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 窓の外、視界の端を掠める新緑のうつくしさに、眩暈がした。エノーラは『扉』から出たばかりの壁に片手をつき、瞼に力を込めて深呼吸をする。何度かそうしているうちにざわめく魔力も吐き気も落ち着いたので、エノーラは脱力気味に顔を上げ、ぼんやりとした視線を窓の外へと投げかける。『学園』を取り巻く森の木々は、来るべき夏を、喜ばしく迎える準備に忙しない。
 夏。夏至の日。そのことを考えて、エノーラは憂鬱な気持ちで額に指先を押し当てた。星降の王から新入生がないことを告げられたのは、年明け早々の頃である。しばらくはない、気がする、とも告げられた言葉を、喜びをもって受け止めた魔術師はいないだろう。ただ、そこには確かな安堵があった。魔術師たちは確かに排斥され始めている。今はまだ、五国に滞在を許されているにしても。
 ああ、もうなにも考えたくない。休みたい。そう呟き、思考を手放しそうになる己を脳内で殴り倒して、エノーラは唇に力を入れて、瞬きをして深呼吸をして、睨みつけるように前を向いた。エノーラは今現在、最も多忙とされる錬金術師の中でも頭一つ飛びぬけて忙しく、そろそろ己がもう一人いないことに疑問を感じるくらいの状態ではあるが、気持ちはまだ立ち止まってはいなかった。
 足を踏み出す。『学園』の廊下を歩き出す。訪れた目的は、『学園』の図書館である。いくらエノーラが稀代の天才と言えども未知の疑問に対して全てをひとりで解き明かせる訳でもなく、必要なのは知識と積まれた経験であるから、それを得にやってきたのだった。必要な知識が記されているであろう本の場所に、目途をつけながら歩いていく。
 あと何回こうすれば終わるのだろう、と不確かな先行きに弱音を吐きたがる己を引きずりながら。やけにざわめく談話室の前を通り過ぎ、玄関から出ようとした時だった。はしゃぎ声と共に、柔らかな衝撃が腕を抱き留める。
「エノーラさん、エノーラさん!」
「……え? リトリアちゃんだと思ったら天使だった……? ……あっ違うわこれ逆だわ? 天使かと思ったらリトリアちゃんだった? リトリアちゃんどうしたの? 天使になったの? 私死ぬ?」
「お疲れのエノーラさん。あのね、お茶にしませんか。……それでね、すこしお話があるの。ね? こっちに来て?」
 慣れ切った対応として錬金術師の妄言を受け流し、リトリアは照れくさそうな笑顔でエノーラの腕をくいくいと引っ張った。かねてより可愛がっている年下の可愛い女の子からそういう風に誘われて、断れる存在がいたら教えて欲しい、とエノーラは思った。思ったのだが、しかし。
「ご、ごめんね。リトリアちゃん。私その、ちょーっと、いま、忙し……」
 えっ、とちいさな声があがる。叱られたような顔をしたリトリアは、ちょんと唇を尖らせて、やや潤んだ目をして首を傾げてみせた。
「……だめ?」
 いや無理これ絶対無理だから。私無理とか言うの嫌いだからあんまり言いたくないんだけど無理だからさよなら私の行動予定。そしてこんにちは盛大なる遅延。仕方がないから後のことは後で考えるのよだってかわいいなにこれ絶対無理。ああぁあ、と呻いた後に脱力気味の息を吐くエノーラが、腕を振り解いて行ってしまわないことが分かったのだろう。
 にこにこにこ、と上機嫌な顔をして、リトリアはエノーラの腕を引いて歩き出した。
「よかった。あのね、ちょっと困ってたことがあったんだけど、ストルさんとツフィアが、それならエノーラさんを連れて来なさいっていうから。来てくれないかなぁって思ってたの。よかったぁ……!」
「あっ駄目だわこれ死ぬわ……」
 その二人からの指名など嫌な予感しかない。ふたりの危険性を分かっているのかいないのか、リトリアは大丈夫大丈夫、と歌うように繰り返して、エノーラをずるずる引っ張って歩いていく。談話室へ踏み込むと、いくつもの視線がエノーラを出迎えた。同情と苦笑いに満ちたそれをいくつも睨み返しながら、エノーラは訝しく談話室を見回した。
 記憶にあるものと、机の配置が変わっている。それだけなら単純な模様替えであるのだが、机の種類すら変わっている。談話室に多く置かれているのは、どちらかと言えば意趣を優先した家具ばかりである筈なのだが。集まってくつろぐ為のそれより、見慣れた武骨で頑丈な量産品ばかりが、部屋を埋め尽くそうとしていた。そして机と椅子の狭い隙間を行き交うのは、生徒たちばかりではない。
