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 あの子が嫁いで行った日の鐘を、俺はこの国の端で聞いたよ、とジェイドは言った。それから瞬く間に駆け抜けて行った年が、息子の年齢を意識して数えさせるだけの感傷を奪い去って。そして、ある日突然、ジェイドは新王に告げられた。君の息子はもう『お屋敷』にいない。どうか幸せにと言祝いで見送ったよ、と。その無垢な喪失感は、今も言葉に表せない。
 忘れていた訳ではない。ただ、毎日ずっと、意識していなかったのは本当のことだった。永遠にそこに居てくれる筈がないことは分かっていた。けれどもほんとうに手の届かない場所へ、行ってしまう日のことを、考えたことはなかった。幼子から少年へ成長していた愛し子の様子を、詳細に聞くことはできなかった。聞いても想像できなかっただろう。あの時、あの日の別れで、記憶は止まっていた。
 しあわせを祈った。新王がそう送り出し、リディオが選定したのであれば、それは疑うこともなく信じられることだった。有事に備えて、『お屋敷』は外部勤務者を諸国に送り込んでいる。彼らが目となり耳となり、集めた情報は砂漠を巡る血液や風のごとく、偽りなく、『お屋敷』へ、リディオの元へ届けられると知っていた。なにか事故があれば、偽りがあれば。『お屋敷』はそれを許さないでいることを知っていた。
 そのことをずっと、信じていた。
「……最優先されるのは、『花嫁』『花婿』の幸福。嫁いで行く方々を祝う鐘を聞くたびに、祖父のことを考えた……。『傍付き』としてはもちろん、複雑……複雑なんていう言葉では言い表せないものがあるけど、俺は……その先で、幸福に咲いてくれることを知っていた。なにせ、その末が俺だからね。満たされて、笑って、しあわせで……だから、まさか……まさか、あんな」
 どろりとした、煮詰まった感情が吐き出される。それは憎悪だろうか。それとも他に名前のつくものなのだろうか。知らず、分からず、妖精は息をつめてジェイドから後ずさるように距離を取った。穏やかに、愛しく、優しく柔らかく過去を吐き出した男は、それでも微笑みを浮かべていた。月を弔い、星を失った、ひかりなき暗闇の瞳が、けぶる魔力を滲ませている。
「あんな扱いをされていただなんて、知っていて……どうして……」
『……あんな扱い、というのは?』
 妖精の腕を掴んで己の背へ押し込めながら、鉱石妖精が静かな声で問いかける。畏怖で会話を途絶えさせてしまうことはできなかった。綴られたのはこの国と、この男がどう生きて来たかということであり、未だ妖精たちが抱いた疑問の答えには辿りついていないからだった。この男が本当に、ソキに害を成さないのか、という妖精の不安も。何故あの場に侵入していたのか、という疑問も。
 それ程に献身的に国に尽くしていた魔術師が、隔離されるその訳も。それ程に愛していた人々を十五人選んで、復讐の為に殺害を要求する心情も。辿りつかない。理解ができない。情報が足りない。震える息を飲み込んで。答えを待つ妖精たちに、ジェイドは視線をすい、と空に動かして囁いた。
「あの子はたぶん、自分が誰に嫁いだのかすら知らない」
『……なぜ?』
「調査報告書によると」
 じりじりと燃えていく導火線をもみ消すように、言葉を引き継いだのはシークだった。すこし休憩しなよとジェイドに冷えた水を差しだして無理に口をつけさせながら。心を壊しかけていた、とはとても思えない陽気さで、言葉魔術師はよどみなく告げる。
「まあ、扱いが美術品だったんだよね。彼は自分が『暮らしていた』場所を、『迷宮じみた美術館』だと言い表したし、身体的な世話は彼の意識がない時に行われることが殆どだった。時々は『展示』されたとも聞いている。本人の証言と、『お屋敷』に回された記録でかなり正確な所まで分かっている。薬で意識と身体的な自由を奪い、うつくしく飾り立てられ、彼はただしく、言葉通りに『展示』された。日々はその為のものであり、そこに彼の意思……感情なんてものは、必要なかったのさ。先方としてはね」
