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 翌日の朝、入念に準備とお手入れをした上で、ソキはハレムに足を踏み入れた。先日のような不慮の事故とは違う、正面からの訪問である。正式な形でその門をくぐるのは一度目ではなく、けれどもソキは初回より余程緊張して、ジェイドと手を繋ぎながらとてちてと廊下を歩いていく。なにせあの時も、前回も、周囲を見回すなんてことをしなかったのである。
 陛下にぽいっと放られた時も。うっすらと覚えがある空間と比べれば、そこは恐ろしい程しんとして静かだった。生きた人々の気配がどこにもない。異質な空間。『お屋敷』とはなにもかもが違うのに、建物の作り、装飾の印象がひどく似通っていて、ソキは混乱して目を瞬かせた。大丈夫よ、怖いことはないからね、と妖精にもジェイドにも囁かれながら、こくりと頷いたソキはもしかしたら、と思う。
 『お屋敷』と、王のハレムを作った人が一緒なのかも知れなかった。そうだとしたら、似ているのは道理である。いろんなことが終わって、落ち着いたら、調べてみるのがいいかも知れない。だから、いまは、また前を向いて。歩いていくことに気持ちを向けなければいけない。不安げな瞬きと、恐怖のちらつく瞳が、ゆるゆると沈み込んでいく。
 『花嫁』の敏感な脆さを眠りにつかせる魔術師としてのソキを、ジェイドはすこしだけ懐かしそうに、痛ましそうにも見つめて手を引いた。あんまり、しなくていいよ。このことが終わったら、そういうことは、しなくていいようにしておくからね。囁くジェイドの言葉の意味を理解しないまま、ソキはこくりと頷いて、妖精と共に歩いて行く。
 早朝とも呼べぬ、光が満ち切った空気は、どこか冷たく冷えていた。常なら緊張もあってこふんと咳き込む喉を、しかしすっと通らせて。ソキは導かれたひとつの扉の前で、妖精が思わず感嘆の息を吐き、ジェイドが誇らしく目を細めるほど、うつくしく滑らかな仕草で一礼した。
「おはようございます、陛下。ソキ、参りました。……お部屋に入りますこと、お許し頂けますでしょうか」
「許可する」
「ありがとうございます」
 ソキがそう答えるのを待っていた動きで、内側から扉が開かれる。女官たちが目覚めている筈もなく、そうしたのはアイシェだった。ソキは礼儀的ではない、ぱああぁっ、と輝く笑みでアイシェさん、と呼びかけ、あっあっと声を上げてもじもじと指先を擦り合わせたあと、なにごともなかったかのような装いで一礼した。
「おはようございます。王のうつくしい方には、ご機嫌麗しく。お目にかかれて光栄です……」
『……ソキ、こっち見て、どやっとした顔するのも堪えましょうね。そうすれば、ほんとのほんとに完璧だったんだからね……』
 アイシェは思わず、という風にくすくすと笑い、御機嫌よう魔術師の方、とソキに囁いてくれた。うふん、と機嫌よく頷いて、ソキはジェイドと手を繋ぎ直し、とてちて室内に入っていく。ゆったりとしたソファの上で、砂漠の王が額に手を押し当てているのが見えた。くて、と首を傾げ、ソキは陛下体調が悪いの、と不安をジェイドに問いかけた。
 そういえば、入室を許可する声にも、なんだか眠たげだった気がする。どうなんだろうねぇ、と危機感なく笑いながら囁くジェイドに、額から手を退けた王が深々と息を吐き出した。
「やれば出来る……お前、ほんとにやれば出来るんだよな……やれよ。いや、やっぱしなくていい……よくないけどな……体調崩すくらいならしなくてもいい。分かったな?」
「は、あー、い!」
「ともあれ、よく頑張ってくれた。話は妖精と、ジェイドからも聞いている。……よく、勤めてくれたな、ソキ」
 ぴしりと手をあげていいこの返事をするソキに苦笑しながら、王は心から魔術師の奮闘を認めて告げた。その上で報告を求めたのは、細部の差異を確かめる為である。妖精とジェイドの報告に虚偽はないだろうが、客観的な伝聞でしかないものだ。ソキもそれを分かっているから、はぁい、と言ってソファに座り、肺いっぱいに空気を吸ってくちびるを開く。
 告げていく。言葉は甘い歌のようだった。きよらかに耳に触れ、心の柔らかい場所をくすぐりながら意識に染み込んでいく。魔術師の、ではなく。それはどちらかといえば、『花嫁』の報告だった。魔術師として、『花嫁』が成したその結果を、ソキは織物を紡ぐかのように語っていく。物語のように。言葉を響かせ終わっても、喉を軋ませることはなく。
 ただ、すこし疲れたように息を吐くソキに、ジェイドがそっとぬるまった花梨湯を差し出した。ソキ、これ、好きです、と言ってにこにこと喉を潤すと、アイシェがふわりと笑みを深める。それをなんとなく面白くなさそうな顔で見たあと、王はアイシェにずいっと手を差し出した。
「アイシェ。俺にも」
「……はい、陛下。すぐにお持ちしますわ」