 教員の姿も多く、王宮魔術師の数も多かった。半数以上が卒業生だろう。中にはエノーラと同じ錬金術師たちの姿もあり、視線があうと微笑みながら、ひらひらと手を振って来た。眩暈がする。こんな所でなにをしているのかと怒鳴りつけてやりたいが、リトリアに捕まった腕を今も振り解いていない以上、もはやエノーラも同罪である。計画の大幅な遅延が決定づけられたに等しかった。
 ああぁあああ、と心底なにかを悔やんで呻くエノーラをいっしょうけんめい引っ張って、リトリアは一仕事終えた上機嫌な笑みでもって、錬金術師を用意しておいた椅子に腰かけさせた。ふう、と満足しきった息で、予知魔術師は胸を張る。
「エノーラさん! 連れて来ちゃったっ!」
「やあ。ようこそエノーラ。歓迎するよ」
「シーク。……ツフィア、ストル。レディまで……。えっなにこの集い……巻き込まれたくない感じが半端じゃない……」
 現存する言葉魔術師二人に、稀代の占星術師。火の魔法使いに、予知魔術師が同席する場に、連れてくることのできる錬金術師がいるとすれば、それはエノーラくらいだろう。エノーラは天才だ。自分でそれが分かっている。だからこそ、己が選ばれ連れて来られたのだ、ということを理解してしまっている。エノーラの代わりが出来るとしたら、キムルくらいしかいないだろうか。
 しかしそのキムルは、エノーラのこよなく愛するチェチェリアの夫たる憎々しい楽音の錬金術師は、先程涼しい顔をして手をひらひら振って来たばかりである。どうせ、これはエノーラではないと、など、意見した後に違いない。あぁあああああ、と頭を抱えて涙声で呻くエノーラに、何処から茶器一式を運んで来たリトリアが、きょとん、とした顔で瞬きをした。
「ええっと……? エノーラさん、やっぱり難しいって……?」
「いや、まだ話してはいないよ。発作だから放っておきなさい」
「ちょっと病気みたいに聞こえるでしょうが辞めなさいよストル……! あぁあもう、えっ、ねえ、なに……? なに……? あのね、知ってるとは思うけど、私今すごく、すっごく、とんでもなく忙しいの……。どうして私が分裂できないのか、そろそろ理解できなくなったくらい忙しいの……。誰のせいとは言わないけど。誰のせいとは」
 思い切り見られながら言われたシークが、ほの甘い笑みさえ浮かべながらひょい、と肩を竦めて目を和ませる。エノーラは隠さず舌打ちした。誰も彼もが同情して、君のせいではないよ、なんて言葉で、真綿で首を絞め続けたせいで、シークはこれくらいの嫌味でさえ喜ぶようになってしまった。誰か一人くらい、泣き叫びながら掴みかかって、この男に言ってやるべきだったのだ。
 お前のせいだ。どうしてくれる。責任を取れ、くらいのことは。言うべきだった。そう思いながらも、エノーラも、シークにそれを言ってやることはなかった。誰にそれが出来ただろう。迷子のこどものような顔をして、ぎこちなく笑って、ごめん、などと囁く男に。全部自分の責任だ、などという逃げで独房に引きこもって出てこないジェイドのことも連想的に思い出して、エノーラは机に拳を叩きつけた。
 深呼吸をする。
「……今、この状態で、錬金術師を拘束する、その意味は分かってるんでしょうね?」
「はい。分かっています」
 椅子に座り、まっすぐに背を伸ばして。まっすぐな目と、声で告げたのはリトリアだった。その場の誰もが、返答を少女に委ねていた。つまりは、リトリアが代表なのだ。この場の。あるいは、もしかすれば、談話室全体の。エノーラにしては珍しく、リトリアに向けても緩めはしない視線の鋭さに臆することはなく。予知魔術師は華やかな笑みで、ろくでもないことを囁いた。
「大丈夫! 私最近、五王の追及をちょろまかす方法を学んだの。なんとね、勝率十割なのよ。えへん」
「なっんにも大丈夫じゃないわよなにがどう大丈夫なのよどうして大丈夫だと思っちゃったのよおおおお! 止めなさいよアンタたち保護者でしょっ? なんで視線を逸らしてるのよこっち向きなさいよアンタたちに向かって言ってんのよツフィアにストル! 馬鹿っ! というか最近の進捗状況がいまひとつ思わしくないと思ってたのはまさかこれっ? これなのっ? アンタたちに聞いてんのよ返事しなさいよちょっとおおおおお! あぁあああもうキムルーっ!」
