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 談話室の壁には大きな紙が貼られている。縦横に走らされた直線によってつくられた表の一番上には、星降、花舞、楽音、砂漠、白雪の文字。その文字が書かれた枠の下には、それぞれの国における催し物の進捗状況が書かれており、日ごと、時には朝に夕にと数字が更新されて行った。間に合う間に合わない延長短縮、それぞれの言葉が飛び交ってぶつかり合っては消えて行く。
 一日、三日、十日、半月、一月、半年。月日は駆け巡るように過ぎて行った。年の瀬が見えてくると、新年を迎える前に終わらせたい派と新年を迎えてからにしたい派が魔術師たちの中にも現れて騒ぎになりかけたが、結局はそれぞれの進捗状況と、白の部屋で滾々と眠り続けるシークのお人形さんの調子を見ながらにしなければどうにもならない、と結論が下されて落ち着いた。
 それでも、次の夏至は来ない。それだけは、はっきりとした事実だった。新年を越えるか超えないかは、準備が整い終わるまでの誤差である。春には引っかかるかも知れないが、夏はもう終わり。秋も去り、冬だけが魔術師と歩む最後の季節となった。窓の外でわあわあ声をあげながら雪合戦を始める一団を微笑ましく眺め、エノーラはさて、と呟いて手元と、机を囲む面々に意識を集中させた。
「終了目標になる年末まで、残り十日になった訳だけど。それぞれの進捗をもう一度確認しておきましょうか? ……じゃ、私から。錬金術師たちの準備は終了しているわ。後はそれぞれ体調を整えたり未練を残さないようにしたり、未練を生んだりまあ楽しく過ごしている最中よ。各国の状況は? リトリアちゃん」
「はい。星降と楽音は比較的落ち着いていて、お祭りと、演奏会の準備も殆ど終わったのですって。昨日からは予行演習をしています。花舞は、お花を各国に輸送するのに手が足りないから手の空いた魔術師を貸してほしいって。白雪はね、そろそろ期日をハッキリさせてくれないと、もうお祭りはじめちゃうからねって言っていて……。砂漠は……」
 ちら、とシークに気遣わしげな視線が向けられる。言葉魔術師の男は今更、とばかりの苦笑で肩を竦めて、さらりとした口調でそのことを告げた。
「鎮圧なら終わったよ。死傷者はなし。都市ごと眠らせてきた。占星術師たちの尽力に感謝する、と王からのお言葉だ」
「……このまま、起きない。安心してくれていい」
 言葉を引き継いで、ストルがエノーラに告げる。分かった、と頷いたエノーラは、全ての魔術師を代表するように、ストルに一言、ありがとう、と告げる。男は柔らかくはにかむように口元を和ませ、ああ、と言って吐息した。
「……消耗した魔力の回復も、一週間あれば十分に満ちる。遅れていた黒魔術師たちの進捗だが……」
「終わったそうよ。先程、これが」
 最終確認お願いします、と紙片の挟まれた紙束を掲げ、レディが言う。短い睡眠と徹夜を重ねに重ねた黒魔術師たちは、今は一室に集められ、白魔術師たちが見守る中、倒れるような睡眠の真っ最中だ。確認はこれからだけど、と首を傾げながら紙をめくり、レディはうんまあ、と軽い口調で瞬きをした。
「いいと思う。問題点の解決が力業にすぎたけど、私なら制御できるかな? って所。エノーラ、あとで全体の調整見直してくれる?」
「了解。……さて、術式発動の準備がだいたい整った所で、残りの仕事を片付けましょうか?」
「次の、こと?」
 一度では恐らく、理想にまでは届かない。それが魔術師たちの下した結論だった。終着点から出発地点へ戻り、また駆け抜け、そしてまた、初めから。何度も何度もそれを繰り返しながら、終着点も、出発点も、ずらしていく。かたく強張ったリトリアの声は、未だその事実を受け入れがたく思っているようだったが、それでも認めてはいるものだった。
 エノーラは冷静な眼差しで言葉を受け止め、頷いた。
