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 魔術師たちは、今日も国中を飛び回る。風のように人の言葉を拾い上げては、城へと戻る。陽のように暗闇を照らし出しては、そこにあるものを詳らかに。希望、不満、幸い、不安、起きていること、起きそうなこと、予測ができること、予想できなかったこと。弱っている所、まだ息が続く所。救いの手を伸ばす為に必要な、生きた情報を持ち帰る。
 山と積まれる報告書に、その陰りが見え始めたのは新王が即位して一年が経過した頃だった。よくぞ一年の後まで、と感嘆したように新王は息を吐き出し、魔術師や、中枢に関わる者たちの動揺を、その一言で鎮めてみせた。壊死し始めていたのは誰もが分かっていたことでしょう。その結果に追いつかれたのだ、と王は告げた。
 例えば、作物の実り。数年に渡る悪天候と不作により、収穫はかくも乏しく、携わる者たちの生活を苦しいものにした。例えば、病気や、怪我の多さ。医師の多忙と過労、薬の慢性的な不足を招き、衛生状態がじりじりと悪化していく。例えば、それらによる人々の死や、貧しさ。孤児の数が増えていく。救貧院や孤児院にも、限界が見え始めている。
 なにもかもが足りない。最優先すべきは全てだった。ここからですよ、と新王は囁いた。希望によって顔をあげた後の、この停滞、この苦しさを、どう乗り越えていくか。ここからの動きで国の先が決まる。蘇るまで。ふたたび、かつて得た富を誰もが手の中へ取り戻した、と思えるようになるまで。落ち込んでいる暇も、立ち止まるだけの余裕も、ない。
 どうぞご安心くださいな、と笑って、その日ひとりの『花嫁』が嫁いで行った。永遠の恋との別離に泣き腫らした目をしながらも。それでも己の役目に誇り高い顔をして、『花嫁』は王の手を包み込むようにしてこう囁いた。王様、どうかそんな顔をなさらないで。私は心からの祈り、心からの願いとしてこの言葉、祝福を残して行くのです。
 私と引き換えに、この国にもたらされる恵みが、どうか。人の喉を潤す水に、寒さから救う火に、空腹を満たすものになりますよう。そして我らが王よ、あなたの。治世を照らすひかりになりますように。どうか私を哀れまないで。どうか御自分を責めないで。あなたさまも、御当主さまのくるしみも、連れて行くことができればいいのに。
 こうなることは分かっていました、とすこしばかりなにかを諦めた顔で微笑して、『花婿』がひとり嫁いで行った。十五になり、十六になる間際まで『お屋敷』に留まり、体力の限界まで『旅行』を繰り返した『花婿』だった。不満はありません。そういう風に使われる為に生まれた。大切に慈しまれ、愛された。
 ただもうすこし、あとほんのすこしだけ、呼吸のひとつでもいい、瞬きの一度でもいいから、長く、あのひとの傍にいたかった。その願いをずっと抱き続けてしまった。心をひとかけら、『お屋敷』へ置いて行くことをお許しください。あのひとが、これからも生きる、この砂漠に。恵みと幸いがありますよう。そして、しあわせになってください。あなたも。
 次の『花婿』は、まだいかにも幼かった。十三になったばかりだという。『旅行』も、たったの二回。その二回目で見染められた。どうしても、と望む声と示された多額の金銭に、『お屋敷』の当主の決断が下された。売った。まさしく売ったのだ、と不穏な噂が流れる程。まだあどけなさを残す顔で、『花婿』はそっと王の耳に囁いた。
 どうか悪い言葉に惑わされませぬよう。疑いから意味もない悪意は生まれてしまうもの。それを正しく振り払う目を、意思を、言葉を、どうぞお持ちください。大丈夫。僕は、僕の意思で、この国の外へ行くのです。僕よりちいさな女の子が、あの大きなお屋敷で、ひとりで泣いていた。ともだちになる、と約束しました。
 こんなに早く、こんな風に呼ばれてしまうとは、思わなかったけれど。困らせてしまってごめんなさい。御当主さまも、たくさん、手は打ってくださいました。それでも、きっと駄目だった。なにかが上手くいかなかったのだと思います。そしてこれ以上は、この国にもよくないのだと仰った。
