託児所かな、と扉を開いてシークは言った。場は王の執務室。真昼の陽光射す、『学園』の長期休暇突入初日のことである。『扉』を使って来たのだろう。足元に大荷物を下ろし旅支度を纏ったまま、魔術師の卵たちは口々に、先輩ひどいひどいばかぁああっ、というようなことを、ぴーちくぱーちく囀って、頭を抱える王の顔色を悪化させた。
あーはいはい、と雑な指揮者のように腕を振って静かにさせながら、シークは大股で部屋を横断し、巣のように配置されたクッション群へ埋もれている、己の王へと歩み寄った。ひょい、と顔を覗き込み、酒精の気配ではないことを確認して、苦笑する。
「寝不足ですね。陛下。今日の理由は? 寒かった寂しかった緊張していた、はたまた他に御心を悩ませることが? 察したジェイドが暴れでもしました? 報告はまだ届いていないようですが。……まさか恋の予感でも?」
「お前が俺の精神衰弱について選択肢の心当たりから自分を抜いてる理由を知りたい……」
「品行方正な貴方様の臣下に対してなにを仰る?」
ほんとしれっとこういうこと言って来るのが嫌だ、と言う王の視線を穏やかな笑顔で受け流し、シークはふむ、と室内を見回した。休暇初日。王へ挨拶をしてから帰省する為に集まった、魔術師の卵の数は五人。砂漠出身の生徒はまだ人数がいるので、他は帰省しないか、さもなくば城を通過せずに家へ帰るのだろう。王へ挨拶をしていくのは義務ではない。旅程表の提出は義務付けられているが。
後で提出物を確認しておかなければと思いながら視線を王に戻すと、どうにも気乗りしない顔でため息交じりに頷かれる。早くしろ次の仕事があるだろうと促され、シークはやれやれと立ちなおし、引率の教師よろしく、手を幾度か打ち鳴らして生徒たちに整列を求めた。
「はい、おしゃべりはそこまでにしようね。陛下にご挨拶できるかなー? 声を揃えて、はい、陛下おはようございまーす」
「おはようございまーす!」
「……元気でなによりだ。おはよう」
声が頭痛に響いても、生徒たちを怒ったりしない所が、シークの王の可愛らしさだ。頭を抱えて力なく呻こうとも。生徒たちの心配そうな視線に、陛下ねぇちょっと恋の病で眠れない夜を過ごしてるからそっとしといてあげようねー、と告げてクッションを投げられるのに笑いながら、シークは穏やかな気持ちで言葉を重ねて行く。
「さて、分かってると思うけど。長期休暇の間は、大人しくしているように。魔術の使用は厳禁。いついかなる理由、状況であっても、許可なく魔術を行使したりしないように。今日の運勢を占う程度のことでもね、したらいけないよ。希望があれば、あらかじめ許可を取っておくように。申請して、許可があって、はじめて行使を許される。この行程を覚えておくように。逆に言うと、申請さえすれば小粋なお兄さんやお姉さんが気前よく許可してくれるからね。社交辞令とか美麗字句並べて許可をもぎ取る練習だと思おうね。難易度は低いよ」
「クソシークふざけてんじゃねぇよ真面目にやれっつったろ馬鹿。独房に突っ込むぞ」
「そうそう。独房ね。無許可の魔術行使は最悪独房だから、肝に銘じておくように。独房つまらないよ。狭いし暗いし娯楽はないし、おすすめはしないからね。分かった? 分かったら返事しようねー」
はーい、と口々に、時には手をあげて返事をする少年少女は、砂漠の魔術師の奇行にも王の胃痛頭痛顔にも慣れていた。申請書類は出しました万一の時に備えて予備の紙も持ってます、とはしゃいだ声が告げて行く。瞳はずっと落ち着きなく輝いていた。それに、眩しく目を細める。微笑みを深めながら、シークはよし解散、と言い放った。わぁっ、と歓声が零れて行く。
陛下失礼します陛下お土産買ってきます陛下俺んち薬屋さんだからあとでいいのを届けます陛下たくさん眠ってくださいね陛下さようならまた帰りに来ますね、いってきます、とわちゃくちゃ話して、生徒たちは荷物を担ぎ、ぱたぱたと部屋をかけ出して行く。ある者は馬車の発着場へ、またある者は迎えと合流する為に貴賓室へ。
廊下は走らない、と通りがかった文官や兵士たちが注意するのに、はーいごめんなさーい、と反省の薄い声がこだまする。笑い声とはしゃぎ声。希望いっぱいに満ちた若い声はしばらくの間木霊して、ゆるゆると消えて行った。それは、なんともいえない幸福だった。くすくす、思わず口元を手で押さえて笑いながら、シークはちらりと王に目を向ける。
