前へ / 戻る / 次へ

 抱き留められた腕の中で、息を止めてしまいたいとウィッシュは思った。こんな幸せはもうない。この先に、そんなものはない。そう思った。目を閉じて体を押し付ければ、耳元で懐かしい声が穏やかに笑う。ウィッシュ、と名を呼んで。くすくす、と笑うような声で魔術の詠唱がいくつか零れ落ちる。ふ、と体から力が抜ける。眠ってしまいそうになりながら、ウィッシュはとろとろと瞬きをした。
 よいしょ、と満ち足りた声がして。抱き上げられる。花びらが風に掬い上げられるように。あまりにもあっけなく、簡単に、その腕の中に取り戻される。『魔術師』は『花婿』の『傍付き』から向けられる獰猛な視線を完全に無視しながら、満ち足りた息をやんわりと吐きだした。
「ああ、重い……。大きくなったね、ウィッシュ。……いいこ、いいこ」
「……ぱぱ?」
「うん? うん。そうだよ、そうだよ……。俺のことがよく分かったね、偉いね……」
 分かる。胸がいっぱいで、喉が軋んで、声にもならない意思を揺らめかせて。ウィッシュは眠らせるように頭を肩に抱き寄せ、うっとりと背を撫でてくる感覚に酔いながら、響かせることを叶えられないまま、幾度もその言葉を繰り返した。分かる、分かるよ。いつだって求めていた。いつだって、会いたかった。いつだって。目が合った瞬間に、そう、と確信した。疑いもしなかった。
 だからこそ。くちびるを尖らせ、詰る響きでウィッシュは呟く。
「じゃあ、やっぱり……あれも、パパだったんだ」
「……どれ?」
「新入生の。パーティーの日。……目が、合った。合ったよね……?」
 ああ、とため息交じりに肯定する男の手が、ぽん、ぽん、と背を撫でてくる。吐息に馴染ませるように、心音と重ねるように。とろとろと落ちて行く瞼を拗ねた怒りで叱咤しながら、ウィッシュは無視した、と頬を膨らませる。いつか、いつでも、そうしてくれていたように。擦れて消えてしまいそうな記憶そのままに。困った微笑で、する、とジェイドの指の背が頬を撫でて行く。
 かわいい、いとしい、と。ちっとも困っていない穏やかな目が、告げている。
「ごめんね。……眠いね、ウィッシュ。眠って、起きたら、話をしようね。そのことも」
「……もういなくならない? 一緒にいる?」
「ああ、約束しようか。ずっと、ずっと、一緒にいる。……一緒にいるよ、だから」
 おやすみ、お眠り、可愛い子。この世界でたったひとり、ウィッシュにそう囁くことのできる声が、耳に言葉を吹き込んでいく。耳を手で塞がれるように。目を覆われるように。世界そのものが遠くなるような気持ちで、ウィッシュはうとうとと、『傍付き』の誘導のままに目を閉じた。息を、深く、眠りへと受け渡そうとする。いいこだね、と囁きに笑みが零れ落ちて。
 眠る、寸前のことだった。
「――離しなさいよっ!」
 切り裂く。なにもかもを。塞がれ覆われ隠されて、守られていた安堵、ゆらゆらとした揺り籠の世界を。裏返り引きつった、怒りに狂った声が、確かに聞き覚えのある、けれども記憶のなにもかもと一致しない、その声が。己の。『花婿』の。『傍付き』の声が、叩きつけられていく。
「ウィッシュを離しなさい……! 今すぐっ、いま! すぐにっ……! なんなのっ? なんでっ、どんな権利があって……っ! わたしの、わたしの『花婿』を……!」
 その、名前が。思い出せない。編み上げられ、染み込んだ魔術がそうと気がつかれないようにウィッシュの邪魔をする。傍らでは呆れた息が吐き出される。君、なにをしてるのか分かっているの。ウィッシュを城の一室まで迎えに来た魔術師の声が、『傍付き』に、父たる人に向けられて響いていく。分かってるよ。そつのない声でジェイドが囁く。悪いこと。
 これはとびきりの悪いこと、と告げながら、ジェイドはその腕に『花婿』を抱き上げたままでいる。ウィッシュはその腕の中で、眠り切ることが出来ずに、まどろんだままでいる。なにか、大切なことを、ひとつ。ひとつ。いくつか。忘れているような気がした。耳を塞がれ、目隠しをされているように。胸をかきむしられるように、息をする。
 この声は誰のものだっただろう。