 あんまり想像しない方がいいよ、と言葉魔術師は告げた。あえて同情を乗せないさっぱりとした響きであってさえ、じわじわと意味が染み込んで行くにつれ、現実感のない言葉に妖精たちの羽根がぞわぞわと落ち着きのない気持ちで満ちていく。それは、人に対してしていいことではない。それは物の扱いだ。そんなことが許されていい筈がない。
「誰に会うこともなく、誰と言葉を交わすこともなく。だいたい、四年。千四百六十日。時間の流れすら曖昧になる孤独の中で、彼は生き続けた。……よく……よくぞ、死なずに……いてくれたと、僕ですら、そう思ったよ」
「そして、『お屋敷』はそのことを知っていた」
 ジェイドの目は、もう室内に存在する誰のことも見てはいなかった。窓の向こう。『お屋敷』の尖塔を見つめている。
「知っていて、なにもしなかった。助けることも、咎めることも」
『それがあなたの、許せないことですか? 誰かの命を以て償えと要求する程に?』
 突き放すように問われた鉱石妖精からの言葉に、ジェイドはしばらく声を返さなかった。肯定も、否定も、しにくいような沈黙。やがて口を開いたジェイドは、すこし困っているように眉を寄せていた。
「約束を反故にされたことについて、許せない、と思っているよ」
『そうですか。……それは、僕の質問に対する回答ではないのでは?』
 親としての怒り、『傍付き』としての怒り。それは正当なものだと理解はできます、と鉱石妖精は告げた。ただし、ジェイドが魔術師でさえなかったのなら、だ。魔術師は『学園』を卒業するまでに、ある程度研磨され整えられる。それは世界に対する反逆の意思を持たぬように、であり、五王に対する反抗の意思を潰すものであり。人々に対する加害意識を塗りつぶす為のものである。
 ジェイドの要求は、これに真っ向から反するものだ。そうであるからこそ、危険、として、異分子として隔離されているのだろう。魔術師としてそんな意思など、持てる筈がないのだ。訝しげな、空恐ろしさすら感じている鉱石妖精からの問いに、ジェイドは目を伏せ、肩を震わせて静かに笑った。嘲笑っていた。
「不思議なことじゃないよ、これは別に。……そもそも意識的に、魔術師であった時期の方が短いし」
「意識を完全に分割するのに長けてるんだよね、うちの筆頭と来たら。困ったことに。やってることは完璧な公私混同に近いのに、混同どころか混ざり合いすらしない。若干病気にすら近いよね、彼の精神構造と来たらさ」
「シーク。自分を棚上げするのはどうかと思う」
「今はボクの話をしてるんじゃないんですぅー。君の話をしてるんですぅー」
 過去にあれだけのことがあって現状がこれならば、二人纏めて相当におかしい、ということだけを鉱石妖精は理解した。そして、求める答えを得るには極めて時間がかかりそうだ、ということと。恐らくジェイドはまだなにかを隠していて、それを表に出す気がないのだ、ということも。時間の無駄だったような気がします、と息を吐き、鉱石妖精は羽根をゆっくりと動かした。
『許せないから、復讐したい。では、先日『お屋敷』にいた理由は? 本当に墓参りだとでもいうつもりですか? 奥様はそこにいらっしゃるのに?』
「『傍付き』として、『花嫁』の墓を訪ねて慈しむのは、そんなに疑問と思われなければいけない? ……そうだね。他にいくつか、調べたいことがあったのも認めるよ」
『ねえ……ねえ、もう、いい。もう、いいわ。分かった……』
 このひとは、誰かに。誰にも。本当には分からせようとしていない、ということが、分かった。言葉は真実を届けているようで、欠片だけが差し出されていて、迷宮に導かれていくように正解には辿りつけない。煙に巻かれるようだ、と思う。妖精はその意思の強さに身震いするよう、息を詰めながら首を横に振った。
『でも、これだけはどうか、教えて……。わたしには、どうしても……どうしても、そうは思えないの。だから、答えて』
「……どうぞ?」
『あなたは、たぶん……ソキに危害を加えるつもりは、ない。そうよね?』
 そうだよ、と穏やかにジェイドは肯定した。ミードの娘であり、新たなる同胞でもある幼子は、慈しまれるべき存在だ。なにをするつもりもないよ、と続けられる言葉に、けれど妖精は震えながら羽根に力を込めた。