「可愛いですねぇ、平和そのものだ。そう思いませんか?」
「……お前にもあんな頃があったのかも知れない、と思っていますごく残念に思ってる」
「ボクは長期休暇中、『学園』から出ることは稀でしたよ。ご心配なく」
あからさまに気まずそうな顔をして、そういうことじゃない、と王は息を吐いた。そのまま珍しくも言葉に迷うよう視線をさ迷わせた王は、立ち上がりながら響かない声で告げた。
「家に、帰りたくなった時に……ああやってはしゃいで、帰れる場所が、あればよかったんだ。お前にも」
「……ご心配なく。そういう気持ちは、もう」
「置いてきたなら、取りに行けばいい。……もうお前は、砂漠に帰ってくれば良いんだから……なんだその顔」
いえ、とシークは王から顔を背け、口元を手で押さえながら首を振った。目を閉じて息を吸う。まとまらない言葉で呻くように、シークは薄く口唇を開いた。
「……どこかに、帰ることが。また……帰れる、と……」
吐息を零して。シークは行くぞ、と戸口で待つ王の前に歩み寄り、片膝をついて微笑みながら告げた。
「陛下結婚してください。ボクは幸せになれます」
「え。やだ」
「ちっ。じゃあせめて責任取ってください。陛下の魔術師誑し! ボクのなにが不満だって言うんですか!」
なにが不満なのか言わせようとするトコがヤだし心当たりがなさそうな所もすごくヤだ、と無感動な目で言い切って、砂漠の王はさっと身を翻して歩いていく。仕事だぞ働けよ、と叱られて、シークは肩を竦めながら立ち上がり、己の主君の後を追った。
ちょうど部屋から出て来た少年は王とシークに気が付くと、あっと声をあげて恥ずかしそうに頭を下げた。実家が薬屋だと告げた少年だった。元気がないように見えて、心配だったから、と早口に告げ、どうぞよろしくお願いします悪いヤツじゃないんです、と言い置いて走り去っていく背を見つめ、シークはほのぼのとした気持ちで頷いた。
「友達だったんですね。よかったよかった」
「これは純粋な疑問なんだが、あの状態でどうやって友人作ったんだ?」
「ジェイドみたいな世話好きなんじゃないですか? 誰かの世話してないと息できないみたいな」
お前ほんとうに俺に対する受け答えが適当だよな、とうろんな目をする砂漠の王に、それなりに精度の高い推理だと思いますが、と言ってシークは扉の前で立ち止まった。その日に、砂漠の王の護衛として『学園』へ向かったのはジェイドである。だからシークは人の口を介してしか、その光景を知らなかった。彼は無感動な瞳で、微笑んで椅子に座ったままでいた、と言う。
展示品のように。
「……シーク」
「はい」
「一人で手に負えないと感じたら、すぐに言え。いま、これ以上、『お屋敷』との関係を悪化させられない」
はい、とシークは従順に頷いた。幾度かジェイドを呼びに訪れた、あの花園のことを思い出す。今は遥か遠い記憶。うつくしい人々の住むジェイドの故郷が、今は魔術師を疎んでいることを、殊更意識したくはなかった。遠目に一度だけ、赤子を見たことがあった。しあわせそうに笑っていた。ジェイドも、その幼子も。その記憶を永遠に、大切なものとして保っていたかった。
扉を叩く。入るよ、と告げる声に返事はなかった。押し開く。軋んだ悲鳴のような音を立てて、扉が開いた。
「……ウィッシュ」
名を、呼んでも。椅子に座ったままでいる青年からの反応は、なにもないままだった。視線は伏せられ、なにも見ていない。ただ、ゆっくりと瞬きをしている。息をしている。うっとりとまどろむような横顔は、息を苦しくさせる程うつくしく、きよらかで、『花嫁』に似ていた。
『ウィッシュ。ほら、陛下とお世話の魔術師が来たよ。挨拶しような……ウィッシュ、ほら』
穏やかな声で、妖精が青年の耳に囁き落とす。それに一歩足を踏み出して、王を庇うように立ち位置を変え、シークは鼻白んだ声を響かせた。
「案内妖精くん? キミがいるとは聞いていないけど」
『……彼を導いたのは俺だ。共にあることを、おかしいとは思わない。魔術師に咎められる理由もない。お前たちにそんな権利はない』
「権利ねぇ……確かに妖精がどこでなにをしようと、咎める権利なんてないさ。ただし、キミにも無いだろう? 案内妖精の立ち位置は永遠じゃない。『学園』に導くまでがその役目。夜会でのエスコートまでがその権利。どちらも、もう終わっている筈だ。……キミたちはようようこの国が好きらしいね? いつもボクたちの為に、どうもありがとう? キミたちの尽力のおかげで、今はこぉんなに平和だよ。感謝してる」