 絶叫された錬金術師は、予想しきった笑みで椅子から立ち上がり、エノーラたちの方へ顔を向けていた。距離を詰めることはなく。なにかな、と遠くから問いかけてくる同僚に、エノーラは胃に手を押し当てながら叫ぶ。
「アンタいつからこれに首突っ込まされてたのっ?」
「半月くらい前かな。ねー」
「ね、ねー」
 一瞬戸惑いながらも、首を傾げてにこにこと応じるリトリアが、今日もエノーラの天使すぎてなにもかも許したくなった。顔を両手で覆いながらもその場にくずおれたエノーラに、しかし、心配そうな目を向けたのはリトリアひとりだけだった。大丈夫、と問うてくる声に首を横に振りながら、エノーラは頭の中でぱちぱちと、様々なものが組み合わさって行く音を聞く。
 よろけながら立ち上がって、椅子に座りなおして。エノーラは疲れ切った気持ちで、ねえ、と少女に向かって問いかけた。
「なにしてるの? これ」
「な、なにって、その……。わるいこと……」
「わるいことかー。へぇー、ふうーん。そっかぁー。わるいことかー……わるいことかー……」
 そんなことは薄々分かっていたが、あえて口にしては欲しくなかったし、なんというか具体例が欲しかった。でも、もじもじしながら上目遣いで、わるいこと、と言うリトリアは最高に可愛かったので全ての罪は許される。真顔で息を吐き、エノーラはシークに問いかけた。
「なにしてるの? これ」
「うーん。設計とか計算かな?」
「具体的に言えって言ってるのよ私は」
 キミのその清々しいくらい態度違うトコすごく好きだよ、と苦笑してくるシークにどうもと素っ気なく言い返し、エノーラは言葉魔術師を睨みつけた。他の三人は、えっあれ私今説明した、えっ、とおろおろするリトリアを宥めるのに忙しいらしく、会話に介入してくる気配はない。シークは言葉に迷うように視線をさ迷わせた後に、ぽつりと、もしも、を実現する為にはどうすればいいのかと思って、と言った。
 エノーラは隠さず、額に手を押し当てて溜息を付く。一から順番に、全部、説明を求めて言わせる必要がありそうだった。



 エノーラの多忙は、『扉』を繋ぎなおす必要がある為である。それは五王から錬金術師に下された正式な命令であり、実行しなくてはならないことでもあった。砂漠の国は、もう数年でこの欠片の世界から切り離される。それはこの世界が存続して行く為にはどうしても必要な作業で、そうする為にも、繋いでいた『扉』を切り離し、やり直すことは逃れられないことだった。
 砂漠の国を『接続』したままでいられないのかという議論は、その決定がなされるまでの一年でされつくし、それから半年が経過した今も諦めきれずに続けられている。ほぼ不可能だろうな、と感情を切り捨てた結論として、エノーラは思う。砂漠の国が続いていくことが、というよりも、欠片の世界として『接続』し続けておくことが、である。元より、世界は安定したものではない。
 欠片、なのだ。そう呼ばれる通り、エノーラたちの存在する世界は残された欠片。それを無理やり繋ぎ合わせているだけの。大戦争時代、五つの国はてんでばらばらの土地に存在していた。接地してはいなかった。他の国を挟んだ陸続きであり、隣国ではなかったのだ。それを縫い合わせたのが、魔力を込めた城壁と、魔術的な術式を含めた国境。そして、いくつもの『扉』である。
 様々な調整の末、『扉』は国を縫い合わせる糸となり、癒着させる糊となった。それを断ち切り、剥がし、繋げなおして、安定させること。それがエノーラたち錬金術師に下された王たちの命令であり、それは同時に、この欠片の世界が存続して行けるかどうかの命運すら担う仕事だった。けれども。ひとつを切り捨て、四つを残し、そして安定させるなど。ほぼ、不可能な作業である。
 それがなぜ、完全に不可能、と断定してしまえないのかと言えば、原因も理由もエノーラである。エノーラは今代の錬金術師において、たったひとり、『扉』を複製する技術を持っている。その類稀なる技術故に、王たちから打診され、可能か不可能かと問われた際に、エノーラたったひとりが回答を濁したのだ。できる、とは思えなかった。しかし、できない、とも、言い切れなかったのだ。
