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 問題点を整理するから十分待って、と告げたエノーラが作業を始めて終えるまでを、リトリアはツフィアに腕を絡めて見つめていた。ツフィアは一度だけ溜息を付いて、甘えたね、とリトリアの前髪をくすぐるように撫でただけで好きにさせてくれた。レディは口に角砂糖を詰め込まれた者の表情で、うぅ、と呻き、首を振ってから同じく、エノーラの作業を見ることに集中した。
 類稀なる錬金術師は大きな一枚の紙を、四人がそれぞれに作業できる広さの机をひとつ完全に覆ってしまうくらいのそれを広げ、身を乗り出しながら迷うことなく文字を書き入れて行った。書かれていくのは単なる文字列と数式であるのだが、あまりに精密な印象で綴られていくそれは、幾何学模様にすら見えてくる。またそれは、自然発生の魔法陣ですらあった。錬金術師の、物質に魔力を付与するに長けた性質が、書き記す文字ひとつにさえ、淡いひかりを宿して魔術師の目を眩く細めさせる。
 エノーラはまずてきぱきと問題点を記し、解決策とそれによって生じる利点損失長所短所を書き入れ、眉を寄せながらもひとつひとつに可能性を表す数字を書き入れて行った。いくつかは成功確率が半分を超え、いくつかは片手の数で足り、いくつかは小数点以下を数えるのも間違えてしまいそうなくらいにか細いものだった。共通していることは、ひとつも、確実なものがないということだった。
 時間を戻す。やりなおす。根本的なその願いですら、占星術師たちの禁忌として語り継がれ、多大なる犠牲を前提とした術式がはきと確立されているそのことにすら、エノーラは百という数字を使わなかった。息をつく間もなく。勢いを緩めず、早めず、途切れさせることはなく、言葉と数字が紙面を埋め尽くしていく。紙に燃え移る火のように。夥しく、ただ、それは広がって行く。
 紙の端まできっちりと文字を書き入れ、こんなものかしら、と呟いたエノーラが顔をあげたのは、宣言の十分が残り数秒となった頃だった。エノーラは眉を寄せながら時を零し終えた砂時計を横倒しにして、万年筆を指先でくるくると回転させる。
「……確認する時間がないからこのまま説明に行く、から、訂正があったら都度修正させてね?」
「確認する間くらいは待ってるけど……?」
「ありがとう。でもね、申し訳ないけど、私に時間がないのよレディ。そもそも本当なら、私は調べものをしてさっさと白雪に戻るつもりだったし……」
 なにより、と珍しく焦りを隠さない顔で、エノーラは談話室の柱時計を確認した。
「夕方に、陛下にお茶に呼ばれているの」
「……進捗確認とか、報告じゃなくて?」
「それもあると思うけど。お茶をするからいらっしゃい、と仰られたのよね……。よく分からない服装指定もあるから、一度戻って着替えなければならないし。だからね、申し訳ないけれど時間がないのよ。さっさと説明させてちょうだい」
 もちろん、と頷きながらも、レディは付き合いの長い親友らしい気安さで、さりげなくその服装指定を聞き出した。連日の睡眠不足と過労で注意力が抜け落ちているのか、エノーラは疑うこともなく、よく分からないけれど眠りやすそうなゆったりとした服、と言った。時間があれば湯で体を清めて来るとなお喜ばしく、その後外出の予定がなければ普段使っている寝間着でもいい、らしい。
 普通なら据え膳を心配する所だ。しかしそれを聞いた三人の脳裏に、笑顔で睡眠薬の小瓶を振る白雪の女王の姿がよぎって行く。確実に寝かしつけられる流れである。彼の女王は目的の為なら手段を全然選ばない所がある。一服盛るくらいのことは、瞬きのような自然さでする。そもそも言いつけられたエノーラが陛下陛下と興奮していない所で、限界を超えているのは誰の目にも明らかなことだった。