「陛下? 怖い顔しないんだよ。勘違いされるよ。……ふふ、あのね、寵妃さま。ご安心くださいね。陛下、これ、拗ねているだけなので」
 ソキの好きなものは持ってくるくせに、とか思ったんでしょう、とたしなめるジェイドに、砂漠の王はぷいっと子供っぽい仕草で顔を背けた。
「そういうことじゃない」
「そういうことでしょう。別に、ソキとお揃いしたいとか、かわいい理由じゃないので。安心してくださいね。……は? なんでそうなるんだよって顔しないでくださいね、陛下。そうなるんですよ」
 大体、別に花梨湯が飲みたい訳じゃなくて、寵妃さまの入れてくれた飲み物が欲しいだけでしょう、と言葉を重ねられて、王は不機嫌な表情でジェイドから視線を反らした。アイシェは口元を手で押さえ、視線を伏せて黙り込んでいる。こくこくこく、ぷはっ、と花梨湯を飲み干したソキが、どきそわしきった顔つきで、いやん、と楽しそうに身をよじった。
「ソキ、知っているです。陛下はソキにやきもちさんです。でもね、陛下、しかたのないことです……かしこくかわいいソキが、あんまりにもかわいいから……!」
「おいジェイド、コイツの躾をやりなおさせろ」
「言わんとすることは理解もしますが、駄目です。完成しているんですよ、陛下。つまり、もうどうにもならない、ということです。……でも、まあ。……ふふ、いい? ソキ。しー。しー、だよ」
 図星を刺されると、陛下だって恥ずかしいんだからね、となんの助けにもなっていない言葉を響かせて。ジェイドは柔らかな表情で、まったく、と王に囁きかけた。
「仕方のない方だ。ところで、ハレムでひとつ気にかかることがあったのですが、お尋ねしても?」
「……なんだ?」
 昨日もジェイドはハレムを訪れ、眠り込む女たちの様子見や各所を点検して回っていた。だからこそ、なにかおかしい所があったのかと眉を寄せて問いかける王に、ジェイドは優しく笑みを深めて身を寄せた。
「あの部屋なんですか?」
「……分からん。どの部屋だ。具体的に」
「あっちの」
 だから、と場所を告げろと言おうとした王は、ジェイドの指差す方向に視線を流して硬直した。もちろん、室内であるからその方角には壁がある。なにが見えた訳ではないのだが、王にはひとつ、心当たりがあった。わざわざジェイドが耳元に顔を寄せ、声をひそめて問いかけてくる理由にも納得がいく。あれはだな、と言葉につまりながら、王は視線を彷徨わせた。
 花梨湯を作りに離れているとはいえ、アイシェがいつ戻ってくるか分からないこの場所では、なんとなく口にするのに躊躇いがある。当事者である筈のソキに目を向けても、全くもって察していないらしく、あっちはなぁに、と妖精に問いかけていた。妖精には、なんとなく分かったのだろう。もう分からないならそのままでいなさいよと遠い目で呻いているのがジェイドには見えた。
 ふ、と確信を深めてジェイドは微笑む。
「まさか、陛下が、俺に内密でそんなことをなさるとは思いませんが。相談も事後報告すらなく」
「……お前最近城に寄り付きもしなかったじゃねーか」
「すこし前に立ち寄ったでしょう。その時だって聞きませんでしたよ、陛下」
 はい逃げない、とおよび腰になる王の両肩に手のひらを食い込ませるように置いて。王の筆頭魔術師は、話す時は目を合わせなさい、とぴしゃりと叱ってから言葉を重ねた。
「砂漠の王陛下、尊き方、我が主君。貴方様がこの国の為、どのようなお考えでどのようなご決断をなさり、どなたの為にあの部屋を整えたのか。俺にはまったく推測ができないのですが」
「嘘つけお前わかってんだろ……」
 まったく、推測、できないのですが、と笑顔でゆっくりと繰り返して。ジェイドはその身に宿す『花婿』の血を感じさせるような仕草で、ゆる、と首を傾げて囁いた。
「あの部屋は片付けて頂けますね?」
「……有事の際の用意だ。今から整え始めて置かなければ間に合わない」
「ふふ。そう仰るとは思っていました……ですので、どうぞお気になさらず。こちらで勝手にやっておきました」
 言葉の意味を王が理解して、は、と声を漏らすのと。ぱたぱたと慌てた様子で帰ってきたアイシェが、シア、と悲鳴じみた声で王を呼ぶのは同時だった。
「大変! あの、お部屋が……! よ、用意してらしたお部屋が、なにも無くなっていて……!」
 狼狽したアイシェに王と見比べられても、まだ分からないらしい。なぁに、とのんびりと目をぱちくりさせているのに、ジェイドは頭を抱える王から離れて歩み寄った。ひょい、とソキの顔を覗き込んで微笑む。
「なんでもないよ。いらないものは出しっぱなしにしてないで、お掃除しておこうね、っておはなし。ソキも、お掃除できるよね。散らかしておくの良くないもんね」
「うふん。ソキねぇ、お掃除、得意なんですよ!」
「そうなんだね。偉いね、かわいいね……。俺がちゃんと守ってあげるから、ソキも、変な気の迷いを起こさないでいようね。できるね? ……かわいいかわいい魔術師さん。いいこのお返事、できるかな? はーい、って言ってごらん」