 たくさん、財貨を持ち帰ってこられずに、申し訳ありません。でもきっと、たくさん送ることができると思います。どうか僕の生が、砂漠に降る雨のよう、あらゆる恵みとなりますように。かなしい想いをする人へ届きますように。穏やかに。『花婿』は大丈夫です、と繰り返して笑いながら嫁いで行った。
 花が生きる限り、迎え入れた家は一年に一度、砂漠に税を納める義務を負う。それをできるだけ長く引き伸ばして見せる、とそう告げて。それが届く限りに、どうか、おやさしい陛下。思い出してください、と『花嫁』は、『花婿』は最後に告げて旅立った。ここへいたことを、ここで幸せだったことを。幸せになりに行ったことを。忘れないでいて。
 陰りが見えた、一年から、さらに半年。その半年で、三人の『花嫁』『花婿』が立て続けに嫁いで行った。過去に類を見ないことだった。通常、ひとりの『花嫁』が嫁ぐのに、準備を含めてどんなに急いでも三ヵ月はかかる。決定してから情報を交わし合い、打ち合わせを重ね、吉日を選んでそう、と定めてから。花嫁衣裳を仕立てるのである。
 様々な職人が『お屋敷』に呼び集められる。服飾にまつわる職人。裁断、縫製、仕立て、刺繍、彩色や装飾。装飾品の商人や技術者。革職人。その世話をする者や、進行を管理する者。多額の報酬が与えられ、それを持って職人たちは各都市へ凱旋して行くのだ。その誇りと報酬は、希望と生きる糧となる。
 送り出すごとに、通りには祝いの市が立つ。幼子は小銭を握りしめ、大人たちは連れ立って外へ出る。様々な場所で循環が始まる。血液のように金銭が国を巡り始め、届かない場所には『花嫁』『花婿』の恵みが届けられていく。国の端で、ジェイドが眉を寄せたのはその頃のことだった。国が復興し始めているのを肌で感じる。しかし違和感があった。
 宝石の嫁いで行く間隔に決まりはない。それでいて、暗黙の了解として、どんなに早くとも半年にひとり。すこし早まることも、遅くなることもあったが、一年に二人以上が嫁ぐというのは異例である。それは『花嫁』『花婿』の質を保つ為であり、諸国に対する価値を保つ為であり、携わる職人たちの習熟の為であり、『お屋敷』の運営の為でもあった。
 その年頃になった宝石を持つ『傍付き』や世話役たちが、そっと心の準備を始める為の期間だった。そうしてようやく、別れを飲み込む。幸せになるよ、と告げて送り出す。残る『傍付き』がこれからも、健全に、この砂漠の国で生きていく為に。次の世代へ続けていく為に、『お屋敷』はずっとそうしてきた筈だった。
 なにかがおかしい、と確信したのは、三人目から半年もせず、四人目の『花婿』が嫁ぐ祝いの鐘が、国中に鳴り響いてからである。さすがに早いと訝しみ、眉を寄せる者は市井にもいた。新王陛下は、そして『お屋敷』の御当主さまは、なにを考えていらっしゃるのか。どういうおつもりなのか、と憤り不安がる声をいくつも目にしながら、ジェイドはミードとリディオに宛てた手紙で、それぞれに理由と内情を問うた。
 なにか困っていることはないか。おかしいと思うことはないか。ジェイドの手紙は、今や身内のものではなく、外からのものとして取り扱われている。検閲があるのは知っていた。遠回しに聞くことしかできないもどかしさに歯噛みしながら、返事を待ち。ミードから戻って来たそれは、殆どが塗りつぶされ、リディオからの返事は、届かなかった。
 一月、二月。安息の家に通える都市に留まりながら、ジェイドはリディオからの返事を待ち続けた。例え黒塗りされきった言葉であっても、なにかが届くのであれば、それを待ちたかった。やがて、ジェイドの元にもう一通、なにかを追うように『お屋敷』から手紙が届けられる。差出人は、リディオではなかった。
 ラーヴェから届けられた紙片には、ただ、一言。信じて待て、と書かれていた。返事が来ることを、であるのか。それとも『お屋敷』の所業に対することであるのか。それから読み取ることはできなかった。信じるのは、なんだろう。待つのは、どれくらいの期間のことなのか。リディオが。どんな風に過ごしているのか、知る手立てはなく。
