ジェイドには妖精の加護があり、それ故にこの度の凶行からも逃れたのだという。ただしジェイドがいたのは、砂漠の国の端。国境でもないただのオアシスであり、通常でも一日はかかる移動距離であるから、様々な手段を駆使して戻ったのが、ソキと遭遇した直前であるのだ、と男は言った。オアシスでは、ジェイド以外に目を覚ましている者はなく。行く先々でも、全てがそうだった。
人も動物も深い眠りに沈み込み、砂漠という国は、いまや国の端までしんと静まり返っている。なにが起きたのかは、すぐに分かったのだとジェイドは言う。詳しい術式の内容は理解しないまでも、これが魔力による昏倒であり、そしてそれを誰が成したのか。目的は分からないが、悪巧みであることには間違いなく。
頭の痛そうな声で言葉を語り、ジェイドはふんふんと分かっているのかいないのか、目をきらきらさせながら聞くソキに、くすくす笑いながら囁きかけた。
「だからね、砂漠はまだ回復できていません。分かる?」
「うん! ソキ、ちゃあんと分かるです。つまりぃ、こわいこわいが、いけないをして、それで、それで、まだいやんやんなの!」
「うん、そうだね。やだね。……ふっふふっ、ミードさまそっくり……」
口を手で押さえて顔を背けながら笑うジェイドの傍らで、ハドゥルがやや苛々した気配を醸しながらも沈黙している。でしょう、ソキったらママに似てるってよく言われるです、ねえ似ていたおはなしをして、ママのおはなしをして、うんあとでね、ともう片手を越えたやりとりを、また穏やかに繰り返して。ジェイドは渋い顔をして沈黙する妖精に、ごく穏やかに笑いかけた。
「それで、『お屋敷』がなぜ無事なのか、ですが。先日のリトリアの一件があった後に、念の為、俺が呪い避け、過度の祝福避け、その他諸々魔力避けを設置してから仕事に出ていたからです。王と御当主さまに無断で」
『……ねえ、そこで無断でやる意味ってなに……? 無断の必要はどこにあったの……?』
「説明して許可を取るまでがめんどくさくて……というのは、もちろん冗談だから安心していいよ、ハドゥル」
お前もっと怒られたり殴られたりすればよかったのに、と言わんばかりのよどんだ目をするハドゥルに、ジェイドは機嫌よく肩を震わせて笑った。ソキを連れて『お屋敷』に現れたことで、ジェイドはやや騒ぎを起した後らしい。『お屋敷』はもちろん、外の明らかな異変を察知していてどのようにするべきか揺れている最中であり、そもそもソキは『学園』にいる筈の魔術師のたまごである。それが息も絶え絶えに青ざめて、ジェイドに抱えられて現れたのだから、当然蜂の巣を突いたような大騒ぎになった。
ジェイドは最優先事項として『お屋敷』お抱えの医師を呼び、ソキの元世話役たちを呼び出して傍にいるように求め、その柔らかな体を受け渡したのだが。そこで問題を起こしたのは、どちらかといえばジェイドではなく、やってきたメグミカである。メグミカは意識のないソキをジェイドから受け取って寝台に寝かせたあと、どこでなぜどうして、の説明を一応は冷静に聞き。見かけだけは冷静に、聞き終えて。
それは、と言ってジェイドの胸ぐらを掴み、どうも、と言って引き寄せ。ありがとう、と叫びながら膝蹴りを叩き込み、ございましたっと告げて平手打ちまでした。ロゼアの『花嫁』であるソキさまを、『傍付き』に無断でその腕に抱き上げるとはなにごとか、というのが、彼の補佐であったメグミカの主張である。適切な他の運搬方法がなかったと知って、なおの怒りである。
ジェイドは顔への攻撃以外は甘んじて受け、メグミカ共々、妖精まで連れて、当主に事情説明とお叱りを受けに場を離れていたのだった。メグミカは、まだ反省文をしたためているらしい。道理で世話役たちがいるのに、メグミカが顔を出さない筈である。それでまた置いて来たとなれば火に油を注ぐだろうに、と呻くハドゥルに、ジェイドはそんなこと言われても、と悪びれのない態度で言い放った。
「反省文を、書き慣れてないのがいけないだけだろう?」
「反省文を書き慣れるのが良い事である筈がないだろう……っ!」
「やだなぁ、ハドゥル。なにごとも経験だよ。真面目なんだから」
妖精が呻きながら、砂漠の王への祈りを口にした。砂漠の筆頭は問題児とは聞いていたけれど、と続くことばに、ジェイドは恥ずかしそうに、もう児って年齢でもないんだけどね、と口にする。恥ずかしがって欲しいのはそこではない。なるほど、と心底納得しきった目になる妖精に、どこ吹く風よとにっこり笑いかけてから。