『では……あなたが求める十五人の中に、ソキが懇意にしている誰かが、いたら、どうするの?』
「……いないと思うよ」
『いいえ。決めつけてもいい。いても、あなたは、おなじことを言う。……あなたに、直に、ソキを害する気持ちはない。それは真実でしょう。信じましょう。でも……でも、その結果として、あの子が深く傷つかないと、あなたにさえ断言ができないのなら』
 あなたの復讐を、わたしは許してあげることができない。静かな口調で、花妖精は言い切った。あなたは必ず、わたしの愛しい導きの子を傷つける。許すわけにはいかない。警戒も露わな妖精のまなざしに、ジェイドは微笑むように息を零した。
「ヴェルタは、俺に、怒っていいよって言ってくれた」
『……え』
「ウィッシュを迎えに行った案内妖精は、ヴェルタなんだ。俺の案内妖精だった。……何度も、何度も助けてくれた俺の妖精が、俺の息子を助けてくれたんだよ」
 新入生が、五王たちに対して披露される夜。人と同じ大きさに成ったその妖精は、蒼褪めるジェイドを捕まえてそう言った。ただ連れて逃げることしかできなかった。全部捨てて行こう、この場所にはもう戻らなくていいんだ、と。歩くことさえできなくなっていた『花婿』を、『学園』まで導いた妖精が告げた。助けを呼んでしまった。そんなことすべきではなかったのに、と。
 後悔に塗れた瞳で、妖精がジェイドに血を吐くように告げた。
「『あの子は怒れない。怒るより早く、俺が助けを求めてしまったから、そうすることさえ出来なくなってしまった。だから、ジェイドが怒ってやって、あの子の分まで、あの子より先に。あの子が間違えてしまうより早く』って。……うん、俺もそう思う」
 そういうことなので、正統なる復讐として十五人の引き渡しを要求しています、と笑顔でしめてしまったジェイドに。やはり、説明をする気はないのだ、と妖精たちは息を吐き出した。



 執務室に近寄る者はなく。どうしますか、と問う側近の女の声がやけに大きく響いていく。問いの意味が分からずに、リディオは口元だけの笑みでゆる、と首を傾げてみせた。
「どう、というのは? ……どう断るか? どう、受け入れるか?」
「……どちらでも、お好きなように」
 あなたの意思に従いますと告げられて、リディオは言葉を返さずに息を吐き出し、王から届いた書状を机に放り投げてみせた。そこには、ジェイドが指定した十五人の名が書き連ねられている。リディオの名も、側近の女の名も記されていたが、それは恐らく本命ではないだろう。花舞担当の『外部勤務者』の名が二名。ウィッシュの担当だった『傍付き』と補佐と世話役たちで、十一名。
 この十三名の特定の為に忍び込まれたのだと、リディオは深く息を吐き出した。『お屋敷』に取っては不幸なことに、外勤二名は報告の為に戻ってきており、十一名も配置換えこそしているものの、未だこの場所で働き続けている。その誰もが、くらい瞳をしていることを知っていた。彼らの『花婿』が行方知らずになったと、報が届いてしまったからだ。
 ウィッシュを迎えに行った案内妖精は、その場で即座に王宮魔術師へ連絡したのだという。即時の救出、緊急を要するとして。花舞の王宮魔術師たちはすぐ現場に急行し、ウィッシュを保護して城へと連れ去った。その体には傷ひとつなく。その心は壊れる寸前であったのだという。言葉を交わすことさえたどたどしく。ひとがいる、と呟いては、ほろほろと泣いた。
 戻りたくない、これ以上関わりたくない、というウィッシュの意思は最大限尊重された。元より、魔術師として目覚めてしまえば、その身柄は五国のもの、王のものとなる。これより彼は国のもの、王のものである、と花舞の王から通達が下された。それを婚家が不服とし、『花婿』が魔術師に連れ去られた、と主張した。行方不明であると。
 馬鹿なことを、とリディオはその訴えを退けた。何処へ行ったかは明白なこと。『花婿』は魔術師になったのだ。リディオが待ち望んだ日が、ついに訪れた。それだけのことだった。厚顔にも、連れ去られたのだからと『代わり』を要求する婚家の訴え全てを退けて、リディオはウィッシュの担当だった外勤の二人を呼び寄せ、その働きを心から労った。