 察した妖精が、あ、と声を上げる間もなかった。かわいいと褒められて上機嫌になったソキは、しゅぴっ、とばかり手をあげると、はーいっ、と元気よく声を響かせる。はーい、と褒めるように繰り返して囁き、ジェイドはちらりと王に目を向けた。
「……そういうことですので、よろしくお願い致します。陛下」
「お前……お前、王の意思に反してここまで好き勝手するのお前くらいだからな……なんでいつも進言してくると思ったらその時には全部終わらせてるんだよ事後報告大好きかよ……。なんでいつもやり方が実力行使なんだよ……」
「すみません。俺の教育をしたのが『お屋敷』であるばっかりに」
 見かけだけは申し訳なさそうに微笑みつつ、全く謝罪をしていない、かつ責任を『お屋敷』に押し付けきった物言いに、王は頭を抱えて蹲った。だいたい、本人がなにも言ってきてないんだから置いといていいやつだろ、と往生際の悪い言葉に、ジェイドは今度は真面目に申し訳なさそうな顔をして、そのことですが、と言った。
「恐らく、本人の中ではもう無いことになっているので、告げるのを忘れていると思われます。今は、厳戒態勢でもありますし……意識に乗せる優先順位として極めて低いのかと。本人としては、もう無いことなので」
「……ソキ。なにか俺に、言うことあるだろ? な? 聞いてやるから言ってみろ? 今回の事件とは関わりない、なんか俺と約束したことあるだろ?」
 もう、この際だと思ったのだろう。達観した表情で顔をあげた王が、確信に切り込む言葉を丁寧に差し出してくる。ソキ、ほら、と促されて、ソキはむむむむっとくちびるを尖らせた。
「陛下とぉ……? お約束ですぅ……?」
「ああー、ほらね。完全に無かったことにされてますよ、これ」
「嘘だろ……」
 妖精も、王に全面的に同意したい。え、ええぇ、と信じられない気持ちで呻いていると、ソキはちょこちょこと首を右に左に傾げ、不思議そうに呟きをこぼしだす。
「なにかなぁ……? なんのことですぅ……? アイシェさんと、ハーディラさんにご挨拶したいです、のこと……? それとも、ロゼアちゃんのお呼び出しをやめてもらうこと……? ハレムのお部屋は、ロゼアちゃんとナリアンくんに頼むことにしたですし、ソキはロゼアちゃんを幸せにするおんなのこになるんで、もうないないですしぃ……あ! 分かったです! 花舞の魔術師さんと、レディさんのことです! レディさんには、これから会いに行くです。白魔術師さんと一緒じゃなかったのは、投網がいけないです。そうでしょう? あたりでしょうー!」
「ほーら、無いことになってる、無いことになってる」
『ソキ……。まだ、まだ陛下に、そのおはなし、してないでしょう……? したの? してないでしょう?』
 おはなし、したもん、とソキは自信たっぷりに頷いた。してねぇよ、と王が即座に呻きながら突っ込む。えっ、と声をあげて驚いたソキは、どこまでも純度の高い無垢なまなざしで王を見た。
「陛下……。お忘れに違いないです……」
「おっまえふざけんなよ……してないからしてないって言ってやってんだろうがよ……」
「しょうがないんでぇ、もう一回言ってあげるですけどぉ」
 お前その王に対しての上から目線なんなんだよやれば出来るんだから改めろよ、という言葉をぐっと飲み込んで。ああ、と促す砂漠の王に、ソキはふんぞり返ってじまんげに告げた。
「ソキぃ、ロゼアちゃんをめろめろにする女の子になるんでぇ、陛下とのお約束は取り止めにするです。陛下には残念なことですけど……ごめんなさい、というやつです……あ、それでね? ロゼアちゃんと、ナリアンくんに、予知魔術師の守るのをお願いするの。ソキがお願いするんですから、陛下方もきっと! いいよ、って言ってくださるに違いないです。つまり、もう決まったことなのでは?」
「……もうどこから突っ込んでいけばいいのか分からないがな……お前……お前が俺を振ったみたいな言い方すんのほんとやめろよ……」
 心底息を吐き出して、言葉にも、結論にも迷ったあとに。王は静かな声で、分かった、と言った。
「一度だけ確認する。それが、お前の……心からの望みだな? ソキ」
「はい」
 すっと背を正して、『花嫁』の顔をして。ソキは魔術師として、王の言葉を肯定した。
「それが、わたしの心からの望み。願い、です。陛下」
「……分かった。では、諸々の条件や……あー、いい。この一件が落ち着いたら、書状で通達する。読めよ」
 もう、けろっとした顔をして、ソキがはーい、と返事をする。そして、ソキは訝しげな顔をして首を傾げて。あれぇ、と拗ねたような声で呟いた。
「……もしかして、なんだか、言ってなかったような……? 気がするです……?」
「言ってなかった。言ってなかったんだよ、お前は……!」