 それは恐らく、いくつかの奇跡と数十の偶然と、数百の知識と数千の手順を越えれば、もしかしたら、万にひとつ、可能、であることがあるかも知れない。それくらいのことだった。けれども、星の数より膨大なその可能性を潜り抜ければ、できるかもしれない、とエノーラは思った。だから即答できなかったのだ。稀代の天才がそう告げたからこそ、王は錬金術師に命じたのである。
 出来る限りのことを、出来る限り、成せ。また、エノーラの思う通りに、言う通りにせよ。告げられた瞬間にエノーラは己の誇りやら何やらを全てかなぐり捨てて、ああああやっぱりできませんできませんごめんなさいできませんと頭を抱えて叫んだのだが、聞き入れられず。錬金術師たちには、お前なにしたか分かってるのかこれだから天才はこの天才かつくそ馬鹿がと盛大に罵られた。
 才能を評価されきった上で、馬鹿と怒られたのは殆ど初めての経験である。エノーラはさめざめと泣いたが、すぐに気を取り直して図書館へ駆け込んだ。エノーラは天才だ。天才であって、万能ではない。知らないことも、たくさんある。必要な知識が、経験も、まだ足りないことを知っていた。それを埋める為にどうすればいいのかを知っていた。だから、泣きながらでも、そうした。
 錬金術師たちは頭を抱えながら、王の命ずるまま、また己の心のままに、エノーラに従いそれを手伝った。元より、『扉』を繋ぎなおす必要がある、ということは確かなのだ。この世界の延命の為に。砂漠の国を切り離さずに置いておくよりも、まだ、そちらの方が存続の可能性が高い、と判断は下されていた。砂漠の国は不安定な小舟。いつ他国を巻き込み転覆するかも分からない。
 砂漠の国の王宮魔術師の転属準備、および、国民たちの移転準備は錬金術師の成否を待たず始められていた。切り離したとて、国として消滅してしまう訳ではない。日々は続いていく。ゆるやかな死の帳が、国に降りきるその時までは。王は少数の、動けぬ者たち、動かぬ民たちと共に残ると告げた。幾人かの魔術師は、転属を断って国と、王と、人々と命運を共にする。
 それは大戦争終結の、世界分割を思わせた。やりたくない、と素直にエノーラは思う。残していきたくない。別れたくない。けれど、全員で、死ぬ訳には行かない。切り離さなければいけない。それがただの延命行為にしかならないのだとしても。十年でも二十年でも、百には満たない時だったとしても。まだ産まれてくる命があり、生きている命があり、そして、未来には可能性がある。
 託さなければ、とエノーラは思う。それは未来の己かも知れない、知己かも知れない。これから目覚める魔術師の誰か、錬金術師のひとりかも知れない。それは進化や、いくつかの発展を飛び越えた先の発想を得ることを願う、天才の到来を希うこころだった。奇跡を願って、それでもエノーラは、未来を見据えて動いていた。それなのに、他の魔術師たちは、もしも、なんてことを言う。
「……自分たちがなに言ってるか分かってる?」
 それは、諦める、ということだ。この未来を諦めて、もしも、なんて可能性にすがるということだ。やり直せるとしたら、だなんて。不可逆な時を巻き戻したいなどと願うだなんて。そんなことで、ここからの未来を諦めるだなんて。怒気を乗せて吐き捨てたエノーラに、酷く静かな、穏やかな声で、レディが息を吐いた。
「あなたの怒りはもっともよ、稀代の錬金術師。……でもねエノーラ、よく考えて? いい? よく、よ」
「なによ」
「……ほんとに『扉』繋ぎなおせると思ってる? 出来るにしても、間に合うと思う? ほんとー、に」
 きっかり、二秒の空白をおいて。あああぁああもうやだもおおおおっ、と半泣き声でエノーラは絶叫した。人が忙しさと義務感と諦めない心、諦めたくない心、そして諦めない心で全力で目を逸らしていた問題を、直球で顔に叩きつけてこないで欲しい。それが分かっていたからこそ、錬金術師たちは密かに、エノーラの元を離れてリトリアと合流していたのだろう。キムルでさえ。
 諦め時だよ、とやはり一定の距離を保った遠くから、憎きキムルの声が響く。
「君だって、一度は王にできないですって言っただろう? 徒労にしかならない努力より、実る可能性の高い仕事をしなくてはね」
