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 次から次へと、問題ばかりが起こって行く。ジェイドは真昼の陽光満ち溢れた廊下のただ中で、一人ひっそりと頭を抱えて溜息をついた。彼方からは人々がひっきりなしに走り回る足音と、情報を交換し合う声が響いていて大変に騒がしい。しかしこれを、新王は和やかな笑顔で三日ぶり、今月に入って五回目だと述べた。今日はまだ、月が始まって十日も経っていない。日常、ということであるらしかった。
 王子が失踪したのである。医師と世話役の目をかいくぐった、かくも鮮やかな逃亡であるのだという。魔術の影響を受けない身の上であるからこそ、魔術師の探知は働かない。できるのはせいぜい、傍に居る世話役たちに、王子が手の届く範囲にいなくなれば気が付く程度の祝福を与える程度のことであって、改善や防止に尽くす手を持ち合わせてはいないのだった。
 ひとりになりたい、と言うのだという。誰にも傍にいて欲しくはないのだと言う。高貴な身の上であり、この国に残された唯一の正統なる後継ぎでさえなければ、聞ける望みではあるのだけれど、と新王は穏やかな笑みで溜息をついた。監視の目を外すことはできない。身を守る護衛を遠ざける訳にはいかない。これ以上の事件も事故も、許す訳にはいかないのだと。
 言い聞かせられた結果が、絶え間なく繰り返される逃亡劇であるのだという。市井に出向く様子はなく、城の中のどこかにはいる。それは書庫室の隅のくらやみであったり、中庭の日当たりの良い長椅子の上であったり、使われていない貴賓室のクローゼットの中であったりと、その日によって実に様々だった。猫が寝転んでいそうな所を探せばいる確率は高い、と誰かが彼方で叫んでいる。
 夜には必ず戻ってくるのだという。己を守る輪の中に。拗ねたような、申し訳なさそうな顔をして戻ってきて、次の日にはまたいなくなる。その繰り返し。それを聞いたジェイドは訝しむ顔をしながら、よく一人で出歩けますねと感心しきった声で零したが、新王は微笑んでそっと額に手をあて、身体能力の基準を『お屋敷』の宝石と一緒にするのは辞めなさい、と魔術師を穏やかに叱りつけた。
 いえだってまだ五歳くらいですよね、と真顔で問いかけたジェイドに、新王は笑みを深めて同じ言葉を繰り返した。『お屋敷』の宝石と一緒にするのは辞めなさい。困惑するジェイドに魔術師のひとりがそっと育児書を差し出して読もうね、と言い、新王の前から連れ出したのは先程のことだった。読みながら探すといいよ、と告げて別れた廊下は、振り返ればまだそこにある。
「……すくすく子育て五歳児編」
 新王の勅命により、城内の護衛騎士と魔術師には全員熟読が義務づけられている、とのことである。ジェイドの手に渡っていなかったのは二年よりつかなかった為であり、主に外部勤務である為だろう。しばらくは城にいるんだから、と言い含められたジェイドは、シークが落ち着くまで、という期限付きで巡礼の出発を延期させられていた。
 シークは、あまり話をしなくなった。必要であれば、ぽつりぽつりと単語めいた言葉を口にするだけで、自ら会話を始めようとすることは殆どない。言葉魔術師は、己の声によって世界に魔術を解き放つ。一時は本当におかしくなりかけて、己の手で喉を潰そうともしたのだという。今は落ち着いた。しない、と制約もしたと聞く。だが、それだけだった。視線は俯き、くらやみの中にいる。
 部屋に閉じこもり切りになることはなく。よく出歩くのが幸いである、と誰もがジェイドに耳打ちをした。今日も王子失踪の第一報から、ちょこまかと城を捜し歩いては、いない、そこは探し終えた、また見に行く、と言葉をぽつぽつ落として、一人さ迷い歩いている。魔術師も、騎士たちも、新王も、今はそれをただ、見守っている。祈っている。
 立ち止まれば楽になれるだろう。息を止めれば楽になれるだろう。それを幾度も目にして、なお、息をして歩いていることをなんと告げよう。差し伸べる手は拒絶される。言葉は響くだけで届かない。行く先がどこなのか、なんの為に先へ進むのかすら分からないまま。一人で立ち続ける勇気に、報えるものはあるのだろうか。