なにを煽ってんだお前は、と呆れに塗れた王の声が、吐息と共に響いていく。見えず、聞こえなくとも魔術師の保護から出ようとはせず待つ王に、言葉魔術師は柔らかな安堵を感じながら、視線を前から外さなかった。
「……案内妖精の同行には問題があるか? ソキの妖精だって友達……いや、伴侶だっけ……? 番いだかなんだか連れて遊びに来てるだろ?」
「陛下。それをあの花妖精の前で言わないように気を付けてくださいね。根回しが終わってるって気が付いてない様子ですからね」
「……うん?」
まあそう言うなら、と緊張感のない声で呟く主君に、言葉魔術師は張り詰めた気を解かず息を吐き出した。
「別に妖精が同行することは構いませんが……彼らは魔術そのものに近しい存在です。ウィッシュは未だ未熟な魔術師のたまご。妖精の同行により、魔術の発動がしやすくなります。彼らがそれを助けるからです。……無意識に、また意識的に、許可なく、魔術を発動してしまいかねない。状況から考えても、歓迎できる状態ではありません」
「歯止めがかかる、のではなく?」
「もちろん、制止することも可能でしょう。補助ではなく、制止を、妖精が選ぶのであれば」
もちろん僕たち魔術師の規約は知っていてくれるでしょうけれどね、と言い放つシークを、妖精は睨みつけるだけだった。望めば、とその表情に書いてある。ウィッシュが望めばその願いを、案内妖精は叶えるだろう。シークは隠さずに溜息をついた。あの覚悟を決めた顔を知っている。それは『花嫁』を送り出す者たちに見るもの。己の覚悟に準ずる者のひかり。
「……僕だってキミと喧嘩したい訳じゃないんだよ。親子二代に渡って案内妖精する気分はどう? とか、雑談したっていいくらい」
「いやお前それ煽ってるだろ……? 友好じゃないだろ……」
「……おやこ?」
はじめて、意思を乗せて。ウィッシュは声を響かせた。しまった、という意思を押し隠して、シークは微笑んで青年に歩み寄る。いま、とたどたどしい響きの声で問われようとする意志を感じながらも、シークはウィッシュの前にしゃがみこみ、その顔を覗き込むようにして告げる。
「こんにちは。説明を受けてるかな? 僕がシークだよ。君の里帰りの護衛役。よろしくね」
「……うん」
「さっそくだけど、お願いをしていいかな? できれば、キミの案内妖精は城へ留めて行って欲しい。僕と、キミと、二人で行こうね。キミがもし、ひとりで心細かったり、寂しいって言うなら……」
言葉に。『花婿』は不思議そうに、ゆっくりと、瞬きをした。ゆっくり、ゆっくり、あどけなく、首が傾げられる。ああ、とシークは息を吐き出した。『花嫁』に、そして、ジェイドに。とてもよく似ている。凍り付いた過去の、幸福のかたちをしている。『花婿』は薄くくちびるを開いて囁いた。甘くふわりと響く、いとけない響きをしていた。
「……ひとり、だよ?」
ずっと。ひとりだったよ、と。寂しさも、悲しみも、なにもかも置き去りにして、目隠しをして、凍り付かせて。耐えて耐えて耐えきって、いまもなお、向き合うことができないでいる、その声に。シークは覚えがあった。そうか、と微笑む。その心を理解できる。己の内側にあるものに、とてもよく似ている。
「じゃあ……置いて行けるね」
「……うん? ……うん。いける」
「よし。……陛下、それでは馬車の用意を整えて……行って来ます」
事態を理解していないような、反射でなされているような声に頷いて、シークは全身に力を込めて立ち上がった。『花婿』の瞳は再びなにもかもへの興味を失い、ぼんやりと伏せられ瞬きだけをしていた。夢を見るように。全てを拒否するように。寄り添う妖精の姿すら、受け入れることはなく。全て夢だと願うように。
鉱石妖精は、『お屋敷』に来るなりロゼアの頭へ飛び乗った。もぞもぞと収まりのいい場所を探して動いたのち、額のあたりに足を投げ出して羽根をゆらりと動かしている。あなたなにをしているのと問えば、座り心地がいいですね、すこし揺れますが問題にはなりません、と真面目な顔で批評されたので、花妖精はもう放置しておくことにした。一緒に来たと思えばこれである。なにを考えているのか分からなかった。