 まあ、とレディは顔色の悪さも目の下の隈も、化粧で隠している親友の顔を、じっと見つめながら微笑んだ。
「ゆっくりしておいで、エノーラ。陛下もきっと、お喜びになるでしょう……お風呂入って寝間着で行くとさらに喜ばれると思う」
「……そう? まあ、レディがそう言うなら……」
 そうしようかしら、と呟いてあくびをかみ殺すエノーラに、レディの微笑みが深くなる。魔術的な思考を十全に保つのに意識を傾けるあまり、それ以外が停止しているに違いない。口に両手をあててうかつな発言と零れる笑みを隠しているリトリアに不思議そうな目を向けて、ゆったりとした瞬きを繰り返し、エノーラはまあいいか、と呟いた。
「じゃあ、まずは最終的な目標から。これは、現在に至るまでの数々の事件を未然に防ぎ、あるいは被害を軽減して、砂漠の消失、世界の分割、それによる消滅を回避する。こんな所で合ってるわよね?」
「ん……。うん。はい」
 リトリアの歯切れが悪かったのは、訂正があるからではなく、言葉の正確さを吟味して飲み込むのに時間がかかったせいだった。傍らでは、ツフィアが満足げに目を細めて笑っており、レディが無言でグラスを手に水を一気に煽っている。なにが始まったのか、と机を囲むストルとシークに、他意はなく純粋に、男という存在が増えたことだけで嫌そうな顔をして、エノーラが続ける。
「方法は、ひとつ。それが始まる前に戻って、やり直すこと。手段は、ひとつ。占星術師の先見の力を反転させて、今を未来、過去を今と定義づけて、世界そのものの時間を巻き戻す術式を発動させること。この手段行使における確実な損失は、存在の希薄化。すなわち、術者の記憶の損失と関係性の抹消。加えて、現在の術式で可能なのは、戻ること、のみ。戻って、やり直して、行きつくのは、またここ。同じ今なのよ。……もしも、私のこの発言すら……一度目ではないとするならぞっとしないわね」
「戻るだけだと、絶対に同じになってしまう? ……それは、その……どうして? 経験とか、記憶を持っていけないからっていうのは、その……なんとなく、分かったんだけど」
 手をあげて発言し、リトリアはそろそろと机を囲む魔術師たちに視線を向けた。分からないのが自分だけだったらどうしよう、という不安顔に、ストルが甘やかす時の表情でふと笑う。大丈夫だからと少女に囁いた男は、エノーラに無言で視線を向けることで説明を促した。分からないのは構わないので説明を求める時にはもうすこし殊勝な態度を取って欲しい特に男は、と思いながら、エノーラはリトリアだけを注視して、持っていた砂時計を反転させる。
 コン、と音を立てて、砂時計を机の中心に置いた。
「つまりね、リトリアちゃん。こうなるの。……魔術と犠牲によって、私たちは砂時計をひっくり返せる。例えば十分の時間を戻せる。でも、そこからは……同じ。また十分、砂が零れ落ちる。それを変えることはできない。十分を、十一分にすることも、九分にすることも……砂を零さないでいることも、例えば、砂を入れ替えて別のものにすることさえ」
「……ひっくり返すだけの術、だから?」
「そう! そうよ。簡単に言うとそういうこと。単純な話よ。戻すってね、そういうことなの」
 だからね、とエノーラは砂時計に指を触れさせ、その流れを見つめながら言い切った。
「この中の、砂粒の零れ落ちる順番を入れ替えたりしても、殆ど無駄ってことなのよ。結局最後は全部落ちるから……という結論に至る計算式がこれとこれ。解決策改善策として提示してるのが、これとこれとこれ。その結果として、最終的にどれくらい解決するのかがこれ。……分かる? そうね。なにひとつ解決しないし、なにひとつ改善しないとは、言わないわよ? ……ここまでが現実の話。で、ここから先は理想の話するわね」