 鐘の音が鳴る。五人目を送り出す祝福の鐘が、国中に響き渡る。安息の家に届く手紙はないままだった。息が、苦しいような気持ちで。ジェイドは国の端から城へと向かった。
「……どういうことですか?」
 報告書を机の上に叩きつけるように提出し、久方ぶりの主君に対して響かせた、ジェイドの第一声がそれだった。新王は言葉を予想していたようにも見える顔つきで眉を寄せ、ゆっくりと、嘆かわしげに息を吐く。
「だいたい二年ぶりに帰ってきたと思ったら……まず言うことがあるでしょう? ジェイド」
 それでもこれを仕上げて持ってくるのが、あなたの真面目で素直でかわいい所です、と冊子状にされた報告書を手にとって目を通し始める王に。ジェイドは思い切り眉を寄せて、いらいらしながら言い放った。
「あぁああもう……ただいま戻りました!」
「……はい。お帰りなさい」
 くすくす、肩を震わせながら、文官が書類を抱えて王の執務室を後にしていく。言うことって求められて、思いつくのがそれなんだ、と。好意的な囁きが、空気をふわりと震わせて溶けていく。顔を真っ赤にして震えるジェイドに、新王は口元に手を押し当て、品よく、ゆったりと笑みを深めてみせた。
「あなたのそういう、真面目で素直でかわいい所を気に入っています」
「ありがとうございます陛下忠誠を捧げた範囲として嬉しく思いますところで質問していいですか」
「どうぞ?」
 年下の親戚を可愛がるような笑顔を向けてくるのをやめて欲しい。正真正銘、ジェイドと王の間に血縁関係はないのであるし。追い詰められているより、王に余裕があるのはいいこと、と心の中で十五回繰り返してなんとか気持ちを宥め、ジェイドは額に手を押し当てて、深く息を吐き出した。
「『お屋敷』との間に、なにがあったんですか……」
「それはもう。裏取引とか密約とか、山のようにありますよ。そういうことではない?」
「陛下、分かってらっしゃるでしょう。宝石の方々の嫁ぐ間隔について、です。……早すぎる」
 五人目は『花嫁』だった。まだ、十二になったばかりだと聞く。教育すら満足に終わっていないであろう幼子が、納得して『傍付き』への恋を置いて行ったとは、到底思えなかった。そうですね、と新王はジェイドの懸念を肯定し、その上で、座っていた椅子から立ち上がる。
「こちらにもやむを得ぬ事情がありました。説明しましょう。ついてきなさい」
「……どこへ?」
「資料保管庫へ。説明するより、記述を読ませる方があなたには分かるでしょう。魔術師に筆記させました」
 陛下そういうものは自ら出向かず持って来させてください、とジェイドが小言を告げるより早く。執務室の扉の前まですでに歩いていた青年は、眉を寄せた顔つきで振り返り、告げる。
「荒療治でしたが、いくら忙しくしていたとは言え、あなたまでその情報が伝わっていないのであれば……そのことが、あなたの疑問の答えです」
「……なんの、ことですか?」
「寵妃さまが、自死されました」
 二ヵ月前のことでした。死を告げる王の声はつめたく。悲しみより、未だ落ち着かぬ怒りを抱えていることを、示していた。



 日々国中を飛び回っているとはいえ、城に常駐する魔術師がいないわけではない。そうであるから、新王と廊下を歩けばすぐに発見されたジェイドは、えっ嘘ほんとだジェイドだわーいうちの筆頭が帰ってきたーっ、シークよかったねお兄ちゃん帰ってきたよ、誰が誰のなんだって、という騒がしい声と人々に、遠慮なくわらわらと取り囲まれた。
「わー、すごーい。ジェイドが城にいるー……えっ違和感がある……どうしたのジェイドおうちが恋しくなったの……? そうだよね……」
「勝手に誤解して勝手にしんみりするのやめてもらっていいですか」
「陛下。ジェイド、どうしたんですか? 最近は家に帰ってないみたいだし……」
 本人を目の前にして陛下に聞くのやめてもらっていいですか、とげんなりした声で求めるも、魔術師たちは笑顔でそれを聞き流した。視線は親しく恭しく新たなる主君に向けられていて、それなのにどこか、解けない緊張が見て取れた。魔術師の視線が新王を観察している。肌の色艶、瞳の充血、目の下の隈の有無、指先まで温かな血が通っているかどうか。呼吸の乱れ、些細な仕草。不調を隠されていないか。本当に両の足で立つ好調さが、そこに留まっているのかどうか。