ロゼアは妖精たちの訪れを察知した様子もなく、室内をくるくると動き回っている。珍しくソキを抱き上げていない。探せばソキはふかふかのソファに腹ばいになって、真剣な顔でスケッチブックに向かい合っている。しきりにぱちくり瞬きをし、んん、と声を零しながらも手を止めないでいた。よほど集中しているのだろう。妖精がその目線の高さまで降りても、意識が向く気配は見られなかった。
なにをしているのか、問わずとも分かった。描かれていたのは魔術師の水器だった。ソキがその胸の中に持つもの。案内妖精が訪れてからずっと書き続けているそれは、今ようやく、完成しようとしていた。うんうんと唸ってくちびるを尖らせていたソキの、手の動きが止まる。腹ばいからんしょんしょと起き上がったソキは、スケッチブックをじっと見つめ、やがて重々しくもあどけない動きで、こっくりと力強く頷いた。
「でぇーきたぁー! ですー! あっ妖精ちゃん。いらっしゃいませです」
『……これが、あなたの水器? わたしの魔術師さん』
「そうなんです。すごーいでしょう? ロゼアちゃんろぜあちゃ……おいそがしそうです……」
しおしおと元気をなくして行くソキを、慌てて歩み寄ったロゼアがひょいと抱き上げる。抱き寄せて宥めながら、どうしたのごめんな大丈夫忙しくないよ、ソキそきどうしたの、と甘く囁かれて、『花嫁』はゆるゆると頬を緩めて行く。あのねぇ、と、とびきりの甘え声でソキはスケッチブックを差し出した。終わったんだな、とロゼアは目を和ませて微笑む。
すごいな、偉いな、きれいに描けたな、頑張ったな、可愛いな、と囁かれて、ソキはそうでしょうふふふんっとにこにこしながら、ロゼアの腕の中でふんぞりかえった。あのね、あのね、と耳元に口を寄せてこしょこしょと囁かれるのに、ロゼアはくすぐったそうにしながらも、幸せそうに笑って頷いている。見ればしれっとした顔をして、鉱石妖精はロゼアの隣に浮いていた。
『……ねえ、今日はあなた、なにしに来たの? ヴェルタと一緒に居ればよかったじゃない……?』
『彼のことは、別に。観察と考察のしがいはありますが、仲良く一緒にいる間柄でもありませんし……それに、今日はそのうち、こちらまで来るのでは?』
『そうだけど……。ソキ、ねえ、ソキ? あなた、今日は来客の予定があるの?』
すっかりご機嫌でソファに下ろされたソキに、妖精は言葉を選んで問いかけた。『学園』から『お屋敷』を訪れる魔術師の存在を、名を、己との関係を、ソキがどこまで把握しているのかが分からなかったからだ。ソキはまた忙しく室内を動き回り、世話役やメグミカと口々に言葉を交わしては指示を飛ばし、打ち合わせを進めるロゼアをぽややんとした眼差しで見つめ、妖精の言葉にのたくたとした仕草で首を傾げてみせた。
「来客の予定? あるの?」
『あのね……わたしが……聞いたのよ……?』
「うぅん。ソキ、分からないです。……あのね、妖精ちゃん。今日はね、『お屋敷』ね、忙しいの。御当主さまのお仕事でね、それでね、お迎え? なの。来客なの? ソキのお客様、なの? ソキ、聞いてないですぅー。しらなーぁーいーですぅー」
仲間外れにされている気がするですううううう、とぶすくれて拗ねた声に、メグミカがはっとした顔をしてロゼアの腕を引く。ロゼアはしまった、という顔をして改めて室内を見回し、花妖精を注視したかのように、すっと目を細めて口を開く。
「ソキ。妖精さんがいらっしゃるの? いつから?」
「ちょっと前……。絵の終わった時に、いらっしゃいませをしたです……ソキは仲間外れなんです? いけないですぅ……」
「違うよ。そういうんじゃないよ。……お客様がいらっしゃるって? 妖精さんが言ったの?」
頬をぷーっと膨らませて、ソキはしっかりと頷いた。そう、とロゼアの静かな声が室内に響き渡る。ちたちた、ぱたた、と脚を振って不満そうにするソキに、歩み寄った『傍付き』が跪いて告げる。
「御当主様のお客様だよ。仲間外れじゃないよ、ソキ」
「……ソキのお客様じゃない?」
「違うよ。違うってちゃんと言っておけばよかったな。びっくりしたな。ごめんな」
無言で『花嫁』が両腕を持ち上げる。ん、と喉の奥で笑って、『傍付き』は『花嫁』を抱き上げた。ぎゅむぅーっと抱き着いたソキが、不満いっぱいの顔で、ぽん、と顎をロゼアの肩にくっつけた。