ジェイドはむむぅ、とくちびるをとがらせて首を傾げているソキに、聞く者がくすぐったくなるくらい甘く優しい響きで問いかけた。
「どうしたの? なぁに、言ってごらん」
「……あのね、あのね、ありがとうございます、なんですけどね。……どうして、『お屋敷』を守ってくれたです? ジェイドさんは、『お屋敷』のひとなの? でも、ソキ、『お屋敷』のひと、魔術師さんがいるって、知らないの……」
妖精が訪れてロゼアに会いに立ち寄った時だって、年末年始の帰省の時だって、月に一度届く定期便の手紙にすら、誰もそんなことを言っては来なかった。しかも他国ではなく、砂漠の、それも筆頭という立場ある者なのにも関わらず、である。なんで、なんで、と目をぱちくりさせるソキに、ジェイドはそっと身を屈めて囁いた。悪意を知り、拒否を受け、それでも。
それを知らぬ者に告げはしない魔術師の男は、きょとん、とするソキにやんわりと微笑む。
「理由はね、俺が内緒だからだよ」
「……ないしょなの? なんで?」
「なー、いー、しょー」
きゃあっ、とはしゃいだ声をあげて、ソキはちたちたと手足を動かした。内緒ないしょと繰り返して笑うのに、ジェイドは心から和みきった顔で、さぁ、とソキを促した。
「気になってたことは解決したかな? 横になろうね、かわいい魔術師さん。眠れないなら、ハドゥルがなにかお話してくれるよ。……俺がハドゥルの話をしてもいいけど」
「ちょっと。あなたはなんで余計なことしかしないんですか?」
「興味あるだろうな、と思って」
言われた通りに素直に横になり、ソキはきらきらした目でハドゥルさんのおはなし、と言った。お許しください、とハドゥルが顔に両手を押し当てて呻く。そうだよね、と笑みを深めて、ジェイドはそっと声を潜めた。
「それじゃあ、ハドゥルのはじめての反省文の話から」
「は? なんで知ってるのか教えてくださいあなたその時いなかった筈でしょう」
「決まってるだろ? ラーヴェから手紙が来た」
しかもわざわざ速達で来た、と言い添えられて、ハドゥルの目が遠くなる。ふんにゃっ、と興奮した声をあげて、ソキはもちゃっと起き上がる。
「ラヴェ! ラーヴェのおはなし! して! あっ、ママのおはなしもして!」
『興奮させないでちょうだい! ちょっと、アンタろくでもない大人ねっ? ソキ、だめよ。寝てなさいコイツのはなしは聞くんじゃない! 教育に! 悪い!』
全力の意識を迸らせた妖精の叫びに、ソキはええ、と声をあげて横になった。起きているのは自分でもすこし辛いらしく、珍しいまでに素直な態度だった。
「でもぉ、でもぉ……! パパと、ママのおはなしぃ……! ジェイドさんは、パパとママのおともだちなの? そのおはなしもして?」
「パパ……? ……あぁ、ラーヴェ、そう言ったんだ?」
「誤解を招く誤解を招く誤解を! 招く! ソキさま……! ラーヴェ、でしょう……お間違えのないようお願い申し上げますジェイドは再度御当主さまに呼び出されて反省文でもなんでも書いてこい話があるから廊下にも出ろ」
だからやだって言ってるだろ、とまるでハドゥルが聞き分けの無いような顔をして言い聞かせ、ジェイドは目をきらきらさせているソキの顔をひょいと覗きこんだ。おはなしぃ、と甘くいとけない声でねだられるのに笑みを深め、ジェイドはどんなのがいいの、と囁いた。ぱあっと顔を明るくしたソキが、えっと、えっと、と悩みだすのに、ジェイドはうんと相槌を打ちながら薄い掛け布団を手に取った。
どうしようね、ゆっくり考えていいんだよ、と囁きながら、ソキの全身を包んでしまう。ぽん、ぽん、と手で肩のあたりを叩いて悩んじゃうねと囁くジェイドは、あからさまに寝かしつけに入っていた。妖精が黙って見守る先で、ソキはうと、うとっとしながらもふにゃうにゃとなにかを訴え、眠りたくなさそうな顔をしている。いつでもいいよ、とジェイドはソキの耳元で囁いた。
いつでも、なんでも、聞いていいよ。今じゃなくていいよ。眠いね。寝て起きてからで大丈夫。おはなし、しようね。さ、目を閉じて。うん、そう。いいこ、いいこ。ぽん、ぽん、と撫でる手は、ロゼアと同じ優しさに満ちていた。ソキはふにゃりと気持ちよさそうな笑顔で目を閉じ、かけ、眠くて眠くてたまらない顔で、妖精にのたのたと手を伸ばした。
「りぃ、ぼ、ちゃ……いっ、しょ……ねう……。そき、ね……て、どっか、いく、だぁ、め、ですぅ……」
