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終幕世界から、愛を込めた



【再計算】

 開始から、実に五時間。一秒たりとも手を止めずに計算式を解析し、書き連ねていたエノーラが、ぴたりと手を止め開口一番、あっこれロゼアくんの存在が想定されてないんだわ、と言い出したので、ナリアンは厳かな微笑みで稀代の錬金術師の意識を刈り取った。物理で。もちろん、場の副責任者キムルからの即座の指示によるものである。私怨ではない。私怨などではないのである。
 きっかり三十分後に顔に濡れた布をかぶせられて跳ね起きるという、拷問かつ嫌がらせしかない手段で叩き起こされたエノーラは、さすがに涙目でちょっと待ってこれはないんじゃないさすがにこれはないんじゃないの私をもっと大切に扱ってもいいんじゃないの具体的にいうと目覚めは美少女の口づけとかがよかったと騒いだが、後半の主張があったせいで、場の誰からもそれは黙殺された。
 さてどういうことなのか、と説明を求めるキムルに、エノーラは拗ねた顔でくちびるを尖らせ、談話室をぐるりと見回して息を吸い込んだ。談話室にある魔術師の数は多くない。二十と数名。これが世界に現存する魔術師の、全てだった。
「つまり、この魔術式は本来、もっと大人数での発動が想定されてるのね? 五十とか、六十とか、百人くらいの規模かも知れない。それくらいの人数がいれば、各々の代償なんて微々たるもの。楽になんて言わないけど、そこそこすんなり、世界は繰り返せるし希望もなにもかもを、次に託せる……訳なんだけど、傷病者を抜くと、動けるのは二十……二十一名……? さすがに厳しいんじゃない? って感じ」
「エノーラ。説明を果たしてくれないかな? ……ロゼアくんが、なんだって?」
「だから、もっと前段階での発動が想定されているものなのよ、これ。具体的に言うと第二次大戦争が始まったり終わったりするより前に、しなきゃいけないことなのよね。……ロゼアくん、ナリアンくん、メーシャくん。ハリアスちゃんに、そうね……シル寮長や、もしかしたらユーニャ、リトリアちゃん。彼女たちの存在が想定されてない」
 あ、でもリトリアちゃんは軸に食い込んでるから違うのかな、と今一つ己以外には理解させない呟きで首を傾げ、エノーラは渋い顔をするキムルに、私だって混乱してるし情報整理してるんだから待ちなさいよ余裕のない、と眉を寄せて言い放った。
「これはつまり、今みたいに五ヵ国が完全に分断されて、国土が焼かれて、魔術師たちが殺し合ってしまったこの十年を迎えることは、考えもされていなかった前時代の……前世界の、かしらね。完全なる遺物なのよ。今とは条件が違いすぎるわ」
「……できない、ってことかい?」
「今すぐには。……この、世界の時間を巻き戻して、やりなおすっていう方法はね、ほんと最後の最後の禁じ手みたいなものよ。みたいなっていうか、そのもの、と言う他ないんだけど。あー、でもなぁー、あー、あー、あぁー……うん、そうだよね……。こんな所で諦めて、途絶えさせてしまって良い祈りじゃ、ないよね……。なかったよね……。こんな形で、閉じる為に繰り返したんじゃ、ないよね、きっと……よし!」
 半日で目途つけるから私のことはちょっとほっといて後はよろしく、と言い残して図書館へ走って行ったエノーラを追って、数人の魔術師たちがぱらぱらと動き出す。彼らに、食事と休憩を取らせるように、と指示をして、キムルは円卓の椅子を引いた。そこに腰かけたまま動かないでいる年下の魔術師たちの顔を、面白がるように覗き込む。
「どうしたんだい? ロゼア。ナリアン、メーシャ。リトリア、君までそんな顔をして」
「……名前が、出たから」
 ぽつり、力なく呟いて、リトリアはきゅぅと眉を寄せて囁いた。
「わたし、もしかして……取り返しのつかないことを、ずっと、していたのではないかしら、って」
 魔術師の手によって、戦いの幕は切って落とされた。そのきっかけの一つとなったのが、恐らくはリトリアの失踪である、とされている。ある日、行方をくらまして楽音から逃亡した魔術師が、砂漠で目撃されたのを知るや否や、王は己の魔術師たちに武力拘束を命じたのである。王命に逆らいきれぬ魔術師たちは、国境を越えて砂漠へ入り、そこでリトリアを拘束した。しようとした。