「じゃあなんでロゼアちゃんお忙しいです? ソキのぉー、お客様じゃぁー、な・い・で・す・の・にぃー」
「……ちょっと特別なんだよ、ソキ。特別なんだ……その方を、お迎えするのにね、たくさんの人が準備してるんだよ」
ソキは、ふぅん、と言ってロゼアにぺとりと頬をくっつけた。納得したのかは分からないが、妖精が見た所、ソキはロゼアが構ってくれないことを最重要視して感情をこじらせているので、このままにしておけばどうとでもなるだろう。案の定、すぐ、くすぐったそうな声でふふっ、と笑い声を零し始めるソキに、ロゼアが肩から力を抜いて、ほっと脱力するのが見えた。
室内で成り行きを見守っていた世話役たちも、緩んだ笑みで視線を交わし合う。なんとも言えない表情で寄って来た鉱石妖精と同じ気持ちで、花妖精はそっとソキから離れて浮かび上がった。ロゼアは嘘をついていない、と直感的に思う。しかし、真実でもないだろう。そのような準備を、当日に至るまで、こんな風に慌ただしくする不手際を犯す者たちとは思えなかったからだ。
なにか事故か、予期せぬ騒ぎでも起こっているに違いない。ソキの元には届いていないだけで。考える花妖精の見つめる先、ご機嫌になったソキが、にこにことソファに滑り落されながら告げる。
「ロゼアちゃん!」
「ん? なぁに?」
「あのね、あのね、その、特別のお客様をね、ソキ見てみたいです!」
ぴしっ、と室内の空気が凍り付いたのを妖精たちは感じ取る。え、とひび割れた、ぎこちない声で呟くロゼアに、ソキはすっかりその気で目をきらめかせ、ふんふんと興奮した様子で鼻を鳴らしている。この説得は難航する。確信する妖精たちの視線の先で、ロゼアは無言で胃のあたりに手を押し当てていた。珍しい仕草だった。
両手足に重りをつけられたが如き眠りから、痛みがジェイドの意識を覚醒させた。呼吸と、鼓動と、同じ感覚で頭の芯が鈍く痛む。喉が詰まって息が苦しい。咳を何度も繰り返し、込みあげてくる吐き気を堪えながら、ジェイドは寝台に手をついて体を起こした。やぁあああんっ、と泣くように明滅したシュニーが、ジェイドの頬に激突するようにくっついてくる。
ぐずっ、くすん、としゃくりあげるに似た震えですり寄ってくるシュニーを指先で撫でながら、ジェイドは室内に視線を巡らせ、戸口に見知らぬ香炉が置かれているのを確認した。風か、燃料が尽きたのか、黒い煤を残した香炉からは嫌な匂いがする。ジェイドは思い切り舌打ちをして、寝台から起き上がった。毒ではなく、眠り薬の類だろう。使われた理由は明白だった。
よろけながら窓に歩み寄り、新鮮な空気を室内に招き入れる。はっ、と喘ぐように息をして、ジェイドは笑った。恐らく一日眠らせておくつもりだったのだろう。目覚めてなお痺れたように四肢は重たく、頭は痛みを発していて、すぐにでも意識が途切れそうだった。『傍付き』は毒の耐性訓練をも義務付けられている。今は遠い過去の経験が、かろうじてジェイドを救っていた。
目が覚めたのも、そのおかげだろう。加えて、シュニーの加護もあったに違いない。ぽろぽろと涙を零すように震えて心配するシュニーを、ジェイドは手で包み込むようにして顔を寄せ、目を閉じた。息を吸う。
「大丈夫……。大丈夫だから。シュニー、シュニー……」
愛しているよ、と囁く。何度でも、その言葉を心から告げられる。その想い一つで走って行ける。真珠のように淡く、うつくしい煌めきでシュニーは応えた。愛してる。ずっと、一緒。うん、と囁いてジェイドは目を開いた。四肢の重たさも、頭の痛みも、澱みが押し流されたように楽になっていた。ジェイドは窓辺から扉を振り返って見た。人の気配はないままだった。
見張りはいないのだろう。元より、幾重にも魔術のかけられた廊下を進み、いくつもの鍵を開かなければ辿りつけない場所が、この部屋である。魔術的な封鎖は強く、例え妖精であろうとも、その力を万全には振るうことが出来ない。残念だな、とジェイドは目を伏せて呟いた。その信頼を、なにもかもを、踏みにじって行かなければいけないことが苦しかった。
それでも、行かなければ。その時が来てしまった。間に合わなければ全てが無駄になる。ぐっと口唇に力を込めて、ジェイドは扉へ歩み寄った。鍵のかかっていない扉を手で押すが、抵抗があって全く動かない。試しに蹴っても同じことだった。派手な音と衝撃は扉に吸収されて、どこへも行けず消えてしまうだけだ。やりたくなかったんだけどなぁ、とジェイドは呟いた。