 考えてしまうジェイドの前に、ふわん、とシュニーが現れる。シュニーは強張ったジェイドの頬にまふまふもふもふ触れるようにすり寄ったあと、肩の上にぴょんっ、と乗ってちかちかぺかかと明滅した。ふ、と思わず笑みが零れる。肩から落ちないように手を添えて、囁くように問いかける。
「そうだね。……一緒に探そうね、シュニー」
 わかっているのならいいのーっ、とばかり、ふんわり光ったシュニーがふよふよ左右に揺れ動く。共に歩いて行ける幸福の眩さに笑いながら、ジェイドは本を片手に探索を開始した。王子が見つかった、と報が飛び交ったのは昼前のこと。見つけたのはシークとのことだった。



 ぶっすうううう、と不機嫌な顔をしている王子の昼食に、手が付けられた気配はないままだった。監視と護衛を兼ねて同席しているシークは完全に放置していて、隣に座ってこそいるものの、脚を組みあくびしてそれを完全に放置している。世話役たちはふたりをはらはらと見守るだけで、手出しも声をかけることもできないでいるようだった。
 どうしてこうなっているんだろう、と思いながら、ジェイドは背を突き飛ばされたままの恰好で、戸口でぎこちない笑みを浮かべる。そうだ生贄あっ間違えた救世主救世主、やだなー俺たちちゃんと最初から救世主って言ったって気のせいだって聞き間違え、ジェイドお前育児得意だろっ、なっ、と同僚たちに左右から腕を掴まれ、連行された末の出来事である。
 新王は爆笑していた。腹を抱えて笑いながら見送ってくれた。もぅーっ、これはもしかしてぇ、皆でジェイドをいじめてるのかしらっ、ゆゆしきことなのかしらーっ、と警戒も露わにふくふくまぁるくなるシュニーを頭の上に乗せたまま、魔術師はぎこちなく立ちなおし、とりあえず、室内に一歩を踏み入れた。
「……シーク?」
 ちらり、と視線が向けられる。なに、と言わんばかりにゆるりと目を細められ、ジェイドは苦笑しながら問いかけた。
「これは……なにをしてるの、かな?」
「護衛。監視。昼食の世話」
 それ以上でもそれ以下でもなく、感情がない、といった受け答えである。ぷいっとばかりに昼食から顔を背けた王子に歩み寄り、ジェイドは膝を折り、柔らかく微笑みながら顔を覗き込んで告げた。
「こんにちは、王子。……はじめまして、私は」
「ジェイド、だろ」
 知ってる、と。言葉を遮ってジェイドを呼ぶ幼子に、魔術師は自然と敬意をもって一礼した。砂漠の国そのもののような、未だ幼き王だった。煮詰めた飴色の肌に、星々が絢爛に歌う夜の髪、暗闇を切り裂いていく朝日の、一瞬の輝きを宿す黄金の瞳。あどけなく、心身の幼い、いずれ我らが忠誠を誓う王になる者であると、魔術師としての本能が強く訴える。
 それでいて、心の片隅で、『傍付き』がそっと息を吐く。王子とウィッシュは、そう変わらない頃に産まれた。どうしているだろう。世話役たちに囲まれて、ミードとラーヴェの元で、笑っていてくれるのだろうか。重ねるように。穏やかに微笑んで動こうとしないジェイドに、幼い王子から問いが向けられる。
「ずっと、いないと聞いていた。……もう、いるのか?」
 いかないで、行っちゃやだ、と服を引っ張って涙ぐんだ、幼い我が子を思い出す。柔らかく、息を吐き出して。ジェイドは心からの想いで、安心させるように囁いた。
「はい、しばらくは」
「そうか」
 ちら、と視線を向けて来たシークが、憂鬱な声でジェイドの名を呼ぶ。立ち上がって向かいかけたその腕に、伸ばされた王子の手が触れて引き留めた。逆らわず。すとん、とその場に腰を下ろして、ジェイドは思わずうっとりと微笑んだ。貴人に求められる、というのは『傍付き』の幸福によく似ている。
「はい。なんでしょうか?」
 シークが思い切り頭を抱え込むのが見えた。なにをしているのか訝しむジェイドに、シークは感情の浮かばない濁った目でゆるゆると首を横に振る。なに、と問うジェイドにシークがなにか答えるより早く、王子はもぞもぞと、居心地が悪そうに身じろぎをしながら言った。
