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 大丈夫かい、と尋ねられて、リトリアはぼんやりとした気持ちを持て余しながら空ろな気持ちで頷いた。はぁ、と呆れと心配が等分になった溜息でシークが眉を寄せる。飲みなよ、とシークが言う。リトリアは瞬きをしながら、手元に視線を戻した。そこにはココアが置かれていた。湯気はすでになく、表面にはうっすらと膜が張っている。陶器に指先を触れさせれば、まだほんのりと温かさの名残があった。
 ひとくち、飲み込んで、その甘さにすこし肩の力を抜く。ええと、と呟いてリトリアは首を傾げた。飲み物を頼んだ覚えもなければ、そういえばどうして、こんな場所に座っているのだろう。丸く小さな、お茶を楽しむ為の机の上には、それぞれの飲み物だけが置かれている。リトリアとシークは机を挟んで向かい合わせに座っていた。周囲には誰の姿もない。静かだった。
 ここは、どこ、だっただろう。ぼぅっとしていて思い出せないのを揶揄われるのが嫌で、だからこそ問いかけず、リトリアはそろそろと周囲に視線をさ迷わせた。シークはちょうど片肘をついて、行儀悪く本を読み始めていたから、気が付かれはしない筈だった。現在位置を確認する。外である。寮の前の、森に囲まれながらも開けた空間。中庭のような、広場のような一角。
 晴れた日には木々の間に縄を張り巡らせ、シーツやら洗濯物が風を受けてばたばたとはためくのが日常の光景である。今日もそれを見ることはできたが、覚えているよりずっと数が少ないのは、『学園』が長期休暇の最中だからである。長期休暇。つまりは年末。つまり、そう、真冬のまっただなかである。えっ、とリトリアは声をあげた。困惑と怒りにも塗れた声だった。
「寒い……。やだ、ココア冷めちゃった……」
「……ああ、うん。そうだろうね……」
 正面からは、いっそ哀れみすら感じる声と視線がかえってくる。もう、と頬を膨らませて怒りかけて、リトリアは瞬きの隙間に眩暈を感じた。息が詰まる。机に倒れ込むことは堪えて、なんとか、額に指先を強く押し当てて目を閉じた。悲鳴を堪えた喉が軋む。悲鳴。どうして。なんでそんな声をあげる必要があるのだろうか。外。温かな飲み物が冷えるまで。どうして。
 意識が怯えるように、木漏れ日のように明滅する。リトリアちゃん、とシークの声が響く。大丈夫だ、息をして。もう、大丈夫だから。そっと、優しく。リトリアの肩に手が触れて行く。その体温に、その、優しさに。胸が確かに軋んだ。ああ、と息を吸い込む唇から声が漏れる。まだ意識がはっきりとその形を成さぬまま、言葉が先に、それを思い出した。
「……あのこ……あの子は……?」
「白の部屋で、また、眠ったよ。……無事に眠った。だからもう、大丈夫だ。大丈夫なんだよ……」
「待って……待って、私……わたし……」
 呼吸と、言葉の隙間を縫い合わせるように。溢れ出る感情が涙となって零れて行く。己の感情がなにを思っているのか分からない。悲しいのか悔しいのか、衝撃を受けただけなのか。憐れんでいるのか。息をつめて、背を丸めて、口元を強く、手で押さえて。ぼたぼたと涙を零すリトリアを、シークは声をかけずに見守っていた。どんな言葉も今は無意味だと、知っているようだった。
 瞼の裏の薄暗がりで、リトリアはなにが起きていたのかを思い出す。消毒液の匂いがしそうな白い扉のあの部屋で、少女は眠っている筈だった。シークが少女を眠らせ終わった後、溜息を零してリトリアに言った。彼女が件の事件の生き残り。ボクとジェイドと、この子だけが、魔力を持つ魔術師であるが故に、あの惨劇を生き延びた。リトリアは確か、こう言った。なにが起きたの。
 この子はなにを見てしまったの。呟いて、リトリアは閲覧した調書の内容を思い出そうとしたのだ。そこに書かれた文字は少なく。そこに記された事実はあまりに残酷だった。そのことを胸の中で、何度か噛み砕いて。リトリアは見せて、と言って少女に歩み寄った。それは恐らく傲慢な行いだった。思い上がりだった。シークは、それを分かっていて、リトリアを止めなかった。