「……リディオさま、説明をお任せしても? こちらの用事は済みましたし、王の追っ手がかかる前に城に帰りたいもので」
「ジェイド……さすがに、それは……。ウィッシュを置いて行って欲しい」
「一緒にいると約束したもので。お許しください」
 靴音、ひとつなく。頬にあたる風の動きで、ジェイドが身を翻したことを知る。ここから離れるつもりなのだろう。呼び止めるいくつもの声も、慌てた魔術師の言葉も、ジェイドはなにひとつ聞く気はないようだった。女の叫び声、宥めながらも敵意をぶつける男の声。ウィッシュ、と縋るように女が呼ぶ。泣き声だった。そんな声を聞いたことがない。そんな声は。一度も。いいや。
 一度、だけ。
「……ふぃ、あ?」
 その響きを耳にしたことがある。一度だけ。たった一度だけ。うとうとしながら目を開くウィッシュの視界を遮るように、ジェイドが瞼を手で覆ってやんわりと囁く。おやすみ、ウィッシュ。いいんだよ。なにも気にしなくていい。なにも考えなくていい。疲れただろう、大丈夫。大丈夫だから、このままお眠り。どうか、どうかと願い囁くようなその声に、頷いてしまいたいのに。
 指先を冷やす焦燥が、記憶を蘇らせていく。その声は誰のもの。その響きをいつ耳にして。覚えがあると『花婿』の本能が囁く。どうしてか思い出せないと思う。けれどもくちびるは、その名の動きを、まだ忘れないでいた。
「シ、フィ、ア……? ……フィア。シフィア、どうして……」
 涙が滲んで震える声には聞き覚えがある。それはこの『お屋敷』を旅立つ日に。別れの日に。最後に交わしたその言葉を。今もまだ覚えている。しあわせになれるよ、と彼女は言った。しあわせになれるよ、ウィッシュ。しあわせに。祈る、ように。祝福を送るように。言祝ぎのように。頬に触れ、幾度も撫で、目を覗き込んで微笑んで。告げられた言葉を、響きを、今もまだ覚えている。
 しあわせになれるよ、ウィッシュ。わたしの『花婿』。
「どうして……」
 嫌だったのに。ずっと一緒にいたかったのに。でもその先にしあわせがあると告げられたから。ここではないよ、とシフィアが告げたから。そうしなければいけなかったから。しあわせになってみせる、と思って。そのことを、誇りのようにも感じて。誰よりしあわせになれる筈だった。そのことをずっと信じていた。しあわせは、もっとずっと、温かくて楽しいものだと。
「どうして……」
 辿りついたその場所はつめたかった。さびしかった。泣いても、呼んでも、誰も来てくれない。扉の向こうにひとの気配を感じるのに。手が痛くなるまで、血が出てしまうまで、骨が痛くなるまで扉を叩いて呼んで叫んでも、声ひとつ帰ってこない。泣き疲れて眠る。目を覚ますと手当てがされている。空腹を満たす以上の食事も菓子も、いつの間にか机の上に置かれている。それだけ。
 飲み込む水はいつも薬の味がした。こういう味がしたらね、飲んだらいけないよ、と教わっていたのに。それを決して忘れた訳ではなかったのに。喉の渇きに耐えかねて、いつもいつも、それを飲み込んだ。うつくしく着飾られ、誰も知る者のない夜会に連れ出され寝台やソファの上で動くこともできず横たわりながら、観賞なのだ、と理解する。宝石や、絵画と、一緒。
 しあわせになれるよ、と囁く声を覚えていた。つめたくて、さびしい日々の中で、それだけをずっと覚えていた。縋りつくように何度も、何度も思い出を辿った。何度も、何度も夢を見た。しあわせな昔の日々を。あるいは、夢想を。迎えに来てくれる夢を。これは間違いだったと囁いて、つらかったね、と抱きしめられるたび夢から醒める。繰り返して、繰り返して、摩耗して行く。
 迎えは来ない、と理解したのはいつだっただろう。夢は夢でしかなく、ここに送り出されたのだと。ここで、しあわせになれるよ、と『傍付き』は告げたのだ。さびしくて、かなしくて、つめたくて。気持ちが悪くて。たったひとりで。でも、しあわせになれると、『傍付き』が言ったのだ。だから迎えが来ない。だから迎えに来てはくれない。だから、だから。だから、どうしても。
 しあわせじゃないよ、と、言うことができなかった。
「ねえ、シフィア。どうして……」