「し……シークは、自分だって好き嫌い、するのに、俺がすると怒るんだ……」
「ああ、そうでしたか。……それで、召し上がられない? 嫌いなものがありましたか?」
 殆ど無意識に、失礼します、と呟いて。ジェイドは幼い主君へ手を伸ばしていた。頬をやんわりと撫でて触れ、脈拍と体温を確かめる。視線を重ねたままで微笑んで、体調が悪くはありませんね、と確認の為にも問いかける。こくん、とあどけない頷きが返されるのに、よかった、と心から告げた。ああぁあ、と呻き声がシークから零れ落ちて行く。
「それでは、嫌いなものを厨房の者に伝えましょう。すこし注意するようにと。……ですが、これも、あなたの為を思って作られた料理です。すこしだけ、一口だけでも、召し上がりましょうね。お腹が空いていませんか? お水は飲まれましたか? 朝からなにか口にされましたか?」
「……食べないと、だめか?」
「あなたが体調を崩されるのは、とても悲しいことです」
 深呼吸を、今すぐして、それから考え直して欲しい、とシークが呻いている。意味が分からないけど、どうしたんだろう、と心配するジェイドに、今君だけには心配とかそういうことをされたくないと言う意思が満ち切った視線が返された。ジェイドの頭の上に乗っかったままのシュニーが、もしやうわきのけはい、とちっかちっか警戒するように明滅していたが、視界から外れているので分かるものではなかった。
 かくして。ぐっと言葉に詰まった様子の王子が、それでも食事に手を伸ばし、パンをひとくち千切って口に入れ、すこし、水を飲んだので。ジェイドは心からの満面の笑みで、偉いですね、と全力で主君を褒め称えた。自ら食事をする意思があるのは素晴らしいことだ。水も飲めるなら、脱水の危険もぐっと下がってくる。食べられるだけ、無理しないでいいですからね、と囁くジェイドに、王子はこくこくと素直に頷いている。
 世話役たちから、ジェイドの言うことなら聞くので教育係にください、と新王に陳述が向けられたのはその日の内のことだった。



 ちゃんと話すことにする、とシークがため息をついたのは、ジェイドが教育係として任命された、次の日の朝のことだった。ジェイドが無自覚に王子を誑し込んだ件について、責任を感じているらしい。あそこで言葉を惜しまず止めていれば、事故が未然に防げたかも知れない、と感情が剥離したままの瞳が告げていた。同席した者として、極めて責任を感じているようだった。
 ジェイドを除いた魔術師一同からの、コイツそういうトコあるから、無差別貴人誑し込み犯だから、顔も声も良いのはいけないと思う、という慰めも、シークの心を軽くはしなかったらしい。そもそも、シークは身をもって、ジェイドの世話好きを知っている。それを妻の死と不慮の事故によって取り上げられた今、持て余している、ということは予想してしかるべきだったのだ。
 どんよりとした顔と目で、君の分まで僕がしっかりしないと、と決意を言葉にされたので。ジェイドはため息をついて廊下に屈みこみ、可愛げのない友人の頬を摘まんで左右に引っ張った。全力で振り払って睨みつけられるのに、ジェイドは不愉快も露わに眉を寄せて言い聞かせた。
「いいかな、シーク。まず、王子を、誑かし込んだりは、していないから」
「無自覚……! 性質が悪いにも程がある……!」
「全く。陛下もシークも誰も彼もそう言うけど。本当に、誑かし込んだりなんて、していないだろう? なにもしてないのに」
 ただ普通に心配して、体調を確認して、褒めた。それだけである。主張するジェイドに、シークは感情が摩耗した瞳で、それでも怯えるように瞬きをした。
「なにかしてる……十分、なにかしてるのに……」
「してないって言ってるだろ? 世話なんて一つもしてないし、誑かし込むなんて」
「……ジェイド、君、君の可愛い奥さん見てもう一度言ってごらんよ。ね?」
 ほら、とシークが視線を向けた先。ジェイドの肩の上で、シュニーがぷっくぷくのぷくぷくに丸くなって、がびがびした明滅を繰り返している。不機嫌この上ないあり様だ。ジェイドが教育係を受けてからというもの、ずっとこうである。シュニーさんどうしたの、かわいいかわいいシュニー、なにが嫌なの、と囁いても、ジェイドに引っ付いたままがびがび明滅するだけで、上手く意思を読み取らせてはくれなかった。