「でも、それは……ここからを、諦めるってことよ。この先の途絶を! なんの努力もせず! 諦めるってことなのよ!」
「なんの努力も、せずに? 馬鹿を言うんじゃない、エノーラ」
 静まり返る談話室に、二人の錬金術師の声だけが響く。
「君の半年の努力を、君自身が否定してどうする? ……それでも、存続ではなく、延命の努力だ。最初から分かっていただろう」
「そっちこそ、どれだけのことを言ってるのか分かってるの? 今後百年を……それに満たないとしても! その存続を、命を、希望を今私たちが諦め手放すっていうことよキムル! 未来を! そこにあるかも知れない希望を! い……いま、そこに、ここにっ……生きて、私たちが……生きて、いけないっていう、ことよ……分かってるの? キムル、ねえ、皆! 分かってるのっ?」
「諦めたんじゃないの」
 響く。声が響く。痛いほど張り詰めた談話室に、リトリアの柔らかな声が響く。祝福を歌うように。愛を、世界にぶちまけてしまうように。いとしいと。いとしいと、思うことを途絶えさせない声が、響く。
「ここから、先。私たちから、先を……今と、私と、わたしたちを。諦めたんじゃないの、エノーラさん。……最初は、もしも、っていう話だった。もし、あの日、あの時に、ああしていたら? なにか違ったかも。もっと、よくできたかも。今が全く違う結果だったかもっていう、慰めで……希望で、夢だった。他愛ない、夢の話。そんな、もしも、だった。……砂漠の国が切り離されて、なお、それが延命にしかならないと知るまでは」
 きっと、後悔だった、とリトリアは言った。一番近い感情が、後悔。二番目が、期待。三番目くらいにあったのが、懺悔。砂漠の国が壊死しかけていたのを、魔術師なら誰もが感じ取っていた。ゆるやかに回復してはいたけれど、それが完全ではなかったことも。穏やかに安定してしまうより早く、あの事件が起きてしまったことも。出来ることをしていたかな、って、思った。
 ひとつの国の死が、この世界の安定、存在をも根底から揺るがしてしまうと知っていたら。もっときっと、皆、死に物狂いで助けようとしたよね。私も、あなたも、皆。そうしたって言いきれるよね。でも、しなかった。ただ応援して、心配して、ちょっとだけ助けて、見守って、祈って、それだけ。だって知らなかったもの。知らなかったことすら、知らないままでいた。無知でいた。
 この世界が、欠片の世界と呼ばれるこの場所が、どれだけ繊細な天秤の上に乗っていたか。知っているつもりで、なにも知らなかった。皆そうだよね。今はすこし、知っていると思う。その上で、もう駄目だって諦めたんじゃないの。見切りをつけたのでもないの。決して、諦めたくないの。そんなことしたくない。なにひとつ。なんであっても。どんなことであっても、この先も、今も。
 私たちは、今、この先へ行きたい。
「だからね……だから、その為の、もしも、なの。もしも、あの時、ああしていたら? あの願いが叶っていたのなら? 全然違う今になってるかも知れない。私たちはこんな風な想いじゃなくて……ただ、生きて行くことが、できるかも知れない。あのね、エノーラさん。全然違うの。私たちは諦めたんじゃなくて……この、先を。ここからの未来を覆したい。過去から、今を覆して、未来まで繋げたい。それだけなの」
「……今、これからを諦めるのとなにが違うの」
「見えている崖の向こうに、もしかしたら着地できる所があるかも知れないっていう、よく分からない可能性に目隠しして飛ぶの? それなら、道を戻ることのなにがいけないの? 分かれ道まで戻って、別の道を選んで歩いていくことを、それを試すことのなにがいけないの? それは諦め? ……エノーラさんが言ってることはね、私だって分かってるの。もしかしたら、この先、助かるのかも知れない。でもそれって、どうすれば助かるの? この世界には、後どれだけの奇跡が必要なの?」
 だって『扉』も間に合わないんでしょう、とごく素直に言い放ったリトリアに、エノーラは胸を押さえて蹲った。お手柔らかに、という錬金術師たちからの視線にきょとんとして、リトリアは黙して見守るストルとツフィアに、困って縋る目を向けた。
「……それとも、ほんとの、ほんとは、間に合うの?」
「聞き方を変えましょうね、リトリア」
 穏やかな笑みで、鋭利に切りつけるように言ったのはツフィアだった。