 でも。ある日やってきた妖精が、ウィッシュに。ひどいことをされたら怒ってもいいんだ、と告げたので。それは、なら、やっぱりひどいことで。しあわせである筈がなかったのだ。
「……いい。ウィッシュ、ウィッシュ……考えないでいい。いいんだ……!」
「かえして! 離してっ、離しなさいよアルサール! 馬鹿っ! ウィッシュ、ウィッシュ!」
 しあわせなんてなかった。ひとつも。それを認めてもいいんだよ、と誰もが言う。ひどいことだったね、つらかったね、かなしかったね、くるしかったね。ウィッシュが感じていた気持ちに、間違いはなかったのだと誰もが言う。妖精も、教員も、魔術師の卵たちも。皆、みんな、ウィッシュに言う。これからは、もう我慢しなくていい。嫌なことをされたら怒っていい。許さなくていい。
 だって、しあわせなんかじゃなかったんだから。
「……シフィア」
「ウィッシュ……!」
 呼んで。ゆっくり、瞼を開く。『傍付き』がそこにいた。ふふ、とウィッシュは笑って、ジェイドの胸を両手で押した。柔らかなその求めに、ジェイドは苦しげな顔をしてウィッシュを立たせる。ウィッシュはふらつきながらもシフィアに向き合い、両腕を伸ばして微笑んで。
「……ねえ?」
 一分の狂いなく、魔術を発動させて。
「どうして、しあわせになれるなんて言ったの? ……嘘つき」
 己に触れようとしていたシフィアの、手首を切り落とした。



 とこ、とこ、とこ、とウィッシュは歩いていく。『花婿』が室内を制圧してのけるまで、瞬き一つで事足りた。ウィッシュの魔術師としての属性は風。まつろわぬ大気の流れ。それを思うままに操れるのが風属性の魔術師だ。黒魔術師は特に、その意思を鋭く形に表せる。風を刃のようにしてなにかを断つことは簡単で、そうしたい、と思うだけで十分だった。
 誰かの動きを止めたい時には押さえつければいい、ということをウィッシュは知っていたので。邪魔だと見做した者も大切な存在もなにもかも、無差別に、ただ押えつけた。歩くことは未だに難しかったが、風を下から吹かせてすこし体を浮かび上がらせるようにすれば、楽に足を踏み出せた。室内には呻き声が満ちている。そのひとつにも、ウィッシュは注意を払わなかった。
 夢を見ているようで。夢ではないことは分かっていた。まどろんで誤魔化していた感情が目を覚ませば、呼吸のたび、深まって行くのは悲しみと憎悪だった。だって、シフィアはしあわせになれると言ったので。それをずっと信じていたので。あの悪夢のような日々が夢ではなくほんとうのことだと分かったので。けれどもそれを、しあわせじゃないよ、と誰もが言ったので。
 嘘をついた人たちを、誰も許すことなどできなかった。とこ、とこ、歩いて、ウィッシュは床に腹ばいに、あるいは仰向けになったまま息も苦しげにして動けない者の顔を、ひとりひとり覗き込んだ。世話役、輿持ち、『運営』に、衣装係だろうか。室内に集まっていたのは見覚えのある者ばかりだった。当主に、その側近。ラーヴェもいた。父のように、懐かしいひとだった。
 見覚えの薄い青年は『傍付き』だろうか。体の下に誰かを庇っていた。ひょい、と覗き込む。彼の腕に抱かれた『花嫁』は声も出せずに怯えきり、幼子の傍にはなぜか、妖精たちがいた。妖精たちは口々に『花嫁』に、立って、動いて、逃げるの、というようなことを言っていたが、ウィッシュは柔らかな微笑みさえ浮かべて肩を震わせた。
 妖精が傍にいるのだから、この『花嫁』は魔術師なのだろう。怯え切った翠の瞳がウィッシュを見て、甘やかな声がふわふわと漂う。
「ろ……ロゼアちゃ……。苦しそ、です……。み、みんな……どうし、ど……だ……だ、れ……?」
『ソキさん、駄目です。いけない……! 逃げましょう。あなたは動ける。いま、この部屋で正常に動けるのはあなただけです。逃げて! さあ!』
『ソキ、ソキ。いい子だから、言うことを聞いて。お願い。お願い……!』
 妖精たちが、『花嫁』の服を握って引っ張っている。呼吸さえおぼつかなくさせる大気の圧迫を、妖精が言うように、『花嫁』は受けていないようだった。不思議に思って目を凝らせば、幼子には魔力による守護が見えた。ひとつは拙く、今にも消えそうな、光と熱の魔力。もうひとつは強固な盾。檻のようにも見える、幼子を完全に包み込んで守る鉄壁の魔力。