 二人には、リディオの希望を話してあった。どんな扱いをされるのか、大まかな予想はついていたから、どうか耐えて欲しいと繰り返し懇願した。生きてくれれば。生きてさえいてくれれば。触れられることがなければ、手折られることがなければ。いつか。必ず。その先に。その先がようやく来たのだと。耐えてくれてありがとう、と感謝した。
 そのことを、知って。ウィッシュの『傍付き』は、補佐は、世話役たちは、目の色を変えた。婚家の騒ぎは無視できない程のもので、市井に流れる噂としても『お屋敷』まで届いていたから、情報を伏せてしまうことはできなかった。どれ程の悲しみの中に。『花婿』を送り込んでしまったのか。そうなると知っていたのに。そのことを知っていたのに。何故。感謝など。
 行方不明になったのなら探しに行く、と『傍付き』の女は泣きながら言った。何故そのような者たちが今も生きているのか、と補佐の男はリディオを睨みつけた。魔術師として無事に送り出す為だった、と告げても言葉は届かず、誤魔化しだ、と断じられた。半狂乱の者たちは誰もが『お屋敷』から出たがったが、リディオはあらゆる手段を講じてそれを閉ざした。許さなかった。
 今、どこかへ行かれたら、なんの為にこれまで彼らを留めていたのか分からなくなる。ウィッシュは魔術師になった。だから必ず、また、会える。だからそれまで、信じて待っていて欲しい、と繰り返し告げても。リディオの言葉を、信じる、ということの意味すら唾棄するように。彼らはなにも信じなかった。ただ、あらゆる情報を欲しがった。
 ジェイドが怒り狂っている、という報が届いたのはその頃のことである。あれよあれよという間に侵入され、引き渡し要求が届き、『お屋敷』は混乱を収める暇がない。深く、息を吐き出して。リディオは投げた書状を、嫌がるように指先で突っついた。
「……言い訳は、しない。しないが……まず、せめて、どちらか話を聞いて欲しい……」
 話し合いとかそういうのいいんで死ね殺す、というのが国側もといジェイドからの要求。話とかもう信じられるものではないので口を開かないでください自由にさせろ、というのが『傍付き』以下世話役たちの要求である。外勤担当であった二人が世話役たちと話をしようとしてくれてはいるものの、彼らはそもそも、直接的な怒りの対象である。
 よくも、という怒りは正当なもので、彼らもそれはよくよく分かっているからこそ、話し合いができる筈もなかった。幾度目かの息を吐き出して、リディオはゆっくりと瞬きをした。
「でも……ああ、そうか……」
 指先で、書き連ねられた己の名を、なぞる。
「……もう、生きていることを望まれてない、んだな……。ジェイドにも」
 側近の女がなにを告げるより早く。は、と吐息が零れる。穏やかに、満ち足りたように。ようやく、それを許された幸福に、リディオは口元を綻ばせていた。そこにあるのは確かに幸福だった。それを、ずっと望み続けていたことを。側近の女は知っていた。
「もう、いいんだ……? 死んで、いいって、言ってくれたんだ……。生きてなくて、いいって……殺してくれるって」
 よかった、と静かに囁いて、リディオは両手で顔を覆った。薄暗がりの向こうで、今も、その姿を思い描ける。うっとりと目を開いて、リディオはほんとうに久しぶりに、側近の女の名を呼んだ。
「フォリオ」
「……はい」
「一緒に死んで。キラが待ってる。……褒めてくれるかな。頑張ったんだ。頑張って、頑張って……ちゃんと、当主を、したよ、偉い? フォリオ、キラは……俺を許してくれるかな……?」
 もちろんです、とフォリオは言った。不安げな『花婿』に歩み寄って、ためらいなく手を伸ばす。腕いっぱいに抱きしめれば、その強さに、リディオが幸せそうに笑いを零す。
「フォリオ……ねえ、フォリオ。フィリ。いい? もう、いい? もういい……?」
「……連れて、逃げろと、望んではくださいませんか」
「それより。そんなことより……」
 どうか、と身命を捧げた『花婿』が『傍付き』に望む。
「今も、俺を、大事だって思ってくれてるなら……『花婿』だった時みたいに、好きでいてくれるなら……」