「そうよ、次のこと。私たちのこの経験は、持ち越す必要がある。次も、次も、またその次もね。……毎回毎回、こんなに総出で時間をかけられる訳ではないでしょうし、それが可能かも分からない。最低限、術式を発動する方法だけでも引き継げるようにしておかなければ。……で、その方法なんだけど。ツフィア、シーク?」
「やはり、本の形で封じておくのが一番確率が高い。……大戦争時代の言葉魔術師たちが成したという、意思ある本だね。これを作って、残す。土台はもう作ってあるから、これを……最終日までに全員分の魔力を封じて、武器庫へと隠す」
「……ぶきこ?」
 思わず、だったのだろう。あっという顔で恥ずかしそうに口に手をあてるリトリアに、ツフィアはくすくすと笑って言った。
「そうよ、リトリア。武器庫。私たち魔術師の、武器を得に行くあの欠片へ。……さて、どうしてかしら?」
「……ぶ、武器庫、とは……『欠片の世界』ではなく、別たれた世界……幻獣たちが住まう、異界に近く存在している、所だから……? 本来は、こちらの世界からは行けぬ場所、砕け散ったほんの一欠けであるからこそ、『扉』で繋いで利用しているから、で、えっと……え、えっと……ううぅうぅ……!」
 教本の記載を思い出しながら言うリトリアに、教師めいた微笑みで、ストルが囁く。
「その通りだ。よくできたな、リトリア。……それ故に、恐らく、この欠片の世界を転輪させる術式の影響から逃れる為。あるいは……その影響を受けたとしても最小限で留まると判断された為だ。つまり、武器庫にある限り、情報が引き継がれる可能性が高い。そうだな? ツフィア」
「甘やかさないで頂戴、ストル。……ええ、その通りよ。そして武器庫ならば、必ず魔術師の手に渡る。そして、本の形ならば……リトリア。あなたが最も手にする可能性が高いのよ。……頼んだわね」
 武器庫は、魔術師の適性によってその姿を入れ替える。黒魔術師であれば杖や剣、白魔術師であれば指輪や耳飾りなども多いと聞く。数ある武器の中でも、予知魔術師だけが決まって本を持ち帰る。緊張の面持ちで頷くリトリアは、それはそれとして、というやや拗ねた顔でシークを見た。視線を受け取って、言葉魔術師が苦笑する。
「なにかな?」
「……欠片でも異界に渡れるなら、シークさんだってお家に帰れると思うの」
 そのまま、ぷーっと頬が膨らんでいくのを見守って堪能してから、だそうだよ、とシークはエノーラへ説明を受け流した。この計画が立案された初日に、ほぼ不可能だと断じて以後説明すらしなかったことで、リトリアは未だに諦めがついていないらしい。弱々しく呻いて、エノーラは適当な紙を引き寄せ、いくつかの図形と矢印を書き入れた。
「確かに、欠片は異界ではあるのだけれど……そうであるから、『扉』での行き来が限界だし、リトリアちゃんだって分かるでしょう? あの中は実際、移動範囲が限られていて、そこから先へ行こうとしても出発地点へ戻されてしまう。完全な輪として空間が歪んで、閉じている。その先へ行く術はないの。一方通行の行き止まりなのよ」
「……予知魔術師でも?」
「それを本当に望んで叶えるとするなら、どちらかになるわ。世界の繰り返しか、どちらかに」
 予知魔術師の魔術には欠点がある。行使に必要な魔力量が夥しく、反して自身ではそれを殆ど持たないことだ。その上で、エノーラは術者が二人以上必要だ、とリトリアに告げた。こちらと向こうに風穴を開けるのに、ひとり。一次的、あるいは恒久的に、道を繋ぐのにもうひとり。繋いだとしても、それは『扉』ほど強固で確実なものには決してならない。
 それじゃあどうして、と。続いていく言葉を口に手を押し当てることで堪えて、リトリアは瞼に力を込めた。シークがこちらへ来たのは事故である。それ以上でもそれ以下でもなく。そして、そのような事故が起こるからこそ。この欠片の世界に産まれた魔術師たちは『学園』へと集められ、卒業試験を通じて、あるひとつの義務を負う。