「……理想?」
「そう、理想。現実はいくらひっくり返しても現実な訳。分かる? 現実的に物事を考えるとね、まあこういうことになる訳よ? でも私たちはあいにくと魔術師だから? そこに理想があるなら辿りついて見せるわよ。その為の力を、世界がくれたんだって信じぬいてね」
 不屈、という言葉と、意思を、その瞳ひとつで信じさせて。エノーラは指先を弾いて砂時計を倒すと、書き連ねた文字に込めた術式を起動させた。夥しい文字列の上を、魔力のひかりが駆け巡って行く。インクが生き物のように動き回る。数秒で内容の全てが書き換わった紙面を前に、エノーラは自身に満ちた顔つきで笑った。
「理想から逆算して行くの。問題があって、途中式があって、答えを書くんじゃないの。答えを決めて、途中式を考えて、問題を出すの。お分かり頂けるかしら?」
「……んと、んと。つ、つまり?」
「つまりね、リトリアちゃん。問題を解決する為に戻るのではないの。結果に至る為の出発地点を変えて行くのよ」
 この山の攻略を諦めて別の山に行きましょってこと、とエノーラは砂時計を摘み上げ、机の端へ放り投げた。
「役者は同じで台本をすげ替えるの。結末から逆算して書いたはじめから、やりなおすのよ。戻すのは時間だけ。幕が開く前、というだけ。あとは全部入れ替える」
「……どうやって?」
「予知魔術師」
 歌うように、からかうように、エノーラはリトリアをそう呼んだ。思わず背を正す少女に向かって、錬金術師は静かに、確信のある声で言い放つ。
「あなたが、起点と終点を作る。……リトリアちゃん」
「はい」
「その胸の希望に殉ずる覚悟はある? その魂を、灯台のように輝かせ続けると誓える? ……ここまで言っておいてなんだけど、きっと、上手くは行かないわ。やり直そうとした筈なのに、やり直した筈なのに、私たちは何度でも、何度でも、同じ問題に行きついて、同じような答えを出し、同じような失敗を繰り返すでしょう。繰り返して、私たちは、摩耗して変質していく。存在も、関係も、願いすら……変わってしまうかも知れない。……世界を、覆していける? 一度では終わらないやり直しを、何度でも、何度でも……もう一度、と言って、起点へと戻していける?」
 できない、と言えばそこまでだ。リトリアはすんなりと、その事実を受け入れた。いつの間にか談話室は静かになっていて、魔術師たちは誰もが神妙な面持ちでリトリアを見ていた。緊張することなく、すこし困ったように眉を寄せて、リトリアはちいさく首を傾げてみせた。
「私……わたしね、ほんとうは」
「ええ。……本当は?」
「世界、とか。国、とかじゃ、なくて……それも、それも、ほんとうなんだけど。続いて行きたいっていうのも、ほんとう、なんだけど……あの、あのっ、笑わないで聞いてね!」
 胸に手を押し当てて、恥じらいに顔を赤くして。リトリアは涙ぐんで、俯きはせず、顔をあげて息を吸い込んだ。
「み、みんなが、幸せになって欲しいの! みんなの、願いが、叶いますようにって思っているの。だ……誰かが、悲しい想いをしたり、苦しかったり、そんなのもう嫌なの。頑張った人が、報われますようにって、思うの。だからなの! だから、今、こんな終わりが嫌なの。そっ……それだけなの!」
「……だから?」
「だ、だからね! あの! あのね! ……も、もし、もしもよ? 色んなことが上手く行って、砂漠の国が助かって、欠片の世界がこのまま続いていくようになった時に……。だ……誰かが、苦しくて……みんな、幸せじゃなかったと、したら」