『はいはい、悪かった悪かった。……なぁに、あまえんぼ。実家なんだからそう寂しくないでしょう?』
口でそう言いながらも。差し出された手の届く所へひらりと舞い降り、妖精はソキの指先を撫でてやる。さびしいのないもん、と眠りに溶ける声でソキは訴えた。いっしょにいたいだけだもん。どこでもいっしょって、いったもん。いったぁ。はいはい、と笑って、妖精はソキの瞼を撫でてやった。
『分かったわよ。ここにいるわ。……さ、おやすみ、ソキ。たくさん眠って、もっと元気になりましょうね』
「……うん」
『コイツらのぐたぐたした説明やら、コイツらに対する説教やらは、とりあえずアタシに任せておきなさい。ソキには手に負えない相手だわ。……あとね、アンタのお兄さんも、すごく心配していたわよ。起きて、元気だったら、顔を見せてあげましょうね』
うん、と言葉ではなく、声の響きだけに反応して返事をして、ソキはするりと眠りに落ちてしまった。とろとろと、蜂蜜のように満ちていく魔力の流れも、変調はなく穏やかで落ち着いている。息を吐いて。よかった、と呟く妖精に、ジェイドは本当にね、と頷いた。
「間に合ってよかった。……『お屋敷』にも、対策しておいて正解だったね。手の施しようがない所だった」
『……無理をさせすぎた、ってこと?』
「簡単に言うとね。……でも、彼女が、というより……魔術師であり、『花嫁』であったから、かな。どちらも、うんと頑張って、どちらも、うんと無理をした。片方だけならね、なんとかなったかも知れない。でもね、両方は、難しいよ。両立するっていうのはね、本当に、難しい……」
目を閉じて。言葉に、万の想いを込めて。けれどもそれを語らず。ジェイドは悔いて険しい顔をする妖精に、君のせいではないよ、と言った。
「恐らく、彼女は自分でも意識せず、ごく微量の魔力を消費し続けている状態だった。恐らくは『花嫁』として、王陛下方の説得をする為に。魔術で惑わしたんじゃない。世界の加護を持つ陛下に、そんなものは無意味だ。彼女がしたのは……推測しかできないけれど、恐らくは己の調整だ。発声や呼吸。息継ぎ。仕草。体の動かし方。ひとつ、ひとつ。望みが叶えられるよう、教育の通りに振る舞えるよう、そうし続けられるよう……ごく微量の身体の強化、回復、維持。それに加えて……あの状態の『扉』を使った」
不可能なんだよ、と砂漠の筆頭魔術師は告げる。あんな状態の『扉』は、どうあがいても飛べるようなものじゃない。その不可能を可能にするのが予知魔術師。その不可能を可能に書き換える為に、彼女はつまり、魔力を使った。入口と出口がある場所を繋げるだけだ。そう大がかりなものじゃない。下書きをなぞって線を描くようなものだろう、予知魔術師という存在にしてみれば。
けれども。怖いという意思を置き去りに、必死に前だけを見て走り続けることを課した、それだけでも負担となるであろう『花嫁』の、脆い体に。その、ほんのすこしの魔術ですら、耐えられなかったのだ。ひび割れるように体調は悪くなり、それを拭うように、また微量な魔力によって補填されていく。輪を描くように悪化していく。その限界が、砂漠に戻るまでだった、ということだ。
それでも彼女の努力は報われた、と砂漠の筆頭は言い切った。妖精が告げた国々の顛末を聞き、吐息と共に胸を撫でおろした。立ち止まってしまえば、平和は絶えたことだろう。諦めてしまえば、ジェイドが救うことさえ出来なかったかも知れない。努力は全て未来へと繋がり、なにもかも、全てが、ソキを支えきり救いあげた。
よく頑張ったね、と心から、ジェイドは眠る『花嫁』に囁いた。起きたら、これからのことを、話そう。たくさん、たくさん、話そうね。よくお眠り、と髪を撫でられて。ソキはふんにゃりと笑み崩れ、寝ぼけた声でろぜあちゃん、と『傍付き』を呼んだ。
ソキは真夜中に目を覚ました。まだ体の芯は疲れ切っていて、はたはたと瞬きをするのが精一杯の目覚めだった。薄闇の中、ソキはロゼアを呼ぼうとして、枕の傍で羽根を休める妖精に気がつく。ぼんやりとひかる妖精の輝きのおかげで、ソキは塗りつぶされた暗闇に閉ざされることはなく、恐怖に震えることもない。リボンちゃん、と響かない声で、ソキは眠る妖精に囁いた。