 すい、と視線を動かして、ウィッシュは魔術師に目をやった。城の部屋まで迎えに来た魔術師が、顔面を蒼白にして歯を食いしばりながら、立ち上がった所だった。
「まったく……やってくれるよね。随分、思い切りのいい、ことを……!」
「……俺は、あなたにも動いて欲しいと思ってないんだけど」
「魔術を操るに長けた先達を、そう簡単にどうにかできると思わないで欲しいものだね……。さあ、落ち着いてこちらに来るんだ。風の魔術師。君は、今、してはいけないことをしている。……分かるね?」
 まるで、今なら許してあげられる、とでも言うような囁きだった。瞬きをして、ウィッシュは花のように微笑む。
「嫌だ」
「……ウィッシュ」
「嫌だよ。どうして? どうして? だってこのひとたち、皆、俺がしあわせになれるって言ったんだよ? 大丈夫って言ったんだよ? 嘘つき。嘘つき、嘘つき! だって寂しかった! だってつめたかった! 悲しかった! ずっとずっと迎えに来てくれると思ってたのに、誰も来てくれなかった! 嘘つき! ……う……嘘、じゃ、なかったら……あれが、しあわせ、なの? あれが? あれが、あんなのが、あんなのが! あんな、あんな風にされるために、その為に、俺を育てて嫁がせたのっ?」
 意思のない風が、足元から逆巻き立ちのぼって行く。魔術師が舌打ちをした。暴走しかけてる、という言葉の意味が分からずに、ウィッシュは目に拳を押し当てた。
「嘘つき……嫌い……みんな、みんな嫌い……。しあわせ、に、なんて、思ってなかったんだ……嘘つき……嘘つき……!」
「……ちがう。ウィッシュ、ちがうの……」
 痛かったんだね、と声がした。顔を向けると、床に倒れ込んだまま、シフィアが泣いていた。『傍付き』は断ち切られた腕を隠すようにしながら、残った手を『花婿』に伸ばして微笑む。
「痛かったんだね……。辛かったんだね。ごめんね……ごめんね、ウィッシュ」
 その声を、言葉を。どんなに聞きたかっただろう。あの日々、あの眠りから醒めて泣くばかりの夜に。どれ程その声を聞きたかっただろう。いまは、もう、どんなものもいらない。それでも、すこし触れたい気がして。歩みより、ウィッシュはシフィアの手に触れた。ウィッシュ、と名を呼ばれる。片手を繋いだまま、微笑み。魔術師は女の首に、そっと指先を押し当てた。
「ずっと……」
「……ウィッシュ?」
 思い出の中で凍結した幸福。そのものである人が、眩しげに目を細めて名前を呼ぶ。目を閉じて、それを焼き付けて。『花婿』は心から、『傍付き』に向かって囁いた。
「ずっと、シフィアの『花婿』でいたかったよ……」
「……わたしも、ずっと」
 あなたの『傍付き』で、ありたかった、と。告げるシフィアに微笑んで、ウィッシュは指先に力を込めた。
「――嘘つき」
 風はただ、刃のように。『魔術師』の望むまま、それを寸断した。ごとん、と音がした。頭が体から離れて床に転がるのを無感動に眺め、血濡れた指先に口づける。もうなにも聞きたくない。なにも欲しくない。欲しかったものは全部、過去の記憶の中にある。それでいい。だから、もう、いらない。全部全部消えて、なくなってしまえ。
 するする、風が動いていく。滑らかに。鋼の糸が首に食らいつくかのように。
「……ふふ」
 ごと、ごと、ごとん、と音がしていく。そのひとつも、もう見ることはなく。ウィッシュは目を閉じて、シフィアの体を腕いっぱいに抱きしめていた。これでもう、なにも言わない。これでもう、どこにも行かない。これでもう、昔のまま、あの記憶を、永遠にしていける。大好きよ、と記憶の中で『傍付き』が笑う。うん、と甘えて、おさなく、『花婿』は微笑んだ。
「うん。あのね、シフィア。俺もね、俺も、ずっと……ずっと」
 血溜まりと屍のただ中で『花婿』はうつくしく笑う。最後に、とん、と響く足音を聞いて『花婿』は目を開いた。そのくちびるが、誰の名を呼んだのかを。なんと、言ったのかを。抱き寄せて、『傍付き』の剣で貫いた、ジェイドだけが知っている。



 十二月初旬。魔術師による、大量殺人事件。心神喪失状態であった犯人をその場で処分。当主を失った『お屋敷』は壊滅状態に陥り、国庫そのものを喪失したに等しい砂漠の、存続が危ぶまれる。