 もう一回って言っちゃうかも知れない、とリトリアは手で顔を覆って呟いた。恥じらいにか、耳まで真っ赤に染まっている。それをしげしげと見つめて、わざわざ下から顔を覗き込んで。シークはけろっとした声で、いいんじゃない、と言った。
「キミが満足するまでやればいい。いいよ。付き合ってあげる」
「……あの。でも。私利私欲なの……いけないと、思うの」
「はじめから、キミのその私利私欲を、ボクたちは希望だの理想だの呼んでいる訳なんだけど?」
 えっ、と言ってリトリアが顔をあげた。涙ぐんで、赤く染まった顔のまま、おろおろと左右を、談話室の面々を見回していく。ひとりひとりと視線を重ねて、言葉はなく確認して。混乱しながらも、とうとう、それが本当だと分かると、リトリアはぷるぷると震えながらツフィアに抱きつき、胸に顔をうずめて鼻をすすりあげた。あからさまに面白くない顔をするストルに、ツフィアがふっと口元だけで勝ち誇る。
 その権利争いを極力見なかったことにした顔で、エノーラはため息交じりに問いかける。
「……できる?」
「やる。……できる、やる!」
「リトリア。はい、でしょう?」
 はぁい、と鼻を啜りながら、リトリアがツフィアに口を尖らせて返事をする。ツフィアは笑うだけで、エノーラに言うのでしょう、とは窘めなかった。ストルがその光景に、すぅ、と目を細めて息を吐く。ああこの三人は絶対、なにがあっても、何回繰り返してもこうなんだろうなぁ、と心底思いながら、エノーラはじゃあそれで、と言って問答を一端打ち切った。
 時間切れだ。今日は帰ってまた時間作ってくるから、と言うエノーラに、リトリアは涙を拭いながら、またね、と声をかける。短くとも、ここにもまだ未来があると、信じ切った響きをしていた。またね、と繰り返してエノーラは笑う。予知魔術師。この少女は、確かに。魔術師たちの希望。理想を抱いて行くだろう。



 睡眠薬をいつも飲ませるのも心苦しいものがあるのだけれど、と微笑みながら目の前で小瓶を揺らされるようになったので、エノーラの睡眠不足と過労は一週間で速やかに解消された。錬金術師の酷使と、また彼らの動きになにか思う所があったのだろう。白雪の女王はエノーラを眠らせている間にキムルを呼び出し、自白剤を吐くまで飲まされるのとおしゃべりするのどっちがいい、という二択を突き付けて、あっさり事態を把握してしまった。
 そこは吐いてでもなんかこう秘めておくべきじゃなかったの、と寝起きの頭を抱えて絶叫したエノーラに、そうは言ってもねぇ、とキムルは遠い目をして首を横に振った。白雪の女王の目が、ごく冷静かつ本気であった為である。恐らくあれは、吐いたら吐いたで別の手を行使していたに違いない。五体満足で怪我ひとつなくいるのだから判断の正しさを褒めて欲しいものだね、と告げれば、エノーラは口ごもって視線をさ迷わせた。彼の女王は、やると決めたら本当にやる。武力行使だろうが、薬漬けだろうが。
 かくして、あっさり魔術師の企みが五王に露見して一週間。エノーラはなんの尋問も受けず、拘束もされず、『学園』へ再び降り立った。談話室へ向かえば先日と同じ顔触れが机を囲んでおり、あれはもしかして夢だったのかと逃避しかけるが、キムルの苦笑と出迎えてくれたリトリアの、なんとも言えない気まずそうな、もじもじとした手の動きで察してしまった。残念な現実である。
「……えっ? 待って? 陛下方、なんて仰ったの?」
「えっと……明日に劇的な奇跡が起こることを信じて『扉』の分離再接続の研究も、停止することなく、そこそこ良い感じに進めておいて欲しいけど、打開の可能性が高い方に労力を割るのに反対する理由はないって……。あと、あの、隠し事しちゃだめって……。それとね、その……大体の計画が定まったら、実行する日をね、教えてねって。その日にお祭りするのですって」