約束、守ってくれているです、嬉しです、ありがとうです、だぁいすき、です。そっと手を伸ばしてちょいちょい、と指先で羽根を撫でると、くすぐったかったのかゆうるりと一度だけ開閉する。それがなんだか嬉しくて、しあわせで、ソキはくすくすと笑った。けれども、とたんに、こほんっ、と咳が出る。体を熱っぽく傷ませ、喉を軋ませる咳ではなかったけれど、両手を強く押し当ててなお、咳を止めることができない。
どうしよ、どうしよ、これじゃリボンちゃんを起こしちゃうです、とけふけふしながら混乱するソキの名を、落ち着かせるように呼ぶ女の声があった。ソキさま、大丈夫ですよ。落ち着いて。すこしだけ、失礼致しますね。声の響きですら丁寧に調えられた滑らかな、それは『傍付き』の囁きだった。ぱっと目を向けると同時、寝台を覆う布の向こうから現れたのはライラだった。
ロゼアの母親。ライラは甘えて手を伸ばしてくるソキを微笑みながら抱き起こし、背を撫でて呼吸をすこし落ち着かせると、ほんのりと湯気の立つ陶杯をちいさな手に持たせてくれた。まだすこし熱いですから、ゆっくりと。囁きにこくんと頷いて、ソキはお茶にふぅっと息を吹きかけて褒めてもらいながら、それをひとくち、喉に通してうるおした。
不思議なもので、ひとくちでも胃に落ちていくと乾きと空腹を自覚する。なんだかお腹がすいたです、と呟くソキに、ライラは幸せそうなはにかんだ笑みで、うっとりと、なにか召し上がりますかと問いかけた。ソキはしばらく言葉に悩み、果物がいいです、と要求する。あのね、あまいの。それでね、お水がいっぱいなの。たべたいです。
ライラは『花嫁』の要求をあらかじめ予想していたのだろう。視線だけを動かして、寝台を覆う布の向こうにアーシェラの名を呼びかけた。きゃあん、とソキは目を輝かせる。アーシェラはラーヴェの補佐であり、ソキが旅立つ随分前に国内を巡回する外部勤務に転属していたから、もう数年ぶりに見る顔だ。
慌てて、ちたちたっとした動きで髪と服を整えていると、思わず、という風な笑みを零したアーシェラが、ちいさな硝子の器を持って現れた。中には、ソキの口に合わせたひとくちに切られた、桃とオレンジが盛り付けられている。よく冷やされて瑞々しいそれを、ソキはアーシェラに強請ってあーん、と食べさせてもらった。合間に、あのね、あのね、と話をする。
魔術師として秘匿しなければいけないことを、ソキは分かっていたから多くは話せなかった。それでも精一杯に言葉を選んで、ソキは『学園』で騒ぎが起こったこと、それからロゼアが助けてくれたこと、ロゼアを助けて、皆を助けに呼びに来たこと、砂漠の陛下とアイシェの仲のむつまじさ、星降で網でつかまったこと、花舞でけんめいに頑張ったこと、白雪でいけない陛下とおはなしをしたこと、楽音の陛下が助けてくれたこと、砂漠の陛下にそれをみんな伝えに来たことを、次々と話した。
誰かに聞いて欲しかった。眠って起きた夜の中では、なんだかそれが全て夢のように感じて。夢ではないと確かめたかった。女たちはソキの喉が軋まないかを慎重に確認しながらも、その警戒を表に出すことはなく、『花嫁』のどこか切実さを宿した言葉をひとつひとつ、丁寧に聞き届けた。
とてもよく頑張ったのですね、と囁いたのはライラ。ラーヴェも誇らしく思うでしょう、と告げたのはアーシェラだった。ほんと、ほんとっ、と頬を赤くして喜ぶソキの手から空の器を取り上げて、アーシェラはもちろんです、と力強く頷いた。そんなに頑張られたのに、お水も飲めて、お食事もできて、本当に偉いですね。
これで横になってお休みされれば、なんと素晴らしいことでしょう、と微笑まれ、ソキは自慢げな顔をしてころろんとすぐさま横になった。まぁ偉い、かわいい、素敵、素晴らしい、かわいい、さすがはロゼアのソキさま、かわいいかわいいえらいと二人がかりで心から褒め称えられて、ソキはそうでしょうそうでしょう、とふにゃふにゃゆるんだ笑みで頷いた。なんといっても、えらくてかしこく、かわいいソキなのである。
ふふんと自慢げにしながらも、ソキはライラの膝にもそもそと頭を乗せた。おひざまくらする、と強請れば、ライラの手がうっとりするような優しさでソキの頭を撫でてくる。ロゼアには内緒にしましょうね、とその母がいたずらっぽく囁く。ぷーってしちゃいますからね、とアーシェラが笑いを堪えながら言い添える。大丈夫ですよぉ、とソキは頷いた。
ライラさん、ロゼアちゃんのおかあさんだもん。ソキ、ひとりじめしないもん。あっでもロゼアちゃんもライラさんのおひざまくらをするのはちょっともやもやするです、とくちびるを尖らせるソキに、女たちはくすくすと笑って顔を見合わせた。ロゼアが頭を乗せてくれたのなんて、本当に幼い時だけですわ、と告げられて、ソキはそのおはなしをして、と言った。