 抵抗したリトリアは、魔力を暴走させた。首都にほど近い所にあったひとつの都市、近隣のふたつのオアシスに住む人々に、即死の毒を飲み込ませるがごとき行為であった。影響は砂漠全土に及び、五国が恐慌と混乱に陥る最中。それを狙っていたかのように、砂漠の虜囚であった言葉魔術師が反乱を起こした。その目的は未だ明らかになっていない。なることは、もうないだろう。
 彼の魔術師は砂漠の魔術師の半数と、王を道連れに、焦土へ沈んだ。それを成したのがロゼアである。なんらかの理由で言葉魔術師に操られていたその魔術師のたまごは、うつくしい少女の亡骸を胸に抱き、ひとり、荒れ狂う焔の中に座り込んでいた。少女は『花嫁』であったのだという。妖精を視認し、その夏にでも『学園』へ呼ばれる筈だった、ロゼアの『花嫁』であったのだという。
 砂漠全土を飲み込みかけた焔を消し飛ばしたのが、ナリアン。その助けとなったのが、メーシャだった。風の魔法使いは、己の水器にひびが入る程の無茶をして親友の故国と命を救い、占星術の少年はそれから半年も寝込むほどの精密な計算と集中力でもって、彼の成すことを最後まで助け切った。彼らを『学園』は保護し、世界と人々はそれを許しきれなかった。
 特に、生き残った被害者であり、主犯でもあるロゼアは引き渡しを要求された。残った四ヵ国の、どの人々からも。民衆は魔術師の存在そのものを恐れ、消えゆく定めを追うこととなった砂漠の国のようになることを恐れ、文献の中から読み取れる大戦争の再来を恐れた。連日、王の耳には魔術師の排斥を願う声が吹き込まれ、他国のそれらを恐れる悲鳴ばかりが響いていた。
 火の魔法使い、レディが人々の手によって撲殺されたのは、砂漠が焦土と消えて二ヵ月も経過せぬある真昼のことであった。星降りの城下で買い物をしている最中、暴徒の手によって拘束され、半日後の死体が城の前へと打ち捨てられた。そこから、残った四ヵ国で暴動が起きるまでは、ほんの数日。鎮圧の為に魔術師が駆り出されるまで、半月。戦争が起こるまで、半年。
 第二次大戦争の終結まで、十年の月日を必要とした。少年少女は、それぞれに青年と女性と成り。五国は、滅びの運命に飲み込まれてしまった。失われたものはもう、戻らなかった。残された魔術師は戻る故郷の代わりのように、ひとりひとり、『学園』へ現れ今日へと至る。残された時間は決して多くない。この世界はもう、とうに壊れきっていて、あとは終わってしまうだけだった。
 その、砂粒が零れ落ち切る音を聞くように。俯き悔恨を口にするリトリアに、キムルはしっかりと言い聞かせた。
「取り返しは、つく。……まだ、エノーラが諦めてはいないからね」
「……うん」
「だから、君も諦めてはいけないよ。……リトリア。泣いたかい?」
 リトリアは、祈りの形に手を組み合わせて、無言で首を左右に振った。そうか、とキムルはその肩に手を置いて静かに囁く。落ち着けたと思ったら、すこし泣くといい。予知魔術師、君が手に持つのは希望であって欲しいのだ、と囁く錬金術師に、リトリアはかたく目を閉じ、震える息を繰り返しながらつよく、一度、頷いた。メーシャが視線をそらして、先生、と震える声で呟く。
 彼の師であり、リトリアの夫であった魔術師が息を引き取ったのは、この日の早朝のことだった。もうひとりのリトリアの片翼、言葉魔術師たるツフィアは、大戦争の中で行方不明となっていた。リトリアを逃がす為、ひとり敵地に留まった為であるという。戻った時に、そこに姿はなく。そのようにして行方不明となったままの魔術師の数は、もう数えきれない程だった。
 あぁ、と祈りのような吐息を零して、黙していたロゼアが口を開く。
「もし……やりなおすことが出来たら、こんなことには……なりませんか」
「断定してあげることは出来ない。が、エノーラが解析した術式を解釈する分に……今は恐らく、想定外の最悪の事態の、ひとつだ。ここまでのことには、そうならないだろうさ。なぜ?」
「思い出したんです。いえ……忘れたことは、なかった。でも、いま」