 たったひとり、生き残った、己と同じ適性を持つ魔術師を。理解し共感し、助けたいと思う気持ちを。遠ざけるのに必要なものは言葉ではないことを、理解していたようだった。気をつけて、とも言わず立ち上がったシークと入れかわりに寝台に腰を下ろし、リトリアは眠る少女へ指先を伸ばした。触れて、そして、望むだけでいい。予知魔術師の魔力は、リトリアの願いをそれだけで叶えてしまう。
 それは記憶を読み取るというより、眼前に映し出される同じ映像を眺める行為だ、とリトリアは思う。同一になりきるのではなく。ただ、同じものを見る。真っ先に飛び込んできたのは、心を刺し貫く程の叫びだった。たったひとりの名を呼んでいた。たったひとりを求めていた。目の前で、目を閉じ、冷たくなっていくその存在を求めて、少女はずっと泣いていた。むせかえる程に血の匂いがした。
 周囲の視認は殆どできなかった。あたりを見回すことすらせず、少女はたったひとりだけを見つめていた。濃密な魔力が完全に周囲を支配していて、魔術行使の気配があるたびに、ひとつ、ひとつ、命の灯火が消えて行く。未熟な魔術師は、半狂乱になりながらも、それを感じ取っていた。未熟であろうとも、魔術師であった少女は、不幸なことにそれを正しく認識していた。
 魔術が働いていることも、それが成されれば命が消えてしまうことも、己にそれから逃れる力がないことも、己をそれから守る術がないことも、大切なその人が死を宿すその術に捕まってしまったことも、大切なそのひとをそれから逃す術がないことも、それから守る力がないことも、なにもかも、なにもかもを、理解してしまっていた。いやです、と少女は泣いて、それでも抵抗していた。抵抗しようとしていた。
 予知魔術師としての本能が、少女の中で魂を切り裂く程に絶叫し、成長したがっていた。助けることが出来る筈だった。助かることが、叶う筈だった。己も、大切なひとも、周りの今消えて行く親しい命たちも。助けられる筈だった。予知魔術師なら、それが出来る筈だった。万能とさえ囁かれる適正。不可能を可能に書き換えるたったひとつの術。予知魔術なら。予知魔術師なら。助かる。助けられる。己も。なにもかも。
 助けて、と少女は叫んでいた。己の喉が裂けるまで、己の魂が裂けるまで。幾人ものを名を呼んで、助けてと手を伸ばしていた。助けて、助けて。シークはその声をどう聴いたのだろうか。理解したのかも知れない。理解、できなかったのかも知れない。少女が助けを求めていたのが、誰であったのか。なんであったのかを。リトリアには分かってしまった。
 少女は、はじめから、誰にも救いを求めていなかった。助けの手を伸ばしていたのは他者ではなかった。少女が求めたのは、完成した予知魔術師に対してだ。己がこの先、成長していく姿。その夢想。完成した姿に、救いを求めていた。助けを願っていた。ソキが手を伸ばしていたのは己自身に他ならなかった。助けて、助けて、と叫んだのは未分化の己の魔力、魔術、奇跡の術。その行使。
 器が壊れたのはそのせいだろう。少女の身に宿る魔力は魔術師の叫びに確かに応えようとして、急激に成長し完成しようとして、耐えきれなかったのだ。予知魔術は万能の術である。なんでもできる、とされている。それは正しく、それは決して、正解ではない。万能になる為には、万物を知る必要がある。白魔術と同じ結果を出す為には、白魔術を知らなければ、そこへ至れない。
 結果だけを持ってくるには、道筋となる知識が必要だ。基礎なくして応用はできない。魔術とは知識であり、数式であり、計算であり、設計である。ソキのしたことは、設計図さえないまま、建物を完成させようとしたことに等しい。必要な材料もなく、知識もなく、経験もないまま。方法すら分からないまま、それだけを望んだ。結果として、暴走した魔力が魔術師の器を破壊したのだ。