 生存者三名。共に、魔術師。名を、ジェイド、シーク、ソキ。

 記録には、ただそれだけ、書き残されている。



 地図を描き変えることになるそうです、と告げられた言葉を飲み込むまで時間がかかったのは、掲げられた灯篭の火が眩しいからだった。顔の前に腕をあげる仕草に気が付いたのだろう。すみません、と声がして、すっと灯りが遠ざけられる。大丈夫ですか、と案じられるのに頷くまでの沈黙は、居心地の悪いものではなかった。
 瞬きをする。四隅まで塗りつぶすような暗闇の中、埃っぽい空気を、シークは吸い込んだ。
「……地図を?」
「描き変える準備に入った、と連絡が来ました。もちろん、今すぐではなくて……二年、三年は先のことになるでしょうが」
「二年でも三年でも……時間がいくらかかろうが、もうそんなことに意味はないね……」
 肺の奥まで息を吸い込んで。ゆっくりと吐き出すまでの時間は、また沈黙で埋められる。そこからも、互いに言葉はないままだった。砂漠から『学園』預かりの身になったシークと、王たちの意思を伝える伝令として動く青年は頻繁に顔を合わせているが、それだけの間柄だった。シークは青年の名を知らない。魔術師のひとり。分かっているのはそれくらいの、単純な事実ばかりだった。
 地図が描き変えられる。つまり、とうとう、砂漠の国というそのものが、無くなる日が来たということだ。二年先であろうが、三年先であろうが、無くなるということが覆される奇跡が起きないのだから、もう同じことだった。無くなるのだ、あの国は。あれ程までに、祈り、絶望に胸を食い荒らされようとも、先へ、先へ、繋いで渡して行こうとした、あの国は。
 終わりはあっけなかった。恐らくは誰もが、そう思っていることだろう。『お屋敷』という主要産業、国庫そのものを喪失した砂漠には、余力がなかった。『お屋敷』が、そもそも復興途中であった最中の悲劇だ。他に外貨を稼ぐ手段はなく、あったとしても早急ではなく、また国の隅々にまで届けられるほど、膨大なものになる筈もなかった。
 あの日。失われたのは、部屋に集っていた者たちばかりではなかった。ウィッシュの魔術はお屋敷全域を襲い、脆い者の命も強靭である者の命も等しく、無差別に奪って行った。純度の高い魔力をたっぷりと乗せた、大気そのものの圧迫である。身体の自由、呼吸すらおぼつかなくなる上で、ただ人には毒でしかない魔力が叩きつけられたのだ。部屋に集められていた者の殆どは、首を落とされる前に絶命していたのだと聞く。
「……砂漠の魔術師たちは? どういうことになりそう?」
「白雪、楽音、花舞、星降に移籍、という形で落ち着きそうです。花舞の王宮魔術師の方々が、それはもう張り切ってくじ引きを作っている最中です。それはもう張り切って」
 二回も言うということは、恐らく花舞では祭りに近しいなにかが開催されている筈である。その光景をすぐに思い浮かべる。いつもの通りであることが嬉しかった。いつもの通りにしてくれているのだとしても。それじゃあ『学園』には来ないんだね、と呟くシークに、青年は静かな声で、はい、と言う。
「シークにも、ジェイドにも……酷だろうと」
「……ジェイドはどうか分からないけど、ボクはいいんだよ? 別に。そんなに気を使ってくださらなくても、とお伝えしておいてくれるかな? ……それに、責められても、いいんだよ。あの日の、あの時の、彼の守護……保護責任者はボクだったんだから」
 もっと寄ってたかって怒られてもいいくらいだ、と苦笑するシークに、青年はお伝えはしますが、と丁寧な口調、恭しい態度を崩さずに、沈痛な面持ちで首を横に振った。
「シーク。貴方のせいではありません。……ジェイドのせい、とも、言い難いものがありますが」
「でも皆半分くらいは思ってるよね。ジェイドのせい……ではないにせよ、責任はあるだろうと。親だし、それに」
 彼はかなり正確な所まで、あの惨事発生を予想していたことだし、と。遠い目をしてげっそりとした声で告げるシークに、青年も同じような声で、ええ、と言った。