 ふと。暗闇の中に浮かび上がる灯火のように、やわらかなひかりを感じるように、それを思い出したのだとロゼアは微笑する。
「ソキは、最後に、微笑んで……またね、と言いました。ソキは……きっと、こうなることが分かっていたのではないかな、と」
「それは……君の、『花嫁』の……?」
「はい。ソキは俺にまた会えると、最後の最後まで信じてくれていた。……世界が繰り返す方法が、残されていた。これはきっと、一度や二度のことじゃない。もし、それを、知っていたのだとしたら……迎えに、行かないと」
 世界の果てで、次の世界で。俺のことを待ってる、と呟くロゼアのぞっとするような微笑みは、すでに正気の者のそれではなかった。キムルは慎重に、そうかもしれないね、と告げ、ナリアンとメーシャに目配せをして、ロゼアを談話室から休憩室へと移動させる。心配そうに見送ったリトリアは、額に手を押し当てて呻くキムルに、でもね、と控えめに囁いた。
「もしかしたら、ロゼアくんの言うことは……ほんとう、なのかも知れないわ」
「リトリア。君までなにを」
「わたし、一度だけ見たことがあるの。その、ソキちゃんを。……砂漠の城を目指して、私が脱走する、何年も前のことよ。ロゼアくんが『学園』に来た次の年の長期休暇。遠目に、一度だけ見たの。視線は合わなかったけど……わたし、おなじだ、って思ったのよ。キムル」
 だからあの子は予知魔術師だったのかも知れない、と冷静な判断力を残した瞳で、リトリアは言った。今はもう確かめる術のないことだけれど。だからこそあの子はシークさんの凶行に巻き込まれ、あんなことになって。だからこそ。その言葉を告げられたのかも知れない。一度目ではないこの世界で。一度目ではない繰り返しのことを、もし、知っていたのだとすれば。
「わたしたち、きっと、また、あの子に会える。……そっか。ソキちゃん、って、言うんだ……」
 あまりに失われて、壊れ果てた世界では、希望を見出すことすら難しい。だからこそリトリアは、その願いひとつを希望にして、砂時計をひっくり返した。いつか会えますように。皆の願いが叶いますように。ここが一番悪いものになりますように。これ以上はどうか誰もなにも喪わない世界でありますように。悲しいことが終わりますように。
 それでも。世界を貫くもうひとつの呪いさえ、繰り返されてしまうが故に。長い旅路の果てが、見えない。



【再装丁】

 それならば集められるよ、とロゼアに言ったのはジェイドだった。元『お屋敷』の『傍付き』にして、『花嫁』を娶った男。砂漠の魔術師筆頭。あらゆる意味でロゼアの先達であり、上司であり、同じ立場である男は、そうしてロゼアの背を押した。五ヵ国を巡り、歪みを直しながら、そこにそっと紛れてしまった魔力の欠片を回収する旅。ソキの欠片を集め、もう一度会いに行く。そんな旅。
 ソキが魔力の砂粒となり、世界中へ飛び散ったのは、厳密にいえばジェイドと同じ経緯ではない。結果がほぼ一緒でも、過程がまるで違うことだった。ソキは延命の結果ではなく、己の意思で自らの身体を魔力として砕き、ロゼアの前からいなくなったからだ。それは、言葉魔術師による支配を逃れる為に、ソキに許されたたったひとつの術だった。
 意識が書き換えられる寸前。言葉魔術師の人形として使役される直前に、ソキは予知魔術師に許された結果を引き寄せる力をつかい、己という形そのものを世界から消し去ってみせた。その結果として言葉魔術師は再度拘束され、今は砂漠の国の奥深く、永遠に近い眠りの中に封じ込まれている。点滴による薬剤の投与と、二十四時間の監視と魔術の拘束は、もう二度と彼の魔術師を目覚めさせないことだろう。
 ロゼアには様々な道があった。意図せずとも言葉魔術師の企みに加担してしまった罪を追い、同じく砂漠か、『学園』で幽閉される道。五王からの許しを受け入れ、どこかの王宮魔術師として、王に仕えて生きる道。適正のある者を導き、かつてのストルやウィッシュのように、『学園』の教員として生きる道。特例として『お屋敷』に戻り、復興の為の力として尽力する道。