 できるのに、と少女は泣いていた。泣いている。できる、のが、分かるのに。助けられなかった。大切なひと、大切なひとたち、己の身ひとつだって。助けられなかった。それができると分かるのに。泣き叫ぶ少女を鎮めたのはシークだった。言葉魔術師。予知魔術師の対。ありったけの力を込めて、言葉魔術師は予知魔術師の意識を支配し、そして、書き換えた。その名を。存在を。
 ソキ、というのが少女の名だ。今や慟哭と絶望に満ちた少女の意識だ。それにシークは名前を付けた。お人形さん。そう呼ぶことで、言葉魔術師の支配を上書きしたのが、あの結果だ。少女は書き入れられたその空白故に、普段は己を手放しで眠っている。記憶も、感情も、そこにはない。名がないからだ。だからこそ穏やかな眠りが少女を包み込んでいる。
 そこに、破壊された予知魔術師の魔力は及ばない。そう呼ばれている限り、彼女は言葉魔術師の人形として存在する。魔術師として、ではなく。けれども、確かに少女は魔術師であるので。引いた波がまた海岸へ寄って行くように。沈んだ太陽が昇ってしまうように。眠りから目覚めてしまうのだ。己を取り戻してしまうのだ。それを、王たちは禁じた。眠りは幽閉と同義となった。
 目を覚ませば少女は泣き叫ぶ。制御を失った予知魔術が世界に解き放たれる。未熟な魔術師にその制御を取り戻す術はなく、『傍付き』を失った『花嫁』に待つのは死でしかない。だからこそ少女は眠っている。眠り続けている。その死を先延ばしにされている。助けられなかった、と慟哭する夢の中で。リトリアは震えながら、息を吸い込んだ。瞼を指で擦って、涙を拭う。
 荒れ狂う感情に己を失いかけたリトリアを、ここで落ち着かせてくれたのはシークに他ならない。寒い場所にいることを、冷静な気持ちでリトリアは感謝した。温かな気持ちで、そっと、待たれていたなら泣き叫んでいただろう。守られたくない。傷つけられたい。罪悪感のあまりそう願う気持ちを、冷たさが幾分か、埋めてくれた。
「……あの子、もう、眠っているしか、ないの……?」
 ゆるやかに、ゆるやかに。眠り続け、死を待つしか、ないのだろうか。あんな絶望を抱えさせたままで。救い出すことも、安らがせることすらできないままで。うん、とシークは言った。リトリアの苦しみを肯定して、その上で。言葉魔術師は目を逸らして、でも、と呟く。諦めてあげることができない。それが少女の眠りのことなのか、遠からず訪れる死の回避についてかすら、分からないままで。
 リトリアは、うん、と言った。ちからになれる、と思う。胸に手を押し当てて息を吸う。リトリアは予知魔術師だ。不可能を可能に書き換える。万能とすら呼ばれる。奇跡を導く魔術師だ。まだ完全とは言えない。けれども知識があり、経験があり、成長の余地がある。壊れてはいない。壊されてなど、いない。唇を噛む。前を向く。シークさん、とリトリアは呼んだ。
 予知魔術師の声は、静かに。言葉魔術師の決意を導いていく。



 どうしたいの、と聞かれたのは、思えば随分久しぶりのことだった。こうして欲しい、と願われたことは多く、こうせよ、と命じられることが殆どだった。己の意思というのは願いや命令の先にあるもので、なにかを始める前に、その手元を確認される経験そのものが乏しかった。え、と呟いたきり言葉にならないシークを見つめて、リトリアは肩を震わせながら立ち上がった。
 考えてね。また、聞きに来るからね。今日はこれで、と言って去って行ったリトリアを見送った『扉』を眺め、シークはなにも考えず、そこへ手を伸ばした。いつかの記憶が頭をかすめる。それは『学園』在学中に痛いくらい願い続け、卒業と同時に瓦解し、砂漠で過ごすうち、いつの間にか穏やかな風化を受け入れた願いだった。帰りたい、と思っていた。元の世界へ。