「まあ、言えなかったのは……相談、できなかったことについては……一定の理解もできますが……。告げられたとて、理解をして対策を講じられたかと言われれば、難しかっただろうとは誰もが思いますが……思うんですけれども……」
「そうだよねぇ……。まさかねぇ、ウィッシュくんが現状を理解したら恨みつらみのあまり殺戮に奔る可能性が非常に高いから、そうなる前に主要な人物全員殺させてください、親として責任を取って自分でやりますから、とか言われても……言われてもねぇ……。ジェイド大丈夫? 頭痛いの? 悲しいことあった? あと責任て言葉の意味知ってる? ってなるよね絶対……」
 はいそうですその通りです、と言って青年はため息をついた。シークの改めて額に手を押し当てて首を振り、そのことに関しての考えを、いったんは打ち切る。考えても、考えても、あの日から。その前からも、ずっと。なにが正しかったのかを考えている。どうすればよかったのかと思ってしまう。息をするのを辞めたいくらいに。
「……そのジェイドだけど、調子どう? 元気にしてる?」
 同じ『学園』預かりとはいえ、比較的自由なシークと違い、ジェイドは独房暮らしである。本人は淡々と、シークに言わせればしれっと、居住環境を整えて毎日まったりと暮らしているので、特別そう心配している訳ではないのだが。問えば青年は顔をゆがめ、落ち着いては見えますが、と告げて首を振った。
「だめですね……。心神喪失から脱しているとは、とても」
「……ボクが会いに行くと普通にしてるけど」
「開口一番に処刑の日付決まった? って言って来るのを普通って言うの辞めて頂いていいですか……」
 えづいているような声で懇願してくる青年に、シークはもう持ちネタだと思って受け流しなよ、と苦笑する。意識がハッキリ戻ってきて、反射的な自傷行為に走らなくなったのだから、あれは回復したと見るべきである。ただ、もう、元には戻らないだけで。
「……まあ、早く諦めてあげなね。お互いの為に。……それで、今日は地図のお知らせだけ?」
「いえ。……そろそろ、またお目覚めになる頃合だと、白魔術師たちが」
「だよね。そろそろだと思ってた。……諦めなよ、って言った口で悪いけど。ごめんね、こっちは、諦めきれなくて」
 ふふ、と笑って立ち上がったシークに、青年はながく、言葉に迷い。やがてくちびるを噛んで視線を落とし、いいえ、とだけ言った。



 明日には新年を迎えるこの日、『学園』は普段よりずっと静まり返っている。慣れた景色を歩いて行きながら、シークは一年か、と胸中で呟いた。シークが『学園』預かりとなってから。すなわち、事件から、一年。一年間を、よく保った、と思うべきだろうか。それとも案外短かっただとか。残された『お屋敷』の人々はどうしているのだろう、だとか。思うことは沢山あった。
 あの日以来、シークは王に会っていない。ジェイドも同じだろう。惨劇の部屋に魔術師たちを迎えに来たのは、砂漠の同僚たちだった。何故、と誰もが言った。どうして、と口を手で覆って、血溜まりと肉片が散乱する室内で泣き崩れ、あるいは叫び、耐えきれずに吐いた。彼らが来るまでの静寂に、響いていた声をシークは覚えている。甘い蜂蜜のような声。『花嫁』の声。
 その体で、腕で、『花嫁』を庇い、守り切って。とうに息絶えた『傍付き』を呼び続ける声。父を呼ぶ声。助けを呼ぶ声。求め続ける声。ねえ、ねえ、と泣きながら、幾度も幾度も『花嫁』は呼んだ。ロゼアちゃん、ねえ、どうしたのロゼアちゃん。お返事をして、どうしたの、痛いの、苦しいの、つめたい、つめたいの、ロゼアちゃん、ねえ、ぱぱ、ぱぱ、助けてぱぱ、らヴぇ、ねえ。
 誰か、誰か。ロゼアちゃんを助けて。けほけほ、何度も咳き込んで。ごほ、と喉が悲鳴をあげて血を滲ませても。妖精がいくら宥めて傍にあろうとも。『花嫁』は目を閉じた『傍付き』に縋り、いやいや、と首を振って呼び続けた。ぱき、と澄んだ音がして。その胸に秘めた魔術師の器が壊れてしまうまで。心を壊してしまうまで。まだ未熟な魔術で、なにを知ることもない、本能的な行為で。
 助けようとして、助けようとして、助けられなくて。ぺきぺき、ぱきん、と儚い音を立てて。予知魔術師は壊れてしまった。シークの目の前で。伸ばした手は一歩、届かずに。魂ごと瓦解するような、か細くうつくしい悲鳴を、覚えている。