「……君だってねえ、そう思うよねぇ……?」
 あたりまえだものーっ、と絶叫するように、ぴっかあぁあっ、と光ったのち、シュニーは力を失ってぺっしょりとしぼんでしまった。ほおおぉら、とよくよくジェイドに言い聞かせるようにシークは言う。
「浮気だって怒ってる」
「……身辺警護が主で、食事を一緒にとかもないし、勉学に関しては教師がいるし……脱走しないように傍にいて、必要なら褒めたり叱ったりするだけだよ、シュニー。浮気じゃないよ。シュニーを愛してるよ」
 ふわふわした光を指先で撫でると、しゃくりあげるように震えて、すり寄ってくるのがいとおしい。愛してるよ。『花嫁』にするみたいなお世話の仕事じゃないよ。安心していいよ。ああいう風にしたいと思うのはシュニーだけだよ。ね、と囁いていると、一応、ほんのわずかに、シュニーは気を取り直してくれたらしい。
 ひしいいぃっ、と肩にくっつきなおす動きを見て、シークがげっそりとした息を吐き出した。
「分かった。分かったよ、ジェイド。分からないなら仕方がないよね……」
「は?」
「せめて、手加減しようね。褒めるのをね」
 なにを言われているのか分からない、という顔をしてジェイドは眉を寄せた。褒めるというのは心からの行為である。そもそも、褒められるようなことをしたからこそ、ジェイドは褒めるのであって。別にわざわざ理由を見つけてきてまで、そうしている訳ではないのだった。
 お説教にも似たジェイドの説明を白んだ目で聞き流し、シークは腕組みをして首を横に振った。
「せめて顔と声の良さを控えめにしてくれたらと思うけど……生まれつきだから仕方がないね……」
「よく分からないけど馬鹿にしてるな?」
「せめて分かってからその判断もつけてくれる? あぁ……魔術師が王子の初恋をかっさらうとかいう珍事が起きないとは限らない……いやいいんだけど他の魔術師にしてくださいね王子……ジェイドはほんと事故物件みたいな……みたいなじゃないくて、ジェイド事故物件なんで……!」
 話し出したと思ったら、シークはよく分からないことばかりを呻く。顔を両手で覆って蹲り、切々となにか祈りに似た言葉を吐き出されるのに苦笑して、ジェイドはぽんぽん、とその肩を叩いてやった。
「まあ、シークもしばらくはゆっくりしような。居ない間、大変だったろ。ごめんな。……しばらくは、傍にいるから」
「君のそういう優しさほんといらない」
 ぱしっ、と音がするような強さで手を振り払われたので。ジェイドはふっと笑み零して、シークの頬を力いっぱい引っ張った。



 王子の失踪癖が治ることはなかった。ジェイドが教育係として世話を初めて一週間ほどは大人しくしていたのだが、八日目には朝からふっと姿を消し、そのまま夜まで戻ってこなかった。ジェイドが丁寧に理由や、どこに居たのかを聞いてもがんとして口を開かず、王子は視線を逸らしたまま、シークの背に隠れて耳を手で塞いでいた。
 シークは不思議と、王子が隠れている場所が分かるらしい。夜まで戻ってこない時にはだいたい一緒に姿を現すし、日中に捕まえてくるのも、九割以上がシークだった。もしかして脱走に手を貸していないか、と問いかけたジェイドに、シークはさてどうだろうね、とどちらとも取れる受け答えをした。負い目があるからね、と言って、それ以上はなにも告げはしなかった。
 王子はシークにはまるで年の離れた兄であるように反発し、ジェイドには徐々に父を慕うように心を傾けた。朝に顔を合わせれば昨夜見た夢の話を、朝食を促せばしぶしぶと従い、褒められると嬉しげに満面の笑みですこしだけはにかむ。誰もが。幼い次期王の、父母が成した仕打ちを知っていた。心をそうして傾けられていることを知っていて、いけませんよ、と咎めることはできなかった。