「どういうことが起きれば、間に合うと思っているの? エノーラ」
「……あんまり口には出したくなかったんだけど」
 うん、とリトリアが無垢な目を向けてくる。事情を知っているキムルが、むごい、とばかり視線を逸らすのを意識の隅で捉えながら、エノーラは泣きそうな気持ちで口を開いた。
「い……一年以内に、私と同じくらいの天才が、さん、し……う、うぅん、さ、三人くらい、魔術師として、目覚めて……いや、今いる誰かが突然変異的に、できるようになってくれてもそれでもいいというか、私みたいに、こう、段階を踏まずに飛躍した発明とか……でき、れ、ば……。……つまり私があと三人必要っていうか、わたしがあとさんにんいればまにあうっていうか」
「うん、うん。エノーラ」
 優しい笑みで立ち上がり、錬金術師の肩を叩いたのはレディだった。火の魔法使いは呆れることなく、慈母のような微笑みで言い切った。
「それね、一般的な感性でいうと、現状不可能ってことだから。奇跡とも呼べないから。あなたが諦めましょうね」
「ふ、ふたり! ふたりでもいいから! そしたら私が不眠不休で頑張ってなんとかするからぁああ!」
「言ったろ? エノーラはね。まず間違いなく極めついた天才ではあるけど、紙一重の馬鹿も兼任する稀有な存在だって。この発想力で、あっもしかしたら出来るかも? と思われた錬金術師の絶望を理解したまえよ」
 聞こえてんのよキムルこの野郎かくなる上は私が魔術で増える方法を探すのが一番はやいあっお願いリトリアちゃんそんなかなしそうな目でわたしをみないでつらい、という声が、談話室に力なく響いた。



 陛下になんて言えばいいの、と嘆きながらも動きの止まらないエノーラの手先をひょいと覗き込みながら、リトリアが私がなんとかしてあげるから大丈夫、と不安しかないような請け負い方で、明るい声を響かせた。
「私ね、最近、五王をてのひらで転がせるの。悪女なの」
「ねえちょっとあなたたちの恋人こんなこと言ってますけど! どういう教育しちゃったのよ兼任保護者ども! 」
「全ての責任をこちらへ向けてくるのを辞めてくれないか……?」
 居並ぶ占星術師たちから纏められた報告書に視線を落とし、口頭や筆記で指示を出しながら、ストルはうつくしく眉をゆがめた。
「そんなに不安がらずとも、やりすぎないように、とは言っているさ」
「そうじゃないでしょ……? 私が言ってるのはそういうことじゃないって分かってるでしょ……?」
 嘆きの合間に赤で計算式と図式を書き終わり、エノーラは効率重視ならこっち、安全面最優先ならこれ、挑戦意識高く踏み切って飛ぶならこれ、と言って、大きな紙をくるくる纏め、立っていたキムルに差し出した。キムルはほとほと呆れた顔をして受け取りながら、君はほんとうに馬鹿なのにねえ、と嘆かわしげに首を振る。
「それでもやはり、君が錬金術師の最高峰だ。……助かるよ、ありがとう」
「どういたしまして素直に褒めないでよ体調でも悪いの? 休憩したら? ……説明は任せたからね、キムル」
 その飛躍しきった発想と着眼点、異質な才能故に、エノーラには答えには辿りつけるが中々道筋を説明できない、という悪癖がある。それを唯一補えるのがキムルである。同時代に現れたもうひとりの才能。もうひとりの異才。キムルがいなければ、あるいはエノーラはただ異端とだけ呼ばれ、天才として立つことはなかったであろう、と誰もが囁く程の。錬金術師としての、一組。対。
 ふたりはそれぞれに不愉快そうな視線を戯れに交わし合い、君こそすこし休憩すべきだおあいにくさま私はここに来るまでに寝てたのよなんと二時間もね君のその頭では必要な睡眠時間の計算が出来なくなったとみえる嘆かわしいうるさいわね進化よ進化ばか言えそれはただの怠惰だとはいえ今もうすこし君の力が必要なことは確かだ終わったら朝まで寝るんだねはいはい分かってるわよそっちこそ、と切れ目なく、流れる水のように言葉を交わし叩きつけた。ひらり、手を振ってからキムルが立ち去って行く。
 立ち去って行くキムルにはもう用事がないとばかり、エノーラは手元に残した幾つかの紙片に意識を集中させていた。リトリアがそっとキムルを見ると、男はわらわらと集まって来た錬金術師たちにエノーラから預かった紙を広げて見せながら、講義よろしくひとつひとつの説明を始めようとしている。目を戻せばストルもまだ指示を続けていて、ツフィアとシークは延々と魔術について話し込んでいた。