 どの道を選んでもいい、と差し出された選択肢の中から、ロゼアが選んだのはひとつだった。ロゼアは迷わず、ソキともう一度会う道を選んで進んだ。激怒したソキの案内妖精に罵倒され呪われ怒りを叩きつけられ、シディに必ずしも同胞として生まれ変われる訳ではないし、それはソキさんではないかも知れませんよと繰り返されても、諦めることも、迷うことはなかった。
 今度こそ王の傍にいてあげないといけないから、という、とてつもなくそれらしい理由をどさくさ紛れに積み上げて、砂漠の城でゆったりと隠居生活じみた日常へ突入した筆頭の代わり、ロゼアは砂漠と、四ヵ国を休む間もなく渡り歩いた。かつてツフィアや、チェチェリアに導かれて鍛え上げた魔力の視認に長けた目をつかい、歪みを解きほぐし、そこにソキの欠片が潜んでいないのかを探す。
 一年、二年が過ぎ、三年目が訪れた。ソキはひとつも見つからなかった。やさしい、甘い、ふわふわと響く声が、記憶からも擦れ始める。多忙の合間を縫って、ナリアンとメーシャが砂漠の端のオアシスを訪ねてきたのは、そんな日のことだった。ひさしぶり、顔が見たくなって、ひっどい顔ちゃんと寝てる、と笑いながら現れた親友たちに縋り、ロゼアは幼く、うん、とだけ言った。
 夏至の日の夜だった。近況を報告し合い、眠りにつく寸前のことだった。ナリアンが連れてきた風に引っ張られてきたかのように、ちいさな、ちいさな金色の欠片が、ふわりとロゼアの前に現れた。たんぽぽの綿毛のように、吹き飛ばされて、どこかにすぐ消えてしまいそうなそのひかりが。泣きじゃくるように、ちかちか、明滅するのを見て。ロゼアは泣き笑いで両手を伸ばし、そっと包み込んで、ソキ、とそれを呼んだ。
 ろぜあちゃぁあん、と。迷子になって、途方にくれて、泣いてないて、ようやく戻ってこれたソキの声が、あまいひびきが、三年のロゼアの努力と献身の、報いだった。それからの日々は順調で、にぎやかだった。ソキはロゼアの肩を定位置にして、機嫌よく旅を共にした。別たれた『己』が今どこにあるのか分かるらしく、あっち、と告げられるまま、ロゼアは西へ東へ足を運んだ。
 一粒、一粒。砂金のような魔力の欠片が、ロゼアの元へ戻ってくる。それはソキの意識の欠片であり、思い出の欠片であり、感情の欠片であることもあった。とあるひとつが戻った日から、ふわんとまぁるいひかりになったソキは、ロゼアの傍に女性が近寄ると、がびがびした嫌そうな明滅をするようになった。また別のひとつが戻った日から、ソキは思い出したかのように、デーツやマシュマロをロゼアに要求した。
 今やアスルよりちいさくなってしまったソキは、ぎゅむりと抱きしめられない代わり、夜にはその上に乗っかって眠るようになった。その頃になると話を聞きつけたシディとルノン、ニーアがソキの案内妖精を引っ張って訪れ、にぎやかな再会は叶えられた。案内妖精は、それからたびたびソキの元を訪れ、なんのかんのと言い聞かせては、そのまるいひかりが人の形を成すのを、じっと待っているようだった。
 ソキはいつまで経っても大きくならなかった。一粒、一粒、砂金を集めても、時にはそれを吸収してしまうこともなく。困ってこてり、と首を傾げるようにしながらも、かつて己の魔力であったものを持て余しているようだった。それじゃあ、とりあえず綺麗に集めて飾っておけばいいわ、とリトリアが届けてくれたのは、空の砂時計。そこへさらさらと、ロゼアは金砂を注ぎ込んだ。
 世界を覆す為の方法が見つかった、と魔術師が『学園』へ呼び集められたのは、ロゼアがソキと再び巡り合ってから、さらに三年が経過した頃のことだった。なんでも、武器庫の本に紛れていたらしい。有識者として錬金術師たちが呼び集められ、悪戯ではなく本物、という結論が下されたが為に、魔術師たちが招集されたのだった。
 なんの為に呼ばれたんですか、と訝しく手をあげて問うナリアンに、キムルとエノーラが顔を見上げて、左右対称そっくりな動きで、ひょい、と肩を竦めて苦笑いをした。
「それはねぇ、決まってるだろう?」
「やるかやらないか、よ。多数決しようと思って」