 それは『花嫁』につけられたばかりの、新任の世話役たちの視線と必死さを思わせた。ジェイドは思わず眉を寄せて新王の横顔を見つめる。魔術師たちの視線を平然と受け流しているただ中であるのに、新王はジェイドの視線だけを選んで見つめ返し、素知らぬ顔でなにか、と微笑んでさえみせた。
 なにを不安に思われているか知っていて、言葉にされないのをいいことに、受け止めないでいる態度が気に入らない。反射的に声を荒げてなにかを言いかけたジェイドの腕を、無言で強く引く魔術師がいた。シークだった。ひさしぶり、と告げる言葉は、強い意志を宿した勿忘草の瞳に葬られる。すぅ、とシークが息を吸い込んだ。
 それは、喉を震わせ声を発するのが久しぶりなのだとするような。どこか準備運動めいた、覚悟のこもった、ぎこちない呼吸だった。
「……陛下の体調は、悪くない?」
「そのように見える、けど……陛下、ちょっと」
「主君を指先で呼びつけるなど、あなただけですよ? 不敬者」
 陽に溶ける蜜のような甘やかした声で囁いておいて、なにが不敬だとするものか。はいはいそうですね、申し訳ありません、と雑に謝罪を響かせて、ジェイドは触れますよ、と言って王に手を伸ばした。頬に手をあて、首筋に滑らせて脈と熱を測る。耳の後ろ、額と順番に手を押し当てて行くのは『傍付き』のやり方だ。誰かに、そういう風に、ほんとうにひさしぶりに触れた。
 おぼろげな不安と、慈しみ、祈るような気持ちで手と指が相手の輪郭を捉える。ああ、とジェイドは思わず息を吐き出した。この存在を喪えない。
「……今の所は特に、不調を隠されているようには。不在の間に、倒れでもしましたか?」
「倒れてはいないよ。先程言ったように、まあ色々事件が起こって……過敏になっているだけ、だと、私は思っています。そうだね?」
「はいと頷けるね、みたいな顔で圧をかけないでください。……ああ、もう、分かりました。あとで皆に聞きますからね!」
 新王たるその人が、己の心身に価値を見出していないことを知っていた。今や一国の王であるから、相応のものである、という意識はあるだろう。大事にしなくては、と思ってはいるだろう。けれども己の意思を前にして心身の傷と痛みを振り捨てて走って行ってしまう人であることを、魔術師たちも、ジェイドも、シークも、見知って知っていた。
 やっぱり不在がちでもうちの筆頭頼りになる、そのまま陛下に手綱つけてなんやかんやして欲しいよろしくお願いします、という魔術師たちの視線に、深く溜息を付きながら。ジェイドは腕に指をひっかけたまま傍らで離れないでいるシークに、言葉にならない気持ちで視線を向けた。訝しむ、とも、不思議がる、とも、違う。諦念に似ていた。
 そこに、完成してしまった傷があった。『宝石』たちが、『傍付き』が、相応しい形に削られ磨かれ整えられていくように。傷跡が晒されたまま。時を止めて完成してしまった姿が、そこにはあった。なにがあったの、という問いは喉の奥で静かな笑い声になる。なにもかもがあった。感情が擦り切れ心が裂かれる、なにもかもがあった。見て来た。ジェイドも。シークも。
 二年、離れていた。その間もずっと、ジェイドの傍にはシュニーがいて。シークの傍には、いなかった。魔術師に取って王は得るものだ。同僚は仲間で、分かち合う者で、そうであるから寄り添うには至らない。やさしく触れて、冷えたものを温めるなにものをも、持たないままで。傷を癒すことも、痛みを隠すこともできないまま。シークは完成してしまった。
 ひび割れた悲鳴が木霊したままの瞳に、ふ、と笑みのようなものがよぎる。なに、ジェイド。言葉を、告げようとして。言葉が、届くだろうか、と思う。まだ届くだろうか。これからでも、響くだろうか。伝わるだろうか。大切に思っていることが。ジェイドはそっと手を伸ばして、ひえたシークの手に触れて、繋ぎとめた。
「資料保管庫に、記録の閲覧に行くから。おいで、シーク」