 ううん、といまひとつ不満げな声で唸り、リトリアは頬を膨らませた。
「私だけなにもしていないような……。ねえ、お手伝いすることない?」
「そう? なら、お茶を入れてくれる?」
「……はぁい……」
 微笑んですぐに指示をくれたツフィアに、肩を落として返事をする。確かにリトリアは、言葉魔術師の議論に混ざれるほど頭がよくないし、錬金術師たちの描く設計図や式を見てもなんだかよく分からないし、占星術師の計算式を読み解ける程の勘の良さもないのだが。遠回しな戦力外通告を理解できない訳でもないのだった。
 とぼとぼと厨房へ行って、しょぼくれながらお茶を運び、リトリアは鼻を啜りながらひとりひとりにそれを差し出した。集中しがちなストルにはすこしだけぬるくして、取っ手の大きいマグに入れた香草茶を、砂糖菓子つきで。ツフィアには砂糖なしのミルクティーをポットごと、蜂蜜の瓶を添えて。シークの前には甘くて冷たいミルクティーと、卵とレタスのサンドイッチ。お手拭きも一緒に置く。
 エノーラにはストルと同じ大きなマグカップに、温めたミルクを給仕する。シークと同じサンドイッチと、もう一種類、苺のジャムを挟んだ甘いものも置く。これが駄目だったらこっちだけでもね、食べられそうなら全部ね、と乾燥果物をごろごろ入れたヨーグルトを置いて言い聞かせ、なぜか笑いをかみ殺しているレディに、レモン水を入れたグラスを差し出して場を離れる。
 談話室の面々に、疲労やその日の食事状況、個人の好みに合わせてせっせと軽食と飲み物を運び、その間に空いた食器は片付け、頑張ってね無理しないでね、と声をかけて回って、一通りを終えて。しおしおと戻って来たリトリアに、耐えきれず、レディは口元に手をあてて噴き出した。
「リトリアちゃん。これでなにもしてないって言うんだもの……」
「だって、なんにも魔術師らしいことしていないでしょう?」
「予知魔術師としての力が必要になるのは、もうすこし先よ。私もそれまでほぼ役立たずだし……。というか、今だってリトリアちゃんがいなければ立ち行かなくなってるのは確実なんだから、そんなこと言わないの」
 五王の追及を交わす、という点ひとつに絞っても、リトリアほど上手にできる魔術師などいないのだから。そうかなぁ、とまだ不満そうに頬を膨らませるリトリアに、エノーラが苦笑しながら頷いた。
「そもそも、私はリトリアちゃんがいなかったら、ここにいないでしょう?」
「……呼んできただけじゃない?」
「呼ばれもしないわよ。他の誰かならね」
 例え親友たるレディであっても、今忙しいの知っているでしょう後にして、と切り捨て立ち去っていた筈である。んん、と今一つ納得しきっていない声で頷いて、リトリアはエノーラの隣に座りなおした。両手を机に添えて、その上に頬をぺたんとくっつける。
「ねえ、エノーラさん」
「なに?」
「……できそう?」
 不安に揺れる声だった。ふっ、と笑って、エノーラはリトリアの頬を指先でつっつく。
「どれが? なにが? 過去に戻ってやり直すこと? 破綻の原因になったであろう事件を防ぐこと? それとも、この、シークの里帰りしたいっていう希望を叶えること? 里帰りというか実家というか、あちらの世界へ行くってことになる訳だけど」
「……ぜんぶ」
「可能か不可能か、というだけの話なら、まあぎりぎり可能よ。……え? ええと? そんなに心配そうな顔をしないで……? だ、大丈夫よ、大丈夫! これに限ってはね、私があと何人必要とかそういう技術的な問題じゃないから! できるか、できないかで、できるっていう話だから。ただものすごく複雑で、ものすごく難しくて、恐らく思い通りになんかならないだろうっていう話で」
 エノーラの可能不可能、やればできる、という判断には、一般的な観点が圧倒的に足りない。言葉を重ねてもますます不安な顔をするリトリアに、エノーラはどうにかして、という視線をツフィアへと送った。ストルを呼ばなかったのは単純な男女区別であり、それ以上の理由などない。ツフィアは苦笑いをしながらもシークを伴い、エノーラたちが向き合っていた作業台へと歩み寄る。