 それは、賛成が多ければ術式を実行しようと思う、とする、錬金術師たちのごくあっさりとした宣言だった。当然、魔術師たちは大混乱に陥った。改めてその本の真贋を問う言葉、王たちはこの企みを知っているのか、実行するとはどういうことか、世界を覆すとは、どうして、誰が、なんの為に。ありとあらゆる疑問の言葉が渦巻いて飛び交い、エノーラが嫌そうに、耳を両手で塞いだ。
「ちょっとちょっと! 落ち着いてよ! 誰もなんの準備も告知もなく、はい多数決で実行が決まりましたはいどーん! なんていう風にするだなんて言ってないでしょうっ?」
「いえ、そういう風に聞こえましたけどっ?」
「あら? そうだった? ごっめんごめん。しないしない、しないわよー」
 信憑性もなければ、反省しているとも思えない、軽い響きの声で言葉である。エノーラ、と誰もが呻いて頭を抱え込む複雑な沈黙の中、錬金術師はけろっとした顔で言い放つ。
「ただやるとどうなるのかはすごく興味あるけど」
「その危険思想の錬金術師はちょっと拘束した方が良いのでは? 好奇心でやらかしかねないのでは?」
 ひとりが挙手して問いかけた白んだ言葉に、集った魔術師たちの半数が深々と頷く。ふぅ、と演技的な息を吐き出し、キムルが全く他人事の目でエノーラを見た。
「言われてるよ、エノーラ」
「しれっと私に全責任押し付けようとしてくるのやめてくれない? キムル?」
「帰っていいですか? 忙しいので」
 おつかれさまでした、と今にもいなくなりそうなロゼアに、まあまあ、と言ってエノーラはにやりと笑った。悪役の笑みだった。
「ソキちゃんにも関わりがあることなんだけ」
「は?」
「キレやすい最近の若者怖い!」
 ど、と最後まで言わないでいるうちに瞬時に距離をつめたロゼアに一音で問いかけられ、エノーラはのけ反りながら視線を逸らして首を振った。つまり、見つかった本は遺物なのだという。時を越えて受け継がれてきた、魔術師たちの遺産。どこかの世界のわたしたちが、次の世界である誰か、もしくはわたしたちに向けて、ありったけの希望と祈りを託したボトルメールであるのだと。
「それでね? まだ意見は募るけど、私としては、そんな全部ひっくりかえしてやり直す程でもなくない? 学術的興味あるけど。そんな、このままでいくと世界消滅したりしないから、やらないでいいんじゃない? すっごく興味あるけど。興味有り余るけど! と思ってる訳だから、とりあえず全員呼んだ訳よ。これで全員共犯者ね、連帯責任だからね!」
 ちなみに陛下にはまだ報告とかしていなくって、魔術師だよ全員集合したいから集めさせてくださいっていうお願いの仕方をしました、と胸を張るエノーラに、ふむ、と首を傾げたのち、ナリアンはキムルに問いかけた。
「このひと、殴っていいですか?」
「どうぞ?」
 しれっと許可を出したキムルにより、なんでよちょっと私をもっと大事にしなさいよと騒ぐエノーラに、握りこぶしが一回だけ落とされた。とりあえずもっと噛み砕いて色々説明して、あと一人で陛下方には謝ってください、という要求を涙ぐんで受け入れ、エノーラはつらつらと言葉を並べ立てて行く。つまり、現在は、世界を天秤にかけてやり直すべき状況であるのか、どうか。
 大半の魔術師がそれに、否、と答えた。現在へ至るすべてを引き換えにしてまで、やり直す、あるいは、やりなおさなければいけない状況ではない、と。数人がそれに、やりなおしたいことはあるが、と消極的な否を応えた。その願いは、現在と過去を否定して強行しなければいけないものではない、と。ならばどうするか、という議論に至って、意見が分かれた。
 なにもせず、放っておけばいい、とするものが半数。残りのさらに半数が、なぜこの術式が残り受け継がれるに至ったのかをもっと考えるべきだと主張し、残りの少数は難しい顔をして沈黙した。言葉が飛び交い、やがて静寂が訪れて、しばし。はい、と手をあげたのはリトリアだった。
「あのね。じゃあ、なにか……助けてあげるっていうのは、どうかな?」
 世界をひっくり返す程じゃない、でも、もしもやり直すことが叶うのならば祈りたい願いがある、そういう人もいるでしょう、と予知魔術師は言った。私もそのひとりだけれど、と穏やかにゆっくりと微笑んで。