「……きのせいということにしておくです。これはなんだか、おこられちゃうことです。きのせいです!」
 ぺっかーっ、と輝く笑みで言い放ったソキに、砂漠の王はふふっと笑い。ジェイドに止めるなよ、と言い置いて両手を伸ばした。きょとん、とするソキの頬を掴んで、左右に引っ張る。折檻である。ぴぎゃああああぁああぁいやあああぁんですううううっと泣き騒ぐソキを、王は許さず。見かねたアイシェが、あの、それくらいにしてあげて、と止めるまで、ソキの頬を溜息をつきながら引っ張っていた。
 それを、妖精は黙認した。最もなことである、と思ったからである。



 かしこくかわいいソキのほっぺがゆがんじゃたかもです、ゆゆしきことです、しんじられないばんこうというやつです、たいへんなことです、いたいです、と鼻をずびずびすすり上げて訴えるソキに、うんうんそうだね、とジェイドが頷いている。叱るのはもっと落ち着いてからが良いだろう、と妖精は羽根を震わせて息を吐いた。
 まさかソキの中でそんなことになっていただなんて、誰が考えついただろう。まあ、まだ取り返しのつく今判明してよかったのかも知れない、と己を納得させる妖精に、ソキの拗ねきった訴えがふわふわと届いていく。へいかはぼうりょくてきです、すぐソキにせっかんをするんですよ、なんというごむたいな、です、と告げられても、ジェイドは柔らかな笑みでそうなんだね、と頷くだけだった。
 妖精が見た所、この男は『花嫁』の扱いに長け、その言葉の訴える過剰な意味を正確に理解している。何者なのだろう、と妖精は改めてジェイドを見た。どこかきよらかな雰囲気を持つ男である。砂漠の魔術師筆頭。誰もそれを不思議だと感じず、ソキと同席して『お屋敷』の当主と面会することを許された男。『花嫁』の扱いに長けた、その印象をも薄く持つ男。
 まさか、と妖精は眉を寄せてジェイドを凝視した。嫁いだ宝石の、次代なのだろうか。それならばいくつかの理由に納得できる気もした。父母が宝石ならば、接することにも慣れるだろう。気になったが、ソキの耳目のある所で確かめるのは、躊躇いがある。羽根をぱたつかせながら、機会があれば、と心に誓う妖精の耳に、控え目に響く女の声が触れていく。
「……浅学なもので、知らぬまま、恥を忍んでお尋ねすることをお許しください。魔術師の方」
「はい。何用でしょうか? 我が王のうつくしい花の方。そのような、清らかなお声での問いかけ、我が君がお怒りにならなければ良いのですが……」
「いや俺はどっちかって言うとお前に怒りたいというか……息をしながら人を褒めるなよジェイド……そういうところだぞ……」
 理解不能の意志を乗せた笑みを魔術師から向けられて、王はもう一度、おまえそういうところだぞ、と額に手を当てながら呻いた。ジェイドは僅かに考えた後、ああ、と得心が行ったようにしんみりと呟く。
「いえ、もちろん、世界で一番可憐で愛らしく、うつくしいのは俺の妻ですけれど……?」
「ジェイドお前ほんとそういうところだぞ……なんでその結論に至ったんだよいやいい。言わないでいい。説明するな。……アイシェ、これ、そういう相手だからな。気をつけて聞けよ。こういう相手だからな……!」
 人を特殊危険物のように言わないでください失礼ですよ、とジェイドは王を窘めるが、成果があろうはずもなく。かくして、恐る恐る、という様子でジェイドに視線を向け直したアイシェが、戸惑いもあらわに口を開く。
「あの……陛下と魔術師さまは……どのようなご関係ですの……?」
「関係。……うん、陛下、なんとお話すれば? どれにしますか?」
「アイシェ。誤解の無いよう先に言っておくが、あれはお前より倍くらい年上の妻子持ちだからな……!」
 ぎょっとしたように目を見開くアイシェに、ジェイドはふふ、と笑って首を傾げて見せた。
「さすがに倍はないと思いますよ。自分がいま何歳か忘れましたけど」
「お前のその適当に生きてるとこ、もうすこしどうにかしろと常日頃思っているが、いままさに思いを新たにした……改善しろよ王命だぞ……」
「ああ、陛下かわいかったですよね。分からないと誕生日に何歳になったか祝えないだろ、って怒って。懐かしいなぁ」
 もうやだ、という顔をして砂漠の王はソファの上で頭を抱え込んだ。ジェイドという男は、ソキとはまた別種の、人の話を聞かない相手である。え、ええぇ、と戸惑うアイシェに、ジェイドはふんわりと微笑みかけて告げた。
「先王陛下……皆に『新王』と呼ばれていた彼の方の温情……命令により、陛下の教育係をしておりました。そうですね、育て親のようなものです」
「まぁ……! それは、ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした。ハレムの者で、アイシェと申します」
「いえ、今はただの……ではないか。教育係を辞しまして、魔術師筆頭に戻っております。お気になさらず、うつくしい方。……陛下の昔の話が聞きたくなったら、仰ってくださいね。ハーディラより詳しくお話できますから」