「記録。なんの?」
「……寵妃さまの」
 繋いだ手は震えなかった。言葉もない。シークはゆっくりと息を吸い込んで、同じように吐き出した。苦労するように。シーク、と魔術師の名を新王が呼ぶ。ひょい、と顔を覗き込むようにして、青年は言った。
「いいですよ、来なくても。一時間もしないでしょうから、どこかで……執務室か、保管庫の前ででも、待っていなさい」
 引きつった呼吸の音がほとりと落ちる。それが王に向ける声にならない返答であったとジェイドが気が付いたのは、青年が困ったようにジェイドに視線をやり、姿勢を正してゆったりと歩き出してからだった。と、と身軽な足音をひとつ響かせて、シークが王の後を追う。手を引っ張られて、突き飛ばされるように、ジェイドはふたりの後に続いた。
 資料保管庫は、人々が眠りにつくような気配に包まれている。ささやかなざわめきがどこか遠くに置かれ、手元は火の揺れる灯篭で照らし出されるのみだった。劣化を嫌い、窓は常に封じられているから空気が澱んでいる。光も、風も、別の場所に置き去りにされている。あいまいに切り取られた時間だけが、紙と文字に封じられて人の手に渡る時を待ち望んでいた。
 迷うことなく書棚から冊子を引き出し、王はジェイドにそれを受け渡した。筆記したのはシークである、と青年は言った。そしてその際、魔術が零れ落ち染み付いてしまったのだ、と。魔力を持たぬ者が読めばそれはだだの文字列。けれども魔術師が持てばその瞬間、言葉は意思あるものとして響き、記された光景を追体験させる。
 そういう性質を持つ魔術書なのだと告げられて、ジェイドはそうですかと呟いた。そういう本が存在していることを、魔術師は誰もが知っている。意思ある本。感情の染みた言葉たち。それは大戦争を生きた言葉魔術師たちが、後世に残した遺産のひとつ。通常は複製品が、『学園』で教科書として使われている。生きた歴史の語り手として。
 驚きませんね、とつまらなさそうに言う青年に、魔術師は誰だって驚きませんでしたでしょうと吐息して、ジェイドは暗がりの椅子を引いて腰を下ろした。そうであるなら、この報告書を読むのに光はいらない。暗闇の中でも言葉は蘇る。追体験から戻るまでに、平均して一時間。シークと一緒に待っています、と告げる王は机を挟んで、ジェイドの正面に腰を下ろしている。
 シークは、ジェイドの傍らに。そう思うほど近くに椅子を寄せて、隣に座して俯いている。火の粉の爆ぜる音が灯篭の中から籠って響く。揺れる火の影に照らし出されることもなく。シークは薄闇の中に身を浸していて、動かなかった。はやく、と焦燥に似た気持ちで本を開く。早くその暗闇から手を引いていかなくては。
 紙面に目を落とす。誰かが後ろから目隠しをしたように、意識が塞がれる。言葉が。耳元で囁き示す。瞬きのように明滅する。くすくすと、摩耗した感情で誰かが笑っている。物語をはじめるあどけない声で、意思が告げる。物語であれと願うように。



 むかしむかしあるところに。



 そう、当番の日でした。様子を見に行く当番の日。魔術師たちが一日交代で行っていた、子守と監視。その当番の日でした。ひさしぶりのことでした。知っての通り、すこし体調を悪くしていたから。よく晴れた天気の良い、それでいて穏やかな日が続いて、ふっと気持ちが浮かび上がるように楽なことが続いていた。だから、気晴らしにもなるし、と、当番に戻してもらった。その日のことでした。
 気持ちが悪くなったらすぐに戻ってこい、交代する、無理しないこと、いってらっしゃい、様子を教えてね、なんて、皆の言葉に送られて、ハレムの門をくぐりました。そう、ひとりで。あの日から、しんと静まり返るばかりのハレムに行きました。もっと人のいる、あたたかい場所に居ればと、今でもその時も何度も思いました。そうすれば、もしかしたら。可能性に後悔しました。
 あの日から。先王が失われたあの日から、筆頭と補佐が失われたあの日から、陛下が戴冠されたあの日から、ジェイドが城を出て行った、あの日から。あの日から、あの日々から、ずっと、寵妃さまはハレムの部屋から出てきませんでした。知っての通り。先王と最後の日々を過ごしたあの部屋におられました。王子を連れて。ふたりきり。本を読んだり、歌ったり、まどろんだり。穏やかな日々でした。見かけだけは。