 瞼を閉じて、リトリアは思い出す。それはまだ、どこまでも続いていく白い砂浜のようだった。けれども、それは繰り返さずに残って行く。この世界の外側にあるものだからだ。繰り返し、繰り返し、時の果て。断ち切られ消えて行く時のことを思う。二度と。そうすれば、もう二度と、シークのような事故は起こらないだろう。キミは、と言葉魔術師は囁き落とす。
 キミは、キミの願いと、世界を連れて行くべきだ。立ち止まってしまった時には、必ずボクが背を押そう。だから、さあ。言葉に、導かれて。リトリアは息を吸い、瞼を開いて、はい、とだけ言った。



 その日は結局、その年の終わりに始まった。魔術師たちは朝から正装に身を包んで朝食をかっ込み、それぞれの出身地の王の元へ一番に足を運び、各々の言葉にて暇を告げた。王たちは穏やかな微笑み、誠実な言葉、涙を堪えた祝福、心を差し出すような激励、そして、いってらっしゃいと軽く手を振ることで魔術師たちに応えた。国々は不思議な雰囲気に満ちていた。祝福を帯びた嵐の前のような。
 しんと静まり返り、それでいてざわめきに満ちていた。どの国も祝祭と旋律と花の香りに満ちていて、それはただ、特別な一日のはじまりであるようだった。王に挨拶と別れを済ませ、魔術師たちは昼過ぎに、星降の一都市へ集まった。そこには天文台がある。大戦争の前から存在していた古の館。占星術師たちの聖域。けがされぬ星の館、と呼ばれるところ。
 古から現在まで。錬金術師たちが研鑽し、占星術師たちが組み上げた魔術具によって形作られる、この欠片の世界に残された唯一の遺物。星々の息吹を、そして魔術師たちの魔力をたっぷりとため込んだその館があるからこそ、今を生きる魔術師たちの大魔術が起動し、この世界は繰り返される。役割は決まっていた。錬金術師たちの計算により、それは厳密なまでに区分けされていた。
 何時間にも及ぶ魔術詠唱を真っ先に終えたのは、白魔術師たちだった。彼らは枯渇した魔力に照れくさそうにしながらも、それじゃあまたね、と言って星の館を走り出していく。止める者はなく、魔術師たちは同胞を見送った。癒しと祈り、祝福に満ちた力が流転の先触れ。彼らの魔力は風のように天まで舞い上がり、やさしくやわらかく、はじまりの場所まで時を運んでいくだろう。
 おつかれさま、と次に立ち上がったのは黒魔術師たちだった。力強い魔力は矢のように放たれ、夜を貫き、きらめきながら、指し示す場所まで届くだろう。魔術師たちのある者は祭りへ向かい、ある者は家族の元へ向かい、ある者は腕いっぱいに食べ物を抱えて星の館へ戻り、ある者はもう戻らなかった。魔力にほんの僅か余裕がある者は、示し合わせたように星降の王都へ足を運んだ。
 いつの間にか日が暮れていて、ひたひたとした夜は足元まで漂っている。魔術師は、王宮の、とあるバルコニーへと姿を現した。とたん、わっと歓声があがる。人々の。命の。彼らは言った。魔術師たちが『学園』に導かれ、必ず迎えたあの日の夜のように。興奮し、きらめき、喜びすらも湛えた声で。魔術師、夜を降ろせ。魔術師たちよ、星を落とせ。今宵は祝祭、流星の夜。
 魔術師たちは満面の笑みで一礼し、確かに、その声に応えてみせた。



 さあ、起きて。己を揺り起こすその声に応え、少女はぱちりと瞼を持ち上げた。なんの為に、なにをしなければいけないのかは、分かっていた。揺蕩う眠りの中で、己を抱き上げ部屋の中央へゆっくり歩んでいく言葉魔術師が、人形にそれを告げていたからだ。言葉魔術師の人形たる少女は、幾度か瞬きをして室内を見回した。
 漆黒の闇で塗りつぶされた部屋。天井にちかちか輝く守護星の灯りと、幾人かの魔術師が手に持つ灯篭の、火の揺らめきだけが部屋を照らし出している。魔術師の数はもう、数えられるばかりになっていた。彼らの顔を、見た覚えがあるような気がしたが、名は知らぬままだった。なにか言いたくて、けれど言葉を持たず、人形はじっとシークの腕に抱かれていた。