仕方がない。諦めた囁きと共に疾走したジェイドは、窓枠に手を乗せて跳躍した。目に見えぬ魔力の檻がその体をからめとろうとするが、勢いの方が強い。縄が引きちぎられていくような不快な感覚と音が、体に直接響いていく。絡め留める見えない手を振り払い、ジェイドは檻の残滓を地に叩きつけるように着地した。手足を振って衝撃を逃がし、すぐに走り出す。
脱走はもう知れているだろう。その為の魔力、その為の檻だった。悲鳴をあげて混乱するであろう同僚たちに胸中で謝りながら、あらかじめ調べておいた道筋を辿り、ジェイドは『お屋敷』を目指して走って行く。シュニーはジェイドを導くように、すいすいと魔術師の先を飛んだ。なにをするか知っていて、どんな意味があるか知っていて。全てを、シュニーは許して受け入れている。
先に、ジェイドが、そうするしか。残されていないことを、知っている。あの日、あの夜に。凍り付いた『花婿』の瞳を覗き込んだ日から。シュニーはその復讐を肯定し、それが成されないことを祈っている。
葬儀のような押し殺された静寂と、祝祭のような華やかな騒めきと興奮が、奇妙に入り混じって渦を巻いている。『お屋敷』の空気は奇妙だった。廊下を行き交う人々は常の様子ではなく、誰も彼も足元がおぼつかない様子で、酒に酔ったようにも、疲れ切って意識がハッキリしないようにも見えた。笑顔の者も、表情を失う者も、潜めた声でなにかを囁き合っていた。真偽を問う言葉だった。噂であり中傷であり、祝福であり笑い声だった。
ソキはまあるく見開いた目で、ロゼアの腕の中から興味深そうにあちらこちらを眺めては、甘えた声で『傍付き』を呼んだ。あのひとはだぁれ、なにをしてるの、どこにいくの、だれがくるの。好奇心いっぱいの幼い『花嫁』の声に、向けられる反応も、また様々だった。足を止めてロゼアを非難がましく見る者もあれば、ほっとしたように微笑み、ソキに一礼する者もある。
共通したのは、声をかける者がない、ということだろうか。ソキが疑問に思わぬ程度の密やかさで、『花嫁』に近寄らないよう、ロゼアとメグミカ、世話役たちが、視線や仕草で周囲にそれを訴えていた。あっち、あっち、次はあっちへ行く、とソキが廊下の方を指さして強請る。ロゼアは笑って、いいよ、と言った。駄目な時は向こうにしようと告げるので、問題のない方角であるらしかった。
ただ散歩をするように、ゆったりと、ロゼアはソキを抱いて『お屋敷』を歩いていく。混沌とした空気をかき混ぜるように。隅々まで、様子を、その目で確かめるように。声がかけられたのは、とある休憩室を覗き込み、小皿に盛られたマシュマロを発見したソキが、きゃぁああきゃぁあああロゼアちゃんソキましゅまろーましゅっ、ま、ましゅまろーを食べるですううううっ、と大興奮して騒いでいる、その最中のことだった。
優しく笑う、優しい、穏やかな、甘く低い声だった。
「ソキさま、ロゼアを困らせない」
「ぱっ、ぱぱですうううう! ぱぱっ、ぱぱぁああああうゃんや! やにゃ! やんやー! ソキ、いま、ちゃんと、ラーヴェっていたもん! いったもん! 言ったですうぅうううぅ!」
ソキの頬をもにもにと押しつぶして反省を促し、ラーヴェと呼ばれた男は深く息を吐き出した。その名を、妖精たちは幾度も聞いていた。どんな風に生きて来たのかを、知っている気がした。語られる時の中で何度も出会っていた。だからこそ、始めて会う気がしないまま、妖精たちは男のことをまじまじと見つめる。
幾度かソキとラーヴェを見比べて、鉱石妖精は首を傾げた。
『彼女は御当主の娘である筈では……?』
『やめてお願い言わないで。知らないでいましょう。ええと、ええと……偶然すごくとてもよく似ているわね!』
特に笑った顔と、瞳の色がそっくりである。隠された事実なら隠しておきましょう誰もが知る時までわたしも特に知りたくないの、と首を振る花妖精に、鉱石妖精は面白そうに羽根を震わせて笑った。ソキはきょとりと妖精を見上げて首を傾げたが、なにを言うでもなく意識を手元に戻し、ロゼアの腕の中から、ラーヴェにだっこを強請っている。
さりげなく、さりげなくソキが伸ばす腕を妨害しながら、悪意はない笑みで、ロゼアがラーヴェに目礼する。
「お久しぶりです、ラーヴェさん。外部勤務に転属したと聞いていましたが……今日は、お戻りに?」