 おかしくなってしまわれた。寵妃さまは、まるで幼い少女でした。おんなのこ。無垢であどけない。母として幼子の面倒を見ているというより、おんなのこがただ、一緒に遊んでいる。そういう印象を受けました。事実、そうだったでしょう。医師は寵妃さまを、このままだ、と言いました。元に戻ることはないだろう、と。元、とは、どこだっただろう、と思います。この方の元というのは、どこにあったのかと、思います。
 陛下が、いえ、前王がまだお優しかった頃でしょうか。おふたりが、仲睦まじかった頃でしょうか。前王が何処から連れて来た方だ、というのは知っています。ここへ来る前に、居た場所でのことでしょうか。元に。元に戻らない。それはたぶん、あの方に残された最後のしあわせだった。忘れてしまったか、壊れてしまったのかは、分からないことでしたが。でもそれはきっと、しあわせだった。
 大切に思っていた、と病床で囁かれた声を覚えています。筆頭と補佐が失われたあの日の、覚える限り最後の、寵妃さまであったお声で。あの方は言いました。激しい恋ではなかった、返しきれない程の恩があった、大切に思っていた、それは全てほんとうのこと。いとしくは思えなかった。でも、ただ、穏やかに、そっと幸福を祈るだけの気持ちであっても。情は、あったのだと。
 苦しんで、苦しんで、泣いていました。だからもう、穏やかであるなら、それをしあわせとしてもいいのではないかと。そういう風に思いました。魔術師はきっと誰もが、そうだった。だから、自ら幽閉されるような生活を続けるあのひとを、蘇り行く場所に連れて行くことができなかった。きっと眩しいだろうと思ったから。その眩しさに連れ出すことができなかった。
 ハレムの庭園は荒れていました。元はうつくしい花園であったと分かるから、ただ、無残でした。ハレムに人の気配はありませんでした。残った女たちの殆どが、居を城の一角へ移していたから。新王がそれを許しました。女たちはこれからの為に必要でした。過ちを見続けた者が。十年、二十年。この国が蘇った先の、先の為に。生きてそこに居てもらうことこそが必要でした。
 寵妃さまはもう、生きていてさえくだされば、それでよかった。健康に問題はなく、受け答えもできました。こちらが言うことを理解して、普通に生活するだけのことは、できていました。だから、通いの世話人の少女がひとり、そして、魔術師がひとり。朝に夕に様子を見に行き、時には同じ部屋で時を過ごす。穏やかに。その日々だけが繰り返されていました。その日もそうなる筈でした。
 誰もいない廊下を部屋に向かって歩いていると、泣き声が聞こえました。世話人の少女の声でした。胸騒ぎがしたのを覚えています。ハーディラは、僕が走って来たと言いました。走って、それで、戸口で息を零したのだと。どうして、とも問わずに。ああ、と言葉を零してそれきり、ずっと長く、それを見つめていたのだと。部屋にいた、幼い王子と同じように。
 寵妃さまは、部屋で首を吊っていました。幼い王子は寝台で座り込んで、ただそれを見ていたのだと言います。昨夜も共に眠ったであろうに。目を覚ましたら、そうなっていた。その光景を。瞬きもせず見ていた。魔術を使ったのはそのせいです。ハーディラと、王子に向かって。人の記憶が上書きできることなんて、もう分かっていた。してはいけないことです。分かっています。でも。
 あんな光景をいつまでも覚えていることが、許されて良い訳がない。そのあとは知っての通りです。ハーディラは昏倒し、魔力の流れを感じた魔術師たちが新王へ報告し、警備の者たちと駆け付けて。取り乱した僕と、王であるが故に、幼くとも真実の王冠を頭上に抱く者であるが故に、決して魔術の影響を受けない王子を保護してくださった。