 エノーラは隠すことなく、微笑みながら頭を抱えて蹲った。最後の一言で分かってしまった。告げたのは間違いない、エノーラの主君。白雪の女王、そのひとである。まつり、おまつり、ふふっ、と笑うしかない灰色の声でとりあえず笑ってみたエノーラの肩を、気持ちは分かる、という顔をしたシークがやんわりと叩いて慰めた。
「ほら……財とかね、残しておいても仕方がないだろう?」
「ねえそういう問題じゃなくない? そういうもんだいじゃなくない?」
「楽音は演奏会するらしいね。生前葬とかなんとか言ってたけど」
 滅びを前向きに受け入れてもらえるにも程がある。逆に乱心なさってるんじゃないのそれ、と呻くエノーラに、リトリアがするりと視線を地に伏せた。エノーラは、期待を込めてその顔を見る。予知魔術師の横顔は、言葉にならない残念さに満ちていた。
「あの……て、抵抗……抵抗? をね、されたね、王もいらしたの。星降の陛下とか」
「待って待ってお願い待って。抵抗になんで疑問符がついたのあの方はなんと仰ったのっ?」
「……えぇー、やだーっ! って」
 それは疑問符もつく。仕方がない。エノーラは、療養として一室に閉じ込められていた一週間、己の主君がやたらと楽しそうに、あちらこちらへ飛び回っていた理由を、心の底から痛感した。恐らく、五国を巻き込む規模の祭り。その準備の為である。他は、と一縷の望みをかけて促すエノーラに、シークとレディ、ツフィアとストルから聞き分けの悪い子を見る視線が送られる。
 え、えっと、と指先をもじもじこすり合わせながら、リトリアはぽそぽそとした声で呟いた。
「花舞の陛下は、お花がそんなにたくさん間に合うかなって。急いで準備をするけれど、せめて半年くらいは欲しいなって」
「うふふふそうよね葬儀にも祭りにもお花必要ですものねうふふふふ泣くものか。砂漠は?」
「はぁ? じゃあもういいだろ? ジェイドとシーク帰せよ寂しいだろ! 俺が! って」
 エノーラは無言でシークを見た。すごい勢いで顔を逸らされる。決して視線を合わせようとしない男の耳が、赤く染まっていた。にや、と笑って、エノーラはよかったじゃないの、と言ってやった。
「お家に帰りたかったんでしょ? よかったわね。砂漠の陛下、なんて?」
「そういう意味ではなかったんだけどね……。……ああ、うん。内緒」
 その、内緒、が。あまりに幸せそうでなければ、エノーラは良いから教えなさいよ、と絡んで行けたのだが。言葉魔術師の笑みがあまりに、自分だけで思い出を大切にしていたがるものだったので、諦めてやることにした。深く、息を吐いて立ち上がり、エノーラはなんとも言えない気持ちで口を開く。
「ねえ私の半年の苦労ほんと必要なくない? 泣いていい?」
「……キミが、あれほど憔悴するくらい努力して、それでもなお、錬金術師たちが協力せずに他の可能性を求めた。その半年の成果が、これだよ。……ありがとう。よく頑張ってくれたね」
「うっ、男に褒められても嬉しいだなんて……どういたしまして……そうよ私、本! 当! に! 頑張ったもの!」
 その結果が前向きな五王の乱心であるとするならば、いまひとつ喜びきれないものがある。市民の皆様にどう説明するつもりなのかしら、と呻くエノーラに、内情に精通しきっているリトリアが、ぱちぱち瞬きをしながらしどろもどろに言った。
「せ、洗脳とか……調教とか、いいのではないかしらって……。あ、あの、市民の皆様をね! あのっ、説明して、分かってもらえば一番なんだけど、暴動とか、とても困るし、もうどうしようもないから……分かって、くれなかったら……手段を選ばないって」