 ああ、もちろん陛下には同席して頂きますので、時間がある時にはなりますが、と付け加えるジェイドに、王はうんざりしきった声で呻いた。
「その話題で俺が同席とか……ただの嫌がらせだろ……」
「いえ、王のうつくしい方と俺が一対一で話すとかありえませんし、昔の心の傷でじんましんがでるので……王がお許し下さっても勘弁して頂きたいというか」
「そもそも許さねぇよ話すなよ……。いいか、話すなよっ? 絶対だからなっ?」
 はいはい、と反抗期を見守る眼差しで楽しそうに頷くジェイドを嫌そうに眺めて。王は気を取り直す溜息をつくと、ようやく頬をさする手を止めたソキに目を移した。
「さて、ソキ……。こら、そっぽ向くんじゃない。仕事の話だ、仕事。しーごーとー!」
「……ソキはぁ、まじめで、きんべんで、えらいんでぇ、おはなしきいてあげるです……これはとっておきの褒めがもらえるところでは……?」
 偉いね、本当にソキは偉いね、かわいくて偉いなんて素敵だねかわいいね、かわいいね、とここぞとばかりにうきうき褒めるジェイドに、『花嫁』の要求を満たすことは任せて。うふふん、とソキが上機嫌になった所で、王は改めて口を開いた。
「体調は、もう本当に落ち着いたんな? 無理をして動かなくてもいい。正直に」
「ソキ、元気になったです。メグちゃんも、ライラさんも、アーシェラさんも、みんな! かしこくかわいいソキは、もう元気で立派なかしこくかわいいソキになったって言ったです。えへん!」
「……お前……過去最高に調子づきやがって……」
 というかなんで医師じゃなくて女の名前しか出てこないんだよ、と信頼しきれない顔をする王に、ジェイドがお医者さまにも診察して頂きましたから、と言い添えた。まあそれなら、と溜息をつきながら王は頷いた。身体の負荷から回復し、精神的にも元気になったのならば良いことである。
 多少ではなく調子に乗っている所が気になるが、しばらくすれば落ち着くだろう、と思って王は額に手を押し当て。いや、と迷いながら言葉を零した。
「これ本当にほっとけば落ち着くか……? おい、ジェイド。お前、この手の扱い慣れてんだろ。どうなんだ?」
「かわいいので仕方がないかと思われます」
「俺が欲しかった答えに、せめてなにか掠った回答を出してこい魔術師筆頭……! 落ち着くのか、否か。落ち着くとしたら期間は?」
 お前しか今詳しいのがいないんだよと言葉を重ねられて、ジェイドはふふっと楽しそうな笑顔になってソキの前にしゃがみこんだ。なぁに、と問われるのに、あのね、と優しくジェイドは囁く。
「かしこくてかわいいのはね、あんまり口に出さないでおこうね。いいこだからできるよね」
「なー、んー、でぇー?」
「うーん。これは秘密なんだけど、淑女はそういうことを口に出さないからかな。ソキ、もうすぐ淑女だもんね。ちょっとはやいけど、ソキはお姉さんだからできるよね?」
 心をくすぐる言葉の数々に、ソキはだいこうふんでちたぱたたたっとしながら、目をきらきら輝かせて頷いた。なるほど、扱いに慣れている、と妖精が白んだ目になる。はい、ではこれで、と囁きながら立ち上がるジェイドに、王は頭の痛みを堪えながら呻いた。
「あのな……? 根本的な……解決はしてないだろ……」
「陛下、いけませんよ。後出しで文句を言ったりしたら」
「あー! あぁあああおまっ! お前! いつも! そうだよな!」
 そういうとこっ、お前そういうとこだぞ本当にああぁああ、と嘆かれ呻かれても、ジェイドは親しげな笑みを崩すことがなかった。妖精には分かる。これは、大きくなってという成長を喜ぶ眼差しであり、それ以上でもそれ以下でもなく。つまり話を聞いていない。これだから『お屋敷』関係者は、と引きながら見守っていると、王は灰色の眼差しで顔をあげた。
「もういい。しばらく黙ってろ。……いいか! 俺が次に許可するまで! 話すなよ!」
「はいはい。陛下の仰せのままに致します」
 麗しい仕草で一礼したジェイドに、だからなんでお前ら俺が悪いみたいな対応してくるんだよ俺が寛大な心でめんどくさがって許したり放置してることにもっと感謝しろよ感謝、と胃のあたりを手で押さえて呻き。砂漠の王はなにもかもを期待していない顔つきで、溜息ばかりを重ねながらソキに向き直った。
「……元気になったなら、とりあえず『学園』に行くことを許可する。現場の責任者と……恐らくはシル寮長かレディのどちらかだとは思うが、責任者と話して、許可が出たらリトリアを連れて花舞へ行くように。事前の打ち合わせが必要なら、花舞の前に楽音へ行ってもいい。上手く行かないことはないと思うが、万一失敗したら、そのまま楽音に向かって、王を連れて行け。多分そうなったら動くだろ。……上手く行ったら、『学園』に戻ってレディと合流。体調と相談して、戻ってこい。分かったな? ……ジェイド、お前も暫くは城に……いなくてもいいから、すぐ呼び出せるとこで自由にしてろよ」