「ユーニャ! こっち、こっち!」
「リトリア? どうしてこんな所に……」
「だって、どうしても一度お会いしてみたいんだもの。ストルさんだって、ツフィアだって、いいこにしてるなら、って仰ってくださったわ?」
 青年を呼ぶ声にふ、と顔を上げれば、やや気まずそうな顔で苦笑される。聞いていないよ、と首を横に振れば、青年はどこか罪悪感の入り混じる声で一礼して、数人の魔術師が見張りに立つ、白い扉の前へ駆け寄った。そこには見張りとは明らかに違う様相の、少女がひとり立っていた。まだ『学園』在籍中の魔術師である。長期休暇で恋人の家に連れ込まれたとばかり思っていたのだが、どう言いくるめて戻って来たのだろう。
 歩み寄り、ひさしぶり、と囁けば、藤色の少女はぱっと顔を明るくして笑った。
「シークさん! おひさしぶり、です……! わ、わ、本当にシークさん? 嬉しい……!」
「リトリア。この方は、遊びに来たんじゃないんだから……」
「私だって、遊びに来たんじゃないのよ。一生懸命、色んな人に聞いて、やっと教えてもらったんだから……! まさか『学園』の中に隠していただなんて。もぅ……!」
 どうしてそういう意地の悪いことをするのかしら、と怒るリトリアに、見張りに立つ白魔術師たちが苦笑する。これは五王の決定であり、命令である。『学園』の中に魔術的に封鎖した空間を作り、そこへ常時封じ込め、守護する、というのは。そして目覚める前に、シークがそこへ呼びこまれるのも。噂だけは聞いてたけど、本当だった、ときらきら輝く目で、リトリアは扉と、現れたシークを見比べていた。
 シークも普段は人前に出ないでいるから、聞くにも聞けず、会いにも来られなかったのだろう。どんな言い方をしようとも、シークは『学園』という大きな檻に収容された、囚人であるのだから。
「見つかってしまったのなら仕方がないし、どうしても、と言うのなら……ボクはいいよ。静かにしている、と約束できる?」
「約束! します!」
「うんうん。キミはね、いつも返事は良いんだけどね……。返事はいいんだけどねぇ……。ストルとツフィアが許可出す訳ないから、どう言いくるめてきたのかがすごく気になるなぁ……」
 過保護の過が五つくらい頭につくリトリアの恋人たちは、どうもいまひとつ、最後の最後で詰めが甘い傾向がある。リトリアはつんっと唇を尖らせて、ささっと周囲を確認したのち、声を潜めてあのね、と言った。
「『学園』に行くから、お部屋から出して? って」
「……あぁ、キミ、また監禁されてたの……。ああうんいいよ肯定も否定も詳しい説明とかもね、いらない。必要ないし聞きたくないからね。うん、はい、まあ……それで?」
「それでね、来たの」
 説明終わり、とばかり、少女はにこにこ笑っている。キミほんといつも大事な所言わないよね、嫌な予感するから絶対なにがあっても突っ込んで聞かないけど、と思い、シークは思い切り遠い目をした。幼い頃はシークに突かれてぴいぴい泣いてまとわりついて来ていたものを、いつの間にこんなにしたたかになっていたのだろう。
 大体二股というか、恋人がふたりの時点でしたたかを通り越した小悪魔である。
「……仲良くやってる?」
「うん。ストルさんもね、ツフィアもね、やさしいよ。……だからね、えっと……ここにいるのは、内緒にしてね?」
「あぁー、やっぱりキミそういう……」
 顔を手で覆って呻くも、リトリアはにこにこ笑うばかりで、気を取り直してどこかへ行ってしまうようなことはしなかった。それ所か、早くしないでいいの、と扉を見てシークを促してくるありさまである。見張りの白魔術師が焦れたように、怯えるように、シークをちらちらと見ていたせいだろう。シークも、目覚めが近いことを感じ取っていたから、溜息をついただけだった。
 足を踏み出す。開いて、と告げれば、白魔術師たちは緊張した面持ちで扉に手をかけ、ゆっくりと内側へ押し開いていく。とと、と小走りに行こうとするリトリアの首根っこを掴んで額を指先ではじき、シークは一礼して待つ青年に頷くと、少女より先に部屋へ足を踏み入れた。入るなりすぐに、扉が閉められる。リトリアは拍子抜けしたように、ぱちぱちと瞬きをした。