「……いや、用事をいくつか頼まれてね。出張みたいなものだよ。転属はしていない」
「うややゃや! だっこ、だっこっ……だっこ、だっこぉ……! だ、だっこ……だっこ……」
泣き出す寸前まで目を潤ませて手をちたぱたと動かすソキに、ラーヴェは柔らかな笑みでロゼアの名を呼んだ。
「すこしだけ。すぐに終わりにするから」
「……どうぞ」
気持ちは十分に分かるよ、すまないね、と苦笑して。ラーヴェはぐずぐず鼻をすするソキに甘く笑みを深め、ロゼアの腕からひょい、と抱き上げた。縋りついてくる体を、やんわりと抱き留めて。ふふ、と満ち足りた笑みが零される。
「ああ、重たい。……大きくなりましたね、ソキさま。健やかにお育ちだ」
「ラーヴぇ、ラーヴェはどこに行ってたの? そき、さびしかったです。会いたかったですぅ」
頬をぴとんとくっつけてうりうりこすり付けながら訴えるソキに、ラーヴェは光が零れて行くような笑顔で、静かないくつかの言葉だけを落とした。乾いた土をゆっくりと宥めて行くような、雨にも似た声だった。
「ロゼアの言うことをよく聞いていましたか? ……そう。そうですか、いい子ですね」
「ぱぱ、あ、あぅ、にゃ、ラーヴェ、ソキね、ソキね、おはなし、たくさん、たくさん、あるです……。たくさん、あるです!」
「ふふ。……そうだね、おはなし、しようね。また後で」
ええぇ、と声をあげるソキをぎゅっと抱き寄せ、ラーヴェはきゃらきゃら笑い声をあげる『花嫁』を掲げて、くるくると回った。ぽすん、と落とすようにもう一度抱きしめてから、額を重ねて甘く微笑み、いい子だね、と囁く。ふにゃ、と笑み崩れるソキをそっと撫で、ラーヴェはロゼアの腕に『花嫁』を受け渡した。
嬉しくてふにゃふにゃになっているソキを抱いて、ロゼアはほっと息を吐く。二人を穏やかな笑みで見守りながら、ラーヴェは声を潜めて問いかけた。
「……ロゼア。この後、夕方には訪ねられると思う。聞きたいことがいくつかあるが……時間は取れそう?」
「はい。もちろんです。こちらからも、相談と……報告が、いくつか」
「あのね? らヴぇ? ソキね、まじちしさんになったの。それでね、今日はね、ごとーしゅさまの、お客様を見に行くの。ラーヴェは、これから、なんの御用なの? ソキと一緒にお散歩をして、お客様を見に行く?」
それはそれとして夕方には訪ねるが、聞きたかったことの大部分は分かった、という苦笑をして、ラーヴェはわくわくした目をしたソキに、見には行きませんよ、と囁いた。
「私は御迎えの為に戻りました。……ロゼア。どなたが戻られるかを、話しては?」
「……ラーヴェさん。この件で、『お屋敷』はほぼ完全な分裂状態に陥りました。とても、話せる状態、では」
「ああ……。ああ、そうだろうね。……御当主さまにも、困ったものだ」
ふ、と息を吐くラーヴェの声は、困ったと告げる程には、そう思っていないようだった。幼子の悪戯を、あまく窘める好意にすら満ちている。沈黙して目を伏せるロゼアにくっつきながら、ソキは不満げにぷーっと頬を膨らませた。もしかしてぇ、と機嫌を損ねた声が、ふよふよと淡く漂っていく。
「ラーヴェったら、ラーヴェったらぁ……ごとうしゅさま派、なんですぅ?」
「……そのような派閥が?」
えっ、と困惑も露わなロゼアの腕の中で、ソキはこの上なく自慢げに言った。これはぁ、秘密なんですけどぉ。
「ソキ、ちゃんと知ってるです。あのね、ごとーしゅさま派、とね。おにーさま派とね、えっと、んっと……しふぃあさん派? 勢力? なんです。みっつあるの。それでね、全部仲が悪いの。皆ね、ぷぷぷなの。それでね、いまね、喧嘩しているの。これは『花嫁』ねっとわぁくの情報だからね、確かなことなの」
ソキ、ないしょできるっ。ロゼアちゃんに、秘密だって、ちゃぁんとできたんだからっ、と主張するのは、先日城で御当主に言われた言葉があってのせいだろう。妖精たちは遠い目で、穏やかな笑みを浮かべて頷き合った。ソキには、秘密や内緒は一度口に出したらもう駄目、という観点が圧倒的に足りない。
落ち込むロゼアの肩に、ラーヴェが励ましの手を置いた。
「ロゼア……。ロゼア、宝石の方々が、一部、極めて敏いのは、昔からのことだからね。落ち込むのではないよ」
「……はい……ありがとうございます、ラーヴェさん」
「それにしても……そうか、そんなことに」