「陛下? いま俺しか身辺警護いないでしょう? 遠ざけようとなさらない」
 なんだかたくさん言われたです、えっとぉ、と指折り数えて首を傾げるソキにとりあえず『学園』に向かいましょうね、と語りかけながら。妖精はちらっ、とジェイドを見た。王がジェイドを遠ざけたい理由は、妖精にさえ察しがついた。ソキの部屋の件と、アイシェのことがあるからである。お説教、やだ、という顔をして、王はそっぽを向いている。
 ふ、と妖精は乾いた笑みで頷いた。ソキと同じで分かりやすい。シアったら、だめよ、育ててくださった方なのだから邪険にしないのよ、と窘められる王の、悪くなりかけた機嫌を。ふんすっ、と鼻息あらく立ち上がった、ソキの挙動が粉砕した。
「つまりー! ソキ、お家に帰っていいということですううううーっ! あっ陛下おじゃましましたです」
「いや待て、待てっつってんだろうが……!」
「きゃああんきゃああん! ロゼアちゃんのとこにかえるですうううう!」
 とてちてちてちちちっ、と早足で出て行こうとするソキを、全くもう、と笑うジェイドが容赦なく止めた。
「ソキ、駄目だよ。陛下にちゃんとご挨拶しようね」
「今大事なのはそこじゃねぇよ……!」
「陛下、御前失礼致します。……心配されなくとも、『扉』の位置は分かっておりますよ……?」
 だからそこじゃねぇって言ってんだろ、と天を仰いで呻き。王は、ご挨拶したっ、ソキちゃあんとしたっ、と半ば抱き締めるように腕を回して妨害するジェイドの元で、もちゃもちゃやんやんしているソキに、視線の高さを合わせて語りかけた。
「リトリアを連れて、花舞に行く為に、『学園』に行くんだからな。分かったな?」
「分かってるですううう! 陛下のかんよーな行いです! さすが陛下! すばらしことです! ロゼアちゃんの次くらいに素敵かもです! いやああぁああんほっぺのびちゃうですううううう!」
 シアったら、いじめないのよ、と声をかけるアイシェのとりなしも、どこか弱々しい。結局、半泣きになるまで頬を引っ張って反省を促されたソキは、リトリアちゃんだもん、わかってるもん、と鼻をずびずびすすりながら言った。よし、とうんざりした顔をして、王はソキを開放する。迷子になるから送ってやれ、と命じられたジェイドと共に、ソキは張り切って砂漠の城を歩いて行く。
 しんと静まり返る城の空気が怖くなかったのは、ジェイドがそっと話しかけてくれたからだった。大丈夫だからね、歩けるの偉いね、かわいいね、体調に気をつけて、ゆっくり行くんだよ。応援しているからね。待っているからね。いってらっしゃい、と眩しげに目を細めて見送るジェイドに、うん、と頷いて『扉』をくぐり。
 なんの気なしに。あるいは、誰かに呼ばれたような気がして、ソキはふっと振り返った。微笑んで見送るジェイドの傍らに、妖精のひかりがある。ソキの案内妖精はすぐ傍にいた。だから、すぐに違う、と分かった。とろけるような、透きとおる、ましろいひかりがそこにはあった。ぱちぱち、と瞬きをする。
 ひかりが、とろけるように輪郭を崩した。一瞬。ほんの、瞬きの間。ジェイドの肩にじゃれつくように腕を回して、しあわせそうに笑っている少女の姿がソキには見えた。あ、と思う。『花嫁』だ。完成された『花嫁』の姿がそこにはあった。『花嫁』は、はにかんだ笑みでソキを見て。またね、とそう告げてくれたような気がした。ソキには一瞬のこと。
 しかしジェイドには、ずっとなのだ、とソキは思う。



 きっと、ずっと。
 ジェイドは、あの『花嫁』の少女と、一緒にいる。



 出発して四日ぶりの『学園』である。てちん、と元気よく『扉』から現れて、ソキはふんすとじまんげにふんぞり返った。なにしてるのと妖精が呆れ顔で息を吐くが、ソキはだいじなことですぅ、と頷いた。
「なんといってもぉ、かしこ……んと、んと。えっと……とても、とても頑張ったソキですからぁ、皆にいっぱい褒めてもらわないといけないです。投網なんてもってのほかです」
『……根に持つのやめてあげなさい』
 かしこくかわいい、はきちんと封印されていた。ジェイドのおかげである。これでロゼアが目を覚ましていたら、そうなんだなソキはかしこくかわいいんだな、かわいいなかわいいな、とさらに増長させることは目に見えていたので、間に合ってよかったと妖精は胸を撫で下ろした。
 溜息をつきながら舞い上がり、妖精はえへんえへんとじまんげにしているソキに、冷静な気持ちで周りを見なさいね、と囁きかけた。
『誰もいないから。いつまでもふんぞりかえってないで、行くわよ』
 寮長かレディだったわね、と考える妖精の言葉に、ええぇっ、と声をあげて。ソキは慌てて立ち直すと、きょろきょろちたたと落ち着きなく周囲を見回した。『扉』があるのは、寮の一階の端。普段は使わない廊下の行き止まりである。そうであるから、普段も別に人通りがあるわけではないのだが。人影も気配もない。がらんとしきっていた。