言った、筈、なのだが。言葉はふわふわとあくびになって漂い、すぐにソキの記憶は途絶えている。そういうわけですから、リボンちゃんの勘違いというやつなんですぅ、とごねるソキに、妖精は額に強く手を押し当てて沈黙した。だからどうして行く先々で好みの顔にふらつくんだ寝台にひっぱり込むんじゃない身の危険を自覚しろはしたないに該当するでしょうが、と朝から叱り飛ばした直後のことである。
百歩譲って身の危険云々は置いてやらない気がしなくもないが、納得しにくいものがある。しかも母親似と聞くロゼアの、その母親であるから、ソキの好みでない、筈がないのだ。ああぁあもう、と頭を抱えて呻き、諦め、それについてもう考えないことにして。妖精は気を取り直して、頬をぷっとふくらませ、寝台に座り込むソキを、上から下まで眺めて言った。
『調子はどうなの?』
「げんきだもん」
『ソキ?』
拗ねた返事を許さず問いを重ねれば、ソキはぷーぷくくくくっと頬を膨らませ、ぷふっと吹き出してしぼませると、不満いっぱいにくちびるを尖らせた。
「ソキ、もうげんきだもん。ほんとだもん。だから、さばくのへいかのとこいくもん。レディさんのとこもいくもん。いくも!」
『はいはいはいはい。療養しましょうね。せめてアンタの……メグミカ? ソイツが出歩くのを許可したら信じてやるわよ。ふんわふんわ話してもう……』
「いやぁんや! ソキ、げんきなったあぁあ……にゅ……う、ぅ……けふふっ」
なにがどう元気になったっていうのかしらねはい駄目、と冷たくあしらわれて、ソキはいやんやああぁあっ、と聞き分け悪く寝台の上でちたぱたした。だってもう朝なのである。ロゼアの所から助けを呼びに出たのが一昨日で、昨日は五ヶ国を行ったり来たりして、それで今日なのである。
言葉魔術師が動き出す気配はなく、もう数日は猶予があると確信していたが、だからこそ問題はもうそれではないのである。今日にはもう絶対にロゼアちゃんにぴとっとしないと足りなくなっちゃう、と主張されて、妖精は呆れた顔で室内を見回し、戸口に立つ男女を指さして言った。
『両親で我慢しなさい』
「いやんやぁあぁあああぁあ! や、や……かふ、けふ、こふん!」
『ほら、もう……いい? ソキ。いくら大丈夫だと思っても、砂漠の陛下に事の次第を報告しないといけないでしょう? 分かる?』
口を両手で押さえるソキに、歩み寄ったハドゥルがぬるまった香草茶を飲ませる。ジェイドは早朝にソキの顔を見に来たあと、その砂漠の王の元へ向かっていた。個人的な事情により、ハレムに立ち入ると心の傷でじんましんが出るからほんとに行きたくない、と呻くジェイドを、働きなさい魔術師でしょう、とハドゥルが部屋の外に押し出していた。
こちらに戻ってくるのは、王への報告と相談が済んでから。夕方か夜になる、と妖精は聞いていた。メグミカも、まだ姿を見せない。反省文は終わったみたいだけど、担当部署が忙しいみたいだね、とジェイドが言い残して行った。それもあって、ソキの機嫌はさほど良くないのである。寝起きにはメグミカに会えると思っていたらしい。
陛下におはなしする、と仕方がなさそうな顔をしつつ頷くソキに、妖精はよろしい、と息を吐いて続けた。
『どういう態度でなにを話すにせよ、いまの状態ではまた体調を崩すでしょう。自分でも分かっている筈よ。……別に、何日も寝て過ごせだなんて言ってないでしょう? でも、今日は、まだ駄目よ』
「……リボンちゃんが、ソキに、だめっていったぁ……」
みるみるうちにしょぼくれるソキに、すこしだけなら、という気持ちを感じつつ、妖精は言葉をぐっとこらえて視線を逸らした。昨日、よくよく分かったことがある。つまりソキはその発声、仕草、言葉の内容のひとつまで、全部分かって計算した上でやっているのだ。相手にするには強すぎる王もいたものの、どういう時にどうすればいいのか、それをソキは意識的に、無意識に至るまで、理解して計算してやり遂げていた。
もちろん、心身に莫大な負荷がかかることも、ソキは知っている。そうであるからこそ普段は一番楽な、負担のない、あるいはロゼアの一番の好みかつ甘えられる状態で過ごしている、だけなのだ。ソキはまさしく『最優』と誉れ高く呼ばれた『花嫁』であり、そしてまた、しっかりとした知識を積み重ねて行っている最中の魔術師でもあった。
