときの潤いと、引き換えになってくれるだけでいい。『傍付き』が願う幸福など、どこにもないことを知っている。
 リディオのしあわせの全てが、あの瞬間に死に絶えたように。当主は王に、咲き誇る花のように微笑んだ。十五年、この国を、保たせて見せましょう。この地獄の先に希望があると信じて。ふふ、とリディオは幸福な思い出を蘇らせるように目を閉じて微笑んだ。胸に手を押し当てる。手紙には書くまい。そしてもう二度と、心から、リディオが告げられる時も来ないだろうけど。
「ジェイド……」
 嫌ってくれてよかったんだ、と強く目を閉じて囁く。好きでいてくれなければ、こんなに、好きになることはなかった。大切に思うこともなかった。嫌いでいて欲しかった。好きから、嫌いになられるくらいなら。ああ、それでも、と呟く。それでも、本当に好きだったよ。大切だったよ。大事だったよ。
「……さよなら、だ」
 ずっと、ずっと、そうしていたかった、と思いながら。当主は穏やかに微笑んだ。大切なものを全て、箱にしまいこんで。目の届かない場所に、置き去りにするように。

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