どうしたものだろう、とラーヴェは呟いた。そわそわと落ち着きなくあたりを見回すソキに苦笑して、かつて最優の『花嫁』の『傍付き』と呼ばれた男は、困惑するロゼアに落ち着いた声で言い放った。
「仕方がない、ロゼア。ついてきなさい。……ソキさま、静かに、いい子でいられますね?」
「うん! ソキね、いい子。いい子なんですよぉ?」
「……ラーヴェさん?」
しゅっぱーつですよ、ロゼアちゃん、と腕の中から指示をするソキに微笑み、ラーヴェは身を翻して歩き出した。慌てて後を追うロゼアと、ついてくるソキの世話役たちを振り返ることなく、ラーヴェは妖精たちをも引き連れて『お屋敷』の廊下を歩んでいく。君たちの怒りと困惑、悲しみは最もなことだ、と手を伸ばしてじゃれついてくるソキをあやしながら、ラーヴェはロゼアたちに言った。
「それでも……あの方がどれだけ苦しみ、今へ繋いだかを私たちは知っている。私たちの世代は、それを、知っていながら『お屋敷』の存続の為、目を逸らして祈り続けた。……あの方がどんな願いで、彼らを欺いたのか。……ああ、だが、そうだね。許されることではないよ。決して許されない。許していいことではないさ。だが……それでも、ロゼア」
己の目ではきと見なさい、とラーヴェは言った。困惑し、止めようとする者たちを穏やかな仕草で下がらせながら、ロゼアとソキを広々とした特別面会室の前まで導いて。扉に手をあて、押し開いた。
「彼の方は、幼い頃から妖精の見える魔術師だった。それを……私も、御当主さまも、知っていたのだよ」
「……お前には、ほとほと、呆れてはいるが」
ロゼアたちを出迎えたのはいくつもの視線だった。当主から向けられる苛立ちの視線、シフィアをはじめとした、ウィッシュの世話役たち十数名の信じられないと告げる眼差し。部屋はしんと静まり返っていた。扉越しにも震える程響いていた、怒りや罵倒の声はひとつもなくなっていた。その、恐ろしい静寂の中、リディオはゆるりと腕を組んで問いかける。
「俺は、ロゼアとソキを同行させて良いと言ったか? ……その機密を今この場で漏らす意味はなんだ?」
「お久しぶりです、御当主さま……リディオさま。この件における処罰は、のち、いくらでもお受けいたしましょう。……せめて、知られて御迎えなさい。あなたは、彼に、夢を託したのだと。……そこが地獄だと知りながら、その先の希望を知って突き落としたのだと。許されなくとも、理解されなくとも……ジェイドも、未だそれを知らないのでしょう?」
「言ってない。……言う、必要もないだろう。こうなることは分かっていた」
許されることでもない。そう素っ気なく言い放ち、リディオは入室を許可する、とロゼアを手招いた。失礼します、と言葉短くロゼアは応じ、半ば怯えたように身を寄せてくるソキを抱きなおす。ソキを、見て。リディオはすこしだけ柔らかく、笑ったように見えた。息を吹き返すように誰かが声を上げかけるのを制して、リディオはロゼアたちが入室してきた内部と繋がる扉とは別の、外から人を招き入れる為の扉へ、合図した。
控えていた側近の女が、リディオに対して恭しく一礼する。そして、お待たせ致しました、と告げて扉を開いた。
「……ウィッシュ!」
シフィアの。『傍付き』の悲鳴じみた叫びに、言葉魔術師に連れられてふらりと歩む『花婿』が、のろのろとした仕草で顔をあげる。青年は柘榴色の瞳でゆっくりと室内を見回し、幾度か瞬きをして立ち止まった。こて、とあどけない仕草で首が傾げられる。くちびるが開く。声を。誰かを、『花婿』は呼ぼうとして。
直前に、つむじ風より鋭く室内に飛び込んできたひかりに、ぱっと目を見開いた。
「……あれ?」
呟いたのはソキだった。ソキと『花婿』だけが、おなじものを見ていた。それを魔術師だけが視認できる。妖精のひかり。ソキがあわあわと花妖精と鉱石妖精を見あげ、あれ、あれ、と困惑の声をあげる。その様に、リディオとラーヴェが顔色を変えた。まさか、と戸口を見た瞬間に、ようやく足音がそこへ辿りつく。そのひとを、振り返るより、はやく。
ひかりに手を伸ばし、『花婿』が母を呼ぶ。
「ママ……?」
ぱっ、と『花婿』は振り返る。息急き切って駆けてきたジェイドに、夢から醒めた眼差しで、ふらつく足を踏み出して叫ぶ。
「――パパ!」
ジェイドは、泣き出しそうな顔をして。ウィッシュの腕を引き寄せ、うん、と言ってその体を抱きしめた。