 許してください。助けられなかった。寵妃さまも、前王陛下も、筆頭も、補佐も、誰も、誰も。許してください。あれを忘れさせることさえ叶わなかった。許してください、違う、違う、ちがう。許さないでください。誰か、お願いだから、僕のことを許さないで。許さないでいて。誰のことも助けられない。誰のことも。誰のことだって。
 助けたかったのに。
 許さないで。



 違う。

 誰か。
 誰か、誰か。
 許して。
 誰か。
 許して。
 許して。
 許さないで。
 許して。

 赦して。



 ジェイドが呼吸を思い出すのには、震えが収まるまで待たなければいけなかった。光景としては、恐らく、ひどく短いものだった。人気のないハレムをゆっくりと歩き、泣き声をきっかけに走り出す。風景はやけに鮮明だった。荒地に茂る緑の草の間に、枯れて色褪せた赤い花があった。うっすらと埃の積もった廊下。くすんだ色で照らし出す灯篭。知っている筈の、見知らぬ風景。
 なまぬるい砂色の朝日。光と影がくっきりと別れた階段を駆け上る。辿りついた部屋で、寵妃が着ていた服には覚えがあった。いつかジェイドに、己の子の行方を聞いた日に着ていた服だった。手足は垂れ下がり、表情は見えなかった。シークは命を失ったそれの、うつくしい赤に塗られた爪の色だけを鮮明に記憶していた。
 全ての光景に付随する感情が、ジェイドの胸の奥までを焼いた。息を吸い込むことが苦しくなる。吐き出すことも、難しい。口元に強く手を押し当てゆっくり息をするジェイドを、新王は黙して見つめていた。そんな反応を、見慣れているようだった。魔術師は誰もがそうなったのだろう。記憶された短い光景に比べて、焼き付く感情があまりに強すぎた。
 誰が。その感情を知って誰が、シークを責めることができただろう。なにが罪だというのだろう。誰が罪を犯してしまったのだろう。どこで間違えてしまったのだろう。
「……事情があって、嫁がせるのを急がせていたのは事実です」
 ため息交じりに青年が告げる。その理由については告げはしない、と向ける視線で語りながら。それでも、と心苦しく、青年の感情が揺れるのをジェイドは見ていた。
「今回の……年若い『花嫁』の婚儀の理由は、ただ、この為です。死を塗りつぶす必要があった。他に適切な手段がなかった。私が『お屋敷』に拒否させぬ強さで命じました。即座に、今日にでも明日にでも、と……おかげで随分恨まれましたが」
 あなたまでは届かなかった、と。てのひらにようやく残った黄金を、握りしめるような声で。それを、確かに幸福だと物語るやさしい声で。青年は囁くように告げた。その死が国を覆ってしまうことはなかったのだと。
「……なにが、起きているのか……分からない、という目の『花嫁』を嫁がせた。私は、それを、一生忘れないでいます」
 その『花嫁』の『傍付き』は、王の命を狙った罪で即日処分された。『花嫁』の名を叫んで挑みかかって来た『傍付き』の少女を、泣きながら短剣で貫いたのは少年だった。『傍付き』の補佐であったのだという。少年は『花嫁』の名を呼び、少女の名を呼び、王の目の前で自害した。それを、王と、護衛の魔術師と、駆け付けた『お屋敷』の若き当主が見ていた。
 当主の命で、その『花嫁』の世話役たちは全員解雇されたのだという。行末は、ようとして知れない。
「『お屋敷』と、御当主が落ち着かれるまで、しばらくは、誰のことも嫁がせはしません。安心してください、というのも……意味のない話でしょうね。あなたには、『傍付き』の心が分かる筈だ……」
「……考えられない、ことです」
「ええ、そうでしょう。……そうでしょうね」
 立ち上がり、肩を叩いてから、青年はジェイドとシークを残して資料保管庫を後にした。その背を追わねばと思いながらも、椅子から立ち上がることができなかった。瞬きと、呼吸だけをしている。つめたさが手に触れた。シークの手が、ジェイドに伸ばされ、触れていた。触れるだけで、握ってはいない。それでも、離れようとはしていなかった。視線は落とされたままだった。表情は見えなかった。
 目を閉じる。くらやみの中で、息だけをしている。

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