 一応、規定の通りに灯籠に火が揺れているが、それだけだ。ソキの期待していたような出迎えなどなかった。衝撃を受けた顔でよろけ、ソキは廊下の壁にぺたん、と両手をくっつける。
「な、なんということです……! ソキが、あんなにがんばたのにっ……?」
『はいはい。よーく考えなさいね、ソキ? ソキしか移動できていないの。つまり、情報交換収集ができていないの。頑張ったのは誰も知らないの。分かったら、こんな薄暗くて埃っぽい所にいつまでもいないで、談話室にでも行くわよ!』
「あっ……あぁあ、そうでした」
 つつつむーんっ、とくちびるを尖らせながらしぶしぶと気を取り直し、ソキはなんということです、と呟きながらてちてちと歩きだす。
「皆にはやく褒めてもらわなくっちゃです」
『『お屋敷』で褒められまくってたでしょうよ。まだ足りないの……?』
「んもう! いーい? リボンちゃん!」
 元気になったとはいえ、療養の後である。てちてち歩くソキの移動速度は控えめに行って毛虫を連想させたが、妖精は黙って並走してやることにした。先を急がせる程の距離ではなく。なにより確実に転ぶからである。足元に注意して行きましょうね、と告げつつ、なによ、と促すと、ソキは真面目な顔をして言い聞かせてきた。
「あのね。頑張ったのはね、知ってもらわないといけないです。みぃんなに! ですよ。だいじなことです。そうじゃないとね、皆がね、ソキが頑張ったのを分からないでしょ? 知られちゃいけないのじゃないんですから、皆に分かってもらわないといけないです。褒めが減るです」
『最後のが無ければアタシだって、まぁそうねとか言ってあげられるのよ……?』
「ソキは、ちゃあんと! 頑張ったひとを褒めるですけどぉ、ソキの頑張りだって褒めてもらわなくっちゃいけないです。頑張ったひとは、褒めてもらえるです。……あ、あっ! リボンちゃんもぉ、よーく、よーく! がんばたのに、です……。んと、んと、あのね? リボンちゃんたら、偉いです! 素敵です! さすがはリボンちゃ! だいすきすきすきすーきすき! です!」
 どやあああぁっ、という顔をして褒めてくるソキに、妖精はどうすればいいのか分からなくなった胸中を持て余しながらも、ありがとう、と言ってやった。まあ悪い気持ちにはならない。くすぐったくて、なにかに、すこし報われたような心持ちになる。ふっふん、と自慢いっぱいに頷いて、ソキはてちてちと移動を再開した。
「陛下のお手紙もあるですしぃ、つまり? これは? ソキが頑張った動かぬ証拠! というやつです。えへへへへん。それで、これを……これを……りょうちょに……えぇ……りょうちょにぃ……?」
『ちょっと、やる気を失うの早すぎない?』
「え? えっ……どうしよう。疲れた私にお迎えが……? ソキさまと言う名の天使が見える……?」
 ソキと妖精が同時に視線を向けた先、廊下の曲がり角に立っていたのはレディだった。ただし目元を手で押さえながら、虚ろな気配漂う意味不明な呟きを発している。普段なら危ないから近寄るんじゃないと言う所を、妖精が癒やしてあげなさいとソキに告げたのは、女性が大切な戦力だからである。ここで酷使されて駄目になられると、困るのだ。
 はぁーい、と返事をしたソキはてちてちっとレディに歩み寄り、両手で腕にじゃれつくようにして、ねえねえ、と笑いかけた。
「レディさん、なにしてるの? ソキと一緒に砂漠へ行くでしょう?」
『ソキ。アタシは癒やしてあげなさいって言ったんであって、一足飛びに、言質を取れとは言わなかったわよ……』
「ソキと一緒におでかけできるです。めいよなことです。嬉しくって元気になるに違いないです」
 ソキは大真面目である。妖精が深々と息を吐く中、レディはよろよろとソキから離れて跪き、両手を祈りの形に組んで動かなくなった。泣いている気配がする。崇拝させろとも言わなかったわよ、と妖精が途方に暮れていると、あっレディがおかしくなってる、と無慈悲な呟きがいくつか響き、ぱたぱたと駆け寄る足音が響いてくる。
 ソキを目視したのだろう。ぎょっとしたいくつもの気配がして、辺りは一気に騒がしくなった。
「えっ、ええええぇ! ソキちゃんだソキちゃんだーっ! えっ嘘本物なの? 幻覚なの? レディが疲れのあまりアレしちゃったの? それとも、もしかして偶像崇拝? 偶像崇拝なのこれっ?」
「ほんとだソキちゃんが見える……。隠れんぼに飽きてくれたの……? ナリアンとメーシャが泣くほど心配してたよ。顔見せてあげて……? えっでもホントに本物……? 幻覚じゃない……? 疲れた私達の集団幻覚という可能性が残ってない……?」
『ほんとに『学園』は愉快な馬鹿しかいないわね。同じ空気を吸いたくないんだけど?』