 ジェイドはただ、王子を慈しんで育てた。ウィッシュにそうしてやりたかった情愛を、そのまま受け渡した。それは代わりにしようとして成した訳ではなく。ただ、行き場を失って溢れ失われていくばかりの水を、注ぐ花を見つけたという、それだけのことだった。歓喜ではなく、安堵が強かった。どうしているだろう、と視線は幾度も、『お屋敷』の建物へ向けられた。
 暫く城にいることになったと手紙を送っても、ミードからもリディオからも返事は届かなかった。どうやって届けたものだか扉の下から差し入れられた紙片には、ラーヴェの文字で短く、二人が体調を崩しているのだと書かれていた。レロクとウィッシュは元気にしている、とも。起き上がれるようになったらまた連絡する。それだけが書かれ、一月も、二月も、言葉はないままだった。
 日に日に育っていく王子を眩い気持ちで導きながら、ジェイドは砂漠が息を吹き返すのを感じ取る。硝子が軋むような耳障りな、ジェイドが撒き散らしてしまった呪いと歪みはそのままに、ひかりが、強く、満ちていく。夜明けのうつくしさを。朝焼けの力強さを。砂漠を駆け抜けていく風の心地よさを。国と、人々が、その胸の奥にまで取り戻す。
 閉ざされた夜が去ったのだと。そう、誰かが呟いた。



 真夜中にふと目を覚ましてしまった。そんな風な気持ちで、リディオは寝台の上で身を起こした。室内は調整された、甘やかな陽光に満ちている。そうであるから陽が昇っている間には同じ明るさで、時間を知ることは難しかったが、なんとなく、昼を少し過ぎた頃のように思う。
 溜息が漏れた。もう数えても分からなくなったくらい、こうして、起こされないままでいる。
「……っ」
 乾いた咳が零れる。誰かの名を呼びたかった。誰かに傍にいて欲しかった。誰かに。誰か、の、名を、本当は知っている。失われてしまった者の名。リディオのせいでいなくなってしまった『傍付き』の名だ。手を伸ばすことも突き放しきることもできず、ただ遠ざけて繋いでいる『傍付き』の名だ。城に逗留していると聞く、ジェイドの名だ。
 その、誰でもいい。誰かに、甘えて、縋って、泣いて、感情のなにもかもをぶちまけてしまいたかった。目を閉じるくらやみの向こう、絶望と怒りに泣き叫んで死んで行った年若い『傍付き』と補佐の姿を思い出す。こんなつもりじゃなかった、と思いかけて、言いかけて、そのたびに込みあげる笑みに耐えきれなくなる。そんな逃避がどうして許されるだろう。
 そういうつもりだった。そういうつもりで、王の命に従った。そういうつもりで、生きていくと決めた。そういうつもりで、だから、ジェイドを遠ざけた。遠ざけて、会わないで、言葉を交わすことも、もうせず。それが正しかったと証明された。それだけのことだった。全て覚悟の上だった。覚悟はしていた筈だった。死んで欲しくなんてなかった。生きていて欲しかった。
 寝台に蹲って、幾度も咳き込みながら顔を隠すように腕で覆う。全身が千切れてしまいそうに、呼吸のたび、鼓動のたび、痛い。熱も出ていないのに、病を患ってなどいないのに、ただただ、痛い。幾度も刺し貫かれた心が、もうやめいてしまいたいと泣き叫んでいる。その声が痛い。自分の声なのにどうすることもできない。辞めさせることも、無視してしまうことも。
 望んだものはなんだっただろう。信じた希望はどこへ行ってしまったのだろう。あと何年、こんな日々を繰り返していけばいいのだろう。届くとは思えない時の長さに、もういい、と誰かに言って欲しくなる。十分に頑張ったと、だからもう止めて良いのだと。何も知らずに幸福な『花婿』であったあの時のように。抱きしめて欲しい。
 そんな願いは叶いなどしない。
「……着替えて、執務室に行く」
 手伝え、と涙を拭って顔をあげる。寝台を覆う布を手で払って、側近の女が姿を現した。



 動揺、不満、怒り、悲しみ、やるせなさ。不穏に揺れていた空気は、リディオが姿を見せることですっと遠ざかって行く。消えるのではない。無くなるのではない。ただ、心身をやつれさせ、それでも立って前を向く当主へ直に叩きつけてしまうには、誰もがまだ情愛を持っていた。愛している、のだという。大切なのだという。その気持ちだけで、『お屋敷』の不満は抑え込まれている。