だからこそ。駄目よ、としっかり声に出して言い切って、妖精は膨れるソキを見つめて言った。
『ロゼアの所へ戻りたいなら、ここでしっかり回復なさい』
「ぷぷぷ。そき、ロゼアちゃんにあいたい」
『あぁあもう……いいから、ソキ? よく考えてもみなさい。ロゼアのヤロウが起きた時に、咳をしてしまったとしましょう。大変ね? ロゼアはさぞ心配するでしょう。どうしたの? って聞かれるでしょうよ。なんていうつもり? アタシも、周りも、休みなさい元気になったらにしなさいって、みーんな止めたのに、無理して咳して熱だして寝込むの? ……一月は部屋から出してもらえないわよ』
期間をかなり甘く見積もった妖精の言葉に、ソキはやぁああんちたちたちたちたけふんこふん、と暴れて咳をして、くったりして寝台に横になった。微笑んで歩み寄ったライラに薄布で包まれて寝かしつけられながら、ソキは涙目で、ぐずっ、と鼻を啜って呟いた。
「ソキ……ソキ、お咳が出なくなったら、ロゼアちゃんの所に帰るです……? すぐ、出なくなるぅ……?」
「偉いですね、ソキさま。それでは、ゆっくり眠りましょうね。お傍におりますからね」
「……あっ、よぉく眠って起きたソキなら、ロゼアちゃんをごまかせちゃう、とっておきの、すばらし方法を思いつくかもです。そうするです!」
だからなんでそういう、駄目な方駄目な方に思考が飛躍し、かつ上手く行かない可能性まで辿りつけないのか、と頭の痛みを堪えながら、妖精は息を吐く。誤魔化そうとする時点で、すでに勝率が片手程も残らない。ことロゼアを相手にして、ソキがそんなことをできた試しがないからである。隠し事を隠しおおせたことは、あるにせよ。誤魔化す、というのは、出発地点から無理である。
さすがはソキ、かわいくかしこくすごぉーいです、と増長しきった自慢げな呟きでふんすと鼻を鳴らし、ソキは気合の入った表情で、ぱちっ、とばかりに目を閉じた。おやすみなさい、いい夢を。囁きは輪唱のように、子守唄のように、室内からいくつも、いくつも響き。その音色が空気に溶け込む頃、『花嫁』の寝息が健やかに、甘く室内へ滲んで行った。
とろとろとした眠りとあまい覚醒を繰り返し、ソキがようやくぱちっと目を覚ましたのは、地平線に太陽が沈む頃だった。部屋が茜一色に染め上げられる中、ふあぁああ、と今日一番の大あくびをしたソキは、くしくし、と目を擦りながらむっくり体を起こす。右を見て、左を見て、こくんっ、と力強く頷き。ソキはふんにゃぁああ、と声をあげながら大きく伸びをして、自慢いっぱいの声で宣言した。
「ソキ、元気に、なったですぅー!」
『はいはい、自称自称。さ、誰かに診察してもらいましょうね。とりあえずメグミカでいいんじゃない?』
「ぷ。……ふんにゃ! きゃぁ! メグちゃん! メグミカちゃん!」
メグちゃぁああんっ、とはしゃぎきった、とろける声で布の向こうに声をかければ、障害物を跳ねのける動きで女は姿を現した。メグミカったらもう、とくすくす囁く世話役たちの声も、布の向こうから聞こえてくる。そろそろ起きる頃合とみて、待機していたらしかった。目を潤ませつつ輝かせて素早くやってきたメグミカは、ソキさま、と言ったきり、胸に手を押し当てて深呼吸をしている。
視線はソキに向けられたままで、どこへ逸れて行きもしなかった。ソキはにこにことメグミカを見つめ返しながら、その視線が全身をじっくりと確かめて安心していくまでの、長くも短いひとときを受けれる。あぁ、とメグミカは吐息を零し、喉にひっかかったような声で囁きを落とす。お目覚めになられたのですね、と万感の思いがこもった声に、ソキはもそもそっと寝台を移動して、泣く寸前のようなメグミカに手を伸ばした。
腕に触れ、手を引き寄せ、頬を擦り付けてあまく囁く。
「メグちゃん。たくさん、たくさん、心配させてしまったです? ごめんなさいをするです……。あのね、ソキ、頑張りたかったの。頑張らないと、いけない、て、思ったの。だからね、とっても、とっても、頑張って来たんですよ。でもね、でも、メグちゃんのことを、心配させたい訳じゃなかったです。ほんとう。ほんとうなんですよ……。心配させたいわけじゃ、なかったの」
「はい……。はい、分かっております」
でも、と。ソキが覚えている限り殆ど初めて、メグミカは『花嫁』の言葉に対して、その否定的な単語を吐き出して言った。
「とても……心配、しました。心配したんです、ソキさま……息、が、弱くて……」