「私たちの世界を、このままに。私たちの世界へ至る、ひとつ前の覆すほどの切実な希望を、でもここで終わらせたりしない為に。私たちは、このままで……でも、どこか別の私たちが、また、そこから、はじめられるように。そして、残る私たちが、大丈夫だよ頑張れって贈り物を、する、みたいな……ことは……できない?」
 外側から希望を足してあげられないかな、とリトリアは言った。私たちはたぶん、私たちが願った希望の百パーセントじゃなくて、でも、私たちはそれでもいいけど、そうじゃなかった私たちが、もうちょっとって思わないでもいいように。駄目かな、難しいことかな、できないかな、と眉を寄せて期待を寄せるリトリアに、錬金術師たちは顔を見合わせて。考えてみるね、とだけ、言った。
 その後。リトリアの言葉が、叶えられる、と知って。ロゼアは、ソキが魔術師として生き続けてくれる可能性を願った。今も一緒にいる。けれど。ふたり、また手を繋いで歩くことが出来たら、どんなにか良いだろう。錬金術師たちがそれを受け止め協議を続け、必要とされたのは、本だった。魔術師としての、ソキの武器。ぼろぼろに朽ち果ててしまった、予知魔術師の写本。
 もしも、また、言葉魔術師の浸食を受け書き換えられてしまっても。そのものがもう一冊あったのなら、どうだろう。予備ではなく、複製でもなく、二冊目でもない。紛れもなく、ソキの写本そのものが、もう一冊あったのだとすれば。それを修復して、繰り返し進むことを選んだソキの手に、届けることが叶えられれば。それは力に、助けになるのではないか。
 やってみるよ、と言ったのはユーニャだった。もしもそれが本当に可能であった時にだけ、いつかの世界のソキが取りに来られるように、彼は己の世界を半ば離れ、どことも接続しない、予知魔術師の本が収められた武器庫に常駐することとなる。ロゼアも時折、そこを訪れた。ユーニャは日々を、本の修復に費やした。本をばらし、紙を一枚、一枚、丁寧につくりなおしていく。
 途方もない魔力と、根気と、時間のいる作業だった。ゆっくり、ゆっくり、本が蘇って行く。表紙は白から変えることにした。赤褐色に染められた、魔力のこもった帆布が選ばれ、使われた。ロゼアの色だ。きっと、ソキのことを守ってくれる。そう思って、修復を続ける男の元に、ちいさな物音が届く。つたなく歩く足音。眠たげなあくび。あれ、と訝しむ、はちみつみたいな響きの、声。
 振り返らなくても、誰がいるのか、ユーニャには分かった。そして。己の世界の祈りが、確かに。繰り返される希望の果てまで、届いていたことも。






【再希望】


 メーシャくん、と声をかけて部屋の中を覗き込むと、しあわせが綻ぶような笑みで出迎えられたので、ナリアンは全ての祈りが報われたことを悟った。来てくれたの、とそれでも言葉で知りたくて問いかければ、メーシャは喜びで胸を詰まらせながらも、うん、と言い、もう一度衝動的に頷いてから胸に手をあて、深呼吸をしながら、うん、と言った。
「来てくれたよ。ソキが、来てくれた……。指輪も、渡せたよ。これで……これできっと、辿りつける……!」
「うん」
「ソキは、辿りつけるよ、ナリアン。『学園』へ行ける。どこの国だって、どんな未来にだって……!」
 うん、と静かに柔らかく肯定して、ナリアンは泣き出しそうなメーシャに歩み寄り、その肩を抱くように腕を回した。ぽん、と背を引き寄せて、幼子にするように撫でる。喜びが体中で渦巻いて、どうしようもなくなっているメーシャに、せめて息だけはさせなければ、という使命感で、とんとんと背を叩いた。
「……ああ、よかった、な……ほんとに、よかった」
 じわり、滲み出てくる喜びに、ナリアンは噛みしめるように言葉を発した。それが判明したのは、いつだっただろう、と考える。十年も経過はしていないが、片手では足りないくらいに、前のこと。脱走の咎を受けて首の肌に直に声を封じられる術式を書き込まれたリトリアと、言葉魔術師に操られた後遺症で、その瞳から殆ど光を失ったソキが、その本を見つけて来たのだった。
 過去を変えられる。今を変えられる。未来を、よくして行けるかも知れない。その甘い可能性は毒のように予知魔術師たちを飲み込んで、一時は大変なことになりかけた。リトリアは、今でこそツフィアとストルを守り手と殺し手として得て、認められていたものの、それに纏わる条件の悪さにずっと憤慨していたし、目の見えないソキは泣きぐずって、ロゼアを視認することを求めていた。