 エノーラは再び、勢いよく両手で顔を覆って絶叫した。
「陛下手段を選ばないにも程があります陛下陛下ぁあああああああずるい私も調教して欲しい!」
「うーん。乱心じゃないんだよなぁこれ……」
「あのね? 睡眠薬って調教ではないの?」
 きょとん、とした顔をしてリトリアがとんでもないことを言った。うんボクにはちょっと答えられないことかなー、とシークが流していると、無言かつ無表情で立ち上がったエノーラが口元に手をあてて考え込む。数回の瞬きと呼吸。悲鳴をかみ殺した呻きで両手を祈りの形に組み合わせ、エノーラは跪いて動かなくなった。使い物になるまで、それから二時間かかったという。



 右から左から怒られて、もう迂闊なことを言いません、と反省させられているリトリアを残し、シークはエノーラと連れ立って白い眠りの部屋へ向かった。いつもなら、シークが相手だからではなく性別が男であるというだけの理由で清々しいほど嫌な顔をする錬金術師は、足取りをふわふわさせて廊下を歩いていく。けれどもさすがに、扉をくぐれば、その表情は引き締まった。
 室内は甘い花の香りに満ちていた。意識をやわりと和ませる香気は、リトリアの仕業ではない。眠る少女の傍らに座す、妖精の祝福によるものだった。こんにちは、とシークは囁く。妖精は気だるげな眼差しでちいさく挨拶を返し、すいと問いただすようにエノーラを見た。敵じゃないよ、とシークは言う。分かっているわ、とため息交じりに妖精が返し、こんにちは、と言葉が向けられる。
 ひび割れ、乾いた、疲れ切った響きだった。
『はじめてみる顔、だと思うけれど……なに? ソキは、昨日眠ったばかりよ。まだ……起きないわ』
 まだ、大丈夫よ、と妖精が言いかけたのを察して、エノーラは悟られないようそっと眉を寄せた。意識はふわふわしていたが、ここへ来るまでのシークの説明を聞き逃していた訳ではない。この眠る少女は、もう、いつまで保たれるのか分からない。その時期を見極めて欲しい、と乞われたからこそ出向いたのだ。白魔術師に頼みなさいよ、という言葉は、諦めに似た微笑みで否定された。
 錬金術師としての、キミの目が必要だ、と。言葉の意味を、エノーラは知る。瞬きを繰り返すたび、理解する。もう、この少女はとうに、人の枠を外れてしまっている。魔術師とも呼べないものに変質してしまっている。お人形さん、と呼ばれる少女は、なるほど錬金術師の領分だろう。エノーラは音もなく寝台に歩み寄り、失礼するわね、と妖精に断ってから、床に腰を下ろした。
 目線の高さを近くして、じっくりと眺める。顔さえ向けずに、シークに問いかけた。
「意思疎通は出来るの?」
「出来るよ。眠っている間の、夢を渡る方が確実だけれど……まあ、起きている時も、落ち着いていればね」
「……あなたは、この子と、なにかを話すの?」
 二つ目の問いは、妖精に向けてのものだった。妖精は視線を不安定にさ迷わせながら、黄色いふわふわのヒヨコを抱きしめて眠る、少女の口元を注視する。はい、とも、いいえ、ともつかぬ、淡い羽根の震え。
『この子が、こうなってから……話を、できたことは、ないわ』
「そう。……シーク。先に聞いておくわ。この子を使うつもり、あるの?」
 言葉魔術師の武器として。リトリアの口から語られた、言葉魔術師と予知魔術師の関係性は、今を生きる全ての魔術師が知ることである。だからこそ誤魔化さず問いただすエノーラに、シークは目を伏せて頷いた。
「もちろん。……ボクたちの計画に、予知魔術師の力、存在は欠かせないものだ。リトリアちゃんひとりでは、あまりに負担が大きすぎる」
「ええ、私もそう思うわ。この子は足しに……ごめん、言いなおす。この子は、リトリアちゃんの助けになるでしょう。その日まで、保たれるなら、の話だけれど」