 目を閉じて、息を吐く。『扉』は砕き残されたいくつかの欠片には繋がっているものの、シークの居た世界には繋がらない。繋げることができない。残された書物はその方法を語らず、薄く残る繋がりは、時を重ねるごとに解けて消えて行く。どうしたいの、という予知魔術師の言葉が耳の奥へ染み込んで行く。帰りたい、と暫くぶりに、シークはその願いを絞り出して口にした。
 擦り切れ色褪せるばかりの記憶の向こう。産まれたその世界に。ここではない、あの場所に。帰りたい、と繰り返しシークは口にした。呟いて、苦笑して、首を振る。あの屈託のない予知魔術師が問うたのは、シーク個人の願いなどではなく。今も眠る、言葉魔術師の対たる存在を、どうしたいのか。どうして欲しいのか。そういう意味の言葉だ。分かっていた。
 身を翻して歩き出す。求められた時に必要なことを行い、他はなにもしないでいること。これだけを守れば、シークは『学園』の中では自由に過ごすことが許されていた。なにもしない、と言ってもそれは魔術を使うなというだけで、よく考えればそれは在学中と代わりのない日々だ。シークは好んで図書館へ引きこもり、本を読んでは時間を潰して毎日を過ごした。
 言葉を追いかけている間は、なにも考えなくて済んだ。それが学術書であるなら知識を得る喜びが、物語であるならここではない何処か、己ではない誰かの目を通した風景が、そっと心を慰めた。目の前のことも、これまでのことも、これからのことも、考えることに疲れていた。なにも考えたくない。もう疲れてしまった。なにも考えないでいる時間を過ごしたくない。疲れてしまう、ばかりで。
 今日も、あとはまたそうしていようかと思っていたのに。シークが足を向けたのは、独房の一室だった。見張りの魔術師に苦笑して面会の為の書類に名を記し、その場所へ足を踏み入れる。普段は隠された寮の、地下に通じる階段の先に独房がある。そこは地下牢そのものだった。各国の不用になった建物の移築群で成された『学園』であるから、その牢も、大戦争時代の遺物である。
 空間に足を踏み入れるだけで、異様なまでの威圧を感じる場所だった。そこは呪われた魔力に満ちている。錬金術師たちが、黒魔術師が、あるいは白魔術師たちが、ありったけの魔術を鉄柵に、地下牢を形成す煉瓦に、水に土に灯篭に封じ込めて、そこへ放り込まれた魔術師の魔力を押さえつけている。鉄柵の向こうにいる限り、魔術師はただの人だった。
 入口から、数えて三番目の独房の前で立ち止まる。あえて先へ流していた視線を室内に向けるより早く、聞きなれた声が穏やかに響いた。
「やあ、シーク。……処刑の日、決まった?」
「こんにちは、ジェイド。ひさしぶり。……その挨拶、ジェイドの持ちネタだから気にしないでいいよ? って皆に言い聞かせている、ボクの努力を誉めてくれてもいいんだけど? それに、今この状況で……どんな理由あれ、魔術師の数を減らす訳にはいかない。分かってるだろう?」
「残す利点より、置いておく損益の方が多いと考えますのでどうぞ冷静なご判断を、と王には申し上げているんだけどね」
 そのせいで、砂漠の王はついに胃に穴が開いたという。それでも陳述書が届く限り、ジェイドはまだ生きているのだから、とほっとする砂漠の王に、魔術師たちは泣いたのだと聞く。シークもそれを聞いて、主君の涙ぐましさに苦しい気持ちになった。誰も、彼も、諦められなどしないのだ。己の内側に宿った好意を。捨てきれないでいる。それが悪手だと分かっていても。
 鉄柵越しに対面した同僚は、不思議なくらい、特に変わりがないように思えた。面倒くさがって切らないでいる髪が伸びたくらいで、身綺麗にはしているし、服も清潔なものである。運動をしていないから、すこし、痩せたようには見える。それくらいだ。昨日、今日に、そこへ入らざるを得なかった。そういう風な出で立ちをして、落ち着いた、穏やかな微笑を絶やさないでいる。