 今はもう変えられない。これから変えることはできない。けれども、もし、やり直すことが出来るなら。
 リトリアが説得されるまで、ソキがそれを諦め受け入れるまで、長いながい時間が必要だった。というか結局緩和するなら最初から私にそんなことさせるんじゃないわよ、と泣きながら絶叫したエノーラが、リトリアの声が出せるような補助具を制作し。ソキの弱まった視力でも、なんとか普通にものが見えるような魔術具を作り上げて、ようやく、予知魔術師たちの精神が落ち着いたのだった。
 それを待って、錬金術師たちの審議鑑定と協議が始められた。これがなにを目的として作られたものか。過去に使われたことがあるのか。解析された情報は速やかに五王と魔術師たちに共有され、誰もが一度は言葉を失い、溜息を吐き出した。また、その本には書き加えられた形跡もあった。どこかの世界で、誰かが、また別の方法を、別の世界まで届けようとしたのだった。
 たぶん、手落ちはいくつか、いくつもあるけど、やり直してる中ではかつてなくよく終わっている世界なんだと思う、と結論を下したのはエノーラだった。少なくとも、言葉魔術師の一件以後も魔術師の中から死者は出ず、五国のどこも混乱状態に陥ることはなく、大戦争に至るような兆候もなく。なにより、恐らくは鍵となる、リトリアもソキも生存している。
 よって、やり直すことは、五王からの正式な命令として否定された。検討の余地もなく、というのが命令が下される際の文言だった。ただし、例えば、リトリアから声を奪わなくてもよい、ソキの瞳から光が失われなくてよい可能性が残されているのならば。それを改善とし、それを希望とし、魔術師はそれを成せ。ここではない、まだ諦めず立ち止まることをよしとはしなかった、いつかの、どこかの、私たちの為に。
 協議に協議を重ねた末に、下されたのはソキの魔力制御に保険をかける方法だった。ソキの魔術師としての成長は、恐らく何度やり直しても間に合うものではない。そうであるなら、先に、外部からの働きかけで制御してしまえばいいのでは、とされたのだ。言葉魔術師が、ソキを調整してしまうより早く。己の力を、己の意思で、使いこなすことがソキには求められた。
 そして、普段から身に着けていても違和感なく、かつ、着脱せず常に身に着けているもの、として、形状が指輪で決定された時、真っ先に反対し、かつ大暴れし、泣き叫んだのはとうの本人だった。曰く、ソキはまだロゼアちゃんからだってゆびわをもらってないですのにふにゃぁああぎゃあぁああんゆあうや、以下判別できず、という主張である。
 その時、ソキはロゼアと結婚していた。新婚も数年目に突入していたものだから、当然、男性陣からも女性陣からも、愕然とした視線を向けられたのだか。三時間かかって、体力切れを起こしたソキをなんとか寝かしつけたロゼアが、法廷に出頭するような諦念の顔つきで語ったのは、贈っていいものだとは思えなかったからその発想がなくて、という『お屋敷』からの呪い、そのものだった。
 『傍付き』は『花嫁』に装飾品を贈ることは、許されている。しかしそれは、耳飾りや首飾りなど、指輪以外に限ったものである。指輪は、それだけは、どんな理由があっても許されない。嫁ぎ先で、贈られるものだからである。なにがあっても、考えることすら、禁忌とされていたこと。それが指輪を贈ることだった。その考えも持たないまま、いままで来てしまったのだ、と。
 ロゼアはソキと結婚できたことで、多少なりとも頭がぱぁんしていた為に、思い至ることができなかったのだ、と控えめに助けてくれたのはナリアンとメーシャだが、ふたりの親友はロゼアの腕を両側からしっかりと捕まえていた。いまからちょっと宝飾店へ行って来ます、とロゼアの意思確認なしで言い放ったふたりは、まったくもうロゼアったら、と慰め叱り怒り宥めながら、ソキに贈るものを選ばせようとした。