「……あと、どれくらい?」
 エノーラは妖精を見た。そのまなざしは一心に、少女だけに向けられている。会話は聞こえていても、興味などないようだった。妖精はただ、傍にいた。蒼褪めた頬を暖めるように身を寄せて、時折、悪い夢にうなされるよう声をあげて震える少女に、大丈夫よ、と囁き続けて。魔術師の声に、割り振る意識などもうないのだと告げるように。それでも、口にするのにためらいがあった。
 息を吸い込んで、吐き出して。告げる。
「この子はもう、意思ある魔力に近い。……いつまで保つか、じゃないのよ、シーク。この子はもう、保たれていない。形が残り、意思が留まっているだけ。言葉魔術師なら……あなた、分かっていた筈でしょう」
「どうにか、ならないものかな、と思ってさ」
「どうにもならない。悪いけど。……風が吹けば飛んで消えてしまう砂がそこにあって、たまたま、まだ、風が吹いていないだけ。いつそうなるか、誰にも分からない。だから私からはなにも言ってあげられないし、これはもう魔術師では……え……?」
 言葉を途切れさせたエノーラの眼前を、ふよよん、と漂う淡いひかりが通過していく。えっちらおっちら、とても優雅とは言えない、ちまちました一生懸命な動きで、移動するというよりは流され漂うようにやってきたましろいひかりは、思わず無言になる魔術師たちの視線の先、ひゅるるるる、と少女に向かって落下した。ぽよん、ぽよん、ころろんっ、と跳ねて転がって停止する。
 笑い声が聞こえた。堪えきれない、楽しそうな。そこに、感情の、ある。二度と聞けないと思っていた響きに、シークは戸口を振り返る。
「ジェイド……?」
「うん……。ひさしぶり、シーク。エノーラも」
「キミ、どうして……」
 それきり、言葉が続かない。ジェイドは微苦笑を浮かべながら戸口で深々と一礼し、お返事のないまま入室する非礼をどうぞお許しください、と『花嫁』に告げた。コン、と一度だけ靴を打ち鳴らして、あとは足音ひとつ響かせず、ジェイドはゆっくりと寝台まで歩み寄る。眠る少女の顔を見る眼差しは、懐かしく、尊さを称え、慈しみと慈愛に満ちていた。彼にとっての少女は、残されたもの。その全てだった。
 花妖精は困惑と動揺に揺れる視線で、ジェイドとシュニーを見比べる。同族の怯えを感じ取りながらも、大丈夫なのっ、と告げるかのように。ふわふわころろんぴょーんっと少女の顔の横当たりで飛び回るシュニーに、ジェイドは幸せそうな微笑みで、うん、うん、と言った。
「そうだね。頑張ろうね。……ああ、シーク。話は聞いてる。ソキさまのことは、任せてくれて構わないよ」
「……ジェイド。キミ」
「処刑の代わりに奉仕活動でもして来い、と陛下方からの御命令だ。……ほら、見てよシーク。反省札なんて、はじめてもらった」
 ジェイドが手に持ってひらひら振っているのは、言葉の通り、魔術師たちが悪行をした時に発行される、反省札である。奉仕期間中、の文字が浮かぶそれに、お決まりの私はなにをしました、という言葉が浮かぶことはなく。言葉にならない気持ちで声を失うシークに、ジェイドは淡く甘く笑って、囁いた。もうすこしだ、というのなら。もうすこしだけなら。頑張るよ。助ける。力になる。
 だから、ソキさまの維持は任せて大丈夫、と告げるジェイドに。シークは声なく頷いた。頼って。甘えて。泣き言のように零しそうになる声を、喉の奥、心の深くに沈みこめる。ジェイドはシークを見て、なにも言わなかった。そのことを。時の果てまで後悔するとも、知らず。それが、最後の機会だったとも、知ることはなく。

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