 部屋としては、特別なものはなにもない一室だった。平均的な寮の部屋となんら変わらぬ、広さも間取りも、同じものである。ただそこは、しんと静まりかえり、花の甘い香気に満ちていた。いいにおい、とリトリアが呟く。そうだね、と言い置いて、シークは寝台へと歩み寄った。とと、と後をついて動くリトリアの足音が、止まる。息を飲んだ視線の先。鎖が少女を繋いでいた。
 両手首に、両足首に。よくなめした皮の枷が巻かれ、そこから寝台の四隅へ鎖が伸びていた。ぐるぐるととぐろを巻く程に余裕があり、眠る少女も体を丸くしているから、動きを制限するものではないと分かる。しかし、それは鎖だった。魔術師たちの、魔力が眩暈をするほど込められた、魔術具だった。なに、とリトリアは呟く。少女に視線を引き寄せられ、魅入ったままで。
 ん、と眠る少女がまぶたを震わせた。慣れた仕草で、シークは枕元に腰を下ろす。手を伸ばして、シークは少女の髪に触れた。滑らかな金糸の髪が、指先を零れ落ちてシーツへと広がる。のろのろと持ち上げられるまぶたから現れたのは、とうめいな翠の瞳。光を浴びて眩く輝く宝石、そのもののような。少女は蜂蜜みたいな声で、ん、ん、と幾度か零すと、ぼんやりとした視線でシークを見た。
「……だ、ぁ、れ……?」
「……ん? 誰だろうね。気になる? ……ほぉら、まだ、眠いね。寝ていていいんだよ……」
「……ん、ん……。だれ……だ、れ……? ここ、ど、こぉ……?」
 とろとろとした声で少女が囁く。その、なににも答えずに、あやしながら。シークは少女をもう一度眠らせようとしていた。リトリアはその光景を、息をつめて見ていた。ぐずぐず、鼻をすすって、少女がくちびるを尖らせる。
「わ……わか、らな……。こ、こ、ど……こ……? わ……わた、し……だ、れ?」
「……キミは、ボクのお人形さん。かわいい、かわいい、お人形さんだよ」
「……おにんぎょうさん?」
 そうだっけ、と言わんばかり、少女はぱちくり瞬きをした。じぃ、と無垢な瞳でシークを見つめる。そうだっけ、そうかな、でも、このひとがいうのなら。ぱちぱち、ぱちん、と瞬きをして少女は首を傾げた。少女の髪に結ばれた、赤いリボンがふわりと揺れる。あ、と少女が声をあげてリボンを握る。あ、えっ、と急に不安げに、少女は室内を見回した。
「こ、これ、これ……! え、あっ、あれ……? あれ、あ、あ、れ……わ、わたし、わた……し……? ……ちゃ……は……?」
 ぐっ、とシークが息を飲んで少女を引き寄せる。落ち着かせようとシークが肩に触れた瞬間、少女は弾かれたように顔をあげた。
「ろぜあちゃんは?」
「……ソキ、ちゃん」
「シークさん、ロゼアちゃんは? ロゼアちゃんは? ロゼアちゃんはっ? ねえ、ねえロゼアちゃんはどこどこねえそき、ソキのろぜあちゃ、ロゼアちゃんロゼアちゃん! いやいやいやぁああああああああっ!」
 絶叫に。歯を食いしばって、シークが力任せに少女の体を寝台に押し付ける。じゃらじゃらと鎖が鳴り響き、そこへ書き込まれた魔術式が起動した。ソキの意識を混濁させ、眠りへと引きずり込む呪いの術が。シークはそれがソキを絡めとるまでの保険だ。万一。もう一度、予知魔術師が、その力を暴走させてしまった時の為の。
 血を吐くような声で。ソキはたすけて、と訴え続けた。シークの名を呼び、リトリアには分からない何人かの名を呼んで。必死に手を伸ばして、届かないそれに触れようとした。ロゼアちゃん、と何度も叫んで、その声がやがて、ぴたりと止まる。あ、れ、とぎこちなく、油の切れた操り人形のように、言葉が強張って行く。のたのた、眠そうに瞬きを繰り返して。
 少女は首を傾げて、わたしはだぁれ、とシークに問いかけた。言葉魔術師は柔らかな声で応える。キミはボクのお人形さん。だから、なにも考えず、思い出さずに、どうか。眠っていて。おやすみなさい、と囁かれると、少女は甘く淡くくすぐったそうに笑って、ことり、と意識を手放した。懺悔の滲む眼差しで、シークが少女の頬を撫でる。
 リトリアはただ、それを見ていた。この世界でたったひとり、同じ適性を持つのだという。予知魔術師。ソキのことを。

前へ / 戻る / 次へ