「リディオ」
「好きと、言って、欲しい……」
 愛しています、と『傍付き』は言った。あの日からなにも変わらず、ただ、あなたのことを愛しています、と。告げたくちびるに、泣き出しそうに笑った『花婿』が触れる。俺のすることを怒らないで、と囁きながら。
「……キラと、フィリ、の……に、なりたい……」
 震える手で、『傍付き』の頬を撫でた。
「しあわせになりたい……」
 ごめんなさい、と泣きながら繰り返すくちびるが、口付けで塞がれる。最後ならいいのに、と『花婿』は思った。瞬きも、呼吸も。これが最後ならいいのに。これが最後になればいいのに。ほんとうにそう望んでいるのに。無意識に吸い込む呼吸の先で、『傍付き』の名を恋しがって呼ぶ。零れ落ちていく。言葉も、想いも。
 けれどもそれを拾い上げるように。『傍付き』が柔らかな声で、リディオの名を呼ぶので。息をした。生きる為の、息をした。もうすぐ傍に許された、死がやってくるその時まで。生きていたい、とはじめて思って、息をした。



 『お屋敷』から届いた書状を見た王が、あー、と呻いて頭を抱え、動かなくなったので、シークはあえてその内容を問いかけてやった。満面の笑みで。
「陛下? 『お屋敷』の方々はどのような? ジェイドが落ち着きそうな返事が?」
「……分からん……。もうやだ……」
 先代はあんな魔窟とどうやって付き合ってたんだとぼやく声が真剣な苦悩に満ちている。新王、と即位の間呼ばれ続けた男が、王位を退いて早数年。退位するなりさっさと引退してしまった男の顔を思い浮かべ、シークは苦笑気味に言ってやった。
「即位の前から御当主さまと仲良しだったんですよ。密約だのなんだのしていたようですが……引き継がれたのでしょう?」
「……それについては、俺が即位するまでに必要なことだった、として殆ど破棄されて行かれた」
 だから内容も聞いてないし、あの方は丁寧に燃やして行ったから残ってもいない、と彼方を見つめる目で呟かれて、シークはなまぬるい微笑みと共に頷いた。そういう資料は出来る限り残しておくのが原則であり、前王がそれを知らぬ筈はないのだが。あの方そういう所ありましたよね、と笑うしかない気持ちで囁けば、現国王は呻きながらも幾度も頷き、のろのろとした動きで頭を抱えなおした。
「やだ……嫌になって来た……なんで俺の周りは一癖も二癖もありすぎて複雑骨折しているようなのしかいないんだ……」
「まぁたそんな可愛くないこと言って。……昔から別に可愛かった訳ではありませんけれどね?」
「お前ほんと昔から俺のこと可愛がらないよな……。……違う。そうじゃない。可愛がれって言うことじゃない! 撫でるなっ!」
 心底仕方がなさそうに頭をわしわしかき混ぜてくる手を振り払い、砂漠の王は胃のあたりを手で押さえて蹲った。しばらく待っても動かないので回復するまで待つことにしながら、シークは投げ出されている書状を摘み上げ、勝手に目を通しながらあくびをした。
「ウィッシュとの面会を希望する、ねぇ……年末年始の長期休暇なら可能ですって返事と手配をしましょうか?」
「おまえなにかってにみてんだぶちころすぞ」
「陛下の言葉遣いが乱れたの、ほんと誰の影響なんでしょうねぇ……。ボクでもジェイドでも、そう乱れる筈はないんですけど……。最近眠れてます? 久しぶりに添い寝と子守歌でもやってあげましょうか? 一時それで眠れたでしょう」
 楽しんでいるというよりは心配の濃い魔術師からの申し出にも、砂漠の王は胃の痛そうな呻き声で、おまえなにひとのくろれきしおもいだしてんだころすぞ、と言っただけだった。これがもしや反抗期なのでは、という顔で沈黙するシークに特大の舌打ちを響かせ、深呼吸をして、持ち直した砂漠の王が顔をあげる。
「とりあえず、飲めそうな要求から飲んでくしかないな……。ウィッシュの件、手配をしておけ」
「かしこまりました。ジェイドにはなんと?」
「……会わせてやるから大人しくしておけ。あと反省しろ、と」
 言いますけど、とシークは仕方がなさそうに肩を竦めて囁いた。
「別に彼は、息子に会いたいって要求している訳ではないんですよ、陛下」