 なにをすればいいのか、分かるね。人形の主たる男が囁きかけてくる。こくり、と少女は頷いた。予知魔術師の力でもって、世界をやり直すのだ。その、起点と終点を作る為に、二人分のちからが必要だった。その為の言葉はみんな覚えていた。子守歌のように、とある男がソキの傍でそれを囁き続けてくれたからだ。その男の姿は、もう室内にはなかった。
 砂漠の国へ、帰ったのだと、分かった。
「……さあ、シーク、あなたで最後よ。魔力を」
 錬金術師の女が歩み出て、飾り気のない白い本を差し出した。男がそれを受け取って魔力を封じている間、人形はじっと、錬金術師の傍らに立つ少女を見つめていた。藤色の女の子。一目ですぐに分かった。この少女が、もうひとりの起点となり、終点となる予知魔術師。名は知らないままだった。今は知らないままだった。いつか、知ることができると、思った。だから声はかけなかった。
 予知魔術師に本が受け渡される。途切れ途切れに声が聞こえた。さあこれを、武器庫、どこでもいい、置いて、終わったら、戻って、いいえ、もうあなたも、好きにしていい。さようなら。さようなら、と少女が涙を堪えながら本を胸に抱え込む。行ってしまう。背を向けて離れて行く。その背を見送る、ひかりが見えた。妖精のひかり。花妖精の魔力の輝き。
 あ、と思って少女は慌てて手を伸ばした。最後に、どうしても、伝えたい言葉があった。うわっ、と言葉魔術師が声をあげる。ぎょっとした視線がいくつも向き、慌てたように、妖精が目の高さまで滑空してくる。
『どうしたの? 危ないわ。……さ、いい子で、言うことを聞いて……』
「よ……せ、ちゃ……」
 殆ど話すことのない口が言葉を忘れかけている。腕も、動きがぎこちない。それでも成し遂げなくてはいけないと、人形は己の髪を握るようにして、赤いリボンを解いた。誰も人形からそれを取り上げようとはしなかったから、それはずっと、髪を飾ったままだったのだ。溢れ出る感情に、人形はほろほろと涙を零す。
「……ずっと、お傍に、いてくれ、た、です。ありがと……」
『……ソキ?』
「あのね……あのね、ソキ、ずぅっと……ずぅっと、考えて、お願いが、あって……」
 ソキの意識は悲しみに食いつぶされた。ここにあるのはただの残滓だ。けれど、それでも、言わなければいけないことが残っていた。魔術師たちは希望を夢見て繰り返すのだ。ならば、ソキも。ひかりを残していきたかった。
「ねえ……ねえ、また、迎えに来て?」
『ソキ……』
「それで、今度こそ……一緒に、旅を、しましょうね……。ソキ、ソキね、絶対、ひとめで、妖精ちゃんだって分かるですよ……!」
 ふふ、と笑って。ソキは、必ず、と約束してくれた花妖精に手を伸ばした。戸惑う花妖精に微笑んで、リボンで腰をくるりとひと巻きする。蝶々結びにして括り付けて、これで大丈夫、とソキは言う。
「赤い糸、なんですよ。運命なの。だからね、妖精ちゃんは絶対、ソキを迎えに来てくれるです」
『ええ……ええ、行くわ。必ず行く。今度こそ、何度だって、わたしがあなたを導いてみせる……!』
「やくそく。……妖精ちゃん。ソキのリボンちゃん。またね」
 すぅ、と息を吸い込んで。ことん、と少女は意識を落としてしまった。涙を堪えて、花妖精はもうひとりの予知魔術師の元へと飛んだ。そして唐突に、私も行く、と武器庫への同行を申し出る。
『もちろん、わたしたち花妖精は保存されたりなんかしない。いくら影響が薄いと言えど、繰り返す力に耐えきれず、わたしも消えるでしょう。……でも、魔力なら残せるかも知れない。予知魔術師の武器に』
 あの子が。辿りつき手に取る筈だった、予知魔術師の武器が、確かにあるのなら。魔術師が願いを込めて一冊の本へ意思と魔力を封じたように、花妖精も同じようにしてみたかった。いつかのわたしがあの子に辿り着き、導いて、その先に。かすかな助けとなるように。もうひとりの予知魔術師は微笑んで、花妖精に手を差し出した。祝福をかけてあげる、と予知魔術師が囁く。まだそれくらいの魔力は残っているから。