 もういい、とジェイドが言ったのは、ウィッシュをその腕の中で眠らせたあの日の一度きりだった。もういい。疲れた。そう言って目を閉じて、魔術師たちが駆け込んでくるまで、ジェイドは動かないでいた。息をしているのが不思議だと、シークは思う。あの時に、もう、シークはジェイドを諦めた。鼓動も、息も、絶えるものだと思っていた。耐えられるものではないと思っていた。
 その言葉に込めた感情を、誰より理解できた。もういい、と思うのも。疲れた、と思うのも。同じだった。シークも全く同じ気持ちだった。それなのにジェイドは鉄柵の向こうでしれっと息をしていて、シークはこちら側で、何故だかまだ鼓動が響くままにしている。ジェイドはいくらか自殺未遂だか自傷だか繰り返していた時期があるそうだが、それも今は消えて落ち着いてしまっている。
 ただ、ただ、不思議な気持ちで、ジェイドとシークは視線を交わす。それくらいに、もういいと思い、もう疲れたと思い、心底それに共感し理解して尊重さえしてやろうと思っているのに。どうしてまだ息をしているのだろう。途絶えないでいるのだろう。己も、相手も、世界も。なにもかも。
「……シーク。用事、なに? 用事ある? ……顔見て、声聞きに来ただけ?」
「顔見て、声聞きに来ただけ、かな。……ああ、さっきまでリトリアがいたけど。その話でもする?」
「うん。じゃあ、聞こうかな」
 話をすることすら不自然で、不思議な行為だった。そこにジェイドが確かにいるのに、なにもない空間に言葉を響かせているような気持ちになる。鏡を覗き込みながら、ひとり言を繰り返しているような気持ちになる。顔を見て、声を聞いて、穏やかに微笑み合いながらも、なにも安心できないでいる。確かめられるものがなにもない。確かめようとすることが、なにもない。
 笑って話して体温があって呼吸をしていても。ジェイドをもう、生きている、と感じることができない。鉄柵の向こうにいる限り、魔術師はただの人と同じになる。そうであるからこそ。ジェイドの目に、寄り添う妖精、かつて『花嫁』であったひかりは、映らないままなのだ。それなのに、まだ。ジェイドはふっと、困ったように笑って立ち上がった。
 一歩、二歩、歩き。鉄柵の隙間から腕を伸ばし、シークに触れる。
「……シーク」
「なに」
「泣くなよ。……ああ、いや、泣いてもいいけど。……まだ辛い?」
 歯を、食いしばって嗚咽を殺す。瞬きで涙が落ちて行く。服を濡らす前に、ジェイドの指が丁寧に拭っていく。悲しくてやりきれない。そこにいるよ、とシークは言った。目を伏せて、困ったように、ジェイドは笑う。うん、とジェイドは呟いた。歌うように、囁くように。穏やかに笑いながら。
「知ってるよ。……分かってる。シュニーがずっと一緒にいてくれることも、誰も、俺から彼女を取り上げたりしないことも。分かってるよ……分かってる、だから、お前が悲しむことじゃないよ。悲しまなくて、いいよ……大丈夫。大丈夫だから……」
「君の、為になんか……泣いてないよ」
「うん、そうだな。ああ……ああ、そうか。シーク。まだ、辛いのか……そうか……」
 少女のように壊れないでいる心が。ジェイドのように失われないでいる心が。感情と理不尽に泣き叫んでいる。ただ、ただ、希望を目指していた筈なのに。それを託されたはずなのに。一度は、育ったその実を両手で包み込み、得たような気持ちにすらなったのに。それはどうして失われてしまったのだろう。どうすればよかったのだろう。
 あの努力と献身の日々の末が、こうであることを、どうしても、どうしても。
「……ジェイド?」
「うん?」
「キミは、もう、辛くはないね」
 痛いとも、苦しいとも、感じないなら。現在も過去も未来も考えたくなくて。なにも考えることさえ、したくなくて。息をして、瞬きをして、日々を過ごしていくことを。焦燥の中に、罪悪感の中に、身を浸していないのなら。それはもう、きっと、救いだ。囁くシークの言葉は問いではなかった。確認でしかないそれを、じっと見つめるように。ジェイドはシークの目を覗き込んで。