 どうせなら素材と石と意趣から考えて職人を選びたい、待って、と言ったのはロゼアである。ロゼアが、ぶんむくれるソキをあやしながら言葉の通りに発注し、指輪が出来上がるまで一年間。その間もロゼアの完全監修の元、魔力の制御具となる指輪の作成が続けられた。同時に、それを贈るに相応しい世界のソキを、招くことが可能であるのかという、会議と試行錯誤も繰り返された。
 全く同じ場所の出発地点に戻っている訳ではない以上、並行世界を作り上げてそこへ移動しているのだと仮定すれば、行くことは難しくとも一時的に招くことは可能か不可能でいうと紙一重くらいで可能と言えなくもない感じ、ワンチャンある、と、指輪がもう完成に近い以上はできませんとは言えない、そういう顔つきで視線を泳がせながら告げたのはエノーラである。
 錬金術師はあれこれと難しい説明を重ねたのち、あとは出来るという気合、意思、祈り、そして気合だーっ、という理論を投げ捨てた叫びで会議を終了させ、それじゃあ私は最終仕上げがあるから決して扉をあけて声をかけてはいけません、さもなくばはばたく、と本気の目をしながら言って走り去った。御伽話みたいなこと言われたです、とソキがのほほんと見送った。
 さすがにそれを結論として受け入れて放置するのはマズい、と腰をあげたのがストルを中心とした占星術師である。できる、という結論をすえた上で占星術師たちが設計と計算を繰り返したのは、いついかなる日に時に場所にであれば、安全に、そのソキを招くことができるのか、ということだった。安全に、というのが重要である。無事に帰って貰わなければ話にもならない。
 その日、その時、その場所に、と定められたのは、ひとつではなかった。五つの候補があり、そのどれをも逃すようであれば、また再度の計算が必要とされていた。どの時、どの場所に来てもいいように、ロゼアはソキが座るクッションを手配して、そこへ置いた。ナリアンは、ソキが好きだからと乾燥した数種類のベリーを混ぜ込んだクッキーを焼いて、各所へと配り歩いた。
 一度目。ロゼアの元に、その時は訪れなかった。二度目。リトリアが祈りながら待つ部屋に、なにも起こりはしなかった。三度目、ナリアンとニーアが待つ場所へ、ソキの姿はないままだった。そして、四度目。『学園』の講師室で祈っていたメーシャの元へ、夢のように、ソキが現れた。指輪を託すべき、たったひとり。未だ『学園』への旅途中だというソキの指に、確かに、この世界の祈り、その結晶が受け渡されたのだった。
 さっきまでね、ソキとロゼアと、ハリアスもいたんだ、と幾分落ち着いた口調でメーシャは言った。どうだったって聞きに来てくれて、うん、渡せたよって言ったら、ソキったら大喜びでね。これでぇ、あっちのソキもぉ、ロゼアちゃんがめろめろきゅんっでかんぺきというやつですうううっ、って言ってね、とメーシャが肩を震わせる。
 うん、と言ってナリアンはその背を幾度も撫でた。震える泣き声はメーシャのもので、ナリアンのものだった。目を閉じて夢想する。今が不幸な訳ではない。今を満たされていないと思っている訳でもない。けれども、どんなものだろう。今からも、幾億の過去からも、幸福を祈られそこへ辿りつこうとする世界は。満たされて、しあわせで、いてくれるだろうか。そうだといい、と思う。
「……辿りついて、欲しいんだ」
「うん。うん、メーシャくん。俺もだよ……。俺も、同じ、気持ちだよ……」
「しあわせに、なって、ほしいんだ……!」
 なるよ、とナリアンは言った。なれるよ、ではなく。なるよ、と言葉を選んで、断言した。
「だって、俺も、メーシャくんも、ロゼアも……先生たちも、先輩たちも、皆、みんな、そこにはいるんだ。大丈夫。大丈夫だよ……」
「……うん。そうだね、ナリアン。ほんと、そうだ」
「さ、メーシャくん。俺たちも、もう、行こう」
 しあわせになる為の準備を、ソキちゃんたちがしていてくれたよ、と告げるナリアンに、メーシャは笑って立ち上がった。ソキなにしてるの、お茶の準備してたよ、ロゼアが焼き菓子作ってる、それはいいな、と顔を寄せてくすくすと笑い合って。二人は扉を開いて、しあわせそうな匂いがする場所まで、肩を並べて小走りに行った。

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