 そのリボン、もって行けるように。いつか必ず、あなたの元へ現れるように。あの子がすぐに、あなたを分かってくれますように。今度は名前をつけてもらえるといいね、とリトリアは囁き。そうね、と花妖精は微笑んだ。



 全ての詠唱が終わった。もう五分もしないうちに、この世界は閉じるだろう。術式の起動を確認したエノーラが、口元を手で覆って座り込む。その傍らには戻って来たリトリアもいて、錬金術師の肩を労うように抱きしめていた。ストルとツフィアの姿もある。最後に見るのはきっと、こんな光景だと分かっていた。シークは夥しい魔術師式の中心で、しばし、祈るように目を閉じた。
 微笑んで、足元に視線を落とす。そこには金の砂がまだ残っていた。両掌で掬い上げられるほど。それは消失した予知魔術師の、魔力の残りだった。じっと見つめるシークに、なにかあった時の為に余分を残しておくのが私と言う天才の技、と誇らしく振り切ったエノーラの声が聞こえてくる。ふ、とシークは口元を緩ませた。のみならず、肩を震わせて笑いだす。
 ああ、きっとそうしてくれると信じていた。シークは賭けに勝ったのだ。
「……さあ、もうひとつ」
 金の砂がさらさらと音を立てて舞い上がる。は、とエノーラが声をあげるのに目を向けて、言葉魔術師は一時もためらわず、編み上げた言葉を開放した。
「『呪いあれ。世界を貫き、時果てまで貫く呪いあれ――我が願い、我が魂、我が祈りよ! 呪われてあれ!』」
「シークさんっ?」
 悲鳴が聞こえる。リトリアがこちらへ駆けて来ようとするのを、蒼白になったストルとツフィアが押し留めていた。愕然とした表情でエノーラが口元を押さえている。その手が震えているのが見えた。冷静な魔術師たちの判断は正しい。ひどく正しい。そう、もう、妨害は間に合わない。この世界は閉じるのだ。
「『決して、決して願いを忘れるな! この願いを、この魂に刻み込め! 朽ち果て変質しなお、呪われ続けろ! 呪いを、ここに……! 帰ることを諦めてはならない、友を作ってはならない、安らげる場所を持ってはならない、愛しさを得てはならない! 帰りたいと思い続けろ。決して、決して、その想いを忘れるな!』」
「や……やだ、やだっ、やだぁああああっ! シークさん! シークさん、嘘っ、やだっ、やめてやめておねがいやめて、やめてっ!」
「……なんでよ」
 頭を両腕で抱えて、エノーラが泣きながら首を振る。
「なんで……? アンタ、自分がなに言ってるか分かってるの……? なんでそんなことするの!」
「……ボクがいなければよかった」
 だってそうだろう、とシークは笑った。片手で顔を覆う。
「ボクがいなければよかったんだ。ずっとそう思ってた。……ずっと、ずっと、そう思っていた。きっと正しい。だってそうだろう? ボクがいなければ、砂漠の筆頭たちは死ぬことがなかったかも知れない。ボクがいなければ、あの日彼を迎えに行けたのはジェイドだったかも知れない。ボクがこの世界にいるのは、間違いだ。ボクは……ボクが、いなければいい」
「ずっと……? ずっと、そう思ってたの?」
「そうだよ。……そうだよ、ボクが、いなければいい。……ジェイド」
 部屋の戸口に、ジェイドの姿が見えた。息を切らしていた。走って来たのだろう。間に合わないと分かっていて、制止を振り切って走る姿に。シークに手を伸ばす、そのひとに。世界が終わるのを感じながら、シークは泣きながら、笑って、囁いた。
「ジェイド。キミの傍が、楽しくて」
「シーク……!」
「帰りたい気持ちを、忘れちゃったんだ。……ごめんよ」
 親しくしてくれて、ありがとう。囁いて、シークは。届かないと分かっていたから、すがるように、ジェイドに向かって手を伸ばした。