 涙を拭っていた手を引き、胸に押し当てて、にっこりと笑った。
「そうだよ。……すまない、シーク。ごめんね。……ごめんね、シーク」
「ジェイド」
「君を、ひとり、残してしまった……」
 一緒に死んであげられればよかった、とジェイドは言った。シークは笑う。ほんとうに、ほんとうに、その通りだ。どうして失われてしまわなかったのだろう。どうして、まだ、それでも、まだ、諦めず。誰かがシークの前に、希望を差し出して笑うのだろう。瞬きをして、まなうらに、リトリアの姿を思い出す。その声の響きを思い出す。耳の中にまだ残っていたその声を。希望を。
 諦めず。何度でも、何度でも、また。
「……ひとりじゃないよ、ジェイド。ボクはまだ……また、ひとりじゃ、ない」
「そう。……そうか。それなら……よかった」
「うん。だから」
 大丈夫とは、言えない。思えもしない。けれど、また、もうすこし歩けるだろう。その先にあるものを、もう一度信じて。諦められない、と呟くシークに、ジェイドがいいよ、と笑って言った。諦めないで、思う通りにしていいよ、と告げるその言葉を。許しだと、思った。



 その日様子を見に行ったのは気まぐれだったが、もしかしてなにかを感じたのかも知れない。そうシークが思ったのは白い扉を開いた先に、妖精のひかりが見えたからだった。ほの甘い暗がりの中、妖精は、ソキの顔を照らし出すように傍らに寄り添っている。溜息をついて、シークは室内に足を踏み入れた。靴音が響いても、妖精はシークに意識を向けないまま、ただ眠るソキのことを見つめている。
 妖精を呼ぶ名は、無いままだった。
「……見ていても、今日はまだ起きないと思うよ」
 ゆるゆると繰り返す瞬きのような動きで、花妖精が羽根を揺らめかせる。そっと持ち上げられた目は泣いていたように、赤く擦られ潤んでいた。ひとりなの、と問うシークに、花妖精は俯いて頷く。彼は、とかつてはずっと傍にいた鉱石妖精のことを問いかければ、きゅぅと口唇に力を込めたまま、花妖精は首を横に振った。
『知らない。……会ってない、見てないの。今、どこにいる、のかも……知らない』
「……責任を感じている?」
 花妖精は毅然として顔をあげ、しっかりと一度、頷いた。惨劇を起こしたウィッシュの、案内妖精は鉱石妖精。生真面目で世話焼きだった彼とは、同種族である。なにか思いつめていたのを見知っていて、放置した。相談に乗っていれば、なにか言葉を交わしていれば、気が付けたかも知れない。なにか出来たかも知れないのに、と苦しんだ末に、姿を見せなくなったことは、聞いていた。
 妖精としての姿を成さず。どこかで鉱石へと変じたのかも知れず、行方は誰にも分からなかった。花妖精も、あの日が最後であったのだという。ソキを守ろうとして、守り切れなかったあの日。ソキと共に『学園』へ招かれ、少女の枕元で共に眠りにつき。目を覚ませば、もうどこにもいなかった。一年が経過した今も、会うことは出来ていない。
 鉱石妖精とも、ソキとも。会うことができないでいる。ソキの意識は狂乱の中、表層に浮かび上がってはまたすぐに沈められるだけのものだ。時折、目を覚ませばそこにいるのはシークの『お人形さん』であり、花妖精の魔術師ではない。失われてしまったに近しく、けれどもまだ、花妖精の魔術師はそこにある。眠る少女の頬に寄り添って、慈しむ視線で、花妖精は囁く。
『どうすれば、よかったのかしらって……ずっと、思ってしまうの。あの時、どうすれば……わたしは、この子を、守れたかしら……』
 言葉はひとつも届かなかった。悲鳴じみた声でいくら声を投げかけても、そのひとつもソキには届かなかった。視線はたった一人に向けられていて、意識はたったひとりで占められていて、そこに妖精たちがいたことを認識していたのかすら定かではない。混乱と恐怖で押しつぶされて、絶望で壊れて行くその様を見て、その音を、妖精は聞いていた。その傍らで。
 ずっと、ずっと、見ていた。