 幼き『花嫁』を失ってなお。『傍付き』も補佐も、世話役たちも喪ってなお。限界まで満たされきった水面が、今や震えるのを誰もが感じても。誰もそれを決壊させようとはせず、また、思わなかった。リディオは誰の手も借りずゆっくりと廊下を歩き、世話役や、『傍付き』や補佐たち、その候補生たち、運営や輿持ちや医療部の者たちにも、ひとりひとりに声をかけた。
 おはよう。遅くなって悪かった。言葉は今、直にでも、忙しければ文章でも。届けていい。聞くから。読むから。考えるから。告げることを諦めないで欲しい。すまない、だとか。ごめんなさい、だとか。言葉を、震えるくちびるに掠めさせては、口を閉じ。リディオはひとり、ひとりに丹念に囁きかけて、ただ無言で頭を下げられた。
 どうか、お健やかに。それでも、まだ、心からの祈りがリディオの背を押していく。うん、と頷いて、リディオは歩いていく。まだ、そうすることができた。まだ、立ち止まることは、誰も許してくれなどしなかった。側近の女は目を逸らさず、すこしばかりの距離をあけて、『お屋敷』の当主へ付き従う。触れることなく。離れることなく。言葉を交わす親しさはなく。
 執務室に入る扉の前で立ち止まり、リディオはぼんやりと、己の『傍付き』であった女を見た。視線は穏やかに交わされる。命令を待つ瞳。どんな言葉でも、どんな願いでも。叶えてみせると、リディオに伝えてくれる。今でも、それを信じていられる。ふ、とリディオは微笑んで、なんでもないよ、とくちびるを動かした。声にはしなかった。言葉にはしないようにした。
 それでも、たったひとり、この存在だけが。もういやだ、と言えば地の果てまで、連れて逃げてくれることを知っている。十分だった。
「……陛下は、なんと?」
 執務室へ立ち入りながら問うリディオに、側近の女は心得た顔で静かに告げた。
「療養なさるように、と。しばらくはなにも考えないようにと……書状は机に」
「気遣う相手をお間違いではありませんか、と返事を……ああ、いい。自分で書く。まったく……あの方は……」
 椅子を引き腰を下ろし、机に山と積まれた報告書、訴えの数々に丁寧に目を通していく。新王からの書状は簡素で、側近の伝えた通りのものだった。眉を寄せて膝の上に置きながら、リディオは『お屋敷』の、特に医療部からの報告書を丁寧に確認していく。『花嫁』『花婿』、候補を含む宝石たちの健康状態。精神の安定状態。育成状態。目標値とのずれ。
 辞職を申し入れた者の名。その理由。駄目だ、と冷たく言い放ち、リディオはその書類を側近の女へ差し出した。
「しばらくはどの部署、どんな職務であれ、辞職は許可しない。……どうしても、と言うなら転属させろ。ただ、『お屋敷』の外へは出すな。決してだ」
「はい。そのように致します。……理由は、なんと?」
「理由を求められたら、その時に」
 当主が許さなければ、それが全てだ。はい、と告げて側近の女は一礼した。全て、あなたの仰る通りに。瞬きだけを応えにして、リディオは書類へと視線を戻した。新王の、考えないように、というのは罪悪のことだ。罪悪感を抱かなくていい。そう言いたいのだろう。王として当主に命令したことだ。あなたに罪があることではない、と告げている。
 罪があればいい、と思っている。だから、そんな慰めはいらなかった。悪いことであればいい、と思っている。善きことはなにか、誰もが希望として胸に抱くように。未来に、それを描いて欲しい。罪悪は全てリディオが成して連れて行く。地の果てまで。瞬きをする。息を吸い込む。瞼の向こうのくらやみに、己の言葉で命を落とした者たちが見える。
 いつからこうなってしまったのだろう。死にたい、という願いを許されないままで。今はもう、それを己で望むことさえ、許せずに生きていく。
「……ミードの容体は?」
 リディオが、ふと思い出したかのように奥方の調子を問うたのは、執務室に籠って二時間が経過した頃のことだった。宝石たちを嫁がせる間隔が狭くなっていくのに抗議するよう、じりじり体調を悪くしていたミードの容体が、起き上がれない程悪くなったのは先の騒ぎに他ならなかった。まだあどけないあの『花嫁』を、可愛がっていたのを知っている。