 会いたくない、と拒否している訳ではないだけで。会おう、とはしていないのだった。会ったら気持ちが宥められるかも知れないだろ、と告げる砂漠の王に、苦笑して。言葉魔術師は一礼し、拝命致しました、と告げる。父母にどういう仕打ちをされたか、記憶を失っている訳でもあるまいに。その繋がりと情を信じる主君を、魔術師は尊く、思っている。



 十一月になったので、そろそろ年末の準備をしなければいけない。服装がもこもこのふわふわになって来たソキに開口一番そう告げられ、妖精は穏やかな気持ちで頷いた。ソキに脈絡がないのはいつものことである。この後の説明も、決して期待していいものではない。それでも、そうなのね、と促してやればソキはぱっと頬を赤らめ、きゃぁんきゃんと身をよじって喜んだ。
「そうなんです! それでね、ソキは温かい恰好をしないといけないです。それでね、まじちしさんは、年末にはなにをするの?」
『……それでねって、言うのは……そういう使い方をする言葉だったかしら……。違うわよね……?』
 相変わらず過ぎるソキに眩暈を感じて額に手を押し当てても、『花嫁』はぱちくり瞬きをして、不思議そうに首を傾げるだけだった。妖精にとっては幸と不幸が等分になったことに、ロゼアは会議かなにかで入れ違いになってしまっている。鉱石妖精がそ知らぬ顔をしてついて行ったので、用事の内訳は知ることが出来るだろう。
 結局、ジェイドに対する謎は深まるばかりだった。それに対しての、『お屋敷』の内情にも不安が残る。誰が、どうして、なんの為に、なにを企んでいるのかが分からない。なにがソキに対しての悪影響になるのかも。場合によっては案内妖精として、他国の王宮魔術師に救援を求めることも考えなければいけないだろう。その為にも情報は必要だった。
 砂漠の国は、この脆い魔術師の卵を守り切れるのだろうか。
「……妖精ちゃん? どうしたの? 悩みごと、です?」
『ソキ。最近、変わったと思うことはない? なにか困ったりしていることは?』
「あのね。ロゼアちゃんが、さいきん、お忙しくってですね。ぎゅぅの時間が減ってるです。ゆゆしきこと、です……!」
 それ以外で、と妖精は微笑んで言い放った。例え一秒短いだけでも、減っただのなんだのとソキが騒ぐのを知っていたからである。ええぇえ、と思い切り不満そうな声をあげて頬をぷっくり膨らませ、それでいて、ソキは素直にくにゃりと首を傾げてみせた。四方を布で囲まれた寝台の上で、ソキの様子は平常通りに見える。
 ただ、すこし。ほんのすこし、幼子を取り巻く部屋の空気が緊張しているように感じるのは、妖精の疑心が産んだ錯覚なのだろうか。
「うぅーん……うーん……? 変わったことぉ……? ソキのお服が、お冬の支度になったのじゃなくてです……?」
『……無いなら、いいのよ』
「あっ」
 ぱちんっ、と音を立ててソキが両手を打ち合わせる。その仕草を、自分でやっておいて痛かったのだろう。おててじんじんする、と鼻をすすりあげられるのに苦笑して、妖精はそっと、ソキの手を撫でてやった。
『なにかあったの? 教えてくれる?』
「うぅ……あのね、あのね。御当主さまがね、ご機嫌なんですぅ……。なんだか、とぉーても、ご機嫌がいいです……。あんなにご機嫌なの、ソキ、みたことないです。不思議なことです……。おいしいおかしでももらたのかもです……? んん……? ……あっ、それでね、御当主さまがね、ご機嫌でね、でもね、やんやんぷぷぷってなるひともね、いてね、それでね、ロゼアちゃんがたくさん会議でね、だからね、いけないことです。いくないです」
 ソキにしてみれば、何故か増える会議にロゼアを奪われているので、真剣に歓迎していない出来事なのだろう。妖精はなにか不穏なものを感じて、そう、と呟き羽根を揺らめくように動かした。ジェイドが語った過去の物語が、押し寄せては瞬き消えていく。思えばその目でしかと見て、会ったことのない相手である。それでも、そういう風に機嫌よくしている、というのは違和感があった。
 ざわざわと、音にも声にもならない予感がしている。花を散らす嵐が訪れる、いくつか前の夜のような。未だ前兆もなく、けれども確かになにかが起こり、そのなにかを、確かに感じ取っている。