『……前に、ね。彼が……その、鉱石妖精の、わたしと一緒にいた、彼が……もっと、言い返したり、大きな声で誰かに助けを求めるくらい、できるようになりなさい、とわたしに、言ったのよ』
 溜息のように、妖精は言葉を零して懺悔する。
『もっと……もっと、もっと、わたしが……わたしの気が強かったら、もうすこしくらい、この子に、声が届いたのかしら……』
 言うことを聞いて、逃げてくれたのかしら、と呟いて。ふふ、と花妖精は肩を震わせて笑った。
『いいえ。そんなことはないわね。そんなこと……あなたは、きっと、聞こえていても……わたしの言うことなんて、聞いてくれなかったわ。ロゼアを……置いて、逃げるだなんて。あなたが、そんなことを、してくれるはずが……』
「聞いてくれたかも知れないよ。もしかしたら。……例えば、そこがもう安全だったら。助けを求めにその場所を離れるくらいのことなら、彼女だってしてくれただろうさ」
『……この子を』
 導いてあげたかった、と花妖精は両手で顔を覆って囁いた。ほたほたと零れた雫が枕に染みをつくっても、少女は瞼を震わせない。なにもかも失った安らぎの中で、穏やかな顔で眠りについている。
『こんな風に、『学園』にいるだなんて、考えたことがなかったのに……。この子は……もっと、きっと、ずっと苦労して、旅をして……たくさん周りに迷惑をかけて、でも、きっと皆に助けてもらいながら、この子は『学園』まで旅をする筈だった。絶対に、そうなると思っていたの……わたしはきっと、困ったり、悩んだり、怒ったりもしながら、一緒に行くのだ、って』
「……そうだね。きっと、王宮魔術師たち皆で心配して見守っただろうさ」
『そうよ。それで、どんな魔術師になるのかしらって、どんな……どんな風に……』
 顔を隠す手を震わせ、握り、うずくまって。花妖精は、こんな筈じゃなかった、と繰り返した。
『わたしは、迎えに行ったのに。わたしが、迎えに行ったのに……ソキ。ソキ、ソキ。……ソキ』
 ごめんなさい、と花妖精は繰り返しすすり泣く。あなたを導くのがわたしの役目。あなたを守り、この場所まで連れて行くのがわたしの役目。それなのに。ごめんなさい。ごめんなさい、ああ、どうして。どうしてこんなことに。繰り返される慟哭を、慰める言葉を持たず。シークはただ、花妖精に寄り沿った。



 ソキの眠る封じられた部屋に、花妖精とリトリアの姿が増えたのは、年明けを迎えた頃だった。どちらも、特に理由があって訪れている訳ではないらしい。花妖精は少女の傍を離れがたく、リトリアは単に顔が見たいだけのようだった。話が出来ればいいな、とは思っているの、とリトリアは言った。でもね、難しいでしょう。それは分かってるの。でもね、もしかしたら、って思うの。
 リトリアの屈託のない希望は、すこし、シークと花妖精の希望になった。そうね、と花妖精は穏やかな笑みでもう一人の予知魔術師に囁きかけた。もし、この子がふつうに目を覚まして、そうしたら、どんな話をしましょうか。ふたりはくすくすと笑い合い、ああでもない、こうでもない、と楽しげに言葉を交わし合った。その笑い声だけで、またすこし部屋に光が満ちて行く気持ちになる。
 リトリアが部屋に常駐しだす頃になると、少女を追ってふたりの魔術師が姿を見せることとなる。ストルは額に手を押し当て、リトリアにここは遊ぶ所ではないよと窘めたが、それだけで、積極的に追い出したり連れ出すことはせず。ツフィアは渋い顔をして腕組みをし、眠り続けるソキとリトリア、シークを見比べて、深く息を吐いただけだった。予知魔術師を持つ言葉魔術師、という共通項が、シークとツフィアにある。なにか思う所もあるようだった。
 三人が部屋に出入りするようになると、なお騒がしくなる。見張りの白魔術師たちは苦笑いから、やがて悪戯っぽく目を輝かせて笑い合うようになった。今日はまだ大丈夫、ゆっくり眠っていますよ、と訪れたシークに囁き。扉の中から零れ落ちるリトリアの子守歌は、うつくしく柔らかな祝福に満ちて世界を輝かせた。