 しあわせになってね、とは、とても言えずに。しあわせの、意味すら見失う動乱の中。最後の言葉も交わせず、ミードは『花嫁』を見送った。城に引き渡す、その馬車が『お屋敷』を滑り出していくまでは、当主の妻の顔をして毅然として立ち。その影が道の先へ消えると、両手で顔を覆って泣き崩れた。悲鳴そのものの声で、『花嫁』の名を叫んだ。
 ミードは、リディオを責めなかった。新王のことも責めなかった。王城でなにが起こったのか、その為に『お屋敷』にどういう命令が下され、そうする以外に道がないことを理解してしまっていたからだ。宝石たちは砂漠の至宝。砂漠の、この国の為の、生きたる輸出品。最優の『花嫁』であったからこそ、その価値と影響を知っていた。呪われた嘆きであろうとも、祝福と成すことを知っていた。
 誰にも叩きつけられない感情が、脆い『花嫁』の体を壊してしまった。
「今日は、安定しておられます。レロクとウィッシュと一緒に、お昼寝もされたようです。……昨夜は、御当主さまがちっとも顔を見せてくれない、と文句を仰っていたとか」
「……回復したな、よかった。……というか、行くと寝てるんだが?」
「ラーヴェもそう伝えてはいるようです」
 ぷっくーっ、と頬を膨らませて怒るミードの姿が見えるようだった。みぃが寝てるんじゃないの、りでぃおが来ないのっ、そうでしょっ、と寝台をぺちぺちてのひらで叩いては主張し、ラーヴェを困らせているに違いない。側近の女が告げたというのは、そういうことだ。起きている時に顔を見せに来てください、という懇願が、規定回数を超えたのだろう。
 リディオは机の上の未処理書類へ視線を向け、溜息を付いて立ち上がった。残しておけない、と思う程には残っていない。見舞いに行く、と告げれば心得た動きで一礼が成され、先触れに、と一人が早足に部屋を出ていく。リディオは、ゆっくりと部屋を出た。案内しようとする者たちに首を振り、あえて人通りの多い廊下を選んで歩いていく。
 意識して微笑みは作った。掠れて消えてしまいそうな『花婿』時代の記憶をかき集めて、そのようにして笑った。声をかける。言葉をかける。挨拶でも。どんなものでも。ひとり、ひとりに。ざわめきは波紋のように広がり、静かになって行く。不満も、喜びも、感所の全てが凪いで穏やかになって行く。その穏やかさこそが、本来の『お屋敷』の常だった。
 できることを、できるかぎりに。立ち止まらず、絶やさず、諦めずに。とん、とん、と鼓動と共に足音を響かせて息をして、リディオは『お屋敷』の空気を慰撫して歩いた。
「……今日はミード、機嫌もいいんだな」
 区画に入ると人の姿もなくなり、『花嫁』の、ふわふわきゃっきゃした笑い声がやさしく空気を震わせる。思わず口元を綻ばせて呟けば、気配で気が付いたのだろう。戸口まで顔を覗かせたラーヴェが、穏やかに微笑んでリディオにそっと一礼した。
「はい。今日は、どうもシュニーさまがいらしてくださっているとか」
「……シュニーが?」
「ジェイドが城にいるでしょう。反省を促すだとか、言いつけに来たとか……?」
 今度はなにをやっているんだ、と思わずリディオは苦笑した。『花嫁』が『傍付き』から離れて一人で出歩くなど考えられないことだったが、妖精として、シュニーはそれを成し遂げるだけの力を得たのだ。戸口からひょいと室内を覗き込むと、寝台の上、両腕いっぱいにレロクとウィッシュを抱き込んで、ミードはふんがいした様子で、ふんふん頷いたりしている。
 かと思えばきゃぁっとはしゃいだ声をあげて顔を赤らめ、やんやん身を捩って照れているので、怒っているばかりでもないらしい。改めて、なんの話をしているんだと問えば、ラーヴェは苦笑と共に首を横に振った。
「『花嫁』のないしょのおはなし、とのことで……詳しくは」
「分からないんだな?」
「教えて頂けませんもので」
 ふむ、とリディオは瞬きをした。レロクはすっかり飽きているのか、しきりにあくびをしては目を擦っている。ほどなく、昼寝に戻るだろう。
「まあ、なにか重要な情報が……得られることはないと思うが……」