「……シフィアさんもね、とってもね、ぷぷっとしてるの。だからね、ロゼアちゃんは心配なの……」
『……だぁれ? それ』
「美人さんなんです……」
 なにひとつとして妖精の欲しい情報に引っかからない解説である。額に手を押し当てて、そう、とだけ呻く妖精に、そうなの、と目を潤ませて、ソキはずびっと鼻をすすった。
「ロゼアちゃんとね、仲良しなの……。よくないです……。でもね、でもね、アルサールさんもね、ぷっぷりなの。いつもならね、ソキが手を振るとね、にっこり笑ってご挨拶してくれるの。でも最近はね、ぺこってしてね、すぐどこかに行っちゃうの。御当主さまがご機嫌になってからです……。……もしかして? ふたりのとっておきのおやつを? 御当主さまがたべちゃたのでは?」
『……全然違うと思うけど、なぜか間違っていないような気がするのはどうしてなのかしら……?』
「えへん。ソキの名推理、ということです。ソキ、探偵さん、になれるかも……?」
 妖精ちゃんは助手さんね、と勝手に決めてくるソキに、苦笑しながら頷いてやる。めいたんてへの道も近いです、とふんふん興奮しながら頷いて、ソキはころりと寝台に腹ばいになった。
「ということはぁ……。シフィアさんと、アルサールさんに、とっておきのおやつを返してあげればいいです? 御当主さまったら、くいいじがはっているのではないのです……? ソキだって、こっそりオヤツをたべちゃたあとには、ちゃぁんとごめんなさいができるいい子ですのに……。もしやごめんなさいをしていないのでは……」
『……あ、分かったわ。そうよね。お昼寝の時間ですものね』
「ごめんなさいをできないです……? いくない、いくないですぅ……」
 思い切り眠そうな声でくしくしと目を擦るソキは、妖精の腑に落ちた声に、自慢げな顔をしてこっくりと頷いた。
「いいことを思いついたです」
『なあに?』
「ソキのね、とっておきのおやつを、おふたりにあげるです。あのね、年の初めのね、お祝いの、お菓子のね、しさくひんがね……そろそろね、ソキのね、おやつになってね。それでね。ほんものはね、ソキの。ソキのなんですけどね、そうじゃなくてね、しさくひんのね、おやつなの。でもね、とっておきでね、でも、そき、がまんする……。お、怒ってるの、いやです……シフィアさんも、アルサール、さんも、さいきん、ずっと、こわい、かお、ばっかりしてる……」
 呟きをほとほとと落としながら悲しげに鼻をすすって、ソキはくるりと丸くなった。緊張しきった様子で体に力を込めて、外側で奏でられるなにかに、必死に抗おうとしていた。
「にこにこしてほしです……。だから、ソキ、とっておきだけど、でも、でも、がまんする……」
『……きっと、喜んでくれるわ』
「でしょう? あのね、あのね、これはひみつなんだけどね、ソキね、ソキね、シフィアさんも、アルサールさんもね、とっても、とっても、すきすきなの。ふたりともね、ほんとは、いっつも、にこにこでね。ソキさまって、呼んでくれてね。それでね、たくさん、おはなしをしてくれるの。ほんとはね、ほんとはね、やさしいの……にこにこなの……」
 ふああぁあ、と大きく口をあけて、ソキがあくびをする。妖精は微笑んで、しきりに瞬きを繰り返す幼子の瞼を撫でてやった。おやすみなさいな、と囁きかけると、ソキは不満げな顔をして頷いた。うとうと、夢へ落ちかけている目が、布で覆われた寝台の向こうへ向けられる。
「……ソキのおひるねには、もどるていてたですのに……ぷぷぅ」
『許してあげましょうね。……さ、おやすみなさい』
「はぁい……」
 泡がはじけるようなあくびをして、ソキは眠りに落ちてしまった。体中に力を込めたままの姿を、妖精は不安な気持ちで見つめてしまう。やがて、慌てた様子で戻って来たロゼアが、ソキを腕に抱き上げてしまう、その時まで。ソキはずっと、体いっぱいに緊張して、なにかを警戒したままだった。なにかを。言葉にならないものを、予知魔術師も確かに感じ取っている。
 花園に訪れる、嵐の予感を。