まだ大丈夫だ、間に合った。間に合う、と力強く断言し励ますジェイドの腕から、震えながらソキを受け取った時、その体の重みと熱に、はじめてメグミカはぞっとした。記憶しているそれより、ずっと重いようにも、失ってしまいそうな軽さであるようにも、感じて。熱は燃えるようにあつく、それでいて冷えるよう生温かった。鼓動は弱く。呼吸も弱く。繰り返す吐息の間を、乾いた咳が埋めていた。
ロゼア、と胸中で強く、メグミカは幾度も『傍付き』を呼んだ。ここにきて。ここにいて。ソキさまが。ソキさまが、まだここにいらっしゃるのに、どうしてあなたはここにいないの。茫然と立ち止まってしまったメグミカの頬を軽く打ち、ジェイドは大丈夫だ、と鋭く叫んで、『花嫁』を抱くメグミカの背を突き飛ばすように、前へと押して歩かせた。
消費する魔力と心身の負荷が、嫌な風にかみ合って荒れてしまっただけ。だから、それが落ち着けば安定する。『花嫁』が安心できる、魔術師が安定できる、静かな慣れた穏やかな場所で眠れば、あとは時間が解決してくれる。だから、けれど、急げ、と告げられて、メグミカはソキを抱いて『お屋敷』の中を走り抜けた。道筋はよく覚えていない。誰とすれ違ったのかも。
覚えているのは寝台に横たわるソキの呼吸が深くなり、咳が止まった時からだった。こふ、かふ、と喉を軋ませていた咳の音が消えて、メグミカは己の息が止まるかと思った。大丈夫よ、とメグミカに告げたのはライラだった。いつの間にか来てくれていたハドゥルとライラは、混乱するメグミカに代わり室内を整え、ソキの元世話役たちを招集し、ジェイドと共に待っていてくれたのだ。
大丈夫。ほら、咳も熱も引いたでしょう。落ち着いて、深く、お眠りになっただけ。よくなっているでしょう。回復してきているのよ。大丈夫、大丈夫ですからね。ハドゥルとライラに支えられながら言い聞かされて、メグミカは息することを思い出すように、肺の深くまで空気を吸い込み、吐き出してから頷いた。そうであるからこそ、ちょっとした事故である、とメグミカは思っている。
感謝しているのだ、ジェイドに対しては。その状態のソキをすぐに『お屋敷』に連れてきてくれたことも、メグミカの背を押して歩かせてくれたことも、言葉で何度も励ましすこしばかり正気に戻してくれたことも。感謝している。だからこそ。お礼を告げなければ、と振り返った瞬間に、そういえばこのひとソキさまを腕に抱き上げていたような気がするんだけどなぜそんなことをねえロゼアどう思うロゼアのソキさまを抱き上げるとかどういうことだちょっと待て、と未だ混乱する思考が言葉を叩き出してしまい。
結果として瞬間的な怒りに身を任せてしまっただけなのである。脳内のロゼアが、素晴らしい笑顔でやれ、と言ったのもよくなかった、とメグミカは思っている。つまり八割ロゼアに責任がある。メグミカの判断力による責任など、微々たるものである。その主張のせいで当主が頭を抱えて呻き、しかしながらまあロゼアが悪いということでもまあ、と結論を下しかけたので、共々ラギの説教を受け反省文を書かされ説教を受け反省文を書き、というのを繰り返していたせいで、中々戻ってこられなかったのだ。
そんなことをおくびにも出さず、メグミカは苦しげに、言葉を吐き出しソキへと告げる。
「……損なわれて、しまうかと……。ソキさま……」
「はぅ、あ、あうぅ……ごめんなさいです……。たいへん、とっても、しんぱいをおかけしてしまたです……。ごめんなさいです……。ソキ、そき、はんせい、する……」
「はい……。はい、ソキさま。それでは今日は出発なさらず、こちらで療養して頂けるのですね……?」
うんっ、もちろんですそのとおりですっ、と勢いよくぎゅっと目を閉じて力強く頷いて。頷いてから、ソキはぱちっと目をあけて、すごく不思議そうに首を傾げた。今、なんだか、不当な約束をさせられてしまったような気が、する。あれ、と目をぱちくりさせて呟くソキに、妖精は深々と息を吐き出した。成長はしているにしても、なんというか、学習と進歩がない。
そこにすぐ気が付くことは良いにせよ、相変わらず人の話を聞かないで返事する癖は直っていないし、じつはなにもかも理解しているような素振りを見せたかと思えば、なにひとつ分かっていないようにこういう所で引っかかる。ソキらしい、とでも思えばいいのか、と妖精はゆるりと羽根を動かした。英知と無垢は、裏表のように、一面に同居しているように混在し、行き来している。