「なぁに、リトリア。どうしたの?」
「……あのね。難しいのですって」
「そんなことは、誰が言うまでもなく分かっていたことでしょう? ちゃんと理由は聞いたの?」
 つん、とくちびるを尖らせたリトリアが、ふるふると首を横に振る。理由、言って、とすっかり拗ねた声で求められて、エノーラは胸元を手で押さえて頷いた。数秒、落ち着く為に意識を集中させてから息を吐き、錬金術師としての思考に切り替える。
「まず、過去へ戻ってやり直すこと。過去へ戻ることは、魔術の範囲として十分に可能。ただ、代償があまりに大きい。知っての通りね。次に、やり直すこと。これは恐らく相当難しい。理由については後で説明します。破綻の原因になった、いくつかの出来事を防ぐことに関しても同様。非常に困難と言わざるを得ない。できないとは言わないけど、できない、と言った方が良いくらいには、できる、とは思えない。で、最後。シークの里帰り。これについては、ほぼほぼ無理。不可能じゃないけど、不可能じゃないってだけ」
 まあ、エノーラにしては分かりやすく話そうとしてくれて、話したのではないかしら、という及第点ぎりぎりの視線がツフィアから向けられる。リトリアはちょこちょこ首を傾げながら、えっと、と言ったきり、混乱した顔つきで言葉の意味を考えている。シークは呆れ顔で、ひょい、と肩をすくませて笑った。
「キミね。希望を残すか、期待をさせないでいるか、どっちかにしてくれたまえよ」
「過去へ戻る他は全部諦めてちょうだい? って言った方が良い? 期待するだけ無駄よって」
「……どうして?」
 強張った顔で問うリトリアを見つめる、ツフィアには理由が分かっているようだった。シークもそれとなく察していながら、少女に告げてはいなかったのだろう。ストルも、レディも。全く嫌な役目を押し付けて、と思いながら、エノーラは静かに言い切った。
「戻ってるからよ」
「……ん。ん、ん……えっと……?」
「戻るってそういうことだもの。もちろん、事故みたいな些細な誤差はあるでしょうけど、そこまで大きく流れを変えるのは難しいでしょうね。理由を言うと、私たちが希望や仮説として考えている『もしも』が、その経験を踏まえた過去の振り返りであるから。戻った場所には、その経験を持っていくことができないから。戻っているだけだからよ。やり直しじゃないからなの」
 その違いは分かる、と問いかけられて、リトリアはくちびるにきゅぅと力を込め、無心でこくこく頷いた。非常に疑わしい目を向けてくるツフィアに、わ、わかったものっ、と裏返った声でリトリアは主張する。そう、とツフィアの笑みが柔らかく深まった。
「それじゃあ、説明できるわね? リトリア。私に教えてちょうだい」
「えっ……え、えっ……あぅ……。ま……待って、ちがうの。ちがうの。まって……?」
 ぷるぷるぷる、と涙目で震えるリトリアを、ツフィアは優しく笑って見守っている。う、うぅ、と呻きながらもじもじと指を擦り合わせ、リトリアはちらっ、と上目遣いにエノーラを見た。
「……あの、ね……。戻る……戻るのは、できるけど、やり直しじゃないから……同じことを、しちゃう? ちょっとは違うけど、同じことになっちゃって、だから、戻る……ただ、戻るんじゃなくて、戻るなら、やり直さないといけないって、こと? 今の、この経験を、持って行かないと、ただ戻るだけになってしまう……?」
「ちょっと待ってねリトリアちゃん。涙目上目遣いとか据え膳だけどこれに手を出したら死ぬわよっていま煩悩を殴ってるトコだから。待ってね?」
「う、うん……? はい……」
 リトリア、こちらへいらっしゃい、と呼ぶツフィアの元へ、とととっ、と慌てて移動していくぶんに、なんらかの危険は感じ取っているのだろう。私に教えてって言ったでしょうどうしてエノーラに話したの、とゆるく叱りつける声を聞きながら、錬金術師は大きく息を吐き出した。解決して行かなければいけない課題が多すぎる。
 なににせよ、予知魔術師の力こそが必要だ。それが鍵になる。そして、恐らく、時間との勝負になる。



 白い部屋で眠る予知魔術師の余命は、残り僅か。
 か細い息を繰り返す少女の傍らに、今日も妖精は寄り添っている。

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