「はい。心得ております」
「……ジェイドに、手紙を出してやれ。ミードの容体も安定したろう。安心させてやらなければ」
 言葉を全てのみ込んで。はい、と告げたラーヴェの、瞳だけがリディオの便りを求めていた。どうしても、言葉の一欠片だけでも、送って頂く訳には参りませんか、と。告げかけ、幾度も思い直してはまた縋りそうに口唇に力をこめるラーヴェに、内心でだけ謝って。リディオはミードに声をかけて、顔を見せに来た、という要件を済ませてしまおうとした。
 瞬間、気が付く。眠たげなレロクとは対照的に、ウィッシュは、目を喜びと幸せに輝かせていた。視線はひとつの所へ定まっている。なにか、音が響いているように。時折頷いては、ミードと同じようにきゃっきゃと声をあげて笑い、それでいて大人しく、じぃっとひとつの所を見つめている。ミードと同じものを見つめている。
「……ラーヴェ」
「……はい」
「あれは、ずっと、か?」
 リディオが気が付いたことを、『傍付き』が見落としている筈もない。告げなかったことを責めるつもりはない、と向ける瞳の強さで言い切れば、ラーヴェは静かに頷いた。ずっと、です。それは今日、シュニーがミードに会いに来た時からであるようにも。それ以前からのことのようにも、思われた。そうか、とリディオは胸に手をあてて息を吸う。
「……そうか」
 目を閉じた。この時に。息絶えてしまいたいくらいの、胸いっぱいの幸福を感じた。それは希望だった。それを、希望だと、リディオは信じた。息を吸って目を開く。リディオは有無を言わさずラーヴェの胸倉を掴み、力任せに引き寄せて言った。
「伏せろ」
「……御当主さま、それは」
「決して誰にも悟らせるな。これ以上は。情報の漏洩を断固として防げ。これは当主として『傍付き』へ向けた厳命である。……いいか、ラーヴェ。このことは、例えジェイドでも……陛下にさえ、知られてはならない。知らせてはいけない。その時が来るまでは」
 幸せを、祈った。ただそのことだけを考えた。どれ程の犠牲を足元に積み重ねることになったとしても。顔をあげて見上げた先の、希望のことだけを考えた。
「いいか、ウィッシュは『花婿』だ。必ずそう育て上げて嫁がせる。それに相応しい嫁ぎ先を、必ず用意する。どんな手を使ってでも。……いいか、必ず、『花婿』として育て上げろ。それがお前たちの役目だ。必ず、『花婿』として嫁がせる。当主として、それを成す。約束する」
「……なにをお考えですか」
「ラーヴェ。魔術師には、いつか必ず、迎えが来る。……いつだったか、ジェイドはそう言ってた」
 妖精を見る瞳を持つ者。すこしの例外はあるものの、それを『魔術師』と人は呼ぶ。ミードは、その幾ばくかの例外だ。ウィッシュもそれに該当するとも限らない。それでも、リディオはそれに賭けた。いつか妖精が迎えに来る可能性に。『魔術師』として、世界に呼ばれる可能性に。『魔術師』になることは、苦難と共に歩むことだ。けれど、ジェイドは、いつか。
 それを祝福と呼び、それを愛だと確かに言った。
「なら、ウィッシュは、いつか、ジェイドのもとに帰れる……」
 生き延びさせてみせる。どんな手を使っても。嫁ぐ前に迎えが来るなら万全に整え、間に合わなかったのであれば、その先で枯れてしまわないような環境を選ばなくてはならない。できれば、手折られないような。『魔術師』になった、その先で、ただ普通に生きていけるような。『傍付き』ともう一度巡り合って、結ばれることに、誰も罪悪感など抱かなくていいような、そんな。
 夢のような話を、現実にしよう。
「……幸せに、おなり……」
 幾度か、言い聞かせるように、そう言って。リディオは茫然とするラーヴェを両手で突き飛ばすようにして離れ、嫣然と笑った。そして当主はミードの名を呼び、室内に足を踏み入れる。なにもなかったような顔をして。眠ってしまったレロクを優しく撫でて、リディオは、早く大きくなるんだよ、と囁いた。
 心から、その時を待ち望んだ。

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