んん、と今一つ頭の動きが鈍そうな声をあげて首を傾げているソキに、メグミカが満面の笑みで、よかった、と囁いた。
「それではソキさま! ゆっくり致しましょうね。まずはお着がえされますか? それとも先に、湯を使いましょうか。たくさん眠りましたものね」
「……め、めぐちゃん……? あの、ソキね、あの、砂漠の、陛下にね。おはなし。おはなしをね」
「はい。明日、致しましょうね。今日は療養される、と、ソキさまは先程、このメグミカとお約束してくださいましたもの!」
心配も、言葉に込めた辛さも、本物ではあったのだろう。しかしその本当を利用してでも言質を取りに行くのが『お屋敷』のやり方であり、『花嫁』の世話役たちに共通した教育である。ソキもそれを見知っていたからこそ、昨日はあれこれ上手く行ったのだろうが。それでも、何回でも、それに自分でひっかかるのがソキである。あれあれ、と言いながら、でもぉ、とごねる声を出すソキに、妖精は額に手を押し当てながら首を振った。
なんとなく理解したが、つまり、ソキに与えられた教育はそういうもので、そういう風に整えられたのが『花嫁』であるに違いない。すなわち、行使する手段と知識を持ちながらも、自分にそれをされるとあっさり、疑いもせずにひっかかる。
『いいから、湯でさっぱりして来なさい。どちらにせよ、寝起きのそんな状態で陛下の御前に出られる訳はないでしょう? 陛下がどこにいると思ってるの? ハレムよ、ハレム。……ほら、よく考えなさい、ソキ。あの女の前に湯も使わな』
「ソキ! おふろへゆく! きれいになる! ぴかぴかほわほわ、いーにおいになるです! して、メグミカちゃんっ。してしてぇっ!」
たっ、たいへんな、たいへんなことをする所だったです、と打ち震えながらやる気を出すソキに、メグミカはもちろんですっ、と輝かんばかりの笑顔で頷いた。それではロゼアのいないこの隙にごほんごほん、もとい、邪魔の入らないうちにレースのたくさんついた服なども着ましょうねちょうど新調したものがこちらにっ、と言い放つメグミカは輝いていた。この世の春、とでも言わんばかりである。
もしかしてソキになにかをさせたくなったら、ロゼアを餌にするより好みの女を置いておく方が釣れるのでは、という可能性に思い至り、妖精はしぶい顔をした。今後の為にぜひとも検証実験をしておきたい所ではあるのだが、それでいて積極的にやりたくはないし、ロゼアの不機嫌が目に見えすぎている。選択肢が己の他にあるという時点で、ロゼアの機嫌など直角で下降する。賭けてもいい。
それを、るんたるんたと鼻歌を歌いながらお風呂の準備をするソキだけが分かっていない。もしかしたら本当は、どこかで理解しているのかも知れないが。ソキが日夜繰り出す、『ロゼアちゃんめろめろにしちゃうです大作戦』や『これでロゼアちゃんもしっとしてソキにめろめろきゅんです大作戦』や『こあくまけいのあくじょになってロゼアちゃんをもてあそんじゃうです大作戦』の、ありとあらゆる方向性から間違っているのを見る分に、その可能性は薄そうだった。
「さ、リボンちゃん? おふろ、おふろに行くですよ! それで、ソキはぴかぴかの、ふわんふわんの、いーにおいソキになるです。だいじなことです。……それでぇ、仕方がないですからぁ、おにーさまにもご挨拶行くです……なんだか心配していたと、聞くですしぃ……心配は、よくない。よくないですからね……」
「まあ! 素晴らしいですわ、ソキさま! さすがはロゼアのソキさまです……!」
それでは、御当主さまにもそのようにお伝えしましょうね、と告げられて、ソキはくちびるを尖らせ、不承不承という顔を作りながらこくりと頷いた。ソキがそのようなことを促されず、自分から言い出すのはごく稀なことである。心配をかけていた、というのを申し訳なく思っているのは、妖精にさえ伝わることだった。全く、素直じゃないんだから、と笑いながら、妖精はソキの隣へ飛び立った。
用意されていた湯へ向かう間も、出てからも、ソキの喉は咳を思い出すことはなく。魔力も機嫌も体調も落ち着いていたので。妖精は胸を撫でおろし、これでばっちりです、とふんぞりかえるソキに頷いてやった。明日まで、このままなら、また旅をすることも叶うだろう。これは旅だった。ソキと、妖精の、ふたたびの長旅だった。
五国を巡り、『学園』へと向かう。その先でロゼアに会う、旅路である。