 そうして、世界は繰り返された。



 夢を見ていた気がする。でも、夢ではなかったような気もする。ソキは胸に両手を押し当てて、ぱちくり瞬きをした。くてん、と首を傾げて、なにをしていたのかを考える。ここがどこなのかを。くちびるを尖らせてあたりを見回そう、として、妖精と目があったので、ソキはぱちんと両手を打ち合わせて、あっと大きな声を出した。
「武器庫でした!」
『……なんだか、ずいぶん、ぼーっとしてた気がするけど。ソキ、大丈夫? おかしい所ない?』
「リボンちゃんも、ぼんやりさんをしていたの? うぅーん……?」
 特別、おかしな所はないように思われた。痛い所も、苦しい所も、ない。ただ胸の奥になにか、かなしみがこびりついている。そんな気がした。それは瞬きをして考え込んでいる間に、吐息にするりと消えてしまったのだが。不思議な気持ちになりながらも、ないです、と言って、ソキは机の上にもう一度手を伸ばした。灯篭を取ってあかりを引き寄せ、ほっとしながら、机の上を見る。
 赤褐色に染められた帆布に覆われた、一冊の本がある。『本』だ。予知魔術師の武器たる、『本』だった。ソキはそーっと手を伸ばして、表紙をつむつむ、と指先でつっついた。
「本ですぅ……。ねえねえ、リボンちゃん?」
『なに? 得体の知れないものに、やたらと触るんじゃないの』
「えたいのしれなくないものだもん。あのね、あのね? これ、ソキの?」
 なに言ってんだコイツ、という顔を隠そうともせず、腕を組み、妖精はソキを睨みつけた。
『アンタの『本』はあるでしょ? 白いの』
「そーうーなんですけどーぉ……。これもぉ、きっと、ソキの。ソキのなんですぅう」
『ごねるんじゃないわよ! ……あっ、ちょっとこら! 馬鹿! なんで持って行こうとするの! 置いておきなさい! 元の! 位置に! 戻せーっ!』
 ややややんっ、と取られないように胸にぎゅむっと抱きながら、ソキはとてちて武器庫を動き回った。見た瞬間に分かった。この『本』も、ソキのものだ。予知魔術師としてのソキの『本』、写本。魔術師として目覚める前までの。それでも確かに予知魔術師としてこの世界にあった、ソキの写し。いつかの世界の、どこかのソキの、精巧なる写本。まだ、魔術師の器を持つソキの。砕かれる前の。
 ソキが灯篭を持ったまま、あんまりやんやんとてちて必死に動いて抵抗したからだろう。火事、という文字を全力でよぎらせた妖精が、あああああ、と呻きながら分かったわよっ、と声を荒げる。
『分かったわ、持って行きましょう! だから! 走るな! 走るんじゃないって言ってるのよというかアンタ走ってると思ってるんでしょうけど走れてないのよちょっと速いだけあぁあああああ止まれーっ!』
「は……はぅ、はぅ、にゃ……。はぅ、うぅ……そ、そきの、勝利という、やつですぅ……!」
『クソ腹が立つ……なにこの敗北感……。覚えてなさいよ……! ロゼアがねっ!』
 リボンちゃんすぐそうやってロゼアちゃんをいじめるぅっ、と悲鳴じみた声でソキが抗議する。アンタがアタシの言うことちゃんと聞けばいいのよ分かってるの、と叱りつけながら、妖精はぜいはあ肩で息をするソキの、赤く染まった頬を撫でた。
『もう……落ち着くまではここにいましょう。休憩して、それから助けを呼びに行きましょうね』
「うん。そうするですよ」
『いいこ』
 妖精の声は、意外なほどに柔らかく響いた。えへへ、と蕩けた笑みで喜んで、ソキはその場にぺたりとしゃがみこむ。しばらくして。ソキがうとうとと眠りかけたのでその頭をひっぱたき、立ち上がらせて。妖精と魔術師は、助けを求めて武器庫を後にした。



 時の果て。
 すべての魔術師の運命は。
 ――覆されたその先に、ある。

 それを、誰かは希望と呼んだ。

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