 瞬きをするのが苦手なのは、目を閉じるのが怖いからだった。瞼を下ろして持ち上げて、その瞬間に夢だったと気が付いたことが、いったい何度あっただろう。それは絶望よりも喪失だった。いままで腕の中いっぱいにあった幸福が、瞬きひとつで消えてしまったことへの喪失。それはいつだって、記憶をすり潰されていくような痛みがあった。彼方に置いてきた幸福すら、見ていた夢であったような気がした。
 息をするのが得意でないと思うのは、吐き出す喉が決まって軋むからだった。水を飲んで欲しいと繰り返し懇願されても、混ぜ物の味を覚えた舌がどうしても拒絶した。なにも混ざっていない水の味などとうに忘れてしまった。そんなきよらかなものを口にしたことが、果たしてほんとうにあったのだろうか、とも思う。差し出されるものを疑わず口にできた日は、幻ではなかったのだろうか。
 名を呼ばれることに慣れないのは、ずいぶんとそうされていなかったからだ。与えられるのは名というよりも、単に識別の為の響きでしかなかった。うつくしい、という称賛は肌の上をただ滑って行く。『花婿』と、ただその言葉で呼ばれていた。ウィッシュ、という響きが己の名であると思い出した日に、それを呼んでいてくれたひとたちの声を思い出せないことに気が付いて、ただ、ただ、泣いた。
 けれどもその記憶も本物なのだろうか。あの幸福はほんとうのものだったのだろうか。目を閉じて、開いて、息をして、何度それを繰り返しても、今というこの時が夢ではないと信じることができないでいるのに。ここが夢なのかも知れない。あの迷路のような美術館の、閉ざされた日々が夢なのかも知れない。『お屋敷』での日々が夢なのかも知れない。どれもほんとうは、夢なのかも知れない。
 夢から醒めて、ウィッシュはどこへ戻って行くのだろう。戻る所はどこにあるのだろう。どこかに、それが、ほんとうにあるのだろうか。胸をかきむしるようなむず痒い痛みを、期待や、希望だと感じて、それを受け止めきれないでいる。何度踏みにじられただろう。瞬きの白昼夢の間に。何度あの場所へ戻っただろう。何度あの幸福に身を浸しただろう。何度、愛しい人の名を呼び、呼ばれただろう。
 何度も、何度も。それは夢だった。気が付けば一人で取り残されていた。手を伸ばしても誰に触れられることはなく。呼ぶ声に応える者はいなかった。ぱたぱた、瞬きをしながら、ウィッシュは考える。与えられた部屋の中、寝台に座り込んで、夜の闇を恐れることもなく。その先になにを見つめることもなく。ただ、考えている。眠りたくはなかった。眠って、夢を見て、起きることが嫌いだった。
 妖精が訪れて。ウィッシュのことを、魔術師だと言った。そのことを、ずっと、考えている。夢のような日々。夢ではないと誰が言えるだろう。夢ではないとどうすれば信じられるだろう。夢の先にはなにがあるのだろう。瞬きをする。夢ではないと信じたい日々の中で、一瞬、見たもののことを考える。視線が重なった。それだけだった。言葉を交わさなかった。顔も、はきとは見えなかった。けれども視線は重なった。
 記憶の中に。掠れる幸福の記憶の、さらにその中に。忘れられないひとがいる。そのひとのことをずっと呼びたいままでいる。夢の中で見た夢だったのかも知れない。幻でしかなかったのかも知れない。でも、とウィッシュは暗闇の中で思う。もし、もしも、ほんとうにそのひとが、そこに、いて。それが夢ではなくてほんとうのことなのだとすれば。全てが夢ではなくて。全てが現実で。本当のことで。夢では、なくて。それは。
 それは。その時に。そのことを、なんと、呼ぼう。今が夢ではないのだとしたら。今が本当のことなのだとしたら。これまでの夢が、夢ではなかったのだとしたら。これまでのことが、ぜんぶ、ぜんぶほんとうなのだとしたら。それは。それが。そのことが。言葉を。感情を。なににしよう。どうすればいいのだろう。あの幸福も喜びも悲しみも苦しさも寂しさも痛みもなにもかもなにもかもすべてぜんぶ夢で夢ではなくてほんとうだとしたらそれはその時は、その時に。
 どうすればいいのだろう。



 今はまだ、醒めない夢の中にいる。

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