 妖精の辛辣な物言いにも、『学園』の生徒たちは正気に戻らなかった。だってたびたびソキちゃんの目撃情報はあったし、お花畑とか湖の畔とか図書館とかで、と告げられて、妖精は隠すことなく嘆かわしいという表情をした。疲れていたのか頭がおかしくなっていたのかは知らないが、魔術師が幻覚ばかり見てどうするのか。大体、目撃された場所がなんというか、童話めいている。
 ソキはふわふわふぁんしいですから仕方がないんでぇ、とまた調子に乗った呟きでふんぞりかえるソキに、話がややこしくなるから黙っていなさい、と叱って。妖精はどうしたものかと思案した。レディは平伏したまま意識があるのかないのか分からないし、動かないでいるし、待てど暮らせど寮長がやってくる気配もない。
 ナリアンかメーシャを待っても良いのだが、妖精の勘が半分の確率で悪化すると告げていた。生徒たちはこのまま放置しておいて、ソキに落ち着いて話ができる魔術師を探させるのが良いように思われた。最悪、リトリアまで辿り着ければなんとかなるだろう。よし、と決意した妖精が囁くより、取り囲まれたソキが、ふぇ、ふぇっ、としゃくりあげ始める方が早かった。
 頑張ったのに褒めがないというか、存在の正否を疑われているし、誰も彼もが大きな声なので嫌だったのだろう。
「ふぇ、ええ……うぅにゃああぁあ……! なんなんですうううう!」
「あっ、なんだかすごくソキちゃんっぽいような……? これはもしや本物なのではっ……?」
 見るだけで触ったりしてこないのは、万一の時のロゼアが怖いからである。骨身に染みているのだろう。取り囲んで見つめるだけの様相は異様に過ぎたが、理解してやれないこともなかった。だが、ソキにはものすごいストレスなのだろう。ぐずるのを通り越してぶちいいいっ、と切れたソキは、ぎしゃああぁですうううっ、と怒り心頭の叫びをあげた。
「りぼんちゃあああぁあ! このひとたち! はなしが! つうじないですっ!」
『アンタたち、ソキに話が通じないとか言われたら魔術師として相当終わってるわよ?』
「ええぇえ、でもさぁ……うーん、ソキちゃん? もうちょっとなんか言ってみて? こう、あっソキちゃんだー、みたいなこと。なんでもいいからー!」
 コイツらもしや分かってて、久しぶりのソキを突いているだけではないのだろうか、と妖精は疑いに目眩を感じる。そこまで馬鹿だとは思いたくないのだが。もう無視して行くわよ、と告げる妖精の声も聞かずに。ソキはぎゅっ、と先輩たちを睨んで、本日一番の叫びをほとばしらせた。
「ロゼアちゃああぁああっ! 先輩たちがー! ソキをー! いじめたですううううっ!」
「あっ本物だこれ本物だーっ! やっべごめんなさいお慈悲をー! お慈悲をー!」
 ずざああぁあっ、と凄まじい勢いで平伏していく魔術師の卵たちを見つめ、妖精はうんざりした気持ちで首を横に振った。
『ほっとくわよ、ソキ。さ、行きましょうね』
「ぷぷぷ! ソキはもうぷぷぷなんですからね! ……あっ、でも? ましゅまろーをくれたら考えなくもないです」
『口止め料の味をしめるんじゃないっ!』
 雷を落として、妖精はとある事実に気がついて戦慄した。つまりこれは、四日間、ソキが野放しだったと見ても過言ではないのだろうか。甘やかしたり、罪悪感で怒れなくなっている場合ではなかったのだ。躾が必要である。それも、早急に。リトリアが見つかったらお説教からだからね、と告げる妖精に、なんでですかあぁっ、とソキが悲鳴をあげる。
 なんでもなにもない。調子に乗った分、へこませて元に戻しておかなくては教育に悪いからである。うぅにゃっ、と嫌そうな鳴き声でてちてち歩みを再開したソキは、しかし、すぐに立ち止まって顔をあげた。ソキの名を呼んで走り寄ってくる者が居たからである。それはロゼアではなかったけれど。ソキは満面の笑みで、彼らに腕を広げてみせた。
「ナリアンくん! メーシャくん! リトリアちゃん!」
 ソキちゃん、ソキ、と口々に悲鳴めいた声で幾度も呼ばれ、手を取られて暫くは言葉もなく見つめられて。ソキは、三人をじっと見つめ返した。言葉に悩んでいるようだった。やがて、ソキはそうっと口を開き、甘い、静かな声で囁いた。
「……ただいま、ですよ」
 あのね、ソキ、うんと頑張ってきたです。だからね、おはなしきいて、と囁かれて、メーシャはもちろんと微笑み、ナリアンは泣くのを堪えながら幾度も頷いて。リトリアは。まるで、ソキが本当に、本当に長い旅から戻ったかのように。心から安堵した笑みで、おかえりなさい、と言った。
 旅の終わりは、魔術師としてのはじまり。あの日、妖精と別れて歩いた短い、ひとりの距離はもう、なく。ソキは魔術師たちと共に、ロゼアを目指して歩いて行く。そこで必ず会えると、もう、疑うこともなく。

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