 年始を超えると、ぽつりぽつりと『学園』に人が戻ってくる。在校生たちはソキの元に足繁く通うリトリアの姿を見るとぎょっとして、それを止めないで好きにさせつつ後をついて回るストルとツフィアの姿にはどこか引きつった顔で笑い、どうすればいいのか分からなくなってきた顔で呻くシークの肩を、気安くぽんぽんと撫でては触れ、慰めた。
 悪いことなんてしてないもの、とリトリアは笑いながら言い放った。ざわめく在校生たちの前でも、聞きつけて呼び出された五王たちの前でも変わらず。まっすぐに前を見て、きらきら輝く目で笑いながら胸を張った。別に起こそうっていう訳じゃないでしょう、お世話しているだけ。歌をうたったり、髪をとかしたり、可愛い寝間着に着替えさせたり、お部屋に良い匂いをさせたり。
 あのね、皆もう駄目って言っているでしょう。あの子は元に戻らない。眠らせて、眠らせて、じわじわ死に向かっていくのを見守るだけ。ふつうに生きられることはない。諦めなさいって、言うでしょう。わたしもそれは正しいと思う。あの子がいつかのように笑って、それで、魔術師として生きていけるだなんて思わない。でも、とリトリアはまっすぐ、前を睨みつけるようにして言った。
 話してみたい。会ってみたいの。もしかしたらって、夢を見て、希望を抱いて、可能性にすがるの。あのね、皆知らないでしょうけど、あの子、子守歌をうたうと笑うのよ。良い匂いがすると、体からほっとして力が抜けるの。うなされている時に手を握ったら、握り返してくれた。生きてるの。まだ生きてるの。例え反射だとしても、そこにいるの。諦めたくない。諦めたくなんてない。
 だから、今できることをする。したいことをする。無理に起こして引っ掻き回したりなんてしない。ねえ、なにが悪いの、と開き直られて、リトリアに甘い五王たちは、それぞれに説得を諦めてしまったらしい。なにかあったらよろしく、という責任の全てをこちらへ投げてきた雑な書状を、それでいて王たちの連名が刻まれたそれを受け取って、シークは頭を抱え込んで呻いた。
 ねえなにかあったらってどういうことかな、なにがあると思われてるのかなねえ、とうつろな目で呟くシークに、ストルは視線を逸らしてすまないと告げ、ツフィアはきちんと見ておくから、と額に手を押し当てながら約束した。恋人たち、兼、保護者であるふたりをもってしても、なにもしない、あるいは、なにもおきないとは断言が出来ないらしい。
 ソキの状態はよくならなかった。半月、あるいは一月に一度目を覚ましては、そのまま眠ることもあり、泣き叫んで術式の発動を待たなければいけないこともあった。リトリアは二度と己を失わずにその光景を繰り返し見つめ、目の奥に焼き付けるよう瞬きだけをしていた。予知魔術師は決して、少女が目覚めている時にはその名を呼ばず。シークさんのお人形さん、とからかうようにして囁いた。
 狂乱と平穏の狭間で日々が流れて行く。じわじわ、ソキは弱って行った。眠り続け、目覚めれば水を口にすることがあれど、食べ物を飲み込むことはもうずっと、ないままだった。荒れ狂う魔力だけが、魔術師の体を維持してしまっている。それでも、それは永遠ではない。砂が零れ落ちて行くように、命は終わりに向かっていく。それを、誰もが理解していた。
 とある日に。なんの気なしに、リトリアが言った。もしも、私がその時、あの場所にいられたら。助けてあげられたのかな。シークは笑って、そうだね、と言った。もしも、キミがあの場所にいてくれたなら、もしかしたらもうすこし、結果は違っていたのかも知れない。もしも、という言葉は、毒に満ちた希望のように。胸の深くまで落ちて行く。



 もしも。
 あの日、あの時の選択を。
 やりなおすことができるなら。

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